§.2005年・年頭所感−幸せ保存の法則
[自然界を貫く「悪の論理」
(Law of conservation of HAPPINESS, 2005 beginning)

−− 2005.01.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2009.10.20 改訂

 ■はじめに − 「幸せ」について
 今年も又々正月が遣って来ました。昨年の年頭所感では確か「連続と節目」という観点から、DNAの意味深な構造が暦や人生の位相の回帰や、人間社会の”捻じれ”、即ち柵(しがらみ)や業(ごう)を表して居る様に思えることを述べました。正月も回帰の一つとして取り上げましたが、余りお正月向けの話題では無かったかも知れません。
 今年は新年に誰もが祈願する「幸せ」について私見を述べましょう。これは真正面からお正月向きの話題です。果たしてお目出度い結論に成りますかどうか?、ムッフッフ!

 ■「しあわせ」の意味と”幸せ感”
 ところで「しあわせ」と言った場合、広辞苑を引くと「しあわせ」という音(おん)には実は「仕合わせ」「幸せ」の2つの漢字で表現される言葉が有ります。

 1.仕合わせ
  [1].巡り合わせ。機会。天運。
   伊曾保物語「こは―わろきことかな」。「ありがたき―」。
  [2].成り行き。始末。
   好色一代男4「その科のがれず、つひには捕へられて、この―」。
  [3].(「幸せ」とも書く) 幸福。好運。さいわい。又、運が向くこと。
   狂言の末広がり「―というて、身についた―ではおりない」。
   話し言葉に「―な気分」「末永くお―に」。
 2.幸せ
  「仕合わせ」の[3]の意味。

 この様に元来は若干のニュアンスの相違が有りますが、現在ではこの違いは余り意識されず、運や結果オーライの成り行きが良いのも、競馬で当てたのも、素敵な貴方(又は貴女)に会えたのも、皆「幸せ」と認識されて居ます。そして新年の願掛けに今年の「幸せ」や「幸運」を祈願する為に上の全ての意味に更にプラスアルファして祈ったりします。この様に大変広い意味で漠然と用いられる「しあわせ(仕合わせ、幸せ)」という”概念”或いは”感じ” −つまり”幸せ感(=幸福感)”− を、ここでは通俗をその儘受け入れて「幸せ」或いは「幸福」と呼ぶことにします。
 しかし今年の年頭所感として「幸せとは何ぞや?」という話をする気は毛頭有りません。唯言えることは、「幸せとは何ぞや?」を論じられる人は「幸せ」な状態の人たちだ、ということです。「不幸せ」な人や自分を「不幸せ」と思い込んでる人が「幸せ」を言う際には、「自分に何故幸せが来ないのか?」「幸せは何処に在るの?」という話に成るからです。

 ■今年のテーマ − 「万人の幸せ」の偽善と逆理
 今年の年頭所感で私が述べたい事は、新年には誰もが自分や家族の「幸せ」を祈願しますが、
  <設問1>「万人の幸せ」を実現する方法はか?
という大きなテーマについて、即ち「何(what)」を問題にします。
 このテーマをミクロに扱うと教育者や宗教家や”文化人”など、凡そ有りと有らゆる”偽善家”の独壇場に成ります。彼らは太古の昔から今日迄、道徳論や宗教学や医学や社会学や経済学や更にその時々に流行りの”御都合主義の理論”を総動員して、『こうすれば貴方(貴女)は幸せに成れる、それを万人が実行したら「万人の幸せ」が実現出来る』という”有り難いお説教”を吹聴します。但し、貴方(貴女)の「幸せ」は貴方(貴女)の祈願や善行の精進次第です、という”但し書き”付きで。そしてこの議論やお説教は今後も未来永劫続くでしょう、このテーマは”偽善家”にとって「永遠のテーマ」なのです。
 一方、マスメディアの中心であるテレビ局は、「幸せ」を願い乍ら運命から見放された不幸な児童などの超ミクロな一例を針小棒大に拡大して”100%被害者”に仕立て上げ「安っぽいヒューマニズム」(=偽善)に訴える番組を次々と制作し、自分より不幸な人を見て安心する小市民たちの”お涙”を頂戴して居ます。
                (>v<)

