私の淀川
[私の淀川・その1]
(My Yodo-river, Osaka)

−− 2003.08.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.10.14 改訂

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 ■はじめに − 見栄を捨てマイペースで

 淀川(※1)は私にとって取り分け馴染み深い所で「私の庭」の東北部を占めます。今回はこの「日本再発見の旅」のコーナーのコンセプトの一つである「旅は身近な所から」の実践編として、淀川の風景をご紹介しましょう。
 淀川は大阪の人々にとって切っても切れない存在であり、畿内の中心の川として歴史にも古くから登場して居ます。現在では河川敷公園が出来、レクリエーションの場として多くの人々に利用され親しまれて居ます。しかし逆に、毎日せっせと通勤して休日には皆が出掛ける行楽地や海外に行ったりと、「有名な所に行く方がエライ」、「お金を沢山使い豪華な方がエライ」、「国内より海外の方がエライ」と思っていて、淀川に近い所に住み乍ら淀川を一度も訪れたことが無い人々も数え切れない程大勢居ます。
 今回はこうした世の中の風潮や”見栄”に煽られず、「名も無く慎ましく身近な所を大切にする心」を持った人々に”マイペースで普段着”で親しまれて居る淀川の風景をお伝えしたいと思って居ます。「それぞれの人にそれぞれの淀川風景が有る」筈ですが、これからご紹介するのは「私の淀川」の夏の風景です、どうぞ宜しく。
 又、淀川の「橋」のデータを「参考資料」として末尾に纏めて置きます。土手や河川敷を走っていると橋が一番の目印に成るからです。

 ■毛馬堤

写真0:桜之宮公園春風橋から毛馬橋と長柄橋を望む。写真1:春風フラワーガーデンの中。
 私は淀川沿いに住んで居る訳では無いので、何時もチャリンコ(=自転車)で天満橋或いは大阪城公園から大川(淀川支流)に沿って桜之宮公園を上流に向かい通り抜けて行きます。北端の春風橋に差し掛かると、左上の写真の様に毛馬橋とその向こうに長柄橋(ながらばし)のアーチが見えて来ます。長柄橋に纏わる話は最後に述べましょう。
 この毛馬橋の下の道を通り抜け、後述する毛馬閘門付属の春風フラワーガーデン(右の写真)の脇の道を進むと愈々淀川の土手、毛馬堤に出ます。ここは大阪市都島区、対岸は東淀川区です。地図を参照して下さい。
 → 「私の淀川」の地図を見る(Open the map of Yodo-river


写真2:与謝蕪村生誕地の句碑。 毛馬堤の土手を登り切ると直ぐ淀川の視界が広がり、何とも言えぬ解放感です。その土手の登り口に右の写真の与謝蕪村生誕地の句碑(※2)が在ります。
 蕪村はここ摂津国東成郡毛馬村(今の都島区毛馬町)の出身ですが出郷以来二度と故郷の土を踏むことは有りませんでした。しかしやはり幼い時代を過ごした故郷への思いは止み難く、近代詩の萌芽を見せる俳詩集『春風馬堤曲』(※2−1、△1のp271)の中で、生まれ故郷の毛馬堤に郷愁を寄せた句や詩を切々と詠んで居ます。その中から2つ紹介しましょう。

  やぶ入や 浪花を出て 長柄川(※3)

  春風や 堤長うして 家遠し        蕪村

 写真の句碑には、この2番目の句が刻まれて居ます。先程の春風フラワーガーデンの名前もこの「春風や」の句に由来します。蕪村の句では「春の海 ひねもすのたり のたりかな」「菜の花や 月は東に 日は西に」などが有名ですね。

 この蕪村の句碑のほんの少し下流の所に、国土交通省近畿地方整備局が管理する「毛馬の閘門」(※4)が在ります。左下の写真がそれです。「毛馬こうもん」と書いて在りますね。
 閘門から対岸迄は架橋付きの淀川大堰に成っていて、右下の写真は蕪村句碑の対岸から句碑側に向かって撮ったものです。遠くに赤く見えるのが左下の写真の「毛馬こうもん」と書いて在る水門です。閘門がどんな役割をして居るかは最後にお話しします。
写真3:毛馬閘門の水門。写真4:毛馬の淀川大堰。

