−− 2003.09.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.01.14 改訂
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★このページは<#2>渡船場編の続きです。
当サイトの掲示板上でのリチャード・プー氏との橋論議「東西橋比べ」(<#0>発端編)から「浪速八百八橋」(<#1>名橋編)を書き、更に「大阪市の渡船場巡り」(<#2>渡船場編)のレポートを書きました。今回はルーツを求めて日本で最初に文献に登場した橋・猪甘津(いかいのつ)の橋に焦点を当ててレポートしましょう。私は決してプー氏が言う様な「橋梁研究家」ではありませんが、猪甘津の橋が架けられた所は猪飼野地区 −今は猪飼野の名は町名からは消失しました− で、ここは「私の庭」の一部なのです。
浪速の橋の起源を知る為には、先ず古代の大阪の地形の凡その様子を是非頭に入れて戴きたいのです。大阪は大阪湾に面した都市ですが、今の大阪の市街地は近世に徐々に埋め立てられて出来たものです。
++++ 古代の大阪と大阪湾 ++++
古代の大阪は河内東部(現在の大阪市東成区や東大阪市辺り)の土地が低く生駒山の麓近く迄海水が入り込んだ河内湾で、その湾口は浅く難波江(※1)とか難波潟(干潟の意味、※1−1)と呼ばれ、この湾口に南から突き出して居たのが上町台地です。上町台地の先端は「難波の碕(みさき)」と呼ばれましたが、更に海退が進み難波の「八十島」(※1−2) −現在の御幣島・歌島・姫島などの地名はその名残− を経て湾口は浅瀬→湿地→陸地へと変わり河内東部は内陸湖の河内湖 −湾や湖には船が往来し生駒の麓には草香津という港(→「津」は後述)が存在− に成りました(△1のp25)。河内湖はやがて深野池(ふこのいけ)に縮小し江戸時代に新田開発 −鴻池新田など− され現在は陸地に成って居ます。
→ 古代大阪の地図を見る(Open the map of ancient Osaka)
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上町台地上の谷町9丁目辺りから東を眺めると東部は今でも土地が低いことを目視出来ます。その「難波の碕」(「難波の崎」とも)の古代の有り様は、海の潮の干満の度に”海から湾へ、湾から海へ”と、速い流れが起こったのです。その様子は『日本書紀』神武紀に
方に難波碕に到るときに、奔き潮有りて太だ急きに会いぬ。因りて名けて浪速国(なみはやのくに)とす。亦浪花(なみはな)と曰ふ。今、難波(なには)と謂ふは訛れるなり。
と在ります(△2のp204)。大阪の古名の「浪速」は河内湾口の水流の速さに、「浪花」「浪華」は砕け散る浪の花に由来するという潮流説はこの『書紀』の記述に拠って居ます。又『書紀』が訛りだとする「難波」も潮流や波が激しく航海の難所という意味からでしょう。異説としては魚が良く獲れたので魚庭(なにわ)説が在ります(△1のp27)が、私は上記の『書紀』の記述に信憑性を認め潮流説が正解と考えて居ます。
(1)「猪甘津の橋」と「鶴の橋」
先ず初めに、これから述べる「猪甘津の橋」が在る鶴橋辺りは上町台地東の低地で古墳時代中期(5世紀頃)は葦などが群生する湿地帯だった事を頭に入れて、以下の記述をお読み下さい。
→ 猪飼野地区の地図を見る(Open the map of Ikaino area)
記紀は仁徳天皇(※2)を土木や水利灌漑事業を推進した人として描いて居ます。『日本書紀』仁徳紀は「難波の碕」の様子を
十一年の夏四月...(中略)...「今朕、是の国を視れば、郊も沢も広く遠くして、田圃少く乏し。旦河の水横に逝れて、流末とからず。聊(いささか)に霖雨(ながめ)に逢へば、海潮逆上りて、巷里船に乗り、道路亦泥(うひぢ)になりぬ。故、群臣、共に視て、横(よこしま)なる源を決(さく)りて海に通せて、逆流を塞ぎて田宅(なりどころ)を全くせよ。」とのたまふ。
冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河のこみを防かむとして、茨田堤(まむたのつつみ)を築く。
と記し、併せて仁徳が難波の堀江(※1−3)の開削と茨田の堤(※1−4)の築堤を行ったと記して居ます(△2−1のp240)。「難波の堀江」は天満川(=現在の大川)とされ、現在の大阪市西区の「堀江」の地名とは無関係(←西区は後世の埋立地)です。又、「茨田の堤」築堤には先進技術を持った百済の渡来人(※4)が多数動員されて居ます(△1のp29)。
そして、その少し後で
十四年の冬十一月に、猪甘津(ゐかひのつ)に橋為す。即ち其の所を号けて、小橋(おばし)と曰ふ。
と記してますが(△2−1のp244)、『八百八橋物語』に拠れば、これが文献上での日本最古の橋の記録です(△3のp9〜10)。橋などは有史以前から架けられて居た筈ですが、それが古代の文献に載るという事は、橋が或る程度大きく時の権力者に公 −後の公儀橋の様な− に認知されて居たからでしょう。
この部分は『古事記』では
また秦人を役ちて茨田堤(まむだのつつみ)また茨田三宅を作り、また丸邇池(わにのいけ)、依網池(よさみのいけ)を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(おばしのえ)を掘り、また墨江の津を定めたまひき。
と記されて居ます(△4のp156)。大鷦鷯の帝(みかど)は高台に登り民百姓の家から炊事の煙が上がって無いのを見て3年間課税免除した有名な逸話(△2−1のp234〜238)を始め、この様な数々の事業で仁徳(じんとく)(※3)を施したので仁徳(にんとく)と諡(おくりな)されたのでしょうが、「仁」とは何処か儒教的な感じがします。
さて、それでは『日本書紀』に言う「猪甘津の橋」は何処か?
