-- 2006.02.18 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.09.02 改訂
★このページは<鵺を追え#1の1>都島・塚と紋章編の続きです。
<鵺を追え#1の1>が大阪港紋章の奇抜なデザインに目を奪われ、紋章やら合成獣の系譜やらの話を中心に書きましたが、当ページこそが問題の本質に迫るものです。即ち都島の鵺塚のそもそもの発端である2つの伝承、
<伝承その1>「源頼政の鵺退治伝説」
<伝承その2>「鵺の都島漂着譚」
について考察して行きます。既に「都島・塚と紋章編」で指摘した様に、都島の鵺の伝承はこの2つの伝承の合成だからです。そして「鵺と都島を結び付け2つの伝承を合成させた存在」に迫ります。
(1)『平家物語』が伝える鵺の逸話
この章では<伝承その1>の「源頼政の鵺退治伝説」の話の出所(でどころ)即ち出典は何か、について述べます。【脚注】※1に在る様に「源頼政の鵺退治」の逸話は『平家物語』巻4-「鵼」の段(←「鵼」は「鵺」に同じ)に載って居ます(※2、△1のp234~237)。『平家物語』を読むと鵺は計3回清涼殿に出没して居ます。そこで鵺の出没をより解り易くする為に『平家』-「鵼」の段を分解して時系列に並べ直して整理すると以下の様に成ります。
<第1回目>寛治年間、堀河天皇在位中 → 1087~94年、源義家
去る寛治の頃ほひ、堀河天皇御在位の時、しかの如く、主上夜な夜なおびえさせ給ふ事在けり。其時の将軍義家朝臣、南殿の大床に候はれけるが、御悩(ごなう)の刻限に及で、鳴絃する事三度の後、高声(かうしゃう)に「前陸奥守、源義家」と名乗たりければ、人人皆身の毛竪(よだ)て、御悩(ごなう)怠せ給ひけり。
これを「堀河帝の鵺」と名付けましょう。この時は八幡太郎源義家(※3、※3-1)が清涼殿の南殿(=紫宸殿)に控えて鵺が現れる刻限(=丑の刻)に弓の弦を3度鳴らす鳴絃の呪禁(※4、※4-1)の後、武名高い自らの名を高々と名乗って鵺の出現を事前に阻んだだけで退治して無いのです。だから又出現します。
<第2回目>仁平年間、近衛天皇在位中 → 1151~54年、源頼政
『平家』は先ず
近衛院御在位の時、仁平の頃ほひ主上夜々(よなよな)おびえたまぎらせ給ふ事有けり。有験(うげん)の高僧貴僧に仰(おほせ)て、大法秘法を修せられけれども、其験(しるし)なし。御悩(ごなう)は牛刻許で在けるに、東三條(とうさんじょう)の森の方より、黒雲一村立来て、御殿の上に掩(おほ)えば、必ずおびえさせ給ひけり。是に依て公卿僉議(せんぎ)有り。
の如くに、鵺出現の模様と仏僧の祈祷呪法は無効であった事を記し、次いで鵺は牛刻(=丑の刻、午前2時頃)に「東三条の森」の方から黒雲を立てて遣って来る事を記してます。そして<第1回目>の義家の先例を引き、以下の様に語ります。
然れば則(すなはち)先例に任て、武士に仰て警固有べしとて、源平両家の兵の中を選(せん)せられけるに、此頼政を選出(えらびいださ)れたりけるとぞ聞えし。此時は未兵庫頭とぞ申ける。頼政申けるは、「昔より朝家に武士を置かるゝ事は、逆反の者を退け、違勅の輩を亡(ほろぼ)さんが為なり。目にも見えぬ変化の物仕れと仰せ下さるゝ事、未承り及ばず。」と申ながら、勅定なれば召(めし)に応じて参内す。頼政は憑(たのみ)切たる郎党、遠江国の住人、井早太(ゐのはやた)にほろのかざきりはいだる矢負せて、唯一人ぞ具したりける。我身は二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作(はい)だる鋒矢(とがりや)二筋、滋藤(しげとう)の弓に取添て、南殿の大床に伺候(しこう)す。...(中略)...日来(ひごろ)人の申に違はず、御悩(ごなう)の刻限に及で、東三條の森の方より、黒雲一村立来て、御殿の上にたなびいたり。頼政吃(き)と見たれば、雲の中に恠(あやし)き物の姿あり。是を射損ずる者ならば、世に有るべしとは思はざりけり。さりながら矢取て番ひ、南無八幡台菩薩と、心の中に祈念して、能引(よひい)て、ひやうと射る。手答して、はたと中(あた)る。「得たりやう」と、矢叫(やさけび)をこそしたりけれ。井早太(ゐのはやた)つと寄り、落る処をとて押へて、続様に九刀(こゝのかたな)ぞ刺たりける。
其時上下手々(てんで)に火を燃(とも)いて、是を御覧じ見給ふに、頭(かしら)は猿、躯(むくろ)は狸、尾は蛇、手足は虎の姿也。鳴く声鵼にぞ似たりける。怖(おどろ)しなども愚なり。主上御感の餘に、師子王といふ御劔(ぎょけん)を下されけり。
...(中略)...比は卯月十日餘の事なれば
...(中略)...さて彼変化の物をば、空船(うつぼぶね)に入れて流されるとぞ聞えし。
これですね、都島の鵺の出典は。都島の鵺はこの「近衛帝の鵺」で、しかも「頭(かしら)は猿、躯(むくろ)は狸、尾は蛇、手足は虎の姿也。鳴く声鵼にぞ似たりける。」という”とんでもない組み合わせ”の合成獣の由来もこの『平家』巻4-「鵼」の段という事が判明しました。「空船(うつぼぶね)」(※5)とは1本の木を刳り貫いて造った刳舟(くりぶね)です。序でに記せば、頼政は井早太(ゐのはやた)という遠州の郎党(※6)を一人だけ同行して禁中に入り「射損じたら死のう」と覚悟を決め、一の矢で見事に鵺を射止め、落ちて来た鵺を井早太が刀で9回止(とど)めを刺して退治し、頼政は功として御剣「師子王」を賜ったと在ります。
