−− 2003.09.06 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2008.04.17 改訂
■はじめに − 知らずに親しみ、後で知った古関音楽の幅広さ
幼い頃、NHKラジオの野球番組で必ず流れたテーマ音楽(野球のみならずNHKのスポーツ番組のテーマ音楽に成っていた)と小西得郎という解説者があの名調子「まあ何と申しましょうか」という出出しで解説してたのを、子供乍らに耳から覚えて仕舞い、自分たちが草野球で遊んで居る時に「まあ何と申しましょうか」とか「打ちも打ったり、捕りも捕ったり」などと口真似して居たことを懐かしく思い出します。その時は何も知らなかったのですが、当時ラジオを聴いていて度々「コセキユウジ」という作曲家の名前を耳にしたことを覚えて居ます。多分ラジオドラマの「鐘の鳴る丘」の主題歌や『君の名は』とか高校野球の『栄冠は君に輝く』だったのでしょう。そして中学生位の時に、あのスポーツ番組のテーマ音楽も古関裕而の作曲だ、ということを知りました(今回このページを書く為の調査で、曲名は『スポーツ・ショー行進曲』だと解りました)。
そして1964年、東京オリンピック開会式で聴いた入場行進曲(=『オリンピック・マーチ』)です。この時はっきりと私は「古関裕而」という名前をリアルタイムで認識しました、アナウンサーが「古関裕而のマーチに乗って」と連呼して居ましたから。しかし私は迂闊にもその時点では古関裕而とは −あのスーザ(※1)と同じく− マーチ(=行進曲)の作曲家だと思い込んで居たのです。
そんな私の”思い込み”を打ち砕いたのが、10年位前やはりラジオ(多分NHK)で聴いた音丸の『船頭可愛や』でした。いやあ、ビックリしました、この”純”日本調の曲を、あの『オリンピック・マーチ』の古関裕而が作曲して居たとは!!
こんな事は古関裕而と同世代の人や彼にちょっと詳しい人なら”当たり前”のことなのでしょうが、私には全く青天の霹靂、目から鱗、”ドタマ”ガーン、の衝撃でした。それ以来私は、”全く違う範疇の曲を作曲する”古関裕而という作曲家に興味を持っていたのです。
皆さん、あの伊藤久男が歌った『イヨマンテの夜』や藤山一郎が歌った『長崎の鐘』、更には何と阪神タイガースの応援歌である通称『六甲おろし』(正式名称は後で説明します)もみんな古関裕而の作曲だ、ということをご存知ですか?
(-_*)
ほぼ同世代に古賀政男(※2)と服部良一(※3)という、やはり日本人に大変親しまれた作曲家が居て、艶歌(演歌)の古賀、ブルースの服部、マーチの古関とそれぞれが特徴を発揮して居ます。しかし古関裕而にはほぼ有らゆるジャンルの曲を書いた幅広さが有り、古賀メロディーや服部良一とは違った意味で一時代を画した音楽である、という想いから古関裕而を当サイトで取り上げようと思い立った次第です。
と言っても生涯に5,000曲以上作曲したという彼の作品を網羅的に取り上げることは私の領分では無いし、却って焦点がボケて仕舞いますので、私の経験と交叉した幾つかの曲をピックアップし特に古賀政男と対比させ乍ら、私の切り口で話を進めて行きます。以下はそんな私の言わば”変奏曲風考察”ですが、そう名付けた理由は最後に述べます。
尚、このページは古関裕而の生まれ故郷・福島県に設立された「古関裕而記念館」のご協力を得て作成しました。この記念館の公式サイトは未だ有りませんので末尾に「古関裕而記念館の概要」を付します(→「その後」の章を参照)。以下の本文や「古関裕而の略年譜」は「記念館」から送られたパンフレット(△1)を参考にして居ます。
古関裕而の故郷である▼福島市の地図▼は下をどうぞ。
地図−日本・福島県(Map of Fukushima prefecture, -Japan-)
{この章は03年11月3日に最終更新}
■『船頭可愛や』と『オリンピック・マーチ』
”青天の霹靂”の『船頭可愛や』(作詞:高橋掬太郎)は1935(昭和10)年に発売され彼の出世作に成った曲だったのですね、今回の調査で彼の作曲歴を知る迄はもっと後期の作品だと思って居ましたが。この曲には日本髪と和服の江戸時代に、料亭のお座敷で歌われた小唄の様な”粋でしっとり”とした趣が有り、昔は卑賤な職業と見られて居た船頭を”可愛い”と歌っている部分が、何とも言えず面白いですね。しかも最近のボキャブラリー不足のギャル達が何にでも”カワイー”と連発して居る姿とダブって来るので、”可愛い”という表現がとても現代的に聞こえて来ます。