先ず当時の地理的状況からしてこの「小橋」は旧平野川(当時は百済川)に架けられて居たのは間違い無い様です。その候補地として現在の
[1].東成区東小橋(おばせ)
[2].生野区桃谷3丁目の「つるのはし跡」
の2箇所が有力です。両地点は直線距離で600m位の距離で、江戸期・天明7(1787)年の地図を見ると旧平野川の「つるがはし」の北隣に東小橋の地名が在り、橋が架かって居ます。
地元の「猪飼野保存会」では[2]を「猪甘津の橋」に比定して居ます。[2]の地点に現在「つるのはし跡」公園という小さな公園が在り、左の写真が「つるのはし跡」の石碑(1952年造立)です。多分 [1]付近やその西隣の天王寺区小橋町辺りに「小橋(小椅)の江」という運河を北側から開削し[2]に通じさせたのだと思われます。
右が「つるのはし跡」公園の説明板(1997年作)に記されて居ますのでお読み下さい。
これに拠ると、江戸時代の古記録『猪飼野村明細帳』が後述の御幸森天神宮に所蔵されて居り、「つるのはし」は河内・大和への街道筋なので公儀の費用で何度も架け替えられた事が記され、江戸時代中期の「つるのはし」の規模は、全長20間(36.4m)幅7尺5寸(2.3m)の板橋でした。その後、明治7(1874)年に旧平野川を深く掘り直した際に石橋に掛け替えられ、更に明治32(1899)年に改修されました。
ところで「津」とは、「大津」「宮津」「室津」の様に、古代では船が着く港(或いは船着場)を表す語です。難波江には幾つかの港が在り公的な国際港を難波津・難波の津(※1−5) −その比定地は諸説在る− と呼び、猪甘津は「小橋の江」の国内港で、難波津と河内・大和の水運途次の港でした。
そして再び「つるのはし」ですが、この章の最初に述べた様に古代この辺りは湿地帯で鶴(※5)が多く飛来したので何時しか「鶴の橋」又は「鶴が橋」と呼ばれたらしいですが、一説には「津の橋」が訛って「鶴の橋」に成ったとも言われて居ます。こうして「鶴の橋」は長い間地元の人々に親しまれて来ましたが、新平野川開削と共に旧平野川は埋め立てられ1940年廃橋と成りました。
[ちょっと一言] 新旧の平野川について一言。1923年の鶴橋耕地整理組合に依り現在の平野川(=新平野川)が新たに開削され、旧平野川は1940年に埋め立てられ消失しました。その理由は旧平野川は蛇行の為に度々氾濫したからです。
「生野区」公式サイトに拠ると、旧平野川は奈良朝から平安朝に掛けて存在した百済郡(くだらごおり)の中央を流れて居たので古くは百済川と呼ばれ、寛永の頃は水運が盛んで「柏原船」という15石積位の荷物運搬船が船頭2名で大阪〜柏原間を行き交って居ました。しかし水運は1704年の「大和川の付け替え」に因り衰退し、埋め立て前の明治40(1907)年頃には既に役目を終焉して居ました。
(2)仁徳天皇を祀る御幸森天神宮
日本最古の「猪甘津の橋」は仁徳天皇の事蹟とされてますが、その仁徳天皇を主祭神として祀る御幸森天神宮(みゆきのもりてんしんぐう、通称:御幸森神社、生野区桃谷3丁目)が「つるのはし跡」公園から近い御幸通り(みゆきどおり、※6)の南側に鎮座して居ます(→詳細地図)。
左下が御幸森天神宮の拝殿、右下は注連縄を巻いた楠です。
そして右が境内入口の由緒書「御幸森天神宮略記」ですので、お読み下さい。
宮の祭神は仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命です。ここは本来は菅原道真とは無縁で「天皇」という天神(てんしん)を祀る神社ですが、一応境内末社の菅原神社に道真を祀って居ます。創建は仁徳天皇崩御後の406年だそうです。
又、説明板には仁徳天皇が難波高津宮(※2−1)から河内方面に狩りなどで行幸し、度々この地に立ち寄って休まれた為にここを御幸森と名付けたと在ります。
右は御幸森天神宮の紋ですが、ご覧の様に主祭神の仁徳天皇に因んでミソサザイを図案化(※2−2、※2−3)してる様に見えます。
御幸森天神宮の祭礼の模様は後で出て来ますのでお楽しみに!
