-- 2005.03.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.14 改訂
■はじめに - 牡丹鍋を食い徒然に考えた事
私は05年2月1日と26日に丹波篠山(現在の兵庫県篠山市)に牡丹鍋を食いに行きました。その徒然(つれづれ)に何故「猪肉」を「牡丹」と呼ぶのか?
と考えて、当初は
2005年・丹波篠山牡丹鍋(The BOAR STEW of Sasayama, Hyogo, 2005)
の中に書いていたのですが、日本に於ける肉食文化の変遷の通史を纏めて置く必要が有る様に思われて来て、上記の疑問に通史を加え05年3月30日に独立させたのが本論考です。
{更にその後、幾度かの加筆と改訂を加え出典を具体的に示す様にして06年12月28日に全体を整備しました。思えば起稿から1年半余りの”労作”で、最下行の関連リンクに「補完ページ」として列挙した一連の「食」文化論の一端を正に補完する内容に成って居ます。}
では何故通史を纏める必要性を感じたか?、と言えば今の日本人が余りにも安直に動物の肉を”食い散らかし”をして居る様に思えて為らないからです(→”食い散らかし”の弊害については最後に論述します)。
ご存知の様に日本では明治時代以前の長い期間、肉食は精々が鳥類迄で、”四つ足”即ち獣肉を食べることはご法度だったという歴史が有ります。そこでややもすると日本人は明治以前は太古の昔から獣肉を禁忌、つまりタブー(※1)として来たかの様な誤解を内外に生み、日本人の肉食文化の総体を偏狭な所に閉じ込めて仕舞って居ます。故にその誤解を解く必要が有るのです。この誤解が何時頃生じたのかについても後で指摘します。
日本には太古の昔から豊かで固有の肉食文化が綿々と続いて来たこと、そして日本の肉食文化を正当に評価する為に、これ迄日本人がどの様に動物たちと付き合いその肉を食して来たかを振り返り、原点に返って日本の肉食文化を見詰め直そう、というのがこのページのテーマなのです。尚、このページで言う「肉食」とは魚や鳥を含まない「獣肉」が中心です。日本人の肉食の歴史については全般的に【参考文献】△1の諸記事と「日本たべもの年表」を参照して居ます。
■有史以前の野性味溢れる肉食
日本列島に於いても太古の昔、栽培や農耕を始める以前は専ら狩猟採取生活を営んで居た訳ですから、木の実(堅果類)などと共に肉食をして居たのは「自明の理」と言え、農耕以降も堅果類や穀物や魚介類と共に鳥獣の肉を食して居た筈です。文献的記述の無い有史以前(=先史時代)の古代人の食生活を語る唯一の手掛かりは考古学的に発掘された出土物です。
(1)後期旧石器時代
日本の旧石器時代については、2000年秋に発覚した「旧石器発掘捏造」という前代未聞の愚行に因る「虚飾と不毛の25年」の所為で、学校教科書に長らく嘘が記載されるという混乱を来たしましたが、1949年の岩宿遺跡の発見やそれに続く幾つかの人骨の出土は確かなものとされ、日本にも後期旧石器時代(B.C.約3万年~B.C.約1万年の先土器時代)は存在したとするのが現在の定説です。B.C.3万年頃の日本は大陸と地続きの半島で、人々は獲物を追って家族単位(或いは近い親族単位)で移動し乍ら岩陰や洞穴に宿り採取・狩猟・漁労の原始的な生活をして居たと考えられて考えて居ます。マンモスやナウマン象やオオツノジカ(大角鹿)など大型獣も居た様ですが、これら大型獣を食べて居たかどうかは未詳な部分が有ります。
そしてB.C.約2万年~B.C.約1万年の間に海面が上昇し日本は大陸と切り離され島国に成りました。
(2)縄文時代
縄文時代(B.C.約1万年~B.C.約400年)は磨製石器を使う新石器時代に属します。採取・狩猟が中心の縄文人も徐々に定住し20~30人単位の血族を成して竪穴住居に住み、縄文土器と言われる土器を製作しました。澱粉は堅果類を食べ、魚介類は現在とそう変わらない物を食べていて特に鮭・鱒や鯉などが中心です。鳥類では鴨は言う迄も無く雉(きじ)や朱鷺(とき)など、ブロイラーで我慢せざるを得ない現代人を遥かに凌駕して居ます。獣肉はと言うと、大型獣ではやはり猪(※2)と鹿(※3)ですが熊も出土して居ます。日本では縄文の昔から古代の獣肉の中心はイノシシ(猪)とカノシシ(鹿)で、単に「シシ」と言った場合は猪か鹿を指す場合が多く、更に広くは獣一般をも指して居たのです。中小型獣類では猿や狸や犬、海棲獣では鯨(ゴンドウクジラなど、※4)、海豚(※4-1)、アシカ(※5)、オットセイ(※5-1)と野性味溢れる献立です。琉球では人魚に擬せられるジュゴン(※6)が、爬虫類では海亀や蛇も食い多様です。又、毛皮を取る為に狐やテンやムササビやカワウソが捕獲されて居ました(△1のp34~39)。それにしても現在の日本では絶滅した朱鷺、アシカ、オットセイ、テンなどの名は圧巻です。
(3)弥生時代
弥生時代(B.C.約400年~A.D.約300年)は稲作が中心の社会です。灌漑・田植え・収穫などの集団的作業を指揮し米倉を管理する必要性からリーダー(族長)が一族を統率する階級社会で、縄文のバラバラな社会とは構造的に異なります。分業(←リーダーという職業も分業の一種)が進み、米の御蔭で人口が増加し集落の外側を環濠で囲み、力の強いリーダーが次第に他を併合し血縁的集団から地縁的豪族へと成長します。農耕・狩猟・戦闘の為の道具は当初は青銅器、後に鉄器が組織的に作られました。肉食の食材は縄文の頃と殆ど同じですが鯉から外洋性の鯛に、アサリ・ハマグリから海底に棲むアワビ・サザエにと捕獲域が拡大しました。特に猪・犬・鶏などの飼育が始まったことは重要で、稲作と共に食材確保が安定的に成ったのです。しかし膨張した人口の主食を米に頼った為に天候不順に因る凶作時には飢饉が発生した筈で、雨乞いや暦を占う巫女(=女性シャーマン)が誕生し以後日本の古代社会に於いて重要な役割を演じます。
縄文・弥生の食材だけに注目すれば、古代人の肉食は後の王侯貴族の肉食に勝るとも劣らない内容だ、ということを是非皆さんに再認識して戴きたいと思います。この様な豪勢な食材に全ての人が毎日在り付けたかどうかは定かで有りませんが。従って日本人が太古の昔から獣肉を禁忌して居たという概念は誤った先入観なのです。
弥生時代後期(A.D.約200年~約300年)は九州を中心に幾つかの有力な部族国家が互いに覇を争った時代で、次の章から有史時代に入ります。
■『魏志倭人伝』が伝える弥生後期の生活と牛馬
日本の古代人の生活を記した最古の文献は『魏志倭人伝』(※7) -中国・朝鮮は日本を倭(わ)と呼んだ- です。これは中国の正史『三国志』 -中国の三国時代(220~280年)を記した歴史書- の一部で、正確には『三国志・魏志』巻三〇東夷伝・倭人の条と言うべきもので、『魏志倭人伝』は通称です。『倭人伝』には、3世紀中頃の日本(=弥生時代後期)には女王卑弥呼(※7-1)が君臨した邪馬台国や男王が率いた狗奴国を始め古代部族国家が群雄割拠して居て、狗奴国に苦戦した卑弥呼が239年に魏に援助を求め朝貢し魏から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を授けられ銅鏡100枚を下賜されたと在ります(△2のp50~51)。更に「鬼道(※7-2)に事(つか)え、能く衆を惑わす。」(△2のp49)と記し卑弥呼は巫女であったこと、倭人が黥面文身(=顔と身体の刺青)をして居たこと、裸足(はだし)だったこと、海中に潜って漁をする海人(あま)が居たこと、既に養蚕をして居たこと、酒を嗜んだこと、手食(=”手掴み”食)をして居たこと、国々に市(いち)が在ったこと、邪馬台国には宮室・楼観・城柵が在り兵が居たこと、「生口」という奴隷が居たこと -この「生口」を上述の239年の朝貢物の一つとして献上- などを記し、『倭人伝』は3世紀中葉の日本人の生活様式を伝える”唯一無二”の文献です。
肉食に関しては、喪中の時には「時に当たりて肉を食わず」と在り(△2のp46)、これは現在の精進潔斎に近い考え方です。人間と同じく「赤い血」を流す獣類を食べる行為はやはり食べる側に或る種の抵抗を与えることは確かです。そして獣類に関して『倭人伝』は
その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし
と、重要な記述を残して居ます(△2のp46)。但し牛(※8、※8-1)と馬(※9、※9-1)に関しては3世紀後半には大陸から朝鮮半島を経由して輸入されたと考えられ、壱岐や九州北部で骨が出土し、更に牛・馬・猪の家畜化も行われ始めて居ます(△1のp38)。
■大王(おおきみ)の時代は猿をも食した
有力な古代部族国家は大王/大君(おおきみ)に依って治められ大きな古墳が特徴(=古墳時代:4~7世紀)ですが、この時代の最も重要なことは馬と「騎馬」の風習を大々的に輸入し、それを戦闘に使った事です。以後、戦(いくさ)には馬が不可欠に成りました。
さて、その頃の肉食を『日本書紀』に見出すと、先ず磐余彦(いわれひこ、神武天皇のこと)の東征神話中の倭国(やまとのくに)平定の段 -所謂「神武東征神話」は九州の応神政権が4世紀初めに畿内に進出支配した事蹟の反映と私は考えて居ます- に宇陀の弟猾(おとうかし)が兄の反旗を詫び牛酒(しし)、即ち牛肉と酒で磐余彦を饗応した話が出て来ます(△3のp214)。こうして河内(今の大阪府東部)、次いで奈良盆地に応神系の強大な政権が樹立され5世紀頃に西日本を統一したと考えられます。統一後の允恭天皇14年(400年代前半) -允恭は河内政権の仁徳の子、仁徳は応神の子- の段には
淡路嶋に猟したまふ。麋鹿(おほしか)・猨・猪、...(中略)...、山谷に盁(み)てり。
と出て来ます(△3-1のp326)。「猨」とは猿のことで、大王は猿を食っていたのです、剛毅ですね。その後、安閑天皇2年(530年頃)に天皇は
牛を難破の大隅嶋と媛嶋松原とに放て。
と宣ったと在り(△3-2のp224)、八十島時代の大阪の2島に大王の牧(まき)を置き牛の飼育を始めて居ます。
そして極め付きは欽明天皇28年(567年)に
郡国、大水いでて飢ゑたり。或いは人相食ふ。傍の郡の穀(たなつもの)を転(はこ)びて相救へり。
と、飢饉では食人も行われたことも記されて居ます(△3-2のp342)。
尚、以上の記述に於いて便宜上「××天皇」と記しましたが、「天皇(すめらみこと)」という称号は後の推古朝(在位592~628年)以後に付与されたもので大王の時代には未だ無かったことに注意して下さい。{この段は06年2月18日に追加}
■万葉時代は獣肉を全体摂取し、動物に感謝して居た
時代が進み、『万葉集』に歌われた7~8世紀には次の様な興味有る歌が載って居ます。『万葉集』巻16-3885、3886の乞食者の詠(ほかひびとのうた、※10)二首(△4)がそれで、3885の長歌は次の如くです。
...(前半略)...