 しかし、本当はどうなんでしょうか?
 確かに祈ったり念仏を唱えたり或いは”有り難いお説教”通りの善行を積んで「幸せ」を掴めれば人生こんな楽な事は有りません。前述の様に”幸せ感”は人に依って千差万別に異なりますが、人は常に自分の幸福を願うものです。昨年の年頭(←キリスト教の人はその少し前のクリスマスかも)には世界中の人々が自分の1年間の「幸せ」を祈願した筈です。しかし昨年の結果を見ると、多くの人々が戦争や紛争や天災や人災で死んだり罹病したり或いは厄介な境遇に嵌まったりで「祈願や善行に反する「不幸せ」」に陥りました。断って置きますが、私は人の死が全て不幸だとは言ってません。人生を有意義に過ごし天寿を全うした上での死は寧ろ幸福です、人は何時か必ず死ぬ運命に在るのですから。
 この「祈願や善行に反する「不幸せ」」は、太古の昔から今日迄続き、更に未来永劫に続くでしょう。するとどうも
  「祈願や善行に反する「不幸せ」」こそが解決不可能な「永遠の真理」である
という逆理(※1)に行き着き、今年の大テーマの、「万人の幸せ」を実現する方法は何か?、という<設問1>に対して
  万人が祈願や善行をしても「万人の幸せ」未来永劫実現不可能である
という逆の結論が早々と出て仕舞いました。だから逆説的に<設問1>が”偽善家”の「永遠のテーマ」たり得るのです、何故なら「何(what)」の答えは無いからです。”偽善家”は言うでしょう。「万人の幸せ」が実現出来ないのは貴方(貴女)たちの祈願や善行の精進努力が足りないから、と。こうしてマスメディアを巻き込んだ”偽善家”は努力不足の”但し書き”を振り回すことに依って吹聴責任を逃れつつ群がった「不幸せ」な人や小市民からカネ(金)を巻き上げ、”偽善家”だけが肥え太り「不幸せ」な人は益々「不幸せ」に成り小市民は益々矮小化される、という”偽善家”優位の構図が出来上がります。世間は優位な人に靡(なび)きますから”偽善家”は金満家に成り上がり、こうして日本は「偽善国家」に成りました。

 ■幸せの総量
 前章の<設問1>で逆理に行き着いたからには、その逆理の意味を探る必要が有ります。その為には設問の形を換えねば為りません。即ち
  <設問2>万人が祈願や善行をしても「万人の幸せ」が実現されないのは何故か?
という形にですが、これは「何(what)」から「何故(why)」への転換です。
 私は「万人の幸せ」の問題をマクロに捉えて居ます。つまり、全地球規模の「幸せの総量」には限りが有る、という考え方です。この考え方の参考に成るのは「エネルギー保存の法則」(※2〜※2−2)です。「幸せ」という概念も或る意味でエネルギーの様なもので、人を「幸せ」にする言わば「幸福力」或いは「幸福エネルギー」(※2)というものを想定することが出来ます。世間で言う霊験とか御利益(ごりやく)とか勝ち運とかがこれです。
 これは何も我々ヒト(人)(※3)に限ったことでは有りません。プランクトンやクラゲやゴキブリや犬や猫にも、それぞれの「幸せ」が屹度有るに違い有りません。凡そ生命体が「生きる」ということは、それぞれが自分の「幸せ」を追求する道程(=プロセス)である、と言い換えることも出来ると思います。
 しかしご存知の様に生物間には食物連鎖(※4)という捕食関係の連環(=「食う食われる関係の輪」)が歴然と存在し、これが言わば全生物を包含する生物多様性(※5)と強者・弱者のヒエラルキー(=ピラミッド構造、※6)とを形成して居ます。同種の生物間に於いては1匹のメスを争って複数匹のオスが死闘を繰り広げる「競争」や「闘争」、即ち生存競争(※7)に依って淘汰(※7−1〜※7−3)が行われます(→「その後」の章を参照)。
 そこで「幸せの総量」ですが、これを簡単な食物連鎖の例に当て嵌めて考えてみると、Bは自分の「幸せ」を全うする為にAを食います。その結果食われるAは最大の「不幸」を蒙ります。この時Bの「幸せ」とAの「不幸(=マイナスの幸せ)」の総和はゼロという事が成り立ちそうです。そしてBもやがて別のCに食われ、更にCも別の...、という循環です。ヒトの様に食物連鎖の頂点に立つ存在もやがてはを迎えます。因みに、死は生命体のエントロピーの発散(※8)です。そして最後はヒトも他の生物も全員土に帰るのです(→海中の生物でも最後は海底の土に成ります)。つまり他者に食われてに成って土に成るか、死んで朽ち果てて土に成るか、火葬で僅かの骨灰(←これも土の一種)に成るかの違いだけです。
 私たちは毎日の様に肉や魚や鶏卵や野菜を食べ、美味しさに「幸せ」を感じて居ます。裏返して言えば私たちが自分の「幸せ」を全うして生きる為に、常に誰か他者が犠牲に成っているのです。それ故に「人に食われる動物」の痛みを知ることが大切です。逆に、今自分が報われて居ないと感じてる人でもやがて時が経てば、或いは別の環境に変われば運が巡り報われる日が来るかも知れません。「捨てる神在れば拾う神在り」(※9)という諺も在る様に。
                (-_*)