天神宮略記の隣にはやはり猪飼野保存会の説明板が在り、「御幸森」「猪飼野」「鶴橋」の3つの地名の由来を記して居ます。
その中の「「鶴橋」の地名の由来」に左の写真の江戸時代の「つるのはし」の絵が載って居ます。この絵は1993年生野区内の旧家から発見されたものです。
(3)「猪飼野」の地名起源 − 猪を飼う人々
古代からこの辺一帯を猪飼野(いかいの)と呼び習わして来ましたが、それは「猪(=豚)を飼う人々が住む地」という意味で、猪飼部(いかいべ)と呼ばれる専門職が豚を飼育し朝廷に献上して居ました。古代この辺りには朝鮮半島から百済(※4)の人々が半島での争いの難を逃れて、先進技術を携えて集団で移り住んだ所です。茨田の堤と同じく(△1のp29)、「猪甘津の橋」の架橋には百済人の先進技術が駆使されたのかも知れません。
又、同説明板の「「猪飼野」の地名の由来」には、1973年2月、住居表示制度変更に伴ない行政当局が生野区の町名から「猪飼野」の地名を削除したと記されて居ます。東成郡(東生郡とも言う)猪飼野村から発展した旧猪飼野町に相当するのは現在の
生野区鶴橋1〜5丁目、桃谷3〜5丁目、勝山北5丁目、中川西1〜3丁目、
中川1、6丁目、田島1〜2丁目
東成区玉津2〜3丁目の一部
と在ります。
(-_*)
現在「鶴橋」の名はJR環状線「鶴橋駅」として関西人には”焼肉屋横丁”として御馴染みですが、「昔豚肉、今牛肉」という訳です。今では焼肉臭く脂っこいイメージの「鶴橋」は元々は鶴が舞う風雅な名前だったのですね。風雅序でに、あの小野小町(※7)が「猪甘津の橋」を詠んだ歌をご紹介してこの節の締め括りとします。
しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に
渡り初めにし ゐかい津の橋 小野小町
尚、この章の最後に猪飼野保存会の説明板と御幸森天神宮の由緒書(略記)は歴史的事項をきちんと出典を挙げて正確に記して在り大変参考に成った事を特記して置きます。良い記述に感謝です。
(1)コリアタウン
前章の最後に記した様に行政当局は「猪飼野」の地名を抹殺したい様ですが、このページでは私はこの辺りを「猪飼野地区」と呼び、在日韓国・朝鮮の方々をコリアン(Korean)と呼び話を進めて行きます(→地図)。
御幸森天神宮の北側の御幸通りを東に行くと、韓国風の門に出会います。左下の写真は西門で「御幸通中央(KOREA TOWN)」と書かれて居ます。ここが生野区のシンボルのコリアタウン(御幸森商店街)です。「大阪市生野区」公式サイトに拠ると『1984年、朝鮮市場の再生の為に、チャイナタウンを意識した「コリアタウン構想」を打ち出し、1993年、御幸森天神宮から東へ延びる長さ500mほどの商店街(生野区桃谷3〜5丁目)が完成しました。』と在ります。
この通りでは、キムチやトウガラシを始め韓国・朝鮮の食品や衣料や雑貨のお店が並び焼肉店(右下の写真)も在ります、この近くに住む在日コリアンの人々が日常生活を営むのに必要な品々が何でも揃って居ます。ソウルの市場の様に活気が有り、言葉もハングルが飛び交い、中々面白いですよ。是非コリアタウンを歩いてみて下さい、JR・近鉄・地下鉄の鶴橋駅から徒歩10分です。
左下がコリアタウンの東門を御幸橋から撮ったものです、この門には「百済門(KOREA TOWN)」と書いて在ります。
右はキリスト教の教会です。ソウルへ行って韓国に於けるキリスト教会の多さに驚いた方も少なからず居ると思いますが、韓国では国民の25%がキリスト教徒(内プロテスタントが80%)で、その数は仏教徒とほぼ同じです(※8)。
(2)「猪飼野」の名を今に残す所
色々な圧力が有って前述の様に、1973年の住居表示制度変更に依り「猪飼野」という町名は削除されたのでしょう。左の写真が由緒有る「猪飼野」の地名を今に残して居る貴重な場所、猪飼野橋交差点です。「猪飼野橋」の道路標識に注目!、高架の上には近鉄の特急が走って居ます。
そして左下の写真が「猪飼野」という町名削除と引き換えに付近に新しく架けられた猪飼野新橋の風景です。
猪飼野新橋の欄干には右の写真の様に勾玉(まがたま)が対であしらわれ、対の勾玉で前方後円墳の形を表して居て、これは後で述べる御勝山古墳に因んで居ます。欄干には『日本書紀』に書かれて居た「為橋於猪甘津、即号其処日小橋也」の文字板(←既に紹介済み)も嵌め込まれて居ます。
右の写真が御幸橋から撮った猪飼野新橋の情景です、対の勾玉が平野川(=新平野川)に映って居ます。新橋は鶴橋5丁目(川の左側)と中川西1丁目(川の右側)の境です。
今では地名に「猪飼野」の名が残るのは上の猪飼野橋交差点とこの猪飼野新橋の2ヶ所だけに成りました。しかし幾ら行政的に抹殺しても、ここが仁徳天皇の古代からコリアンが住み着き、異国の地に在って自分たち同胞の文化を営々と育んで来た土地であることに変わりは有りませんし、況してや歴史を偽ることは出来ません!
(3)近代のコリアンと鶴橋市場の形成
ところで古代の百済人が住み着き東成郡猪飼野村を形成しましたが、今日の猪飼野地区に住んで居る人々の多くはこの百済人の末裔ではありません。彼等の多くは大正の末期から昭和の初期に掛けて、韓国の釜山などとの定期航路の開通に伴なって日本に渡って来た人々の子孫です。その裏には日本植民地時代の朝鮮人労働者徴用政策が有ったことは言う迄もありません。そんな中で新しく異国の地を踏んだ在日コリアン達が、同胞達の先住の地・猪飼野地区に定住したのは自然な成行でした。彼等はここで生活の輪を広げ定着し、彼等の生活の中心であるこの商店街がコリアタウンへと発展したのです。
一方、鶴橋駅近くのコリアン市場は戦後の闇市が形を変えて残ったものです。右上の写真は鶴橋卸売市場でキムチを売る店です。
何れにせよ異国の地で差別と闘い乍ら逞しく生きる彼等に日本人には無い”強(したた)かさ”を感じます。第二次世界大戦でアメリカに原爆で敗れて以来、日本人は無意識の裡にアメリカを崇め、アジアを蔑視して来たのは事実です。私ですか?、私は昔から「崇めず、蔑視せず」を貫いて居ますよ!
