Ω.「言葉遊び」と遊び心
[言葉遊びのすゝめ#1:言葉遊び事始
(The 'play of word' and playing mind)

−− 2003.05.20 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.06.16 改訂

 ■はじめに − 「快楽主義者のお喋り集」のコーナー開設のお知らせ
 本日、2003年5月20日に「快楽主義者のお喋り集」のコーナーを新規開設(=増設)(※1、※1−1)しました。当サイトの開設が2002年11月20日なので、それから丁度半年後という事に成ります。私としては当サイト開設当初から「遊び心」「言葉遊び」をコンセプトの一つとして掲げて来ましたので早くこのコーナーを増設したかったのですが、それには一定の時間を必要としました。と言うのは、このコーナーは当サイトの掲示板 −<板−1><板−2><板−3>の3つ− のダイジェスト版です。<板−1>〜<板−3>の3つを同時開設したのが2003年2月12日ですので、それから約3ヶ月経って投稿も溜まり要約するに足る材料が出揃ったという事なのです。
 我が掲示板はサイトのコンセプトを引き継ぎ
  掲示板ご利用の皆様に一言(Let's enjoy our BILLBOARDS !)
に記した様なコンセプトで運営して居ます。<板−1>、<板−2>、<板−3>はそれぞれに性格を異にして居ますが、それについては上記の「一言」に記して在ります。ま、余り堅苦しく考えずにドシドシ書き込んで下さい。
 当サイトの掲示板は「言葉遊び」(=言葉の遊戯)に満ち満ちた議論が満載で、当コーナー増設直前の5月14日には「オメガ幸国」を建国 −オメガ幸国は言葉遊びの賜物− しました。以下に当コーナーの目的やコンセプトについて、特に何故「言葉遊び」を重視してるのか?、について順を追って”たっぷり”と述べることにしましょう。

 ■日本語の底を流れる「遊び心」
 日本で一番古い歌集である『万葉集』(※2、△1)には枕詞(※3)と言うものが沢山出て来ます。そして枕詞はその直後の「掛かる語」が決まっていて、必ず「枕詞」と「掛かる語」がペアで出現します。例えば
    あきづしま(秋津島・蜻蛉島)     → 大和・倭(やまと)
    あしひきの(足引きの)        → 山、峰(を)
    うまさけ(旨酒)           → 神奈備、三輪、三諸
    さざなみの(細波の)         → 近江、大津
    かむかぜの(神風の)         → 伊勢
    しきしまの(敷島の)         → 大和・倭(やまと)
    そらみつ(空満つ)          → 大和・倭(やまと)
    ぬばたまの(射干玉の)        → 黒、夜、闇、暗き
    たらちねの(足乳根の・垂乳根の)   → 母、親
    やすみしし(八隅知し・安見知し)   → 我が大君(おおきみ)
    ももしきの(百敷の)         → 大宮(おほみや)

などで、この表の左の列が枕詞です。
 これと似たものに俳句の季語(※3−1)が在り、例えば
    朧月、陽炎(かげろう)、霞、蛙、椿        春
    五月雨、雷、青田、蝉、金魚、芥子の花       夏
    天の川、名月、赤蜻蛉、刈り田、雁、紅葉      秋
    木枯らし、枯れ野、雪、千鳥、山茶花        冬

です。従って有名な芭蕉の句「古池や 蛙とびこむ 水の音」も季語「蛙(かわず)」を織り込んで春を表して居るのですが、直接に「春」という語は出て来ません。
 詩歌の中で「まつ」という音節に「松」と「待つ」の2つの意味を掛け持たせる如くに、1つの言葉に複数の意味を持たせる掛詞(※3−2)は勿論万葉の時代から使用されて居ましたが、『古今集』(※4)で一層流行しました(△2のp275)。
 或る語の本来の意味を別の語に言い換える単語の置換隠語(※5)、言葉の中に謎や暗号を忍ばせる謎掛け(※5−1) −謎謎(※5−2)もその一種− なども使います。しかし【脚注】に在る様に「謎謎」と「何ぞ何ぞ」とは掛詞に成っていて笑えます、これも「言葉遊び」です。
 又、尻取り(※6)という文字繋ぎの遊びが在りますが、1人が短歌の上の句の五七五を提示し別の人が下の句の七七を詠み意味有る歌に完成させる歌の合作遊びなども在ります。
 更に複雑に成るとアナグラム(=綴り換え、※7)が在り、その一つとして回文(※7−1)と言うのが在ります。これは「たけやぶやけた」の様に、上から読んでも下から読んでも同音のものを指します。回文も古くから短歌・連歌・俳諧などに取り入れられて来て、草萌える春を
  「くさもえやのももえもものやえもさく」
などの戯れ歌にしたり、正月に初夢を見る為に枕の下に宝船の縁起物を敷き
  「ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな」
などと回文歌を書き添えたりしました。
 これに似たものに「いろは歌」(※8)が在り、音の異なる仮名47文字を1字ずつ抽出し、
  「イロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソツネナラムウヰノオクヤマケフコエテアサキユメミシヱヒモセズ」
と並べ、しかも
  「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為(うゐ)の奥山今日(けふ)越えて浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」
と、アナグラムで意味の有る歌に仕上げたもので、「意味と音韻」の双方を兼ね備えた遊び歌の極致です。この様に多様な言葉の「意味と音韻」を駆使した遊びを通して日本語の底を流れる「遊び心」を感じ取ることが出来ます。