二つ立つ 櫟(いちひ)が本に 梓弓 八つ手挟み ひめかぶら
八つ手挟み 鹿(しか)待つと わがをる時に さを鹿の
木立嘆かく たちまちに 吾は死ぬべし 大君に 吾は仕へむ
わが角は み笠のはやし わが耳は み墨のつぼ
わが目らは 真澄の鏡 わが爪は み弓の弓弭(ゆはず)
わが毛らは み筆料(ふみてはやし) わが皮は み箱の皮に
わが肉(しし)は み鱠(なます)はやし わが肝も み鱠はやし
わがみげは み鹽(しほ)のはやし
...(後半略)...
【脚注】※10に在る様に、「ほがいびと(乞児、乞食者)」とは古代の芸能や芸人の発祥に深く関わりを持ち乍ら日本芸能史の闇の中に消されて行った人々です(その理由は後述します)。この長歌は鹿を捕獲し解体して大君(=大王)に供する時の祝い歌、つまり大王が獣肉を食するのは「ハレ(晴)」の行為でした。この歌で各部位をどの様に利用して居たかが解ります。特に肉や肝は鱠(※11)、即ち薄く細く切り時には酢で保存が利く状態にして供して居た様ですね。「さを鹿」は牡鹿です。これを読むと万葉時代の人々が猪や鹿を屠る時は単に肉を食すだけで無く内臓も食し、食べられない部分は道具の素材として役立て隅々の部位迄利用して居た、つまり全体摂取・全体利用して居たことが解ります。全体摂取の大切さは既に
「肉を食らう」ということ(Carnivorous life)
の中で指摘して居ます。
ところで、この歌には「鹿のために痛みを述べて作れるなり」という添え書きが在り、次の3886の長歌には「蟹のために痛みを述べて作れるなり」と在ります。「鹿の痛み」や「蟹の痛み」を思い遣る心は、私が04年に発表した
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
の中で、「人に食われる動物」の痛みを知り感謝することの大切さを主張したのと全く同じ視点に立つもので、05年の年頭所感として発表した「幸せ保存の法則」にも合致して居ます。
こうして古代人は悠久の年月を獣肉を食べて暮らして来たのですが、552年(=欽明天皇の時代)に百済の聖明王から齎された仏教は、推古朝の摂政・聖徳太子に支持され、崇仏派の蘇我氏が神道派の物部氏を打ち破ったことに依り急速に日本の朝廷や上層階級に浸透して行き、その殺生戒はやがて日本の肉食文化を大きく規制する根拠に成って行ったことは皆さん良くご存知の通りです。しかし、ここで直ぐに肉食が禁止されたり忌避された訳では有りません、仏教は未だ一握りの上層階級のものでした。
日本で最初に肉食を禁止したのは天武天皇(※12)なんですね。次にその話をしましょう。
■獣肉食の禁止は天武の詔勅から
天武天皇は白鳳時代の天武4(675)年4月に
牛・馬・犬・猨・鶏の宍(しし)を食ふこと莫(まな)。
という所謂「肉食禁止令」を勅し、臣民が「牛・馬・犬・猿・鶏」を食うことを公式に禁じ、又、同時に獣に罠を仕掛けたり魚に梁(やな、※13)を仕掛けたりすることも禁じて居ます(△3-3のp124)。この詔は後の「生類憐みの令」(※14)の先駆けとも言えますが意味が異なり、禁止期間は4月1日~9月30日迄の農繁期に重なり、その意図は大量捕獲に因る資源枯渇の防止や農耕の推進に在ったとされて居ます。
この詔を見ると『倭人伝』の頃には居なかったと記されている輸入種の牛と馬は、300年後のこの頃には大量に棲息して居たことが窺えます。鶏を禁じている癖に猪と鹿を禁じて居ないことは面白いですね、猪と鹿を主に食して来た太古からの食肉習慣を天武も認めた様です。その理由の一つとして当時は猪や鹿が野山に沢山居て里の田畑を荒らして居たことが挙げられます。『万葉集』巻12-3000には
霊(たま)合はば 相寝むものを 小山田の
鹿猪田(ししだ)禁(も)るごと 母し守(も)らすも
詠み人知らず
という歌が在り(△4)、「ししだ(鹿猪田、猪田、鹿田)」は「猪や鹿などの獣が踏み荒らす田」(広辞苑)という意味で、これなどは田を荒らす猪や鹿に相寝たいと思い合う恋路が邪魔された恨み節の相聞歌です。
そして注目すべきは犬と猿の名です。今の日本人が顔を背けたく成る犬と猿は、有史以前から食って来た”普通の食材”だったのです。この様な「食」に於ける忌避観念の時代的変化や多様性については
民族変わればゲテモノ変わる(About the bizarre food)
で詳述して居ますので参照して下さい。
ところで、天武はその名に「真人(まひと)」(※12)を冠し、自ら定めた八色姓(※12-1)の最上位に「真人」を据えていることで解る様に、道教に深く凝っていた人です。「真人(しんじん)」(※12-2)は道教に於いて聖人を指す言葉なのです。これは聖徳太子が儒教に則り冠位十二階の最上位に「徳」を据えたのと好対照です。『日本書紀』天武紀の冒頭に「天文・遁甲に能(よ)し」と書かれて居る(△3-3のp66)のも、天武が道教的な占星術や奇門遁甲術(→奇門遁甲術は後に日本の忍術に発展)や運命学的バイオリズムや風水に通じて居たことを表して居て、実際に占星台も造営して居ます(△3-3のp120)。八色姓の中に道師が在るのも道教的です。
中国では秦の始皇帝が道教の真人(しんじん)に嵌って居ました。それだけでは無く始皇帝はあの徐福に不老不死の仙薬を探させました。{このリンクは2014年9月14日に追加}
天武は仏教にも帰依し、壬申の乱(※12)を起こす前には出家し法衣を纏い吉野山の離宮に籠もって居ますし、この「肉食禁止令」を発する数日前には僧尼2400人余りを集めて斎戒したりして居ます。天武がどの様な思いで「肉食禁止令」を発したか? -つまり道教的占術の結果か、仏教の不殺生か、或いは壬申の乱の非道な殺戮を悔いたからか?- 、は今と成っては知る由も有りません。
文武天皇の大宝元(701)年に施行された大宝律令はその後の律令制度の規範と成った法典ですが、この中で諸国に官牧(※15)を定め牛馬を放牧し、乳戸で牛乳を搾ることを定めて居ます。
■奈良時代の大仏造立と不殺生の儀式
奈良時代に入ると、仏教に深く帰依して居た聖武天皇は天平13(741)年に諸国に国分寺建立の詔を発し、次いで天平15(743)年に東大寺に廬舎那大仏造立の詔を発して、その費用の勧進の為に行基が諸国を回り仏教が民衆の間に普及しました。そして天平勝宝4(752)年の大仏開眼供養に合わせた1年間の殺生禁止・肉食禁止は仏教の「不殺生」の考え方を民衆に強く印象付け、肉食が反仏教的・反道徳的な行為であるという”教育効果”を伴った不殺生の儀式は民衆の肉食に対する考え方や感じ方を変える契機に成りました。七堂伽藍の寺院建築や大仏は理屈や説法抜きに民衆を圧倒し、視覚的であるという点に於いて「天平の甍」は今日のテレビと同様の”洗脳効果”を発揮しました。「百聞は一見に如かず」の諺通り、人間は目の前でガーンと見せ付けられると信じて仕舞う傾向が有ります。
制度面でも仏教的不殺生は律令・封建体制の中に組み込まれ面々と受け継がれて行き、以後明治維新の肉食解禁迄続いて行きます。
■中世に肉食の禁忌・穢れ感が定着
仏教的不殺生に依拠した獣肉食の忌避観念は『日本霊異記』『今昔物語集』に見られる仏教的因果応報の説話により不信心や不道徳として民衆の間に広められ、中世(=平安・鎌倉・南北朝・室町時代)を通して次第に浸透して行きました。一方、陰陽道(※16)が神道の「祓い清め」を取り込んで「穢れ」や「怨霊」(又は「御霊(ごりょう)」)という概念が平安中期から貴族の間に流行ったことも見逃せません(△1のp230)。「穢れ」と「怨霊」は元々は別の概念ですが、「穢れ」を放置すると「怨霊」が祟り、逆に「怨霊」の祟りを封じるには「穢れ」を断つ必要が有る、と見做されました。この思想は下々にも急速に広まり”俗信”の地下水脈と化して「文明開化」(後述)迄続きます。現代の世相に目を転じれば、迷信好きなギャルたちが過度の”清潔症”や”潔癖症”に嵌まって居るのと相通じます。
更に人々の得体の知れぬ不安感や恐れを一層増幅したのが終末論の一種の末法思想(※17)の流行で、最澄が著したとされる『末法灯明記』が口から口へと流布され、当時の人々は永承7(1052)年に仏の御加護が衰えた「末法」の世に入ると恐れたのです。これが現実味有るものとして広く受け入れられた背景には、武士の台頭で貴族政治の土台が揺らぎ戦乱や災害や飢饉など世の中が混乱の様相を呈して来たことで、この不安が法然・親鸞・一遍・日蓮などの新興宗教としての鎌倉仏教誕生の原動力に成りました。この日本中世の「穢れの誇大妄想」は、ヨーロッパ中世のキリスト教社会が在りもしない「サタン(悪魔)」や「魔女」を創り出した「異端の誇大妄想」と実に相似的です。
中世に蔓延した「穢れ」を極端に恐れる深層心理の好例は、どんな美人でも死んで灰土に帰す迄には死骸が腐り蛆が湧き禽獣に食われ白骨が野晒しにされるという悍しい過程を経るのだという九相(くそう)の不浄観(※18)を露(あらわ)に描いた『九相図』(或いは『九相詩絵巻』、鎌倉時代の作) -九相を観想した漢詩を「九相詩」と言う- に見て取ることが出来ます(△5のp110~119)。
[ちょっと一言] 人間の死骸の醜くさを描写した場面は、古くは伊邪那岐命の冥府下りの話の中に出て来ます。『古事記』では邪那岐命は黄泉の国に死んだ妻・伊邪那美命を取り返しに行き、そこで見ては為らないと言われた蛆の湧いた醜い妻の死体を見て仕舞い慌てて逃げ出して居ます(△6のp26~28)が、そこに中世の様な不浄観は無いのです。
