§.いじめ問題について
[「自己責任型社会」への脱皮#3]
(About the BULLYING)

−− 2006.12.18 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.12.26 改訂

 ■はじめに − 「いじめ」で明け暮れる今日この頃
 最近、世間では「苛め(いじめ)」についての議論が喧(かまびす)しく、「いじめ」のニュースを聞かない日が無い状況ですが、余りにも本質を逸脱した議論が横行して居るので、敢えて苦言を呈します。
 ここに記す内容は私が当サイトの掲示板−1(通称:<新板−1>)に06年12月12日に掲載した内容が基に成っており、本論考は大分膨らんで居ますが掲示板の議論をより詳細に加筆したものを編集して居ます。その議論は▼下▼からご覧下さい。
  偽善社会と「いじめ」(Hypocrisy and Bullying)

 記事の内容から[「自己責任型社会」への脱皮]シリーズに加えることにしました。何故、自己責任と関係が有るのか?、それはこの論考をお読み戴ければ解るでしょう。

 ■「いじめられ」の性格にも問題有り
 最初に断って置かねば為らない事は、「いじめ」も「いじめられ」も共に陰険で捻(ひね)くれた性格だ、というのが私の見解で、この点が世間一般の見方(=世論)と違っているので、先ずそれを述べましょう。
 主に小中学生の「いじめ問題」を例に話を進めれば、マスメディアに誘導された大衆の世論は

  いじめられ=100%被害者=善良な学童→いじめられっ子は可哀相
  いじめ  =100%加害者=悪ガキ  →いじめっ子は憎い

という極端に二極化した短絡的図式に陥って居ます。しかし「いじめられ」が性格が良い子で100%被害者なのか?、ここに私は大いに疑問を感じます。この問題は本シリーズの第1作[「自己責任型社会」への脱皮#1]の中で、「サラ金から金を借り返済せず、厳しい取り立てで自殺した人が100%被害者なのか?」という03年の私の問題提起と同じです。
 例えば先頃「私が死んだら皆楽しいでしょ」と書き残して死んだ少女や、文科相宛てに自殺予告文書を送った生徒など、「いじめられ」には故意に世間を騒がせて最後に”目立とう”とする「倒錯した自己顕示欲」が窺えます。
 この様に「いじめられ」の中に内在する周囲と折り合えない「過度の鬱屈」「被害妄想」や上手く発散出来ない「倒錯した自己顕示欲」などの”陰険さ””捻くれ”が、実は「いじめ」を呼び込んで居る、と私の心理分析は診断します。

 ■「いじめ」と「いじめられ」の関係性
 「いじめ」も無差別に苛め行為をして居る訳では無いのです、それを解り易く説明しましょう。今仮にAという「いじめ」が居たとして、BやCは何もされないのに、何故Xだけが苛められるのか?
 ここにXの側の問題点、或いはXとAとの関係性に於ける問題点が有る、即ち「いじめられ」にも”それなり”の問題点が有るのです。
 従って
  いじめられ=被害者であっても、断じて100%被害者では無い
       →可哀相ではあっても自業自得
とするのが私の見方です。
 勿論、だからと言って「いじめ」を免罪して居る訳ではありません。苛め行為は加害行為です。しかし「いじめ」も或る意味では「過度の鬱屈」や「倒錯した自己顕示欲」に蝕まれて居る連中だ、という事実を理解する必要が有ります。実際に或るグループの「いじめ」も別のグループでは「いじめられ」という場合も多いのです。「類は友を呼ぶ」の諺通り、同根の「心の病」を抱える「いじめ」と「いじめられ」は”互いに引き合う”のです。つまり「同じ穴の狢(むじな)」ですね。
 そして、こういう性格は学校教育では無く主に幼児・児童期の家庭教育で形成されるのです。つまり小中学生の「いじめ」も「いじめられ」も原因を遡及すれば「親の責任(=親の自己責任)」という場合が多いのです。何故「親の責任」か?、は後述します。