[ちょっと一言] 私は何故か、幼少の頃より付和雷同しない人間でした。自分の眼で見、確かめたことを最も信じて行動するタイプで、これが逆に「協調性が無い」、「自己中心的」とか言われたもので、この評は「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」(※9)ですね。私は「強調性と個性」の人間で、当サイトは何よりも私の”独自の視点”を大事にして居ます。
(4)榎白上大神
コリアタウンの北、鶴橋3丁目に何の謂れの神社なのでしょうか?、扁額に榎白上大神と書かれた通りに真っ白い鳥居の小さな祠が在ります(右の写真、左が扁額)。
私は「しらがみ」という名を含み白色を基本にしてる事から白髭神社や白鬚神社と同系の新羅系神社と推測して居ます(△5のp451)。既に見て来た様な土地柄なのでここに新羅系神社が在るのは極自然です。
そして鳥居の左下には榎木橋と彫った石柱が在り、嘗てここに榎木橋という橋が在ったことを偲ばせます(左下の写真)。
神名の「榎」は嘗ての橋の名だったのですね。場所的に殆ど地元の人しか知らない小社なので地元の古老に訊かないと創建の由緒は解りそうも無いですが、祀った人たちの素朴な心が伝わって来る感じです。
猪飼野地区は現在生野区に包含され、前述の様に「猪飼野」の地名を残す場所はたった2ヶ所に成って仕舞いました。そこで猪飼野地区の周辺に眼を転じて現在の生野区を私の視点でご紹介します。
(1)「生野」の地名起源 − 生野長者と舎利尊勝寺
勝山通りを渡り南に行くと舎利寺1丁目2番に舎利寺(正式名:南岳山舎利尊勝寺)という、今は黄檗宗に属する禅寺が在ります。寺の周りは寺町風の家々が並び、町名にも成っている点から嘗ては可なり大きな寺だったことを窺わせます。そして、この寺には「舎利寺」の名前の起源に成り同時に「生野区」の地名の根拠にも成った「生野長者と仏舎利」の話が伝わって居ます。
寺伝に拠ると、『用明天皇(※10)の頃、この里に住む生野長者と呼ばれる家に言葉の不自由な子供が生まれ、この子が13歳の時に四天王寺創建の為に来ていた聖徳太子の耳にこの話が入ると、太子は早速この子を呼び「予が前世にて汝に毘婆尸佛の舎利3顆を預けて置いたが、今それを返しなさい。」と言うと、この子は口から3顆の仏舎利を出し太子に返すと言葉を話す様に成った。太子は仏舎利の1つを法隆寺に、1つを四天王寺に、残りの1つを自筆の楊枝の御影をそえて長者に渡すと、大変喜んだ長者はお堂を建てその仏舎利を奉った。』ので、このお堂が「舎利寺」と呼ばれる様に成ったという話です。この話に従うと創建は600年頃と為ります。その後何度か災火に合ったのですが4代将軍家綱の時に黄檗宗万福寺の木庵禅師に再興せられ、その時「尊勝寺」の名を賜わったので、現在は「舎利尊勝寺」なのです。寺には太子の御影や毘婆尸佛舎利が在るそうです。
左が舎利尊勝寺の寺門、門の奥に本堂が見えます。この門の左側に寺伝(後述)を記した「由来記」が掲げて在りますよ。
下が「南岳山」の扁額です。
そして下が寺の境内に咲いていた牡丹の花と中々迫力が有る鬼瓦群です。何れも寺の由緒とは無関係!
