資料−小倉百人一首
(The Ogura Anthology of 100 Tankas by 100 Poets)

★この画面を閉じる時はブラウザ右上の[x]ボタンを押して下さい。
 (If you want to close this window, push upper-right [x]-button.)

 ■小倉百人一首の位置付け

 歴史的背景が忘れられた現在では、百人一首/歌合/歌ガルタなどが漠然と同類項と見做されて区分が曖昧ですので、その意味を広辞苑に拠り以下に要約し、『小倉百人一首』の位置付けを明確にして置きましょう。
 その前に『小倉百人一首』は短歌を撰した歌集なので、先ずは短歌から記すことにします。

 (1)短歌(Tanka / Japanese Poem[ of 31 syllables])

 和歌の一体。長歌に対して、五・七・五・七・七の五句体31文字の歌記紀歌謡末期・万葉集初期の作品に成立、古今を通じ最も広く行われ、和歌と言えば短歌を指すに至った。みじかうた。
 これに対し和歌(倭歌とも)と言った場合、広義には長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)・片歌などの総称。狭義には短歌を指す。

 (2)小倉百人一首
    (The Ogura Anthology of One Hundred Tankas by One Hundred Poets)

 歌集。藤原定家撰(※1)。宇都宮頼綱(蓮生)撰説(※2)も有る。天智天皇から順徳天皇の時代に至る百人の歌人の歌各1首を撰したもの。二条家で重んぜられ、近世以後歌ガルタとして普及。単に「百人一首」(ヒャクニンシュともよむ)と呼ばれたが、近世以降「新百人一首」などと区別する為、定家が小倉山荘で撰したとの伝に因み「小倉」の2字を冠する。小倉山荘色紙和歌。小倉百首。

 (3)百人一首(The Hundred Tankas by One Hundred Poets)

 (読み癖としてはヒャクニンシュ) 百人の歌人の和歌1首ずつを撰集したもの。藤原定家撰と言われる「小倉百人一首」が最も良く行われ、後にこれを模倣したものも多い。

 (4)歌合(The Game of Tanka Combination by Poet Teams)

 うたあわせ。人々を左右に分け、その詠んだ短歌を左右1首ずつ組み合わせて判者が優劣を判定し、優劣の数に依って勝負を決する遊戯。その単位を一番と言い、小は数番から大は千五百番に上る。平安初期以来、宮廷・貴族の間に流行。詩合(しあわせ)に先立って起り、885(光孝2)年の「在民部卿行平家歌合(ざいみんぶのきょうゆきひらのいえうたあわせ)」が最初とされる。
 因みに詩合(しあわせ)は、左右に分れて漢詩を作り、その詠詩を合わせて、判者に優劣の判定を請い、勝負を争うこと。又、その記録。959(天徳3)年に行われた十番詩合が最初闘詩

 (5)カルタ(carta[葡])

 carta[葡]は card[英]に相当。歌留多・骨牌。南蛮貿易の始まった16世紀後半にポルトガル人に依って伝えられたとされる。
 遊戯又は博奕の具。小さい長方形の厚紙に、種々の形象又は詞句・短歌などを書いたもの数十枚を数人に分け、形象・詞句・短歌に合わせて取り、その取った数に拠って勝負を定める。花札歌ガルタいろはガルタトランプなど種類が多い。特に、歌ガルタいろはガルタを指す。多く、正月の遊び。

 『小倉百人一首』は中世の当時の代表的な歌人の最もポピュラーな短歌を一首ずつピックアップした、言わば「ヒットソング・ベスト100」の様な歌集でした。これが以後の歌の手本と成り暗誦されて多くの人々が知る歌として定着して行き、様々な版の「百人一首」を誘発したのは当然の成り行きでした。下って室町末期にポルトガルからカルタが伝播し江戸初期に和洋折衷の「歌ガルタ」 −歌ガルタの中には歌合(うたあわせ)的要素が在ります− の中に『小倉百人一首』が取り入れられ、特に絵入りのものが子供から大人迄のカードゲームとして日本文化の一部として普及しました。
 従って、1950年頃以前に幼少期を過ごした世代には『小倉百人一首』の歌を暗誦して覚えている人が可なり居ますが、その後テレビの普及で正月に家庭で歌ガルタを楽しむ習慣は廃れ、現在はテレビゲームや携帯ゲームが普及した為に”子供の領分”から完全に駆逐されて仕舞いました。残念な事です。

 以下に広辞苑及び【参考文献】△1から▼『小倉百人一首』の百歌▼を歌番順に掲載します。

 ■小倉百人一首の百歌

1.天智天皇                   <後撰集−秋中>
 秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

2.持統天皇                   <新古今集−夏>
 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山

3.柿本人麻呂                  <拾遺集−恋三>
 あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

4.山辺赤人                   <新古今集−冬>
 田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

5.猿丸大夫                   <古今集−秋上>
 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

6.中納言家持(大伴家持)            <新古今集−冬>
 鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