 ■問題の摩り替え
 今、世論は前述の短絡的図式に則って「いじめられ」は100%被害者だ、として居るので「いじめられ」の親が好い気に成って
  教師 → 学校 → 教育委員会 → 教育システム → 教育行政
へと、”大きな対象”に責任を転嫁して居ます。カメラの前で泣いたりお涙頂戴の手記を発表したりして”被害者の立場”を大袈裟に演じアピールして居ます、他人事の様に「親の責任(=親の自己責任)」を棚に上げて!
 昔は「恥を知る」という言葉が日常生活の中で未だ生きていたので、こんな親の恥を晒す様な事はしなかったのですが。コイツ等が何故こんな恥知らずな演技をするのか?
 それはズバリ、カネです、”銭闘”なのです。「いじめられ」の親 −場合に依っては”遺族”と呼ばれる− は最大限の金(=補償金)をゲットする為に”善人”を装い「親の責任」をかなぐり捨てて出来るだけ”大きな対象”に攻撃の的をエスカレートさせて行きます。”大きな対象”程支払い能力が高いという論理です。
 そして大衆はメディアを見て単純に被害者に同情します。これは同情することに依って大衆自身も”善人”だと思い込める、という浅ましい「共同幻想」です(△1)。
 まぁ、そういう訳で「いじめられ」の親は偽善者、メディアも大衆も偽善者という、”偽善の構図”が出来上がって仕舞うということですね。正に被害者天国です。

 ■「いじめ」は昔から何処の社会にも在った
 今、世間やメディアは「いじめ」が恰も現代特有の問題の如く大騒ぎして居ますが、それは間違いです。それ所か「いじめ」は大なり小なり昔から存在して居た、という歴史的事実に思い至るべきです。
 例えば親の転勤で違う地域に転校して言葉のアクセントなどを論(あげつら)われたり、身体の障害のことをからかわれたり、服装を笑われたり、などは今に始まったことではありません。これなどは差別ですが、「いじめ」の深層心理には差別感情が潜み、対象が女性に向けられた場合がセクシャル・ハラスメント(※1)なのでしょう。私が小中学校の頃は喧嘩が強く威張り散らした「威張り」が必ず各クラスに居て、「威張り」に逆らうと「いじめ」に遭う訳です。私など身体が小さかったので「威張り」には近付かない様にして居ましたよ。
 ところで「いじめ」は何も児童・生徒の通う学校に限ったことでは無く、会社や組織などの大人社会にも歴然として存在します、大なり小なりですが。例えば会社の或る課の忘年会に自分だけ仲間外れにされ呼ばれなかったり、又所謂、窓際族”肩叩き”や大企業に依る傘下中小企業の締め付けなどは組織的な「いじめ」「嫌がらせ」と言えましょう。大戦中の軍隊の兵舎の中では「威張り」や「いじめ」は日常茶飯事でした。同様な事は刑務所の雑居房ホームレスの”テント村”の中で今現在毎日進行して居ます。古く時代を遡れば村八分(※2)などという古い因習を集団的な「いじめ」と捉え直すことも可能です。
 つまり、
  「いじめ」はから様々な社会の隅々に遍く存在して居た
のだ、ということです。この点を正しく認識する必要が有る、と私は強調して置きます。間違った認識の大騒ぎや付和雷同(※3)は空騒ぎに終わるだけです、間違った認識から解決に導くことは出来ません。

