-- 2003.11.05 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2007.06.20 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★ |
さて今回は大阪から南へ、「私の庭」の南部をご紹介しましょう。一口に南部と言っても可なり広いので、今回は大阪の誇るチンチン電車(※1)・阪堺電気軌道(略称:阪堺電軌、通称:阪堺電車)に沿って、その沿線風景をご紹介しましょう。と言うと「大したこと無いじゃん」なんて思う方も有ると思いますが(特に関西以外の方は)、ところがドッコイ、大阪市を飛び抜けて、遥か堺を越えて浜寺駅前迄行って仕舞うのでっせ、スゴイでっしゃろ!
ここも「見栄を捨てマイペースで」行くことが肝心ですよ。それでは出発、チンチン!!
待った待った、出発前に一言!!
先ず阪堺電車が何処をどう走っているのかを説明する為に、私が作成した左のイラストをご覧下さい。ご覧の様に大阪南部方面にはJRと南海とこの阪堺電車が並行して走ってるのです、浜寺迄は。
我が阪堺電車には次の2路線が在ります。
[1].上町線:天王寺駅前←→住吉公園駅
(4.6km)
[2].阪堺線:恵美須町 ←→浜寺駅前
(14.1km)
[1]はJR天王寺駅の前から出て、大阪の山の手である上町台地の高級住宅街・帝塚山を通り、住吉公園迄行きます。
[2]は日本橋電気街や通天閣が聳える恵美須町駅から出て、西成区の「あいりん地区」(通称:釜ヶ崎)と呼ばれる貧民窟のド真ん中を通り抜け、住吉大社の前を拝礼し乍ら横切り、更に大和川を渡って堺市を縦断し浜寺公園迄行きます。
[1]と[2]の混合線も在ります。天王寺駅前から出て住吉駅迄[1]で、そこから[2]に乗り入れ我孫子道迄行くのです。
堺市の大小路駅が南海本線の堺駅と南海高野線の堺東駅の東西を結ぶ大小路という道路上に在ります。
これで走行区間の輪郭はお解り戴けたと思います。1輌編成のワンマンカーですが全線複線で冷暖房完備。従って阪堺電車は大阪の庶民に大変親しまれて居て、利用客は多く10分間隔位で運行して居ます。一説に拠ると夏は涼みに乗る人が居るとか...(^O^)。
→ 地図を見る方はこちらをクリック(Open the map)!
さあ、今度こそホンマに出発でっせ、チンチン。あ、あの、断って置きますが私はチンチン電車には乗りません、チャリンコ(=自転車)でチンチン電車と競争です、はい!
先ずは天王寺駅前から住吉公園迄の山の手の風景を、上町線に沿って見て行きましょう。
(1)松虫塚と聖天さん
右が大阪市阿倍野区の天王寺駅前駅に停車して居る阪堺電車です。「あびこ道」と行き先が表示されてますので、走行区間の章で説明した[1]と[2]の混合線です。
ここを出発するとあべの筋の一般道路の路面を南下します。一般道路を走る場合は自動車と同じ扱いに成りますので、交差点では一般信号を厳守!!、「赤」に成ったら止まります。
さて14号松原線高架下の阿倍野駅を過ぎ検察庁前を通過した辺りで、電車はあべの筋から離れ専用軌道に入ります。専用軌道では踏切には警報遮断機が在り信号は電車優先です。
そして直ぐに松虫駅に到着。私は駅から少し先に進み松虫通りを西に少し下ります。
鎌倉時代初期、「南無阿弥陀仏」を唱えれば西方の極楽浄土へ往生出来るという法然の西方浄土思想が普及しました。後鳥羽上皇の官女の松虫と鈴虫が入信し、これに激怒した上皇に念仏を禁止された法然は四国に流されました(1207年)。
この松虫が尼に成り庵を結んだ跡が左の「松虫塚」(阿倍野区松虫通1丁目)で、この話は後に世阿弥の能「松虫」にも取り入れられ、松虫通りの地名起源に成って居ます。歌碑には
秋の野に 人まつ虫の 声すなり
われかと行きて いざとぶらわん
という『古今集』巻4-202の詠み人知らずの歌が刻まれて居ます(△1)。松虫の”松”と人を”待つ”心とが掛けられて居ますね。掛詞は『古今集』時代の流行です(△1のp275)。
更に松虫通りを下ると聖天山正圓寺(通称「天下茶屋の聖天さん」)(松虫通3丁目、※3)が在ります。寺の縁起に拠ると天慶3(939)年光道和尚の開基で元は阿倍野村に在り「般若山阿倍野寺」の一坊であった由。元禄(1688~1703)年間に義道見明和尚が現在の地に移転し堂宇を建て「海照山正圓寺」と改称。その後享保8(1723)年に京都から常如和尚が来住してから聖天尊への信仰が盛んに成り、以来「聖天山正圓寺」として近隣の庶民に親しまれて居ます。
でご本尊はと言うと、日本で最も大きな木彫大聖歓喜双身天王(※3-1)だそうで、一度拝顔したいものですね。ま、要するに象の男女が抱き合ってるアレですよ、そして常如和尚が”好きモン”で、庶民も好きモンだから大いに受けたという訳です。これは我がオメガのマーク(この画面の背景のロゴ)と相通じるものが有りまっせ、ムッフッフ!
左下の写真が本堂で「海照山」という扁額と「天下茶屋聖天尊」という表札が掛かって居ます。ここは神仏習合で同一境内に聖天神社が在り(右下の写真)、鳥居の扁額には「歓喜天」と書いて在ります。
ところで、ここから西南の方向は可なり展望が開けて居ますが、嘗ては西の坂下には海が逼っていたので、ここから松原や海に沈む夕日はさぞ美しかったことでしょう。
(2)熊野街道と阿倍野
さて松虫通りの坂(聖天さん辺りを聖天坂と呼ぶ)を戻り、再びあべの筋に沿って南へ行きましょう。この少し裏手が東天下茶屋駅ですよ。
すると直ぐに御祭神が安倍晴明(※4)の安倍晴明神社(阿倍野区阿倍野元町)が在ります(左下の写真)。創建は社伝に拠ると、晴明没後2年の寛弘4(1007)年で、晴明の父・安倍保名(やすな)が和泉の信太明神に参詣の折、助けた白狐(実は葛之葉姫)と結ばれてこの地で生まれたのが晴明であるという有名な「葛の葉伝説」(社伝では「葛之葉子別れ伝説」)に基づいて居ます。小さな神社ですが、境内には神社の起源に成った「安倍晴明公産湯井の跡」(下中央の写真)や安産祈願の「孕み石」や父・保名を奉る「泰名稲荷神社」が在ります、泰名(やすな)は保名のことです。
尚、社殿の中では占いをして居ますので、興味有る方は中へ声を掛けて下さい。又「葛の葉伝説」に出て来る「和泉の信太明神」とは大阪府和泉市のJR北信太駅近くの葛之葉稲荷神社(=信太森神社)のことです。この度「信太の森」のページをアップしましたので是非▼下のページ▼をご覧下さい。{この「信太の森」へのリンクは07年6月20日に追加}
[人形浄瑠璃巡り#4]和泉市信太の森([Puppet Joruri 4] Forest in Shinoda, Izumi)
右上の写真が社殿に掛かっていた神社の表札で、安倍晴明の紋の五芒星(=籠目紋、ペンタグラム(pentagram))が描かれて居ます。ダヴィデの星の六芒星(ヘキサグラム(hexagram))にも通じるこの形は世界共通に「魔除け」の意味が有ります。
この辺一帯は安倍氏(阿倍氏)に所縁の土地で、もう少し先には阿倍王子神社(→後出)も在り、地名にも阿倍野区や阿倍野元町や隣の晴明通りなど、何れも阿倍氏や晴明に因んだ地名です。