これに対し古賀メロディーも日本の伝統的な俗謡の音階を引き継いで成り立って居ます(△2)が、飽く迄明治以降の川上音二郎(※4)に代表される自由民権運動の壮士節に始まったとされる演歌(或いは艶歌)(※5)や浪花節(※6)の延長線上に在り、古賀メロディーには江戸時代に遡る趣のものは有りません。ここが江戸時代の古歌謡の趣を色濃く持つ『船頭可愛や』の特筆すべき特徴だと私は思います。
一方『オリンピック・マーチ』は皆さんも良くご存知だと思います。まあ、日本のマーチの中では『軍艦マーチ』(別名:パチンコマーチ、※7)が最も有名ですが、しかし『オリンピック・マーチ』は構成と言い減り張りの効いたメロディーと言い、世界の数在るマーチと比べても遜色無い名曲だと私は思います。技術的には飽く迄洋楽の語法と和声で作られて居て、オーケストレーションも厚みが有り、そして表現は飽く迄明るく晴れやかです。私はこの『オリンピック・マーチ』こそ日本の”戦後”からの脱却、そして高度経済成長時代の象徴であり、古関音楽の頂点を示す作品だと思いますね。
それ故に『船頭可愛や』は、『オリンピック・マーチ』と非常に際立ったコントラストを成す作品であり、2つの全く異質の曲を書いた古関裕而という作曲家に私は興味を引かれるのです。
■作風の幅広さ − 多彩な古関音楽と固定的な古賀メロディー
(1)幅広さの難しさ
作風の幅広さの例としてモーツァルトとベートーヴェンを比べてみましょう。この2人については皆さん誰でもご存知でしょう。ほぼ同時代(モーツァルトの方が15年程早く生まれた)に共にウィーンで活躍したこの2人は色々な意味で良く比較されますが、曲風の幅の広さで見るとモーツァルトに軍配が上がります。それはオペラです。モーツァルトは『フィガロの結婚』、『魔笛』、『ドン・ジョヴァンニ』、『後宮からの誘拐』、『コジ・ファン・トゥッテ』などのオペラの名曲を幾つも書いているのに対し、ベートーヴェンはオペラを書けなかったのです。唯1曲『フィデリオ』が在りますが、私に言わせれば『フィデリオ』は完全に失敗作であり、駄作です。私だけで無く全く面白く無いので余り上演されて居ませんし、恐らくベートーヴェンが書いたので無ければこの曲は疾っくに消え去っている曲です。オペラの様な世俗的でコケティッシュな曲は、ベートーヴェンは書こうとしたが”書けなかった”のです。つまり不得意ということですね。
他の作曲家を調べてみるとより鮮明に成ります。つまり交響曲を得意とした作曲家のオペラ成功作はハイドン(2曲:上演機会少)、ブラームス(0)、ドボルザーク(0)、チャイコフスキー(1)などです。一方オペラを得意とした作曲家の交響曲成功作はウェーバー(0)、ワーグナー(0)、ヴェルディ(0)、プッチーニ(0)、ロッシーニ(0)などです。唯一モーツァルトのみが41曲の交響曲と20曲余りのオペラ(前述の曲を含め7、8曲は常時上演されて居る)を書き両分野で成功して居るのです。チャイコフスキーの場合はオペラよりもバレエ音楽で成功して居ます。
この数字を見ると名立たる大作曲家にして交響曲とオペラの両方で成功して居るのはモーツァルト唯一人と断言しても良さそうです。交響曲とオペラがどの程度「異質」なのかは私には測り兼ねますが、この様に1人の作曲家が異質な曲を書き両方で成功するのは難しい事なのです。
(2)古賀政男との対比
古関音楽を考える時、同世代の古賀政男と比較してみることは有益です。作風の幅という点から見ると2人の違いは際立って居ます。即ち古賀政男が飽く迄明治以降の艶歌や浪花節の延長線上で作曲をし、比較的単色で固定的な古賀メロディーを定着させたのに対し、古関裕而は江戸時代の古歌謡の旋律から西洋的な近代音楽迄の多彩な色合いを呈し、依頼者の求めに応じ軍歌や翼賛歌・応援歌・社歌・校歌・行進曲(=マーチ)・童謡・主題曲・劇中音楽・歌曲風歌謡曲から小唄風の曲迄と広範囲に作編曲したのです。そういう意味で、国民歌謡と呼ばれる古賀政男に対し、古関裕而は”NHKや業界の便利屋”的に見られる傾向も有ります。
