芦屋の鵺塚
[鵺を追え#2-芦屋]
(Nue barrow in Ashiya, Hyogo)

-- 2011.09.02 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.09.28 改訂

 ■はじめに - 小耳に挟んだ「芦屋の鵺塚」

 ★このページは<鵺を追え#1の2>都島・伝承編の続きです。

 私は06年2月2日に大阪都島の鵺塚と大阪港紋章の奇抜なデザインに偶然出会し、早速翌2月3日に紹介記事の初稿をサイトに掲載しました。その時は色々調べあれこれ書きましたが、それから5年経ち何時しか自分でも忘れて居ました。ところが今年(2011年)8月初めに所用で神戸に行った帰りに阪神電車に乗ったら、芦屋駅から乗車して来た乗客が「芦屋の鵺塚」の話をしたのを小耳に挟みました。多分鵺塚を見た帰りだったのでしょう。
 その時に私は鵺の事を思い出しましたが、8月は遠出の旅に出ようと思ってましたので鵺は暫く放って置いたのですが、今年の夏は天候不順で遠出の旅が出来ませんでした。そんな状態の中で盆過ぎに悪天候を恨みつつ5年前の記事「大阪港紋章の「鵺」」及び続編の「都島の鵺と摂津渡辺党」を読み返してみました。「吾乍ら良く書けてるじゃん」などと思ったと同時に、折角ここ迄書いたのなら「芦屋の鵺」を手始めに「鵺の行く末と栖(すみか)の跡」を追跡してみるか、と思い立ちました。しかし私の心は未だ遠出の旅の方に向いて居て蒸し暑い日に芦屋の街中をウロウロする気にも成らず躊躇って居たのですが、結局天候は不順の儘に夏が終わろうとした曇り空の8月31日(水)の暑く無い夕方に芦屋に行って鵺塚を確認して来ました。写真は全て8月31日に撮影したものです。

 ■芦屋の鵺塚

 芦屋の鵺塚の場所は兵庫県芦屋市浜芦屋町5、阪神電車「芦屋駅」で降り芦屋川左岸を海の方に下り国道3号神戸線を越えると黒松林の芦屋公園が在り、その南端に在ります。駅から徒歩で数分です。
 左下が鵺塚説明板で背景の黒松林が芦屋公園です。石で囲まれた丸い土盛り -これが古代豪族の古墳らしい(→後述)- の上に乗ってる石碑の拡大が右下の写真です。
写真1:芦屋の鵺塚と説明板。写真2:塚の上の石碑。
 右上の写真の石碑の文字は縦書きで
                      あ  ぬ
                      
                      や 塚ゑ
                     


と彫って在る様に、即ち「ぬゑ塚 あしやの里」と読めます。
 しかし、来てみて「なあーんだ」と思いましたね。私は芦屋には何度も来てますし、この公園なら前から知ってましたし、ここなら松林の日陰なので暑い日でも差し障り無かったのですが、この場所に鵺塚が在る事を今迄気付かなかったのです!

                (>o<)

写真3:芦屋市教育委員会の説明板。

 右が「ぬえ塚の伝説」と題した説明板ですのでお読み下さい。この説明板は最近の平成17年(2005年)に芦屋市教育委員会が作成したものです。「現在の碑は、後世につくられたもの」と最後に書いて在りますが、確かに上の写真の様に石碑の時代色は薄いですね、100年以内(?)でしょうか。
 ご覧の様に説明板には清涼殿の上に黒雲と共に出没する鵺を矢を番えて狙う源頼政の絵が描かれて居ます。「源頼政の鵺退治伝説」については<鵺を追え#1の2>都島・伝承編を参照して下さい。


 しかし、この説明板はちと問題有りなのです。それを以下に列挙します。 

        <「芦屋の鵺塚説明板」記述の「3つの問題点」>

  <問題点1>は、「源頼政が二条院にまねかれ...」の記述。

  <問題点2>は、芦屋の鵺伝説に関連して江戸時代の『摂陽群談』と『摂津名所図会』(※1、※1-1)を挙げるのみで、より重要な文献が欠落してる事。

  <問題点3>は、「浦人たちは、恐れおののき芦屋川のほとりに葬り、りっぱな墓をつくったという。」という記述に続いて最後に古墳にまつわる伝説の一つと思われる。」と結んでる点。

 これらの問題点については後で纏めて検証することにして、ここでは先に鵺塚周辺の風景を見て行きましょう。
写真4:鵺塚の近くの鵺塚橋。
 左が鵺塚近くの芦屋川に架かる鵺塚橋です。写真の左側が上流で、この橋を渡り切った松林の中に鵺塚が在ります。ご覧の様に右岸側(西側)には平仮名で「ぬえづかばし」と記され、反対側には漢字で「鵺塚橋」と記されて居ます。
 