ところで、この神社は数年前迄は参詣する人も疎らでひっそりとした神社だったのですが、昨今の占いや安倍晴明ブームでここ2、3年はガイドブックを手にしたミーハー・ギャルが押し寄せる様に成り(ギャルが来ると男も来る)、左上の写真にも写っている様に御神籤(おみくじ)の売店が境内に建ち小母ちゃんが2人売り子をして居ます。又、写真には写さない様にしたのですが、この写真の左手前には新しい社務書が建ち境内が狭く成って仕舞いました。これは2005年の晴明没後1千年祭に向けての準備だそうですが、長引く不況の中ここだけはブームに乗って景気が好いみたい、これも安倍晴明の御利益でしょうか?!、その内に商売繁盛の神社に成ったりして。そうなったら御神籤売りの小母ちゃんを若い姉ちゃんにして欲しいでんな、オッホッホッホ...(^o^)。
それから少し南に行くと左下の写真の阿倍王子神社(阿倍野元町)が在ります。
ここは旧熊野街道(右の写真、※5)筋に当たり大坂の起点の「八軒家から7.4km」と刻して在ります。
この神社の御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・素戔嗚尊(※5-1)・品陀別尊(ほむだわけのみこと)の4柱。創建は仁徳天皇とも阿倍氏とも言われ、99王子中の第2王子社です。
左の写真で鳥居の下に「阿倍野王子旧跡」、鳥居の左に「もと熊野街道」の石柱が立って居ます。
左が同神社の拝殿。
下が境内の南天の実です。
尚、安倍晴明神社はこの阿倍王子神社の摂社です。
++++ 熊野詣と「王子」 ++++
京都から熊野に行く場合は、京伏見から船で淀川を下り大坂に着きますので大坂の起点は八軒家 -昔の渡辺の津、今の京阪天満橋駅付近- と成り、現在の大阪府を南下する熊野街道は紀伊経由の道程です。その途中には熊野三所権現(※5-2)を守護する若王子を勧請した遥拝所兼休憩所が出来、これを「王子」と呼びました。熊野街道の各所に「××王子神社」が在るのはその名残です。
熊野信仰は平安・鎌倉時代に盛んに成り、特に院政時代の1090年~1221年の132年間は上皇の参詣が年中行事化し、俗に九十九王子社(99は実数では無い)と言われる程の休憩所が出来、蟻の様な行列を成したことから「蟻の熊野詣で」と呼ばれました。しかし上皇や貴族の千人規模の参詣は鎌倉中期の亀山上皇で終わり、街道沿いの「王子」も主だったもの以外は消滅して行き、以後は庶民の物見遊山を兼ねた参詣が中心と成り江戸時代の「御伊勢参り」や「御蔭参り」の先駆けを成しました。「伊勢へ七度、熊野へ三度」という言い回しは江戸期の庶民の間で流行りました。
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(3)北畠 - 『神皇正統記』と『太平記』の世界
さて電車は暫く専用軌道を南下した後再び一般道路に出て北畠駅に進みます。この辺りは、あの『神皇正統記』(※6)を著した北畠親房(※6-1)の長子・北畠顕家(※6-2)が足利軍と戦った所、そうです、あの『太平記』(※7)に描かれた古戦場です。
先ず駅から東に行くと、あべの筋東側に北畠公園(王子町3丁目)が在り、園内に「北畠顕家卿墓」が在ります(左上の写真)。ここは先程の阿倍王子神社と200m位しか離れて居ません。【脚注】に在る様に、顕家が戦死したのは堺市石津で、そちらには供養塔が在りますよ。
次は駅の西の方へ下って行きましょう。熱烈な尊王思想に拠り王政復古した明治新政府が、中世の熱烈な尊王家にして南朝に与した北畠親房・顕家親子を顕彰し以て南朝を正当化する為に明治15(1882)年に建武中興15社の一つとして古戦場跡に創建したのが右上の写真の阿部野神社(「倍」では無く「部」に注意、北畠3丁目)で、御祭神は北畠親房・顕家親子です。
明治新政府が創建した神社の建物はどれも立派ですが(例えば明治神宮・橿原神宮・近江神宮など)、ここも小山が丸ごと境内に成っていて阿倍野区では一番立派な神社です、私は明治以降の神社は好きでは無いですが。
しかし神社の「鎮守の杜」は都会では貴重なもので、ここも近所の人たちの散歩コースに成って居ます。この神社の境内には「詩歌の道」が在り、北畠家所縁の人たちの和歌を書いた札(右下の写真)が木立の道に立ち並んで居ます。右下の札には以下の様に歌が書かれて居ます。
詠進 北畠親房
いかにせむ
わが身おいその杜(もり)の露
なほいたづらに
袖をぬらさば
唱和 宗良親王
いかにせむ
人も老いその森のかげ
たのむ我が身の
袖の露けさ
神社西側下の結界には左の様な注連柱 -注連縄が渡された2本の支柱- が在り、注連柱には天皇親政を夢想した親房の『神皇正統記』(天・地・人)の天の巻冒頭の「大日本者神国也」から採られた
右の支柱:大日本は
左の支柱:神国なり
という文言が刻まれて居るのが読めると思います。
”天皇は神”とする明治政府には持って来いの文句でした。
(4)帝塚山
阪堺電車は次の姫松を過ぎ間も無く住吉区(→地図も更新)に入り、帝塚山三丁目(右の写真)に着きます。
この駅の西側が帝塚山ハイソ・ゾーンです。早速そちらへ行ってみましょう。左下がハイソ・ゾーンの中心、女子教育の帝塚山学院高校(帝塚山中3丁目)です。ここには幼稚園・小・中学校も隣接して在ります。
「ここが女子校だからオシャレでソフトなんでざあますのよ、男子校や一般校だったらどうしても”ガラが悪く”なり、雰囲気が落ちるざあますワ!!」(※8、※8-1)なんて声が聞こえてきそうですね。ムー、そう言われれば...
田園調布:双葉学園
白金 :聖心女子学院
広尾 :聖心女子大学
千代田区:白百合学園
横浜山手:フェリス女学院
神戸山手:神戸山手女子
確かに「ハイソと女子校の間には相関関係有り」ですね。これをハイ・ソサエティに関するエルニーニョの小定理としましょう!
帝塚山学院の脇を回り込んで進むと、こんもりと樹林が茂った丘が見えて来ます。それが帝塚山古墳(帝塚山西2丁目)です。周りは家が立っているので、古墳の丘を写真に収めることが出来ないので、入口の門(閉まっている)の前の説明板を撮ったのが左の写真ですので、どうぞお読み下さい。
帝塚山古墳は4~5世紀に造られた前方後円墳で、市内三大古墳(茶臼山・御勝山・帝塚山)の1つです。被葬者は大伴金村と伝えれて居ますが未詳。
この辺りは他に、住吉大社の境内やその東側一帯に複数の古墳の存在が知られて居て、これらを住吉古墳群と総称して居ます。
帝塚山学院を取り囲む様に高級住宅街が在りますが、洋風建築が多い中、右の様な和風のお屋敷も在りますよ。
この帝塚山ハイソの起源は大正時代(1912~25年)で、大阪船場で一旗上げた商人たちがここに別荘を構えたのが始まりです。
(5)万代池
ハイソ・ゾーンを見学したら帝塚山三丁目駅に戻り、駅を越えて東側に行きましょう。すると左下の写真の万代池公園(万代3・4丁目、帝塚山東2・3丁目)に出ます。池の周囲には桜の木が植えられ、桜の季節は大変見事です。この池の名前について、その昔この池に住んで居た魔物を鎮める為に聖徳太子が曼陀羅経(又は曼荼羅経)を読み上げて魔物を追い払ったので曼陀羅池と呼ばれ、何時しか「まんだら」→「まんだい」に成った、という由来が案内書などに良く載って居ます。聖徳太子と言うと6世紀後半~7世紀前半、大変古い話ですが。
左下の写真で、池の中に囲われて居るのは燕子花(又は杜若、カキツバタ) -カキツバタは住吉区の花(後述)- です。池の中には小島が3つ在り、その1つには橋が架かっていて渡れます。そこには鳥居が在り、奥に祀られた岩と鳥居の扁額には「古池龍王」と記(しる)されて居ます(右下の写真)。「龍王」と在りますが実体は蛇で、関西では蛇神を「巳さん」と呼びます。岩には花も添えられて居ますので、この巳さんは大事にされている事が解ります。
ところで昔の魔物とは、この蛇のことだったのですかねえ?!