[ちょっと一言] 余談ですが、私が解明した古賀メロディーの秘密を指摘して置きましょう。日本に於いては3拍子の曲は元々は無く明治以降の洋楽導入に因るもので、従って日本人は3拍子を作るのも歌うのもヘタだと言われて居ます。ところが『影を慕いて』、『人生の並木路』、『悲しい酒』、『人生劇場』、『男の純情』、『新妻鏡』(△3)など、古賀メロディーで良く親しまれて居る曲は何れも3拍子なのです、勿論『ゲイシャワルツ』は3拍子のワルツですが(※8)。
ところが私は08年4月8日に福岡県大川市大字三丸(旧:三潴(みつま)郡田口村)の古賀政男の生地を訪ねました。そこは現在は古賀政男記念館・生家として整備され往時が偲べる物が色々展示されて居ます。そして後で調べてみたら意外と簡単に古賀メロディーの秘密を解き明かすことが出来ました。それについては
地図−日本・柳川/大川/佐賀(Map of Yanagawa, Okawa and Saga, Fukuoka and Saga -Japan-)
古賀メロディーの秘密(Secret in Koga melody)
を是非ご覧下さい。これを読まないと損をしまっせ!!
{この「古賀メロディーの秘密」を解き明かした記事については08年4月17日に追加}
■古関音楽の幅広さの秘密 − 「老舗の家」での和楽と洋楽
では何故、古関裕而には両対極に在る『船頭可愛や』と『オリンピック・マーチ』を作曲出来たのか?、この疑問を解明する必要が有ります。
明治の近代以降日本は”洋風”を摂り入れて行ったので、音楽的才能は多くの場合洋楽の方に発揮されて行くのが通常です。これは滝廉太郎(※9)や山田耕筰(※10)を見れば明かです。古賀政男に於いてすら前述の様に日本の古歌謡に迄遡る作風の曲は無く、明治以降に流行った艶歌や浪花節の延長線上で作曲したのです。
ですから古関音楽に対する疑問の中心課題はマーチよりも、小唄の様な”粋でしっとり”とした趣の『船頭可愛や』を最初のヒット曲としてスラスラ作曲出来たのは何故か?、という問いに集約されます。
この問題の答えは彼の生い立ち、特に幼い頃の音楽環境に在ります。以下この章では『古関裕而物語−こせきゆうじものがたり−』(齋藤秀隆著:△4)や齋藤秀隆氏のサイト(→最下行の関連リンクからご覧下さい)、CDの解説(△5)を参考に考察を進めて行きます。
彼の生まれた大町は福島市中心街のどド真ん中で、生家の呉服屋「喜多三(きたさん)」は番頭から小僧迄10数人が家に居たという相当な店だった様です。
→ 福島市の地図を参照する(Open the map)
その家で彼は「箱入り息子」的に大事に育てられ、家に在った昔のラッパ付きの蓄音機で店員らと毎晩の様にレコードを聴いて育ったのですが、このレコードの構成が父親の趣味で、長唄や義太夫や琵琶歌などが中心で、他に小学唱歌や陸海軍楽隊の演奏物ということです。更に叔母(=父の妹)からは宝生流の謡曲や踊りを習わされたそうです。
私はこれらの事が彼の音楽の幅広さに決定的な影響を与えたのだと思います。つまり
長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲 → 日本の古歌謡を中心とした和楽
→ 『船頭可愛や』に結実
小学唱歌や陸海軍楽隊の演奏 → マーチ(行進曲)を中心とした洋楽
→ 『オリンピック・マーチ』に結実
若い時にクラシック音楽を独学 → 和洋を総合する音楽テクニック
という構図です。従って今日の通常の音楽環境ならば『船頭可愛や』の様な小唄風の音楽はわざわざ和楽を勉強しないと書けないのですが、小学校に上がる前から日本の古歌謡が言わば”体に染み付いて”いた彼には26歳の若さで『船頭可愛や』を”極当たり前にスラスラ書けて仕舞った”のです。これが「古関裕而音楽の幅広さ」の答えで、それは「老舗の家」の家庭環境に負う所が大です。彼の音楽にはこの「和楽」と「洋楽」の両要素が色々な割合で”隠し味”として調合され幅広さが形成されるのです。
■音楽家に成る迄 − 実家の倒産が幸い
