浪速八百八橋
[浪速の橋と渡船場#1:名橋編]
(808 bridges of Naniwa, Osaka)

−− 2003.05.31 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.06.10 改訂

 ■はじめに − 掲示板の応酬が切っ掛け

 掲示板のハイジャッカーことリチャード・プー氏から、当サイトの掲示板で桜宮橋(通称「銀橋」)の議論を吹っ掛けられ、それに応酬して居る内に彼の挑発に乗って仕舞い、遂に03年5月21日と30日に浪速の橋や安治川トンネルの写真を撮り纏めたのがこのページです。プー氏との掲示板での応酬は既に当サイトで公開され、このページの発端編に相当します。興味有る方はそちらをご覧下さい。
 → 発端編・プー氏との「橋」論議の応酬を見る(Look the beginning part)

 かと言っても別に発端編を読まなくてもこのページはこれで独立して居ますので、このページを行き成りご覧に為っても全く差し支え有りません。
 江戸時代の昔から東京は大江戸八百八町、対して大阪(昔は大坂)は浪速八百八橋と言われて来ました。つまり大阪は川や運河が多く、歌謡曲の『中之島ブルース』(※1)に在る様に「水の都」なのです。今は川や運河の多くは埋め立てられ道路と成り車が走って居ますが、それでも淀屋橋や心斎橋など地名には「橋」の名が残り、昔を偲ばせます。
 ところで実際の数として大阪にどれ位の橋が在ったか?、と言うと1701(元禄14)年に刊行された『摂陽群談』に拠れば大阪には136の橋が在ったと書かれて居ます。そして1980年頃の統計で大阪市内の道路橋数865と在りますので、浪速八百八橋という言い方は決して大袈裟ではありません。
 リチャード・プー氏には切っ掛けを作って呉れて感謝半分、余計な仕事を作って呉れて迷惑半分の気持ちで、大阪市内の特に「中之島を中心とする水の都巡り」をしました、ここは「私の庭」でっせ!
 尚、これからご案内する橋の地図はココ(Open the map)をクリック。

 ■切っ掛けの「銀橋」

 それではこのページを作る「キッカケ」に成ったリチャード・プー氏の掲示板の書き込みの一部をご紹介しましょう。2003年5月10日のことでした。
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    <...前半略...>
 ところで神奈川の橋の本を読んで、本の値段通りにやはり橋は大阪が一番だと思いました。私の住んでいた旧淀川(現大川)沿いは貴重な戦前の文化財級の橋がいっぱいあります。特に国道一号線の桜宮橋(地元民は「銀橋」と呼ぶ)。技術的な特徴と鋼板の厚さから、私は日本一のアーチ鉄橋ではないかと思っております。
 エルニーニョ氏も今度観察してくださいよ。通常の橋は地面と接する部分が可動するというか力を逃がす様になっているのですが、あの橋はアーチの頂点部分も巨大なヒンジ(※2)になっていて、軟弱な地盤が不等沈下しても壊れないようにしてあるそうな。私が感心するのは、今ほど自動車も普及していなかった70年程前にあれだけ立派な橋をかけたことです。きっと市電が通ってたんでしょうなぁ。
    <...後半略...>

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 何と無く幼稚な言葉使いですがお許し下さい。ところがです、私は既に2003年4月12に公開した「日本全国花見酒」というページに、偶然にもこの銀橋の写真を既に載せていたのです、まあちょっと覗いて下さい、しかし見たら戻って来て下さいよ!
 → その銀橋(桜宮橋)の写真を見る(Look the bridge)

 まあ、あの世とこの世を行き来して居る私ですから予感が働いたのでしょう、私には予知能力が有るのです。「えっ、私は誰だ」ですって?、それは一番最後、最下行の関連リンクから最後に参照して下さい。ここでは新たに撮った銀橋(桜宮橋)をご覧に入れましょう、下がその写真です。
写真0:桜宮橋(銀橋)のアーチとヒンジ。
 ご覧の様に銀色だから銀橋です。橋のアーチの部分が真ん中で蝶番で接合されて居ます、これがヒンジです。橋の下には大阪名物の水上バス=アクアライナーが走って居ます。この川を大阪では大川(←昔は淀川本流でしたが今は支流)と呼び、上の写真で川の左側が北区天満1丁目、右側が都島区網島町です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 2〜3年前この辺りに土左衛門(※3)が流されて来た時、警察官が2人来たのですがトランシーバーで連絡するのみで遺体の引き上げ処理をしないんですね。「管轄が違う」とかブツブツ言ってる間に遺体はどんどん京阪電車の線路下の方に流されて行くのを見た事が有ります。川の両サイドで区が違うからですが変な感じがしたのを覚えて居ます。