 この架橋の真上は伊丹空港への着陸機の進入路に成っていて、着陸する旅客機が大きく見えますよ(下の3枚の写真)。先程の蕪村句碑辺りから見ると旅客機が生駒山麓から”湧き出て来る”様に見えます。
 一番右の写真は私と同じ様に時々パトロールに来るヘリコプターです。写真h1:淀川大堰上空の飛行機。写真h2:淀川大堰上空の飛行機。写真h3:淀川大堰上空の飛行機。写真h4:毛馬堤上を飛ぶヘリコプター。

 さて、大阪には次の様な笑い話が在ります。
 「尻無川っちゅう川在るやろ、尻は何処へ行ったんかいな?」
 「それはな毛馬に在るねん。毛馬のこうもん、ちゅうやろ!」

というものです。そう言えば尻無川には水門が在りましたね、渡船場巡りの時に見ました。そこで私は「こうもん」に肖(あやか)って一首”捻り出し”ました。

  尻無で 水門ちらりと 垣間見せ 毛馬に肛門 隠したるかな  月海

 アッハッハッハッハ!!、この毛馬閘門から天野川が注ぐ枚方河川敷公園迄が淀川に於ける私のテリトリー、即ち「私の庭」の一部です、以後宜しく!
 さあ、これからチャリンコで淀川左岸を上流に向かって行きますよ!

 ■私の淀川風景

 蕪村句碑から既に見えて居ますが、暫く進むと水色の淀川水管橋が在ります(左下の写真)。これは人や車が渡る橋では無く橋の上を水道管が通って居ます。
写真5−1:淀川水管橋。写真5−2:淀川水管橋付近での草野球風景。
 上の写真は水管橋へ行く手前の河川敷での草野球風景です。
 この辺りから水管橋に掛けて淀川左岸には葦や水生植物が自生する静かな入江が在り、様々な種類のトンボの生息地として私が密かに目を着けている場所です。鴨の巣も在り珍客も来る入江の生態系の詳細は別途紹介して居ます。

 水管橋の次はJR城東貨物線の赤川鉄橋(下の写真、橋の名板には「赤川仮橋」と書いて在ります)です。ご覧の様に単線でレールの脇には木を横に渡しただけの、木と木の隙間から下の川面が覗ける覚束無い「歩道」が付いて居ます。日に何本か貨物列車が通過しますが、この橋上「歩道」の上で列車の振動を感じつつ、間近に貨物列車の通過を見送るのは中々面白いですよ。ここは私の「秘密の場所」です、ですから列車の通過時刻は皆さんで調べて下さいね。又、鉄道ファンやマニアの方は更なるお薦めスポットを最下行の関連リンクからご覧下さい。
写真6:赤川鉄橋を渡るJR貨物列車。

 赤川鉄橋を越すと旭区です。やがて下の様にシンプルで優雅な菅原城北大橋(城北は「しろきた」と読む)が見えて来ます。岸辺の湿地帯が池の様に成っていて、そこに橋が映り美しい光景です。ここから川の外へ土手を下ると城北公園です。
写真7:菅原城北大橋とワンド群。

 菅原城北大橋近くの土手の上には、この淀川に生息する生物などの説明板(下の写真)が在ります。それに拠ると上の写真で池の様に見える湿地帯のことをワンドって言うんですね。しかし、この説明板は難しいですよ。ワンドって何やねん?、と思って「ワンドが出来るまで」という説明を読むと、「昔淀川が水上交通が主だった時代に航路を保つ為に、川の流れに垂直に石などを積んだ『水制』(※5)を作ったのが、今ワンドに成っている」という理屈なんですが、これでは、じゃ『水制』って何やねん?、という様に堂々巡りして仕舞います。『水制』は私の【脚注】を参照して下さい。
 私は最初、ワンドって英語かな?、と思って仕舞いましたが、どっこい日本語、広辞苑に拠ると
  ワンド=湾処(わんど)=入江
のことです。こんなヘボな説明では無く
 「昔淀川が水上交通が主だった時代に、川岸の土砂の流出を防ぎ航路を保つ為に、川の流れに垂直に石などを積んだものが、幾つもの入江を形成し池の様に成った。これを湾処(わんど)と呼ぶ。そして湾処は川の生物の生息に好環境を提供して居る。」
と説明するのが正解ですよ。
 淀川にはイタセンパラ、アユモドキ、バス、ワタカ、ヨシノボリ、ギギ、ナマズなどの魚 −この内、イタセンパラ(コイ科タナゴ属)とアユモドキ(ドジョウ科)は天然記念物− やイシガイ、ヒメタニシなどの貝が生息して居るそうです。
写真8−1:淀川水環境の説明板。