左が「佛慈廣大」と書かれた本堂の中。そして右下が前述の寺の由来記を廻りに漢字で刻んだ「舎利寺の釣鐘」です。
一方、朝鮮半島の渡来人たちが住み着いた猪飼野地区を包含する生野区は、昭和18(1943)年4月1日、行政区画の変更に依り大阪市が22区と成った際、旧東成郡鶴橋村・生野村・小路村の区域が東成区から分かれて創設された時に、上述の生野長者の話に因み「生野区」と命名されたそうです。そうだったんですか、今迄私は単純に「いかいの(猪飼野)」→「いくの(生野)」だと思ってましたが”大外れ”でした。
大阪の市街区の大部分が空襲を受けたにも拘わらず、生野区は殆ど空襲の戦禍を受けず戦前からの町並みが残り、斜めに曲がって走る細い路地や小さな民家が密集して居ます。人口約14万、製造業と卸・小売り、飲食店などの家内事業が多数を占める高人口密度の地域で、区民の4人に1人は外国籍なのが大きな特徴です。再び「生野区」公式サイトから数値を拾うと下表の様に成って居ます。
外国人登録人口(2001年3月末現在)
総数 韓国・朝鮮 中国 その他
大阪市 118,926 95,988 13,995 8,943
生野区 36,225 34,950 824 451
(対大阪市比率) 30.5% 36.4% 5.89% 5.04%
(2)御勝山古墳
御勝山と書いて「おかちやま」と読みます。しかし古墳南側の通りは勝山(かつやま)通り、町名の勝山北、勝山南も「かつやま」と読み、古墳は勝山北3丁目に在ります(右の写真)。元は猪甘津の岡、そして岡山と呼ばれて居たのが、大坂冬の陣で徳川秀忠が陣を張り、戦に勝ったので御勝山(おかちやま)と呼ばれる様に成ったそうです。
墓は前方後円(約120m)で5世紀前半の円筒埴輪などが出土して居ますが、被葬者は不明。一説に拠ると天児屋根命(※11)の13世・大小橋命(おおおばせのみこと、別名:小橋宿禰)とも言われて居ます。
この人名の小橋(おばせ)は「猪甘津の橋」の節に出て来た地名の小橋(おばせ)と関係が有りそうです。しかも天児屋根命の子孫と言えば、後に政権中枢を支配した藤原氏に連なる”畏れ多い人物”です。
最初に述べた様にこの辺りは北から入江が入り込み、猪甘津という港を現在の何処に想定するかで若干の誤差は有りますが、古代の港から2km以内の範囲に在ります。ということは港や入港する船から日本の人々や渡来人にも良く見える立地に在り、古代の大古墳の多くが海や川や主要な道路など、当時のメインストリートに面した所に”良く見える様に”造られて居ることと符合します。それは国威発揚でもあり航海者の目印でもあったのでしょう。
勝山通りを隔てて古墳の南には御勝山南公園が在りますが、ここは古墳の前方部だった所で、1933(昭和8)年〜1968(昭和43)年迄は大阪管区気象台が在りました。その跡地が公園に成ったもので、公園内には釈迢空(=折口信夫)の歌碑(※12)が在り、次の歌が刻まれて居ます。
小橋すぎ 鶴橋生野来る道は 古道と思う 見覚えのなき
(3)田島神社
舎利寺の東方を今里筋を越えて行くと、田島3丁目には田島神社が在ります(左の写真)。少彦名命を主祭神とし、菅原大神、事代主命、八幡大神を配神にして居ることから、周辺庶民の信仰対象を全て寄せ集めた様な社です。
田島神社に入ると右手に天満宮で良く見掛ける牛の像が在ったのでアレッ?、と思って見ていたらお婆さんが話し掛けて来たので訊いたら、嘗ては所謂一つの天神社(てんじんしゃ)だったとのこと。そしてお婆さんのお母さんが未だ幼児の時に、この辺り一帯が天井近く迄水に浸かる水害に遭いタライに乗せられ舎利寺迄避難した、という話をして呉れました。このお婆さんはこの田島神社の人でした。
境内の由緒書にも当初は菅原道真を主祭神とする天満宮であったのを江戸中期寛政4(1792)年に少彦名命を主祭神にし「天の神」を祀る天神社(てんしんしゃ)に脱皮した事、明治の洪水の事や明治42(1909)年に現社号に改称した事が記して在ります。
(4)今里新地
今里新地(生野区新今里3丁目)(※13)は嘗ての遊郭です。毳毳(けばけば)しい表通りから一歩裏通りへ入ると、左下の写真の様に看板を掲げた料亭風の店が並んで居ます。旧遊郭街は何処か隠微でしっとりとした情趣が有り、私は好きですね、こういう雰囲気。
大正14(1925)年4月、遊郭整理問題が再燃し新たな遊郭地として指定されたことに依り今里新地が開発される発端です。当時この辺りは湿地帯の様な所で、キツネや狸が出たりした何も無い所でしたが、一帯の土地を所有して居た大阪電気軌道(今日の近鉄)が子会社を作って開発に当たり区画整理から始めたのです。そして昭和4(1929)年12月25日、芸妓13人で開業に漕ぎ付けました。
地図を見るとこの新今里1〜7丁目の区域だけ道路が碁盤目状に成っているのはその為です。
新今里公園もこの新地開発の一環として、災害時の避難所として作られたのです。公園内には嘗ては区画整理完了を顕彰した碑が在ったのですが、今は「大阪市片江中川土地区画整理組合竣工記念碑」(左下の写真)という刻文と記念碑の写真を掲げた石碑が立つのみです。又嘗てキツネが住んで居た為かどうか知りませんが、公園内の東隅には稲荷神社(右下の写真はその鳥居)が在りキツネが鎮座して居ます。鳥居の右手前に猫(←猫を見たい方はココをクリック)が居ますが、夜は白粉のキツネが街を徘徊しますよ!
厳密に言うとここは遊郭では無く芸妓居住指定地で、後者は娼妓を置くことが出来ないという法律上の”タテマエ”が有りますが、ここへ来てメシだけ食って帰る奴は居ないでしょう!!、まぁ、”タテマエ”はどう在れ商売のホンネは需要と供給、「遣りたくて来る奴に大いに遣らせる」サービス精神で忽ち繁盛し昭和12(1937)年頃には芸妓2000人を擁する程に発展しました。が、その後日本は戦争に突入して行きます。
第二次世界大戦では既に述べた様に生野区は空襲の被害は少なく済みました。松島新地は全焼、飛田新地は半焼という中、他所を焼け出された娼妓や芸妓がここに集結、しかも近くの鶴橋には大阪最大の闇市が出現し今里新地は一気に賑わいました。と言っても今里新地もほぼ半分が焼失して居ます。
[ちょっと一言] 戦時中生野区に住んで居られた「日本古城友の会」の尾原隆男会長の話に拠ると、今里新地は昭和20(1945)年の空襲で、現在のバス通りの北側から近鉄の線路迄の新地の中心的な建物群を焼失し、バス通りより南側が今日迄残りました。これはバス通りの北一路一筋分が強制疎開で広い空き地に成っていて、南への延焼を逃れた為で、従って現在の新地の領域は往時の半分以下に成っているそうです。
その後はご存知の様に公娼制度廃止、売防法成立という荒波を被りましたが、界隈には右上の写真の様な看板を掲げた民家が在りますので、今は「今里花街協同組合」の管理の下に運営して居るのでしょう。”タテマエ”は一応立て乍ら”ホンネ”をサービスする「料亭」として確りと皆さんの御期待と欲望に応えている、という訳です。
ここは飛田や松島の様に”顔見せ”が無いですので、白粉のキツネちゃんに化かされない様にして下さいね!