 ■言霊の幸ふ国
 更には「言霊(ことだま)」(=言葉の「たましい」、※9)と言って、古代の日本人は言葉には或る種の呪力(=霊威)が宿って居て、その言葉を音を発し乍ら繰り返し唱える(=言挙げする、※9−1)と、その言葉の霊威を呼び覚ますことが出来て「言葉通りの事象」が実現されると信じていたのです(△3)。例えば柿本人麻呂(※10)は『万葉集』巻13−3253(長歌、※2−1)、3254(反歌、※2−2)で

        柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
  葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙(ことあげ)せぬ国 しかれども
   言挙ぞわがする 言幸(ことさき)く まさきくませと つつみなく
    さきくいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波
     千重波にしき 言挙す吾は 言挙す吾は


        反歌
  しき島の 日本(やまと)の国は
    言霊の さきはふ国ぞ まさきくありこそ


と、日本(やまと)の国(=倭の国)を「言霊のさきはふ国」(=「言霊の幸ふ国」、※9−2、※11)と歌って居ます(△1の(下)、←万葉仮名(※2−3)を「言霊の佑(たす)くる国」と解釈する書も在り広辞苑も「たすくる」として居ます(※9))。この長歌の中で「言幸(ことさき)く」を受けて「まさきく」「さきく」と<「さき」の音(おん)>を、同様に「荒磯波(ありそなみ)」を受けて「ありとて」と<「あり」の音>を連ねていて、この様に同じ音を繰り返すのは言霊を呼び出す呪法の一つで、その事を「言挙ぞわがする」「言挙す吾は」(※9−1)と自ら歌い込んでも居ます。
 又、山上憶良も『万葉集』巻5−894の長歌の中で倭(やまと)の国のことを「言霊の幸はふ国と 語り継ぎ...」と詠んで居て(※9−2、△1の(上))、どうやら古人(いにしえびと)は

  日本=「言霊の国」:言霊の霊力に依って栄える国(←幸ふ)
               //    助けられる国(←佑くる)

と認識していた事が窺えます。現在では「幸(さきは)ふ」は馴染みの無い言葉ですが、良く使われる「幸(さいわ)い」(※11−1)という語は「幸(さきは)ひ」(←「幸(さきは)ふ」の名詞形)が元なのです。
                (-_*)

 さて、同じ音を繰り返す用法では、天つ神が住むとされる高天原(たかまがはら=takamagahara)が典型的で全て<あ[a]の母音>の連続ですが、これなども言霊信仰に由来する音韻の配列だと思われます。言霊信仰は古代の日本語に力を付与し、言葉の「意味と音韻」の関係性を一層密着させて来たと考えられます。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 古代の日本人は「万物に霊魂が宿る」と考えて居たこと、それは日本人の「神」信仰の原型であり記紀神話の「八百万の神」に反映されて居ること、万物の霊魂という観念は日本だけで無く原始的なアニミズム社会(※12)に共通して見られること、は「2003年・年頭所感」の中で既に述べました。従って特に外国では言霊信仰をアニミズムと結び付けて捉える立場が一般的です(△3のp11)。

 ■「狂」なる心
 さて、「狂(きょう)」(※13)とは如何なる心境を指すかと言えば、諧謔/洒落/パロディー(※14)という所でしょう。「快楽主義者のお喋り集」の目次に掲げた
  何せうぞ くすんで 一期は夢よ アニメーションGIF:@マーク。ただ狂へアニメーションGIF:@マーク。

という小歌こそ、当コーナーに打って付けの内容です。出典は室町後期の『閑吟集』(※15、△4のp62)ですが、この精神を受け継いで江戸時代に狂歌(※13−1)が全盛に成ります。「富士見西行」 −西行が後ろ向きに富士山を振り返る図で江戸時代の画題として流行− と言われた西行の
  ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃
という歌(△5のp31)のパロディーが鹿津部真顔(※16)の
  みな月の 雪にはあらで きさらぎの もちに消えたる 富士見西行
という狂歌(△6のp15)です。西行が「如月の望月」即ち旧暦2月の満月の日に花の下で死にたい、と歌ったのを「如月の餅」にして笑い飛ばして居る所が江戸風洒落です。「酔狂」を(いき)と感じ「粋狂」の字を当てたのも江戸の心意気でした。

