-- 2005.06.23 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2007.05.16 改訂
今回は[人形浄瑠璃巡り]シリーズの一編として、大阪市西成区を経廻るこにします。えっ、あの西成にも浄瑠璃所縁の地が在るの?、と思われる方も随分居られると思いますが、ちゃんと在るんでっせ。そもそも、あの西成(にしなり)、とは何ちゅう言い草やねん、一体貴方(貴女)は「どの西成」を思い浮かべてるんでっか?
大阪西成の地図は▼下▼をご覧下さい。
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
人形浄瑠璃は上方生まれの上方育ち、ということを忘れて下さいますな。そして大阪は太閤はんが築いた街、太閤はんは千成(せんなり)でっせ!!
何や「にしなり」やら「せんなり」やら、話が入り組んで来ましたが、呉々も「せんずり」掻かんといてね、「せんずり」掻きたい御仁は飛田に直行して下さい(→飛田の地図)、アッハッハ!!
話だけでは無く今回訪ねる場所は入り組んで居ますが、後で御稲荷(おいなり)さんも出て来ますので、宜しく(←これは後述する言葉遊びです)。又このページの隠れたテーマは「マニア(mania)」です、これも各所で出て来ますので、お・楽・し・み・に!
西成区の北東部は、かの有名な釜ヶ崎(=あいりん地区[愛隣の意味]の旧称)と飛田新地(=旧飛田遊郭)が占めて居ます。従ってこの地域にはアナーキーでアウトローな妖気が色濃く立ち込めて居ますので、通常の人はわざわざココに立ち入ることはしません、精々が「新世界」のジャンジャン横丁止まりです(←この一種異様な雰囲気は既に「阪堺電車沿線の風景-大阪編」の中で述べて居ますので参照して下さい)。
この様な”異界”に余所者でわざわざ立ち入るのは、私の様な「日本再発見の旅」のマニアか、一発マニアかで、何れにしても相当な「好き者」(※1)には違い有りません。ですからこのページを読む貴方(貴女)も又相当な「好き者」かも知れませんよ。【脚注】にも在る様に「好き者」には、「風流好み/好事家」と「好色(=スケベ)」の2通りの意味が有る様です、さて貴方(貴女)はどちらのタイプでっか?、ワッハッハッハ!!
(^O^)
(1)松乃木大明神
これから訪ねる近松碑と猫塚は、民家が密集した細い路地の奥の袋小路の様な場所に在りますので、住所で探しても簡単には見付けることは出来ません。今池商店街の動物園前二番街のアーケード内の「たばこ屋」のお婆ちゃんでも知らないのです、実際には「たばこ屋」から100m足らずの所に在るのに、です。従ってこの場所を知って居るだけで、マニアックな悦びに浸れること請け合いです。私は太子1丁目の西村米穀店のご主人に親切に地図で道順を教えて戴きました、有り難う御座いました。
ま、兎に角阪堺電軌阪堺線今池駅東側の今池商店街(太子2丁目)から入ります、右の写真がそのアーケードの入口で、天辺(てっぺん)の白い花弁は回転します。このアーケードの中を進み突き当たりを左に(=北に)曲がります、それが前述の動物園前二番街のアーケードです。この角はパチンコ屋ですが、パチンコ屋北側の狭い路地を”勇気”を出して左に(=西に)曲がります。アウトローな人種が行き来する往来脇の狭い路地に侵入するには”勇気”が必要です。そして2本目の通りを右に(=北に)曲がると、正面に鳥居が見える筈です。お解りでしょうか?
という訳で私もやっと松乃木大明神(太子2丁目3)を見付けました(左下の写真)。大明神とは名ばかりの小っぽけな神社ですが、ここに近松碑と猫塚が在るのです(→猫塚の地図)。
鳥居を潜ると正面奥にその大明神の祠が在ります(右の写真)。祠の前には一対のキツネが居ますので大明神とは御稲荷(おいなり)さんの様です。
良く遊郭の近くには稲荷神社が在り女性たちから篤く信仰されて居ます。
祠や鳥居の扁額には「正一位 松乃木大明神」と書かれて居ます。左の写真が大明神の祠の扁額です。
祠の右手前には薬師如来を祀ったお堂が在り(右の写真)、どうやら神仏習合の様です。
(2)近松碑
さて目指す近松碑は大明神の祠の左手に在ります(右下の写真)。
大きな石碑の中央には「平安堂近松巣林子信盛碑」、その左脇には「四天王大護国寺主職権大僧上源應書」と刻まれて居ます。平安堂や巣林子(そうりんし)は近松門左衛門の号です(※2)。四天王寺権大僧上・源應とは天台座主242世・245世を務め、四天王寺学園の創立者でもある吉田源應師のことです。裏には近松門左衛門の辞世の歌
それぞ辞世 去ほどに
扨(さて)もそのゝち
残る桜が 花しにほはゞ
が刻まれて居ます。この歌は、「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ...口にまかせ筆に走らせ、一生を囀(さえず)りちらし、今はの際に言ふべく思ふべき真の一大事は一字半言も無き倒惑...もし辞世はと問(とふ)人あらば」という有名な辞世の弁に続いて詠まれたものですが、この自己韜晦的(※3)とも言える諧謔(※3-1)については後の「考察」の章で詳述します。