私はこの万代池が好きで良く行きます。何故好きか、と言われるとここは何時も犬を連れた人たちが散歩して居たり、ベンチで読書をして居たり、或いは将棋を指して居たりと、毎日”然りげ無く”地元の人々に親しまれて居るからです。日本人に必要なのは、飛行機に乗って外国に行くよりも、こういった「普段着の憩い」、「日常を憩う心」を大切にすることだと思いますね、私は。
(6)南海高野線の上を跨ぐ神ノ木駅
電車は次の帝塚山4丁目を過ぎると西にカーブし上町台地を下って行きます。すると軌道は俄かに高架に成り次の神ノ木駅の手前で、何と、南海高野線を足元に跨いで渡るのです。
左の写真が南海電車の車輌の上を通過する我が阪堺電車で、アングルが今一ですが両社の車輌がここで交差するタイミングは滅多に無いの悪しからず。北側から南に向いて撮ってるので写真の右側(=西側)に見える石段を上がると神ノ木駅です。南海はこの立体交差の向こう側に住吉東駅が在ります。後で行く阪堺線の今池駅も高架ですよ。{この写真は05年6月28日に追加}
(7)阪堺電軌上町線の終点
電車はこの後更に西に進み住吉大社摂社の生根神社の北側を回り込み、住吉駅で恵比須町発の阪堺電軌阪堺線(この後直ぐに登場)の路面を越えて、終点・住吉公園駅に着きます。
右の写真が駅構内に停車中の電車で、ここで折り返し天王寺駅前行きに成ります。この駅は高架に成っている南海本線の住吉大社駅に隣接して居ます。ここは後述する阪堺線の鳥居前駅と眼と鼻の距離です。
以上で阪堺電車の上町線に沿った帝塚山ハイソ・コースのパトロールを終わります。次は愈々(いよいよ)ローソ・コース、「釜」に突入でっせ!
お次は阪堺電車の阪堺線に沿って、恵美須町から住吉迄労働者の街を突っ切って下町を見て行きましょう。
(1)通天閣の恵美須町
左下が出発点の大阪市浪速区の恵美須町駅に停車中の「浜寺駅前」行きの電車です。この駅の周辺には一番大阪らしいドヤドヤした雰囲気が漂っていてその中心が下中央の写真、ご存知・通天閣(恵美須東1丁目、※9)です。通称「新世界」と呼ばれるこの界隈のシンボルで、恵美須町駅から南東へ200m程の所に聳えて居ます。「通天閣を知らずして大阪を語る勿れ」でっせ。03年は阪神タイガースのリーグ優勝で、展望台下にご覧の様にタイガースのマークが掲げられて居ます。掲げた途端に入場者数が増えているということで、ケッタイでんなあ大阪は!
ケッタイ序でに難波利三の小説『てんのじ村』に「通天閣が大阪のオチンチンみたいだ」と書いて在ります(△2のp225)。これは作中人物の表現ですが作者の感想なのでしょう。「てんのじ村」は又後で出て来ます。
ところで通天閣展望台にはビリケンというケッタイな神さんが居りまっせ!!
昔流行った「王将」って歌知ってまっか?、坂田三吉(※10)知ってまっか?、右上が大阪人の「ど根性」そのものの三吉を顕彰した「王将の碑」で、通天閣の真下に在ります。でも三吉はほんまは堺の生まれでっせ!
左がジャンジャン横丁(恵美須東2丁目)です。この横丁にはご覧の様に将棋クラブが在り、将棋好きな年配の人に混じって子供の姿も見られます。私はこのミナミの通天閣周辺と法善寺横丁が最も大阪的だと思いますね、キタは何処行っても有りまっせ、日本全国の盛り場に。{法善寺横丁へのリンクは06年4月7日に追加}
通天閣周辺は東京で言えば浅草でんな。そもそも通天閣は東京浅草に在った凌雲閣(※9-1)への対抗意識から建てられたので、何処と無く通天閣界隈と浅草は似ている所が在ります。
右が日本橋(にっぽんばし)の電気街(日本橋3~5丁目)。ここは東京で言えば秋葉原でっせ。
恵美須町駅の西には下の写真の今宮戎神社(通称「えべっさん」、恵美須西1丁目)です。社伝に拠ると創建は推子8(600)年で、ここの「えべっさん」と言われる御祭神は事代主神(※11)です。
戎神(※11-1)は元々は漁民に信仰された神(←戎神の由来については浜寺編で「日本最古の戎神社」を参照して下さい)ですが、江戸時代頃から「戎講」として商人たちの信仰を集め十日戎(※11-2) -何故十日か、と言うと「戎」の字の中に「十」の字が在るから、と私は勝手にこじ付けて居ます- が盛んに成りました。特に正月の十日戎には商人のみならず近隣庶民の1年間の願懸けで大変な人出です。戎神社は西宮神社が総本社ですが、人手はここが一番です。毎年正月ここに御参りして新年会をするのが私の「仕事始め」でっせ!
下の写真が正月の十日戎の様子です。先ず「商売繁盛、笹持って来い」の掛け声で吉兆の宝笹を貰い(左下の写真)、これに福娘から縁起物を買って付けます(中央下の写真)。そして最後は「えべっさん」に願い事を頼む為に直径1m位の銅鑼(ドラ)を叩きます(右下の写真)、何でもここの「えべっさん」は耳が遠いらしいんですワ。
それで私が「関西の景気の落ち込みは、あんさんの御利益が低下したんか、それともモウロクして耳が聞こえないんとちゃいまっか?」とお尋ねしたら、「アホ吐(ぬ)かせ、お前等の賽銭が足らんからや!!」と怒鳴られましたでえ...(>o<)。
{この十日戎の写真は2004年1月10日に撮影し記事を追加}
恵美須町駅を出てJR新今宮手前には、1997年にオープンしたフェスティバルゲート(恵美須東3丁目)が在ります(右の写真)。特徴は犇(ひし)めき合って建っているビルの間を走り抜けるジェットコースターで、これが走らないと何処にでも在る単なる室内娯楽施設です。
ここも浅草の「花やしき」周辺に似ています。{このリンクは05年11月21日に追加}
(2)釜ヶ崎 - 釜ヶ崎という町名は無い!
次の南霞町駅を過ぎると西成区。ここから今池駅、今船駅辺りが通称・釜ヶ崎(=あいりん地区[愛隣の意味]の旧称)で、サラリーマンとは対極の労働者や無法者や無宿人(※12) -嘗てはプロレタリアート(※12-1)と呼ばれて居たアナーキーでアウトロー(※12-2)な人種- が集中的に棲息して居る街です(→地図)。
この地区に入ると動物園の様な匂いがし、あいりん労働職安には何時も行列が出来、西成警察署(西成萩之茶屋2丁目)辺りを中心に彼等が四六時中溢れ、立ち飲み屋では昼間からカラオケの歌声が聞こえて来ます。しかし昼間から酒飲んでカラオケしても、昼間からセックスしても本来全く自由な筈、ここには世間に囚われない”無頼の自由”が有ります。
この地区にはコンビニが在りません。彼等が夏盆踊りを遣る為に櫓を立てようとすると機動隊の装甲車が輪に成って取り巻きます。1泊=1200円位からの簡易宿泊所や簡易旅館と、右の写真の様なホルモン焼き屋(※13)などの屋台が立ち並び、正に東南アジア難民的異次元空間です。特に、この「三段バラの悟空」の看板は強烈です!!
東南アジアへ行って食当たりなどを起こす”軟弱な”体質の人は、外国なんぞへ行く前にここのホルモン食って胃腸を鍛えてから行って下さいよ!!、外国の食は野生的です。
[ちょっと一言] 私は「愛隣」という言葉に或る種の懐かしさを感じます。それは私の子供時代(=横浜)に、私の家から歩いて10分位の所に愛隣幼稚園という幼稚園が在ったからです(今でも在るのかも知れませんが)。ここはキリスト教系の幼稚園です。因みに私は幼稚園には行って無いので半無頼人(※12-3)ですな、アッハッハ!!