 ■「言葉遊び」の定義
 この様に、過去の実例を歴史と共に振り返ると日本人は古(いにしえ)から言葉を上手く弄び、言葉の持つ表現力を最大限活用して、言葉を一種のゲームとして楽しんで来たことが良く解ります。
 ではこういう言葉の「意味と音韻」を駆使した遊びを随所に織り込む日本語の様な用法は日本だけのものか?、と言うと私は外国ではシェークスピアが台詞に「謎掛け」を忍ばせたり、推理小説のアナグラムで組み立てた暗号などを知っては居ます。しかし言葉の中に単なる意思伝達以上の「何か」を織り込みそれを楽しみ乍ら、これ程多様で豊かな表現を生み出して居るのは余り類例が無く希少なのではないか?、と考えて居ます。
 前章迄に例として挙げた言葉の「意味と音韻」を駆使した遊びの総体を私は「言葉遊び」と考えているのですが、では一般的な言葉遊びの定義はどうか?、ということも知って置きたいと思い、例に依って広辞苑を引くと
  「言葉の発音・リズム・意味などを利用した遊び。謎謎・尻取り・洒落(しゃれ)・語呂合わせ・アナグラム・早口言葉など」
と在りますので、私の解釈で良いと思います。
 現代では谷川俊太郎の言葉遊び詩や、大岡信が外国人も交えて連歌の様に詩を読み継いで行った試みなどが知られて居ます。

 ■言語構造は思考パターンの反映
 こうして見ると、勿論言葉を使うTPO(※17) −例えば敬語や命令語や対等な言葉など− にも依りますが、日本語とは単に意思伝達の為にだけ在るのでは無く、従って答え方もYesとNoだけでは無い、ということが解って戴けると思います。言い替えると言葉の表現の幅という点で日本語は幅広く立体的であり、Yes/No型の薄っぺらな二律背反構造の言語とは一味違うということを、日本人はもっと気付くべきでしょう。現在色々な民族に色々な言葉(=言語)が在りますが、言語構造というのはその民族なり人種なりの思考パターンの反映で、思考パターンは脳の思考回路に依存しますから結局、脳の論理構造が言語構造を決めるのです(△7のp23)。従ってYes/No型の言語を有する民族というのは脳の回路が二律背反的なので、彼等と話す時は我々日本人はその二律背反性に留意して受け答えをする必要が有ると言えるのです。
 一説に拠るとYes/No型の思考パターン論理優位の左脳思考、日本人の様な曖昧でファジーな思考パターン(※18)は感性優位の右脳思考に起因するとも言われて居ます(△8のp50〜55)。

 ■古典のリズムに学ぼう
 もう一つ忘れて為らないのは、古語(=古典に於ける日本語)には生き生きしたリズム(韻律)が有ったということです。短歌や俳句にリズムが有るのは当然ですが私が強調したいのは、散文に於いても非常にテンポの良いリズムが有った、ということです。これは皆さんも有名な『平家物語』や『枕草子』の冒頭部分でご存知でしょう。このリズムは『源氏物語』から近松、西鶴、更には江戸戯作文学迄綿々と受け継がれて行きます。明治に入ってからも所謂「講談調」というリズムで残りましたが、近代以降「言文一致」の口語体の散文が主流に成るに連れ、古典の持っていたリズムは完全に失われました。
 これはYes/No型の英語でも同じで、シェークスピアの頃の古英語の方が今より格段にリズム感が有りました。
 今迄「意味と音韻」について何度も指摘して来ましたが、近現代に成るに連れ、言語の持っている意味論的側面のみが発展し、もう一つの機能である音韻的側面が退化して来ている、という現象は世界的傾向の様に思われます。これは古典時代以前には当たり前だった、「話し言葉」暗唱を媒介にした口承伝達の役割が段々少なく成って来たことに起因するのでしょう。しかし、何れにしても美しい言葉のリズムが失われたことは大変残念に思います。

 ■言葉遊びのすゝめ
 以上の様に「言葉遊び」について私の考えを説明して来ましたが、この「快楽主義者のお喋り集」のコーナーを開設した目的はズバリ「言葉遊びのすゝめ」です。それを更に徹底させるべく