そして私が都島区の説明板を訂正して鵺が出没した場所は「紫宸殿」では無く「清涼殿」と言った根拠もこの中に在ります。「東三條の森の方より、黒雲一村立来て、御殿の上にたなびいたり。」がそれです。この場合「御殿」とは清涼殿を指し、紫宸殿を指す時は「南殿」(←清涼殿の南に在ったから)です(※7、※7-1)。『平家』の作者(←信濃前司行長か、※2-1)は義家や頼政が鵺退治の為に控えて居た場所を「南殿の大床」と記してますので「御殿」と「南殿」をきちんと使い分けて居ます。この様に頼政は紫宸殿に控えて、紫宸殿から清涼殿の屋根上に現れた鵺を射落としたのです、彼の身分では清涼殿には入れません。
こうして頼政は鵺を退治しましたが、鵺の遺骸の末路については「彼変化の物をば、空船(うつぼぶね)に入れて流されるとぞ聞えし。」と婉曲に記すのみで「近衛帝の鵺」の漂着先の記述は無しなのです。
<第3回目>応保年間、二条天皇在位中 → 1161~63年、源頼政
ところが退治された筈の鵺がもう一度出現します。別の鵺が居たという訳です。これを「二条帝の鵺」と呼びましょう。
去る応保の比ほひ、二条院御在位の御時、鵼と云ふ化鳥(けてう)、禁中に鳴て、屡(しばしば)宸襟を悩す事有き。先例を以て、頼政を召されけり。比は五月二十日餘のまだ宵の事なるに、鵼唯一声音信(おとづれ)て、二声とも鳴ざりけり。目指とも知ぬ闇では有り、姿形も見えざれば、矢つぼを何(いづく)とも定めがたし。頼政策(はかりごと)に先大鏑を取て番ひ、鵼の声しつる内裏の上へぞ射上たる。鵼鏑の音に驚て虚空に暫ひゝめいたり。二の矢に小鏑取て番ひ、ひいふつと射切て、鵼と鏑と竝べて前にぞ落したる。禁中さざめきあひ、御感斜(ななめ)ならず。御衣(ぎょい)を被(かづけ)させ給けるに、
...(中略)...御衣を肩に懸て退出す。
今度は鵺を「化鳥(けてう)」と表現して居ます。一声鳴いたのみで闇の中で見えないので、内裏の上に向けて第1に大鏑で威嚇し第2に小鏑 -鏑(※8)とは鏑矢(※8-1、※8-2)のこと- を射て鵺を射落としたと記して居ます。余談ですが、私はこの第1の大鏑は蟇目(※8-3)ではないかと思って居ます。つまり、義家の鳴絃と同じく第1の蟇目で妖魔を呪禁し第2の小鏑で「生け捕り」を狙ったと考えると面白いですね。実は江戸時代の好事家たちも第1の大鏑を蟇目であると詮議して居るのです。
それはさて置き、『平家』が「二条帝の鵺」の後処理を省略してる事は留意すべきです。射落とされた鵺は厳密には生死不明・処置不明なのですが、逆に省略は「近衛帝の鵺」と同じ処置即ち殺した後に遺骸を川に流したとも推測出来ます。
(*_-)
以上が『平家』が伝える鵺の話です。その後、源頼政は齢77歳で反平氏の挙兵を敢行しますが、『平家』は「鵼」の段の最後で頼政を「由なき謀反起(おこい)て、宮をも失参(まい)せ我身も子孫も亡ぬるこそうたてけれ。」と嘆いて居ます(△1のp237)。その「謀反の由(よし)」や「宮=以仁王」の事は後述する事にして、取り敢えずこの節を終わります。
(2)3回の鵺出現
以上の様に『平家物語』には「堀河帝の鵺」「近衛帝の鵺」「二条帝の鵺」の3回の鵺出現の話 -何れも平安後期- が語られて居ますが、この節では「鵺出現と天皇の御代との関係」を一覧表に整理します。これで見通しが良く成る筈です。
<『平家物語』に拠る「3回の鵺出現」と「天皇の御代」との関係>
京の「東三条の森」が鵺の栖
│
│黒雲と共に出現(丑の刻頃が多い)
│ トラツグミに似た鳴き声
↓
堀河天皇 寛治年間(1087. 4. 7~1094.12.15)に「堀河帝の鵺」出没
(在位1086~1107) 八幡太朗源義家が鳴絃の呪禁で出現を阻む
鳥羽天皇 ×(鵺現れず)
(在位1107~1123)
崇徳天皇 ×
(在位1123~1141)
近衛天皇 仁平年間(1151. 1.26~1154.10.28)に「近衛帝の鵺」出没
(在位1141~1155) 卯月10日頃に源頼政が射落とし退治
→「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎」の合成獣と判明
遺骸を川に流す → 大阪都島の鵺塚
→ 兵庫県芦屋の鵺塚(←私の説)
後白河天皇 ×
(在位1155~1158)
二条天皇 応保年間(1161. 9. 4~1163. 3.29)に「二条帝の鵺」出没
(在位1158~1165) 五月20日頃に源頼政が鏑矢で射落とす(生死不明)
→ 兵庫県芦屋の鵺塚(←芦屋市教育委員会の説)
化け物・魔物・妖怪変化や鵺は人間の「想像力の産物」ですが、そういう得体の知れない物(者)を想像して仕舞う心の動きというのは不思議なもので、或いは不完全な人間の煩悩の一つかも知れません。そう思い乍らこの一覧表を見直すと、どうも堀河・近衛・二条の3帝は煩悩故に怖じ気付いて自ら鵺を呼び込んで居たとも考えられますな!
{この章は06年3月5日に更新した儘でしたが、2011年9月2日に「芦屋の鵺塚」掲載に合わせ加筆し最終更新しました。}
ところで源頼政(※1)は歌人としても知られ家集『源三位頼政集』を残して居ます。又、鎌倉時代初期の『新古今集』巻第3(夏歌)-267には
庭の面は まだかわかぬに 夕立の 空さりげなく 澄める月かな
の歌が載って居ます(△2)。頼政は時の権力者たる平清盛(※9)の信任を得て破格の従三位に上り詰た人ですが、それにはエピソードが在ります。『平家物語』-「鵼」の段には、頼政が保元・平治の乱の功にも拘わらず昇殿(※10)叶わぬ境遇を
人しれず 大内山の 山守は 木隠(こがくれ)てのみ 月を見るかな
という歌で述懐し、まんまと正下四位の殿上人(※10-1)と成るも、更に三位を狙って
のぼるべき 便(たより)無き身は 木(こ)の下(もと)に
しゐをひろひて 世をわたるかな
という歌を詠むと、「しゐ」が「椎[の実]」と「四位」を掛けていると察した清盛に従三位に叙され、その後出家して源三位入道と名乗った事が記されて居ます(△1のp234)。フーム、歌で出世を勝ち取ったとは頼政の歌は単なる道楽では無いですな!