碑の側面には南区九右衛門町の室上小三郎氏が発起人と成り明治30(1897)年春に建立した旨が刻まれて居ます。室上氏は地主で、吉田源應師に書を依頼し当初は天王寺公園に建立されましたが、次に述べる様な理由から当地に移されました。
(3)猫塚
その猫塚は近松碑の奥に在ります(左の写真)。中央に大きく「猫塚」、左脇には「浪華 易堂書年七十五」と刻まれ、裏には「明治三十四年七月建 室上小三郎」と刻まれて居ます。そして猫塚の形に注目して下さい、何かに似て居ませんか?、そう、これは三味線の胴の形をして居るのです。
そこでこの猫塚の謂れを次にお話しましょう。ここは旧飛田遊郭の北に位置して居ますが、遊郭の”遊び”には芸妓が弾く三味線が付き物、三味線の胴には猫の皮を張ります。という訳で明治36(1903)年に大阪天王寺と堺で開催される第5回内国勧業博覧会(※4)に合わせ、新しい世紀を迎えた明治34(1901)年に室上小三郎氏を中心に飛田の遊芸人や遊郭関係者が費用を出し合い、「猫供養」の為に立てたのがこの猫塚です。石碑を三味線の胴の形にしたのは”遊芸の民”の洒落からでしょう。
それと同時に天王寺公園に在った近松碑をここに移設しました。近松門左衛門は生国魂神社境内の浄瑠璃神社に祀られて居る様に、「芸能の神」の一人と見做されて居ます。
松乃木大明神の祭礼に合わせ毎年4月には猫供養祭が行われて居ます。フーム、皮を剥がれる猫の痛さを思い遣る心を大切にしたいですね。
因みに第5回内国勧業博覧会の天王寺会場の遺構が四天王寺の極楽浄土の庭園に移築された八角堂、堺会場の遺構が旧堺港の龍女神像です。そしてこの天王寺会場の跡地利用として天王寺公園や動物園、更には新世界のルナパークや通天閣が建造されました。
近松碑の手前には小さな「猫塚会」の石碑が置かれ、表には世話役の氏名を列挙し裏には昭和32(1957年)年11月吉日に建立した旨が記されて居ます。実はこの社の鳥居にも同じ日付が刻んで在りますので、この時に神社境内が整備されたのだと思われます。
その横には「大阪邦楽器商組合 猫塚顕彰会」の立て札(右の写真)も立って居ます。この「猫塚顕彰会」は「猫塚会」とは別で、三味線に縁の深い大阪邦楽器商組合が昭和55(1980)年に猫塚の謂れを知り、以降顕彰会を作り前述の猫供養祭に参加して居ます(△1)。
尚、今池商店街では毎年11月22・23日に「近松猫塚芸能祭」を開催して往時の賑わいを再興しようと活動して居ます。ここは一つ地元出身の”浪速のロッキー”こと赤井英和氏に一肌脱いで貰ったら如何?!
さて、この松乃木大明神の境内は鳥居が立つ正面以外は三方塞がれ、完全な袋小路です。そして「猫塚会」の石碑の後ろには左の写真の様な古い井戸の汲み上げ機と石製の洗面台の様な物が在り、ここだけ時間が止まっているかの様です。
ところでこの汲み上げ機の後ろの金網の向こうには、猫塚建立1年前の1900年~93年迄南海天王寺線の電車が走っていた(→後出)のですが、廃線に成り今はレールも撤去され金網に囲まれた儘空き地に成って居ます。
◆下町情緒と女の哀歓 - 近松碑と猫塚の関係
人形浄瑠璃の黄金期を築いた近松門左衛門の碑と三味線に縁の深い猫塚は100年余り、そんな大阪の芸能関係者や遊郭関係者の密かな心の拠り所と成り、下町の人情と心意気が、猫塚には特に飛田の女性たちの哀歓が籠められて居る様に思えます。
私が「飛田の女性たちの哀歓」と言う訳は、「猫」という語はしばしば隠語的に使われる場合が有り、広辞苑を引くとその意味は
[1].(猫の皮を胴張りに用いることから) 「三味線」
[2].(三味線を使うことから) 「芸妓」
を指します。「芸妓」の解釈を少し広げれば「遊女」や「娼婦」などの「花柳界の女性一般」にも通じます。従って遊郭に隣接する場所柄故に、この猫塚は「花柳界の女性を供養する塚」でもあったのだと思えて為りません。
以上の様な意味で私は、飛田新地ご常連の一発マニアの皆さんには、年に一度位はこの猫塚で飛田の「女性供養」を行って戴きたいと願って居ます!
◆「猫捕り」について
ところで、猫を捕らえ皮を剥ぎ三味線屋に売る「猫捕り(猫取り)」という商売が在ったそうです。あのノーベル文学賞作家・川端康成(※5)の『浅草紅団』に、昭和5(1930)年頃の下層民が闇商売として猫を捕らえる瞬間が
「猫を見つけると、紐でしばった雀を投げ出す。雀が羽ばたきする。猫が飛びつく。紐をじりじり引きしぼる。猫がおびき寄せられる。そこをつかまえる早業が、呼吸だ。
捕らえた猫は、直ぐたたき殺す。公園の暗がりか、河岸の物陰で、生皮を剥ぐ。その皮は着物の下にかくして、腰に巻きつけておく。三味線屋へ高く売れる。」
と描写されて居る(△2のp54)のを私は見出しました。浅草の地図は▼下▼から。
地図-日本・東京都(Map of the Metropolis, Tokyo -Japan-)
この商売は非合法でバレたら検挙された様です。しかし私も子供の頃は紐でしばった「煮干し」で猫を釣って遊んだことが有りますね、アホ猫は直ぐ引っ掛かり中々面白かったです。現在は三味線用の猫をどの様に調達して居るんでしょうか?、前述の邦楽器商組合の方に一度伺ってみたいものです!!