 左下が中央アーチのヒンジの部分の拡大。右下が橋脚部分で、ご覧の様にここもヒンジです。つまり中央アーチと両橋脚部の合わせて3ヒンジ構造に成って居ます。何れも男らしい姿です。リチャード・プー氏は痔持ち(=痔主)で倒錯した所が有りますので、こういう男らしい造形に殊の外魅了されるみたいです、アッハッハ。
写真1:桜宮橋のアーチ中央のヒンジ。写真2:桜宮橋の橋脚のヒンジ。

 大阪の橋の歴史について記述した『八百八橋物語』という本に拠ると、3ヒンジアーチの桜宮橋は1919(大正8)年に制定された都市計画法を受けて、1921(大正10)年からスタートした大阪市第1次都市計画事業に基づいて造られた橋で、1930(昭和5)年に完成したものです。その間に1923(大正12)年の関東大震災に因って「耐震構造」という観点から計画の見直しが行われ、現在私たちが目にする事が出来る大阪市内の橋梁景観の基本を作り上げたのがこの大阪市第1次都市計画事業でした(△1のp81)。
 日本は地震国で、この原稿を書き始めたつい2日前にも東北地方で大きな地震(=宮城県沖地震)が起きたばかりで、95年には阪神淡路大震災が有りましたが、まあ、その被害の大きさとそれが及ぼした社会的影響に於いては関東大震災の比ではありません。日本の耐震設計思想はこの関東大震災を契機に世界に先駆けて生まれました。そしてこの本に拠ると桜宮橋にはプー氏の指摘通りやはり市電[天満蒲生線]が走って居ました。

  ◆大阪市の市電

 市電の話が出た序(つい)でにこの本より市電の話も引用して置きましょう。それは”近代化”を推進する際の橋の強度や道路の幅と市電の鉄路敷設とは切っても切れない関係が有るからです。それに拠ると
 『江戸時代から引き継がれた市内の道路は7〜9mと狭かったが、市電の通る道路は15〜20mに拡げられ、近代都市にふさわしい広幅員の道路が造られた。...(中略)...。1903(明治36)年市電の営業が開始されて以来、大正中期迄に、市電を走らせる目的で架設、改築が行われた橋は50橋以上にもなり、当時すでに実用化されていた鋼の普及と相まって大阪の橋は急速に永久橋化されることになった。これらの橋の多くはプレートガーダー橋で、橋脚にはスクリューパイルが用いられ、架設が短期で済み、費用が安い型式が採用されている。』
と在ります(△1のp79)。ここで言う永久橋とは洪水や地震に充分耐えられる橋のことです。その切っ掛けはやはり1885(明治18)年夏の淀川の大洪水で、この時には木橋が主流の市内の橋の1/4が破壊されました。この教訓から鉄製の永久橋が構想される様に成りました。

 その後プー氏は掲示板に更に下の様な書き込みをして来ました。
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    <...前半略...>
 エルニーニョ氏も次回のレポートでは大阪市の難波橋天神橋をよろしく。これらは構造が見えていないので、一見新しい様に見えますが実は古いのです。
    <...中略...>
 橋じゃないけど大阪市には渡し舟が進化した「市営エレベーター」があるの知ってました?、場所は地下鉄九条駅を北に数百メートル程行った所。川底をトンネルが通っているんですけど、エレベーターで昇降します。
    <...後半略...>

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 そこで私は03年5月21日と30日にそれらを見に行きましたよ、ったく(→「市営エレベーター」は後で紹介)。

 ■中之島界隈の橋

 (1)天神橋(てんじんばし)