この通りは以後このページに良く登場する旧紀州街道で、左の写真の「高麗橋東詰から4.9km」と書かれた石柱は南霞町駅近くに在ります。{この写真は05年6月28日に追加}
今池駅は高架に成り、駅の西側は萩之茶屋商店街(萩之茶屋2丁目)で、ここを突っ切ると南海本線の萩ノ茶屋駅に出ます。今池駅の東側は今池商店街(太子2丁目)で、その東奥は知る人ぞ知る(知らない人は全く知らない)飛田新地で、新地の西の界隈(山王1、2丁目)は「てんのじ村」と呼ばれて居た所です。左の写真は萩之茶屋商店街入口の上を走る我が阪堺電車の雄姿で、この写真の右手が今池駅です。{この写真は05年6月28日に、「てんのじ村」へのリンクは05年6月23日に追加しました。}
今池駅が高架に成っている訳は、93年3月迄この下を南海天王寺線が斜めに交差し、飛田新地の北西を掠めてJR天王寺駅迄通じていたからです。南海はこの写真の左の防護塀の所に今池町駅を構え、途中には飛田本通駅も在りました。ここは上町線の神ノ木駅と同様に阪堺電車が南海電車を跨いで走っていた所です。→旧南海天王寺線の詳細はココを参照して下さい。
(3)飛田新地 - 飛田遊郭跡で現役バリバリ
下の2枚が飛田新地の夕暮れの風景(西成区山王3丁目)です(→地図)。ここは嘗ての遊郭の面影を今に残す -だから私は飛田遊郭と呼びたい!- 貴重な、それで居て”現役バリバリ”の♂売春街(色街)♀です。私は全国の紳士諸兄にこの情緒を知って戴きたいと願って居ます。各店はオープンドアで外から中が覗ける様に成ってます。そこに衣装を凝らした女の子(←娼妓、今ではギャル)と遣り手婆(ババア)がピンク系統の照明の玄関の中に並んで座り、客に媚びを売ります。これを”顔見せ”と言い、客はこれを見て気に入った子の店に入る訳ですが、こういう所で値切り過ぎると女の子が消えてババア(←大抵は元娼妓)の相手させられますから、程々にせなアキマヘンで!
飛田遊郭が出来たのは1916(大正5)年です。ここは江戸時代の刑場跡地なんでっせ。飛田遊郭を詳しく知りたい方は▼下▼をどうぞ、ムッフッフ!{このリンクは07年5月16日に追加}
飛田新地(Tobita is quaint red-light district, Osaka)
(4)天下茶屋の風景 - 心温まる下町
あいりん地区を過ぎ松田町駅に来ると”東南アジア”を脱し日本に帰って来た感じに成ります(→地図)。この辺りから住吉さんの神域(後述)で、事実上次のダウンタウン・コースの始まりです。
そして次の北天下茶屋駅はハイソ・コースで見て来た聖天さんの坂下に在ります。右は駅近くの天下茶屋3丁目の地蔵盆(※14)の様子で、提灯には「北地蔵尊」と書かれ女の坊さんが経を上げている所です。関西ではこの地蔵盆が中々盛んで、毎年8月23日・24日にこうして辻々のお地蔵さんに供物を供えてお年寄りが集まって奉献します。
松虫通りを越えて聖天坂駅に来ると線路の東に天神の森公園(天神ノ森1丁目)、西に天下茶屋公園(岸里東1丁目) -岸里については後述- が在り、町の雰囲気は一層落ち着いて来ます。
天下茶屋公園は薬屋「是斎屋」の屋敷跡です。是斎屋は寛永年間(1624~44)に近江の津田宗左衛門が当地へ来て「和中散」(※15)を売り出し大いに繁盛しました。現在、嘗ての住吉街道に面した天下茶屋公園の東口に「舊(旧)天下茶屋是斎屋」の石柱(左下の写真)が立って居ますが、石柱の表は「明治天皇聖しょく」(「しょく」は「阝」偏に「蜀」)に成って居ますので、茂みの中に入り裏に回らなければ読めません。
同公園の中央には「阿倍寺塔心礎」の説明板と礎石(中央下の写真)が在ります。説明板に拠れば、阿倍寺は奈良時代の阿倍氏の氏寺で、現在の阿倍野区松崎町(=JR天王寺駅・近鉄あべの橋駅の南側)の松長大明神辺りから当地に移し、現在は府の有形文化財です。礎石は五重塔のものとされ中央に柱穴を掘り、その穴の中央に更に舎利穴が在ります。フーム、良く人柱伝説などを耳にしますが、昔は柱の底に舎利(=遺骨)を埋めたんですね。
ところで直ぐ西には南海本線の天下茶屋駅が在りますが、南海本線を越えた西に大フィル専用練習場・大阪フィルハーモニー会館(岸里1丁目、右下の写真)が在ります。大フィルについての私の論考も読んでね。
さて、南海本線の天下茶屋駅の北西側には嘗て日露戦争の俘虜収容所が約60棟在り6千人のロシア人が収容されて居たそうです(△3)。「浜寺編」の高師浜にもロシア人収容所が在りました。{俘虜収容所の記事と上の写真は05年6月28日に追加}
(5)天神森天満宮
次が天神ノ森駅です。駅の直ぐ西側に秀吉や「茶の湯」と因縁が深い天神森天満宮(岸里東2丁目、左の写真)が在り、ここを天神ノ森と呼んで居ます。
社の由緒書に拠ると応永年間(1394~1428)に京都の北野天満宮の分霊を奉ったのが始まりで、境内には「子安石」が在り古くから安産祈願に訪れる人が多く、秀吉も淀君懐妊の折参詣したとかで、別名「子安天満宮」とも言われて居ます。
又、千利休の師・武野紹鴎(※16)がこの森の一隅に茶室を作り隠棲したことから「紹鴎森天満宮」、次に述べる天下茶屋の謂れから「天下茶屋天満宮」とも呼ばれます。尚、紹鴎の墓は堺の南宗寺に在りますよ。
03年の秋には同社境内に「飛田新地料理組合」と染めた秋祭の幟が立って居ましたよ、頑張ってますね飛田も、私は嬉しく成りました...(^O^)/。
神社境内には歌舞伎の『敵討天下茶屋聚』の話の元に成った「天下茶屋仇討ち供養塔」も在りますが委細は省略します...(-_*)。
ところで「天下茶屋」の地名は天正年間(1573~1591)に秀吉が堺政所への往復の途中に贔屓にした茶店が在ったことから、”天下人が足を止めた茶屋”即ち「天下茶屋」と呼ばれる様に成りました。
その茶店の跡地がこの天満宮の直ぐ西隣に在り、現在は「天下茶屋跡」の石柱と土蔵(右の2枚の写真)が立って居ます(岸里東2丁目)。説明板に拠ると、嘗てこの茶店の庭には秀吉が「恵の水」と名付けた井戸や茶室が在り、その後紀州侯も泊まったりで盛時には大きな池を設(しつら)えた5千㎡に及ぶ屋敷でした。秀吉時代の3代目小兵衛昌立が芽木(めぎ)家の祖で、その後芽木家に依って代々保存されて来ましたが戦災で焼失して仕舞い、右上の土蔵が往時を偲ぶ遺品です。
◆この界隈の民家
この界隈 -松虫通/聖天下/天下茶屋/天神ノ森/岸里- は又、家々の佇まいがしっとりと落ち着いていて、とても好い雰囲気です。
一口で言うと下町情緒、狭い軒先に鉢植えの盆栽が在ったり、夏に成ると家の前の通路に打ち水をしたりと、「然りげ無い心遣い」が伝わって来ます(右の写真)。やはり歴史の有る地域は目先に走らない落ち着きが有ります。