因みに、明治・大正の文豪・夏目漱石は「猫鍋」の事を書いて居ます。尤も閑人・変人たちの暇潰しの話ですが。{この「猫鍋」の話へのリンクは07年3月7日に追加}
これから少し寄り道をして、旧南海天王寺線の廃線跡を辿ることにします。
(1)旧南海天王寺線の廃線跡 - 飛田遊郭へのアクセス線
難波利三が小説『てんのじ村』に描いた如く、この界隈や山王町一帯は明治期には東成郡天王寺村に属した為に「てんのじ村」と呼ばれ(△3のp16)、飛田遊郭にも近く何時しか芸人たちが多く住み着きました(後で詳述)と在る様に「てんのじ村」は芸人村です。そんな「てんのじ村」ですが、空襲を逃れた為に昔の儘の細い路地が入り組んで居て逆に大阪の下町人情も温存されました(→「てんのじ村」の地図)。
廃線跡の出発点も阪堺電軌阪堺線の今池駅です。左の写真は萩乃茶屋商店街(萩之茶屋2丁目)の入口を跨いで走る阪堺電車で、電車の直ぐ右手が今池駅です。現在では今池駅が飛田新地の最寄駅です。
私は既に今池駅が高架に成っている理由を「阪堺電車沿線の風景-大阪編」の中で簡単に紹介しました。即ち写真の左の防護塀の左奥が嘗ての南海天王寺線の今池町駅跡で、こことJR天王寺駅の間を南海電車が93年3月31日迄ピストン運行して居ました。
南海天王寺線は国鉄(現JR)のターミナル天王寺駅と南海本線の天下茶屋駅を結ぶ線として明治33(1900)年10月に開業しました。当初の途中駅は曳舟駅と大門通駅で、蒸気機関車がここを走ったそうです。その後、明治40(1907)年に電化され、昭和6(1931)年には複線化され、空襲の戦禍で途中の2駅を消失しましたが、敗戦直後は南海本線が国鉄の蒸気機関車を借りて、この線を利用して天王寺・和歌山間を往復した時期も有ります。南海は天王寺線の2駅の復興を諦め阪堺電気軌道との乗換駅として昭和24(1949)年に今池町駅を新設し再出発しましたが、昭和41(1966)年本線の新今宮駅開業に因りローカル化し、遂に昭和59(1984)年今池町・天下茶屋間が廃止されました。これは当時動物園前駅迄来ていた地下鉄堺筋線を天下茶屋迄延長する為です。天王寺線は今池町・天王寺間に飛田本通駅を新設し便宜を図りましたが、最早完全な”盲腸線”、地下鉄堺筋線が天下茶屋迄開通した直後の平成5(1993)年3月31日、残る天王寺・今池町間も廃止され、これを以て南海天王寺線は全廃されました。
現在は今池駅の地下を地下鉄堺筋線が通り天下茶屋迄伸びていて、旧天王寺線廃線の経緯や距離的にも今池辺りに駅が在ってもよさそうですが、アナーキーでアウトローな雰囲気の為かサラリーマン志向の地下鉄からは無視されて居ます。
しかし、嘗ての飛田遊郭へのアクセス線の跡を見ることが出来ます。猫塚に行った時と同じく今池商店街のアーケードの中に入り、突き当たりを左折し暫く進むとアーケードが途切れて、向こう側に「動物園前一番街」というアーケード入口が見える所に来ます(左下の写真)。今迄のアーケードは「動物園前二番街」だったのです。ここを嘗て南海天王寺線が斜めに横切っていて、左下の写真の金網 -この金網は良く”立小便”を引っ掛けられて居ます- の向こうが飛田本通駅でした(右下の写真)。もう駅舎やレールは在りません。ご覧の様に遠くに高速道路の14号松原線の高架 -この道路建設に絡む立ち退き騒動は小説『てんのじ村』(△3のp137)に描かれて居ます- が見え、跡地は公園化工事を進めほぼ完成して居る様に見えますが、この界隈に多い”無宿者”の侵入を防ぐ為金網で囲った儘です。もう廃線から10年以上経って居ますが一体何時解放するんでしょうか?!
旧南海天王寺線はこの様に「てんのじ村」を斜めに横断し、これから先は緩い上り勾配に成ります。途中の大阪市大病院の手前で国道43号の坂 -この坂道には戦後、闇市が立ち並んで居ましたが、現在はこの下を地下鉄御堂筋線が通って居ます- を越えてJR大阪環状線と平行に成ります。
すると旧天王寺線がJRと平行に成る直前に、左下の写真のJR大阪環状線唯一の踏切「一ツ家踏切」(天王寺区茶臼山町)が出現します(→地図)。ここを渡ると天王寺公園の裏の玉造筋に出ますが、踏切脇には「止まれ」「危険」とベタベタ注意書が在る様に、この踏切は所謂「開かずの踏切」に成る時間帯が有り、年に何回か人身事故や無理な横断で電車が緊急停止するハプニングが起きていて、近い将来廃止される機運に在り、ここもマニアックなスポットの一つと言えましょう。更に鉄道ファンや鉄道マニアの方には「逆引き索引」の鉄道の項目を用意して在りますのでご覧下さい、私は鉄道マニアではありませんが。
さて、この踏切と国道43号の間に戻ると現在工事中の場所が在りますが、工事現場から少し覗くと、在・り・ま・し・た!!、右下の写真の様に未だ撤去されずに在る単線のレールが天王寺駅に向かって伸びて居ます。この写真は05年6月21日に撮ったもので、レールの左の金網の向こうがJR線です。
以上の様に1984年以降の旧南海天王寺線は、
天王寺・飛田本通・今池町の3駅、僅か1.2km
南海電車がたった1輌で走る(チンチン電車並み)
アウトローで淫靡な”異界”を走る(余所者は徒歩では踏み込めない)
という非常に”マニア受け”する”盲腸線”だったのですが、残念乍らマニアは圧倒的に少数派、多数派である一般大衆の支持を得られず遂に廃線の憂き目を見て仕舞いました。
(>_<;)
(2)てんのじ村記念碑
左下の写真が「てんのじ村記念碑」(山王1丁目10)です(→再び「てんのじ村」の地図)。ここも住所だけでは判り難く、目印は14号松原線の高架です。国道43号の南、高架の東の奥まった一角に在ります。