 左下が中之島公園(又は中之島水上公園、※1−1)から見上げた天神橋の写真、橋のこちら側が北区天満、向こう側が中央区です。現在橋の歩道部分を改装中でした。そして右下が橋裏の鉄骨組みの様子です。プー氏の言う様に、こうして下から見るとアーチ状の鉄骨剥き出しで、男らしい造形ですね。
写真3:天神橋。写真4:天神橋裏側の鉄骨構造。
 天満宮の社伝に拠ると、天神橋が初めて架けられたのは豊臣秀吉の頃と在り、天満宮が橋付近を通る船から通行税を徴収し、これを橋の管理費に当てたことから「天神橋」と呼ばれることに成ったそうです。その後1634(寛永11)年に重要な12橋が幕府直轄の「公儀橋」と定められ、天神橋もそれに編入されました。
 明治に入ってからも木橋で、前述の1885(明治18)年の淀川大洪水で倒壊し、1888(明治21)年にドイツ製の大型鉄橋(1スパン=66mという全国一の長径間のトラス構造(※2−1))に生まれ変わり、その後やはり大阪市第1次都市計画事業に基づき中之島剣先の景観に合わせて1934(昭和9)年に上の写真の様な今日のアーチ状の鉄骨構造の橋に成りました。現在全長=211m、幅員=22mです。

 (2)難波橋(なにわばし)

 下が中之島公園の真ん中を突っ切る難波橋(北区中之島)です。難波橋はご覧の様に外観は石橋の様に見える美しい姿の橋です。
写真5:難波橋。


写真6:難波橋のライオン像。 難波橋も公儀橋として、江戸時代には200mを超える反りの有る大型木橋でした。
 1876(明治9)年に中之島の北側のみ鉄橋化され1905年頃(明治30年代後半)に南側も鉄橋化されました。1915(大正4)年の架け替えの際には橋の上に市電[堺筋線]を通す為に元の位置から1筋西側の現在地(堺筋)に移されました。そして中之島公園の一部として、意匠に最大限の考慮が払われた今日の橋が設計されました。2ヒンジアーチとコンクリートアーチの組み合わせで石橋の様に見せ、公園へのアプローチや市章を組み込んだ高欄や華麗な照明灯、橋頭を飾るライオン像(その為ライオン橋とも呼ばれる)など、当時の美意識は今日以上と言えるでしょう。その後1975(昭和50)年に合成桁形式に改築されましたが、大正ロマンの意匠は極力保存されて居ます。
 左が今日の難波橋の路上の風景で中央区北浜からの撮影です。欄干の上にはこの橋のシンボルのライオン像が鎮座して居ます(ライオン像は向かい側の歩道と橋を渡った向こう側にも在りますので計4体)。現在全長=187m、幅員=22mです。

 下が難波橋の説明盤です。
写真7:難波橋にある浪速三大橋の説明板。
 「江戸時代、天神橋、天満橋と共に浪花三大橋とよばれた難波橋は...」という書き出しで刻まれた字が読めると思います。貞信筆の江戸時代の難波橋の風景画も在り当時の様子を窺い知ることが出来ます。江戸時代の三大橋の中でも特にこの難波橋からの周辺の16橋や生駒を始めとする山々や花火などの眺望は素晴らしく浪速っ子に親しまれて来ました。そんな情景を映した蔭山梅好の歌

  西ひがし みな見にきたれ なには橋
    すみずみかけて 四四の十六


がこの説明盤に刻まれて居るのが読めると思います。この「四四の十六」が周辺の16橋を指して居ます。

写真8:中之島公園のばらぞの橋。
 右は中之島公園内に在る橋でその名もばらぞの橋(北区中之島)です。公園の中にはバラ園が在り、それに因んで付けられた名前です。
 

 ■高麗橋


図1:明治3年架設当時の高麗橋。 さてプー氏は指摘して無かったのですが、近代の大阪の橋を語るには高麗橋は欠かせません。
 1868(明治元)年大阪府営繕方は大阪居留のイギリス商社オールト商会に高麗橋架設を依頼し、1870(明治3)年に大阪で最初、全国で3番目の連鉄製桁橋として完成しました(全国初は1868(明治1)年長崎の「くろがね橋」)。橋長71.4m、幅員6.7mのこの橋は「鉄橋」とか「ぐろがね橋」とか呼ばれ市民に親しまれたそうです。右がその当時の橋の写真(【参考文献】△1のp71より採録)です。橋を支える橋脚が美しい曲線で外側に張り出して居ます。
 橋の向こう側(=西詰)に見える2つの櫓(やぐら)は江戸時代からこの界隈のシンボルに成っていた櫓屋敷のもので、その付近は幕府の高札(※4)が立つ場所でもありました。