{この節の今里新地の戦中の被害状況は尾原氏の証言を得て04年1月28日に加筆修正しました。}
(5)清見原神社
新今里の東方、小路2丁目には、何と天武天皇(※14)を祀った清見原神社が在ります。もうお解りの様に飛鳥の浄御原宮に因んだ名称です。
社の由緒書に拠ると天武天皇が難波に行幸された折に当所に休憩されたのを、この地に所縁の大伴氏が天皇崩御の際に宮を建てたのが始まり、とのこと。
明治42(1909)年の神社合祀指令に拠り近隣神社の神々(素戔嗚尊、大山咋神、天水分神、国水分神)を合祀し小路神社としたのを、昭和17(1942)年に現名称に改称したと在ります。
(6)生野区のだんじり祭
最後に、生野区の祭をご紹介しましょう。名物は、昔から先人たちが大事にして来ただんじり(※15)です。これは生野区各社、即ち御幸森天神宮、彌栄神社、田島神社、清見原神社、巽神社などの祭で、何れも夏祭(7月15日頃、一部7月31・8月31日)と秋祭(10月15日頃)が宵宮・本宮の2日間開催され、どの神社もだんじりを出します。
右の2枚が秋祭の宵宮での「だんじり」の光景です、御幸橋を渡ってコリアタウンの百済門に進入して来る所です。何れも2003年10月15日に撮影しました。
先頭に立って曳いて居るのは小学生の女子です。だんじりの天辺では2人の若衆が軽業を披露して居ます、提灯には「勝五」(※16)と書いて在りますので御幸森天神宮のだんじりです。御幸森天神宮では10月15・16日共に夕方5時頃宮を出て地区を巡回した後、夜10時頃宮に帰って来ます。
この様に各神社区域毎の伝統と特色の有るだんじり祭ですので、皆さんも是非一度見に来て下さい。尚、年毎・地区毎の開催日や催しの詳細は「生野区」公式サイト等で確認して下さい。
{この節は03年10月16日に追加}
如何でしたか?、そもそもの「橋」論議から「大阪市の渡船場巡り」の様に、私自身も全く予期しなかった以外な方向に展開したかと思うと、今回は遂に日本の橋のルーツを訪ねる事に成りました。探れば「私の庭」の、しかも軒先の足元の様な所にルーツは有ったのです!
と同時に奥へ掘り下げるだけで無く幅を持たす為に、旧猪飼野地区の今昔や生野区の風景も合わせて盛り込むことにし、構想から3ヶ月で漸く形を成すことが出来ました。日本社会の成立の一つの側面を示すことが出来たのではないか、と思って居ます。この「ルーツを究める心」こそ温故知新の真髄であり、「足元を固めること」こそ「旅は身近な所から」の本質なのです。こうして浪速の橋の起源を探った当ページでは同時に「難波」「浪速」「浪花」、「猪飼野」や「生野」の地名起源をも掘り起こしました。
最後に難波を詠んだ古歌をご紹介します。先ずは日本最古の橋「猪甘津の橋」を架けた仁徳天皇の歌
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島(あはしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の
島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ 仁徳天皇
が『古事記』に在ります(△4のp158)。これは帝が淡路島から難波の海を見て詠んだ歌で「難波の碕(崎)」が歌い込まれて居ます。因みに「おしてるや」は「難波」に掛かる枕詞で、大和から生駒山の峠を越えると難波の海(=河内湾・河内湖)が眼前に一面に輝いて見えたから(△2−1のp249)で、この枕詞が古代の大阪湾の状態を端的に物語って居ます。又、淡路島には昔は檳榔(あじまさ)(※18、※18−1)という亜熱帯性常緑高木が自生してた様ですね。
次に難波潟の鶴を詠んだ歌として『万葉集』巻7−1160(摂津にして作れる雑歌)より
難波潟 潮干に立ちて 見わたせば
淡路の島に 鶴(たづ)渡る見ゆ 詠み人知らず
がお薦めです(△6)。これは逆に淡路島に渡り行く鶴の歌で、非常に素直で何の衒いも無く海を渡る鶴に魅入り乍らスーッと発した溜息の様な歌で、私の好きな歌の一つです(→「その後」の章を参照)。そして巻8−1453の長歌の中には
夕されば 鶴(たづ)が妻よぶ 難波潟
という句も在ります(△6)。
冒頭で述べた様に古代の大阪湾は干潟が広がり難波江とか難波潟と呼ばれました。それ故に船が航行出来る深い水脈を標す澪標(みおつくし)が必要だったのです。葦が茂る干潟には鶴が飛来しました、大阪の昔は鶴は身近な鳥だったのですね。浪速の橋のルーツを究めたらツル(鶴)に行き着きましたが、この様に大阪湾から鶴の飛翔が見えたらどんなにか素晴らしい事でしょう!