「てんのじ村」は阪堺電軌阪堺線の南霞町駅か地下鉄堺筋線の動物園前駅が最寄駅です。ちょっと北に行くと途中には組事務所や質屋や旅館などが在ります。
ご覧の様に6m以上の大きな青石の石碑ですが、高速道路の脇の金網に囲まれた袋小路の中に窮屈そうに押し込められて居ます。石碑には「上方演芸発祥之地」と在り、秋田實の筆で「てんのじ村記念碑」と刻んで在ります。石垣状の台座には「仏法最初、荒陵山四天王寺に由来する天王寺村は、また文化芸能淵叢の地でもあった。往昔、北は生国魂より南は天神森紹鴎社に及ぶ広大な地域を占めていたといわれる。現在の通称「てんのじ村」は、まさにその中心の地に当たる。...」という「てんのじ村」の名称起源と、この記念碑を建立した経緯及び昭和52(1977)年11月8日という建立日付が記された石板が嵌め込まれて居ます。
そして周囲は記念碑建立に尽力した人々の氏名を刻んだ石柱で取り囲まれて居ます。小説『てんのじ村』には記念碑建立の場面が次の様に書かれて居ます(△3のp188~189)。
「コンクリート製の巨大な橋桁ができ、高速道路が完成すると、てんのじ村の様相は一変した。古い家並みの上空を、わがもの顔でのたくる灰色の道に圧倒されて、村はいびつに縮かんだ。高架の下には赤土の露呈した空地が続き、味気なさに拍車をかけた。
...(中略)...
三人が小便をひっかける橋桁から、わずかに北寄りの地点に、高速道路の阿倍野入口がある。昭和五十二年の十一月、そのそばの空地に、記念碑が建立された。
このままの状態が続くと、早晩、てんのじ村は消えてしまう。高齢化した芸人達が欠けていくにつれ、消滅の危機にさらされている。
それを憂いて、この際、記念になるものを残しておこうという動きが、四年ほど前から持ち上がり、ようやく実現にこぎつけたのである。
...(中略)...
高さ六メートル、幅二メートルの、愛媛産の青石で作られた記念碑には、漫才台本作家・秋田實の筆で
てんのじ村記念碑
と刻まれ、右肩には”上方演芸発祥之地”と付け加えられている。台座には、いわれを刻み込んだ銅版がはめられ、正面の下には、赤御影石に白い字で”大入”と書いてある。総工費の七百五十万円は、かつて、この村に住んでいた芸人や、シゲルら地元の者が出し合った。」
前述の如く第5回内国勧業博覧会の跡地を利用して大正元(1912)年に通天閣を中心に新世界が出現し、大正10(1921)年に飛田遊郭が出来た直後から「てんのじ村」に芸人たち -安来節、漫才、曲芸、紙切り、手品や奇術、浪曲、講談など- が移り住む様に成りました。特に敗戦直後の最盛期の1950年頃には400人位の芸人が住んで居たそうです。簡単な手品や紙切り芸は元々は幇間芸(=太鼓持の芸)から発達しましたから、遊郭や新世界の演芸場に近いのは「地の利」が有りました。あのミヤコ蝶々を始め、人生幸朗、平和ラッパ、海原お浜・小浜などなど、後に有名に成った人たちもこの村の住人でした。
しかし昭和28(1953)年に本放送開始されたミーハーの権化たるテレビの出現で、芸自体が”体を張る”芸から”箱物”芸に変質して行った上に、更に昭和33(1958)年の売春防止法の全面実施に因る飛田の遊郭廃止(代わりに”料亭”が出現)で芸人たちは転職したり村から出て行ったりで、今では10人足らずだそうです。
[ちょっと一言] 大正・昭和初期には安来節に合わせて踊る「泥鰌掬い(どじょうすくい)」の踊りが流行り、大阪新世界や浅草の演芸場では連日上演された様で(△3のp23)、『てんのじ村』主人公のシゲルも安来の隣町の米子出身という設定です(△3のp19)。
作家の江戸川乱歩も浅草で「安来節には、一時ひどく凝ったもので...」と記して居ます(△2-1の「浅草趣味」)。
遊郭は芸人を必要としますが、売春をさせる”料亭”では芸人の出る幕は有りません。この様に芸人村「てんのじ村」と飛田遊郭の変質とは密接に関係して居たのです。この度漸く飛田遊郭のページをアップしましたので、是非ご覧下さい。{このリンクは07年5月16日に追加}
飛田新地(Tobita is quaint red-light district, Osaka)
「てんのじ村」はカッコ好さばかりを追う今の”芸能人”の住める所では無いですね。そして私が「戦後日本の分水嶺」と考える1964(昭和39)年の東京オリンピックが、「てんのじ村」の存在をも人々の記憶から洗い流して仕舞った様に思えます。私には人知れず立つ記念碑が”夢の跡”の墓標の様に見えました。
とんだ寄り道で辺鄙な所に来て仕舞いましたが、実はここは浄瑠璃と無関係では無いのです。嘗て大勢居た浪曲師が演ずる浪花節(※6)は義太夫節に押されて衰退した説経浄瑠璃(=説経節)(※6-1)と祭文(=山伏の祝詞)が融合した説経祭文から生まれて居るのです。ま、こんな難しい議論は兎も角、一度CDで『曾根崎心中』などをお聴きに為れば -これは義太夫節ですが- 浄瑠璃と浪花節が似ていることは”一聴瞭然”ですよ。
(1)安養寺の「おさんの墓」
天下茶屋の地図は▼下▼をご覧下さい。
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
西成区を経廻るには阪堺電車が便利です。次は阪堺電軌阪堺線の聖天坂駅が最寄駅で、駅の西に在る昌芳山安養寺(岸里東1丁目7)を訪ねます。左下の写真が安養寺の山門です。