 ■「幸せ保存の法則」の提唱
 (1)幸あれば不幸あり
 以上の様に考えると「幸せの総量」は、単に限りが有るのでは無く実はゼロ(=0)なのです。そして全生物の「幸せの総量」は常にゼロに保たれる、私にはそう思えて為りません。即ち

  地球上の全生物の「幸せの総量」は常にゼロに保たれる

    エルニーニョの「幸せ保存の法則」  (略称:「幸せ保存則」
    (ElNino's Law of conservation of Happiness)

を、ここに提唱します。
 この法則は食物連鎖という互いに「食う食われる関係の輪」の中で生きて行かざるを得ない全生物は「幸あれば不幸あり」 −我が幸せは他者の不幸の上に成り立つ(※10〜※10−2)− という不文律に従わなければ為らない事、食物連鎖の頂点に立つ我々ヒトも小さな虫けらも更には細菌やウイルスの様な微生物もこの法則の前では全生物が平等な事を明言したものです(→「全動物の分類学的分岐図」を参照)。又、或る一人の人間が一生幸せとか一生不幸せである、ということが確率として非常に小さいことをも表すものです。
 中々厳しい法則ですが、私が「幸せの総量」の章で持ち出した食物連鎖(※4)、生物多様性(※5)と強者・弱者のヒエラルキー(※6)、生存競争(※7)と自然淘汰(※7−2)、これらは皆「生態系」(※5−1)というシステムを構成する生物社会を支配する「自然の摂理(Providence of Nature)」(※11)であり、全生物が平等に不可避の厳粛な自然の掟です。「幸せ保存則」はこの「自然の摂理」の厳格性と公平性(=平等性)に基づいて構築されて居ます。

 (2)「幸せ保存の法則」が意味するもの − 自然界を貫く「悪の論理」
 次に「幸せ保存則」が意味する内容を更に掘り下げて考察しましょう。「自然の摂理」の中で特に「食う食われる関係」の食物連鎖、「競争や闘争」を要求される生存競争、「天の間引き」(※12)の自然淘汰、これらは何れも生物が幸せに生きることを妨害するかの如くで
  [1].「造化の神」は全生物に「天の試練」を課して居る
と言わざるを得ません(※12−1、※12−2)。しかし、これが自然界の「厳然たる真実」「厳然たる必然」です。我々人間はこの真実を”在るが儘”に受け容れる必要が有ります。即ち
  [2].生きることは試練であり、試練や競争の勝者のみが生き残る
という現実を。
 そもそも「善」や「悪」の概念は人間が創り出したもので、人間は往々にして自然界の「厳然たる真実」を無視して人間に都合の好い”善”、即ち”偽の善(=偽善)”を案出し”偽善家”はそれが”真”であるかの如くに世間に吹聴し、その結果「甘えの構造」(△1)が社会に蔓延します。しかし自然界は人間界の”偽善”とは裏腹なのです。即ち、上の[1]を言い換えると
  [1'].自然界は「悪の論理」が貫かれて居る
と成る事を知るべきです。勿論、自然界には「善」も「悪」も無いのですが、ここでの「悪」とは「人間に都合が好くは無い」という意味です。そして[2]を言い換えると
  [2'].全ての生物は「悪の論理」に打ち勝って進化を遂げて来た
という生物の歴史と成り、それはダーウィンの進化論(※7−4〜※7−5)が説く内容である事をも知るべきです。[1]と[1']、及び[2]と[2']は論理的に同値です。
 甘えを許さず人間に依怙贔屓(えこひいき)などしない自然の掟は「善」も「悪」も無しに全生物に対し試練を平等に課すという「造化の神の意思」を、私は「幸せ保存の法則」として「万人の幸せ」が実現されないのは何故か?、という<設問2>に答える形で提出した訳ですが、更に<設問1>に対しても”「万人の幸せ」を実現する”という考え自体が偽善的妄想に過ぎないという逆理を実証した事に成ります(→「その後」の章を参照)。
    {この節は05年1月14日に追加}