 ■「いじめ」は何故発生するのか
 では、昔から何処にも在った「いじめ」は人間特有の現象なのか?
 答えは、否です。群れを成す動物社会では必ずボス(=親分)が居て、ボスは群れのリーダーでもあり群れの行動を決定します。ボスは大抵身体が大きく喧嘩が強いのです。動物社会では頭脳よりも腕力・暴力の強さが幅を利かせます。尤も、人間社会でも軍事力の強い国が世界の覇権を牛耳って居ますので、人間も充分動物的と言えます。
 このボスは前述の「威張り」に相当します。群れにはボスを頂点とする序列と幾つもの「仕来たり」 −即ち「群れの掟(おきて)」− が存在します。この掟を破ると人間社会の「村八分」と同様な扱いを受けます。そもそも人間社会の「村(むら)」という語は「群(むら)」から来ている(※2−1)のです。つまり「村(むら)」は人間が群れて生活する縄張の範囲を指す言葉です。
 他の群れから逸(はぐ)れた動物が別の群れに入る際、新しい群れの動物から色々なチェックを受けます。尻の臭いを嗅がれたりするチェックは転校生が言葉の訛りを笑われたり服装に文句を付けられたりするのと変わり無いのです。
 群れを成さず単独行動する動物でも縄張を有し、それを侵すと攻撃を受けます。トンボをご覧為さい。
 この様に動物社会では異質な者を排除乃至は警戒する行動は普通に見られ、人間の場合は色々な心理作用が働き動物よりも様相は複雑ですが根底には動物的縄張意識異質な者への警戒心が働き、それが様々に屈折して「いじめ」という外面的行為に表出される、というのが私の分析です。つまり「いじめ」は人間の「群れ行動」の深層心理が屈折して表面に表れ出た”吹出物”なのです。

 ■「いじめ」は無くならない
 「いじめ」が屈折して居るとは言え、人間に内在する動物的本能に起因する以上、「いじめ」は無くならないのです。のみならず、「いじめ」を無くす論議が如何に無責任で偽善的な綺麗事・絵空事であるか、又それに同調することが如何に浅薄且つ軽薄な付和雷同に過ぎないか、日本の皆さん、良く眼を見開いて下さい。私が冒頭で「本質を逸脱した議論が横行」と断じたのはこの事です。
 従って私の結論としては、社会やシステムに依って「いじめ」を撲滅することは出来ない、ということですね。やはり弱者である「いじめられ」が、「いじめ」に遭わない様に自ら克服する以外に解決の道は無いのです。生きるということ、成長するということは、幾つもの試練に耐えて自分の責任に於いて自立して行くことなのです。自立出来ないで自殺するのは結局「人生の敗者」と言わざるを得ません。私は敗者が自殺することなど屁とも思って居ませんよ、敗者が死ぬのは自然淘汰の原則」に照らして正しい(※4)のです。近頃の世論は人間が「生きる」ということを、純粋培養と”勘違い”して居ます。因みに、私は既に03年に日本は”勘違い国家”であると断じて居ます
                (>o<)

 ■「いじめ」騒ぎから透けて見える日本の病理 − 目標の喪失
 現在の「いじめ騒ぎ」の間違いは既に指摘した様に
  [1].「いじめられ」を100%被害者と見做して居る
  [2].「いじめ問題」を現代特有の問題と見做して居る
ことですが、世論は更にもう一つ大きな”勘違い”をして居ます。それは
  [3].現代の「いじめ」が過去一番陰湿で、故に大問題と見做して居る
ことです。以下に[3]の見方の誤りを説明しましょう。
 私が考える所では、大戦中の軍隊の「いじめ」の方が格段に陰湿且つ日常的で暴力的でした。しかも戦争という”人を殺す”行為が正当化された時代ですから、「いじめ」も正当化されて居たのです。だから「いじめられ」としては何処にも訴える場など無く、今の「いじめられ」などに比べれば格段の苦汁と忍従の日々を強いられて来た筈です。それなのに当時の「いじめられ」は耐え抜いた訳です。この違いは何か?
 それは精神力の強さ生きることへの執着心の強さ、或いは人生の目標と言い換えることが出来るかも知れません。又、私には今の若い世代が没社会的且つ自己中心的な”殻”に閉じ籠もっている様に思えて為りません、どんなストレス(※5)が溜まってるのか知りませんが。だから些細な「いじめ」 −私は今の「いじめ」など戦時中に比べれば些細な事と思って居ます− に屈し、自己中心的な被害者意識を針小棒大に拡大させて”後ろ向きの精神病” −「自閉症」「引き籠もり」「鬱病」「自殺症候群」など− に陥っている(※6〜※6−2、※6−5)のです。苛める側も同様で、他人に精神的・身体的な苦痛や危害を加えることでしか自分の欲求の捌け口の無い精神が破壊された敗者であり、相手の迷惑に考えが及ばないという点でやはり自己中心的です。そしてどちらも自分しか見えて居らず社会との関係性が希薄という点で共通し、前述の様に”互いに引き合う”のです。苛める側は友人関係を築けない孤立した”引き合う人間”を「いじめ」の対象に選んで居るのです。
 一方、安っぽいヒューマニズムから「「いじめ」を無くそう」などと声高に言う偽善者たち −既に説明した様に「いじめ」は人間に内在する動物的本能に起因するので無くならないのです!!− は、表面的な「いじめ」や「いじめられ」を問題視して付和雷同して居る様ですが、然に非ず、そんなものは大なり小なり昔から何処にも存在した訳で、若い世代が自己中心的な”殻”に閉じ籠もり人生の目標や社会との関係性を見失って居る事こそが現在の「日本社会の病理」なのであって、「いじめ」や「いじめられ」は表に出た”吹出物”に過ぎません(→「日本社会の病理」については更に後述)。
 ここで、ストレスも溜まらず後ろ向きにも成らない私の健康論 −これは実践哲学− を紹介して置きますので、「いじめ」や「いじめられ」の傾向が有る人は参考にして下さい。
  私の健康論−不摂生は健康の母(My healthy life)