安養寺は法然上人を宗祖とする浄土宗知恩院派で、一心寺(大阪市天王寺区逢阪2丁目)の末寺です。元禄2(1689)年に貞誉清薫尼に依り創建された尼寺です。本尊は阿弥陀如来で、現在の建物は昭和34(1959)年の再建です。
寺名の「安養(あんにょう)」は正に安養浄土、安養宝国のことで、阿弥陀の浄土に往生すれば「心を安んじ身を養う」という意味です。ここに浄瑠璃所縁の「おさんの墓」が在ります。門前には「由縁斎貞柳翁手植柳浄土宗/関取猪名川の墓/紙治おさんの墓」の石柱と「佐藤魚丸墓所」の石柱が立って居ます。
境内に入ると先ず由緒や浄土宗の教えなどを解り易く記した説明板が在ります。下の写真が寺の由緒の説明板です。
境内には沢山の墓石が並んで居ますが、南奥に進むと目指すおさんの墓が直ぐに見付かります。「おさん」とは近松門左衛門が67歳の晩年に書いた世話浄瑠璃の傑作『心中天網島』(※2-1)の中で、紀伊国屋の遊女・小春と網島の大長寺で心中した紙屋治兵衛の女房・おさんのことです。
「おさんの墓」は、右の写真の左側の堂内に安置されて居ます。その右手前に説明板が在り、それに拠れば、おさんは晩年この寺の尼僧に成り宝暦9(1759)年5月19日に没しました。墓石には「白譽知専比丘尼」と刻まれて居て、堂内を覗けばこの戒名を読むことが出来ます。
『心中天網島』は享保5(1720)年10月14日深夜~15日未明に実際に起きた心中事件を題材にしたヴェリズモ浄瑠璃(←これは私の造語)で、同年12月6日竹本座で初演されて居ます。相変わらず筆が早いですね。
物語の筋立ては単純で、紀伊国屋から曾根崎の茶屋に預けられた遊女・小春と天満の紙屋の若旦那・治兵衛が”遊び”を超えて恋仲に成り最後は心中するというものです。治兵衛の女房・おさんは2人の子供を抱え乍ら紙屋の店を切り盛りし、小春には手紙で治兵衛と別れる様に頼みますが、伊丹の太兵衛が横槍を入れて小春を請け出すと聞いて、太兵衛に気が無い小春が自殺すると感じると、逆に治兵衛に請け出す様に臍繰りの銀や着物を投げ出す良妻賢母の女でした。しかし愚夫・治兵衛(28歳)と小春(19歳)は何かに”取り憑かれた”様に義理を捨て身を捨てて網島の大長寺近くの小川の辺(ほとり)で10月15日未明 -作品では未明に設定- に「心中」を遂げる、という内容です。
実際この時代は心中ブームと言える程心中が大流行し1695年頃からあちこちで連鎖反応的に心中事件が起き、或る意味で心中に”取り憑かれた”時代とも言えます。ブームに右往左往するのは常に「大衆」ですが、元禄時代頃から新興の町人階級が文化の担い手に成り、心中事件はその大衆が主役でした。幕府は頻発する心中を防止する為、心中死体を腐る迄放置したり、関係者(事後では当事者は死んで居る)や事前に発覚した当事者を厳罰に処したりしましたが心中は止まず、将軍吉宗は享保8(1723)年遂に心中物の出版・上演を禁止しました。近松門左衛門は心中事件が有るとすっ飛んで取材をする程の心中マニアでしたが、この禁令が出された翌年に前述の如く「真の一大事は一字半言も無き倒惑...」と言い捨てて72歳の生涯を閉じて居ます。
尚、大長寺は元の網島から現在は大阪市都島区中野町2丁目に移りましたが、大長寺境内には小春・治兵衛の比翼塚が在ります。
(2)他にも有る安養寺と浄瑠璃の縁
序で乍ら右上の写真で「おさんの墓」の右隣に在るのが猪名川弥右衛門の墓で、その右手前が説明板です。それに拠れば、関取・猪名川は阿波徳島生まれの江戸末期の名力士で初めの四股名は菊ヶ浜弥吉、良く稽古に励み相撲に精進し人には仁愛を以て接したことで名が広まり、近松半二(※7)作の浄瑠璃(後に歌舞伎にも成る)『関取千両幟』の主人公に成りました。猪名川は嘉永2(1849)年2月5日、57歳で没と記して在ります。
本堂の北の無縁墓が積まれて居る中には佐藤魚丸の墓 -厳密には「狂歌墳」(※8)という歌碑- が在ります。魚丸は蝙蝠軒魚丸という号で享和~文化年間(19世紀初頭)に活躍した狂歌師で、『狂歌二翁集』『狂歌よつの友』『狂歌浦の見わたし』などを撰して居ます。右の写真がそれで、碑の左に「蝙蝠軒魚丸狂歌墳」、右に辞世の歌
散らぬ間の花を我身にせかれけり
つねにある風常になき風
を刻んだ小さな石柱が立てたれて居ます。「狂歌墳」の側面には文政4(1821)年2月15日寂 行年70歳」と在ります。
魚丸は鯛屋貞柳(又は油煙斎貞柳、由縁斎貞柳)(※9)の流れを汲む人ですが、門前の石柱にも記されて居た様にここは貞柳所縁の寺でもあり、その縁で魚丸の墓がここに在るのでしょう。
その貞柳は大坂御堂前の菓子商・鯛屋の生まれで、浪花狂歌の大御所です。貞柳はここで号の1字を成す「柳」を植えたそうで、境内には「貞桺翁種柳」の石柱と「由縁斎鯛屋貞柳植柳跡地」の石碑が在り(左の写真)、石碑には
名にしおはこゝも
安養浄土ぞと
願いの糸をかくる青柳
という歌が刻まれて居ますが、これは狂歌では無く真面目な歌ですね。
因みに貞柳の墓は天王寺区下寺町の光伝寺に在ります。
ところで貞柳の弟が近松門左衛門に対抗し豊竹座の座付作者として活躍した浄瑠璃作者・紀海音(※9-1)で、『八百屋お七』などは皆さんもご存知でしょう。
貞柳の父・善右衛門は家業の鯛屋を経営し乍ら貞門(※10)の俳人として、貞因と号し連歌や俳諧を嗜んだ人です。貞柳や海音の号・貞峩の「貞」は貞門を継承して居ることを表します。
右上は境内中央に植えられた大きな蘇鉄の木です。堺の妙国寺の蘇鉄は良く知られて居ますが、関西の寺の境内では蘇鉄の木を良く見掛けます。安養寺を去る前に以上のお墓に、合掌!