++++ 源頼政反乱の真相 ++++
以上の様に源頼政は平氏政権の中で要領良く立ち回って来ましたが、源氏再興への思いは強く機を狙って居た節が有ります。そこへ清盛が数え年僅か3歳の高倉天皇第1皇子にして実娘(=後の建礼門院)の子を強引に皇位(=安徳天皇、※9-1)に就けたという”政治事件”を起こし、清盛及び平氏一族の専横への周囲の不満は一挙に高まりました。自らの余命を勘案し、この機がラスト・チャンスと見た頼政は遂に治承4(1180)年に以仁王(※11) -彼は後白河天皇の第3皇子で清盛の安徳幼帝擁立で自らの皇位継承の道を塞がれた事に不満であった- を奉じて平氏討伐の令旨(※12)を下させ、三井寺(園城寺)を拠点に決起しました。しかし多勢に無勢、謀反として逆に追討され南都興福寺を目指す敗走の途次遂に諦め宇治平等院で自害(長男伊豆守仲綱も自害、次男兼綱は討死)しましたが、頼政は死は覚悟の上で館に火を放っての出陣(△1のp211)でした。時は治承4年5月26日、享年77歳。
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辞世の歌は
埋木(うもれぎ)の 花さく事も なかりしに
みのなる果てぞ かなしかりける
です(△1のp228)が、この歌も自らの一生を木に託し木の「実のなる」と立身の「身のなる」を掛けて、終(つい)の境遇を諧謔的に儚んだものです。現在平等院の最勝院に頼政の墓が在りますが、頼政の首について『平家』は頼政が自害した場面で
其頸をば唱(となふ)取て泣く泣く石に括合せ敵の中を紛れ出て、宇治川の深き所に沈てけり。
と記して居ます(△1のp228~229)。因みに唱(となふ)とは頼政を介錯した渡辺唱(→後述)のことです。
又、戦勝した平氏の兵が500余人の首を掲げて六波羅に凱旋した後の首実検の場面でも
其中に源三位入道の頸は、長七唱が取て宇治川の深き所に沈てければそれは見ざりけり。
と記して居ます(△1のp230)。つまり頼正の首は行方不明なのです。
さて、『平家物語』巻4は清盛の安徳幼帝擁立と源頼政の反乱の顛末が主題で、その中に鵺の逸話を差し挟んだ構成です(△1のp192~239)ので、興味有る方は巻4をお読み下さい。
今にして思えば『平家』冒頭の超有名な語り -『平家物語』は琵琶法師に依って語られた「語り物」(※2-2)の代表- の中に「盛者必衰」(※2-3)という言葉が在ります(△1のp43)が、驕れる盛者の平清盛が必衰の道を転がり落ち始めた転換点(ターニング・ポイント)は何と言っても安徳幼帝擁立です。そして源頼政の反乱が切っ掛けで源頼朝らの諸国の源氏が蜂起し壇ノ浦の戦を経て平氏滅亡に至ったというのが歴史の筋書でした。
(*_-)
尚、頼政の歌の才は娘の二条院讃岐(※1-1)に引き継がれました。彼女の歌に興味有る方は『小倉百人一首』92番歌を参照して下さい。
{この章は06年3月5日に更新}
『平家』は「近衛帝の鵺」の遺骸を「彼変化の物をば、空船(うつぼぶね)に入れて流されるとぞ聞えし。」と記すのみでその後については一切触れて無い事、「二条帝の鵺」については生死も不明である事は前述しました。従って都島にしろ何処にしろ鵺漂着譚は『平家物語』の”継ぎ足し”であるという事、更に言えば鵺漂着譚は元々は無かった話という事を押さえて置く必要が有ります。
この事を踏まえて<伝承その2>の「鵺の都島漂着譚」の根拠について探りを入れて行こうと思います。
(1)『摂津名所図会』と『蘆分船』に記された都島の鵺塚
江戸中期の『摂津名所図会』巻3-「東成郡」-「鵺塚」の項(※13、※13-1)は都島の鵺を
滓上江村(かすがえむら)より五六町東にあり。土人云ふ。むかし源頼政が射留し怪鳥(けてう)舟兪(うつぼぶね)にのせて淀川に流す。遂に此渚に止る。里人これを土中に蔵(こ)めて鵺塚とよぶ。又菟原郡蘆屋里にも同名あり。何れも論ずるにたらず。
と、素っ気無く記してます(△3のp344)。鵺を「怪鳥(けてう)」としてる事から推測すると『図会』の著者・秋里籬島(とりとう)は『平家』が「化鳥(けてう)」と記した「二条帝の鵺」を連想してる様ですが、これは「近衛帝の鵺」の誤りで『図会』の段階で既に混同が生じて居ます。尚、この中の「菟原郡蘆屋里にも同名あり」とは前出の「芦屋の鵺塚」の事です。
右は同書から滓上江村の十五社神社(今の都島神社)と鵺塚の図です。図の右上の「ぬゑ塚」の絵に注目すると盛り土の上の石は今の物とは形が異なって居ます。
十五社神社は後白河法皇の命に依り永暦元(1160)年創建で、現在は鵺塚から北西400m位に都島神社が在りますので『図会』の「滓上江村(かすがえむら)より五六町東」(1町は約109m)は大略妥当です。
一方、江戸初期の地誌『蘆分船』第6巻-「鵺塚」の章(※14)にはもう少し詳しく載って居ます(△4)。
澤上江(かすかえ)といふ所にいたれハ後白河法皇の御母の為に御建立ありける母恩寺といふ尼寺あり。此所より北ひかしの野中に鵺塚といふあり。是近衛院御在位の時仁平の頃ほひ主上よなよな御腦あり。有験の僧侶に仰(おほせ)て大法を修せらるゝといへとも其志るし更になかりしを。則(すなはち)公卿せんぎありて変化のものゝわさなるへしとて源平両家の武士をえらハせ給ふ中にも兵庫守頼政に仰付られ射とめし鵺をうつほ舟にをしいれ淀川になかし給ふとなり。其ぬえ此ところのうき洲に流れとまりて朽ちける所なりとて人ひと鵺塚といへり。
これは明らかに『平家』を下敷に「近衛帝の鵺」である事を正しく明記し、鵺塚の位置を「此所(澤上江の母恩寺)より北ひかしの野中」とし漂着譚を「うき洲に流れとまりて朽ちける」として居ます。『蘆分船』(1675年刊行)の方が鵺の出所に関しては正確で、『図会』(1796~98年刊行)の段階では既に混同が生じて居る事は留意すべきです。しかし口承伝説ではこの様な事は起こり得るのです。
都島区説明板の<伝承その2>がこの記事に依拠している事は明白ですが、しかし『蘆分船』の著者も当時既に都島界隈に伝承されて居た漂着譚を後から拾って載せただけですから、その漂着譚の根拠は依然として不明と言わざるを得ません。
良く考えてみれば、そもそも「想像力の産物」である鵺の遺骸が流れ着く事など有り得ないのです。宇治川の底に石を括られ沈められた頼正の首が流れ着く可能性は僅かに有りますが、実在しない鵺の遺骸が流れ着く可能性は厳密な数学的意味でゼロ(0)なのです。
では何故鵺が流れ着いたという伝承が現に存在するのか?、これが問題の核心です。ズバリと言うと「鵺の都島漂着譚」を”継ぎ足し”して地元に流布した人が居るという事です、例えば弘法大師伝説を広めた高野聖の様な。それには源頼政について、もう少し知る必要が有ります。
(2)伝説が付き纏う源頼光~頼政の不思議な家系
『平家物語』巻4-「鵼」の段の冒頭に
抑(そも)源三位入道頼政と申(まをす)は、摂津守頼光に五代...