写真9:現在の高麗橋。 右の写真をご覧下さい、これが現在の高麗橋です。橋の手前側が中央区高麗橋1丁目、向こう側が東高麗橋、下には東横堀川(※5)が流れているのか淀んでいるのか?、東横堀川上を走る1号環状線の一部が向こう側に見えて居ます。
 橋の標識には昔風に「かうらいばし」と書いて在ります。桜宮橋と同じく大阪市第1次都市計画事業に基づいて1929(昭和4)年に鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け換えられ、後に改築されて現在は全長=63m、幅員=11mです。
 ご覧の様に嘗てここに在った櫓のイメージを残す為、橋の高欄にそれを模した石製の飾灯を取り付けているのが特徴です。そして飾灯の奥の高欄に黒く見えるのが、青銅製の擬宝珠(※6)です。第1次都市計画事業では150余りの橋が改築されましたが擬宝珠が付けられたのは、この高麗橋のみです。それは「慶長9年(=1604年)」と銘の入った高麗橋のものと思われる擬宝珠が出土して居る為です。
写真10:高麗橋脇の東横堀川水門の碑。
 江戸時代にはこの辺りが海路と西日本の街道の起点で、高麗橋は公儀十二橋の中でも特に重要視された橋で、「高麗橋」の名は一説に拠るとこの地が高麗貿易の中心であったとも言われて居ます。地理的にもここは江戸時代の大阪の商業中心地・船場に横付けする位置(※5)です。

 現在の東横堀川上は高速道路が走り風情は全く無くなりましたが、橋下の川の西岸は遊歩道に成っていて降りて行くことが出来ます...しかし橋の下にはプー太郎(=ホームレス)が居て普通の人は行き難い、私は普通では無いのでしょう多分、太田のおばちゃん何とかしてえ!
 そうしたら高麗橋下の数m北に、「東横堀川水門」という石碑と門が在りました、左の写真がそれです。

 大阪市には現在、安治川・尻無川木津川の3水門が防潮水門として設けられて居て、これに対し道頓堀川・東横堀川の水門は内部河道の補助水門的役割を担っているのですが、現在この2水門を市の「道頓堀川・東横堀川水辺開発整備事業」の一環として防潮水門に改築中だそうです。

 ■源兵衛渡の安治川トンネル

 (1)安治川トンネル

 さて私はプー氏が『渡し舟が進化した「市営エレベーター」』と宣った安治川トンネル(西区安治川1丁目)に行ってみました。地下鉄九条駅の500m位北西、安治川に出た所に在り、左下がそのエレベーターの写真です。エレベーターの左に「安治川トンネル(南)」と書いて在ります、そうここは安治川を挟んで川の南側です。その下にパネルが在り、それにはエレベーターの運転時間が
  夏季(5月1日〜10月31日):6時〜23時
  冬季(11月1日〜4月30日):6時〜22時
と、書いて在ります。

写真11:安治川トンネルのエレベータ。 ご覧の様に”エレベーター・ガール”ならぬ”エレベーター・オッサン”が居ます(帰りに乗った時は”エレベーター・兄ちゃん”でした)。オッサンや兄ちゃんは市の建設局職員で、如何にもイヤイヤ乍ら仕事して居る風で不貞腐れて愛想悪いです。それでも乗る人は「どうも」とか声を掛けて行きます。写真の様にチャリンコ(=自転車)を伴なって乗る人が多く、エレベーターの広さは3m×2m位でしょうか。
写真12:「安治川隧道」と彫られたパネル。 このエレベーターの右側には右の写真の様な旧式な表札が掛かり「安治川隧道」書いて在ります(右から読む)。昔は「隧道」と言ったんですね、トンネルのことを。
 この表札の下は、シャッターで閉ざされて居たので何かと尋ねてみたら、これは旧自動車専用エレベーターでした、今は使われて無いのですが。1977(昭和52)年迄は車がこのエレベーターで昇降し川底のトンネルを通行して居たそうです。で、何故使われて無いのかと言うと、その少し前にエレベーターに替えてスロープ(=坂道)を堀りそれで車を通行させる計画が持ち上がり、それでこのエレベーターの運転を中止したのですね。ところがスロープ化の計画は周辺住民の了解が得られず、計画は棚上げにされた儘なのだそうです。それなら、エレベーターを復活すれば良さそうなものですが、そこがお役人仕事、一旦廃止したものは廃止、好い気なもんです、何の努力も無しに給料貰えますからね。
写真13:川底を通る安治川トンネル。
 このエレベーターの左側には歩いて降る階段が在り、これは24時間通行可能です。私は試しに階段も降りてみたら、地下5階位(←地下17mだそう)ですね、トンネルの深さは。そして左が川底を通り抜ける隧道(=トンネル)の写真です、長さ約80m位です。だからチャリンコ持って夜中階段を降りて又昇るのはシンドイですよ、第一真夜中1人でここを渡るのは勇気が要りますね。
 