 ■法則公表に至った経緯と「招福の笑い」について
 ところで、この「幸せ保存の法則」という名称は、元々は掲示板に良く書き込んで来るリチャード・プー氏 −複雑な生活の故に現在は野毛英雄(のげのえいゆう)と変名(→他にも色々と変名)して居て私の弟子の一人− の発案です。彼と「人間の幸福」について酒を飲み乍ら議論した折に上記の法則性を見出し、私が03年5月14日「言葉遊び」のおちゃらけ議論「言葉遊びを楽しもう!(Let's enjoy parody and jokes !)」の中で法則の名称のみを初めて当サイトの掲示板に公表して法則の存在を明らかにしました。この時は法則の内容には言及しませんでしたが、当ページに於いて内容を公にすることにした訳です。しかし、酒を飲み乍ら「人間の幸福」について即ち「幸せとは何ぞや?」という議論をしたとは、前述した理由で私も弟子も「幸せ」だったのですな、今も幸せですが、オッホッホ!
 又、笑って仕舞いましたね。この様に良く笑う私は「幸せの保存が利く人間」なのです(←こういう洒落を「言葉遊び」と言います)。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 当サイトの掲示板の議論は「言葉遊び」に満ちて居ますが、プー氏は他にも「一般人相対性理論」なる”人間性捻じ曲げ”のパロディー理論を構築して居ます。

 ここで「笑う門には福来たる」という諺の真偽について少し言及して置きましょう。まぁ笑いにも色々在って苦笑・冷笑・嘲笑など心を隠した笑いが多数在り人間の複雑性を表して居ますが、心から爆笑したら誰でもその時は明るく成りますので、満更駄洒落では無く「招福の笑い」は短期的には成り立つかも知れませんね。しかし中長期的には心から笑ってる人にも”不幸は訪れる時には訪れる”というのが「幸せ保存則」の教えです。
                (>v<)

 ■私の思考に於ける趣味
 以上、「幸せ」という文学的な領域に属すると考えられて来た概念について、マクロ的な観点から或る程度”科学的”に論じて来ました。私は社会学に数学を応用したりするのが好きな性質(たち)です(→「理性と感性」への応用例)が、今回は物理学の「エネルギー保存の法則」(※2−1)の援用でした。社会現象も自然現象と同じ様に論理的推論だけでは無く或る程度の計量化や図式化や数式化が必要と考えます。まあ、これは私の趣味ですが。
 趣味と言えば私は前述の「幸あれば不幸あり」(※10)の様にパロディー語を作る「言葉遊び」も趣味で、ダッチワイフに触発されて接頭語「ダッチ」で始まる言葉を多数造語し従来の語群に追加して「ダッチ・コレクション」と命名したり、某新興宗教をパロって”幸福の性科学”などを提唱して居ますので是非そちらもご覧下さい(←断って置きますが私は全ての特定宗教とは一切無関係でっせ!!)。否、寧ろそちらのページを見れば私はどの宗教・宗派からも破門を食らう人間であることがお解り戴けると思いますよ、ウワッハッハッハ!

 ■ケース・スタディー − 「最大多数の最大幸福」は
                「幸せの総量」をプラスにするか?

 思えば「万人の幸せ」という幻想(或いは妄想)が広く行き亘った背後には功利主義者(※13)が唱えた「最大多数の最大幸福」(※13−1)という口当たりの好い標語が在るのかも知れません。この標語中の「最大多数」が「万人」に短絡的に拡張され「万人の幸せ」という概念が通念化したとも考えられます。そこでケース・スタディー(事例研究)として、この標語が齎した歴史的結果と「幸せ保存の法則」との関係を検証してみましょう、次の設問です。
  <設問3>「最大多数の最大幸福」は「幸せの総量」をプラスにするか?
 確かにこの標語を生み出したイギリスは産業革命に依る経済発展を成し遂げましたので、イギリス国内だけを見ると「最大多数の最大幸福」が達成された、と言う事が出来ます。即ち
  イギリス国内では、幸福に成った人数 > 不幸に成った人数
という不等式が成り立ち、一見「幸せ保存則」が崩れて居るかの様に見えます。しかし視点を変えるとイギリスの富は一体何処から齎されたのでしょうか?
 この標語が生まれた18世紀末〜20世紀半ば(=第二次世界大戦終了直後)の間にイギリスがアジアやアフリカの後進国を植民地支配して居た事は皆さんご存知と思いますが、イギリスの富は植民地から収奪した原料を自国に持ち込み、原料又は自国での加工品を貿易で先進国に売り付けて荒稼ぎしたものに他為りません。先進国との貿易は商売の範疇で大目に見れば等価交換ですが、被植民地国では大多数が殺傷・奴隷・無産者にされ、当初は奴隷も貿易品の一つ(※14)でした。つまり、
  イギリス本国の「最大多数の最大幸福」は
    イギリス植民地の「最大多数の最大不幸」の賜