こうして平安中期から獣肉食が忌避される様に成ると、次には獣肉そのものが「穢れ」とされ、更には獣肉や死体を扱う人々 -屠殺人/獣肉解体人/死体処理人/皮製造職人など- が賤視されて行き、穢多/非人(※19、※19-1)などの不可触民(※19-2)が士農工商の身分制度の更に下に形成されて行きます。ここで不可触民とは軽々しく口に出来ないアンタッチャブル(untouchable)な階級(※19-3)を表し、元来はインドに於けるカースト制度の枠外に置かれた最下層身分を指す語ですが、このページでは日本の身分制度から排除され乍らも歴然と存在した最下層身分に援用します。こう成ると逆に、不可触民の扱う物は穢れて居る、という俗信が生まれ徐々に穢れた仕事は不可触民の”専業”に成って行ったのです。
前述の「ほがいびと(乞児、乞食者)」が賤視されて行き闇に葬られた理由もここに在ります。又、元々は宮中の陰陽寮(※16-1)で天文や暦を司り高貴な身分であった陰陽博士(※16-2)や陰陽師(※16-3)たちが賤視され異端視されて行ったのも同じ理由です。と同時に現在の我々が尾頭付きの鯛を食す時と同様にそれ迄「ハレ(晴)」の行為だった獣肉食が「ケ(褻)」の行為に180度転換し、単なる忌避から禁忌(タブー)に転じたのです。この転換の開始時期を私は「穢れ」を恐れ出した平安中期900年頃、完成時期を鎌倉仏教が出揃い禁忌が行き亘った鎌倉前期1250年頃と考えて居ます。洋の東西を問わず、新興宗教が勃興し地位を獲得する時代は「不安の時代」であり歴史の転換期(=大きな曲がり角)と言えます。
ところで開始時期は聖武天皇の大仏開眼供養752年と見做すことも出来、何れにしても非常にスローテンポの転換でした。肉食の禁忌にブレーキを掛けたのは平安中期900年頃から誕生した武士です。貴族社会の体制外に弾き出され荘園の外の山野で武器を駆使し狩猟を行って自由奔放に鳥獣の肉を食らって勢力拡大した武士が貴族や庶民の「穢れ感」を相殺したのです。1250年という年は、鎌倉幕府が安定し全ての武士が体制内に組み込まれた時期と一致します。スローテンポのもう一つの理由は後述しましょう。
冒頭で述べた所の日本人が太古の昔から獣肉を禁忌して来たという誤解はここに発し、1250年から2世代位後の1300年頃に固定観念として定着し後の時代の先入観に成ったと考えられます。しかし、これ迄に明らかにした様に日本の肉食文化を考える場合に太古~10世紀頃迄は大いに(=「ハレ(晴)」の行為として)獣肉を食べていた事実を見逃しては行けません!
この様に概観して肉食事情を見ると、平安時代の律令の細則を定めた「延喜式」(※20)には、朝廷が最も好む各種の鮑(鰒)(あわび)の他に猪脯・鹿脯・猪鮨・鹿鮨の名が在ります、脯(ほしし)とは乾肉のことです。又、海鼠腸(このわた) -ナマコの腸の塩辛- も載って居ますね(△1のp299)。
文治元(1185)年に下関壇ノ浦での源平合戦で平氏が滅んで平安貴族の時代は終わり、代わって東国の鎌倉に源氏の武家政権が誕生しますが、この合戦に於いて粗野な東武士を揃えた源氏は狩猟で得た鳥獣の肉を食らって戦いに備えたのに対し、半ば公家化し平家納経で知られる程仏教に帰依した平氏は動物性蛋白質を余り摂らなかったそうです(△1のp304)。現在でもプロボクサーは戦い前は1ヶ月位ずっと減量し試合の前日にステーキなどの肉を食べます、獣肉は短時間で瞬発力が出るからです。やはりバリバリと何でも食う奴が覇者に成るのかも知れませんね。
ここで注意すべきは、不殺生と言っても農家で普通に飼う鶏と野鳥類と兎は忌むべき食材から除外 -兎を数える時に「匹」では無く「羽」を使うのはその為- され、獣肉だけが忌避・禁忌の対象に成ったことです。獣肉は民衆の口からは遠ざけられて行きますが、高貴な人々や狩りをする武士は獣肉を食って居たのです。鎌倉時代前記の歌人・藤原定家の日記『明月記』の安貞元(1227)年12月の段には公卿の長夜の飲食を
鶴鵠を食す。常に山梁等を尋ぬ。...(中略)...又猯は近代月卿・雲客の良き肴と。
と記し(△7のp341)、高貴な人々が鶴や鵠(=白鳥のこと、※21)や山梁(=雉のこと)を好み、猯(=狸のこと)を酒の肴にして居たことが解り、どれも野性的な食材です。定家の父・俊成は「兎は青侍の食する物なり」(※22)と宣ったとも在ります。
同じ1227年、中国の宋から帰国した道元は獣肉を使わない料理(=所謂精進料理)を日本に齎しました。それを支える生産体制として荘園での稲作が進み食事に於いて米の比重が高く成ったことや動物性蛋白質に代わる植物性蛋白質の大豆が多く収穫され、肉食をしなくても栄養バランスが取れる様に成りました。
やがて中世は南北朝の動乱、応仁の乱を経て下剋上の戦国の乱世を迎えます。南北朝~室町時代は獣肉食の禁忌が最も進んだ時代で、【参考文献】△1の「日本たべもの年表」にも肉食の記事が載って居ません。
■安土桃山ルネサンスが肉食の禁忌を融解
乱世とは言いますが、逆の視点で見ると戦国時代は古い中世的社会体制が崩壊し、武士階級以外にも「進取の気風」と「実力主義」が起こり、堺や博多などに外国貿易に基盤を置く新興商人階級が台頭した時代でもあります。この新興商人は日本に於けるブルジョアジーの萌芽で、彼等は納屋衆として”倉庫貸し”をしたり”銭貸し”をしたりして「資本家」としての顔を見せ始めて居ます。そして信長・秀吉に統一された安土桃山時代は日本のルネサンス時代(※23)と言い得る時代であり、フランシスコ・ザビエルを始め切支丹宣教師らが齎した西洋文明と戦国の実力主義が融合して合理主義を生み出しました。この合理主義は肉食の禁忌から日本人を徐々に開放して行くのです。
天正10(1582)年には織田信長が鯨肉を正親町天皇に贈って居ます。晴れて関白に成った豊臣秀吉は天正15(1587)年に切支丹を潰す事位簡単だと恫喝した後で”秀吉嫌い”の外国人宣教師ルイス・フロイス(※24)ら -フロイスが外国人の目から日本人の食習慣を事細かに記した記録は大変貴重です- に
汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。...(中略)...全日本の君主である予は、多数の鹿、野猪、狐、雉子、大猿、その他の動物狩りを命じ、それらを一つの囲いの中に入れておくから、汝らはそれを食するがよかろう。
と使者を介して申し渡してた後に禁教令を布告します(△8のp208)。この箇所で秀吉は牛馬のことを「はなはだ大切な二つの助力」と称し、天武天皇の時代には食して居た牛馬は農耕や軍事に欠かせない為に文明化した安土桃山時代の日本人は食べないことを述べ、それ故に外国人の牛馬食を禁止し代わりの獣肉を推薦して居るのです。その”お薦め”の肉を見ると、中世の「穢れ感」など屁とも思わずに太古からの鹿・猪の他に狐・猿の名を挙げて居ますが、秀吉が猿を食ったら”共食い”ですね。
しかしこの時代、鳥や獣肉を口に出来たのは一握りの人々だけです。フロイスは宿で出された日本の食事について
水だけで炊いた少量の米と、煮たり焼いたりしたわずかばかりの塩漬けの魚と、ひどく味付けが悪く、その上悪臭さえある一杯の野菜汁だけ
と評して居ます(△8-1のp24、「悪臭」とは味噌汁の発酵臭)。しかし一方
われわれはすべてのものを手を使って食べる。日本人は男も女も、子供の時から2本の棒を用いて食べる。
という記述(△8-2のp92)に私は大変興味を惹かれました、「2本の棒」とは箸のことです。ヨーロッパにナイフとフォークが遍く普及したのは17世紀で、それ以前は今日のインド人や『倭人伝』時代の倭人と同じ様に”手掴み”食をして居たのです。【参考文献】△8-2の第6章で、彼は更に「彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる。」と記して居て、これは先の秀吉の言葉と符合します。又、魚について「日本人は生で食べることを一層よろこぶ」と記し、猪については「日本人はそれを薄く切って生で食べる」と記し、日本人がこの頃既に刺身を好んで食べていたことが解ります。
■江戸のタテマエとホンネ
しかし制度的に肉食が禁止されて居る以上、江戸時代の肉食や動物の解体に対しては未だ未だ根強い禁忌意識の呪縛が作用して居ました。蘭学医の前野良沢・杉田玄白らが有名な『解体新書』(※25、△9)を訳出する切っ掛けに成ったのが明和8(1771)年の江戸の刑場・骨ヶ原 -後に「こづかっぱら(小塚原)」(※26)と言われた所- での人体解剖の観臓(かんぞう)ですが、読んで字の如く玄白らは「臓を観る」のみで執刀して居ません。この時の様子は『蘭学事始』(※25-1)に
これより各々打連れ立ちて骨ヶ原の設け置きし観臓の場へ至れり。さて、腑分のことは、穢多の虎松といへるもの、...(中略)...その日、その者俄かに病気のよしにて、その祖父なりといふ老屠、齢九十歳なりといへる者、代りとして出でたり。...(中略)...もとより臓腑にその名の書き記しあるものならねば、屠者の指し示すを視て落着せしこと、その頃までのならひなるよしなり。その日もかの老屠がかれのこれのと指し示し、心、肝、胆、胃の外にその名のなきものをさして、名は知らねども、おのれ若きより数人を手にかけ解き分けしに、何れの腹内を見てもこゝにかやうの物あり、...(中略)...良澤と相ともに携へ行きし和蘭図に照らし合せ見しに、一としてその図に聊か違ふことなき品々なり。
と、詳しく書かれて居ます(△9-1のp27~29)。因みに「和蘭図」とは『解体新書』の原典であるオランダ語の『ターヘル・アナトミア』中の解剖図譜 -多分、△9のp165、177、187などの図譜でしょう- を指して居ます。
ここに記された如く江戸時代では死人を腑分けするのは中世以降の慣習から不可触民の”専業”で玄白らが執刀することはご法度でした、それが江戸のタテマエ(建前)です。そして現在の屠殺業者や革製品製造業者の出自を辿ると、多くの場合こうした「かわた(皮田・皮多・革多)」と呼ばれた不可触民や被差別部落民(※19-4、※19-5)に行き着く(△10のp52)、ということは知られざる事実です。肉食文化を考える際には「動物の痛み」のみならず又「人の痛み」にも思いを廻らす必要が有るのです!