成長期について言うと、彼はすんなりと音楽家に成った訳ではありません。彼の父は彼に家業を継がせる積もりで、小学校の時から週に1日は必ず着物に前掛けを付けて店に座らせたのです、これは彼にとって”泣きたい位”イヤな事の様でしたが。ですから小学校を卒業すると福島商業学校(略称:福商)に入学させられ「算盤(そろばん)」の勉強をさせられたのです。しかし音楽への情熱は募るばかりで白秋や露風や『万葉集』の和歌などに作曲を続けて居ました。
ところが福商在学中、元号が昭和に替わる頃から打ち続く不況と銀行のパニックに逢い、1926(昭和1)年に家業は廃業に追い込まれ、大町の通りから静かな新町に移転し「質屋と京染の取り次ぎ」に転業したのでした。しかし家の不幸が彼の才能には幸いしました。この後彼は福島のハーモニカのバンドに入会し、バンドの演奏する曲の作曲や編曲(後にはバンドと共に仙台の放送局の番組にも出演)をして居ます。
1928(昭和3)年に福商を卒業し川俣の伯父に誘われ川俣銀行に入社しましたが、卒業アルバムの寄せ書きに「末は音楽家だよ」と胸の内を記して居た通り(△1)、翌1929年には『組曲「竹取物語」』他4曲をロンドンのクラシック畑の作曲コンクールに応募し、世界の作曲者の中で2位入選を果たして居ます。
そして銀行に入って2年目の1930(昭和5)年に成って一大転機が訪れました。一つは結婚、そしてもう一つが音楽家としての道が開けたことです。彼は山田耕筰著の作曲法の本でクラシック音楽を独学で勉強し作曲した曲を山田耕筰に送り添削を受けていたのが縁で、山田耕筰の推薦も有り日本コロムビア(株)の作曲家として専属に成りました。尚、これは殆ど知られて無いことですが、彼はこの頃迄に交響曲/ヴァイオリン協奏曲/ピアノ協奏曲/交響短詩などの習作を作曲していて、これが後の「古関裕而音楽の幅広さ」の基礎に成って居ます。
この様な幾つかの紆余曲折の後やっと”算盤(そろばん)を鍵盤(けんばん)に持ち替える”ことが出来たのです。
(-_*)
さてもう一つ序でに、『船頭可愛や』を歌った音丸について少し触れて置きましょう。この歌を聴き音丸という名前から、誰でも最初この歌手は当時持て囃されて居た「芸者歌手」だと思うでしょう、私もそう思いましたね。しかし違います。この人は東京麻布の下駄屋の娘で、”おかみさん”をし乍ら歌が好きで民謡を習ったりして居た所をスカウトされた「素人上がりの歌手」なのです。この事を私はラジオで2、3年前に知ったのでした。しかし「♪エ〜〜ー 船頭可愛いーや 波ーまくらー♪」と引っ張って歌う所が実に決まってますねえ、私は10年位前初めてこの歌を聴いた時以来すっかり音丸ファンに成りました。現在品川の天妙国寺には音丸の墓や直筆の「船頭可愛や」歌碑が在ります。
■『イヨマンテの夜』
この曲(作詞:菊田一夫)を子供の頃、最初に聴いた時は”魂消げました”ね、伊藤久男があの張りの有る声を一杯に張り上げて「イーヨマンテーーー」と歌うんですから。初めは何を歌っているのかの意味も解らずに、伴奏の「ドンドンドッド」という太鼓のリズムに、当時流行っていたターザン(=ジャングルの勇者)ごっこやインディアンごっこを連想して、てっきりターザンかインディアンの歌だと思い込み、遊び乍ら「イーヨマンテーーー」なんて叫んで居ましたよ。
「イヨマンテ」がアイヌの熊祭のことだと解ったのはそれから2、3年後のことで、今回調べる迄は古関裕而の作曲だとは全然知りませんでした。そういう”知識”は全く無かったのですが、これ程最初の印象が強烈だった曲も他に有りません。
この曲には何か”野性的雰囲気”が溢れて居て、やはり大変名曲だと思いますね。今の歌謡界でこういう曲を作曲出来る人は居ないのではないか?、そして今の歌謡界でこういう曲を歌える人も居ないのではないか?、と思いますね。一度聴いたら忘れられない個性と圧倒感が曲に在ります。
私の知り合いで、カラオケでこの曲を歌う人が居るんですが、調子っ外(ぱず)れで聴くに耐えないですね、やはり声楽をちゃんと身に付けた上手な人が歌わないとメロメロに成る曲です。
■『長崎の鐘』
この曲(作詞:サトウハチロー)が古関裕而の作品だということはラジオかテレビで随分前から知って居ました。その時は、へえ彼も歌謡曲書くんだ、位に思って居ました。