なのです。即ち、イギリスとその植民地の双方を視野に入れればイギリスの大幸福と植民地の大不幸は相殺され、
  イギリス及び植民地双方の「幸せの総量」 = 0
という等式が成り立ち、「幸せ保存の法則」が成立して居る事がお解り戴けたと思います。
 以上のケース・スタディーで「幸せ保存の法則」が自然の原理原則に基づく本源的法則であるのに対し、「最大多数の最大幸福」は局所的にしか成り立たない正に功利的・打算的な”上っ面”の概念に過ぎない事が判明しました。「最大多数の最大幸福」という標語は今や現代経済学が専ら追究する課題に成って居ますが、今後も或る一国の「最大多数の最大幸福」は関連他国の「最大多数の最大不幸」で相殺される、というのが「幸せ保存の法則」の教えです。
    {この章は05年1月14日に追加}

 ■「幸せ保存の法則」に適った生き方 − 共生の哲学
 以上の議論を受けて最後に
  <設問4>ならば「幸せ保存の法則」に則して私たちは如何に生きたら良いのか?
という設問を提示しましょう。what, why の次は「如何に(how)」が問題です。
 その生き方(=ライフスタイル)のキーワードは、ずばり「共生」です。それは即ち「自然と調和」し全ての生物と「共に生きる」「幸せを共に分かち合う」生き方こそが今後求められて居ると私は考えて居ますが、この「幸せ保存の法則」は私の「共生の哲学」の土台です。「共生」は当サイトの幾つかのページで既に述べて居ますが、老子(※15)の言う「足るを知る」(※15−1)にも通じます(△2のp195、p385)。老子は大変古い人ですが、老子こそ太古に於いてこの「幸せ保存則」を発見して居たのではないかと思えます。
 尚、老子は当サイトのエルニーニョ神社の神々の一柱ですので、宜しく。又、このページで述べた考えの奥義や更に発展させた思想は【エルニーニョ神社の奥宮】で開陳して居ますので、初詣でに是非お立ち寄り下さい。そして多大なるお賽銭お布施を賜り下さい、ブワハッハッハ!
                m(^o^)m

 ■年頭のご挨拶 − 幸いなる者は慈悲の心を!
 どうです、お正月に相応しい「お目出度い結論」が導かれましたね!!
 さて、「幸せ保存の法則」を理解したなら、自分だけの幸福を貪らない様にしたいものですね。自分が今「幸せ」と感じる事が出来たなら、先ずはその「幸せ」に感謝して下さい。更にもう少し気持ちに「ゆとり」が有れば、自分に食われた動物や不幸な人々が世界中に大勢居るんだ、ということを想い起こして下さい。「人に食われる動物」の痛みを知り、幸せに恵まれない人々のことを慈悲の念を持って思い遣る心が大切かと思います。そして如何に行動すべきか?、それは一人一人が決める問題です。
 このページに来る前にトップページや「総合目次」のWeb年賀状をご覧に為った方も居ると思いますが、Web年賀状に書いた
  幸いなる者は慈悲の心を!
という言葉には、この様な「共生」の意味が込められて居たのです。
 それでは、今年も皆様のご健康と御多幸を −と言っても「幸せ保存の法則」に支配されて居ますが− 切に祈願致します。今年も宜しく!!

 >>>■その後
  ●09年10月20日(火)
 私は本文に於いて、生物間の食物連鎖(※4)を「食う食われる関係の輪」と解り易く言い直して表現しましたが、更に解り易い写真を撮影しましたので写真を掲載します。カマキリの共食いです(09年10月15日、豊橋市葦毛湿原にて撮影)。カマキリの♀は交尾(=セックス)した後の♂を食うのです、ワァ〜、怖わ〜、カマキリ女!!
 どうぞ、じっくりご覧下さい。
写真add1:カマキリの共食い。写真add2:仲間を食うカマキリの顔の拡大。

 繰り返しますが、これが「自然の摂理」(※11)という厳粛な自然の掟、これが自然界の「厳然たる真実」「厳然たる必然」です。自然界は「悪の論理」が貫かれて居ると私が言った意味が一目でご理解戴けたのではないでしょうか...。
    {この章は09年10月20日に追加}

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:逆理(ぎゃくり)とは、逆説に同じ。
※1−1:逆説(ぎゃくせつ、paradox)とは、[1].衆人の受容している通説、一般に真理と認められるものに反する説。「貧しき者は幸いである」の類。又、真理に反対して居る様であるが、良く吟味すれば真理である説。パラドックス「急がば回れ」「負けるが勝ち」の類。
 [2].〔論〕外見上、同時に真であり且つ偽である命題