[ちょっと一言] 今は夏に成ると直ぐクーラー(或いはエアコン)を使います。確かにエアコンは部屋の温度を下げますが、実はそれ以上の熱を外気に放出して居るのです。冷蔵庫の背面が高熱に成ってるのと同じです。これを熱力学の第2法則と言います。それに対し、古来から行って来た「打ち水」は庭や道路に水を撒き、その蒸発熱で温度を下げる原理的に素晴らしい方法だと思います。実際、30℃の庭が「打ち水」をする事により28℃位に成り、見た目の涼しさにより更に低い温度に感じられます。更に更に風鈴(※17)を鳴らせば耳からも涼しく成ります。
一方、夏に皆がエアコンを使うと外気温は逆に2~3℃上がるのだ、という事を知って戴きたいですな。夏に時々37~38℃を超える都市(←それも大抵決まった都市)が在りますが、私の診断ではあれはエアコンの熱や車の熱が淀んで逃げて行かない都市熱なのです。
(6)岸里と古代の渡来人・難波吉士 - 吹田市岸部にも住んだ
聖天坂駅や天神ノ森駅の西側に岸里(きしのさと)という町名が在り、南海本線や南海高野線の岸ノ里という駅が在りますが、実はこの地 -旧は摂津東生郡住吉- は古代に難波吉士(なにわのきし、※18、※18-1)という外交に従事した新羅系渡来氏族が居住した所で、「吉士(きし)」が「岸」に変じたのです。難波吉士の話は『日本書紀』推古5(597)年に、難波吉士磐金(いわかね)が新羅に遣わされ翌年に鵲(かささぎ)を持ち帰り今の森之宮神社で飼った、と出て来ます。吉士(又は吉師・吉志)一族は摂津三島郡にも住みそこが現在の吹田市岸部で、そこには吉志部神社が在ります(→岸部の地図)。実は難波吉士は安倍氏(阿倍氏)と密接な関係が有りました。文献に拠れば大嘗祭の時に安倍氏が吉志舞(※18-2)を舞って居ます(△4のp36~41)。
ここからはハイソ・コースで見た阿部野神社(「大日本は神国なり」という注連柱が在った場所)と近いのです。阪堺電車は天神ノ森駅を後にし東玉出駅の手前で南海高野線と交差し、再び一般道路に乗り入れ塚西駅です。塚西とは先程見て来た帝塚山古墳の西という意味です。塚西駅を過ぎると住吉区に入り、その儘一般道路を南下し住吉駅を過ぎた所で上町線と交差します(上町線にも住吉駅が在りました)。ここからは次章でご案内しましょう。
この章では阪堺線に沿って更に進み鳥居前から我孫子道迄、昔乍らの下町情緒をたっぷり味わい乍ら行きます。又この区間は何彼に付け住吉大社(→地図)の影響が強い地域でもあります。
(1)住吉(すみのえ)の海神
下の写真が次の鳥居前駅の1コマです。路面のレールと右端に藍色の電車、そして正面奥に住吉大社(住吉区住吉2丁目)の鳥居が見えて居ますね。チンチン電車の長閑な風景です。
下が住吉大社の代名詞に成っている赤い太鼓橋(反橋)です。
大社の御祭神は海神である底筒男命・中筒男命・表筒男命と息長足姫命(=神功皇后)の4柱で、全国住吉神社の総本社であり、摂津国の一の宮です。神功皇后が新羅御出兵に当って海神の御加護絶大であった為に凱旋の後、三海神を奉ったのが鎮座の由緒で、航海安全の守護神として、又この地で「歌合わせ」が行われた為に和歌の神として崇敬を集めて居ます。
左下の写真が最も古い神社建築様式の一つ・住吉造りの社殿群。奥から第一本宮(底筒男命)、第二本宮(中筒男命)、第三本宮(表筒男命)が一直線に並び、奥(写真の右端)が第4本宮(息長足姫命)で、全て国宝です。
第一 第二 第三 第四
↓ ↓ ↓ ↓
解り易く説明すると、住吉大社の本宮の並びは▼下図▼の様に成って居ます。
第一│
本宮│
第二│
本宮│
第三│ │第四
本宮│ │本宮
左下が住吉造りの本宮、中央下が第三本宮(表筒男命)の内部(←「宮本三第」と右から書かれて居ます)、右下が御神籤などを売っている巫女さんです。
[ちょっと一言] 住吉三神の様に海神が3人セットで登場するのは、宗像大社の宗像三女神も含めインドネシアやポリネシアなど北半球の海洋民族に広く共通したモチーフで、航海の指標に成ったオリオン座の三つ星に由来して居ます。
その他、大祓して堺の宿院頓宮へ渡御する住吉祭(7月31日と8月1日、元は旧暦6月晦日)に伴なう大魚夜市などでも知られ、境内摂社として、あの「漢委奴国王」金印出土の志賀島を本貫とする海洋民族・安曇氏に纏わる志賀神社や、海幸山幸の物語で有名な豊玉彦・豊玉姫を奉る大海神社などが在ります(△5)。
◆住吉大社の御田植神事
右が住吉大社の神田(※19、※19-1)(←立札に「御神田」と書いて在る)です。この写真は03年8月23日に撮影したものですが、毎年6月14日に行われる住吉大社の御田植神事は有名で国指定重要無形民俗文化財に指定されて居り、伊勢神宮の御田植神事(←内宮別宮の伊雑宮で毎年6月24日に行われる)と並び称されて居ます。田植えから2ヶ月半で稲はご覧の様にすっかり成長し10月17日に初穂の収穫に供えて居ます。
御田植神事の説明板に拠れば、神功皇后が長門国より植女(※19-2)を召し御田を定め五穀豊穣を祈願したのが始まりだそうです。現在は、前儀の粉黛式・戴盃式に始まり、本殿に於ける豊作を祈る祭典に続き、御田式場では田舞・神田代舞(みとしろまい)・風流武者行事・棒打合戦・田植踊・住吉踊(※20、※20-1)が奉納される間に、替植女に依る早苗が植えられます。そして10月17日の「宝之市神事」に初穂を神前に供えます。
私は04年も05年も住吉大社の御田植神事を撮影しました -勿論、チャリンコで来ました!- が、以下は05年6月14日の御田植神事の模様です。
先ず午後1:00頃に牛が神田の泥んこを耕しに現れました。写真下方の所々が緑色に見えるのは苗で、後で田植えの準備です。既に見物客も多勢集まって居ます。
私は神田を離れ本殿の方へ廻って見ると、間も無く続々と正装した人たちが入場して来ます。先頭は「住吉大社 御田植神事」と書かれた幟を持った神主の入場です(午後1:25頃)。
続いて左が神職に依る笙や篳篥(ひちりき)など、楽(がく)の演奏です。右が巫女です。
後方の提灯には「新町花街」と書いて在りました。
左は女の稚児です。
右の緑色の菅笠と衣裳が住吉踊の女性たちで、緑は早苗の象徴でしょう。薄紫の衣裳の”お姐さん”は田植踊です。
住吉踊は今日では忘れられましたが、【脚注】※20、※20-1に在る通り江戸時代は大変有名な踊りでした。
午後1:50頃神田に戻り、左は中央の舞台で住吉踊の女性たちが清められて居ます。
右は神職と巫女が舞台を清めて居ます。神田には早乙女が出て早苗を植え始めました(午後2:00頃)。
左は午後2:15頃、牛が神田を一周します。
右は午後2:55頃で早乙女(赤い襷)と植男(黄色い襷)が田植えをして居ます。ご覧の様に大分完成さました。
風流武者行事や棒打合戦は省略しましたが、午後1:00頃に始まった御田植神事は午後3:00頃に終了しました。
この日は天気が良く気温もぐんぐん上がり、私は汗びっしょりです!!