 下の2枚はトンネルを渡らず脇に回って撮った安治川の風景です。左下は川岸から西側の玉船橋の鉄橋を遠望したものでJR環状線が橋の上を通過中で、橋の下に運搬船が2艘見えます。橋の右側が此花区西九条2丁目、左側が港区波除6丁目です。
 右下が同じ地点から東側、即ち大阪の中心街方向を撮った風景です。川のこちら岸には(はしけ)が繋ぎ止められて居ます。川の向こう岸は福島区で更に上流に行くと先程の北区の中之島に出ます。
写真14:安治川トンネル上の安治川の西側風景。写真15:安治川トンネル上の安治川の東側風景。

写真16:安治川トンネル近くの「源兵衛渡」の道路標識。 さて帰り掛けにふと近くの交差点で道路標識に気が付きました(右の写真)。源兵衛渡、ゲンペイエイト?、...否、写真では”げんいわたし”と書いて在ります。?、...オカシイですね、これは。
 と言うのは、そもそもこの地名の由来は、西九条側で私設の渡しを行っていた源兵衛(げんべえ、げんべい)という人が、1897(明治30)年頃ここに私営の渡しを造り「安治川の源兵衛渡し」と呼ばれ長宝がられたのです。ですから本当は「げんい[の]わたし」が正しいのです、「げんぺい」では源氏と平氏の「源平」みたいです。これはニスの商人」と「ニスの商人」程の違いですぞ、ウワッハッハッハッハッハ!
 それが1944(昭和19)年にこのトンネルが開通し渡船が廃止され地名だけ残ったのです。でも何故橋を架けずに川底トンネルにしのたか?、それは当時ここは物資を運搬する船の通行量が多くそれで運搬船を優先させたのです。

  ◆源兵衛渡し以前に活躍した磁石橋

図2:旋回式可動橋・安治川橋(通称磁石橋)の絵。 ところで皆さん、源兵衛渡し以前にここに面白い橋が架かっていたのご存知ですか?、...ムッフッフ、右の図をご覧下さい(【参考文献】△1のp73より採録)。
 再び【参考文献】より要約すると、安治川と木津川は大型船の通行量が多く架橋困難な川でしたが、1873(明治6)年この付近に船が通る時に中央の2スパンが回転し航路を開ける旋回可動式の安治川橋(通称:磁石橋)が架けられて居たのです。同じ頃木津川には中央のスパンが前後する引込可動式の千代崎橋(通称:算盤橋)も架けられて居ましたが、共に1885(明治18)年の大洪水で流されて仕舞いました(△1のp72〜73)。その後可動橋は架けられず(維持費が嵩む為)その儘に成って居たのですが、そこへ1897(明治30)年に「源兵衛さん」が登場し長宝がられた訳です、いやあ面白いですね。
 私は安治川トンネルにこんなにも”隠された歴史”が有ったとは知りませんでした。今迄述べた安治川トンネルの明治以降の歴史を整理してみると下の様に成ります。

  1873(明治 6)年:旋回可動式の安治川橋(磁石橋)を架橋
  1885(明治18)年:安治川橋、洪水で倒壊
               → この間ここは渡河不能
  1897(明治30)年:源兵衛渡登場
  1944(昭和19)年:安治川トンネル完成、渡船廃止


やあ、スゴイですね、これこそ正に「日本再発見の旅」です!

