飛田新地
[大阪の古風な売春街]
(Tobita is quaint red-light district, Osaka)

−− 2007.05.16 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■はじめに − 遊郭時代を思わせる古風な情緒

 飛田新地大阪市西成区山王3丁目を中心に”料亭街”を形成して居ます。新地(※1)とは新しく作られた遊里/遊郭のことです。後で詳しく説明しますが、飛田に遊郭が出来たのは1916(大正5)年で、それ以前はハラッパ、江戸時代は刑場です...(>v<)。
 → 大阪飛田の地図を見る(Open the map)!

 そして、当サイトで最初に飛田を紹介したのは、2003年に右の写真を
  阪堺電車沿線の風景−大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)

にて紹介したものです(この写真は03年9月26日に撮影)。

 「琥珀」「赤坂」「相生」「幸」など各”料亭”の看板が見えます。あれから4年が経過して漸く本ページの原稿がアップロード出来ました。忘れて居た訳では無いですが時間不足の為、否、私の能力不足の為、随分遅く成りました。
 しかし1958(昭和33)年売春防止法の全面実施後も、赤線時代の旧遊郭の雰囲気を保ち続けている貴重な存在です。東京の吉原など単なる風俗街に堕落したのを見ると、その思いは一層募ります。
 現在、阪堺電軌阪堺線の今池駅が一応最寄駅です。それでは飛田を見て、飛田のシステムを知る必要が在りますゾ!

 ■飛田エロ睨み

 (1)正真正銘の料亭・鯛よし百番

 右は現在は正真正銘の料亭・鯛よし百番です。元はやはり遊郭百番です。築年は1918(大正7)年で木造2階建てです。1階の門構えは京都醍醐寺の三宝院の唐門を模したものだそうで中々豪勢な造りで、今は国の登録有形文化財です(この写真も03年9月26日に撮りました)。
 料理は鯛鍋や「すきやき」などが¥3000位から在り、私も10年位前の未だ前世紀に友人と「すきやき」を食べた思い出が有ります。我々の場合はビールを飲みましたので¥4000位/1人だった様に思います。

 (2)”料亭”を騙る売春宿 − でも合法なり!

 以下の写真は03年9月30日に撮りました。

 左は「祝津」という”料亭”です。2階は連子格子(※2)に成って居ます。
 右は古く成って居ますがステンドグラスです、レトロな大正のロマンを感じさせます。

 左は「まき」「夢」「悦羅」と在ります。
 右は「道楽」「徳島」「八重」「楽喜」と読めます。

 左の「ひなた」の白い門です。「姫」「吉原」と看板が続きます。
 そして右が大門近くの「飛田新地料理組合」の看板です。これは錦の御旗です。何と言っても立場の弱い”料亭”(見世)が「飛田新地料理組合」の下に結束出来るしヤクザの介入も或る程度食い止められるからです。更に又、自分の立場を主張すら出来ない娼妓たちの唯一の存在証明なのです。












 (3)遊郭の中の保育所







 ■



 ■飛田の歴史 − 刑場跡に出現した色街

 (1)江戸時代の大坂の刑場

 江戸時代、大坂には次の4箇所に刑場が在りました。

  千日刑場(現:中央区千日前1丁目) → 主に獄門刑(晒首)
 難波村の北端で千日墓所の前に在り、嘗ては道頓堀刑場とも言われた。人通りの多い千日刑場では罪人を松屋町牢屋敷内で斬首し首をここに晒しました。

  鳶田(飛田)刑場(現:西成区太子1丁目) → 主に火罪(火炙り)
 摂州西成郡今宮村鳶田の泉州筋街道に面した処に在り供養塔が数基建立されて居た。常設の番人小屋は無く処刑の時に番人小屋を建て番人が詰めたそうで、平素は葦の茂った原野でした。