当コーナーのコンセプト
只管(ひたすら)に「言葉遊び」
−これを「只管遊言(しかんゆうごん)」と言う−

であると宣言します。因みに「只管遊言」という熟語自体が私の造語であり道元禅の心得(※19)のパロディー、即ち「言葉遊び」から導き出した用語です。
 それ故に、当コーナーでは日本語の幅広い表現力を引き出して大いに言葉遊びを楽しみたいと思います。余り低級なギャグや駄洒落に堕すること無く、より優雅な深い味わいを追究したいですね。そして日本語が元来有して居た言葉のリズムYes/No型では無い日本人の感性を大切にして行きたいと考えて居ます。
 他のコーナーでは私が一方的に自分の意見や感想を綴って居るのに対し、当コーナーでは
  掲示板メールで頂戴した皆さんの意見を、お喋り形式に編集
したものを特集するのが大きな特徴です。つまりダイジェスト版ですが編集の際には、掲示板やメールで応酬し合った尻取り(→揚げ足取り)洒落語呂合わせアナグラムなどの言葉遊びをその儘採り入れますので、リアルタイムな会話の醍醐味をお楽しみ下さい。
 又、生(なま)の掲示板の議論に於いては四角四面な真面目さだけでは兎角ギクシャクし勝ちな諸問題について、「言葉遊び」で面白半分に切り掛かって硬さを和らげ乍ら面白さを倍増して行こうという所存です。

 ■解題
 当コーナーを「快楽主義者のお喋り集」と命名して居るのは、私が快楽主義者極楽トンボであるのが第一ですが、兎に角面白可笑しく楽しく遣りましょう、という意味です。又、当コーナーを【エルニーニョの館の浮世風呂】と渾名(あだな)して居るのは、私は風呂好きですから館に是非風呂場が必要なのです。浮世(※20)と冠して居るのは、江戸時代の町人が当世風の刹那的で享楽的な世間を「浮き世」と呼び、特に湯屋(=公衆浴場、銭湯)で男も女も開放的な世間話(=浮き世の話)に花を咲かせた故事に拠ります。
 式亭三馬の『浮世風呂』(※20−1、※20−2)は江戸時代の湯屋の様子を
  熟(つらつら)(かんがみ)るに、銭湯ほど捷径(ちかみち)の教諭(をしえ)なるはなし。其故如何となれば、賢愚邪正貧福貴賤、湯を浴んとて裸形(はだか)になるは、天地自然の道理、...(中略)...さらりと無欲の形なり。

と冒頭で語り出し(△9のp47)、種々雑多の人間が入り来る世相を
  神祇釋教戀無常みないりごみの浮世風呂

と喝破して居ます(△9のp55)。中々リズム感の有る文章ですね。「うきよ」とは元来は「憂き世」と書き現世の儚さを言うのに使いました −【脚注】※20に在る『伊勢物語』の他に、『源氏物語』(用例:△10のp19など)や『小倉百人一首』(用例:68番95番歌)では専ら「憂き世」と表記)− が、江戸町人は現世の楽しさを謳い「浮き世」「浮世」と軽佻浮薄に洒落のです。こういう単語の置換言葉遊びであることは既に述べました。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 無欲な姿に成っても心は中々無欲に成れないのも「浮世の道理」です。江戸の公衆浴場では、湯女(※21)という今日のソープ嬢を置いたり(△11のp16)、男湯だけに2階座敷に仕掛けを備え女湯を覗かせたり(△11のp115)、男湯と女湯の間仕切りの一部が格子状であったり(△11のp196)、と”あの手この手”で洒落を尽くし「無欲の境地」は至難の技でした。

 ここで更に一つ、言葉遊びの好例をご紹介しましょう。文明開化の”申し子”か?、はた又”落し子”(※22、※22−1)か?、或いは単なる”軽口屋”か?、曰く言い難い仮名垣魯文の『安愚楽鍋』の冒頭(※23、※23−1)は
  五穀草木鳥獣魚肉、是が食(しょく)となるは、自然の理にして、これを食ふこと、人の性なり。
と調子に乗った書き出し(△12のp27)で、『浮世風呂』の冒頭をパクッて変形した居ることが見て取れますが、これは見事な洒落とパロディーの言葉遊びです。こうして少し前の文化や精神を”尻取り”的に継承して行く中で「伝統」というものが少しずつ形を成して行く、と斯様に私は考えて居ります。
 この様な軽妙洒脱さを引く作家は近頃めっきり少なく成りましたが、魯文の後を継ぐ者として宮武外骨(※24)の名も挙げて置きましょう。彼は私が「言葉遊びのすゝめ」の章の中に掲げた「面白半分」という概念と同名の雑誌(△13)を発行し反骨を示したジャーナリストです。以上に挙げた三馬や魯文や外骨の精神を当コーナーに受け継ぎたいと私は考えて居ます。
 尚、「言葉遊び」に慣れ親しみ上達する為には、先ずは当コーナーの「言葉遊び」の実践第1作
  イタリヤコンマ氏とエンガチョ氏(Mr. Itariyakonma and Mr. Engacho)
から入ることが”お手頃”な道です。
  {『浮世風呂』『安愚楽鍋』からの引用は03年6月16日に追加しました。}