 さて安治川トンネルを去るに当たり、あのエレベーター、私は日中の9時〜5時は”エレベーター・ガール”にして貰いたいと思いますね、そして例えば夏小学生を集めて度胸試し大会遣るとか外人の団体客連れて来たり、ここをもっとアピールして大阪観光の名所にして仕舞ってはどうでしょうか。実はこの日何処かのグループが老若男女合わせて30名位で見学に来て居ましたよ、そう捨てたモンじゃありませんよ、アッハッハ。

 (2)九条商店街

写真17:九条商店街のアーケード。 帰途は源兵衛渡から直ぐ近くの九条商店街を通りぬけて行きました(左の写真)。この商店街は結構長く源兵衛渡から地下鉄九条駅迄続き、更に中央大通を渡って南側にも続いて居ます。この道は1892(明治25)年に開通した嘗ての九条新道で、松島新地(後述)も目と鼻の先です。
 私は商店街を野次馬的に見て歩くのが好きで、商店街を見ればその町の雰囲気とか活気とかが或る程度窺い知れます。この日はチャリンコでゆっくり通過したのですが、中々活気が有る商店街でした。
写真17−2:ストリップ小屋の斜め向かいの保育所。
 で、ちょっと脇に回ると場所がらか(どういう場所がらか、は次章のお楽しみ!)ストリップ小屋が在り、その前を子供連れの若い主婦が平気で通行して居ました。このストリップ小屋の斜め向かいには「ポプラ共同保育所」(右の写真)も在りましたよ。
 こういう所で”人生の真実(まこと)”を見て育つ子供たちの将来は有望ですぞ、グワッハッハッハッハ!、そこでエルニーニョ(号は月海)から「ポプラ共同保育所」の子供たちに熱いメッセージを贈りましょう。

  Boys be ambitious by strip !
  Girls be ambitious to become strip dancer !    月海

 [ちょっと一言]方向指示(次) 風俗街の中や近くには意外と幼児施設が在るものです。大阪では生国魂神社周辺のラブホテル街の真ん中に在る市営の生魂幼稚園などがそうです。

 ■松島新地 − 旧松島遊郭の風情を残し今も現役

 さて折角九条の北に行ったのですから、帰りは少し寄り道をしました。もう橋には全く関係有りません、しかしプー氏には関係大有りです(最後に解ります)。
 下の3枚の写真が現在の松島新地(西区本田(ほんでん))です。今は単なる風俗街の範疇に入れられてますが、ご覧の様に独特で古風な日本調の家が建ち並ぶ一角で、嘗て「花街」或いは「色街」と呼ばれた当時の風情を色濃く漂わせて居ます。

写真18:九条商店街南側の「松島新地」の”料亭”−その1。 「玉雲」「白菊」「菊水」「鈴」...「車荘」や「花月」etc、と各”料亭”、即ち昔の郭(くるわ)の看板が読めると思います。
写真19:九条商店街南側の「松島新地」の”料亭”−その2。 午後4時ちょっと前位でそろそろ各料亭が準備に取り掛かり出して居ました。好いですねえ、こういう情緒。もう店先に姿を現して居る妓も居ましたよ。これを”顔見せ”(※7)と言いまっせ。
写真20:九条商店街南側の「松島新地」の”料亭”−その3。
 1868(明治元)年に明治新政府は川口(ここ九条よりもう少し安治川上流)に外国人用の川口居留地を建設し、外国人を纏めて住まわせることにしました。そして同時に外国人居留者に依る性犯罪の予防と私娼の整理を目的に遊郭の設置が提案され、川口居留地の南隣を松島町 −木津川と旧尻無川に挟まれた村を合併し、合併地の「松ヶ鼻」と「寺島」から松島と命名− とし、そこを新しい遊郭の建設地としました。今は野球場の在る松島公園(西区千代崎1丁目)に成っている所です。
 ところで、発足早々の新政府に外国人居留地と遊郭をセットで建設するという”粋な計らい”を決意させたのは、同年起きた堺事件(※8)でした。外交問題に迄発展したのに懲りた新政府は外国人絡みの性犯罪防止に真剣に取り組んだのでした。その後、何回かの紆余曲折を経て今日に至って居ます。
 例えば1885(明治18)年の火災、1899(明治32)年の川口居留地の神戸への統合と廃止、1926(大正15)年の築港側への移転を巡る疑獄事件、1945(昭和20)年の大阪空襲など...。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 川口港は大型船が入れず貿易には不向きだった為に外国商人は神戸に移って仕舞ったが、その後に入植して来たのは宗教関係者で、今に残る川口教会ミッション系の女子学校が建ち、大阪の女子教育の発祥の地と成りました。今日の梅花、大阪女学院、信愛、プール、平安などがそれです。