にも拘わらず世の中が安定し経済成長した徳川政権の下では、狩りをし獣肉を食い続けて来た武士階級に新興の町人階級が加わり肉食は密かな楽しみとして広がりつつ在りました。要は「バレ無ければ良い」訳で、やはり戦国の合理主義精神は徐々に浸透して居たのです。これが江戸のホンネ(本音)です。
江戸という時代は火消が着た火事羽織(※27)に象徴される様に表向き(=タテマエ)は質素に、しかし裏(=ホンネ)には自己主張を忍ばせ、時と場合に応じて臨機応変にそれを使い分ける二重焦点の楕円型社会(※28)だったのです。
そんなホンネを拾い出してみると、元禄3(1690)年には早くも彦根藩で牛肉の味噌漬けを考案、近江牛の始まりですね。享保の改革の真っ最中の享保3(1718)年に江戸両国に「豊田屋」、通称”ももんじ屋”(※29)という獣肉専門店が開店したのは一つのエポックです。以後獣肉料理を出す”ももんじ屋”が江戸の各地に開店しますが、獣は毛で覆われてるので人々が毛深い物(者)を揶揄して呼ぶ時の「ももんじい」(※29-1)という渾名 -その語源は空中を滑空する獣のモモンガ(鼯鼠)(※29-2)に由来すると思われます- で呼んでいた点に獣肉食の置かれた世間的立場が良く出て居ますが、しかし”ももんじ屋”は良く流行ったが故に「ももんじい」が店の通称に成り、やがて獣肉の隠語(※29-3、※29-1の[2])に成りました。そして天保14(1843)年には水戸藩の徳川斉昭が養牛場を開設します。私は幕末に水戸徳川家や彦根井伊家が活躍したのは他に先んじて牛肉を食った御利益と見ますゾ、ムッフッフ!
■考察 - 「食肉の隠語」を生んだ江戸ダンディズム
こうして隠語(※29-3)の問題に漸く辿り着きました。合理主義精神を身に着けた藩のお殿様が牛肉を食らい、”ももんじ屋”などがガンガン町中に開店したらもう食うしか無い、しかし不殺生のタテマエと世間体は有る、という板挟みの中からホンネの知恵を絞った”欲と汗の結晶”が豊かな「食肉の隠語」という訳です。
◆「食肉の隠語」の例
猪肉だけで無く日本では江戸時代に鳥獣の肉をイメージ的に連想し易い植物の名前に置き換えて呼称して来ました。「牡丹」を始めとするその様な隠語の例を列挙し、その呼称の意味を広辞苑や百科辞典から引用して纏めたのが下の一覧表です。
猪肉:[1].牡丹 ← [1].「牡丹に唐獅子(からじし)」の縁語から。
[2].色が似ていることから。
[2].山鯨 ← 鯨肉は漁村では普通に食されて居たから。
馬肉:桜 ← 色が似ていることから。
鹿肉:紅葉 ← 鹿は秋の紅葉の季節に繁殖期を迎え、鹿には紅葉が
取り合される所から。紅葉鳥は鹿の別称。
鶏肉:[1].黄鶏(かしわ) ← 羽毛が茶褐色の鶏で、肉が美味とされた。
[2].柏 ← [1].からの音(おん)の転用で、
柏の葉の形が鶏の腿肉に似ているから、という俗説。
獣肉一般:ももんじい ← 江戸の獣肉店の通称”ももんじ屋”から
如何でしょうか?、この様に食肉に取り合わせられた植物の名が隠語に成って居ます。逆に言えばこれらの「取り合わせ」は当時の人々に一般的に広まっていた共通概念でした、そうで無ければこの隠語は通用しません。この「取り合わせ」の例として、紅葉の季節に牡鹿が笛の様な声で牝鹿を呼ぶ声を詠んだ古歌
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
猿丸大夫
は有名です(『小倉百人一首』の5番歌)。又、当サイトの主要ページのデザインの基調を成す花札 -戦国時代の天正年間(1573~91年)にカルタの変形として生まれたとされる(※30、※30-1)- でも、下の様に「紅葉に鹿」の札が在ります。
では、何故この様な隠語が生まれ使用されたのか?、次にその背景を述べましょう。
◆「粋(いき)」な心が隠語を生んだ
江戸中期迄の民衆の肉食は精々が鳥類迄で、”四つ足”即ち獣肉を食べることはタテマエ上はご法度だったのです。ところが、幾ら禁じられても「旨いモノは旨い!」のです、これはもう社会の決まりや法律以前の「雑食動物としてのヒトの本能」です。だから本心は獣肉を食いたい、そして食ったら旨い訳で、人々は機会が有れば隠れて獣肉を食して居たのです。そこで”隠れ蓑”として生まれたのがこの様な隠語で、「どや、今夜は牡丹で一杯行こか?!」てなもんですね。兎を1羽(わ)、2羽と数えるのも鳥類に擬して居るのです。
江戸時代の上方落語には『池田の猪買い』(※31)という噺(はなし)が在ります。昔は丹波篠山(現在の兵庫県中東部の篠山市)迄行かなくても池田(現在の大阪府北西部の池田市)辺りで充分猪が獲れた様で、この噺のモチーフは「シシ食うて温い」という俗諺にも在る様に、体を芯から温めるには猪肉を食うのが良い、という民間療法的俗信が底辺に在ります。つまりルイス・フロイスも記している様に保温や滋養強壮薬として犬や猪や獣肉を食っていた訳で、こういう食し方を「薬食い」(※32)と言い、それを詠んだ
しづしづと 五徳(ごとく)据ゑけり 薬喰(くすりぐい)
与謝蕪村
という俳句も在ります(△11のp161)。五徳(※32-1)とは「炭火で暖める輪形の器具」のことで、この上に鍋を置いてそっと獣肉を煮て食べていたのです。そこから一人隠れてオイシイ思いをした者は後で後悔するぞ(転じて悪事の報い)という戒めとして「シシ食った報い」という諺が生まれ、前述の「シシ食うて温い」は上方の人がこれを捩(もじ)って遣り返したものでしょう。他に「シシ食えば古傷が疼く」の様な自嘲的な俗諺も在りました。それにしても「薬食い」とは良く言ったものです、正に「嘘も方便」(※32-2、※32-3)です!