※2:エネルギー(Energie[独], energy)とは、この場合、物理学的な「仕事」を為し得る諸量(運動エネルギー/位置エネルギーなど)の総称。初めは物体が力学的仕事を為し得る能力の意味であったが、その後、熱・光・電磁気や更に量子力学では質量迄もエネルギーの一形態であることが明らかにされた。単位には種類に応じて、力学量にはジュール(国際単位系:J)キログラム重(kgw)、熱量にはカロリー(cal)、電力量にはワット時(wh)などが用いられる。
※2−1:エネルギー保存の法則(―ほぞんのほうそく、law of conservation of energy)とは、「外部からの影響を受けない物理系(=孤立系)に於いては、その内部でどの様な物理的・化学的・その他の変化が起っても、系全体としてのエネルギーは時間的に不変である」という法則。言い換えると「エネルギーはその形態を変え又移動するが、孤立系のエネルギーの総量は常に不変である」という法則。無からエネルギーを創造し得ないことを示す、物理学の根本原理の一1840年代ヘルムホルツ/マイヤー/ジュールらに依って確立。エネルギー保存則。エネルギー恒存の原理。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2−2:孤立系(どくりつけい、isolated system)とは、孤立した物理系。他の物理系と全く相互作用の無い系で、一つの極限として想定されたもの。