 ■親の責任放棄 − 躾の欠如
 親や社会は「いじめられ」に対し、本来なら「前を向いて強い気持ちで歩け!」と言わなければ為らない所を、社会全体が前章の[1]の様な誤った判断から”後ろ向きの姿勢”を許容して居る有様は、「甘えの構造」に起因する”甘やかし”の成れの果ての姿と言わざるを得ません(△2)。
 「優しさ」という言葉が1970年代頃から盛んに使われ出しましたが、思えば私が「戦後日本の分水嶺」と呼ぶ1964(昭和39)年(=「1964年分水嶺説」)を境に、60年代後半に人々の意識に個人主義男女同権思想が芽生え、共稼ぎ夫婦の子として所謂「鍵っ子」(※7)が出現した事実は重要です。この頃から子供の教育の中で、教える側も教わる側も人格的な人間関係を嫌い科目毎の”教育の技術化”が急速に進行・定着し、子供の教育に於いて母性原理的過保護(=”甘やかし”)が助長され父性原理的躾(しつけ)の部分が蔑(ないがし)ろにされて仕舞いましたが、それは分水嶺以降に頑固親父や雷親父が急激に減少した事実と照応して居ます。その結果「他人に迷惑を掛けない」という社会の常識(※8) −法律以前のマナーや道徳− の範疇に入る極めて基本的な「心の問題」が置き去りにされて来ました。この過保護こそはやがて”自閉症的”個人主義(=没社会的個人主義)や自己中心主義を生み、更に前述の”後ろ向きの精神病”に追い遣った元凶だったのです。念を押しますが、世間で良く言われる所謂「教育の荒廃」という現象は後に成って表面化した結果であり、その原因は”教育の技術化”や躾の欠如にに在るのです。
 結局、今に成って「優しさ」だけでは、その美名の下に”甘え”や”甘やかし”を助長し自己責任意識の欠如した人間を増殖させるだけの偽善的な「片手落ちの綺麗事」に過ぎないことが証明された訳ですが、先程「親の責任(=親の自己責任)」と言ったのは主にこの躾の部分です。子供の教育には母性原理的な「優しさ」だけで無く父性原理的な「厳しさ」が必要だ、時には体罰も必要だ、「いじめ問題」など本来は常識マナー(=親の躾)の問題だ、「甘えの構造」は偽善の反映、そして現在の「いじめ問題」の原因は1964年の分水嶺に端を発して居る、と私は考えて居ますが皆さんはどう思われますか?!
 「体罰」の重要な点はそれが単に”体の罰”では無しに、「体を通して精神を鍛える」効果に在ります。例えば犬や猫が家の中でウンコをしたらピシャリと打つ様な体罰は必要です。私は現在の「いじめ問題」の根本原因は「いじめ」や「いじめられ」の子供たちでは無く、寧ろ”子離れ出来ない親”に在ると考えて居ます。
 人間も生物である以上、生存競争に打ち勝って生きて行かねば為らない道理を確り「躾ける教育」が必要です。そして繰り返しますが、生物学的見地から敗者が淘汰されるのは正しいのです。そういう社会の厳しさや規範をきちんと教えるのは父親の役目の筈ですが男女同権を曲解した為に男女の役割分担を見失って仕舞いました。日本もここらで鈍(なま)った学校教育のみに拘泥らず老舗(しにせ)の躾の厳しさをもう一度見直すべき時だと私は考えて居ます。
 尚、この章の私の見解とほぼ同じ事を『母原病』(※9、△3)の著者が同書の中で述べて居ますので、興味有る方は是非お読み下さい。