 そして下の2枚が鵺塚橋からの眺めで何れも中央が芦屋川ですが、左下が山手の六甲山を、右下が阪神高速湾岸線と海を見た光景です。
写真5:鵺塚橋から見た北の六甲山。写真6:鵺塚橋から見た南の阪神高速湾岸線と海。
 ご覧の様に川には葦(あし)が生い茂り、鵺が漂着したであろう海岸が間近に見えます。

写真7:芦屋川のハグロトンボ(♂)。
 左の写真は芦屋川の葦の茂みの中で翅を休めるハグロトンボの♂です。♀の胴は褐色ですが、♂の胴は金属光沢の有る緑色が鮮やかです。
 河川敷に降りると、この時期は他にギンヤンマ/ウスバキトンボ/シオカラトンボ(←これは何処にも居る)も居ます。蝶ではアオスジアゲハ/クロアゲハ/キタテハなどが飛来します。
 この様に私は芦屋川には何度も来ているのです。

 以上が芦屋の鵺塚と周辺の風景です。

 ■説明板の「3つの問題点」への回答

 (1)「鵺の芦屋漂着譚」の話の出所 - 謡曲「鵺」

 「3つの問題点」に踏み込む前に、先ず「鵺の芦屋漂着譚」の話の出所(でどころ)は実は非常に明白なので、これを先ず提示しましょう。「鵺の芦屋漂着譚」の出典は『謡曲「鵺」』(※2)です。これは有名な世阿弥(※2、※2-1)の作の五番目物・二場物(季節:夏四月、所:摂津国芦屋の浜、シテ:鵺、ワキ:旅僧)で、その内容は凡そ以下の様なものです(△1のp222)。因みに、五番目物は別名「鬼畜物」とも言われる曲柄(△1のp17)で鵺も鬼畜の一種と言えます。

        <『謡曲「鵺」』の粗筋>

 旅僧(ワキ)が熊野詣での帰路に都へ上る途次、摂津国芦屋の浜「うつぼ舟」(※3)に乗ってさ迷う鵺の亡霊(前シテ)に出会う。この舟には人が居らず怪しんだ旅僧が「名を名乗れ」と言うと、鵺の亡霊は近衛院を病悩させ源頼政に退治された顛末を語り消える。
 中入り後、僧の読経に引かれ再び現れた鵺(後シテ)は死後「うつぼ舟」に乗せられ淀川から難波の海に流された事を語り、読経の力で冥途の暗い道を照らせと請うて消え去る。

 これを読めば『謡曲「鵺」』は明らかに『平家物語』巻4-「鵼」の段(←「鵼」は「鵺」に同じ)の「源頼政の鵺退治」の逸話(△2のp234~237)を典拠としてる事は明らかで、『平家』が「彼変化の物をば、空船(うつぼぶね)に入れて流されるとぞ聞えし。」と暈した部分を、その「うつぼ舟」に乗せられた後の鵺の顛末を巧みに創作(=”継ぎ足し”して世阿弥特有の「幽玄な物語」(※4)に仕立てた訳です。そして重要な事は世阿弥が「近衛帝の鵺」である事を明記して居る点です。又、季節を夏四月(旧暦では4~6月が夏)に設定してるのも『平家』の「比は卯月十日餘の事なれば」(←卯月は旧暦4月)の記述に基づくものです。
 ところで、私は「鵺の都島漂着譚」が地元に定着した時期を1300年頃、又「都島の鵺塚」建立をそれから20年後以内と推測し、それは世阿弥の『謡曲「鵺」』より100年も前の事ですが世阿弥は都島の話を知らなかったと想像出来ます。何故なら鵺漂着譚は非常にローカルな話ですので地元以外の人は知る由も無い訳で、それは「鵺の芦屋漂着譚」も同様なのです。

 (2)各問題点の検証

 以上の事を踏まえて私が指摘した「3つの問題点」を検証して行きます。
 先ず<問題点1>は、芦屋の鵺は「近衛帝の鵺」の筈なのに説明板では「二条帝の鵺」としてるからです。不可解と思ったので私は『摂津名所図会』を繙きました。以下が『図会』巻7-「菟原郡(うばらこおり)」-「鵺塚」の項に記された記述の全文です(△3のp236)。