 大阪空襲で全焼した松島遊郭は、戦後は西隣の今の松島新地に移転し、旧松島遊郭の在った場所は松島公園として生まれ変わり、歴史を消し去るかの様に昔の面影は全く残して居ません。
 そして松島新地は戦後直ぐにカフェーや待合などの特殊飲食店として復興、1946(昭和21)年のGHQ(※9)の指令に発した公娼制度の廃止も何の其の、1956(昭和31)年の売春防止法制定「料理組合」を結成し、「料亭」へと変貌を遂げ、その後1984(昭和59)年の風営法改正も潜り抜け逞しく生き抜いて居ます。
 最盛期の1921(大正10)年頃には楼閣275軒、芸者数約4000人を擁して居り、「松島遊郭」と掲げた大門 −遊郭の場合は「だいもん」では無く「おおもん」と読む(※10)− が建設当初は四方に在ったと言い、大門を潜ると道幅6間半(約12m)、奥行き約200間(約360m)の大通り(メインストリート)が在ったという松島遊郭は、戦後現在地に移転し今は100軒程と往年の1/3ですが、大阪の助平(※11)たちの為に粉骨砕身のサービス(←業界用語では「おスペ」)で頑張って営業して居ます。正に助平は永遠なりですね。

 ■結び − 橋に始まり花街で終わる心

 ところで何故花街を最後に取り上げたかと言うと、このページのキッカケを作ったリチャード・プー氏への感謝です。先程の松島の各料亭の看板、プー氏には可なり懐かしいのではと思って居ますよ。彼は嘗てここ松島や飛田や十三で「加爾基・精液・栗ノ花」をふんだんに撒き散らして居ましたからね、ウワッハッハッハッハ!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 「加爾基・精液・栗ノ花」は椎名林檎のアルバムタイトルですが、加爾基・栗ノ花は何れも精液の臭いがすると言われて居て、言葉遊び心マン点の素晴らしいタイトルです。因みに私はこの曲全く聴いて居ません、グワッハッハッハッハッハ!

 もう一つ花街を最後に取り上げた理由、それは嘗て橋と遊郭は切っても切れない関係が有ったのです。吉原始め昔の遊郭の多くは陸から一つ隔たった所に在り、逆に陸続きの遊郭を「岡場所」などと呼びました。そして花街に入る橋と出て行く橋は別々で、橋を渡って花街に入る時思わず思案するので「思案橋」、出て行く時は未練を引かれ思わず後ろを振り返るので「未練橋」「見返り橋」などと呼ばれました。「橋」は現実の世界と”夢”の世界の仲立ち(=夢の橋渡し)であり結界でもあったのです。七夕伝説でも牽牛と織女は「鵲橋(かささぎばし)」を渡りますし、『源氏物語』にも「夢の浮橋」(※12)が出て来ます。太古の昔から男と女の逢瀬に橋は欠かせない設定でした。正に「助平の中の細やかさ」=日本人の心の奥深さですね。しかし現代の助平産業である風俗業界にはこの「奥深さ」が消え、有るのは”欲深さ”だけです、いやはや。ということで、このページは橋に始まり「花街の橋」で終わりました。これぞ正しく”エルニーニョ的有終の美”というものです!

 尚、浪速の橋の序でとして調べたら、運搬船の通行の為に橋を架けずに今現在でも渡船で人を運搬して居る所が大阪市に8ヶ所在り、何れも大阪市が無料で渡し舟を運行して居ることを知りました。実はもうその内の3ヶ所の渡し舟に乗って来ました。8ヶ所全部乗ったらその記事を書く積もりでしたが、6月10日に遂に初稿を掲載しました。それが<#2>渡船場編で当ページの続編に成ります。合わせて本編及び続編を[浪速の橋と渡船場]シリーズとしますので、どうぞ宜しく。「日本再発見の旅」は更に発展します!!
 最後に【参考文献】△1の『八百八橋物語』は大変参考に成りました。著者に改めて御礼申し上げます。

 [浪速の橋と渡船場]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
    {続編へのリンクは03年6月10日に追加}