これも名曲ですね。藤山一郎が実に朗々と歌うこの曲には、作曲者自身の思い入れも深い様で、作曲に纏わる秘話も色々と有る様です。初めは短調(モール)の旋律で始まり途中で長調(ドゥア)に転じる所が実に小粋で、丘の上に登り詰めて急に視界が開けた時の様な感じがします。歌謡曲ですが所謂艶歌では無く、洋楽の歌曲の方法で作られて居て、今日の歌謡界の和製洋楽が薄っぺらなリズム偏重と言葉の抑揚を無視した節付けにハマっているのとは大違いで、気品が有ります。歌詞とメロディーが無理無く融合し、言葉の抑揚がその儘メロディーに生きて居ます。
こんな事は作曲の基本なのですが、ここで私が強調しなければ為らない程、今日は本末転倒の状況です。何時だったか(多分1年位前に)、あのリンボー(林望)氏が「歌詞はプロの詩人が作らなければダメだ」という様な事をラジオで言って居ましたが、私も或る程度同感ですね。そういう逆転した方法論が目新しく流行りなのかも知れませんが、”流行るものはやがて廃れる”のです。そこへ行くとこの『長崎の鐘』は廃れないですね、今でも良くラジオで耳にします。
消耗品としての音楽が幾ら量産されて居るからと言っても、その量だけで音楽文化が豊かだとは決して言えませんよ。問題は「質」、『長崎の鐘』の様に何時迄も人の心に残り歌い継がれて行く様な曲、時間の淘汰に耐えられる曲がどれだけ人々に浸透して居るか、そこをバロメーターにしなければ行けません。今街に溢れて居る音楽は車の騒音と交じり合い、ノイズと化して居ます。そういう意味で今日の音楽状況がモーツァルトの時代より進歩して居る、豊かだとは私には決して思えないのです。
■『六甲おろし』と『栄冠は君に輝く』
『六甲おろし』(作詞:佐藤惣之助)が古関裕而の作曲だと知ったのは前回阪神タイガースが優勝した時の夏、つまり1985年ですね。『オリンピック・マーチ』の古関裕而が書いてるのだぞ!、と少し鼻が高い感じがしましたね。今やこの曲を知らない人は少ないと思いますが、しかし作曲者を知っている人は少ないですね。
しかも今回の調査で、彼は他にも『巨人軍の歌』とか『中日ドラゴンズの歌』とか『東映フライヤーズの歌』なんかも書いているんですね、しかしこれらは全く聴いた事が有りません(聴きたくも有りませんが!)。彼は結構野球が好きだった様で、日本コロムビア(株)に入社当初発表した『紺碧の空』も、野球の早慶戦用の応援歌として書かれて居ます。それで今回聴いてみたら、この曲の調子は『六甲おろし』を彷彿とさせる感じです、しかし曲の出来はイマイチです。
ところで『六甲おろし』の歌詞、読めない漢字ばかりでめっちゃ難しいと思いませんか?、それもその筈、この曲が出来たのはあの2.26事件が起きた1936(昭和11)年なのです。当時阪神タイガースは大阪タイガース(※11)と呼ばれて居たので、元々のこの歌の正式名称は『大阪タイガースの歌』でした。その後1961年に球団名が阪神に変わったので今は『阪神タイガースの歌』と言います。でも一般には歌詞から採られた『六甲おろし(六甲颪)』という通称の方が有名に成って居ますね。
プロ野球は何と言っても現在の日本では国民的に最も親しまれて居るスポーツです。そのプロ野球の連盟が「日本職業野球連盟」という名で創設されたのが1936(昭和11)年2月5日で、同年からリーグ戦がスタートして居ます。『六甲おろし』は日本のプロ野球の試合がスタートした年に他に先駆けて誕生した最も”由緒”有る応援歌なのだ、ということをこの際皆さんに是非知って置いて戴きたいですね。しかも純和風の『船頭可愛や』の翌年に書かれて居る点が、正に「古関裕而音楽の幅広さ」なのです。
さて阪神タイガースと言えば甲子園、甲子園と言えば高校野球、ということで「♪雲は〜わき 光あふれてー...♪」という高校野球の大会歌は皆さんも良くご存知のことでしょう。この曲も野球好きの古関裕而の作曲で『栄冠は君に輝く』(作詞:加賀大介)という題です。
私は今、古関裕而の秘密を解き明かしましたよ。彼には甲子園と非常に相性が良いという”勝利の方程式”が有ったのです!!(※12)
ところで皆さんの中には『六甲おろし』を歌いたく成った方が居るのではないですか?、いやあ結構結構、下に歌詞と音楽▼を用意して在りますので大いに歌って下さい、アッハッハッハ!!