◆制度の背後に隠された為政者のホンネ
私は思うのですが、決まりや法律を作る時の為政者のホンネ(本音)は通常背後に隠され、タテマエ(建前)だけが表を覆う場合が多いですね。即ち「何故獣肉食を禁じたのか?、それは美味だからだ」がホンネの部分です。つまり「こんな旨いモンを民衆が食ったら直ぐ無くなって仕舞う、自分たち特権者だけに限定しよう。」というのがホンネの発想です。
しかし民衆もバカでは無い訳で、雑草の様に地面に這い蹲(つくば)り乍ら、上目遣いに「旨いモン」を食っていたのです。その「強(したた)かな知恵の結晶」がこれらの”方便”(※32-2)としての隠語だった、というのが真相です。その底辺には、必ずしも長い物に巻かれない反骨精神(※33、※33-1)、即ち江戸ダンディズム(dandyism)の「粋(いき)」の心(※33-2)を有して居たのです。平たく言えば「食肉の隠語」は洒落た言葉遊びなんですね、それは落語(※31-1)を生んだ時代精神でもありました。
◆猪肉のもう一つの別称・山鯨について
ところで「食肉の隠語」の例に挙げた如く、猪肉にはもう一つ山鯨(やまくじら)という隠語が在ります。鯨(※4)が何故隠語に成るの?、今では鯨の方が人前で憚(はばか)られる名前、つまりヤバイ名前なのに。と誰しもお思いでしょうが、これも時代ですね。
昔は日本近海で鯨は良く獲れ縄文時代の遺構からイルカなど小型の鯨類の骨が見付かって居る程、日本人と鯨の”付き合い”は古いのです。中世に獣肉食が禁忌されて以降も鯨が獲れる地方では鯨肉食は当たり前でした。そもそも鯨のことを勇魚(いさな)と呼び、海に棲息するので一般には”大きな魚”と理解されて居たんですね。魚ならヤバく無い訳で、日本人は大っぴらに鯨を食って居たので逆に猪肉の隠語に使われた訳です。しかし、捕鯨を生業(なりわい)にして居た地域では鯨墓を建て中には鯨に戒名を付け供養して来た事実を忘れては為りません。これは万葉時代の乞食者の詠(※10)に通じる日本人の感性です。
■明治の肉食解禁と隠語の無意味化
一般には肉食解禁は明治に入ってからと思われて居ます。御上(おかみ)が公式に解禁したのは確かにそうなのですが、”ももんじ屋”の普及や「食肉の隠語」の流行でお解りの様に、実は獣肉食は江戸中期の1750年頃から可なり民間に広まり日米和親条約(※34)で開国させられた安政元(1854)年以降は公然化して居たのです。この様に御上のタテマエ(建前)が威厳を失い通用しなく成ったのが江戸後期・幕末の実態です。
(1)江戸後期・幕末の肉食
嘉永4(1851)年に徳松と言う者が大坂阿波座に我が国初の牛肉屋「弘徳社」を開業しました。時代の先端を行く福沢諭吉は大阪敵塾時代の安政5(1857)年に肉料理店のアルバイトで豚を川に沈めて殺し
そこでお礼として豚の頭を貰って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食ったことがある。
と剖検後の頭部を煮て食って居ました(△12のp67)。そして慶応元(1865)年には高橋音松が横浜に牛肉の串焼屋を開業して居ます。
(2)明治維新の肉食奨励と牛鍋ブーム
この様に幕末には公然化して居た肉食ですが、改めて”公式”に肉食のご法度を解禁したのが明治維新です。難しい政治変革の動きなど解らない民衆は、慶応4年7月(1868年9月)に江戸を東京と改め元号を「明治」に改元し遷都した維新(いしん)の音(おん)から転じて、明治の文明開化の新風を「御一新(ごいっしん)」と呼び、時代は変わった、何もかも一新された、という具合に極めて”気分的且つ皮相的”に受け止めました。その新風の代表的風俗が
ちょん髷 → 散切り頭
和服 → 洋服
菜食 → 牛鍋(今の「すき焼」の元祖)
でした。明治2年頃から東京市内に相次いで開業した牛鍋屋で牛鍋を食うことは散切り頭で洋服を着るのと同様にモダンであり”今風”だったのです。仮名垣魯文(※35)は『安愚楽鍋』(※35-1)の冒頭で
五穀草木鳥獣魚肉、是が食(しょく)となるは、自然の理にして、これを食ふこと、人の性なり。
と、前述の「自明の理」と「ヒトの本能」を先ず語って居ます(←因みに、この文は式亭三馬の『浮世風呂』の冒頭のパロディーにも成って居ます)。そして前述した「盲文爺(ももんじい)のたぬき汁」に言及した後で
西洋書生漢学者流、劉訓(りゅうくん)に似た儒者あれば、省柏(しょうはく)めかす僧もあり。士農工商老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛鍋食はねば開化不進(ひらけぬ)奴と、鳥なき郷の蝙蝠傘。
と猫も杓子も -精進料理を食う筈の僧侶迄が- 牛鍋に群がった牛鍋ブームの様子を、戯作者らしく七五調の軽妙な語り口で活写して居ます(△13のp27)。又、当時巷では
散切り頭を叩いてみれば 文明開化の音がする
という戯れ歌が流行りました。この歌は皆さんも良くご存知でしょう。
そして明治5(1872)年1月に明治天皇が公に牛肉を試食した時を境に肉食の習慣が全国に広まって行きました。これは前述の聖武天皇の不殺生の儀式と逆のベクトルを持つ儀式、維新の効用と肉食奨励の国家的儀式でした。それと同時に肉食を禁止されて居た時代に「隠れて食う」が故に生まれた「食肉の隠語」は、大っぴらに肉を食える時代に成ると次第に意味を失い忘れられて行ったのも当然の成り行きと言えます。
(3)肉食解禁もスローテンポ
明治初期の牛鍋は大変な騒ぎでしたが、前述の様に実質的には江戸中期の1750年頃(或いは安土桃山の1580年頃)から徐々に獣肉食の禁忌が解け肉食が徐々に浸透して居たからこそ、明治の解禁で一挙に牛鍋ブームに成ったのです。そう考えると見掛けとは反対に肉食解禁もスローテンポだったと言えます。仏教の不殺生が受け入れられてから獣肉食が完全に禁忌される迄もスローテンポだったことを思い出して下さい。その理由は「食」の嗜好(=指向性)こそ理屈を超越した環境適応の結果であり、直ぐには”越え難い壁”だからです。
こうして人が集まった時や目出度い事が有った日に「すき焼」を食べる様に成り、獣肉食は再び「ケ(褻)」から「ハレ(晴)」の行為に復活しました。しかし乍ら欧米から”輸入”された肉食文化は、古代の日本人が有して居た全体摂取・全体利用では無く、初めの頃は福沢らの様に頭部や内臓も食べて居ましたが、次第に一部の部位の精肉のみを食べ内臓は「ホルモン=放るもん」(※36)として使い捨てて行きました。その結果現代の日本人は内臓を「穢れ視」乃至はゲテモノ視する様に成って仕舞い、「形有る肉」を食べられなく成りました。
■現代の軟弱な食が日本人の精神を軟弱にした
以上で明らかにした様に、日本人の肉食には元来形有る物をバリバリ食べ全体摂取・全体利用に徹し「人に食われる動物」に感謝を捧げて来た伝統が存在しました。それが本来の肉食の心であり作法である事は既に発表して居る「「肉を食らう」ということ」の中で論じ尽くして居ますので、詳しい内容を知りたい方はそちらをご覧下さい。
ここでは簡単に、戦後の日本人の肉食の嗜好が極端にマイルド、ジューシーに傾き「世界の常識」から外れて居るということだけを指摘して置きましょう。肉は元来「硬い」もの、これを己の歯でバリバリ食うのが肉食の醍醐味で歯も丈夫に成るのです。この様な歪んだ嗜好(=指向性)を生んだのは1970年代頃からのハンバーグつまりハンバーガーの蔓延(※37、※37-1)よる所が大であると私は考えて居ます。第一ハンバーグの様な挽肉では、犬や蛇の肉が混じっていても判りませんし動物に感謝する気持ちなど湧いて来ません。これと同じ事を昔の人も諭して居ます。『今昔物語』巻31第31話には、東宮を守る武士たちの所へ魚の干物の切り身を売りに来る女が居り大層美味なので良く食べて居たが或る時、北野の狩場近くでこの女に出会ったら女の笊(ざる)の中は蛇で武士共は漸く蛇を食わされて居た事に気付いた、という話が載って居ますが続いて、元の形が不明な物を不注意に食うのは止めるべきだ、という教訓が付記されて居ます(△14のp245~246)。全く同感です。
私は「原形の判る姿」で肉を食うのを最善と考えて居ます。そして「軟弱な物ばかり食っていると思考迄軟弱に成る」というのが、近頃の日本人を見ていて痛感する感想です。つまり人間と同じく「赤い血」を流す動物を屠って食べるが故に「肉食には「肉食の哲学」が必要」な訳で、その哲学が精神を鍛えるのです!!
(-_*)
■結び - 全体摂取に立ち返ろう!
以上が日本の肉食文化を辿る「温故知新」の心です。但し、農耕民族型の日本人の「肉食」は飽く迄も「副食」であり、狩猟民族の様に獣肉を主食にしたことは過去に一度も無く、将来も無いでしょう、と断って置きます。
今の日本人が固有性やアイデンティティーを喪失し、”己(おのれ)の国=日本”を語れなく成った現象を、私は「文化の空洞化」或いは「文化のブラックバス現象」(※38)と呼んで居ます。つまり私はこの空洞化を、極端なアメリカナイズに依る大和魂の喪失、と捉えているのですがそれは恰も北アメリカ原産のブラックバスに在来魚が食い荒らされ生態系を乱して居る環境問題、とそっくり同じだからです。
その原因には戦後の政治/教育/放送やメディア/アメリカの占領政策など複合的な要素が考えられますが、民衆レベルで見れば「粋(=ダンディズム、dandyism)」(※33-2)の心を失くし「野暮(=スノビズム、snobbism)」(※33-3)に堕した結果と言えましょう。言い換えると、現代の日本人は江戸町人が持っていた「何も持たない反骨と自由の心意気」を失い、最下層の庶民迄もが何らかの”野暮”ったい管理体制に組み込まれて半可通な上辺紳士 -それは正にスノビズムを絵に描いた様な俗物- に成り下がり、外来の部分摂取的”食い散らかし”の食習慣(→それが”使い捨て”消費文明を齎した)に気触れて豊かさを”食い散らかし”の飽食と勘違いして仕舞ったからです。
その様な状況に対し正々堂々と「勿体無い(もったいない)」と言える様に成りたいですね。そして農耕民族本来の「食の自給自足」を少しずつ復旧させる必要が有ると考えます。因みに、私は以前から「反骨と自由の心意気」で全体摂取を実践して居りますゾ!