と出て来る(△1のp234)如く、源頼政は源頼光の玄孫(※15、※16)です。つまり頼光~頼政は清和源氏(※17)で
清和天皇──貞純親王──経基──満仲(多田源氏の祖)──
─源頼光(摂津源氏の祖)──頼国──頼綱──仲政──頼政
という系図(△5のp267)ですが、この頼光こそ酒呑童子という鬼退治(※18、※19)や土蜘蛛退治(※19-1)で有名で伝説故に「らいこう」と音読みで親しまれて居る御仁です。どうも摂津源氏の系統は鬼やら怪獣やらが住む”異次元の領域”を自由にワープ(warp)出来るみたい(※20)で、”不思議な家系”と言えます。
その源頼光は摂津多田(現兵庫県川西市多田)に拠点を構え武士団を形成した父・満仲(※15-1)の領地を相続し、父同様に藤原摂関家に接近し特に藤原道長に対して莫大な財力を投じて奉仕して居ます。その”財源”が多田の銅鉱・銀鉱に依るものかは不明ですが、武勇の伝説とは裏腹に世の中の”遊泳術”を心得た「強(したた)かな現実主義者」の顔を併せ持つ人物、それが源頼光です。
◆鬼や土蜘蛛は先住民系の”服わぬ者”を指す蔑称
ところで酒呑童子の話は『御伽草子』に、土蜘蛛退治の話は『土蜘蛛草紙』に在りますが、気を付けなければ為らないのは日本の伝説や昔話に出て来る鬼(※19の[2])や土蜘蛛(※19-1)は単なる想像上の妖怪、即ち”お化け”の類では無く実在した先住民系の”服(まつろ)わぬ者”を指す隠語的な蔑称だという点です。事実、寛仁元(1018)年に後一条天皇から源頼光に丹波国大江山の夷賊討伐の勅命が下されて居り、頼光の酒呑童子退治の伝説はこの実話を元に形成されたのです。
稲作農耕文化と先進の武器を携えて大和に侵入し朝廷権力を築いた人々は弥生人系ですが、彼らが渡来する以前から日本列島には縄文人系の先住民族が住んで居ました。彼等は家族単位に狩猟採集に頼る”山の民”や穴居人で中には毛深い人も居り、大和朝廷に”服った者”も居れば抵抗を続けた”服わぬ者”も居り、朝廷側から見れば不気味な異民族でした。生産力と武力で優位に立つ朝廷権力も深層心理的には異民族の”服わぬ者”を恐れて居たのです。鬼や土蜘蛛はそうした倒錯した心理の反映です。
その様な先住民系を指すと思われる言葉として他に長髄彦・国栖(※19-2)・蝦夷(←現在のアイヌ民族を含む、※19-3)・毛人(※19-4)・熊襲(※19-5)・隼人(※19-6)などが在り、神武東征神話や日本武尊の地方部族平定神話は源頼光の武勇伝の祖形であり「先住民族征服の歴史」は執拗に続きます。そういう意味では素戔嗚に退治された八岐大蛇も先住民族の象徴かも知れず、芸能として今に伝わる国栖奏や隼人舞は朝廷への服属儀礼として成立しました。
後から侵入した民族に依る先住民族征服は日本に限った事では無くアメリカインディアンも白人にとって”服わぬ民”でした。
(3)渡辺綱と摂津渡辺氏(渡辺党)
一方、義家や頼光・頼政が源氏本流の清和源氏(※17)であるのに対し渡辺綱(※21)以下の摂津渡辺氏は嵯峨源氏(※22)の出で、以下が系図です(△5のp269)。
嵯峨天皇──融──昇──任──宛(蓑田氏)──
┌─正(松浦氏)──
─渡辺綱(渡辺氏の祖)─久─┴─安──伝┬─満──省──授──
└─昇──競──
ご覧の様に嵯峨源氏は一字名ですが、これは三筆の一人で漢詩が得意の嵯峨天皇(※22-1)が漢風文化に入れ込み、二字が普通の当時に於いて賜姓に際し漢風に一字名を授けた事に始まり、それが代々継承されたからです(△5のp106)。因みに天皇の皇子の源融は『源氏物語』の光源氏のモデルと目されてる人物で源頼政が自害した平等院は融の別荘の跡地です。
さて、渡辺綱と源頼光の関係は綱の養父・源敦の妻の兄が源頼光という血縁で、綱は頼光四天王の筆頭として活躍し上記の「酒呑童子退治」の他「茨木童子退治」(別名「羅生門の鬼退治」)(※18-1、※18-2)などで活躍し、綱も伝説の主に成って居ます。当初源姓であった綱は養父死後に母方の里である摂津西成郡の渡辺(※21-1)に住み渡辺姓を名乗って地盤を固めました。
++++ 渡辺の津(渡辺津)と摂津渡辺党 ++++
渡辺という地名は今の大阪市北区南部と中央区北部辺りを指し、当時は淀川河口(←当時は今の大川が淀川本流)に近かく渡辺の津(渡辺津とも書く)と呼ばれた港(船着場)が在り人や物資が集散する要衝の地でした。この地は高津(=今の大阪城辺りに仁徳の高津宮が在った)に対し窪津とも呼ばれ、中世には京から熊野詣の上陸点(=大坂の起点)として栄え、江戸時代には三十石船の発着港として賑わい旅館が8軒並んで建った事から八軒家(八軒屋とも)(※23)と呼ばれ、現在は京阪天満橋駅南側の「八軒家船着場の跡」の石柱(右の写真)が往時の名残を留めて居ます。又、渡辺橋という橋が北区の四橋筋に在りこれも往時の名残ですが元々の位置は現在地より東の天神橋と天満橋の間(△3のp438)で江戸時代には渡辺橋と大江橋は「一橋二名」で同じ橋の別名(△3のp425)でした。
綱に始まる摂津渡辺氏は港湾管理権と制海権を掌握し摂津源氏の郎党(※6)として代々この地に栄えたので渡辺党(※21-2)と呼ばれます。そんな事情から彼らの一統からは水軍として雄飛し他所の港湾権を握りそこに土着する者も出現し肥前松浦党はその典型です。