写真8−2:「千人塚」の石碑と祠。 もう一つ、菅原城北大橋近くの土手の上には「千人塚」の石碑と小さな祠(右の写真)が在ります。「千人つか」と刻された石碑の下には「千人塚由来記」が在り、それには
 「日本未曽有の大敗戦の昭和20年6月7日残存せる大阪を壊滅せる大空襲により戦災死者数万人中身元不詳の千数百の遺体を此処に集め疎開家屋の廃材を以って茶毘に付す」
 「遺骨はその侭(まま)土中にして此処に葬る」

と刻まれて居ます。
 当初はこの石碑のみだったものを後世にこの事実を伝える為に、1980年5月5日に改めて「由来記」を作った旨も記されて居ます。しかし最早”戦争を知らない人々”の世代と成り、あの大戦の苦い経験も次第に風化しつつ在るのも事実です。

 さて菅原城北大橋を越え大阪工業大学前を通過しその儘進むと豊里大橋が見えて来ます(左下の写真)。
写真10−1:豊里大橋。写真10−2:ウィンドサーフィン。
写真11:凧。 この豊里大橋付近では夏に成ると毎年決まって、ウィンドサーフィン(右上の写真)をする若者や手作り凧(左の写真)を揚げる人たちが来ます。私はもう10年以上、この凧を楽しみに見に来て居ますが毎年新しいデザインです。阪神タイガースの虎模様の畳一畳位の大凧が登場した年も在りました。
写真12:対岸の凧と大道南小学校の「とんがり帽子」。 対岸でも凧を揚げて居ます(左の写真)。対岸の「とんがり帽子」の建物は可なり目立つので何年か前に橋を渡って見に行ったことが有りますが、大道南小学校の校舎です。
 対岸は東淀川区、こちらは旭区です。
写真13:「平太の渡し跡」の石碑。
 ところで豊里大橋の少し手前に「平太の渡し跡」の石碑(左の写真)が在ります。江戸時代の延宝4(1676)年頃、こちら側(左岸)の今市と対岸を結ぶ渡し舟が開業しました。舟を渡したのは平太という個人経営の渡し守だとされ、対岸には平田(へいた)番所も出来ました。以来「平太の渡し」或いは「平田の渡し」と呼ばれ明治40(1907)年に大阪府営、大正14(1925)年に大阪市営に成りましたが、昭和45(1970)年に豊里大橋が完成する迄の約300年間、淀川最後の渡し舟は沿岸の人々の足として活躍しました。
 


写真14−0:水道の水を飲む鳩。
 豊里大橋を過ぎると川は北へ蛇行します。この辺りに遠くからでも目立つ高層マンションが建ち、その傍の土手の休憩所には水道の蛇口が在り、私はここで良く顔を洗います。見ると鳩が蛇口の所に来て何やら水を飲みたい様子。そこで私が水を少し出して遣るとご覧の様に水を飲みました(右の写真)。鳩も暑くて喉が乾くのですね。