 ■親の責任意識を曖昧化する「保護者」という呼び名
 ところで何時からでしょうか、学校で子供の父母、即ち親権者(※10)のことを「保護者」(※11)と呼び、学校での親権者の集まりを「保護者会」(※11−2)と呼ぶ様に成ったのは?
 私の小学校・中学校時代は子供の親権者を「父兄」(※11−3)と呼び、学校での親権者の集まりを「父兄会」(※11−4)、そして学校全体として親権者と教師で方針決定する会合をPTA(※11−5)と呼んで居た様に記憶して居ます。
 「父兄」から「保護者」に名称変更したのは、「父兄」という語が「父」と「兄」という男性のみの名称で、本来の親権者の一翼を担う「母」を含まず代わりに親では無い「兄」を含んで居て、昔の家父長制(※12)の男性優位・女性蔑視の名残を留める名称だから、という理由に拠ることは明白です。とすればウーマン・リブ(※13)華やかなりし1970年代に変更されたと思われますが、これが教育に於ける父性原理の後退を促進したのも事実です。
 この変更理由は私も理解し名称変更には賛成です、しかし「保護者」はダメです。「保護者」では逆に「親権」(※10−1) −親としての権利・義務と責任− という概念が欠落し、「迷子を保護する」(※11−1)みたいに一時的で他人事の様な響きが有ります。事実、今の親たちは前述の様に自分の子の躾を忘れ自分の子の不始末を他人事視して、親としての責任意識が欠落して居ます。
 故に私は現在の「保護者」「保護者会」という名称をもう一度改め、「親権者」「親権者会」又は「父母」「父母会」などの親権を想起させる名称に変更すべきである、と考えて居ます。

 ■「いじめ語」で規制する動きを憂う
 現在の「日本社会の病理」に対して私はもう一つ憂慮且つ危惧して居る問題が有ります。それは所謂「いじめ語」なる語彙集 −例えば「キモイ」(※14)や「クサイ」− を制定し単純に用語で規制しようとする動きです。前述の様に「いじめ」は差別と密接不可分なので、この動きは「差別語」で単純に差別を規制して来た経緯から予想出来た事ですが、用語で単純に規制するのは如何にも幼稚な発想で更にここ迄徹底するのは幼稚を通り越して小児病的(※15)です。
 当サイトは2002年11月20日に開設以来一貫して「言葉の解放」を掲げて来て居り、開設当初から「当サイトのコンセプト」の中核です。一度
  当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
をお読み下さい。
 ここに「差別語」に対して掲げたコンセプトを抜粋して転載しますが、このコンセプトは「いじめ語」に対しても全く同様に当て嵌まります。
  但し、差別語を差別目的に使うのは許されない行為です。
  しかし忌憚の無い議論を展開するには言葉の解放が重要です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 私は「言論の自由」という語が好きに成れません。何故なら、この言葉の背後には所謂マスコミ業界の”特権意識”の様なニュアンスがちらついて見えるからです。そこで市井の一個人である私は「言葉の解放」という語を使うことにして居ます。

 ところで上述の用語規制は今の日本企業や官庁の何でもマニュアル化しないと気が済まない極端なマニュアル主義 −重箱の隅に拘泥る細目拘泥の性格は日本人の国民性みたいなものですが− と同根で、近年流行の娘が洗濯する際に「父親のパンツを鼻を撮み乍ら箸で掴んで洗濯機に入れる」「自分の洗濯物は父親のパンツと一緒に洗わない」などの潔癖症の病理(※6−3)とも通底し、病根は中々深い様に思われます。