  野江刑場(現:都島区中通り3丁目) → 主に鋸挽(※9)、
 高麗橋から約1里程の東成郡野江村の京街道に面した処に在り平日は雑草が生い茂って居ました。

  三軒家刑場(現:大正区三軒家東2丁目) → 廻船に関わる刑
 木津川口の月正島に在った刑場で葦島刑場とも称し、廻船に関わる刑を執行しました。

 尚、高札場(※10)は高麗橋/京橋/天満橋/札ノ辻町/玉造平野口町/日本橋/天王寺の7箇所に在りました。

 いやぁ、それにしても鋸挽(のこぎりびき)とは凄い刑ですね。こういう話題に興味有る方は【参考文献】△5でも読んで下さい、鋸挽も出て居ます(△5のp137〜139)。
 「飛田」は「鳶田」とも書いたんですね。ところで「飛田者」という言葉が在って、今から考えると「飛田の廓狂い」と思うかも知れませんが違うのです。飛田者とは「飛田(鳶田)の刑場に行く者」、即ち「処刑者」「ならず者」という意味です。近松は『曾根崎心中』(1703刊)での九平次の徳兵衛への悪態の中で「どうで野江飛田もの」と罵って居り(△6のp36)、元禄の頃には「飛田者」が定着して居たのです。又、上で見た様に野江も刑場でした。

 (2)葦の茂った原野に出現した色街飛田

 そんな刑場跡地の平素は葦の茂った原野飛田遊郭(現:西成区3丁目) −刑場跡より少し天王寺側に寄って居る− が出現したのは1916(大正5)年です。それは「明治の末に相次いで焼失した曽根崎新地、難波新地の権利者と新町遊郭の一部業者を移転させる「遊郭整理案」によるもの」とされ(△7のp191)、廓清会を中心に大掛かりな反対運動を押し切って、大正7年には100軒余りの楼閣が並び昭和の初めには200軒を超えました。その頃の娼妓の数は2750人と在ります(△7−1のp123)。
 当時の様子は「大門を入ると中央の大通りを中心に、縦横街は幾筋と無く整然と別れて、和洋折衷の貸座敷がずらりと並んでいる。店は全部写真店(※12、※12−1)で、陰店(※12−2、※12−3)は張って無い。揚屋(※12−4)や引手茶屋(※12−5)も無く、客は直接貸座敷へ登楼するのだ。娼妓は全部居稼ぎ制で、遊興は時間、又は通し花(※12−6)制で廻し(※12−7)は取らない。費用は一時間一円五十銭で、午後六時から十二時迄が五円二十五銭、...」と書かれて居ます(△7−1のp123)。この文章は元々は『全国遊郭案内』(日本遊覧社編・発行、昭和5年刊)(△7−1のp201)で、当時の物価は詳しく知りませんが「一時間一円五十銭」は今日の「1時間1万5千円」位でしょう。昭和の初めから見て金(かね)の価値は1万倍に減少して居ます。又、通し花で6時〜12時が5円25銭、つまり今日の5万円位で”何発でもOK”ですゾ。しかし男は精々数発ですよ。
 ところで、遊郭の文章を読み解くには”独特の隠語”(※13)を理解する必要が有ります。上の『全国遊郭案内』からの引用文にはその様な隠語を斜体字で表し、合わせて【脚注】を付けて置きましたので上の文章を良く読んで理解して下さい。しかし、貴方がこれら”独特の隠語”をスラスラと読み下した、としたら貴方は「飛田の廓通い・廓狂い」としての飛田者です!!
 尚、『全国遊郭案内』には時代を反映して、当時日本が植民統治した台湾・朝鮮・関東州(=満州)の色街情報も載せて在るのは出色です(△7−1のp161〜172)。

 まぁ、この様にオープンなシステムにしたのが後発の飛田には幸いしました。松島は空襲で全焼しましたが、飛田は戦災も北東の部分を除いては焼け残り、1956(昭和31)年の売春防止法制定(※15)で「飛田新地料理組合」を結成し表向き「料亭」へと変貌を遂げ、58(昭和33)年売春防止法の全面実施も何の其の、その後1984(昭和59)年の風営法改正も潜り抜け逞しく生き抜いて居ます。店(見世)が「料亭」に成ったので後は

  「料亭内の客の男と店の女の子の自由恋愛

なんだそうです、ちょんの間(※12−8)の。だから皆さん、1958年の売春防止法の全面実施以降は赤線(※15−1)は日本に存在しない筈ですが、にも拘わらず飛田の実態は”限りなく赤線に近い”(※16)のです。それにしても、この辺の論理の捏ね回しには警察側も店(見世)側にも呆れますなぁ、参りました!!
 因みに、飛田と同様に大阪府で”限りなく赤線に近い”状態を今日保っている所は