→ 「六甲おろし」を歌う(Let's sing the Rokko-Oroshi)
{この章は03年12月25日に最終更新}
■古関音楽と”鐘”について
最後に古関音楽と”鐘”の関係について述べましょう。前述の『長崎の鐘』の他にも『鐘は鳴る』、『フランチェスカの鐘』、『ニコライの鐘』、『希望の鐘』、『サン・マルコの鐘』、『青春の鐘』など、題名に”鐘”が付く曲が多いのにお気付きでしょう。これはやはり戦後直ぐ始まったNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌『とんがり帽子』(作詞:菊田一夫)の大ヒットがその後の方向付けに大きく影響したからでしょう。この曲は題名にこそ”鐘”の字は付いて居ませんが、何しろ「鐘の鳴る丘」の主題歌であり歌の中に「♪鐘が鳴りますキンコンカ〜ン♪」と、とても印象的なフレーズが何回も出て来るからです。これに依って制作側と受け手側に”古関裕而と言えば鐘”という暗黙の了解が成り立って仕舞った様に思います。
冒頭に私は「古関裕而とはマーチ(=行進曲)の作曲家だと思い込んで居た」と述べましたが、それには実は『スポーツ・ショー行進曲』や『栄冠は君に輝く』だけで無くこの『とんがり帽子』の影響も大きかったのです。それはこの曲が童謡調で明るい2拍子のマーチ風の曲だったからです。
■結び − 古関裕而記念館について
以上で[「船頭可愛や」から「六甲おろし」迄]という副題で、作曲家・古関裕而が色々なスタイルの曲を幅広く作曲して来たという私の主張の論拠を示し得たと考えて居ます。この考えを「はじめに」の章で”変奏曲風考察”と言いましたが、ここでその理由を明かしましょう。
変奏曲とは1つの主題に続いて、その旋律・和声・リズム・性格などを様々に変化・展開させた幾段かを接続して構成した楽曲のことですが、マーチで始まった話は途中色々と変化し展開して行きましたが最後に再びマーチに戻って(=回帰して)終わりました。回帰は一つの円環を閉じるのに似て予定調和的ですが、円環的変奏曲の典型例としてはJ.S.バッハの「ゴールドベルク変奏曲」を挙げることが出来ます。その様な意味合いで私は”変奏曲風考察”と呼んでみた訳です。
振り返ると私の思い込み通り、彼が単にマーチだけの作曲家で在ったならば、私はこの論考を書くことは決して無かったと思います。それを書かせたのは音丸の『船頭可愛や』です。この曲を未だ聴いて無い方は是非一度聴いてみて下さい!
(*_@)
終わるに際して、「はじめに」の章にも記しましたがこのページ作成にご協力を戴いた「古関裕而記念館」に感謝します。
{この章は03年12月25日に一部加筆し最終更新}
古関裕而記念館(YUJI KOSEKI MEMORIAL HALL)の概要
設立 :1988(昭和63)年
住所 :〒960-8117 福島県福島市入江町1番1号
最下行の関連リンクから「記念館」の公式サイトを直接ご覧下さい!