 ■結び − 当コーナー自体が「言葉遊び」で成立
 ところで皆さん、この「快楽主義者のお喋り集」の目次画面、アレって「個人的見解」の目次画面パロディーに成っているの、気が付かれましたか?!
  ♪あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ...♪
 そう、「個人的見解」のコーナーは辛口の苦言で一杯、それに対しこっちのコーナーは砂糖わんさかです。でも糖分摂り過ぎると体に良く無いので余り砂糖をねだらないで下さい、アッハッハッハッハ!

 私が「言葉遊び」に拘泥(こだわ)るのは前述の様に私が快楽主義者である故ですが、更に告白すれば私は修行時代に快楽主義者のエピクロス(※1−2)の教えを学んだ正真正銘のエピキュリアン(epicurean)(※1−1)だからですゾ、ムッフッフ。これを読んで戴ければ解りますが、当サイト全体が「言葉遊び」に満ち満ちて居るのです。
 が更にその上に、このページの副題「言葉遊び事始」は近代日本の”夜明け”の原動力に成った医学書の標題のパロディー、そして当コーナー開設の目的で且つこのページのシリーズ名でもある「言葉遊びのすゝめ」は1万円札で御馴染みの御仁の本の標題のパロディーです。更に更に当コーナーのコンセプトとした「只管遊言(しかんゆうごん)」は前述の如く道元禅の心得(※19)のパロディーです。パロディーは「言葉遊び」の一つですので、このページは「遊び心」に溢れた「言葉遊び」の洪水という訳です。
 以上を「事始め」として今後益々「言葉遊び」に親しんで下さい。その為にもこの「快楽主義者のお喋り集」のコーナーを宜しく〜!!
                \(^O^)/

 尚、[言葉遊びのすゝめ]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

ΩΩ 以上 ΩΩ

【脚注】
※1:快楽主義(かいらくしゅぎ、hedonism, epicureanism)とは、人生の目的価値の標準を快楽に置き、道徳は快楽を実現する為の手段とする立場。快楽説。享楽主義。
※1−1:快楽主義者(かいらくしゅぎしゃ、hedonist, epicurean)とは、快楽主義を信条とする人。又、快楽を追求し実践する人。エピキュリアン(=エピクロス主義者)。享楽主義者。
※1−2:エピクロス(Epikuros[ギ], Epicurus)は、快楽主義を説いたギリシャの唯物論哲学者(前341〜前270)。アテナイに学園を開き、デモクリトスの流れを汲む原子論を基礎とする実践哲学を説いた。善とは快楽であるが、真の快楽とは放埒な欲望の充足では無く、寧ろ欲望から解放された平静な心境(=アタラクシアの裡に在るとした。
※1−3:アタラクシア(ataraxia[ギ])とは、〔哲〕乱されない心の状態。ヘレニズム時代の人生観、殊にエピクロスの処世哲学幸福の必須条件とする。

※2:万葉集(まんにょうしゅう、まんようしゅう)とは、(「万世に伝わるべき集」、又「万(よろず)の葉」即ち「歌の集」の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后の歌と言われるものから淳仁天皇時代の歌(759年)迄、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石歌体歌・連歌合せて約4千5百首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性に基づき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。益荒男振り(ますらおぶり)と評され、古今集以降の手弱女振り(たおやめぶり)と対照的。
※2−1:長歌(ちょうか)とは、和歌の一体。五七調を反復して連ね、終末を多く七・七とするもの。普通はその後に反歌を伴う。未だ5音・7音に成り切らないものをも含めて、万葉集に多く見え、平安時代以後衰微。ながうた。
※2−2:反歌(はんか)とは、長歌の後に詠み添える短歌、希に旋頭歌(せどうか)。長歌の意を反復・補足し、又は要約するもので、1首ないし数首から成る。
※2−3:万葉仮名(まんようがな)とは、漢字を、本来の意味を離れ音や訓を借りて仮名的な当て字として用いた文字。借音・借訓・戯訓などの種類が在る。6世紀頃の大刀銘・鏡銘に固有名詞表記として見え、奈良時代には国語の表記に広く用いられ、記紀にも用いられ特に万葉集に多く用いられたのでこの称が在る。真仮名(まがな)。男仮名(おとこがな)。