7.安倍仲麿                   <古今集−羇旅>
 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

8.喜撰法師                   <古今集−雑下>
 わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり

9.小野小町                   <古今集−春下>
 花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

10.蝉丸                    <後撰集−雑一>
 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもあふ坂の関

11.参議篁(たかむら、小野篁)         <古今集−羇旅>
 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

12.僧正遍昭(良岑宗貞)            <古今集−雑上>
 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ

13.陽成院(陽成天皇)             <後撰集−恋三>
 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりぬる

14.河原左大臣(源融(とおる))        <古今集−恋四>
 陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

15.光孝天皇                  <古今集−春上>
 君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ
 
16.中納言行平(在原行平)           <古今集−離別>
 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

17.在原業平朝臣                <古今集−秋下>
 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは

18.藤原敏行朝臣                <古今集−恋二>
 住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ

19.伊勢(藤原継蔭の女)            <新古今集−恋一>
 難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや

20.元良親王                  <後撰集−恋五>
 わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ

21.素性法師(良岑玄利(はるとし))      <古今集−恋四>
 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな

22.文屋康秀                  <古今集−秋下>
 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ

23.大江千里                  <古今集−秋上>
 月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど

24.菅家(菅原道真)              <古今集−羇旅>
 このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに

25.三条右大臣(藤原定方)           <後撰集−恋三>
 名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな

26.貞信公(藤原忠平)             <拾遺集−雑秋>
 小倉山峰の紅葉葉心あらばいまひとたびのみゆき待たなむ

27.中納言兼輔(藤原兼輔)           <新古今集−恋一>
 みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ

28.源宗于(むねゆき)朝臣           <古今集−冬>
 山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば

29.凡河内躬恒                 <古今集−秋下>
 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

30.壬生忠岑                  <古今集−恋三>
 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし

31.坂上是則                  <古今集−冬>
 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪

32.春道列樹(つらき)             <古今集−秋下>
 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり

33.紀友則                   <古今集−春下>
 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

34.藤原興風                  <古今集−雑上>
 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

35.紀貫之                   <古今集−春上>
 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける

36.清原深養父(ふかやぶ)           <古今集−夏>
 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ

37.文屋朝康                  <後撰集−秋中>
 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける

38.右近(藤原季綱の女)            <拾遺集−恋四>
 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

39.参議等(ひとし、源等)           <後撰集−恋一>
 浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき

40.平兼盛                   <拾遺集−恋一>
 忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

41.壬生忠見                  <拾遺集−恋一>
 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

42.清原元輔(深養父の孫)           <後拾遺集−恋四>
 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

43.権中納言敦忠(藤原敦忠)          <拾遺集−恋二>
 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり

44.中納言朝忠(藤原朝忠)           <拾遺集−恋一>
 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

45.謙徳公(藤原伊尹(これまさ))       <拾遺集−恋五>
 あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな

46.曾禰好忠                  <新古今集−恋一>
 由良の門を渡る舟人かぢを絶えゆくへも知らぬ恋のみちかな

47.恵慶法師                  <拾遺集−秋>
 八重むぐら茂れる宿の寂しきに人こそ見えね秋は来にけり

48.源重之                   <詞花集−恋上>
 風をいたみ岩打つ波のおのれのみくだけてものを思ふころかな

49.大中臣能宣朝臣               <詞花集−恋上>
 御垣守衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつものをこそ思へ

50.藤原義孝                  <後拾遺集−恋二>
 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな

51.藤原実方朝臣                <後拾遺集−恋一>
 かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

52.藤原道信朝臣                <後拾遺集−恋二>
 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

53.右大将道綱母(藤原倫寧(ともやす)の女)  <拾遺集−恋四>
 嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る

54.儀同三司母(高階成忠の女)         <新古今集−恋三>
 忘れじのゆく末まではかたければ今日を限りの命ともがな

55.大納言公任(藤原公任)           <拾遺集−雑上>
 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

56.和泉式部(大江雅致の女)          <後拾遺集−恋三>
 あらざらむこの世のほかの思ひ出でにいまひとたびの逢ふこともがな

57.紫式部(藤原為時の女)           <新古今集−雑上>
 めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影

58.大弐三位(藤原宣孝の女、母は紫式部)    <後拾遺集−恋二>
 有馬山猪名の篠原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

59.赤染衛門(赤染時用の女、実父は平兼盛)   <後拾遺集−恋二>
 やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな

60.小式部内侍(橘道貞の女、母は和泉式部)   <金葉集−雑上>
 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

61.伊勢大輔(大中臣輔親の女)         <詞花集−春>
 いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな

62.清少納言(清原元輔の女)          <後拾遺集−雑二>
 夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ

63.左京大夫道雅(藤原道雅)          <後拾遺集−恋三>
 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな

64.権中納言定頼(藤原定頼)          <千載集−冬>
 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木

65.相模(伝源頼光の女、大江公資の妻)     <後拾遺集−恋四>
 恨みわび干さぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ

66.前大僧正行尊(源基平の子)         <金葉集−雑上>
 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし

67.周防内侍(平棟仲の女)           <千載集−雑上>
 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ

68.三条院(三条天皇)             <後拾遺集−雑一>
 心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな

69.能因法師(橘永ト(ながやす))       <後拾遺集−秋下>
 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり

70.良暹(りょうぜん)法師           <後拾遺集−秋上>
 寂しさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮

71.大納言経信(源経信)            <金葉集−秋>
 夕されば門田の稲葉訪れて蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く

72.祐子内親王家紀伊(平経方の女)       <金葉集−恋下>
 音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ

73.前権中納言匡房(大江匡房)         <後拾遺集−春上>
 高砂の尾の上の桜咲きにけり外山のかすみ立たずもあらなむ

74.源俊頼朝臣                 <千載集−恋二>
 憂かりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを

75.藤原基俊                  <千載集−雑上>
 契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり

76.法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)    <詞花集−雑下>
 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波

77.崇徳院(崇徳天皇)             <詞花集−恋上>
 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

78.源兼昌                   <金葉集−冬>
 淡路島通ふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守

79.左京大夫顕輔(藤原顕輔)          <新古今集−秋上>
 秋風にたなびく雲のたえ間より漏れ出づる月の影のさやけさ

80.待賢門院堀河(源顕仲の女)         <千載集−恋三>
 ながからむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ

81.後徳大寺左大臣(藤原実定)         <千載集−夏>
 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

82.道因法師(藤原敦頼)            <千載集−恋三>
 思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

83.皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)        <千載集−雑中>
 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

84.藤原清輔朝臣                <新古今集−雑下>
 長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

85.俊恵法師(源俊頼の子)           <千載集−恋二>
 夜もすがらもの思ふころは明けやらぬねやのひまさへつれなかりけり

86.西行法師(佐藤義清(のりきよ))      <千載集−恋五>
 嘆けとて月やはものを思はするかこちがほなるわが涙かな

87.寂蓮法師(藤原定長)            <新古今集−秋下>
 村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮

88.皇嘉門院別当(源俊隆の女)         <千載集−恋三>
 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ身を尽くしてや恋ひわたるべき

89.式子内親王(後白河天皇の皇女)       <新古今集−恋一>
 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

90.殷富門院大輔(藤原信成の女)        <千載集−恋四>
 見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず

91.後京極摂政前太政大臣(藤原良経)      <新古今集−秋下>
 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

92.二条院讚岐(源頼政の女)          <千載集−恋二>
 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし

93.鎌倉右大臣(源実朝)            <新勅撰集−羇旅>
 世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも

94.参議雅経(藤原雅経)            <新古今集−秋下>
 み吉野の山の秋風さよ更けてふるさと寒く衣打つなり

95.前大僧正慈円(藤原忠通の子)        <千載集−雑中>
 おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣にすみ染めの袖

96.入道前太政大臣(藤原公経)         <新勅撰集−雑一>
 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり

97.権中納言定家(藤原定家)          <新勅撰集−恋三>
 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

98.従二位家隆(藤原家隆)           <新勅撰集−夏>
 風そよぐ楢の小川の夕暮は御禊ぞ夏のしるしなりける

99.後鳥羽院(後鳥羽天皇)           <続後撰集−雑中>
 人も愛し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は

100.順徳院(順徳天皇)            <続後撰集−雑下>
 百敷や古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり


【脚注】
※1:藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、(名は「ていか」とも)鎌倉前期の歌人(1162〜1241)。京極中納言などと呼ばれた。俊成の子。「新古今集」(共撰)・「新勅撰集」を撰。歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の代表。家集「拾遺愚草」の他に歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌之大概」など。「源氏物語」「古今集」「土佐日記」などの古典校勘の業に従い、日記に「明月記」が在る。「小倉百人一首」の撰者。書風は、後世、定家流と呼ばれ、江戸の茶人に珍重された。

※2:宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)は、鎌倉前期の武将・歌人(1172〜1259)。妻は北条時政の娘。時政の失脚事件に連座して出家し、蓮生と号す。京都に住んで藤原定家と親交を結び、宇都宮歌壇の礎を築く。
 補足すると、定家の子・藤原為家は宇都宮頼綱の娘を正室に迎えましたが、後に阿仏尼を側室に迎え、正室の嫡男・為氏(ためうじ)と側室の嫡男・為相(ためすけ)の間に相続争いが起こって分家し、為氏が二条家を、正室の次男・為教(ためのり)が京極家を、為相が冷泉家を名乗りました。しかし後に二条、京極両家は断絶し、今日は阿仏尼系の冷泉家 −冷泉家はその後、上冷泉家と下冷泉家に分かれ、上冷泉家が今日の冷泉家です− のみが残こりました。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『百人一首』(マール社編・発行)。


★この画面を閉じる時はブラウザ右上の[x]ボタンを押して下さい。
 (If you want to close this window, push upper-right [x]-button.)