古関裕而の略年譜(Career of Yuji Koseki):1909〜1989
1909(明治42)年:福島市大町に生まれる、本名は勇治。生家は呉服屋。
1916(大正 5)年:福島県師範付属小学校に入学。
1919(大正 8)年:卓上ピアノで唱歌や童謡の作曲を始める。
1922(大正11)年:福島商業学校入学。本格的に作曲・編曲を始める。
1926(昭和 1)年:不況で家業が廃業。福島ハーモニカ・ソサエティに入る。
1927(昭和 2)年:ペンネームを「裕而」とする。
1928(昭和 3)年:福商を卒業。伯父に誘われ川俣銀行に入社。
1929(昭和 4)年:『組曲「竹取物語」』ロンドンの作曲コンクール2位入選。
1930(昭和 5)年:6月内山金子(きんこ)と結婚。
9月上京し日本コロムビア(株)の専属作曲家に成る。
1931(昭和 6)年:最初の作品『福島行進曲』、『福島夜曲』を発売。
早大応援歌『紺碧の空』作曲。
1935(昭和10)年:『船頭可愛や』作曲、初ヒットと成る。
1936(昭和11)年:『大阪タイガースの歌』(通称『六甲おろし』)を作曲。
(同年に「日本職業野球連盟」発足、プロ野球スタート)
1937(昭和12)年:『露営の歌』作曲。
1938(昭和13)年:中支従軍。
1940(昭和15)年:『暁に祈る』作曲。
1942(昭和17)年:南方慰問団派遣員と成る。
1947(昭和22)年:ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌『とんがり帽子』作曲。
1948(昭和23)年:『フランチェスカの鐘』作曲。
1949(昭和24)年:『長崎の鐘』、『スポーツ・ショー行進曲』、
『栄冠は君に輝く』作曲。
1950(昭和25)年:『イヨマンテの夜』作曲。
1952(昭和27)年:『君の名は』、『黒百合の歌』作曲。
1953(昭和28)年:NHK放送文化賞受賞。
1954(昭和29)年:『高原列車は行く』作曲。
1957(昭和32)年:母校・福島商業学校の新校歌『若きこころ』作曲。
1964(昭和39)年:東京オリンピック行進曲『オリンピック・マーチ』作曲。
1969(昭和44)年:紫綬褒章受章。
1972(昭和47)年:札幌冬季オリンピック歌『純白の大地』作曲。
1979(昭和54)年:福島市名誉市民第1号と成る。勲三等瑞宝章受章。
1986(昭和61)年:作曲生活から引退。
1988(昭和63)年:11月、福島市入江町に「古関裕而記念館」開館。
1989(平成 1)年:8月18日逝去。生涯の作曲数は5,000曲以上。
従五位に叙せられる。
○故郷福島の曲:『福島行進曲』、『福島夜曲』、『福島音頭』、
『ふくしま小唄』、『福島ブルース』、『福島わらじ音頭』、
福商校歌『若きこころ』、『福商修錬隊歌』、『福商青春歌』、
『福島高商校歌』など
<以上は主に【参考文献】△1に拠り、一部筆者が加筆>
>>>■その後
「古関裕而記念館」の公式サイトが06年頃に開設されましたので「古関裕而記念館の概要」の内容は削除しました。「古関裕而記念館」の沿革や催しの情報を知りたい方は最下行の関連リンクから「記念館」の公式サイトを直接ご覧下さい。
{この記事は07年8月4日に追加}
【脚注】
※1:John Philip Sousa。アメリカの作曲家・吹奏楽指揮者(1854〜1932)。ワシントンの米国海兵隊の楽長に成り「ワシントン・ポスト」、「仕官候補生」などを作曲。その後退職し「スーザ吹奏楽団」を組織し、他に「星条旗よ永遠なれ」など数多くの行進曲やオペレッタを作り、「行進曲王」と呼ばれた。
彼の名前は又、チューバを改良した楽器「スーザ・フォーン」に依っても知られて居る。
※2:作曲家(1904〜1978)。福岡県生れ。「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「人生劇場」「湯の町エレジー」「哀しい酒」「柔」など多くの歌謡曲を作曲。哀調を帯びた古賀メロディーで知られる。1978年国民栄誉賞。又、明治大学マンドリン倶楽部を超一流の学生バンドに育てたことでも知られる。
※3:作曲家(1907〜1993)。大阪市の生まれ。日本の歌謡曲にジャズやブルースの要素を摂り入れた。「山寺の和尚さん」「別れのブルース」「蘇州夜曲」「湖畔の宿」「青い山脈」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」など、他に交響曲や協奏曲も書く。1993年国民栄誉賞。
※4:明治時代の俳優(1864〜1911)。新演劇の祖。博多生れ。浮世亭〇〇(マルマル)の名で寄席に出、オッペケペ節で人気を博し、1890年(明治23)壮士芝居を結成して上京、歌舞伎に対して新演劇を興した。妻貞奴と日本演劇界初の海外公演を行い、正劇と称して西欧の翻訳劇を紹介。又、東京に川上座、大阪に帝国座を建設(洋風劇場の初め)。