※3:枕詞・枕言葉(まくらことば)とは、
 [1].昔の歌文に見られる修辞法の一。特定の語の上に掛かって修飾、又は口調を整えるのに用いる言葉。働きは序詞に似るが、5音以下で慣用的な用法である点に特徴が有る。「あしひきの」→山、「ひさかたの」→天、「しらぬひ」→筑紫、の類。冠辞。落書露顕「道といはんれうに、玉ほこといふごとくなる詞を―と心得べきなり」。
 [2].転じて、前置きの言葉。花暦八笑人「ヲツト―なしに言ひねヱ」。
 [3].(江戸時代に「枕辺で語る言葉」と解して)寝物語。大矢数2「夜見世通ひ昼をば何とうばたまの二つならべて―ぢや」。
※3−1:季語(きご、season word)とは、連歌・連句・俳句で、句の季節を示す為に詠みこむ様に特に定められた語。例えば、「鶯」は春の季語、「金魚」は夏の季語。季の詞(ことば)。季題
※3−2:掛詞・懸詞(かけことば)とは、同音異義を利用して、1語に2つ以上の意味を持たせたもの。「待つ」と「松」との意に掛けて、「秋の野に人まつ虫の声すなり」という類。主に韻文に用いられる修辞法の一。

※4:古今和歌集(こきんわかしゅう)は、八代集・二十一代集の第1。勅撰和歌集の始まり。20巻。紀貫之紀友則・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑撰。905年(延喜5)又は914年(延喜14)頃成る。六歌仙・撰者らの歌約1100首を収め、その歌風は調和的で優美・繊麗で、手弱女振り(たおやめぶり)の筆頭。真名序・仮名序が在る。当初、「続万葉集」と言った。「古今集」

※5:隠語(いんご、argot)とは、特定の仲間の間にだけ通用する特別の語。隠し言葉。
※5−1:「謎掛け」とは、[1].謎を掛けること。謎を言い掛けること。
 [2].謎謎。
※5−2:謎謎(なぞなぞ、riddle)とは、(「何ぞ何ぞ」の意)言葉の中に他の物事を含ませ、「何ぞ何ぞ」と問い掛けて答えさせる遊戯。ギリシャ神話のスフィンクスの問い「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩くものは何か」の答えは「人間」の類。謎。謎掛け。判じ物。讃岐入道集「ある宮ばらの女房のもとより―とてかく言ひたる」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:尻取り(しりとり、word-chain game)は、[1].始めの人が言った物の名の語尾の一音を、次の者が頭字として別の物の名を言い、これを順に続けて行く遊戯。「いす→すずめ→めじろ・・・」など。語尾が「ん」の語を言ったら負け。
 [2].文字繋ぎの遊戯。「牡丹に唐獅子竹に虎、虎を踏まえる和藤内、内藤様は下がり藤・・・」の類で、児童遊戯として唄い継ぐもの。「―文句」。

※7:アナグラム(anagram)とは、(ギリシャ語で「文字の順序を取り替えること」の意)言葉の綴りの順番を変えて別の語や文を作る遊び。綴り換え
※7−1:回文・廻文(かいぶん)とは、(カイモンとも)
 [1].circular。回覧用の文書。回状。回章。回し文(まわしぶみ)。廻らし文(めぐらしぶみ)。
 [2].palindrome。短歌・連歌・俳諧などで、上から読んでも下から読んでも同音のもの。回文歌回文連歌回文俳諧などの称がある。
 回文詩は、上から読んでも下から読んでも一詩を成すもの。
 回文対は、上の句から読んでも下の句から読んでも同意の構成に成る対句。

※8:伊呂波歌/いろは歌(いろはうた)とは、
 [1].手習歌の一。音の異なる仮名四十七文字の歌から成る。「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為(うゐ)の奥山今日(けふ)越えて浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」という今様歌。涅槃経第十四聖行品の偈(ぐ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意を和訳したものと言う。俗説では弘法大師の作と信じられて居たが、実はその死後、平安中期の作。色葉歌。
 [2].[1]の「いろは歌」の1字ずつを頭に配して作った教訓歌。

※9:言霊(ことだま、spirit of language)とは、(言葉の「たましい」の意)言葉に宿って居る不思議な霊威。古代、その言葉を唱えると、その力が働いて言葉通りの事象が齎されると信じられた。万葉集13「―のたすくる国ぞ」。
※9−1:言挙げ(ことあげ、mention)とは、言葉に出して特に言い立てること。取り立てて言うこと。揚言。万葉集18「―せずともとしは栄えむ」。
※9−2:言霊の幸ふ国(ことだまのさきはふくに)とは、言霊の霊妙な働きに依って幸福を齎す国。我が国のことを指す。万葉集5「―と語りつぎ言ひつがひけり」。