      <『摂津名所図会』巻7-「菟原郡」-「鵺塚」の項>

 鵺塚 葦屋川住吉川の間に在り。今さだかならず。むかし源三位頼政、蟇目にて射落としたる化鳥(けちょう)、舟兪(うつぼぶね)に乗せて西海に流す。此浦に流れよりて止るを、浦人こゝに埋(うづ)むといふ。又東成郡滓上江村(かすがえむら)の東田圃の中にも、鵺塚と称するあり。何れも分明ならず。按ずるに又鵺の事も一勘あり。別記に書す。

 <問題点1>の疑問はこれで氷解しました。源頼政が蟇目(=鏑矢)で射落とした化鳥(けちょう)は『平家』に拠れば確かに「二条帝の鵺」です。因みに、上の記述中で「東成郡滓上江村の鵺塚」とは大阪都島の鵺塚の事ですが、『図会』著者の秋里籬島が都島の鵺に於いても「二条帝の鵺」を連想してた事は既に指摘した通りですので、秋里籬島の勘違いの可能性が有ります。一方、『謡曲「鵺」』から「鵺の芦屋漂着譚」が広まる過程で「近衛帝の鵺」と「二条帝の鵺」の混同が生じた可能性は口承伝説の伝播過程では大いに有り得る事で、秋里が芦屋で採録した時に「二条帝の鵺」に変じて居たのかも知れません。
 何れにしても芦屋市教育委員会が『謡曲「鵺」』を踏まえずに単純に『図会』の記述のみを信じて説明板を作成したと考えれば安直な態度を度外視すれば理解出来ますので、<問題点1>は一件落着です。
 ところが『図会』は<新たな問題>を提起しました。『図会』当時(=1800年頃)は鵺塚の場所は「芦屋川と住吉川の間」として居るものの「今さだかならず」の状態でした。それを「さだか」として現在地に鵺塚を造った根拠が不明なのです!

 <問題点2>に進みましょう。1400年代初頭の『謡曲「鵺」』に発した「鵺の芦屋漂着譚」が地元に定着して行った経緯は極めて自然で、その話を江戸時代の『群談』や『名所図会』の著者が拾い上げて記載したのも自然です。しかし乍ら説明板は『謡曲「鵺」』について一言も触れて無い為に、「鵺の芦屋漂着譚」の話の出所を『群談』『図会』と誤解させる可能性が高いので問題なのです。事実、<問題点1>の検証で触れた様に芦屋市教育委員会も話の出所を誤解してるみたいです。

 最後に<問題点3>が何故問題か?、について述べましょう。この表現だと古墳時代から鵺伝説が存在したかの様な誤解を与えるから問題なのです。当シリーズの第1作<鵺を追え#1の1>都島・塚と紋章編に於いて既に検証した様に、元々はトラツグミの古名であった鵺に伝説や怪獣のイメージが付加されたのは平安後期以後で、それ以前には鵺は単にトラツグミだったのです。
 但し、『謡曲「鵺」』から「鵺の芦屋漂着譚」が広まった以後に人々が昔の土豪の古墳を鵺の墓と思い込み、何時しか2つが重なって行ったという事は充分に有り得る事で、これは<問題点1>の検証の中で指摘した現在地に鵺塚を定めた根拠補完材料に成ります。

 以上で「芦屋の鵺塚説明板」の問題点の「問題たる所以」を検証し説明不足を補完しました。同説明板は総じて歴史的掘り下げが甘く誤解を招き易いと言わざるを得ません。これではボランティアで遣ってるロータリークラブ(※5)の説明板の方が確りしてます。私の記憶から一例を挙げると大阪市生野区の説明板(作者:猪飼野保存会)がきちんと調べ上げたもので良かったですね。
    {この章は2011年9月28日に更新}

 ■結び - 暗き行燈で鵺の亡霊を照らしたい

 前述した様に、私は芦屋は何度も訪れて居ますし芦屋川は何度も歩いて居ます。にも拘わらず、鵺塚に全く気付かなかったとは「灯台下暗し」と言うべきか「行燈昼暗し」と言うべきか!!
 こう成ったら『謡曲「鵺」』の様に私も夜この地に来て「鵺の亡霊」なんぞに出会ってみたいですな。昼暗い行燈でも夜は効力が有るでしょうから、「鵺の亡霊」を薄暗き灯明でボーッと鈍く浮かび上がらせるのも一つの趣向です。しかし私は今迄は幽霊とかUFOの類に全く無縁な人間なので、果たしてどうでしょうか?!
                (-_*)