 ■「いじめ」を克服して生きる心構え − 気楽に考える
 「いじめ」を無くすことが出来ない以上、人間はそれを克服して生きて行くしか有りません。先ず言って置きたい事は、前以て「いじめ人間」や「いじめっ子」を規制することは出来ません。それは精神異常者を”異常”というだけで即精神病院に隔離することが出来ないのと同じで、何らかの形で被害が発生して初めて規制の対象に成る訳です。
 従って「いじめ人間」以外の人が「いじめ」に遭わない様に自己防衛するしか無いのです。前述の様に「いじめられ」の側が「いじめ」を呼び込む”何か”を有して居る場合が多いので、「いじめられ」傾向の人は気持ちを素直に明るく前向きにして、いじけずに被害者意識を脱して強く生きて行く心構えを持つことが必要です。勿論、家族・学校・地域・行政やシステムのサポートも必要です。しかし、それは飽く迄サポート、即ち側面からの援助に過ぎません。肝心なのは本人自身の気持ちと姿勢です。
  貴方(又は貴女)の人生を切り開けるのは
    貴方(又は貴女)だけです!!


 まぁ、私が常々言っている自己責任と自立です。「日本の病理」を論じた章では厳しい事を述べましたが、難しく考える必要は有りません。少し思い巡らしてみて下さい。人間は皆、大なり小なり「いじめ」に遭い乍らも殆どが潜り抜けたり克服して大人に成っているのだと、大人の社会では今でも大なり小なり「いじめ」が進行して居るのだと、そう再認識すれば気が楽に成る筈です。そして「いじめ」を無くすなどと絵空事の甘言を垂れ流して居る政治屋のセンセイ方こそ日々「いじめ」と「いじめられ」を繰り返し、暇さえ有れば”足の引っ張り合い”をして居る連中だ、と理解すれば人生なんて気楽なモンでっせ、何も考えず先ず飯を食い為さい!、全国の「いじめられ」諸君、ブワッハッハッハッハ!!!

 ■結び − 前向きな目標を持つ
 又吼え、そして大笑いして仕舞いましたね。このページで何回か大なり小なりと書いて来ましたが、「いじめ」の影響をにするかに止(とど)めるか、それも生きることの一部です。何度も繰り返しますが、生きるということは純粋培養では無いですゾ。糞(くそ)を垂れるのも生きること、即ち
  生きるということは清濁美醜や矛盾と常に対峙しつつも前進すること
です。その為には前向きな目標を持つ、それ以外に有りません。
 の話が出たので、最後にウンコボーイに登場願いましょう(→写真をクリックすると拡大版が出現します、臭ぁ〜!)。この写真を見たウンコボーイの母親はアッケラカンと大笑いして居ましたが、笑う人には「いじめ」「いじめられ」は無縁なのです。昔の人が言った「笑う門には福来たる」の諺が改めて思い出されますね。
 それでは、これにてケツ礼、いや失礼!!
                ウンコボーイです、こんな格好で失礼します。

 尚、[「自己責任型社会」への脱皮]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:セクシャル・ハラスメント(sexual harassment)とは、性的に人間性を傷付けること。特に、職場などで女性を不快・苦痛な状態に追い込み、人間の尊厳を奪う、性的な言葉や行為。セクハラ

※2:村八分(むらはちぶ、ostracism)とは、[1].江戸時代以降、村民に規約違反などの行為が有った時、全村が申し合わせに拠り、その家との交際や取引などを断つ私的制裁
 [2].転じて、一般に仲間外れにすることにも言う。
※2−1:村(むら、village)とは、(ムラ(群)と同源)。[1].多数の人が群がり住んで居る所。村落。
 [2].地方公共団体の一。そん。
※2−2:八分(はちぶ)とは、この場合、(「撥撫(はつむ)」の転か。多く「―する」の形で用いる)嫌って除け者にすること。仲間から外すこと。風来六部集「残口がむだがきを―せんとするにはあらず」。
※2−3:撥撫/撥無(はつむ)とは、〔仏〕払い除けて信じないこと。排斥すること。「因果―」。