住吉大社は「私の庭」ですので、帰りは住吉大社境内の大木の陰をチャリで散歩し乍ら涼みました。境内の石段の陰に黒トラと白の間の子が居て、私がニャンと言って声を掛けるとこのノラ猫は私と3m位の距離を保ち乍らじっとこちらを見て居ました(左の写真)。この猫は「ノラ猫狂詩曲」の100匹の猫にも登録しました。
私は暫しここで休憩し、お茶を飲みノラ猫をからかい、ここで涼んでから帰りました。05年の住吉大社の御田植神事でした。
{この節は05年6月28日に追加}
(-_@)
さて、再び03年の住吉大社です。境内に入って誰でもが気付くのが数多くの灯籠です。これは何時の頃からか近隣の漁民が夜船を出す為と航海安全を祈願して寄進したものです。又、『源氏物語』の「澪標」の帖にも登場し、源氏が住吉詣でをした折に惟光(※21)が源氏に次の様に歌い掛けて居ます(△6のp124)。
住吉(すみよし)の 松こそものは 悲しけれ
神世のことを かけて思へば
「住吉の松」と歌われた如く、この辺りの海岸には万葉の昔から松林が続き、後で紹介する「霰松原」(→後出)も在ります。兎に角、書き出したら切りが無いのでこれで止めます。
住吉大社の西の住之江区には住吉公園(粉浜1丁目)が在ります。明治6(1873)年、大阪府下の公園第1号として開園し市民の憩いの場と成って居ます。左下がその中の日本式庭園です。
大社境内に灯籠が沢山在りましたが、右下の写真は鎌倉時代に作られた日本最古の灯台を再現した高灯籠(浜口西1丁目)で、昭和49(1974)年に住吉名勝保存会に依って住吉公園の西に再建されたものです。
この辺りは元々「住吉」と書いて「すみのえ」と言い、墨江とも書かれ住吉の津(墨江の津)という港も在りました。そして高灯籠は現在地の200m位西に在り、そこがもう海だったのです。そこは住吉大社の鳥居から僅か600m程の地点です。海神を奉る大社は創建当時は正に海辺に在り、夜陰を照らし船上からの目印に成っていたのです。この高灯籠は寛政年間(1789~1800年)の『摂津名所図会』にも遠浅の浜を背景に高灯籠が描かれて居ます(△7のp98)。現在はここから1km位西には住之江公園が在り大阪護国神社が在ります(何れも南加賀屋1丁目)。
大社を去るに当たり住吉を詠んだ古歌を『万葉集』からご紹介しましょう(△8)。巻6-997(雑歌)
住吉(すみのえ)の 粉濱(こはま)の四時美(しじみ)開けも見ず
隠(こ)もりてのみや 戀ひわたりなむ
詠み人知らず
巻7-1159(摂津にして作れる雑歌)
住吉の 岸の松が根 うちさらし
寄り来る波の 音の清らに
詠み人知らず
巻7-1361(花に寄する比喩歌)
住吉(すみのえ)の 浅澤小野のかきつばた
衣(きぬ)にすりつけ 著(き)む日知らずも
詠み人知らず
フーム、先程の住吉区の花がカキツバタという根拠はこれですね。昔は大社の南側は浅澤小野と呼ばれる湿地帯で、浅澤沼を始めとする池沼にはカキツバタが群生して居たそうです。浅澤の古名は現在の細井川駅東方で細江川北岸の浅沢神社(住吉区上住吉2丁目)に辛うじて名を留めて居ます。「小野」とは「野里」位の意味らしく近畿には「××小野」という地名が幾つか在り(△9)、細江川から1km程南には遠里小野(おりおの、住吉区と堺市)という地名も残って居ます。
(2)安立(あんりゅう)と霰松原
電車は細井川駅を過ぎた後は又、専用軌道に入り堺市に入る迄電車は再び住吉区内を、住江区との境界線に沿って進みます。
住江通りを越えると間も無く安立(あんりゅう)町駅(→地図)です。左が駅で踏切を渡る人を待機する「えびす町」行きの阪堺電車で、線路が真っ直ぐ伸びて居ます。線路脇には民家が迫りこの界隈は下町情緒満点です。 安立町駅付近の少し西側、旧紀州街道には大きな楠と霰松原(あられまつばら)を顕彰する碑が在る小さな公園が在ります(住之江区安立2丁目)。その由来記に拠ると、嘗てここは松原が続く海沿いの美しい街道で、古代では「岸辺の道」と呼ばれ、室町後期から「紀州街道」と呼ばれました。
「霰松原」とは、天武天皇の第4子の長皇子(ながのみこ)がここで
あられうつ 安良禮(あられ)松原 住吉(すみのえ)の
弟日娘(おとひおとめ)と 見れど飽かぬかも
という『万葉集』巻1-65の歌(△8のp59)を詠んだことに由来します。右の写真が石碑に刻まれたその歌です(漢字表記が違いますが)。ここでも住吉を「すみのえ」と読んで居ますね。
この公園にはもう1つ「安立町の由来」を記した石碑(左の写真)が在ります。それに拠れば元和年間(1615~1623)に半井安立(なからいあんりゅう)という典薬医がこの地で治療を始めてから、近隣の人々が治療を受けにここに住み着き、村落が出来上がった史実から、町名に安立の名を冠したそうです。
更に公園の隅には霰松原神社と書いた白い鳥居と小さな祠が3つ並んで居ます(右上の写真)。左に書いて在る様に、霰松原荒神(※22)という「竈(かまど)の神」(※22-1)と「火の神」(※22-2)の祠が真ん中で、左の祠が金高大明神、右の祠が瀧川稲荷大明神と榎明神と朝日明神です。詳しくは▼下▼をご覧下さい。
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
ところで、江戸時代の『万載狂歌集』(※23)に霰松原を詠んだ次の様な狂歌が在りました(△10のp86)。
さらさらと 書きおろしたる すみの江の 外にたぐひも あられ松原
一文字白根
{この「狂歌」は05年6月28日に追加}
この紀州街道を南へ少し行くと安立町商店街が在りますが、私は安立町駅から東に坂を上り、あべの筋迄一っ走り寄り道して来ます。それと言うのも、あべの筋沿いに”ちょっと気になる”神社が在り、上述の霰松原にも関係が有るからです。
(3)”ちょっと気になる”神社 - 止止呂支比売命神社
左下の写真が、あべの筋沿いに在る”ちょっと気になる”神社、止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)の鳥居と拝殿で、ここは住吉区沢之町1丁目です。神社の直ぐ裏には南海高野線の沢ノ町駅が在り、住吉区役所もあべの筋の斜め向かいに在ります。しかし止止呂支比売(とどろきひめ)は凄いですね、こういうのを万葉仮名(※24)と言うのでしょうか。
神社の由緒書に拠れば御祭神はあの八岐大蛇伝説で有名な八重垣神社と同じ素戔嗚尊(※5-1)とその妃の稲田姫尊(櫛名田姫・奇稲田姫とも書く)ということで完璧な出雲系、「延喜式神名帳」の式内社なので創建は927年以前の相当に古い神社ですが、その後住吉大社の摂社に成った様です(ここら辺りは大社の威光絶大です)。
別名を「若松神社」「若松宮」と呼ばれる訳は、承久3年(1221年:承久の乱の年)に後鳥羽上皇(※25)が熊野詣(※5)をされ行幸した折に、当神社境内の若松の林の中に行宮(あんぐう)を建て若松御所と称したことに拠ります。
右上が拝殿の裏手に在る「後鳥羽天皇行宮址」の碑です。
尚、上皇は生涯に28度も熊野詣を行っていて、建仁元(1201)年の熊野詣の様子は藤原定家の日記『明月記』(※26)に詳しく載って居ます(△11のp100~108)。
◆社名の止止呂支比売命(とどろきひめのみこと)とは?
ところで止止呂支比売命神社の由緒書には、嘗て境内の松林の中に清水が湧く轟池とトドロキという橋が在ったと記して居ますが、式内社の社名に成っている止止呂支比売命が祭神中に無く何の説明も無いのは不自然です。私は創建当時は轟池と何らかの関わりを持つ止止呂支比売命が祀られて居たのでは?、と思って居ます。それと祭神の素戔嗚尊と稲田姫尊 -完璧な出雲系- についても説明不足です。私は何か有ると思っていて、それが住吉大社に組み込まれたり、後鳥羽上皇の事蹟を強調する過程で消えて(或いは消されて)仕舞った様に思えます。
(-_*)
私は05年10月25日の夕方ここに来て写真を撮ったので写真を追加します。
右が住吉大社の摂社だった事から住吉造りの本殿です。他は全て地味な中で本殿の赤は非常にインパクトが有ります。本家住吉大社と見比べて下さい。{この段と写真は05年11月21日に追加}
安立に在った霰松原荒神はここでも祀られて居て(境内摂社、左の写真)、「神荒原松霰」と右から書いて在ります。
写真の右側に「霰松原荒神社由緒」が在りますが、その拡大が右の写真です。{この段と写真は05年11月21日に追加}
境内摂社の天水分豊浦命神社(あまのみくまりのとようらのみことじんじゃ)は明治の末(1910年頃)に霰松原からここに遷座しました。この神社は式内社で祭神の天水分豊浦命は、その名の示す様に、「豊浦」即ち霰松原の海岸地域で「水分(みくまり)」即ち川と海の分水を司っていた神(※27、26-1)です。
さあ、これで再び安立町駅に戻りましょう。
(4)我孫子道駅の車庫
安立町駅の次は我孫子道駅です(住吉区清水丘2丁目)。我孫子道の名は駅から東に延び我孫子観音に通じる旧道が在るからです。
この駅には左の写真の様に車庫(写真の左側へカーブした線路の奥)が在り、ターミナル駅に成って居ます。写真中央に少し右に折れて先に伸びている線路を進むと直ぐに堺編の大和川です。
右の写真は帝塚山に咲いていたベロニカの様な花です。
以上、大阪市内の阪堺電車の走行区間を以下の3つに分けて
<その1>大阪編 帝塚山ハイソ・コース
釜ヶ崎ローソ・コース
住吉ダウンタウン・コース
として、その周辺の風物をご紹介して来ましたが、如何でしたでしょうか?