『小倉百人一首』では19番歌が難波潟を、20番歌が難波の澪標を、88番歌が難波江と澪標を詠み込んで居ますので参照して下さい。
これで<#1>名橋編、<#2>渡船場編、<#3>起源編と継続して来た[浪速の橋と渡船場]シリーズは全て完了です。皆さん、あ・り・が・と・う・御座いました!
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尚、[浪速の橋と渡船場]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
>>>■その後 − 上田秋成も推挙した万葉1160番歌
このページを最終更新してアップ(04年1月28日)した大分後で上田秋成の『春雨物語』の「歌のほまれ」を何気無く繙いたら、そこには鶴(たづ)を詠んだ歌が幾つかピックアップされてるのですが、「結び」の章に私の好きな歌として挙げた『万葉集』巻7−1160の歌が載り「歌よむはおのが心のまゝ」に詠むのが良いと付記して在りました(△7のp63〜64)。全く同感です!
しかし上田秋成が同歌に私と全く同じ感想を抱いて居たとは「小さな発見」であり、私は嬉しく思って居ます。
{この記事は05年1月14日に追加しました。}
【脚注】
※1:難波江(なにわえ)は、今の大阪市付近の海面の古称。難波潟。
※1−1:難波潟(なにわがた)は、難波江に同じ。万葉集2「―潮干ありそね」。
※1−2:八十島(やそしま)とは、[1].多くの島。万葉集20「又更に―すぎて別れか行かむ」。
[2].八十島祭の略。台記「―、大納言典侍出京」。
※1−3:難波の堀江(なにわのほりえ)とは、仁徳天皇が水害を防ぐ為に、高津宮(たかつのみや) −現在の大阪城付近− の北に掘ったという運河。現在の大阪市の堀江とは異なる。
※1−4:茨田の堤(まんたのつつみ)は、古代、淀川の下流の左岸、河内国茨田郡の側に在った堤防。伝承では仁徳天皇時代の築堤という。
※1−5:難波津(なにわづ)とは、[1].難波江の要津。古代には、今の大阪城付近迄海が入り込んで居たので、各所に船瀬(ふなせ)を造り、瀬戸内海へ出る港として居た。難波の津。
[2].古今集仮名序に手習の初めに学ぶと在る歌。即ち「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」を言う。王仁の作という伝説が在り、奈良時代に既に手習に用いられて居た。
※1−6:船瀬(ふなせ)とは、船が碇泊する所。船溜り。万葉集6「―ゆ見ゆる淡路島」。
※2:仁徳天皇(にんとくてんのう)は、記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯(紀)/大雀(記)、読みは何れも「おおさざき」。難波に都した最初の天皇で、高津宮(たかつのみや)は今の大阪城の辺り。水利や治水事業を行い、租税を3年間免除したという聖帝伝承が有る。その墓が大仙陵古墳に比定され、大阪府堺市に在る前方後円墳。全長約485mで日本最大。大山古墳・百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)とも言う。因みに鷦鷯(さざき)とはミソサザイの古名。
※2−1:高津宮(たかつのみや)は、仁徳天皇の皇居。宮址は大阪城の辺という。難波高津宮。
※2−2:鷦鷯(さざき、さざい)は、ミソサザイの古名。仁徳紀「斎槻(いつき)が上の―捕らさね」。
※2−3:鷦鷯(みそさざい、winter wren)は、スズメ目ミソサザイ科の鳥。非常に小さく、翼長約5cm。背面は焦茶色。腹面は淡色で所々に細かい黒褐色の横斑が有る。山間の水辺に多く、動きは敏捷で、昆虫類を捕食する。一夫多妻。鳴き声が良い(チョッチーチーチリリチッチッチッチリチーチーチュクチュク)。季語は冬。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3:仁徳(じんとく、benevolence)は、仁愛の徳。情け深い徳。思い遣りの有る心。にんとく。「―を施す」。
※4:百済(くだら)は、古代朝鮮の国名。三国の一。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、シヒ城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族と言われる。高句麗・新羅に対抗する為に倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破られ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。
補足すると、日本に亡命して渡って来た人々は多く、奈良県北葛城郡広陵町の一地区や大阪市生野区鶴橋付近や大阪府枚方市などに纏まって住み、「百済」の地名が残る。生野区には百済王氏の氏寺が在ったと言う。
※5:鶴(つる、crane)は、(一説に、朝鮮語”turumi”と同源。又、鳴き声を写したものと言う)
[1].ツル目ツル科の鳥の総称。古来、長寿の動物として尊ばれた(「鶴は千年亀は万年」)。大形で頸・脚共に長い。沼地・平原などに群棲し、地上に営巣・産卵。日本ではタンチョウ・マナヅル・ナベヅルなどを産するが現在では何れも稀。タンチョウを単にツルとも言う。タンチョウ以外は渡り鳥。古名、たづ・たず(鶴・田鶴)。土佐日記「見渡せば松のうれごとにすむ―は千代のどちとぞ思ふべらなる」。
[2].紋所の名。鶴を種々に図案化したもの。鶴丸・舞鶴・鶴菱など。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5−1:鶴・田鶴(たづ、たず)は、(主に歌語として)ツル(鶴)の古名。万葉集1「この洲崎みに―鳴くべしや」。
※6:御幸(みゆき)とは、天子、天皇又は上皇・法皇・女院の外出。天子の場合には「行幸(ぎょうこう)」とも書く。
※7:小野小町(おののこまち)は、平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。出羽郡司小野良真(篁(たかむら)の子)の女(むすめ)とも言う。歌は柔軟艶麗。文屋康秀・僧正遍昭らとの贈答歌が在り、仁明・文徳朝頃の人と知られる。絶世の美人として七小町などの伝説が在る。
※8:この中にはあの統一教会(正式名:世界基督教統一神霊教会、教祖:文鮮明)も含まれます。兎に角、長らく儒教文化で日本より後に開国した韓国のキリスト教徒25%という数値は、日本のそれが1.5%と比較して驚異的です。
政治・経済界のリーダーが若い、意思決定がトップダウン(=上意下達)、契約型社会、軍事偏重、キリスト教徒が多い、など韓国は日本より数段合理主義でアメリカに近いと言えます。反面、村意識・郷土意識が強い、財閥支配、契約を一方的に破棄する、など未開放な部分も根強く残り、両極端で猪突猛進(又は盲進)型、熱し易い国民性です。