【脚注】
※1:タブー(taboo)は、(ポリネシア語で「聖なる」の意のtabu、tapuが原意)超自然的な危険な力を持つ事物に対して、社会的に厳しく禁止される特定の行為。触れたり口に出したりしては為らないとされる物・事柄。禁忌。
※2:猪(いのしし、wild boar)は、ウシ目(偶蹄類)イノシシ科(広くはペッカリー科を含む)の哺乳類の総称。又、その一種。体は太く、頸は短く、吻が突出して居る。我が国産のものは頭胴長約1.2m、尾長20cm。ヨーロッパ中南部からアジア東部の山野に生息する。背面に黒褐色の剛毛が有り、背筋の毛は長い。犬歯は口外に突出。山中に生息、夜間、田野に出て食を求め、冬はかやを集めて眠る。仔は背面に淡色の縦線が有るので瓜坊(うりぼう)・瓜子とも言う。豚の原種。しし。い。いのこ。野猪(やちょ)。季語は秋。崇峻紀「―を献ることあり」。
※2-1:偶蹄類(ぐうているい、even-toed ungulates)とは、哺乳綱の一目。ウシ目。現生では約80属185種。イノシシ・カバ・ラクダ・シカ・キリン・ウシなどの9科を含み、オーストラリア区以外の全世界に分布。四肢の第1指(親指)は退化し、第2指・第5指も退化の傾向で、体重は第3指と第4指に掛かる。原始的な種類は牙を、進化した種類では角を持つ。多くは草食性で、胃が複雑に成り反芻する。
※3:鹿(しか、deer)は、ウシ目(偶蹄類)シカ科の哺乳類の総称。枝の有る角と長い足を持つ。角は雄だけに有り毎年生え替わるが、キバノロなどには無い。草食性で反芻胃を持つ。多くは群生。サハラ砂漠以南のアフリカとオーストラリアを除く世界中に分布。中国では若い袋角を鹿茸(ろくじょう)と言って薬用とする。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※3-1:日本鹿(にほんじか、Japanese deer)は、鹿の一種。日本・朝鮮半島・中国に分布。体長1.5m程だが、北のもの程大きい。角は牡のみに有り、成長したものでは40cm程、毎年生え替わる。アジア東部に広く分布し、日本では北海道から沖縄迄生息するが、幾つかの亜種、又は種に分けることも有る。夏は褐色の地に白斑が有るが、冬は一様に灰褐色と成る。草食。神の使いとされ、神社に飼われることも有る。秋、牝鹿を呼ぶ牡鹿の声は、詩歌に多く詠まれる。か。しし。かせぎ。かのしし。季語は秋。
※4:鯨(くじら、whale)は、哺乳類クジラ目の海獣の内、大形のものの総称。形は魚に似、海中生活に適する。種類が多く、歯の有るもの(歯クジラ亜目)と、無いもの(鬚クジラ亜目)とに分ける。体長30mに達する現存の動物中最大のものを含む。皮膚は裸出し、その下に厚い脂肪層が有って体温を保つ。後肢は退化し、前肢は鰭(ひれ)状、尾は尾鰭状であるが、魚と違って水平に広がる。餌は小魚・海老類など。水面に浮き上がって空気を呼吸し、その時鼻孔から吐く呼気中の湿気が水滴と成って柱状に立ち上る。鼻孔に溜まった海水、付近の海水もこれに伴って吹き上げられる。これを俗に「潮を吹く」と言う。嘗て大規模な捕鯨をし、食用・油・工芸に使った。歯鯨にはマッコウクジラ/アカボウクジラ/ゴンドウクジラなど、鬚鯨にはナガスクジラ/セミクジラ/イワシクジラ/ミンククジラ/ザトウクジラなど。南北両極の海、特に南氷洋に多い。古称、勇魚(いさな)。季語は冬。
※4-1:海豚(いるか、dolphin)は、歯クジラ類の内の小形種の総称。体長1~5m。両顎に歯があり、体形は紡錘状で頭部は長く延びる。背鰭(せびれ)は普通鎌形で大きい。前肢は鰭と成り、後肢を欠く。群を為して遊泳。種類が多い。しばしば船舶に平行して走る。マイルカは背部藍黒色、腹部白色。大西洋・インド洋、その他日本近海にも産。季語は冬。新撰字鏡9「鮪、伊留加」。
※5:海馬/葦鹿/海驢(あしか、sea lion)は、(アイヌ語)アシカ科の哺乳類の総称。アシカ/オットセイ/トドなどを含み、6属14種。又、その一種。雄は体長約2.4mに達し、焦茶色、雌は小形。日本近海では絶滅、現在カリフォルニア近海とガラパゴス付近のみに分布。海獺(うみうそ/うみおそ)。海驢(みち)。〈和名抄18〉。
※5-1:膃肭臍(おっとせい、fur seal)は、(膃肭(おっと)はアイヌ語オンネウの中国での音訳)、臍(せい)は、その陰茎を臍と称して薬用にしたことから、我が国で動物名とした)アシカ科の海生哺乳類。体長、雄は約2.5m、雌は約1.3m(雄が倍位大きい)。体は暗褐色を帯びる。四肢は短く鰭(ひれ)状で、水中の動作は機敏、魚類を捕らえて食う。北太平洋に棲み、繁殖地はプリビロフ島、コマンドル諸島とロベン島しか知られて居ない。乱獲され絶滅し掛かったが、厳重な保護の結果回復、国際条約で捕獲を規制。南極近くの海には近似種のミナミオットセイが居る。一雄多雌の繁殖群(ハーレム)を作る。
※6:ジュゴン(dugong、儒艮)は、(マレー語から)カイギュウ目ジュゴン科の哺乳類。全長約3m。尾は横に扁平な尾鰭(おびれ)と成る。後肢は退化。インド洋・南西太平洋の沿岸の浅海に生息し、海草を食べる。立泳ぎし乍ら、子を抱いて授乳する姿から古来これを「人魚」とした。沖縄で犀魚(ざんのいお)。天然記念物。
※7:魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の『三国志・魏志』巻三〇東夷伝・倭人の条に収められている、日本古代史に関する最古の史料。→邪馬台国。
※7-1:卑弥呼(ひみこ/ひめこ)は、3世紀半ば頃の邪馬台国の女王(?~247年頃)。「魏志倭人伝」に拠れば、約30国が女王の統治下に在り、239年魏に使者難升米を遣わして、明帝より親魏倭王の称号を与えられ金印紫綬を授かった。又、「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。」と在り、呪術を行う巫女(みこ)であったらしい。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7-2:鬼道(きどう)とは、[1].〔仏〕六道の一。餓鬼道。鬼趣。古今著聞集13「成佐―にありといへども」。
[2].magic, enchantment。呪術/幻術/妖術。魏志倭人伝「―に事へ、能く衆を惑はす」。
※8:牛(うし、bull(雄牛), cow(雌牛), ox(去勢した雄牛), cattle(総称))は、ウシ目(偶蹄類)ウシ科の一群の哺乳類の総称。体は頑丈で角を持ち、尾は細い。草などを食い反芻(はんすう)する。家畜の牛は、絶滅した野生牛オーロックスを起源とする。和牛は黒色のものが多く、朝鮮牛は赤褐色で小形。肉牛・乳牛・役牛のそれぞれに多くの品種が在り、肉・乳は食用、皮・骨・角なども種々の用に供せられる。
※8-1:偶蹄類(ぐうているい、even-toed ungulates)とは、哺乳綱の一目。ウシ目。現生では約80属185種。イノシシ・カバ・ラクダ・シカ・キリン・ウシなどの9科を含み、オーストラリア区以外の全世界に分布。四肢の第1指(親指)は退化し、第2指・第5指も退化の傾向で、体重は第3指と第4指に掛かる。原始的な種類は牙を、進化した種類では角を持つ。多くは草食性で、胃が複雑に成り反芻する。←→奇蹄類。
※9:馬(うま、horse)は、ウマ目(奇蹄類)ウマ科の獣。アジア/ヨーロッパの原産。体は大きく、顔は長く、頭部に鬣(たてがみ)を有し、四肢が長く第3指の蹄で良く走る。草食。シマウマなどの野生種も在るが、家畜として重要。乗用・競馬用のサラブレッドは最も有名。他に輓馬(ばんば)のペルシュロン、日本の在来種など、20以上の品種が在る。こま。むま。
※9-1:奇蹄類(きているい、odd-toed ungulates)とは、哺乳綱の一目。ウマ目。始新世前期から出現し、その後期に栄えたが、現在では衰退し、ウマ・バク・サイの3科5属23種。四肢共に第1指(親指)が退化、後肢では第5指(小指)も退化。ウマでは残っているのは第3指(中指)だけ。草食性で反芻しない。←→偶蹄類。
※10:乞児/乞食者(ほがいびと)とは、人の門戸に立ち寿言(ほがいごと)を唱えて回る芸人。物貰い。乞食(こじき)。万葉集16「乞食者の詠」。
※11:膾/鱠(なます)は、[1].魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの。
[2].薄く細く切った魚肉や獣肉を酢に浸した食品。
※12:天武天皇(てんむてんのう)は、7世紀後半の天皇(?~686、在位673~686)。名は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)、大海人(おおあま)。舒明天皇の第3皇子(天智天皇の弟)。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の崩後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)に即位する。新たに八色姓(やくさのかばね)を制定、位階を改定、律令を制定、更に国史の編修に着手。皇后は後の持統天皇。
※12-1:八色姓(やくさのかばね、はっしきのかばね)は、(「かばね」は、元は骨のこと。父系の血筋は骨に宿ると考えられたことから。<出典:「漢字源」>)
天武天皇が684年に整理再編した8種の姓。即ち真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)。この年から翌年に掛けて実際に与えられたのは上位4姓で、序列は各氏祖先の皇室に対する親疎に依っている。八姓(はっせい)。
※12-2:真人(しんじん)は、[1].誠の道を体得した人。
[2].道教では、最高の人格を備えた人。聖なる仙人。
※13:梁(やな)とは、川の瀬などで魚を獲る為の仕掛け。木を打ち並べて水を堰き1ヵ所に流す様にし、そこに流れて来る魚を梁簀(やなす)に落し入れて獲るもの。
※14:生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)は、徳川5代将軍綱吉の発布した動物愛護の命令。僧隆光の言に拠り、魚鳥を食料として飼養することを禁じ、畜類、特に犬を愛護させた。極端に走った為に人民を苦しめ、綱吉は犬公方(いぬくぼう)と呼ばれた。1709年(宝永6)廃止。
※15:官牧(かんぼく)とは、律令制で、官用の馬を供給する牧場。兵部省の管理。諸国に亘っているので諸国牧とも言う。
※16:陰陽道(おんみょうどう)とは、古代中国の陰陽五行説に基づいて天文・暦数・卜筮・卜地などを扱う方術。大宝令に規定が在り、陰陽寮が置かれたが、次第に俗信化し、宮廷・公家の日常を物忌・方違えなどの禁忌で左右した。平安中期以後、賀茂・安倍の両氏が分掌。
※16-1:陰陽寮(おんみょうのつかさ、おんみょうりょう)とは、律令制で、中務(なかつかさ)省に属し、天文・気象・暦・時刻・卜占などを司った役所。陰陽頭の下に、陰陽博士・暦博士・天文博士・漏刻博士などで編成。うらのつかさ。