もう大和川手前迄来ました。大和川は大阪市と堺市を隔てている川で、この川を越えれば愈々堺市に入ります。阪堺電車に乗って堺市に入るとガラッと雰囲気が変わります -広い道路にフェニックス(※28)- 嘗ての自由都市の息吹と明るさが広がります。この続きは<その2>堺編でご覧下さい。以後は
<その2>堺編 堺リバティ・コース
<その3>浜寺編 浜寺リゾート・コース
と続きます。堺編・浜寺編では与謝野晶子にスポットを当てお伝えします、これを読めば晶子の”通(つう)”に成れますので、乞う御期待!!
尚、[阪堺電車沿線の風景]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:チンチン電車(―でんしゃ)は、(ちんちんと音を鳴らして走ったことから)市街地を走る路面電車の俗称。路面とは市街の一般道路の路面に敷設したレール上を走ることから言う。
※2:ハイソ・コース(high society course)とは、私の造語で、高級住宅街コース。老舗(しにせ)の高額所得者が住む芦屋に対し、帝塚山や生駒は成金の高額所得者が住む街という話です(私は知りませんが)。
※2-1:ローソ・コース(low society course)とは、下層貧民街コース。短縮語ローソは私の造語です。
※2-2:ダウンタウン・コース(downtown course)とは、下町コース。
尚、米国では downtown は商業地区を指します(日本の所謂「下町」というよりも商業経済の中心地域のオフィス街・ビジネス街を言う)。←→uptown は住宅地区を指す。
※3:聖天(しょうてん)は、大聖歓喜天の略で歓喜天のこと。
※3-1:歓喜天(かんぎてん)は、仏教の護法神の一。ヒンドゥー教のガネーシャ(Ganesa)が仏教に入ったもの。障害を為す魔神を支配する神とされ、事業の成功を祈る為に祀られた。形像は象頭人身で、単身像と妃を伴う男女双身像が在る。妃は十一面観音が魔神としての働きを封じる為に現した化身だと言う。歓喜自在天。大聖歓喜天。略して聖天とも言う。
※4:安倍晴明(あべのせいめい)は、平安中期の陰陽家(921~1005)。子孫は陰陽道を以て朝廷に仕え土御門家と称した。良く識神(しきがみ)を使い、有らゆることを未然に知ったと伝える。伝説が多い。著「占事略決」。
※5:熊野街道(くまのかいどう)は、熊野三社への参詣道。東の伊勢からと、西の紀伊からの二つが在る。京都方面からの熊野参詣は普通は紀伊経由。
※5-1:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5-2:熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)とは、熊野三社の主祭神として祀られる本宮(=旧・熊野坐神社)の家都御子神(けつみこのかみ、素戔嗚尊の別名)、新宮の熊野速玉神、那智の夫須美神(ふすみのかみ)の3所。熊野(ゆや)権現。
※6:神皇正統記(じんのうしょうとうき)は、史論。北畠親房著。神代から後村上天皇迄の歴史を記し、南朝の正統なる由を述べ、著者の国体論・継統論・神道論・政治論・武家論を各所に述べる。1339年(延元4)常陸小田城で執筆、43年(興国4)関城で修訂。
※6-1:北畠親房(きたばたけちかふさ)は、南北朝時代の公家(1293~1354)。後醍醐天皇の信任厚く鎌倉幕府滅亡後、義良親王を奉じて陸奥に赴く。1339年(延元4)常陸国小田城で「神皇正統記」を著述。吉野で後村上天皇を援けて南朝の支柱と成る。著は他に「元元集」「職原鈔」「関城書」など。吉野の賀名生(あのう)で没。
※6-2:北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、南北朝時代の公家(1318~1338)。親房の長子。1333年(元弘3)陸奥守、後に鎮守府将軍を兼ね、義良親王を奉じて奥羽を鎮定。後醍醐天皇吉野落ちの翌年、親王を奉じて西上、各地に転戦、和泉石津で戦死。
※7:太平記(たいへいき)は、軍記物語。40巻。作者は小島法師説が最も有力。幾つかの段階を経て応安(1368~1375)~永和(1375~1379)の頃迄に成る。北条高時失政・建武中興を始め、南北朝時代五十余年間の争乱の様を華麗な和漢混淆文に依って描き出す。佐々木導誉など婆娑羅な武将も登場。後世、「太平記読み」が現れ講談の基を成した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8:「ざあます」は、〔助動〕「ございます(御座います)」の転じた「ござあます」「ざあます」(元は「ざます」)を沢山使う、有閑夫人 -特に東京山の手の婦人など- などの上品振った言葉付き。戦後の1950年代頃迄使われた。ざあます言葉。「結構―」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-1:「ざます」は、〔助動〕(ゴザリマス(御座ります)の約と言う)本来は、江戸吉原で遊女が用いた語。(で)御座います。人、閑情末摘花「何ざますへ、もう夜があけましたのかへ、まだ早うざますはね」。
※9:通天閣(つうてんかく)は、大阪市浪速区の歓楽街「新世界」の中心に在る高塔。1912年(明治45)エッフェル塔を模して竣工。高さ75m。56年に高さ103mの塔を再建(設計者は内藤多仲で2年後には東京タワーを設計)。
補足すると、通天閣は東京浅草に在った凌雲閣(通称:十二階)に対抗して建てられたもので、命名は藤沢南岳です。
※9-1:凌雲閣(りょううんかく)は、東京都台東区浅草公園(現:台東区浅草2丁目13番)に在った12階の煉瓦造の建物。1890年(明治23)の建造。高さ50m。1923年(大正12)の関東大震災に倒壊し、撤去。俗称、十二階。
補足すると、この発破を掛けての撤去作業は大変な「呼び物」で、作家の川端康成なども野次馬見学で感嘆して居ます。
※10:坂田三吉(さかたさんきち)は、(姓は阪田とも)将棋棋士(1870~1946)。大阪堺の生れ。将棋を独習、実力を誇る。大正末年自ら関西名人と称。没後、名人位・王将位を追贈。その名は戯曲「王将」で知られる。
※11:事代主神(ことしろぬしのかみ)は、日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣(あおふしかき)を作り隠退した。託宣の神とも言う。八重言代主神。
※11-1:恵比須/恵比寿/夷/戎/蛭子(えびす)とは、夷と同源。七福神の一。元は兵庫県西宮神社の祭神の蛭子命(ひるこのみこと)。海上・漁業の神、又、商売繁昌の神として信仰される。風折烏帽子(かざおりえぼし)を被り、鯛を釣り上げる姿に描く。3歳迄足が立たなかったと伝えられ、歪んだ形や不正常な様の形容に用い、又、福の神に肖(あやか)ることを願って或る語に冠し用いたとも言う。
※11-2:十日戎/十日恵比須(とおかえびす)は、正月10日に行われる初恵比須。兵庫県西宮の蛭子(えびす)神社(=西宮神社)の他、京都建仁寺や大阪今宮戎神社の祭が名高い。宝を象(かたど)った縁起物を笹の枝先に付けて売る。季語は新年。
※12:無宿人(むしゅくにん)とは、[1].一定の住居及び正業を持たないこと。又、その人。宿無し。
[2].江戸時代、人別帳(にんべつちょう)から外された者。無宿、無宿者。
※12-1:プロレタリアート(Proletariat[独])/プロレタリア(proletariat[仏])とは、
[1].古代ローマに於ける最下層の市民たち。
[2].[a].資本主義社会に於いて、生産手段を持たず、自己の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者の階級。無産階級。←→ブルジョアジー。
[b].[a]に属する個々の労働者。無産者。
[3].貧乏人。
※12-2:アウトロー(outlaw)とは、(「法の埒外」の意)社会秩序から食(は)み出した者。無法者。
※12-3:無頼漢(ぶらいかん)は、無頼な男。ならず者。ごろつき。
※13:ホルモン焼き(―やき)は、豚などの臓物を小さく切って焼いたもの。
※13-1:ホルモンとは、ホルモン焼きに使う内臓肉のことで、「捨てる物」という意味の関西弁の「放るもん」語源説が有力。明治の肉食文化移入直後は食べずに捨てていたのを、大阪の新世界や西成辺りの労働者が食べ出したらしく、性ホルモンの様に如何にも精力が付く料理を連想させる労働者向きの命名です。
補足すると、ここ釜ヶ崎はホルモン料理発祥の地です。
※14:地蔵盆(じぞうぼん)とは、京都で8月(古くは旧暦7月)23・24日の地蔵菩薩の縁日に行う会式(えしき)。各地にも、この日、児童が石地蔵に香花を供えて祀る風習が在る。地蔵会。
※15:和中散(わちゅうさん)は、江戸時代の売薬の一。津田宗左衛門(後代は織田彦十郎)が調剤し近江国栗太郡梅ノ木村から諸国に売り出したと言い、季節の変わり目に引く風邪や産前産後などに効能が有る。江戸付近では大森の山本で売り、俗に大森の和中散と言った。浄、仮名手本忠臣蔵「霍乱せんやうにと娘がくれた―」。