※3:付和雷同/附和雷同(ふわらいどう、following others blindly)とは、自分に一定の見識が無く、唯他の説に理由も無く賛成すること。「多数派に―する」。

※4:自然淘汰(しぜんとうた、natural selection)とは、進化論の用語。或る種の個体群を構成する個体間で、或る形質を持つ個体がそれを持たない個体よりも多くの子孫を残すことが出来、しかもその形質が遺伝するなら、その形質が後の世代に一層広く伝わる様に成ること。この様な過程が集積することに依って適応的進化が生じたとするのを自然淘汰説と言う。ダーウィンが提唱。尚、現代では淘汰の単位として遺伝子や集団・種が想定されることも有る。自然選択。←→人為淘汰人為選択)。

※5:ストレス(stress)とは、この場合、[1].〔医〕種々の外部刺激が心の負担として働く時、心身に生ずる機能変化。ストレスの原因と成る要素(=ストレッサー)は寒暑・騒音・化学物質など物理化学的なもの、飢餓・感染・過労・睡眠不足など生物学的なもの、精神緊張・不安・恐怖・興奮など心理的・社会的なものなど、多様である。
 [2].俗に、精神的緊張を言う。「―が溜まる」。

※6:自閉症(じへいしょう、autism)とは、
 [1].自分だけの世界に閉じ籠もる内面優位の現実離脱を呈する病的精神状態。現実との生きた接触を失うもので精神分裂病の重要な症状の一
 [2].早期幼児期に発生する精神発達障害。対人関係に於ける孤立、言語発達の異常、特定の状態や物への固着などを示す。早期幼児自閉症。
※6−1:引き籠もり(ひきこもり、social withdrawal)とは、友人や家族との付き合いが出来ず、自室に閉じ籠もって仕舞うこと。不登校や学校中退が切っ掛けに成ることが多い。同世代からの置き去り感が強く、社会全体から見捨てられた様な気持ちに成る。親の愛情を確かめる為、時に親に過酷な要求をしたりする。都市部で人と深く付き合う機会が減ったことも原因とみられる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※6−2:鬱病(うつびょう、depression)とは、抑鬱気分・悲哀・絶望感・不安・焦燥・苦悶感などが有り、体調優れず精神活動が抑制され、しばしば自殺企図心気妄想を抱くなどの症状を呈する精神の病気。原因不明。躁鬱病の鬱病相の形を取るもの、周期性乃至は単相性鬱病の型のものなどが在る。
※6−3:潔癖症(けっぺきしょう、neat paranoiac)とは、強迫神経症の一種で、或る物事に過度の不潔感を感じ気が済まない、とか強迫感を覚える症状。自分の手を不潔に感じ何度も洗う、電車やバスの吊革を不潔に感じ掴めない、他人が箸を入れる鍋料理を食べられない、など。不潔恐怖症
※6−4:強迫神経症(きょうはくしんけいしょう、obsessive-compulsive neurosis)とは、不合理だと自分にも分かる観念や行為が自己の意思に反して現れ、これに不快な感情や強迫感を持つ一種の神経症。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6−5:症候群(しょうこうぐん、syndrome)とは、一群の多彩な症候で形成される纏まった病態。原因及び発生機序が同一であれば独立した疾患単位であるが、原因が多岐に亘るものも有る。転じて、病的傾向を意味する接尾辞としても用いる。ダウン症候群/ネフローゼ症候群など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※7:鍵っ子(かぎっこ、latchkey child)とは、共稼ぎ夫婦の子。両親が勤めに出て家に誰も居ず、何時も鍵を持ち歩いて居る為に付けられた名。

※8:常識(じょうしき、common sense)は、普通、一般人が持ち、又、持っているべき知識。専門的知識で無い一般的知識と共に理解力判断力思慮分別などを含む。「―の無い人」。