※16-2:陰陽博士(おんみょうはかせ)とは、陰陽寮に属し、陰陽道を学生に教授した教官。
※16-3:陰陽師(おんみょうじ)とは、陰陽寮に属し、陰陽道に関する事を司る職員。中世以降、民間に在って加持祈祷を行う者の称。
※17:末法(まっぽう)とは、〔仏〕釈尊入滅後の仏教流布の期間を3区分した最後の時期。入滅後の1千年を正法(しょうぼう)、その後の1千年を像法(ぞうぼう)、その後の1万年を末法と言い、末法では仏の教えが廃れ、修行する者も悟りを得る者も無く成って、教法のみが残る時期。末法が終わると教えさえも聞かれなく成る法滅の世が来るとする。日本では1052年(永承7)に末法に入るとされた。末法時。「―の世」。
※17-1:末法思想(まっぽうしそう)とは、末法に入ると仏教が衰えるとする予言的思想。中国では隋代頃に流行し、三階教や房山石経を生んだ。日本では平安後期から鎌倉時代に掛けて流行し、人々を不安に陥らせる一方、仏教者の真剣な求道を生み出した。
※18:九想/九相(くそう、きゅうそう)とは、仏教用語で、人間の死骸が腐敗して白骨・土灰化する迄の9段階を観想すること。肉体への執着を断ずる為に修する。
※19:穢多(えた)とは、(「下学集」など中世以降、侮蔑の意を込めて「穢多」の2字を当てた)[1].中世/近世の賤民身分の一。牛馬の死体処理などに従事し、罪人の逮捕・処刑にも使役された。
[2].江戸幕藩体制下では、非人と共に四民(士農工商)より下位の身分に固定、一般に居住地や職業を制限され、皮革業に関与する者が多かった。1871年(明治4)太政官布告に依り平民の籍に編入された後も社会的差別が存続し、現在の尚根絶されていない。塵袋「ゑとりをはやくいひて、いひゆがめて―と云へり、たととは通音也」。→部落解放運動。
※19-1:非人(ひにん)とは、この場合、[1].卑しい身分の人。極貧の人や乞食を指す。仮、伊曾保物語「汝、乞食―をいやしむる事なかれ」。
[2].江戸幕藩体制下、穢多(えた)と共に四民(士農工商)の下に置かれた最下層の身分。卑俗な遊芸/罪人の送致/刑屍の埋葬などに従事した。
補足すると、穢多/非人は日本の不可触民と言えます。
※19-2:不可触民(ふかしょくみん、untouchable, pariah(パーリア), outcaste, achut[梵])とは、インドの四種姓(ヴァルナ)制の枠外に置かれた最下層身分。穢れたものと見做され、差別を受けた。ガンディーはカースト差別撤廃を目指しハリジャン(神の子)と名付けた。インド総人口の約15%を占め、400~500のカーストに分かれる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※19-3:アンタッチャブル(untouchable)は、(「不可触の」の意)[1].インドの不可触民。
[2].アメリカの連邦捜査局員。
※19-4:被差別部落民(ひさべつぶらくみん)は、被差別部落民や部落問題の始まりは、穢多・非人の身分差別と分裂支配が法的に制度化された江戸時代初期であると考えられるが、中世の社会組織を受け継いで居るという研究も有る。江戸幕府及び諸藩は士農工商の下に賤民身分を設け、身分・地域・職業の三位一体的な社会的差別を、中期以来特に強化して幕末に及んだ。この身分制は明治維新後の1871年の「解放令」に拠って制度的には消滅したが、実質的には「新平民」などの差別的俗称の下に温存された。こうした中で、部落住民自身が自由民権運動や米騒動に参加して自覚意識を高め、1922年「全国水平社」を結成して、人権尊重の宣言と差別撤廃を唱え、部落解放運動を起こした。1969年同和対策事業特別措置法が制定され、その後も同和対策の法律も制定されて来たが、依然として格差や差別の実態が有る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※19-5:同和(どうわ)とは、部落差別を無くすこと。1941年頃から行政用語として用いられて居る。「―地区」「―対策事業」「―問題」「―教育」。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※20:延喜式(えんぎしき)は、弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
※21:鵠(くぐい、くくい、こう)は、ハクチョウ(白鳥)の古称。垂仁紀「時に―有りて大虚(おおぞら)を度(たびわた)る」。
※22:青侍(あおさぶらい、あおざむらい)とは、[1].(青色の袍(ほう)を着たから言う)公卿の家に仕えた六位の侍。
[2].官位の低い若侍。宇治拾遺物語七「父母も主もなく、妻も子もなくて、只一人ある―有りけり」。
※23:安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、織田信長・豊臣秀吉が政権を握って居た時代(1573~1598年)。又は信長入京の1568年(永禄11)から関ヶ原の戦で徳川家康が勝利した1600年(慶長5)迄。戦国時代の争乱が治まって全国の統一が完成し、新しい支配体制が作られた時代。この時代の文化は新しく興った大名や大商人の活発な動きを反映して、豪華で雄大な性格を持つ。城郭・障壁画・茶道・能楽・浄瑠璃などが発達。織豊時代(しょくほう―)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※24:ルイス・フロイス(Luis Frois)は、ポルトガルのイエズス会士(1532~1597)。インドで司祭と成り、1563年(永禄6)来日。長崎で日本二十六聖人の殉教を目撃し、滞日中140余通の日本通信を本国に送り、又49年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。長崎で没。
※25:解体新書(かいたいしんしょ)は、日本最初の西洋解剖書の訳本。本文4巻、解体図1巻。1774年(安永3)刊。オランダ解剖図譜「ターヘル・アナトミア」を前野良沢・杉田玄白を中心に、中川淳庵・石川玄常・桂川甫周が協力して翻訳した書で、4年を費やし、改稿11回。
※25-1:蘭学事始(らんがくことはじめ)は、1815年(文化12)杉田玄白83歳の時の手記。2巻。「解体新書」上梓の苦心談を中心として日本の蘭学の初期に於ける回想を叙したもの。蘭東事始。和蘭事始。
※26:小塚原(こづかはら、こづかっぱら)は、江戸千住(荒川区南千住)に在った江戸時代の死刑執行場。古塚原。骨ヶ原。
※27:火事羽織(かじばおり)とは、江戸時代の火事装束用の羽織。武家のは羅紗や革などで陣羽織の様に仕立て、背筋の裾に割れ目を入れて背に家紋を付けた。市民のは無地の木綿の刺子(さしこ)で、羽織の様に仕立てたものが多かった。奢侈の取り締まりが厳しく成ると一部の江戸っ子は裏地に贅を凝らし粋がった。
※27-1:刺子(さしこ、さしっこ)とは、綿布を重ね合せて、一面に1針抜きに細かく縫ったもの。丈夫であるから、消防服や柔道着などに用いる。
※28:楕円(だえん、ellipse)は、円錐曲線(二次曲線)の一。幾何学的には一平面上で2定点F1とF2からの距離の和(F1P+F2P)が一定である様な点Pの軌跡。この2定点を楕円の焦点、線分F1F2の中点を楕円の中心と言う。長円。
※29:ももんじ屋(―や)とは、(「ももんじい」から)江戸時代、主に猪・鹿などの獣肉を売った店。他にも犬・猿・牛・馬などの肉や料理を扱って居た。
※29-1:「ももんじい」とは、[1].尾の生えているものや毛深いものを嫌って言う語。
[2].猪・鹿などの獣肉。浮世床初「―を百目買つてやる筈だが」。
[3].「ももんがあ」 -着物を被って肘を張り、モモンガの真似をして子供などを脅し戯れる語- に同じく子供を脅す語。浮世風呂2「早くねんねしな、―が来るよ」。
[4].人を罵って言う語。
※29-2:鼯鼠(ももんが、[Japanese] flying squirrel)は、リス科の哺乳類。ムササビに似るが、小形で、頬の白斑が無い。体長15~20cm程。眼が大きく、夜行性。毛色は褐色と灰色とが在る。日本特産で、本州・四国・九州に分布。北海道にはやや小形のタイリクモモンガが居る。森林に棲み、樹間を滑空する。ももんがあ。ノブスマ(野衾)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※29-3:隠語(いんご、argot)とは、特定の仲間の間にだけ通用する特別の語。隠し言葉。
※30:花札(はなふだ、Japanese playing cards)は、花合わせに用いるカルタ。松・梅・桜・藤・かきつばた(あやめ)・牡丹・萩・すすき(月)・菊・紅葉・柳(雨)・桐の12種で各4枚ずつ合計48枚在り、その図柄に依って点数に高低が有る。天正カルタの変化したもの。花ガルタ。花。
※30-1:天正カルタ(てんしょう―)は、室町後期にポルトガルから伝来したカルタを模して日本で作ったカルタ。天正年間以降普及した。ハウ(青色の棍棒)・イス(赤色の剣)・オール(金貨)・コップの4種から成り、各12枚。遊び方はトランプに似る。後、読みガルタ・捲りカルタ・花札へと変化した。
※31:「池田の猪(しし)買い」は、アホな主人公が大坂船場の旦那(甚兵衛)の所に「体が冷えてどないも成らん」と相談すると「それなら猪肉、それも獲れ立ての”新しい”猪肉を食べるに限る」と勧められて池田の猪撃ちの名人(六太夫)を訪ね、一昨日のではダメだ獲れ立てのが欲しいと言って猪猟に付いて行きます。六太夫が発した鉄砲の音で気絶した猪をアホが「これ新しいんか?」と訊くので、六太夫が「ほれ、この通り新しい」と言い乍ら鉄砲の台尻で猪の頭を小突くと猪は逃げて行って仕舞った、という落ちで終わります。
※31-1:落語(らくご、comic monologue)は、(初めオトシバナシと読み、明治中期より一般にラクゴと読む)演芸の一。一人の演者が滑稽な話を登場人物の会話の遣り取りを主として進め、その末尾に落(おち)を付けて聴衆を興がらせるもの。江戸初期に安楽庵策伝が大名などに滑稽談を聞かせたのが初めと言い、身振り入りの仕方咄(しかたばなし)から発達して芸能化し、江戸・大坂を中心に興隆。上方を中心に「軽口(かるくち)」「軽口ばなし」と呼ばれ、江戸中期より「落し咄」と呼ばれた。噺(はなし)。
※32:薬食い(くすりぐい)とは、[1].寒中の保温・滋養の為に獣肉を食べること。季語は冬。好色一代男3「干鮭(からさけ)は霜先の―ぞかし」。
[2].滋養と成る物を食べること。
※32-1:五徳(ごとく)とは、この場合、炭火などの上に置き、鉄瓶などを掛ける三脚、又は四脚の輪形の器具。鉄、又は陶器製。上下逆に置く事も有る。