  松島新地 (大阪市西区本田)
  今里新地 (大阪市生野区新今里)
  信太山新地(大阪府和泉市幸町)
  滝井新地 (大阪府守口市滝井西町)

で、今後も健闘を祈ります。私の弟子のリチャード・プー氏もこれらの赤線地帯を「ちゃんと整備すべし」と吼えて居ます。
 因みに、売春地帯を英語では "red-light district" と言うのです(←本ページのタイトルを見よ!)が、すると赤線地帯は直訳で "red-line district" と成りますな、面白いですね!!
 信太山新地は「信太の狐」で浄瑠璃などで有名です。滝井新地は京阪滝井駅・千林駅の近く、千林と言えばダイエー創業者の中内功が第1号店を出した所ですね。料亭(見世)の数は10軒程度と少ないので後10年持つか?、の感じですが逆に馴染み向け/マニアックという噂も在ります。

 (3)何故「論理の捏ね回し」が行われるのか − 売春は絶対悪では無い

 「飛田の歴史」の最後に、では何故「論理の捏ね回し」が行われるのか?、について私の見解を述べましょう。結論から言うと

  人間のセックスを肯定する限りは「売春は絶対悪」では無い
    → 売春は一定程度必要

という事です。飛田遊郭を作る時にも反対運動が起こりましたが、「飛田は自分の地元だから反対だ」、「他に作ってくれ」という訳です。つまり「売春は絶対悪」と言う訳では無くエゴの対立なのです。今のゴミ焼却場の反対運動と同じ構図で、ゴミ焼却場が必要な事は解るが「ここに作るのは反対だ」「他に作ってくれ」という論理です。
 歴史を繙(ひもと)くと、売春は有史以前から在り、それが面々と受け継がれ公娼制度(※15−2)が作られました。フェミニズム(※18)から「売春は絶対悪」を唱えるのは、とんでもない問題の履き違えです。人間のセックス −人間ばかりで無く主要な生物は有性生殖、即ちセックスをするのです− を肯定する限りは「売春は絶対悪」では無いのです、つまり一定程度”売春という抜け道”が必要なのです。人間のセックスを否定する人のみ「売春は絶対悪」を唱えることが出来ます。しかし、人間のセックスを否定したら子供が出来ない、人類は滅亡するしか有りません。それでも良いのですか?
 そんな事は十分解っているからこそ論理の捏ね回しが必要に成って来るのです。しかし何時もは取締まりに厳しい警察が自由恋愛を持ち出す所が、何とも滑稽な限りです。

 ところで、論理の捏ね回し警察と店(見世)が結託している訳ですから、警察は店(見世)からバックマージンを得ているだろう、と考えるのは私の様な下衆の人間が当然考える事です。店(見世)の上がりからと言う事は、結局は娼妓(←今ではギャルとも言う)の稼ぎからという事に成り、つまりは「ちょんの間一発で1万5千円」から警察は1割=1500円位抜くんでしょうか、アッハッハッハ!!

 ■

 

 ■戦災を逃れた飛田 − 黒龍大神の御陰だぞ!

 

 ■結び − 






φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:新地(しんち)とは、この場合、新開地に出来た遊里。大坂の曾根崎新地、江戸深川の新地など。転じて、遊里遊郭

※2:連子/櫺子(れんじ)とは、窓や欄間などに縦、又は横に一定の間隔を置いて取り付けた格子。れにし。宇津保物語楼上上「―すべき所には、白く青く黄なる木の沈(じん)をもちて」。

※3:ステンドグラス(stained glass)は、色ガラスを使ったり色を塗ったりして、模様や絵を表した板ガラス。教会堂などの窓ガラスに用いる。着色ガラス。







※9:鋸挽(のこぎりびき)とは、鋸で首を引き切る刑罰で、最も残虐な極刑戦国時代に行われたことが多く、江戸時代には主殺しの罪人に科した。両肩に傷付け、その血を鉄鋸・竹鋸に塗って2日間晒し、行人に随意にその頸を挽かせ、引回しの上、磔(はりつけ)に処した。
 補足すると、儒教道徳の封建時代には主殺しが最も重い罪であった。