 この休憩所と高層マンションを過ぎ守口市に入ると再び東に蛇行して、やがてと鳥飼大橋(下の写真)が見えて来ます。鳥飼大橋は3本の橋が並行して架かっていて、手前が水管用の橋、真ん中が近畿自動車道の橋、奥が門間と伊丹空港を結ぶモノレールの橋で、白いアーチはこのモノレールの橋のものです。下の写真に4輌編成のモノレールが写って居ますね。対岸は摂津市です。
写真14−1:鳥飼大橋。
写真14−3:飛行船。
 この付近の川では良く水上オートバイが走って居ます(下の写真)。
 希には右の様な飛行船が飛来することも有ります。飛行船に出会ったら幸運だと思って下さい。
写真14−2:水上オートバイ。
 


写真15:鳥飼仁和寺大橋。 そして暫く行くと寝屋川市に入り、やがて鳥飼仁和寺大橋が見えて来ます(右の写真)。
 この橋の近くの河川敷はゴルフのパターの練習場に成って居ます。
 対岸の摂津市鳥飼は古代の右馬寮鳥飼牧の跡地で、牛馬(食用では無く荷役や運搬用)の放牧地でした。更に鳥飼の名は「鳥飼部」の居住地とも言われて居ます。そう言えばこちら側の寝屋川市の東隣の交野市は嘗ては朝廷の御狩場だった所です。

 鳥飼仁和寺大橋を過ぎると対岸は高槻市に成り、淀川新橋(下の写真)が直ぐ見えて来ます。この橋は何の飾り気も無い殺風景な橋です。
写真16:淀川新橋。

 殺風景なので、淀川の河川敷や土手に咲いていた花を添えましょう、下の6枚がそうです。上が左からシロツメクサ、不明、タマスダレ、下が左から沈丁花ヒドコートチューリップです。注意して見ると他にも色々な草花が咲いて居ます。
写真f1:淀川の花。写真f2:淀川の花。写真f3:淀川の花。
写真f4:淀川の花。写真f5:淀川の花。写真f6:春風フラワーガーデンのチューリップ。
 鳥もハト、雀、雲雀、鴨などが居ます。そして夏はウスバキトンボがあちこちで群れを成して飛んで居ます。花が在ればも来ます。貴重な自然環境と言えるでしょう。

写真17:太間町排水機場の施設。 淀川新橋を過ぎて直ぐ、左の写真の寝屋川市の太間町排水機場の施設が在ります。ご覧の様に、一応景観に合わせたデザインに成って居ますね。

 やがて枚方市に入ると枚方パークの観覧車(左下の写真)が前方に見えて来ます、虹色をして居ますね。観覧車の右にはジェットコースターの架台も白く見えて居ます。
 土手から東方、枚方市の向こうには以前登った交野山も見えて居ます(右下の写真)。決して高い山では無いですが、注意して見ると駱駝の瘤の様に遠くからでも見分けが付き、やはり交野山はシンボル的存在です。
写真18:枚方パークの観覧車。写真19:交野山。
 そして暫く行くと下の写真の枚方大橋です。橋の上は国道170号で、枚方市と高槻市を連絡して居ます。
写真20:枚方大橋。

 枚方大橋を過ぎると直ぐ整備された枚方河川敷公園で、特に休日は家族連れなど大勢繰り出して居ます。下の写真は枚方河川敷公園から山崎方面の山並みを望んだものです。この少し先に交野七夕伝説の中心・天野川が注いで居ます。鵲橋(かささぎばし)も近いですよ。
写真21:枚方河川敷公園から山崎方面を望む。

 ここが淀川に於ける「私の庭」の終点です。
 このページでは淀川の昼間の風景をご紹介しましたが、日没頃に来ると橋がライトアップされ、とても幻想的で、昼とは又違った気分を味わうことが出来ます。

 ここで江戸時代の淀川歌謡『三十石船舟歌』(※6〜※6−3)をご紹介して置きましょう(△2のp264)。

   ヤレー 伏見下ればナ 淀とはいやだエ
  いやな小橋をナ 艫(とも)下げにエ ヤレサ ヨーイヨーイ
   ヤレー 淀の上手のナ 千両の松はエ
  売らず買わずのナ 見て千両エ ヤレサ ヨーイヨーイ
   ヤレー 八幡山からナ 山崎やまへエ
  文を投げたがナ 届いたかエ ヤレサ ヨーイヨーイ
   ヤレー 八幡山からナ 橋本見ればエ
  赤前垂がナ 出て招くエ ヤレサ ヨーイヨーイ
   ヤレー ここは何処よとナ 船頭衆に問えばエ
  ここは枚方ナ 鍵屋浦エ ヤレサ ヨーイヨーイ
   ヤレー 鍵屋浦にはナ 碇はいらぬ
  三味や太鼓でナ 船とめるエ ヤレサ ヨーイヨーイ
   ヤレー 睡たかろけどナ 睡た目を覚ませエ
  ここは大坂ナ 八軒家エ ヤレサ ヨーイヨーイ