※9:母原病(ぼげんびょう、mother-pathogenic disease)とは、〔育児〕(「母親が原因の病気」から)母親の育て方が原因で、子供の心身形成・人間形成に歪みが出て来る文明病を言う。ミルク嫌い/喘息/アトピー性皮膚炎/習慣性腹痛/長期の下痢/言葉遅れ/登校拒否/家庭内暴力に至る迄、従来の治療法では治療し得ない症状だが、これらの原因は育児感覚を持たない親の育児方法に起因するとされる。特に子供との接触が多い母親が原因である場合が多いことから、この名が付けられた。<出典:「現代用語の基礎知識(1999年版)」>
 補足すると、「育児感覚を持たない親」は高度成長期以降の核家族化で急増しました。
※9−1:文明病(ぶんめいびょう、civilization disease)とは、[1].物質文明が極度に発達した結果として生ずる病症。現代病。
 [2].性病の俗称。

※10:親権者(しんけんしゃ、parental authority person)とは、親権を行う者。父母の婚姻中は父母が共に親権者と成るが、父母が離婚した時はその一方のみが親権者と成る。養子の親権者は養親が成る。
※10−1:親権(しんけん、parental authority)とは、未成年の子に対して父母が有する、監護・教育・財産の管理などの包括的な権限及び責務。

※11:保護者(ほごしゃ、guardian)とは、未成年者を保護する義務の有る者。
※11−1:保護(ほご、protection)とは、気を付けて護ること。庇うこと。ほうご。「迷子を―する」「野鳥―」「傷口の―」。
※11−2:保護者会(ほごしゃかい、guardian association)とは、学校の児童・生徒の保護者が、学校と家庭との連絡を図り、教育の効果をあげる為に行う会合。昔の父母会父兄会
※11−3:父兄(ふけい)とは、[1].父と兄。
 [2].parents, guardians。児童又は生徒の保護者。
※11−4:父兄会(ふけいかい、parents' association)とは、保護者会の旧称
※11−5:PTA/ピー・ティー・エー(Parent Teacher Association)とは、父母と教師の会。教育効果の向上、子供の幸福実現を目的とする。1897年アメリカで結成。日本では第二次大戦後設立。普通は学校単位に結成。

※12:家父長制(かふちょうせい、Patriarchalismus[独])とは、一家の長である家長がその家族員に対して絶対的な統率支配権を持つ家族形態。封建時代の家族形態はその典型。日本の民法旧規定では、戸主権を持つ戸主が家族を統率した。<出典:一部「最新日本語活用事典」より>
※12−1:家長(かちょう、head of a family)とは、一家の主。戸主。
※12−2:戸主(こしゅ)とは、〔法〕一家の首長で、戸主権を有し、家族を統轄しこれを扶養する義務を負う者。1947年、家の制度と共に廃止

※13:ウーマン・リブ(Women's Lib)は、(リブはliberationの略)女性に対する差別や不当な制約を無くそうとする女性の運動。女性解放運動1970年代アメリカに始まる。

※14:「キモイ」は、「気持ち悪い」の意味の略語。「クサイ」は「臭(くさ)い」の意味。

※15:小児病(しょうにびょう、children's diseases)とは、[1].小児に特に多い病気。ジフテリア・麻疹・水痘・百日咳・猩紅熱の類。
 [2].幼稚で極端な性向。「左翼―」。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『共同幻想論』(吉本隆明著、角川文庫)。

△2:『「甘え」の構造』(土居健郎著、弘文堂)。

△3:『母原病−母親が原因でふえる子どもの異常』(久徳重盛著、サンマーク文庫)。著者は「母原病」を「文明国型育児不能」と定義して居ます。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):「言葉の解放」は
当サイトのコンセプトの一つ▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
参照ページ(Reference-Page):ウンコボーイとは▼
ウンコボーイ(Unko-boy)
補完ページ(Complementary):「いじめ」についての掲示板の討論
(この議論が基に成っている)▼
偽善社会と「いじめ」(Hypocrisy and Bullying)
補完ページ(Complementary):前向きな生き方のすゝめ▼
(ストレスについてや社会の”甘やかし”批判)
私の健康論−不摂生は健康の母(My healthy life)
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