※5:演歌・艶歌(えんか)とは、[1].明治・大正時代の流行歌で、演歌師が独特の節回しで歌ったもの。自由民権運動の壮士たちが演説の替わりに歌った壮士節に始まったものを厳密な意味で「演歌」と書く。
[2].後の昭和初期頃に政治から離れて主題も人情物に移り、大道演芸化して「艶歌」と称する様に成った。
[3].戦後に成って、哀調を帯びた日本的メロディーと小節(こぶし)の効いた唱法を特色とする現代歌謡曲の一種を「演歌又は艶歌」と総称する様に成った。
以上の様な意味から、私は[1]を「演歌」、[2][3]を「艶歌」と呼び、又、人生の怨みつらみを歌う「怨歌」と呼ぶに相応しい歌も数多いと考えて居ます。
※6:多く軍書・講釈・物語・演劇・文芸作品を材料とし、節調を加えた語り物。三味線の伴奏で独演する。元は説経祭文から転化したもので、初めは、浮かれ節・ちょぼくれ・ちょんがれ節などと呼ばれた。江戸末期に大坂から始まり、浪花伊助を祖と伝えるが、盛んに成ったのは明治以後で、桃中軒雲右衛門の功が大きい。浪曲。
※7:行進曲名。鳥山啓作詞・瀬戸口藤吉作曲の軍歌「軍艦」(1897年作)を、1900年、瀬戸口が更に行進曲に編曲したもの。
出玉を誘い客の回転を早める効果が有るのか、今では多くのパチンコ店で演奏されるので「パチンコ・マーチ」で充分通用。
※8:私は古賀メロディーに隠された3拍子には、韓国・朝鮮の民謡や歌謡の3拍子の影響が有ると思って居ます。「アリランの歌」に見られる様に朝鮮族の民謡や歌謡には3拍子の曲が意外と多いのです。古賀政男は福岡の生まれで、ここは玄海灘に面して居て古代より半島の影響が大きい所なのです。
※9:ピアノ奏者・作曲家(1879〜1903)。東京生れ。父の任地大分県竹田などに住む。東京音楽学校卒。1901年(明治34)「中学唱歌」の作曲募集に「荒城の月」「箱根八里」などが当選。同年ライプツィヒ音楽院に留学、病を得て帰国。歌曲集「四季」(「花」を収める)など。
※10:作曲家・指揮者(1886〜1965)。東京生れ。東京音楽学校卒。ベルリンに留学。帰国後、交響曲・交響詩を発表。又、日本の交響楽団の基礎を作り、音楽界の指導者として活躍。作は楽劇「堕ちたる天女」、歌劇「黒船」の他、歌曲「からたちの花」「この道」、童謡「赤とんぼ」など。文化勲章。
※11:タイガースは、ライオンズとかバファローズなどと同じニックネームで、当時の正式な球団名は「大阪野球倶楽部」でした。
※12:古関裕而は、数多くの学校に校歌を書いて居ますが、2003年時点でその内11校が甲子園の夏の大会に出場、内2校(取手第二高、四日市高)が優勝して居ます。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:古関裕而記念館パンフレット「鐘よ鳴り響け」。
△2:『俗楽旋律考』(上原六四郎著、岩波文庫)。
△3:『古賀政男大正琴愛奏曲集』(古賀政男編著、全音楽譜出版社)。古賀政男は大正琴が得意で、その普及に功績が有った。
△4:『古関裕而物語−こせきゆうじものがたり−』(齋藤秀隆著、歴史春秋出版)。
因みに著者は福島生まれで古関裕而と同窓の福島商業高等学校の卒業生です。
△5:CD『作曲家研究名作選−古関裕而』の解説(清水英雄氏)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):福島市
(古関裕而の故郷と「古関裕而記念館」)の地図▼
地図−日本・福島県(Map of Fukushima prefecture, -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):福岡県大川市大字三丸
(古賀政男記念館・生家)の地図▼
地図−日本・柳川/大川/佐賀
(Map of Yanagawa, Okawa and Saga, Fukuoka and Saga -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):日本の音階について▼
資料−音楽学の用語集(Glossary of Musicology)
@参照ページ(Reference-Page):「六甲おろし」の歌詞と由緒▼
エルニーニョの「六甲おろし(六甲颪)」(The Rokko-Oroshi)
@補完ページ(Complementary):古賀メロディーの秘密とは▼
古賀メロディーの秘密(Secret in Koga melody)
『オリンピック・マーチ』で始まった東京オリンピック▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
与謝野晶子に於ける「老舗の家」の家庭教育の例▼
阪堺電車沿線の風景−堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
「古関裕而記念館」公式サイトや
『古関裕而物語−こせきゆうじものがたり−』の著者のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')