※32-2:方便(ほうべん)は、[1].〔仏〕(upaya[梵])衆生を教え導く巧みな手段。真理に誘い入れる為に仮に設けた教え。源氏物語蜻蛉「仏のし給ふ―は」。
[2].means。目的の為に利用する便宜の手段。手立て。「嘘も―」。
※32-3:「嘘も方便」とは、方便の為には、時に嘘を吐かねば為らない事も有る。
※33:反骨/叛骨(はんこつ、resistance)は、容易に人に従わない気骨。権力に抵抗する気骨。「―精神」(spirit of resistance)。
※33-1:江戸の反骨精神や所謂”粋がる”風潮は、
間口は狭いが奥行きが長い商家の造り
奢侈が禁じられると羽織の表を質素にし裏に贅を凝らした
赤穂浪士や幡随院長兵衛の反体制的討ち入りを喝采し歌舞伎狂言に迄高めた
などに見て取ることが出来ます。「御上」に対し表面的にはヘイコラし乍ら、腹の底ではアカンベをして居る自尊心は、ダンディズムなのです。
※33-2:ダンディズム(dandyism)は、男性のお洒落。洒落者気質、伊達好み。
※33-3:スノビスム/スノビズム(snobisme[仏], snobbism)は、俗物根性、紳士気取り。似非(えせ)紳士風。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※34:日米和親条約(にちべいわしんじょうやく、Japan-U.S. amity agreement)は、1854年(安政1)神奈川で、アメリカ全権使節ペリーと幕府全権林大学頭韑(あきら)以下4名との間に締結調印された条約。アメリカ船の下田・箱館寄港、薪水食糧購入、漂着アメリカ人の保護、最恵国条款などを定めた。続いて日本はイギリス/ロシア/オランダと略同じ内容の条約を締結。神奈川条約。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※35:仮名垣魯文(かながきろぶん)は、幕末・明治初期の戯作者・新聞記者(1829~1894)。本名、野崎文蔵。江戸京橋生れ。諧謔諷刺に長じ、戯文を以て鳴る。「仮名読新聞」「魯文珍報」を創刊。作「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」「胡瓜遣」など。
※35-1:安愚楽鍋(あぐらなべ)は、滑稽小説。5冊。仮名垣魯文作。1871~72年(明治4~5)刊。文明開化の新風俗を半可通の口を借りて滑稽に描いたもの。
※36:ホルモンとは、ホルモン焼きに使う内臓肉のことで、「捨てる物」という意味の関西弁の「放るもん」語源説が有力。明治の肉食文化移入直後は食べずに捨てていたのを、大阪の新世界や西成辺りの労働者が食べ出したらしく、性ホルモンの様に如何にも精力が付く料理を連想させる労働者向きの命名です。
※37:ハンバーグは、ハンバーグステーキの略。
※37-1:ハンバーグステーキ(hamburg steak)とは、挽肉に刻んだ玉葱・パン粉・卵などを加え、平たい円形に纏めて焼いた料理。一説にドイツのハンブルクの名物、タルタル・ステーキの系統を引くことからの名とも。ジャーマン・ビーフステーキ。
補足すると、今の日本の食を席巻して仕舞ったハンバーグ・ブームは1971年に銀座に開店したマクドナルド・ハンバーガーから始まりました。
※38:文化の空洞化(ぶんかのくうどうか)とは、綿々と受け継がれて来た日本的な文化が、特に戦後アメリカの文化に席巻されて隅に追い遣られて居る現実(それにはGHQの占領政策の影響が少なからず有ると思います)を、「文化の空洞化」或いは琵琶湖などで起こっている環境問題に譬えて「文化のブラックバス現象」という言葉で呼んで居ます。これは私の造語です。日本の戦後教育は「日本人のアイデンティティー」というものを置き忘れて来たのです、それはGHQの占領政策の狙いでもあったのですが。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『たべもの日本史総覧』(新人物往来社編・発行)。
△2:『魏志倭人伝 他三編』(石原道博編訳、岩波文庫)。
晋の陳寿が撰した中国の魏の史書「三国志」の中の「魏書」の「東夷伝」の倭人の条に収められて居る部分 -正確には『三国志・魏志』巻三〇東夷伝・倭人の条- を日本では「魏志倭人伝」と通称します。
△3:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△3-1:『日本書紀(二)』(同上)。
△3-2:『日本書紀(三)』(同上)。
△3-3:『日本書紀(五)』(同上)。
△4:『万葉集(下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△5:『コンパクト版 日本の絵巻7 餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』(小松茂美編、中央公論社)。
△6:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。
△7:『明月記抄』(今川文雄編訳、河出書房新社)。
△8:『完訳フロイス 日本史4』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)。
△8-1:『完訳フロイス 日本史1』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)。
△8-2:『ヨーロッパ文化と日本文化』(ルイス・フロイス著、岡田章雄訳注、岩波文庫)。
△9:『解体新書』(前野良沢・杉田玄白訳、酒井シヅ現代語訳、講談社学術文庫)。
良沢・玄白らの訳文は漢文です。
△9-1:『蘭学事始』(杉田玄白著、岩波文庫)。
△10:『身分差別社会の真実』(斉藤洋一・大石慎三郎著、講談社現代新書)。
△11:『蕪村俳句集』(与謝蕪村著、尾形仂校注、岩波文庫)。
△12:『福翁自伝』(福沢諭吉著、岩波文庫)。
△13:『安愚楽鍋』(仮名垣魯文作、小林智賀平校注、岩波文庫)。
△14:『今昔物語-若い人への古典案内-』(西尾光一著、現代教養文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):兵庫県篠山市の地図▼
地図-日本・兵庫県の城(Map of castles, Hyogo -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):聖徳太子や冠位十二階▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
@参照ページ(Reference-Page):東洋の占星術や奇門遁甲について▼
資料-天文用語集(Glossary of Astronomy)
@参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』5番の「鹿と紅葉」の歌▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
@補完ページ(Complementary):本論考の発端の牡丹鍋紀行▼
2005年・丹波篠山牡丹鍋(The BOAR STEW of Sasayama, Hyogo, 2005)
@補完ページ(Complementary):肉食の哲学▼
(全体摂取や自給自足の大切さにも言及)
「肉を食らう」ということ(Carnivorous life)
@補完ページ(Complementary):「人に食われる動物」の痛みを知る▼
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
@補完ページ(Complementary):「食」に於ける忌避観念の違いについて▼
民族変わればゲテモノ変わる(About the bizarre food)
私の全体摂取の実践▼
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)
旧石器発掘捏造事件に対する私見(=抗議に近い)▼
旧石器発掘捏造はマスコミ犯罪だ
(Mass media led the paleolith fabrication)
八十島時代の大阪とは▼
猪甘津の橋と猪飼野今昔(The oldest bridge and Ikaino, Osaka)
「天皇」という称号が使われたのは推古朝以後の事▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
「幸せ保存の法則」について▼
2005年・年頭所感-幸せ保存の法則
(Law of conservation of HAPPINESS, 2005 beginning)
忍術に発展した奇門遁甲術▼
2003年・伊賀忍者村訪問記(Iga NINJA-village, Mie, 2003)
秦の始皇帝が道教の真人に嵌ったり、
不老不死の仙薬を徐福に探させたりした事▼
謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)
御霊(ごりょう)として神にされた例▼
2003年・大阪城の梅便り
(Japanese apricot blossoms of Osaka castle, 2003)
過度の”清潔症”や”潔癖症”について▼
いじめ問題について(About the BULLYING)
藤原定家について▼
冷泉家時雨亭文庫(Reizei Shigure-tei library)
堺の新興商人階級や納屋衆について▼
阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
”秀吉嫌い”のルイス・フロイス▼
2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)
諧謔精神から見た江戸ダンディズム論▼
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)
隠語や言葉遊びについて▼
「言葉遊び」と遊び心(The 'play of word' and playing mind)
日本のハンバーガーの蔓延▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
温故知新の心や大和魂について▼
温故知新について(Discover something new in the past)
「文化の空洞化」について▼
デフレ論議に疑問を呈す(Is our DEFLATION true ?)
”食い散らかし”の食習慣が”使い捨て”消費文明を齎した▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)
「勿体無い」と思う心について▼
2004年・年頭所感-業を宿したDNA
(Sinful structure of DNA, 2004 beginning)