 「三味や太鼓で船とめる」という所が「江戸の粋(=江戸ダンディズム)」ですね。

 当時淀川は京(政治の中心)と大坂(経済の中心)を結ぶ幹線路であり、三十石船は大量輸送手段として京伏見と大坂八軒家の間を頻繁に行き来しました。あの「弥次さん・喜多さん」(※7、※7−1)や坂本竜馬始め幕末の志士達も乗り、浪曲の森の石松が言う「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」の一節もこの三十石船上の話です。

 そしてこの三十石船の乗客にしつこく食い物 −飯や酒や牛蒡汁(ごぼうじる)− を売ったのが「枚方食らわんか舟」(※6−3)でした。
 右は安藤広重の『淀川三十石船の図』ですが、大きな船が三十石船で小さな舟が「食らわんか舟」です。この絵を見ると三十石船は褌(ふんどし)一丁の船頭が3人描かれて居ます。

 『東海道中膝栗毛』では弥次さん・喜多さんもビックリの荒っぽい北河内弁で

  めしくらはんかい。酒のまんかい。サアサアみなおきくされ。よふふさるやつらじやな。...<中略>...われもめしくふか。ソレくらへ。そつちやのわろはどふじやいやい、ひもじそふな頬(つら)してけつかるが、銭ないかい。

と船客を罵り乍ら商いをした為に評判に成りました(△3のp156)。
 私はそんな往時を偲びここで暫く休んだ後、気分次第で”適当に”戻ります。

 ■毛馬閘門の役割

 ということで再び毛馬閘門に戻って来ました。【脚注】※4に、閘門とは「水面を一定にする為の水量調節用の堰」と在りますが、これだけでは解り難いですね。
 毛馬閘門施設の全体機能については前述の春風フラワーガーデン(ここも国土交通省近畿地方整備局が管理)の中に説明板が在ります。それに拠ると一般に「毛馬閘門」と呼ばれる施設の機能は

  淀川大堰         :淀川河口への放水量調節(洪水防止、取水)
  毛馬水門・毛馬排水機場  :淀川と大川の水量制御
  毛馬閘門         :水位の不連続な淀川・大川間の船の通過用堰

の3つで、24時間体制で監視して居るそうです(※8)。
 先ず「閘門」の仕組みから説明しましょう。淀川と、そこから直角に流れ出す支流の大川の水位は可なりの段差が有ります。閘門は「毛馬こうもん」と書かれた淀川に面する赤い水門と、大川に面する青い水門の2つの水門から成り、間にプール状の緩衝堰(ここではプールと呼ぶ)を生成し、下の説明図(=春風フラワーガーデンの説明板の写真の一部をアレンジ)の様に船を通過させます。逆方向も同様です。

     A                     B
   赤閘門(淀川)|間にプール状の緩衝堰を生成|青閘門(大川)
        淀川(水位:高)←   →大川(水位:低)

写真22:毛馬の「閘門」の仕組み説明図。

 それでは実際に砂利運搬船が「閘門」を通過する写真を見て行きましょう。上の説明図と合わせてご覧下さい。(説明図(1)の状態の写真は省略です。)
写真23−2:閘門のプールで待機する船。
写真23−1:閘門に入る船。 左右の写真が説明図(2)の状態です。左が赤い水門をゆっくり開け、プールと淀川の水位が同じに成った瞬間で、船を淀川からプールに入れて居る所です。
 右がプール内で待機して居る船(写真の右下部分に見えている)です。向こう側の青い水門は閉じて居ます。
 