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この様に安養寺は浄瑠璃に縁の深い寺で、しかもこれらの史跡が良く整備されて居ます。今はこの様な事実はすっかり忘れられ訪れる人は殆ど居ませんが、安養寺の門前は嘗ての住吉街道、向かいの天下茶屋公園は嘗ての薬屋「是斎屋」の屋敷跡で、往時はこの街道沿いは大いに賑わって居たのです。
以上、大阪西成の浄瑠璃所縁の地を、寄り道をし乍ら経廻って来ましたが、ここでは「てんのじ村」の近松碑でご紹介した門左衛門辞世の諧謔性について考えてみましょう。この考察は「人形浄瑠璃巡り」を食み出す「思考の寄り道」です。
近松門左衛門の出生には不明な部分が多い(※2)のですが、「代々甲冑の家に生れ...」と自ら語る様に武士の家に生まれ幼い頃は俳諧を嗜んだ様で、寛文11(1671)年の山岡元隣(げんりん、※11)の俳書『宝蔵』に
しら雲や 花なき山の 恥かくし 門左衛門
という句を寄せて居ますが、門左衛門18歳頃のこの句は実に諧謔的でユーモアに溢れて居ます。これを見ると辞世の韜晦的・自嘲的な諧謔は「然もありなん」、という気がして来ます。
実はこの門左衛門辞世の歌は、門左衛門と因縁浅からぬ大田蜀山人(※12、※12-1)が撰んだ『万載狂歌集』(※12-2)の巻第9に載って居ます(△4のp59)。そして同じ巻第9にはライバルの紀海音が兄・貞柳の『油煙斎置土産』に寄せた歌も載って居ます。
しるしらぬ 人を狂歌に 笑はせし その返報に 泣いてたまはれ
海音
流石は狂歌の著作も有る海音(※9-1)、「泣いてたまはれ」とは笑わせます。
そこで『万載狂歌集』を仔細に見て行くことにしましょう。例えば狂歌中興の祖・貞柳が巻第6で
はらひにも ならぬ物から せはしなや 大つごもりの 入相のかね
油煙斎
と、忙(せわ)しい最中の大晦日の晩鐘を嘆けば、狂歌の完成者・蜀山人自身は四方赤良の名で巻第1に於いて
くれ竹の 世の人なみに 松たてゝ やぶれ障子を 春は来にけり
四方赤良
と、正月の身窄らしさを自嘲するという具合です。更には俳人・山岡元隣も巻第15に
古語にいはく 命ながければ はぢ多し よくまなびても 何かせん術
元隣
と、自分を未熟者として詠嘆して居ます。
そして極め付きは松永貞徳(※10-1)の歌で、巻第1の筆頭に出て来ます。
さほ姫の すそ吹返し やはらかな けしきをそゝと 見する春風
貞徳
流石は貞門の元祖、この情景は皆さん個々で想像して下さい。私もこの様な「やはらかなけしき」が大好きです、ムッフッフ!
以上の様に、このページで触れた人たちの狂歌が偶然にも、「天明の狂歌」全盛の先駆けを為した『万載狂歌集』に採り上げられて居ます。この様に元禄頃から狂歌は教養人の嗜みの一つ(※8)と成り、その諧謔精神 -その裏には反骨精神(※13)が覗えます- が洒落本・滑稽本などの戯作文学(※14)を生み、その挿絵の為に後に浮世絵と呼ばれる木版画が隆盛を迎え、更には落語や川柳の発生へと広がります。従って近松門左衛門の辞世の言葉と歌の諧謔性は、蜀山人や『浮世風呂』の式亭三馬(※14-1)や『東海道中膝栗毛』の十返舎一九(※14-2)などの「物書き」たちの辞世の歌
生き過ぎて 七十五年 喰ひつぶす 限り知られぬ 天地(あまつち)の恩
蜀山人
善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵笑はず 閻魔叱らず
式亭三馬
この世をば どりゃお暇に せん香の 煙とともに 灰左様なら
十返舎一九
にも通じるもので、この様な自嘲的な諧謔は元禄以降の江戸教養人に共通の時代精神だったと感じられます。
[ちょっと一言] 十返舎一九は若い頃は大坂に出て近松余七という名で浄瑠璃作家を目指した事も有るんです。彼が単独で書いた物は無いですが共作したものは在ります。24歳の時(1789年)に大坂で初演した『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)』(時代物、10段)は若竹笛躬(ふえみ)・近松余七・並木宗輔の合作で、太閤記物に盗賊の石川五右衛門が絡む内容です。主な登場人物は小田春永(=織田信長)とか此下当吉(=木下藤吉郎、後の太閤秀吉)などです。題名からも想像が付く様に「木下」は太閤を、「蔭狭間」は信長が今川義元を奇襲した桶狭間のパロディーです。この後、彼は1793年(28歳)で江戸に出て戯作者として大成功する事は皆さん良くご存知です。
その時代精神を一言で言うと、「言葉遊び」であり、「粋(いき)」と呼ばれる江戸ダンディズム(※15)の心意気であり、この様な情趣を楽しむ心は洒落マニアと言えます。言葉遊びや粋は当サイトのコンセプトの一つであり、「言葉遊び」の遊び心から「快楽主義者のお喋り集」のコーナー目次に「浮世風呂」を用意してまっせ!