※16:武野紹鴎(たけのじょうおう)は、室町後期の茶人(1502~1555)。泉州堺の納屋衆の一人。元は武田氏、後に武野氏。一閑居士・大黒庵と号。珠光の門人宗陳・宗悟に茶道を学び、村田珠光が始めた侘茶の骨格を作り、千利休に伝えた。
※17:風鈴(ふうりん、wind-bell)は、小さい鐘の様な形をして、中に舌の下がっている金属製/陶器製/ガラス製などの鈴。吊して置くと風に吹かれて快い音を発し、涼しく感じられる。風鐸(ふうたく)。季語は夏。〈書言字考〉。「軒下に―を下げる」。
※18:吉士・吉師・吉志(きし)とは、[1].新羅の官名。17等中の第14等。
[2].大和朝廷で、外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称。後に姓(かばね)の一と成る。
※18-1:姓(かばね)とは、(「かばね」は、元は骨のこと。父系の血筋は骨に宿ると考えられたことから。<出典:「漢字源」>)
[1].古代豪族が政治的・社会的地位を示す為に世襲した称号。臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・君(きみ)・直(あたい)・史(ふびと)・県主(あがたぬし)・村主(すぐり)など数十種が在る。初めは私的な尊称であったが、大和朝廷の支配が強化されると共に朝廷が与奪する様に成り、臣・連が最高の姓と成った。大化改新後の684年、天武天皇は皇室を中心に八色姓(やくさのかばね)を定めたが、やがて姓を世襲する氏(うじ)よりも氏が分裂した結果である家(いえ)で政治的地位が分れることに成って、氏(うじ)や家(いえ)との混同を経て自然消滅した。せい。
[2].氏(うじ)。姓氏。
※18-2:吉志舞(きしまい)は、大嘗会(だいじょうえ)に奏した舞。神功皇后が新羅を征して凱旋し、大嘗会を行なった時安倍氏の祖先が奏したと言う。舞人は闕腋(けつてき)の打懸(うちかけ)を着、甲冑を付け鉾(ほこ)を持って舞う。後に廃絶。きしべまい。きしべのがく。楯節舞(たたふしのまい)。
補足すると、吉志舞は新羅の服属儀礼を表現したもので、九州先住民の服属儀礼を芸能化した隼人舞(はやとまい)と同様の意味付けが有ります。
※19:神田(かみた)は、神社に属する田。為家集「きのふこそ―の早苗いそぎしを」。
※19-1:神田(しんでん)は、神社に付属してその収穫を祭祀/造営などの諸費に充てる田。古代、律令制では不輸租田(←租税を免除された田)とした。御戸代(みとしろ)。大御田(おおみた)。かみだ(神田)。
※19-2:植女(うえめ)は、田に苗を植える女。早少女(さおとめ)。夫木和歌抄7「早苗とる御田の―も」。
※20:住吉踊(すみよしおどり)は、大阪住吉神社の御田植神事に行われる踊り。縁に鏡幕を付けた菅笠を冠り、白の着付に墨の腰衣、白の手甲・脚絆、茜(あかね)色の前垂、白布で口を覆い、一人が長柄の傘の上に御幣を付けたものの柄を右手の割竹で打ち乍ら唄を歌い、踊子が団扇(うちわ)を持ってその周囲を巡って踊る。願人坊主に依って流布され、後に川崎音頭・かっぽれと成る。
※20-1:願人坊主(がんにんぼうず)とは、この場合、人に代って願掛けの修行・水垢離(みずごり)などをした乞食僧。好色一代男6「神田橋にたてる―」。
※21:惟光(これみつ)とは、(源氏物語の主人公光源氏の侍臣。主人の言い付けを良く聞いて機嫌を取ったことから)幇間(たいこもち)の異称。
※22:荒神(こうじん)とは、[1].三宝荒神の略。竈(かまど)の神。日本永代蔵2「掛鯛を六月まで―の前に置きけるは」。
[2].陰に居てそれぞれの人を保護すると信じられて居た神。東海道中膝栗毛3「わしにもハイ―さまがついてゐずに」。
[3].西日本で祀る屋敷神。同族祭祀のことが多い。
※22-1:竈の神(かまどのかみ/かまのかみ)とは、[1].竈を守護する神。奥津日子命(おきつひこのみこと)・奥津比売命(おきつひめのみこと)を祀る。後に仏説を混じて三宝荒神(さんぽうこうじん)、略して荒神(こうじん)とも言う。竈神(かま[ど]がみ)。狂、栗焼「我はこれ―」。
[2].妻の異称。
※22-2:[火之]迦具土神([ひの]かぐつちのかみ)は、記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉2尊の子。火を司る神。誕生の際、母を焼死させた為、父に切り殺される。火産霊神(ほむすびのかみ)。
※23:万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)は、天明期江戸狂歌の最初の撰集の一。古人の狂歌を含む。17巻2冊。四方赤良(蜀山人)・朱楽菅江(あけらかんこう)編。1783年(天明3)刊。
※24:万葉仮名(まんようがな)とは、漢字を、本来の意味を離れ音や訓を借りて仮名的な当て字として用いた文字。借音・借訓・戯訓などの種類が在る。6世紀頃の大刀銘・鏡銘に固有名詞表記として見え、奈良時代には国語の表記に広く用いられ、記紀にも用いられ特に万葉集に多く用いられたのでこの称が在る。真仮名(まがな)。男仮名(おとこがな)。
※25:後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、鎌倉前期の天皇(1180~1239、在位1183~1198)。高倉天皇の第4皇子。名は尊成(たかひら)。1198年(建久9)譲位して院政。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を下したが失敗して隠岐に配流(承久の乱)され、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号。その後、種々の怪異が生じ、怨霊の祟りとされ、改めて後鳥羽院と追号された。歌道に秀で、新古今和歌集を勅撰、配流の後も業を続けて隠岐本新古今集が成った。
※26:明月記(めいげつき)は、藤原定家の日記。巻数不詳。漢文体。1180~1235年(治承4~嘉禎1)の公武間の関係、故実・和歌などの見聞を記したもので、鎌倉時代の史料として貴重。京都冷泉家の時雨亭文庫などに大量の自筆本が現存。照光記。2000年4月に国宝に指定。
※27:水分(みくまり)とは、(「水配(みくばり)」の意)山から流れ出る水が分れる所。祝詞、祈年祭「―に坐(ま)す皇神等(すめかみたち)の前に白(まお)さく」。→水分神(みくまりのかみ)。
※27-1:水分神(みくまりのかみ)とは、流水の分配を司る神。古事記上に速秋津日子/速秋津比売2神の子、天之水分神/国之水分神の2神が見え、吉野水分神社/宇太水分神社など各地の水源地に分祀される。「みこもり」と転じて、俗に子守神として信仰される。枕草子287「みこもりの神、またをかし」。
※28:フェニックス(phoenix)は、この場合、ヤシ科ナツメヤシ属植物の総称。茎は円柱状。葉は大形の羽状複葉で、茎頂から四方に広がる。雌雄異株。アジア/アフリカの熱帯/亜熱帯に約25種在り、日本ではカナリーヤシ/シンノウヤシなど耐寒性の強いものが暖地で植栽される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。
△2:『てんのじ村』(難波利三著、文春文庫)。
△3:『南海本線歴史散歩』(中井一水著、鷹書房)。
△4:『白鳥伝説(下)』(谷川健一著、集英社文庫)。
△5:「住吉大社」公式サイト。
△6:『源氏物語(二)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。
△7:『上方風俗 大阪の名所図会を読む』(宗政五十緒編、東京堂出版)。
△8:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△9:『日本地名ルーツ辞典』(池田末則・丹羽基二監修、創拓社)。
△10:『万載狂歌集』(大田南畝(蜀山人)撰、野崎左文校訂、岩波文庫)。
△11:『明月記抄』(今川文雄編訳、河出書房新社)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):阪堺電車沿線の大阪の地図▼
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):吉志氏が住んだ吹田市岸部の地図▼
地図-日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):聖徳太子について▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
@参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦の各月と季節▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
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