写真23−3:閉じた閘門。
 右の写真はその後赤い水門をすっかり閉じた所。これが説明図(3)の状態です。

 そして左下の写真が説明図(4)の状態です。青い水門をゆっくり開き、プール内の水を大川に少しずつ排水し、やがて青い水門を全開しプールと大川の水位が同じに成った時、先程の船が大川に出て来た瞬間です。

 右下が春風フラワーガーデンの外側に立てて在る都島区が設置した「毛馬の水門・閘門」の説明板の写真です。【脚注】※8で書いたことなどが説明されて居ます。
 都島区は区内の歴史的場所にこの様な説明板を設置し、謂れなどを紹介して居ます。
写真23−4:閘門から出る船。写真23−5:都島区が設置して居る「毛馬の水門・閘門」の説明板。

 それでは次に淀川大堰をご覧に入れましょう。
写真24:毛馬の淀川大堰。
 赤川鉄橋の歩道で蕪村句碑の対岸に渡り、淀川大堰の架橋の下に行くと、遣って居ます、ゴーッという音と共に渦を巻いて淀川の水を放流して居ます。正に「堰」ですね。


 私はこの章を書く為に8月11日の午後、閘門を船が通過するのを、ずっと待って写真を撮りました。”浪速の閑人”の面目躍如ですね、アッハッハッハ!!
 以上で毛馬閘門の仕組みと役割がお解り戴けたでしょうか。

 ■結び − 毛馬堤の夜景と長柄橋

 さあ、もう帰りの時間です。毛馬堤迄戻って来ると再び長柄橋が見えますが、今度は夕陽の中のシルエットです(下の2枚)。そして淀川を目一杯走った後の風呂上がりのビールは最高です、正に「砂漠の砂に水が吸い込まれるが如し」です。帰路はビールがちらつきます!


 さて、お約束通りここで長柄橋に纏わる話(エピソード)をご紹介しましょう。
 先ずは哀しくも美しい人柱伝説です。淀川の毛馬から下流は大変氾濫し易かった為昔から何度も架け替えられ、難工事を強いられて居ました(※9)。或る時、垂水の長者・巌氏が「継ぎの当たった袴を穿いた者を橋の人柱にすれば良い」と言い出しましたが、言い出しっぺの長者の袴に継ぎが有った為、自らが人身御供にされて仕舞いました。やがて長者の一人娘が成長して河内国へ嫁ぎましたが、全く物を言わないので離縁され、夫に送られ実家へ帰る途中、1羽の雉子(きじ)が鳴き、それを聞いて夫が雉を射ち落としました。その時です、口が利けないと思われて居た娘が突然

  物言わじ 父は長柄の 橋柱 鳴かずば雉子も 射たれざらまし

と詠んだのでした。この歌や話は「藪蛇」(※10)、即ち「人前で余計な事を喋るな」の教訓話として、ご存知の方も多いでしょう(△4のp5)。「藪入」(※3)で始まったこのページは「藪蛇」で”落ち”が付きましたね。
 時代は下って第二次世界大戦ではアメリカ軍の爆撃で長柄橋が崩れ、空襲を避けて橋の下に避難して居た人々が多数犠牲に成り、”新たな人柱”に成ったのでした。前述の城北の「千人塚」と同じく、本当は「風化させては為らない戦争の記憶」なのです、その為には誰かが語り継ぐ必要が有ります。

 さて、長柄橋の起源については孝徳天皇(※11)の長柄豊碕宮(※11−1)に関する一文です。一説に拠ると、その時に皇居への通路として架けられたのが長柄橋の起源とも言われて居ますが、歴史的に確認されて居るのは『日本後紀』嵯峨天皇紀に「弘仁三年六月乙丑遣使造摂津国長柄橋」と記録されて居るのが最初で、弘仁3年は812年です(△5のp109)。
 現在の橋は1983年に完成したもので、ニールセンローゼ形式の白いアーチ(△5のp114)は良く目立ちます。
 【脚注】※9に記した様に長柄橋には、そこに住む人々と淀川の洪水との格闘の歴史が詰め込まれて居る気がします。そして現在の毛馬閘門もその延長上の施設なのだ、ということを強く実感します。