ともすると日本の歴史教育や古典教育では、芭蕉の様な侘び寂びた「真面目さ」ばかりが強調されて居ますが、狂歌に代表される諧謔精神 -即ち洒落・滑稽・飄逸・諷刺・反骨など- が江戸時代の底流に有ったことを把握しないと、人形浄瑠璃や歌舞伎や吉原などの遊郭が大流行りした新興町人階級のエネルギーとダイナミズムや「粋(いき)」を身上とした生き方を理解することは難しいでしょう。これがこの「考察」の結論です。
浄瑠璃作家の近松門左衛門は心中マニアとして、『心中天網島』の他に、『曾根崎心中』『生玉心中』『心中万年草』『心中宵庚申』などの「心中物」で世話浄瑠璃の新境地を開き、心中ブームを巻き起こした立役者と言えます。実際の心中事件を劇化して好奇心を誘い興行的に”大当たり”を獲り、それに刺激を受けた男女が又新たに心中事件を起こすという連鎖的相乗効果が、心中ブームを作り出しました。これは今日の過剰報道と模倣犯の関係に似て居ます。
人々が芝居見物に繰り出せば、それだけ消費を喚起しゼニが回り経済が活性化する訳ですから、今日風に言えば経済効果が有るというものです。私は何処ぞの「××総研」さんがこの現象を定量化して、「江戸時代に於ける「心中」の経済効果」でも試算して呉れないかしら、と願って居ますゾ、オッホッホッホ!!
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【脚注】
※1:好き者(すきもの)とは、[1].dilettante。風流な人。好事家(こうずか)。すきしゃ。数寄者。源氏物語若紫「笙の笛持たせたる―などあり」。
[2].lecherous fellow。好色の人。堤中納言物語「この―叩けり」。
※2:近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者(1653~1724)。本名、杉森信盛。平安堂・巣林子(そうりんし)などと号。越前の人。歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者。狂言本二十数編、浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。作「出世景清」「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「けいせい仏の原」など。
補足すると、誕生地は不詳な点が多く「広辞苑」では越前説を採用してますが、最近の研究では長州説も有力な様です。
※2-1:「心中天網島」は浄瑠璃の一。近松門左衛門作の世話物。1720年(享保5)初演。同年の大坂天満の小売紙商・紙屋治兵衛と紀伊国屋の遊女・小春とが網島の大長寺で心中した事件を脚色。
※3:韜晦(とうかい、conceal oneself, disappear)は、[旧唐書宣宗紀](「韜」は包む意、「晦」は晦(くら)ます意)自分の才能・地位などを包み隠すこと。形跡を晦まし隠すこと。「自己―」。
※3-1:諧謔(かいぎゃく、humor, joke)は、面白い気の利いた言葉。戯(おど)け。洒落。滑稽。ユーモア。「―を弄する」。
※4:明治政府は殖産振興と工業化促進の為ロンドンやパリの万国博や工業博覧会を模して内国勧業博覧会を5回開き、どれも盛況でした。
第1回:明治10(1877)年 東京(上野公園)
第2回:明治14(1881)年 東京(上野公園)
第3回:明治23(1890)年 東京(上野公園)
第4回:明治28(1895)年 京都(岡崎公園)
第5回:明治36(1903)年 大阪(天王寺/堺)
第5回の大阪は天王寺を第1会場に、堺の大浜を第2会場(水族館を中心)として居ます。
※5:川端康成(かわばたやすなり)は、昭和の小説家(1899~1972)。大阪市生れ。東大卒。横光利一らと新感覚派運動を展開。やがて独自の美的世界を築き、女性を描くことに優れる。作「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「山の音」など。自殺。文化勲章・ノーベル賞。
※6:浪花節(なにわぶし)は、多く軍書・講釈・物語・演劇・文芸作品を材料とし、節調を加えた語り物。三味線の伴奏で独演する。元は説経祭文から転化したもので、初めは、浮かれ節・ちょぼくれ・ちょんがれ節などと呼ばれた。江戸末期に大坂から始まり、浪花伊助を祖と伝えるが、盛んに成ったのは明治以後で、桃中軒雲右衛門の功が大きい。浪曲。
※6-1:説経節(せっきょうぶし)は、中世末から近世に行われた語り物の一。仏教の説経から発し、和讃・講式・平曲などの影響も受ける。簓(ささら)を用い、大道芸・門付芸として発達。門説経(かどせっきょう)・歌説経などの形態も在った。やがて胡弓・三味線をも取り入れ、操り人形芝居とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文頃で、宝永・正徳頃から義太夫節に圧倒されて衰微するが、後に浪花節を派生。説経浄瑠璃。説経。
※6-2:簓(ささら)は、日本の民俗楽器の一。20cm程の竹の先を細かく割って束ねたもの。田楽・説経・歌祭文や田植囃子などで、簓子(ささらこ)と摺り合わせたり、2本の簓を打ち合わせて調子を取ったりする。すりざさら。簓竹。
※6-3:簓子(ささらこ)とは、田楽などで簓を擦るのに用いる細い棒で、竹や木に鋸歯状の刻み目を付けたもの。ささらのこ。
※7:近松半二(ちかまつはんじ)は、江戸中期の浄瑠璃作者(1725~1783)。本名、穂積成章(一説、季昌)。儒学者穂積以貫の子。大坂の人。2世竹田出雲の門人。作「本朝廿四孝」「妹背山婦女庭訓」「傾城阿波の鳴門」など。