 さて、こうして私は鵺を追う破目に成りましたが、色々調べてみると鵺の伝説も各所に散在して居ます。その内の幾つかは明らかに『平家物語』巻4-「鵼」の段の最後の「[頼政は]其後伊豆国賜はり、子息仲綱受領になし、我身三位して、丹波の五個荘若狭のとう宮河を知行して...」の文(△2のp237)に肖(あやか)ったもので、その内容が採るに足るものかどうか吟味が必要です。
 その肖りよりも私は浜名湖西岸の三ヶ日地方の「鵺代(ぬえしろ)」という地名が天竜浜名湖鉄道の旅以来どうも気になって居るのですが...、一度調べてみる必要が有りそうです。そして本命は鵺の栖「東三条(とうさんじょう)の森」を中心とする京都ですね。次はこの「気になる事象」に肉迫したいと思って居ます。

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φ-- つづく --ψ

【脚注】
※1:名所図会(めいしょずえ)は、各地の名所・古跡・神社・仏閣その他の由来や物産などを記し、風景画を書き添えた通俗地誌。1780年(安永9)秋里籬島(あきさとりとう)編・春朝斎竹原信繁画「都名所図会」6巻に始まり、「江戸名所図会」などが著名。
※1-1:摂津名所図会(せっつめいしょずえ)は、秋里籬島著、竹原信繁他画に依り寛政8~10(1796~98)年に発刊された。

※2:謡曲(ようきょく)は、能楽の詞章(=謡曲・浄瑠璃などの文章)。又、その詞章を謡(うた)うこと。能の謡(うたい)
※2-1:世阿弥(ぜあみ)は、室町初期の能役者・能作者(1363?~1443?)。大和猿楽結崎座(後の観世座)2代目の大夫。幼名、藤若。通称、三郎。名は元清。父観阿弥の通称観世の名でも呼ばれ、法名は世阿弥陀仏(世阿弥・世阿)。晩年、至翁・善芳。足利義満の庇護を受け、次いで鑑賞眼の高い足利義持の意に適う様に、能を優雅なものに洗練すると共に、これに芸術論の基礎を与えた。十六部集に含まれる「風姿花伝」「花鏡」他多くの著作を残し、夢幻能形式を完成させ、「老松」「高砂」「清経」「敦盛」「実盛」「井筒」「檜垣」「砧(きぬた)」「融(とおる)」「葵上」など多くの能を作り、詩劇を創造した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-2:阿弥(あみ)/阿弥陀号(あみだごう)は、中世以降、浄土系の僧・仏工・画工・能役者などの名の下に「阿弥陀仏」「阿弥」「阿」などと付けたもの。妙本阿弥陀仏・本阿弥・世阿の類。阿号。

※3:うつぼぶね。大木の中を刳り貫いて造った舟。刳舟。うつおぶね、うつろぶね。平家物語4「かの変化のものをば―に入れて流されけるとぞきこえし」。

※4:幽玄(ゆうげん、subtle and profound)とは、(本来は中国古典や仏教の用語。平安時代の「もののあはれ」の理念を継承し、中世文芸の中心理念に発展)
 [1].奥深く微妙な様子。神秘的な様子。又、上品で味わいの深いこと。古今和歌集序「或は事神異に関(あずか)り、或は興―に入る」。
 [2].[a].日本文学論・歌論の理念の一。優艶を基調として、言外に深い情趣・余情有ること。その表現を通して見られる気分・情調的内容。中宮亮重家朝臣家歌合「左、風体は―」。
   [b].能楽論で、強さ・硬さなどに対して、優雅で柔和典麗な美しさ。美女・美少年などに自然に備わっている幽玄も、卑賤な人物や鬼などを演じてさえ備わる高い幽玄も在る。風姿花伝「童形なれば、何としたるも―なり」。花鏡「ただ美しく柔和なる体、―の本体なり」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※5:ロータリークラブ(Rotary Club)は、(各成員が輪番に会場を受け持った事からの名)社会奉仕を行動の指針とする国際的社交団体。会員は1業種1人を原則とする。1905年米国シカゴで創設され、12年国際組織と成る。日本では1920年に東京で設立された。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『能・狂言図典』(小林保治・森田拾史郎編、小学館)。

△2:『平家物語(上)』(山田孝雄校訂、岩波文庫)。

△3:『摂津名所図会 下巻』(秋里籬島著、原田幹校訂、古典籍刊行会)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦の各月と季節▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
過去の芦屋の記事▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
説明板の好例:猪飼野保存会の説明板▼
猪甘津の橋と猪飼野今昔(The oldest bridge and Ikaino, Osaka)


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         |2:芦屋(Ashiya)|3:三ヶ日(Mikkabi)

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