 最後に夏の風物詩・淀川の花火大会の情景をご覧に入れて終わりましょう。下の写真は毛馬堤での2003年8月3日(日)の20:30頃で、この日は旧暦の七夕の1日前の夜空です。花火の上方に上弦の月と星座、そして数々のエピソードを秘めた長柄橋のアーチがライトアップされ浮かび上がって居ます。
写真26:淀川の花火大会。

 たった1本の川にも、色々な時代の様々な想いや情景が込められて居るものです。そしてその想いや情景も、やがて飲み込まれ忘れられ、正に「川の流れの如く」過ぎ去って行きます。淀川をゆったりと眺めつつ、ふとそんな思いに捕われます。これ迄述べて来た様々な想いや情景、この全てが「私の淀川」です!!

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 ◆◆◆参考資料 − 毛馬〜枚方間の淀川の橋のデータ

          橋長[m] 幅員[m]   種別     完成年
           淀川右岸側住所 ←→ 左岸側住所
 長柄橋      656  20  アーチ及び鋼床板 1981
           東淀川区柴島1 ←→ 北区天神橋8
 赤川鉄橋     611  1線  鋼板桁      1929
           東淀川区東淡路1 ←→ 都島区大東町3
 菅原城北大橋  1037  25  鋼斜張      1989
           東淀川区豊里1 ←→ 旭区中宮4
 豊里大橋     561  18  斜張橋鋼床板   1970
           東淀川区豊里3 ←→ 旭区太子橋1(国道479)
 鳥飼大橋     547   8  トラス      1954
 (北行)      摂津市鳥飼和道1 ←→ 守口市大日町4
 近畿自動車道   547  10  合成桁他     1973
  淀川橋梁     摂津市鳥飼和道1 ←→ 守口市大日町4
 鳥飼大橋     547   9  鋼板桁      1966
 (南行)      摂津市鳥飼和道1 ←→ 守口市大日町4
 鳥飼仁和寺大橋  688  23  鋼斜張      1987
           摂津市鳥飼中2 ←→ 寝屋川市仁和寺本町2
 淀川新橋     699  17  合成桁      1981
           高槻市柱本4 ←→ 寝屋川市太間町
 枚方大橋     689  19  合成桁      1971
           高槻市大塚町3 ←→ 枚方市桜町(国道170)

 <以上は主に【参考文献】△5に基づいて居ます。>

φ−− つづく −−ψ

【脚注】
※1:淀川(よどがわ)は、琵琶湖に発源し、京都盆地に出て、盆地西端で木津川・桂川を合わせ、大阪平野を北東から南西に流れて大阪湾に注ぐ川。長さ75km。上流を瀬田川、宇治市から淀迄を宇治川と言う。

※2:与謝蕪村(よさぶそん)は、江戸中期の俳人・画家(1716〜1783)。摂津国東成郡毛馬村生まれと言う。本姓は谷口、後に改姓。別号、宰鳥・夜半亭・謝寅・春星など。幼時から絵画に長じ、文人画で大成する傍ら、早野巴人に俳諧を学び、蕉風の中興を唱え、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。著「新花つみ」「たまも集」「春風馬堤曲」など。俳文・俳句は後に「蕪村句集」「蕪村翁文集」に収められた。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※2−1:春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)は、俳詩。与謝蕪村作。「夜半楽」(1777年(安永6)刊)所収。藪入で帰郷する少女に仮託して、毛馬堤(現、大阪市)の春景色を叙した、抒情性豊かな郷愁の詩。

※3:藪入・家父入(やぶいり)とは、奉公人が正月及び盆の16日前後に、主家から休暇を貰って親元などに帰ること。又、その日。盆の休暇は「後の藪入り」とも言った。宿入(やどいり)。季語は新年。好色一代女4「されども―の春秋をたのしみ」。