※8:狂歌(きょうか)は、諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌。万葉集の戯笑歌(ぎしょうか)、古今集の誹諧歌の系統を受け継ぐもので、鎌倉・室町時代にも行われ、特に江戸初期及び中期の天明頃に流行した。夷歌(えびすうた)。戯言歌(ざれごとうた)。夷振(ひなぶり、へなぶり)。
※9:鯛屋貞柳(たいやていりゅう)は、江戸中期の狂歌師(1654~1734)。大坂の人。榎並氏。本名、永田良因、後に言因。通称、善八。家号は鯛屋。号は由縁斎・珍菓亭など。紀海音の兄。最初の専狂歌師で狂歌中興の祖と言われる。作「家づと」「油煙斎置土産」など。
※9-1:紀海音(きのかいおん)は、江戸中期の浄瑠璃作者(1663~1742)。大坂の人。通称、鯛屋善八。別号は貞峩・契因など。僧や医師を経て豊竹座の座付作者として、義理を主題とする理知的な作風で竹本座の近松門左衛門に対抗。作「椀久末松山」「お染久松袂の白しぼり」「八百屋お七」「心中二つ腹帯」など。俳諧集「橋波志羅(はしばしら)」、狂歌集「戎の鯛」の著作も在る。
※10:貞門(ていもん)とは、俳諧の流派。松永貞徳を祖とするもの。
※10-1:松永貞徳(まつながていとく)は、江戸初期の俳人・歌人(1571~1653)。名は勝熊、号は長頭丸・逍遊軒など。京都の人。細川幽斎に和歌を、里村紹巴(じょうは)に連歌を学んだ。和歌や歌学を地下(じげ)の人々に教え、狂歌も近世初期第一の作者。「俳諧御傘(ごさん)」を著して俳諧の式目を定め貞門俳諧の祖と成る。花の下宗匠。門人に北村季吟らの七哲が在る。編著「新増犬筑波集」(「油糟」「淀川」の総称)、「紅梅千句」など。
※11:山岡元隣(やまおかげんりん)は、江戸前期の仮名草子作者・俳人(1631~1672)。名は新三郎。伊勢の人。北村季吟に和歌・俳諧を学び、著には「宝蔵」などの俳書と共に、「徒然草増補鉄槌」など古典の注釈も多く、仮名草子に「他我身之上(たがみのうえ)」「小巵(こさかずき)」などが在る。
※12:蜀山人(しょくさんじん)は、大田南畝(なんぼ)の別号。
※12-1:大田南畝(おおたなんぼ)は、江戸後期の狂歌師・戯作者(1749~1823)。幕臣。名は覃(たん)。別号、蜀山人・四方赤良(よものあから)・寝惚(ねぼけ)先生。学は和漢雅俗に亘り、性は洒落・飄逸、世事を達観して時勢を諷刺、天明調の基礎を為した代表的狂歌師。狂詩文にも優れ、山手馬鹿人の名で洒落本も書いた。著「万載狂歌集」「徳和歌後万載集」「鯛の味噌津」「道中粋語録」「一話一言」など。
補足すると、これらの著作の他、浮世絵師の略伝逸話を集めた「浮世絵類考」は浮世絵研究の原典です。
※12-2:万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)は、天明期江戸狂歌の最初の撰集の一。古人の狂歌を含む。17巻2冊。四方赤良(蜀山人)・朱楽菅江(あけらかんこう)編。1783年(天明3)刊。
※13:反骨/叛骨(はんこつ、resistance)は、容易に人に従わない気骨。権力に抵抗する気骨。「―精神」(spirit of resistance)。
※14:戯作(げさく)は、(ケサクとも)[1].戯れに詩文を作ること。又、その著作。
[2].江戸中期以降、主に江戸に発達した俗文学、特に通俗的な娯楽小説。読本(よみほん)・談義本・洒落本・滑稽本・黄表紙・草双紙・合巻(ごうかん)・人情本などの総称。戯作本。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※14-1:式亭三馬(しきていさんば)は、江戸後期の草双紙・滑稽本作者(1776~1822)。本名、菊地久徳。別号、遊戯堂・洒落斎など。江戸の人。初め書肆を、後に薬商を営み、傍ら著作に従事。「雷太郎強悪物語」を書いて合巻(ごうかん)流行の糸口を開く。作「浮世風呂」「浮世床」など。
※14-2:十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は、江戸後期の戯作者(1765~1831)。本名、重田貞一(さだかず)。駿府生れ。大坂に行き、近松余七と号して浄瑠璃作者と成り、1793年(寛政5)江戸に出て戯作に従事し、滑稽本を得意とした。作「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。
※15:ダンディズム(dandyism)は、男性のお洒落。洒落者気質、伊達好み。
(以上出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:「全国邦楽器商工組合連合」公式サイト。
△2:『浅草紅団・浅草祭』(川端康成著、講談社文芸文庫)。
△2-1:『土地の記憶 浅草』(山田太一編、岩波現代文庫)。
△3:『てんのじ村』(難波利三著、文春文庫)。
△4:『万載狂歌集』(大田南畝(蜀山人)撰、野崎左文校訂、岩波文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):言葉遊びや粋は当サイトのコンセプトの一つ▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
@参照ページ(Reference-Page):大阪市西成の地図▼
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
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地図-日本・東京都(Map of the Metropolis, Tokyo -Japan-)
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日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)