φ−− つづく −−ψ

【脚注】
※1:中之島(なかのしま)は、大阪市北区、北を堂島川、南を土佐堀川で囲まれた細長い中洲。東西3,400m。江戸時代に諸大名の蔵屋敷が置かれた。現在は大阪の政治・経済・文化の中心地で、大阪市役所・日本銀行大阪支店・府立図書館・中之島公園などが在る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※1−1:中之島公園(なかのしまこうえん)は、大阪市最初の公園。北区の堂島川と土佐堀川とに囲まれ、図書館・公会堂なども近い。1891年(明治24)開園

※2:ヒンジ(hinge)は、蝶番(ちょうつがい)に同じ。
 蝶番(ちょうつがい/ちょうばん)とは、開き戸・蓋などに用いる金具。両片から成り、一片は枠に、他片は戸などに打ち付けて開閉出来る様にするもの。
※2−1:トラス(truss)とは、〔建〕構造骨組の一形式。節点が全て滑節(かっせつ)即ち回転自在の結合から成る。材の集合点に力が加わる時、各部材は曲げの力を受けないので変形し難い。結構。←→ラーメン。

※3:土左衛門(どざえもん)は、(享保1716〜1736頃の江戸の力士、成瀬川土左衛門の身体が肥大であったので、世人が溺死人の膨れ上がった死体を土左衛門の様だと戯れたのに起るという)溺死者の遺体

※4:高札(こうさつ/たかふだ)は、この場合、法度(はっと)・掟書(おきてがき)などを記し、又、晒し首・重罪人の罪状を記し、人目を引く所に高く掲げた板札。立札。

※5:東横堀川(ひがしよこぼりがわ)は、大阪城の外堀に連なり、後に大阪商業の中心に成る船場・島ノ内の開発とセットで、船場・島ノ内への物資の供給路として1585(天正13)年に開削され始めました。

※6:擬宝珠(ぎぼし/ぎぼうしゅ/ぎぼうし)とは、(ギボウシュの約転)欄干の柱頭などに付ける宝珠の飾り。形は葱(ねぎ)の花に似る。

※7:顔見せ(かおみせ)とは、娼婦を置く特殊料理店(←遊郭跡に多い)や風俗店で、客が予め娼婦の顔を見てから選択指名出来るシステムのこと。芝居の「顔見世興行」からの転用か。
 因みに、昔の遊郭で言われた「顔見世」とは、遊女などが初めて勤めに出る時、揚屋や客などを回って挨拶すること、で意味が異なる。

※8:堺事件(さかいじけん)は、慶応4(1868)年2月15日、土佐藩の堺警備兵が海岸測量中のフランス兵士を攻撃し、死者11人の被害を与えた事件。維新政府はフランスの要求に従い賠償金を支払い、土佐藩士に切腹を命じ、土佐藩士11名が堺の妙国寺で切腹した。森鴎外に同名の小説が在る。
 補足すると、実際には堺に入港したフランス軍艦デュプレックス号の水兵が上陸し日本女性をからかい侮辱したことに原因が在り、この報せを聴いて駆け付けた土佐藩兵がフランス人に発砲したものです。

※9:GHQ(General Headquarters, GHQ)とは、日本を占領した連合国軍総司令部。初代最高司令官(SCAP)はマッカーサー。占領政策を推進し、戦後改革を行なった。1951年の「対日講和条約」発効と共に廃止

※10:大門(おおもん)とは、 [1].大きな門。だいもん。
 [2].邸宅・城郭などの第1の表門。正門。
 [3].遊郭の入口の門

※11:助兵衛/助平(すけべえ、すけべ)とは、(好兵衛(すきべえ)の転と言う)好色の人。好き者。浄、平家女護島「敵のてかけ、妾となるやうな―のいたづら者」。

※12:浮橋(うきはし)とは、水上に、又は多くのを浮かべてその上に板を渡した橋。舟橋/船橋。浮桟橋。万葉集17「上つ瀬にうち橋渡し淀瀬には―渡し」。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『八百八橋物語』(松村博著、大阪文庫)。著者の松村氏は1944年大阪市淀川区生まれ。京都大学で土木工学を専攻し、大阪市土木局橋梁課勤務時代にこの本を著す。現在は(財)大阪市都市工学情報センター理事長。技術的な事柄だけで無く大阪の橋の歴史にも触れて居るのでお薦め

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):橋や松島新地の地図▼
地図−日本・大阪市の橋と渡船場(Map of bridges and ferries, Osaka -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):日本の過去の大地震▼
資料−地震の用語集(Glossary of Earthquake)
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