※4:閘門(こうもん)とは、運河・放水路などに於いて水面を一定にする為の水量調節用の堰のこと。

※5:水制(すいせい、groin)とは、高水時の水勢緩和や低水時の流路の水深確保の為、河岸から流水中に設ける工作物。堤防から少し離れた所に作る。水刎(みずば)ね。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:三十石船(さんじっこくぶね)とは、積荷能力が米30石相当の和船。特に江戸時代、荷物と客とを乗せて、大坂・伏見間の淀川を往来した過書船を指す。
※6−1:過書船/過所船(かしょぶね/かそぶね)とは、
 [1].過書を得て航行する船。
 [2].江戸時代、京坂間交通の為、淀川の通航を特許された船
※6−2:過書/過所(かしょ/かそ)とは、奈良・平安時代以後、朝廷又は幕府から付与した関所通行の許可書。江戸時代の関所手形過所文
※6−3:食らわんか舟(くらわんかぶね)は、江戸時代、淀川の三十石船の船客を相手に飲食物や酒を売った商い船の俗称。「飯食らわんか」など、横柄な言葉で酒食を売り付けた
 補足すると、枚方は大坂と伏見の丁度中間点で、どちらから乗っても乗客は小腹が空く頃合いで、ここに「枚方食らわんか舟」が出現する理由が有った。『三十石船舟歌』の「千両の松」とは「値千金の松」の事、「鍵屋」とは現在の枚方警察署辺りに在った茶屋兼旅館の名。

※7:「弥次さん・喜多さん」は、十返舎一九作の『東海道中膝栗毛』の主人公。
※7−1:東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、江戸時代の滑稽本。十返舎一九作。初版本は初編から8編迄に発端を加えて18冊。1802〜09年(享和2〜文化6)刊。発端のみ14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が随所に失敗や滑稽を演じつつ東海道・京・大坂を旅する道中記。後20年に亘り続編を出す。本称「道中膝栗毛」又は「膝栗毛」。
 補足すると、十返舎一九は若い頃大坂で近松余七と号して浄瑠璃作者の修行を積んだのです。

※8:現在の淀川大堰(よどがわおおぜき)は、1984(昭和59)年に完成、閘門は1974(昭和49)年に完成。それ以前はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの設計で1910(明治43)年に造られた閘門と洗堰が在りました。
 洗堰とは川幅一杯に水流を横切って造る堰。上流の水位を高めると同時に、下流へ水を常に堰を越して流すもの。

※9:淀川の毛馬から下流の中津川(長柄川の古称)は蛇行して居て、昔から大変氾濫し易く、その為に長柄橋は幾度も架け替えられて居ます。江戸時代には一時架橋を諦め長柄渡口(ながらのわたし)が置かれ渡船で川を渡って居ました。明治に入ってからも度々大洪水を引き起こし、遂に淀川下流の放水路を確保する為に新淀川の開削に着手、10年以上の歳月を費やし明治末期にやっと完成した、正に明治の一大工事だった様です。(△5の108〜114)。

※10:「藪を突いて蛇を出す」の略。不必要な事をして却って禍を受ける譬え。余計な事はするなの譬え。「却って―になった」。

※11:孝徳天皇(こうとくてんのう)は、7世紀中頃の天皇(596?〜654、在位645〜654)。茅渟王(ちぬのおおきみ)の第1王子。名は天万豊日(あめよろずとよひ)、又は軽皇子(かるのみこ)。大化改新を行う。皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)に移す。
※11−1:難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、孝徳天皇の造営した難波宮の正称。第二次大戦後の発掘で、大極殿跡その他を発見。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『蕪村俳句集』(与謝蕪村著、尾形仂校注、岩波文庫)。

△2:『日本民謡集』(町田嘉章・浅野建二編、岩波文庫)。

△3:『東海道中膝栗毛(下)』(十返舎一九作、麻生磯次校注、岩波文庫)。主人公の弥次さん・喜多さんは有名で、「弥次喜多道中記」と俗称されます。

△4:『最新 大阪ものしり事典』(創元社編・発行)。

△5:『八百八橋物語』(松村博著、大阪文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):淀川の地図▼
地図−日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)

参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦について▼
資料−「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
「私の庭」について▼
ここが「私の庭」だ!(Here is the territory of Me !)
尻無川の水門▼
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