※3:ヒト(man, Homo sapiens[学名]、人)とは、[1].哺乳綱サル目ヒト科 −サル目を霊長類と通称する− に属する最も知能の高い動物。現存種は学名ホモ・サピエンスの唯1種。身体的特徴に依り大きくコーカソイド(白色人種)/モンゴロイド(黄色人種)/ネグロイド(黒色人種)の3つに分けられるが、動物学上では1種である。人間。
 [2].広義には、人類。又、その一員としての個々人を指す。万葉集5「わくらばに―とはあるを」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※4:食物連鎖(しょくもつれんさ、food chain)とは、生物が群集内で互いに捕食者と被食者の関係(=「食う食われる関係」)に依って連鎖的に繋がって居ること。この連鎖の始まりは必ず植物(=生産者)で、次は草食動物(=1次消費者)、肉食動物が2次・3次・・・と高次の消費者を占める。一般に高次のもの程大形で個体数が少なく成る。その連鎖が複雑な場合、食物網・食物錯雑とも言う。捕食連鎖・寄生連鎖、生食連鎖・腐食連鎖などに区別する。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※5:生物多様性(せいぶつたようせい、biological diversity)とは、生物が分化・分岐して様々に異なること。種だけで無く遺伝子・生態系の多様性も包括する概念。1992年その国際的な保全の為に生物多様性条約を締結。
※5−1:生態系(せいたいけい、ecosystem)とは、或る地域の生物の群集とその背景と成る無機的環境を一纏めにし、物質循環/エネルギー流などに注目して機能系として捉えたもの。生物はそれぞれに生産者(緑色植物)/消費者(動物など)/分解者(細菌など)の役割を担って、無機物→有機物→無機物の物質循環が行われる。地域に依り、海洋生態系/都市生態系/地球生態系などに分ける。エコシステム。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:ヒエラルキー/ヒエラルヒー(Hierarchie[独], hierarchy)とは、
 [1].元来は、カトリック教会の教皇を頂点とする聖職者の位階制(=ヒエラルキア(hierarchia[ラ]))が語源。
 [2].転じて、中世など前近代的な支配・服従に依る封建社会の身分構成や、今日の軍隊組織や官僚制などの上下の序列組織を言う。階統制。位階制
 [3].広義には、一般に上下関係に貫かれた組織・秩序に於けるピラミッド型の階層関係の体系にも言う。階層制。
<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※7:生存競争(せいぞんきょうそう、struggle for existence)とは、(加藤弘之に依る訳語)[1].生物の全ての種は多産であるので、生存して子孫を残すのは環境に対する適者であり、不適者は自ずから淘汰されるものと見られ、これを同種の個体間の競争と見做して生存競争と言う。ダーウィンはこれに基づいて自然淘汰説を立てた。原義は生存闘争で、その場合には異種間の対立関係を含む。
 [2].比喩的に、人類社会で生活や地位を巡って行われる競争や生き残り競争。サバイバル・レース(survival race)。「企業間の―」。
※7−1:淘汰(とうた、selection)とは、[1].不用の物を除き去ること。不適当の者を排除すること。
 [2].〔生〕環境・条件などに適応するものが残存し、そうで無いものが死滅する現象。選択。自然淘汰人為淘汰に区分される。
※7−2:自然淘汰(しぜんとうた、natural selection)とは、進化論の用語。或る種の個体群を構成する個体間で、或る形質を持つ個体がそれを持たない個体よりも多くの子孫を残すことが出来、しかもその形質が遺伝するなら、その形質が後の世代に一層広く伝わる様に成ること。この様な過程が集積することに依って適応的進化が生じたとするのを自然淘汰説と言う。ダーウィンが提唱。尚、現代では淘汰の単位として遺伝子や集団・種が想定されることも有る。自然選択。←→人為淘汰人為選択)。
※7−3:人為淘汰(じんいとうた、artificial selection)とは、生物の品種改良に於いて、目的に適った型の個体を何代も選抜・育成して交配し、その形質を一定の方向に変化させること。人為選択。←→自然淘汰自然選択)。
※7−4:ダーウィン(Charles Robert Darwin)は、イギリスの生物学者(1809〜1882)。進化論の確立者。大学で医学・神学などを学んだ後、1831〜1836年に海軍の測量船ビーグル号に乗り組んで南半球を航海。その過程で地質や動植物についての観察を続け、生物進化についての確信を得た。友人のウォーレスが略同じ理論で生物の進化を説明しようとして居るのを知り、1858年先ずウォーレスとの共著論文を発表し、翌年「種の起原」を公表して生物進化について自然淘汰説自然選択説)を唱えた。唯物論に基づく彼の学説は教会からの非難を浴びたが、友人のライエルやハクスリーに擁護され、自然科学のみ為らず社会科学(スペンサーの社会進化論など)や一般思想界に多大な影響を与えた。死後ウェストミンスター寺院に葬られる。著書は他に「家畜及び栽培植物の変異」「人類の由来」「人類及び動物の表情」「ビーグル号航海記」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7−5:進化論(しんかろん、evolution theory)は、(加藤弘之に依る訳語)生物が非常に長い年月の間に様々な種(しゅ)に造られて来た要因を論じる学問。人類の祖先を論じる際にも適用され、又、地球や宇宙の歴史も進化論の問題の一部と成る。
 歴史的には、生物進化論は19世紀に科学の一部門として成立したが、その主な創設者はラマルクC.ダーウィンである。ラマルクは種と種の間が歴史的には類縁(形状・性質などの有意な関係)で関係付けられて居る事を証明し、ダーウィンは種の変化(進化)する要因は環境の中に在る事を指摘した。ダーウィンの進化要因論を自然淘汰説自然選択説と言う。現在では、この自然淘汰説に突然変異説などに依る種々の修正が加えられて居るが、ダーウィンの考え方は現在の進化論の根本と成って生きて居る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※8:エントロピー(entropy)とは、(エネルギー(Energie[独])に変化の意のギリシャ語tropeを加えた語)クラウジウスが命名した熱学上の概念。熱平衡に在る系で、準静的に加えられた熱量をその系の絶対温度で割った値をエントロピーの増加分と定義する。可逆変化ならエントロピーは一定、不可逆変化では必ず増大する(熱力学第二法則)。統計力学的意味付けはボルツマンに依って与えられ、エントロピーが大きい状態は乱雑さの度合が大きいことを示す。拡張されて情報理論などでも用いられる。
※8−1:クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius)は、ドイツの理論物理学者(1822〜1888)。熱力学第二法則を提出。又、エントロピーの概念を導入。相変化の理論、気体分子運動論にも貢献。

※9:「捨てる神在れば拾う神在り」は、一方で見捨てる人が居るかと思うと、他方で救って呉れる人が居る。世間は広く、世の中は様々だから、くよくよする事は無いことの譬え。

※10:「幸あれば不幸あり」は、私の造語で、「楽あれば苦あり」という諺の捩(もじ)り(=パロディー)です。
※10−1:「楽あれば苦あり」は、楽の後には苦しい事が来る。世の中は楽な事ばかりでは無い、ということの譬え。
 似た様な諺に「楽は苦の種、苦は楽の種」「捨てる神在れば拾う神在り」なども在ります。
※10−2:「楽は苦の種、苦は楽の種」は、苦楽が相伴って起るのに言う。