※10:柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、万葉歌人(生没年未詳:660頃〜710頃か)。三十六歌仙の一。天武・持統・文武朝に仕え、六位以下で舎人として出仕、石見国の役人にも成り讃岐国などへも往復、旅先(石見国か)で没。序詞・枕詞・押韻などを駆使、想・詞豊かに、長歌を中心とする沈痛・荘重、格調高い作風に於いて集中第1の抒情歌人。後世、山部赤人と共に歌聖と称された。「人丸」と書いて「ひとまる」とも言う。
※10−1:山上憶良(やまのうえのおくら)は、万葉歌人(660 〜733)。山上臣。702年(大宝2)遣唐録事として入唐、707年(慶雲4)頃帰国。従五位下・伯耆守・東宮侍講、後に筑前守。豊かな学識を有し、「思子等歌」「貧窮問答歌」など現実的な人生社会を詠じた切実・真率な作が多い。「類聚歌林」を編む。

※11:幸ふ(さきはふ)/幸う(さきはう、さきわう)とは、[1].〔自四〕豊かに栄える。万葉集5「そらみつやまとの国は・・・言霊の―ふ国と」。
 [2].〔他下二〕栄えさせる。続日本紀17「―へ奉り」。
※11−1:幸い(さいわい)は、(「サキハヒ」の転)[1].運が良く、恵まれた状態に在ること。幸せ。幸福。好運。源氏物語絵合「いたうすすみぬる人の、命、―と並びぬるはいと難きものになむ」。「不幸中の―」「お納め下されば―です」「これ―と逃げ出す」「―なことに雨も上がった」。
 [2].(副詞的に)幸せにも。運良く。狂、武悪「―所は鳥辺野なり」。「―大した事故ではなかった」。

※12:アニミズム(animism)とは、(anima[ラ]「魂・霊魂」から)宗教の原初的な超自然観の一。自然界の有らゆる事物に霊的存在を認めるという信仰。自然界の有らゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、それぞれ固有の霊魂精霊などの霊的存在を有すると見做し、諸現象はその意思や働きに依るものと見做す信仰。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※13:狂(きょう)とは、この場合、諧謔。滑稽。「狂歌・狂言」。
※13−1:狂歌(きょうか)は、諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌。万葉集の戯笑歌(ぎしょうか)、古今集の誹諧歌の系統を受け継ぐもので、鎌倉・室町時代にも行われ、特に江戸初期及び中期の天明頃に流行した。夷歌(えびすうた)。戯言歌(ざれごとうた)。夷振(ひなぶり、へなぶり)。

※14:パロディー(parody)とは、[1].捩(もじ)り。
 [2].文学作品の一形式。良く知られた文学作品の文体や韻律を模し、内容を変えて滑稽化・諷刺化した文学。日本の替え歌狂歌などもこの類。又、広く絵画・写真などを題材としたものにも言う。

※15:閑吟集(かんぎんしゅう)は、歌謡集。1巻。編者未詳。1518年(永正15)成る。室町時代の小歌集で、当代の歌謡311首を収める。

※16:鹿都部真顔(しかつべのまがお)は、(「鹿津部」とも書く)江戸後期の狂歌師・黄表紙作者(1753〜1829)。通称、北川嘉兵衛。別号、狂歌堂・四方歌垣。戯作名、恋川好町。江戸の人。戯文を恋川春町に、狂歌を蜀山人に学ぶ。黄表紙「元利安売鋸商内(がんりやすりのこぎりあきない)」など。

※17:TPO/TPO(ティー・ピー・オー)とは、(和製語)(time)・(place)・場合(occasion)の意。又、それらの条件に応じて服装などを選ぶこと。「―を弁(わきま)えない」。

※18:ファジー(fuzzy)とは、(毳(けば)の様な、の意)人間の知覚・感情・判断に伴う曖昧(あいまい)さ
 補足すると、この曖昧さを工学や社会学や経営工学に応用したのがファジー理論で、日本では1980年代後半に導入され、1990年には「ファジー」という言葉が流行語にも成った。
※18−1:ファジー理論(―りろん、fuzzy theory)とは、計算の基礎と成る値や、値と値の関係に曖昧性が有ることを前提にした理論体系。とその値を取る確からしさとを対にして考え、人間の感性や推論方法を記述するのに適するとされる。曖昧理論
 補足すると、この理論を制御工学に応用し、コンピュータやロボットなどに人間の様な曖昧さを盛り込んだ制御方式をファジー制御(fuzzy control)と呼び、更に広くそれを応用した生産方式をファジー・エンジニアリング(fuzzy engineering)と呼ぶ。又、個人個人の持っている微妙な感覚の違いや曖昧さを企業戦略や経営に積極的に生かして行く経営システム論をファジー・マネジメント(fuzzy management)と呼ぶ。