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又、これは既に別稿に記した事ですが南北朝の頃(1336~92年)に摂津渡辺党の一部が淀川北の曽根崎に移り住んで曽根崎村を起こし大坂夏の陣で戦禍に遭った現在の露天神社(お初天神)を再建したりして曽根崎の発展に寄与して居ます。
(4)源頼光と渡辺綱に始まる摂津源氏と渡辺党の固い絆
頼光と綱の固い絆を物語るものとして、都島の鵺塚から程近い所 -直線距離で鵺塚の北西約650mで大川に近い- に渡辺綱の「駒繋ぎの楠」(大阪市都島区善源寺町1-11)と呼ばれる史跡が在ります。左下の写真が神社境内に立つ大楠の全貌で赤い幟には「厄除け祈願」とか「商売繁盛」と書かれて居て、何でも彼でも商売繁盛に結び付るのが大阪です。
中央下が「駒繋楠」と刻字された擬宝珠形の標柱石、右下が都島区の説明板(←説明板は「楠」では無く「樟」の字を使う)ですのでお読み下さい。
説明板に拠ると善源寺町という町名は、渡辺綱が四天王として仕えた源頼光の善源寺荘という荘園の跡地だそうです。説明板は続けて
・長徳年間(995~998年)に頼光が源氏の氏神の八幡神を祀る社をここに創建し、この楠はその際に頼光自らが植えたと伝えられて居る事
・「駒繋ぎ」の名称由来は、この荘園の管理を任された渡辺綱がこの社に詣でる時に何時もこの楠に馬を繋いだとされて居る事
・この大楠は昭和初めに大阪府天然記念物第1号(当時樹齢900年余り)に指定された事
・その後、第二次大戦の戦災で現在は枯死状態である事
を記して居ます。
確かに現在は樹齢千年を超す大楠は樹皮が剥け木肌を曝して居ます(左上の写真、そして左の写真)。
左の写真には現在の祠の脇に在る「八幡宮旧蹟」の石碑が見えます。というのは、嘗て頼光が建てた八幡宮は既に無く、右の写真の扁額で判る様に現在はこの大楠を神格化した「楠龍王大神」と近くの櫻宮(通称:桜宮神社)の祭神を勧請した「櫻宮大神」を祀る楠神社だからです。そして現在は櫻宮の御旅所と成り毎年7月21日の櫻宮の夏祭りには山車(だんじり)が巡行して来ます。
(5)源頼政に忠誠を尽くした摂津渡辺党
渡辺党は摂津に領地の無い頼政にも忠誠を尽くして仕え、治承4(1180)年の頼政の反乱には渡辺一族が馳せ参じて居ます。頼政自刃の介錯をし首に重石を括り付けて宇治川の「深き所」に沈めたのは前出の渡辺唱でした。『平家』が一段を割いて活躍を記し -巻4-「競」の段(△1のp208~p213)- 平宗盛(※9-2)に「如何にしても先づ競(きはふ)めを生捕にせよ。鋸(のこぎり)で頸斬(きら)ん。」と言わせしめたのは渡辺競です。反乱に参加した渡辺党は皆討死して居ます。この忠誠は単に頼政が頼光の玄孫であるという系図上の関係以上のものです。
[ちょっと一言] 渡辺党は摂津源氏のみ為らず清和源氏本流とも良好な関係に在り、後の元暦2(1185)年に源氏の義経軍が屋島の平氏残党の追討に向かう際にも義経が摂津渡辺から、範頼が摂津神崎から兵船を出して居ます(△1-1のp280)。
以上の様に鵺塚が在る場所は嘗ての頼光の領地に近く、尚且つ代々渡辺党の本拠地に近いのです。しかも強い忠誠心と固い絆で結ばれた頼政と摂津渡辺党の関係を見ると、渡辺党所縁の者が渡辺党が命を投げ打って仕えた源頼政の武勇を伝える為に「鵺の都島漂着譚」を”継ぎ足し”て語り継いだという推測は充分成り立つのです。それは引いては渡辺党の武勇を伝える事にも成るからです。これが冒頭で予告した「鵺と都島を結び付け2つの伝承を合成させた存在」の解答です。
すると都島に最初の鵺塚が造られたのが何時頃なのか知りたいですね。
(6)「鵺の都島漂着譚」定着時期と鵺塚建立時期を推測
「鵺の都島漂着譚」定着時期は推測する以外に無いのですが、そもそも「頼政の鵺退治伝説」は『平家物語』を琵琶法師が語り歩いた事に依って民衆の間に広まった訳ですから当然『平家』成立(=1245年頃、※2)以後です。要は『平家』成立から何年後に『平家』の鵺退治伝説の”継ぎ足し”である都島漂着譚が地元で生まれ地元に定着したか -ローカルな漂着譚が地元以外から生まれる事は有り得ない- という事です。
私は鵺伝説が人々に知られる様に成ったのが『平家』成立の20~30年後で、その頃に地元の誰か(←渡辺党縁者の可能性が高い)が都島漂着譚を思い付き地元に語り始め、その20~30年後(=『平家』成立から50~60年後)に地元に漂着譚が定着したと考えます。即ち「鵺の都島漂着譚」が地元に定着した時期は1300年頃ではないかと推測します。「都島の鵺」はこうして創り出されたのです。
鵺塚建立は早ければ漂着譚定着と同時期、遅ければ『蘆分船』刊行(1675年)の100年位前(=1550年頃)迄と幅が有ります。但し、遅い場合の建立理由は”鵺の祟り”に結び付く何らかの事件が発端として必要ですが、『蘆分船』が伝える話では事件の形跡は無いので、私は漂着譚定着と同時期~20年後以内(=1300~1320年頃)に地元民が鵺塚を建立したと考えます。それが都島区の鵺塚説明板に記されて在る内容です。
以上が私の推測ですが、如何でしょうか?!