※9:「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」は、[大学](心底から求めれば、目的にぴたりと合致しない迄も、大きな見当違いには成らないという意から)推測や予想が的中して無いとは言え、大して間違っては居ない。大体は正しい推量である。
※10:用明天皇(ようめいてんのう)は、記紀に記された6世紀末の天皇(?〜587、在位585〜587)。欽明天皇の第4皇子。聖徳太子の父。皇后は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女。名は橘豊日(たちばなのとよひ)。皇居は大和国磐余の池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)。在位中は蘇我馬子と物部守屋が激しく対立。
※11:天児屋根命(あまのこやねのみこと)は、日本神話で、興台産霊(こごとむすひこ)の子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、後に天孫に従って降った五部神(いつとものおのかみ)の一で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀を司ったと言う。中臣・藤原氏の祖神とする。
※12:折口信夫(おりぐちしのぶ)は、国文学者・歌人(1887〜1953)。大阪生れ。国学院大卒。国学院・慶大教授。民俗学を国文学に導入して新境地を開き、歌人としては釈迢空の名で知られた。主著「古代研究」、歌集「春のことぶれ」、詩集「古代感愛集」など。
※13:新地(しんち)とは、この場合、新開地に出来た遊里。大坂の曾根崎新地、江戸深川の新地など。転じて、遊里。遊郭。
補足すると、大阪で現在、遊郭の面影を残して居るのは飛田新地、松島新地が双璧。
※14:天武天皇(てんむてんのう)は、7世紀後半の天皇(?〜686、在位673〜686)。名は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)、大海人(おおあま)。舒明天皇の第3皇子(天智天皇の弟)。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の崩後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)に即位する。新たに八色姓(やくさのかばね)を制定、位階を改定、律令を制定、更に国史の編修に着手。皇后は後の持統天皇。
※15:檀尻/楽車/山車(だんじり)は、関西・西日本の祭礼の曳物。太鼓をのせ、車輪を付けて引いたり、担いだりして練って行くもの。東京地方の山車(だし)・屋台に同じ。浄、夏祭浪花鑑「留主の間へ―でも持つて来たな」。物類称呼「屋台、...大坂及西国にて―と云」。
※16:「生野区」公式サイトに拠ると「勝五」とは「勝山北五地車保存会」の略で、御幸森天神宮に宮入りする勝山北5丁目地区のだんじりです。
※17:「押し照る/押し照るや」は、(「一面に隈無く照る」の意)「なには(難波)」に掛かる枕詞。
※18:檳榔(あじまさ、あぢまさ)は、ビロウ(蒲葵)の古名。古事記下「―の島」。
※18−1:蒲葵・檳榔(びろう)は、ヤシ科の一属。東南アジア・オーストラリアに約30種が分布。亜熱帯性常緑高木で、檳榔樹(びんろうじゅ)と混同されるが別属。ワビロウは九州南部・南西諸島に、オガサワラビロウは小笠原に自生。形はシュロに似、葉は円形で直径約1m、掌状に分裂して幹頂に叢生。雌雄異株。4〜5月頃緑色の花序を出し、黄色の核果を結ぶ。葉は笠・団扇などに用い、繊維を採って縄を作る。若芽・茎の軟部は食用。古く牛車(ぎっしゃ)の装飾に用いた。古名、あじまさ。びりょう。ほき。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『大阪府の歴史』(藤本篤著、山川出版社)。
△2:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△2−1:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△3:『八百八橋物語』(松村博著、大阪文庫)。
△4:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。
△5:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。
△6:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△7:『春雨物語』(上田秋成著、漆山又四郎校訂、岩波文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):古代大阪の地図▼
地図−日本・大阪の河内地方(Map of Kawachi country, Osaka -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):猪飼野地区及び生野区の地図▼
地図−日本・大阪の猪飼野地区(Map of Ikaino, Osaka -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):聖徳太子や儒教の徳目について▼
資料−聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
@参照ページ(Reference-Page):難波を詠んだ『小倉百人一首』の歌▼
(19、20、88番歌)
資料−小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
「私の庭」について▼
ここが「私の庭」だ!(Here is the territory of Me !)
古代大阪の「八十島」と曽根崎▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
河内湾・河内湖の草香津▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
住吉の津(墨江の津)や飛田新地▼
阪堺電車沿線の風景−大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
旧平野川の水運を衰退させた「大和川と付け替え」▼
阪堺電車沿線の風景−堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
コリアタウン(御幸森商店街)の焼肉屋▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
新今里公園の稲荷神社の鳥居前に居た猫▼
ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)
「日本古城友の会」のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')