※11:自然の摂理(しぜんのせつり、Providence of Nature)とは、自然界を支配して居る理法。

※12:天(てん、Heaven)とは、この場合、天地万物の主宰者造物主。帝。神。又、大自然の力。曾我物語3「―の照覧に身をまかせ候べし」。「天命・天罰・天然・天災」。
※12−1:造化(ぞうか)とは、
 [1].creation。天地の万物を創造し、化育すること。古事記上「参神―のはじめとなり」。
 [2].the Creator。造物主(=造化の神)。
 [3].universe, nature。造り出された天地。宇宙自然。又、自然の順行。笈の小文「―に従ひて四時を友とす」。「―の妙」。
 [4].creation。ものを造り出すこと。造作。〈字類抄〉。
※12−2:造化の神(ぞうかのかみ、the Creator)とは、天地の万物の創造者。造物主。天帝。上帝。

※13:功利主義(こうりしゅぎ、utilitarianism)とは、[1].広義では、功利(=功労利益)を一切の価値の原理と考える説。
 [2].ベンサムミルらの代表する倫理・政治学説。功利を道徳の基礎とし、「最大多数の最大幸福」を原理として社会の幸福と個人の幸福との調和を企図した。ベンサムとミルとは共に快楽主義に立脚するが、幸福についての考え方を異にする。功利説。
※13−1:最大多数の最大幸福(さいだいたすうのさいだいこうふく、the greatest happiness of the greatest number)とは、(ベンサムの用語)イギリスの功利主義倫理説の主張する道徳的行為の価値の規準。多くの人々に最大の幸福を齎す行為とする。

※14:奴隷貿易(どれいぼうえき、slave trade)は、奴隷を商品として売買すること。古代社会にも在った。15世紀末以来ヨーロッパやアメリカの商人がアフリカ黒人をラテンアメリカ、次いで北アメリカの植民地に送り込み、強制労働に従事させた。最盛期の18世紀中には700万人19世紀でも400万人が南北アメリカ大陸に送られたと推定されて居る。イギリスでは1807年に、アメリカ合衆国も翌年奴隷貿易を禁止し、奴隷解放運動が高まると共に衰退。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※15:老子(ろうし)は、中国、春秋戦国時代の思想家(前579頃〜前499頃)。道家の祖。史記に拠れば、姓は李、名は耳、字はタン又は伯陽。楚の(河南省)の人。周の守蔵室(図書室)の書記官。乱世を逃れて関(函谷関又は散関)に至った時、関守の尹喜(いんき)が道を求めたので、「老子」を説いたと言う。
※15−1:「足るを知る」即ち知足(ちそく)とは、[老子第三十三章「知足者富」]現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと。
 「足るを知らず」とはその逆で、何処迄も際限無く欲望に捕り憑かれること、又はその状態を言う。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『「甘え」の構造』(土居健郎著、弘文堂)。

△2:『スモール・イズ・ビューティフル(人間中心の経済学)』(E.F.シューマッハー著、小島慶三・酒井懋訳、講談社学術文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):細菌やウイルスについて▼
資料−最近流行した感染症(Recent infectious disease)
参照ページ(Reference-Page):「全動物の分類学的分岐図」とヒト▼
資料−昆虫豆知識(Insect Trivia)
補完ページ(Complementary):「幸せ保存の法則」の名称初出▼
言葉遊びを楽しもう!(Let's enjoy parody and jokes !)
補完ページ(Complementary):「安っぽいヒューマニズム」の偽善を批判▼
片手落ちの綺麗事を払拭せよ!(Sweep away unbalanced virtue !)
補完ページ(Complementary):「人に食われる動物」の痛みを知る▼
(食物連鎖や共生の哲学も)
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
昨年の年頭所感▼
2004年・年頭所感−業を宿したDNA
(Sinful structure of DNA, 2004 beginning)

リチャード・プー氏、野毛英雄に変名して登場▼
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私は「幸せの保存が利く人間」(「甘えの構造」にも言及)▼
私の健康論−不摂生は健康の母(My healthy life)
言葉遊びのすゝめ▼
「言葉遊び」と遊び心(The 'play of word' and playing mind)
リチャード・プー氏の”人間性捻じ曲げ”のパロディー理論▼
一般人相対性理論(The general people theory of relativity)
理性や感性に数学を応用した例▼
理性と感性の数学的考察(Mathematics of Reason and Sense)
言葉遊びで接頭語「ダッチ」のダッチ・コレクション▼
接頭語ダッチについて−蘭学オメ始
(The 'Dutch', let's start Dutch language)

「捨てる神在れば拾う神在り」の例▼
2003年・新型肺炎SARSとは?!(The SARS, new pneumonia, 2003)
2003年・雲南で大地震、ヨーロッパは熱波
(The earthquake and heat-wave, 2003)

2004年・年末のスマトラ島沖地震
(Sumatran earthquake of the end of year, 2004)

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(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

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