{この章は06年2月27日に追加し、5月4日に更新}
以上で<伝承その1>「源頼政の鵺退治伝説」と<伝承その2>「鵺の都島漂着譚」の根拠(=話の出所)を検証し、「鵺と都島を結び付け2つの伝承を合成させた存在」として摂津渡辺党を挙げ、併せて「鵺の都島漂着譚」定着時期と鵺塚建立時期を推測しました。
このページは鵺に関する逸話や史跡を考察する際の、私なりの理論的根拠を提示しました。特に『平家物語』の「3回の鵺出現」の一覧表は鵺の逸話のインデックスとして手っ取り早く利用出来る筈です。
ところで当ページの写真についてですが、「八軒家船着場の跡」石柱の写真は06年1月26日、「駒繋ぎの楠」の写真は<鵺を追え#1の1>都島・塚と紋章編の写真と同じ06年2月2日に撮影したものです。要するに私は06年1月下旬~2月上旬に掛けて大阪の大川の両岸(北区と都島区)をチャリンコ(=自転車)で気儘に徘徊してた訳ですが、このシリーズにこうして利用する事に成ろうとは全く予想外でした。
最後に、鵺退治で名を成した源頼政は歌で殿上人の席を確保しましたが、私も殿上人(※10-1)で有りんすよ、オッホッホ!!
尚、[鵺を追え]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:源頼政(みなもとのよりまさ)は、平安末期の武将(1104~1180)。摂津源氏の源仲政の長男。白河法皇に擢ん出られ兵庫頭。保元・平治の乱に功を立てた。剃髪して世に源三位入道と称。後に以仁王(もちひとおう)を奉じて平氏追討を図り、事破れて宇治平等院で自殺。歌に秀で、家集「源三位頼政集」が在る。宮中で鵺(ぬえ)を退治した話は有名。
※1-1:二条院讃岐(にじょういんのさぬき)は、平安末期~鎌倉初期の女流歌人。源頼政の女で、二条天皇に仕えた。観照的で落ち着いた歌風。歌は「千載和歌集」以下の勅撰集に入集。家集「二条院讃岐集」。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※2:平家物語(へいけものがたり)は、軍記物語。平家一門の栄華とその没落・滅亡を描き、仏教の因果観・無常観を基調とし、調子の良い和漢混淆文に対話を交えた散文体の一種の叙事詩。平曲として琵琶法師に依って語られ、軍記物語・謡曲・浄瑠璃以下後代文学に多大の影響を及ぼした。原本の成立は承久~仁治(1219~1243)の間とされる。成立過程には諸説在るが、早くから読み本・語り本の系統に分れて異本を派生したと考えられ、前者には6巻本(延慶本)・20巻本(長門本)・48巻本(源平盛衰記)など、後者には12巻本に灌頂巻(かんじょうのまき)を加えた覚一本・流布本などが在る。治承物語。平語。信濃前司行長が作者として有力。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-1:信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)は、鎌倉時代の人。藤原行長。徒然草の記事に拠って平家物語の作者に擬せられる人。中山行隆の子で前下野守、入道して慈円に扶持された。生没年未詳。
※2-2:語り物(かたりもの)とは、声楽の種目流派の内、旋律など音楽としての面白味よりも歌詞の意味内容の伝達を第一義的に重視する傾向の強いもの。歌い物に比べて、歌詞は長編で叙事的・散文的傾向が強く、歌唱のメリスマは少なく、言葉の部分で旋律が規定されない部分が多い。平曲(平家琵琶)・謡曲・浄瑠璃・薩摩琵琶・筑前琵琶・浪花節などがこれに属する。←→謡い物(歌い物)。
※2-3:盛者必衰(じょうしゃひっすい)とは、[仁王経]世は無常であるから、ときめく者も必ず衰える事が有る。平家物語1「娑羅双樹の花の色、―の理(ことわり)をあらはす」。
※3:八幡太郎(はちまんたろう)は、(源頼義の長子で、石清水八幡で元服したから)源義家の通称。
※3-1:源義家(みなもとのよしいえ)は、平安後期の武将(1039~1106)。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇に勝れ、和歌も巧みであった。前9年合戦には父と共に陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍と成り、後三年合戦を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。
※4:鳴弦・鳴絃(めいげん)とは、[1].弓の弦を鳴らすこと。
[2].弓の弦を引き鳴らして妖魔を祓う呪(まじな)い。天皇の入浴・病気、出産、夜中の警護、不吉な場合などに行われた。特に御湯殿の儀式の際のものは盛大。弦打(つるうち)。弓鳴(ゆみならし)。弓弦打(ゆみづるうち)。平家物語4「―する事三度の後、高声に」。
※4-1:呪禁(じゅごん、charm to protect)とは、(ゴンは呉音)呪(まじな)いをして物の怪(もののけ)などを祓うこと。
※5:空舟(うつぼぶね)とは、大木の中を刳り貫いて造った舟。刳舟。うつおぶね、うつろぶね。平家物語4「かの変化のものをば―に入れて流されけるとぞきこえし」。
※6:郎党・郎等(ろうとう、ろうどう)とは、
[1].主として鎌倉・室町時代の武士で、主人と血縁関係の無い従者。主人の血縁者である家子(いえのこ)とは区別し、所領は持たない。平家物語8「家子二人―十人具したり」。
[2].後に家子と混同して武士団一族や家臣の総称として用いられる様に成った。所領を持たない者。従者。郎従。「一族―」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-1:所領(しょりょう)とは、領有する土地。領地。平家物語2「国郡半(なかば)過ぎて一門の―となり」。
※7:御殿(ごてん、palace)は、[1].貴人の住宅の尊敬語。立派な大邸宅。
[2].清涼殿の称。
[3].社殿。やしろ。謡、竹生島「社壇の扉を押し開き、―に入らせ給ひければ」。
※7-1:南殿(なんでん)とは、[1].南面の御殿。太平記35「―の高欄に寄り懸りて」。
[2].紫宸殿。なでん。宇津保物語貴宮「みかどの―に出で給へるに」。
[3].寝殿。
※8:鏑(かぶら)とは、[1].木・竹の根、又は獣の角(つの)で蕪(かぶら)の形に作り、中を空にし、数個の孔を穿って矢の先に付ける物。保元物語「―より上、十五束有りけるを取つてつがひ」。
[2].鏑矢の略。平家物語11「与一―をとつてつがひ」。