※10:高札(こうさつ/たかふだ)は、この場合、法度(はっと)・掟書(おきてがき)などを記し、又、晒し首・重罪人の罪状を記し、人目を引く所に高く掲げた板札。立札。

※11:飛田者/鳶田者(とびたもの)とは、(飛田(鳶田)は大阪天王寺の西で、江戸時代の刑場)飛田行きの人。仕置者。処刑者。浄、曾根崎心中「どうで野江か―」。

※12:写真店/写真見世(しゃしんみせ)とは、玄関を入った所に娼妓の写真を置く店。
※12−1:店/見世(みせ)とは、この場合、妓楼で、道路に面して格子構えなどにし、遊女が居て遊客を誘う座敷。又、そこに遊女が居並んで客を待つこと。張見世。
※12−2:陰店/陰見世(かげみせ)とは、遊女が往来に面してで無く、家の中で客に見える様に並んで居ること。公許でない宿駅の遊里などの風習。←→張店(はりみせ)。
※12−3:張店/張見世(はりみせ)とは、遊郭で、娼妓が店先に居並んで客を待つこと。←→陰店。
※12−4:揚屋(あげや)は、遊里で、遊女屋(置屋)から遊女を呼んで遊ぶ家。
※12−5:引手茶屋(ひきてぢゃや)とは、遊郭で、遊客を妓楼に案内する茶屋。中宿。
※12−6:通し花(とおしばな)とは、遊郭で、一人の娼妓を何時から何時迄と借り切ること。
※12−7:回し/廻し(まわし)とは、この場合、一人の娼妓が一夜の内に、順次に多くの客の相方と成ること。「―を取る」。
※12−8:ちょんの間(―ま)は、この場合、遊里で、短時間の遊興。ちょんの間遊び。




※13:隠語(いんご、argot)とは、特定の仲間の間にだけ通用する特別の語。隠し言葉。



※15:売春防止法(ばいしゅんぼうしほう、Anti-Prostitution Act)とは、売春を防止する為に売春を助長する行為などを処罰すると共に、売春を行う恐れの有る女子に対する補導処分及び保護更生の措置を定めた法律。1956年に制定され、1957年4月1日に一部実施、翌1958年4月1日に罰則適用の取締り規定が施行され、全面実施と成った。略称は売防法。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※15−1:赤線(あかせん)とは、(警察などで地図に赤線を引いて示したことから)売春が公認されて居る地域の売春業。俗には、1946年の公娼制度の名目廃止後に、売春を黙認されて居た遊郭・銘酒屋など。1958年の売春防止法の全面実施で完全廃止。「―地帯」。←→青線。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15−2:公娼(こうしょう、licensed prostitution)とは、[1].公娼制度に拠り公認された娼妓。
 [2].狭義には、1900(明治33)年の娼妓取締規則で許可された売春婦を指し、営業許可証としての鑑札と定期検診とを必要とした。1946年にGHQの要求で名目上は廃止されたが、一部は黙認され1958年の売春防止法の全面実施で完全廃止。←→私娼。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>




※16:「限りなく×××に近い[○○○]」は、(私は時々この表現を使いますが)村上龍の小説『限りなく透明に近いブルー』小説のタイトルのパロディーであり、小説の内容には一切無関係です。







※18:フェミニズム(feminism)は、(femina[ラ]、女から)女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動。女性解放思想女権拡張論。→ウーマン・リブ<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>



    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△5:『日本死刑史』(森川哲郎著、日本文芸社)。

△6:『曾根崎心中・冥途の飛脚』(近松門左衛門作、祐田善雄校注、岩波文庫)。

△7:『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』(木村聡著、ちくま文庫)。
△7−1:『近代庶民生活誌14 色街・遊郭U』(南博責任編集、三一書房)。

△8:

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):大阪飛田の地図▼
地図−日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
補完ページ(Complementary):飛田の初出▼
阪堺電車沿線の風景−大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
補完ページ(Complementary):「てんのじ村」や旧南海天王寺線について▼
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)



『曾根崎心中』の舞台▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)

赤線や売春防止法について▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
飛田/信太山/九条(松島)等の
「ちゃんとした整備」を訴える私の弟子のプー氏▼
画期的税制改革のすゝめ(Epoch-making tax reform)


飛田の黒龍大神の初出▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)




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