※19:只管遊言(しかんゆうごん)とは、「只管(ひたすら)に言葉を遊び楽しむ」の意で、私の造語。道元禅(=曹洞宗)で言う「只管打坐(しかんだざ)」のパロディー。
※19−1:只管打坐/祗管打坐(しかんたざ)とは、禅宗で余念を交えず、只管(ひたすら)に坐禅をすること。道元禅の特色を表す。

※20:憂き世/浮き世/浮世(うきよ)とは、(仏教的な生活感情から出た「憂き世」と漢語「浮世(ふせい)」との混淆した語)
 [1].wretched life, transient world。(憂き世)無常の世。生きることの苦しい世。儚い世。伊勢物語「散ればこそいとど桜はめでたけれ―になにか久しかるべき」。「つらく苦しい―」。
 [2].this world。(浮き世/浮世)
   [a].この世の中。現世世間。人生。太平記11「今は―の望みを捨てて」。「―の荒波にもまれる」。
   [b].享楽の世界。恨之介「心の慰みは―ばかり」。
   [c].近世、他の語に冠して、現代的・当世風・好色の意を表す。「浮世絵」。
※20−1:式亭三馬(しきていさんば)は、江戸後期の草双紙・滑稽本作者(1776〜1822)。本名、菊地久徳。別号、遊戯堂・洒落斎など。江戸の人。初め書肆を、後に薬商を営み、傍ら著作に従事。「雷太郎強悪物語」を書いて合巻(ごうかん)流行の糸口を開く。作「浮世風呂」「浮世床」など。
※20−2:浮世風呂(うきよぶろ)は、滑稽本。詳しくは、「諢話(おどくばなし)浮世風呂」。式亭三馬作。4編9冊。1809〜13年(文化6〜10)刊。町人の社交場であった銭湯に於ける会話を通じて、庶民生活の種々相を描く。

※21:湯女(ゆな)とは、[1].昔の温泉宿で入浴客の世話をした女。
 [2].江戸時代、市中の湯屋に居た遊女。風呂者。風呂屋女。

※22:申し子(もうしご、godsent child)とは、[1].神仏に祈った御蔭で授かった子。〈日葡〉。
 [2].神仏など霊力を持つものから生れた子。「天狗の―」。
※22−1:落し子(おとしご、illegitimate child)とは、[1].[貴人が]妻以外の女に生ませた子。落し胤(おとしだね)、落胤
 [2].比喩的に、或る事柄に付随して、意図されないで生ずる事柄。「受験地獄の―」。

※23:仮名垣魯文(かながきろぶん)は、幕末・明治初期の戯作者・新聞記者(1829〜1894)。本名、野崎文蔵。江戸京橋生れ。諧謔諷刺に長じ、戯文を以て鳴る。「仮名読新聞」「魯文珍報」を創刊。作「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」「胡瓜遣」など。
※23−1:安愚楽鍋(あぐらなべ)は、滑稽小説。5冊。仮名垣魯文作。1871〜72年(明治4〜5)刊。文明開化の新風俗を半可通の口を借りて滑稽に描いたもの。

※24:宮武外骨(みやたけがいこつ)は、(「外骨」は亀の外骨内肉に因む。「亀」は彼の名を表す。後にトボネと読みを改める)明治・大正・昭和時代のジャーナリスト・風俗史家(1867〜1955)。本名、亀四郎。讃岐(香川県)生れ。東京で頓智協会を設立、後に大阪で「滑稽新聞」などを発刊、政府批判・諷刺に因り再三筆禍に遭う。東大法学部に明治新聞雑誌文庫を創設。著「筆禍史」「私刑類纂」「賭博史」など。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『万葉集(上・下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△2:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。

△3:『日本人の言霊思想』(豊田国夫著、講談社学術文庫)。

△4:『閑吟集』(浅野建二校注、岩波文庫)。

△5:『山家集』(西行著、佐佐木信綱校訂、岩波文庫)。

△6:『万載狂歌集』(大田南畝(蜀山人)撰、野崎左文校訂、岩波文庫)。

△7:『唯脳論』(養老猛司著、ちくま学芸文庫)。

△8:『右脳人間学』(藤井康男著、福武文庫)。

△9:『日本古典文学大系63 浮世風呂』(式亭三馬作、中村通夫校注、岩波書店)。

△10:『源氏物語(二)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。

△11:『江戸入浴百姿』(花咲一男著、三樹書房)。

△12:『安愚楽鍋』(仮名垣魯文作、小林智賀平校注、岩波文庫)。

△13:『面白半分』(宮武外骨著、吉野孝雄編、河出文庫)。

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