※8-1:鏑矢(かぶらや)とは、先に鏑を付けた矢。多く雁股(かりまた)を用いる。空中を飛ぶ時、鏑の孔に風が入って響きを発する。矢合せ(開戦の通告として射出す矢)の時などに用いた。古墳時代中期以降現れる。鏑。鳴鏑。鳴矢。鳴箭(めいせん)。嚆矢(こうし)。今昔物語集16「―を以て射たれば」。
※8-2:狩股・雁股(かりまた)とは、先が叉の形に開き、その内側に刃の有る鏃(やじり)。又、それを付けた矢。太平記12「流鏑にすげたる―を抜て」。
※8-3:蟇目・引目(ひきめ)とは、(ヒビキメ(響目)の約。又、その孔が蟇(ひきがえる)の目に似ているからという)朴(ほお)・桐などで製した大形の鏑(かぶら)。又、それを付けた矢。鏃(やじり)を付けず、犬追物(いぬおうもの)・笠懸(かさがけ)などで射る物に傷を付けない為に用いた。又、穴から風が入って音を発するので、妖魔を降伏(ごうぶく)するとし、産所に用いた。今昔物語集25「お弓と―とを給ひて」。
※9:平清盛(たいらのきよもり)は、平安末期の武将(1118~1181)。忠盛の長子(白河上皇の落胤説も在る)。平相国・浄海入道・入道相国・六波羅殿などとも。桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏に属し、保元・平治の乱後、後白河法皇に結び付き源氏に代って勢力を得、累進して従一位太政大臣。娘徳子を高倉天皇の皇后とし、その子安徳天皇を位に就け、皇室の外戚として勢力を誇った。子弟は皆顕官と成り、一族で30余国を支配。後に法皇と対立。専横な振舞が多く、その勢力を除こうとする企てもしばしば行われ、源氏の挙兵に因って平氏没落の危機に直面する中で病死。没後数年にして平氏の嫡流は滅亡。貴族化したことで没落を早めたが、日宋貿易などにも積極的意欲を示し、地方武士の家人化を図るなど武家政権成立の下地を作る役割を演じた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9-1:安徳天皇(あんとくてんのう)は、平安末期の天皇(1178~1185、在位1180~1185)。高倉天皇の第1皇子。母は建礼門院平徳子(平清盛の娘)。名は言仁(ときひと)。源平の戦に平宗盛に擁せられ、西国に赴く。平家一族と共に神器を持って壇ノ浦に入水。
※9-2:平宗盛(たいらのむねもり)は、平安末期の武将(1147~1185)。清盛の子、重盛の弟。従一位内大臣。平治の乱の功に依り遠江守。源義仲の入京を前にし、一族と共に安徳天皇を奉じて西走、壇ノ浦で捕えられ、のち近江で斬。
※10:昇殿(しょうでん)とは、[1].平安時代以後、清涼殿の南面の殿上の間に昇ることを許されたこと。五位以上の者及び六位の蔵人の中から特別に許され、後世は家格に依って定められた。昇殿を許された人を殿上人・堂上、許されない人を地下(じげ)という。平家物語1「内の―をゆるさる。忠盛三十六にて始めて―す」「院の―」。
[2].許されて神社の拝殿に入ること。「―参拝」。
※10-1:殿上人(てんじょうびと)は、律令制度で宮中での昇殿を許された人。四位・五位以上の一部及び六位の蔵人(くらんど)が許された。堂上(とうしょう)。うえのおのこ(上の男)。うえびと(上人)。←→地下人(じげにん)。
※11:以仁王(もちひとおう)は、後白河天皇の第3皇子(1151~1180)。三条宮。高倉宮。1180年(治承4)源頼政と謀り、諸国の源氏を誘って平氏討伐を企てたが発覚し、園城寺に逃れ、南都への途中、光明山鳥居前で戦死。
※12:令旨(りょうじ、れいし)とは、皇太子、三宮・親王及び王・女院の命令を伝える文書。
※13:名所図会(めいしょずえ)は、各地の名所・古跡・神社・仏閣その他の由来や物産などを記し、風景画を書き添えた通俗地誌。1780年(安永9)秋里籬島(あきさとりとう)編・春朝斎竹原信繁画「都名所図会」6巻に始まり、「江戸名所図会」などが著名。
※13-1:摂津名所図会(せっつめいしょずえ)は、秋里籬島著、竹原信繁他画に依り寛政8~10(1796~98)年に発刊された。
※14:蘆分船・芦分船(あしわけぶね)は、江戸初期の延宝3(1675)年に刊行された大坂の地誌。一無軒道冶が編輯。別名「大坂鑑」「難波名所記」。
※15:源頼光(みなもとのよりみつ)は、平安中期の武将(948~1021)。満仲の長男。摂津などの受領を歴任。驍勇を以て称され、左馬権頭に昇った。弓矢に優れ、頼光四天王 -渡辺綱・坂田公時・碓井貞光・卜部季武の4人の郎党- の話が「今昔物語集」に在る。大江山の酒呑童子征伐の伝説や土蜘蛛退治の伝説は著名。名は「らいこう」とも。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15-1:源満仲(みなもとのみつなか)は、平安中期の武将(912~997)。経基の長子。鎮守府将軍。武略に富み、摂津多田に住して多田氏を称し、家子郎党を養い、清和源氏の基礎を固めた。多田満仲。別読みで「ただのまんじゅう」とも。
※16:玄孫(げんそん/やしゃご/やしわご)とは、孫の孫。曾孫の子。
※17:清和源氏(せいわげんじ)は、清和天皇から出て源氏を賜った氏。天皇の皇子貞固・貞保・貞元・貞純・貞数・貞真の諸親王に賜ったが、貞純親王の子と称する経基や孫の満仲は鎮守府将軍に、その子孫の頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。
※18:酒呑童子・酒天童子・酒顛童子(しゅてんどうじ)は、鬼の姿を真似て財を掠め婦女子を掠奪した盗賊。丹波国大江山や近江国伊吹山に住んだと言われ、大江山のは源頼光が四天王と共に退治したと言う。絵巻・御伽草子・草双紙・浄瑠璃・歌舞伎などの題材と成る。
※18-1:茨木童子・茨城童子(いばらきどうじ)は、御伽草子「酒呑童子」中の鬼の名。酒呑童子の配下。羅生門(一条戻橋とも)で渡辺綱に切り落された片腕を、その叔母に化けて奪い返す。長唄「綱館」などに登場。
※18-2:謡曲「羅生門(らしょうもん)」は、能の一。観世信光作。源頼光の臣渡辺綱が羅生門に棲む鬼神と闘って、その片腕を斬り落す。
※19:鬼(おに)は、(「隠(おに)」で、姿が見えない意という)
[1].demon, devil。天つ神に対して、地上などの悪神。邪神。
[2].demon。伝説上の山男、巨人や異種族の者。
[3].ghost。死者の霊魂。亡霊。「護国の―となる」。
[4].demon, devil。恐ろしい形をして人に祟りをする怪物。物の怪。
[5].ogre。想像上の怪物。仏教の影響で、餓鬼、地獄の青鬼・赤鬼が在り、美男・美女に化け、音楽・双六・詩歌などに優れた者として人間世界に現れる。後に陰陽道の影響で、人身に、牛の角や虎の牙を持ち、裸で虎の皮の褌(ふんどし)を締めた形を取る。怪力で性質は荒い。
[6].鬼の様な人。
[a].非常に勇猛な人。
[b].無慈悲な人。借金取り。債鬼。
[c].demon。或る事に精魂を傾ける人。「仕事の―」。
[d].tagger。鬼ごっこなどで、人を捕まえる役。
[7].貴人の飲食物の毒見役。鬼役。→鬼食い、鬼飲み。
[8].紋所の名。鬼の形を象る。めんおに。かたおに。
[9].名詞に冠して、勇猛・無慈悲・異形・巨大の意を表す語。「―武者」「―婆」「―やんま」。
※19-1:土蜘蛛(つちぐも)とは、(「土雲」「都知久母」とも書く)神話伝説で、大和朝廷に服従しなかったという辺境の民の蔑称。
※19-2:国栖・国樔・国巣(くず)は、[1].古く大和国吉野郡の山奥に在ったと伝える村落。又、その村民。他村落と交通せず、在来の古俗を保持して、奈良・平安時代には宮中の節会に参加、贄(にえ)を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌(ふぞくうた)を奏する事が例と成って居た。→国栖奏(くずのそう)。
[2].(常陸国茨城郡・行方郡<常陸国風土記>の)土着の先住民。
※19-3:蝦夷(えみし・えびす/えぞ)は、[1].古来、北関東から東北・北海道に掛けて住み、大和朝廷に服属しなかった人々に対する蔑称。アイヌ民族を含む。平安初期迄は「えみし・えみす・えびす」などと呼んだが、平安中期以後「えぞ」と読む様に成った。神武紀「―を、一人(ひだり)百(もも)な人、人は言へども、手向ひもせず」。
[2].えぞ。北海道の古称。蝦夷地。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、『Microsoft エンカルタ総合大百科』より>
※19-4:毛人(もうじん)は、(「毛深い人」の意)蝦夷(えみし/えぞ)の古称。性霊集1「―羽人境界(けいかい)に接す」。
※19-5:熊襲(くまそ)とは、記紀伝説に見える九州南部の地名、又そこに居住した種族。肥後の球磨(くま)と大隅の贈於(そお)か。日本武尊の征討伝説で著名。景行紀「―反(そむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず」。
※19-6:隼人(はやと/はやひと)とは、(ハヤトはハヤヒトの約)古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。後に服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏に当たった。はいと。万葉集11「―の名に負ふ夜声いちしろく」。→隼人舞。
※20:ワープ(warp)とは、(「歪(ゆが)み」の意)SFで、空間の歪みを利用して瞬時に目的地に移動すること。
※21:渡辺綱(わたなべのつな)は、平安中期の武人(953~1025)。源頼光の四天王の一。嵯峨源氏から出て、摂津渡辺に住んだ。頼光に従い、洛北の市原野で鬼同丸を、大江山で酒呑童子を殺し、また羅生門の鬼を退治したという伝説が在る。
※21-1:渡辺・渡部(わたなべ)とは、〔地名〕古代・中世、摂津の淀川河口辺の地名。今の大阪市北区南部・中央区北部の辺り。渡し・港・橋(今の天満橋・天神橋の間)が在り、交通の要所。中世武士団の渡辺党の本拠と成り、又、南北朝時代しばしば戦場と成った。国府の渡し。渡辺の渡し。
※21-2:「―党」とは、中世の中小武士の集団。鎌倉後期から南北朝時代に掛けて、中小武士が血縁的、特に地域的に結合したもの。「武蔵七党」。
※22:嵯峨源氏(さがげんじ)は、嵯峨天皇の諸皇子で源氏姓を賜って臣下と成った者の子孫。源融に始まり後世、渡辺・松浦の諸氏が最も著名。
※22-1:嵯峨天皇(さがてんのう)は、平安初期の天皇(786~842、在位809~823)。桓武天皇の皇子。名は神野(かみの)。「弘仁格式」「新撰姓氏録」を編纂せしめ、漢詩文に長じ、「文華秀麗集」「凌雲集」を撰せしめた。書道に堪能で、三筆の一。
※23:八軒家/八軒屋(はちけんや/はっけんや)は、大阪天満橋南詰から天神橋南詰迄の淀川の川岸。元、伏見通いの船の発着場。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『平家物語(上)』(山田孝雄校訂、岩波文庫)。
△1-1:『平家物語(下)』(山田孝雄校訂、岩波文庫)。
△2:『新古今和歌集』(佐佐木信綱校訂、岩波文庫)。
△3:『摂津名所図会 上巻』(秋里籬島著、原田幹校訂、古典籍刊行会)。
△4:『蘆分船 第六巻』(一無軒道冶輯、だるまや<全6巻と附録、影印綴本>)。
△5:『日本史小百科 家系』(豊田武著、東京堂出版)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):二条院讃岐(=源頼政の女)の
『小倉百人一首』92番歌▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
「語り物」の芸能▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
”服わぬ者”:大分の土蜘蛛伝説▼
2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)
弥生人とその後裔▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
”服わぬ者”:神武に抵抗した長髄彦▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
”服わぬ者”:素戔嗚に退治された八岐大蛇▼
2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)
”服わぬ者”:白人に討伐されたアメリカインディアン▼
掲示板のテロ対策(Defend BILLBOARD from terrorism)
仁徳天皇の高津宮について▼
猪甘津の橋と猪飼野今昔(The oldest bridge and Ikaino, Osaka)
熊野詣や熊野街道について▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
淀川の三十石船▼
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
曽根崎や露天神社とも関係深い摂津渡辺党▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
私も殿上人▼
言葉遊びを楽しもう!(Let's enjoy parody and jokes !)