−− 2003.06.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.09.24 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★−−−暫くお待ち下さい(Wait a minute)−−−★ |
★このページは<#1>名橋編の続きです。
掲示板のハイジャッカーことリチャード・プー氏と、ヒョンな事から「橋」論議に成りその成果として上記の<#1>名橋編のページが出来上がりました。そしてプー氏絶賛の安治川トンネルの「市営エレベーター」及び河底トンネルも”視察”して記事にしましたが、その際この様にトンネル化や橋化されて無く、昔の儘の「渡し舟」を運航して居る「渡し場」が未だ大阪市には8ヶ所も在ることを知り、私は早速これらの渡し場(=渡船場)を全走破することを思い立ち、03年6月の5、6日の2日間で遂にそれを遣り遂げ、ここに渡船場の記事を掲載する運びと成りました。
これは「浪速の閑人」を自認する私が、”時間は掛けるがカネは掛けない”という独自の取材方針に基づいてご紹介する渾身のレポートです。いやあ、こう成ったらもう意地でっせ!!
当ページに至る関連ページや渡船場のマップは▼下▼からご覧下さい。
→ 発端編・プー氏との「橋」論議の応酬を見る(Look the beginning talks)
→ 名橋編・「浪速八百八橋」を見る(Look the excellent bridges part)
→ 大阪市渡船場の地図を見る(Open the map)
では先ずその8ヶ所の渡船場を、私が巡った順番に一覧表に纏めて置きましょう。この一覧は同時にリンク付き目次に成って居ますので、渡船場の名前をクリックするとジャンプします。
[1].千歳渡船場 :大正内港 大正区北恩加島2←→大正区鶴町4(管理=市建設局)
約330m(86人乗り) ↑小屋在り
[2].船町渡船場 :木津川運河 大正区鶴町1←→大正区船町1(管理=市建設局)
約65m(48人乗り) ↑小屋在り
[3].木津川渡船場:木津川 大正区船町1←→住之江区平林北1(管理=市港湾局)
約285m(48人乗り) ↑小屋在り
[4].落合上渡船場:木津川 大正区千島1←→西成区北津守4(管理=市建設局)
約95m(48人乗り) ↑小屋在り
[5].落合下渡船場:木津川 大正区平尾1←→西成区津守2(管理=市建設局)
約125m(48人乗り) ↑小屋在り
[6].千本松渡船場:木津川 大正区南恩加島1←→西成区南津守2(管理=市建設局)
約180m(48人乗り) ↑小屋在り
[7].甚兵衛渡船場:尻無川 大正区泉尾7←→港区福崎1(管理=市建設局)
約80m(48人乗り) ↑小屋在り
[8].天保山渡船場:安治川 港区築港3←→此花区桜島3(管理=市建設局)
約380m(86人乗り) ↑小屋在り
これらは全て大阪市の管理(木津川渡船場のみ港湾局、他は建設局)、即ち市営です。乗船出来るのは人と自転車のみ(原付や単車は不可)、運賃は無料、渡船の搭載人数は何処も48人乗り位で、休日も休まず運航(1月1日のみ運休)して居ます。
しかし幾ら「何ぼ乗ってもタダ」とは言え、各種の高速交通機関や飛行機が全盛の”今時”の「渡し舟」とはイカにもタコにも時代錯誤と思われる方が多いと思いますが、まあ兎に角、以下をお読み下さい。そしてもし時代錯誤の中に「時間を掛ける事の豊かさ」を見出したなら貴方(貴女)もご自身で「知られざる大阪」を大いに探検してみて下さい、屹度「新たな発見」が在る筈です!!
さあ、愈々(いよいよ)渡船場巡りです、私が巡った順番に各渡船場の風景をたっぷりとご紹介しましょう。人と自転車のみ乗船可ですので、私はチャリンコ(※1)で走破しました。これ全くおカネが掛からないので冒頭に述べた私の取材方針にピッタリ!、アッハッハ!!
(0)千島公園の昭和山
先ずは6月5日(木)。大阪市の8ヶ所の渡船場は上の一覧表に記した様に大正区に集中して居て、大正区以外は天保山渡船場だけです。そんな訳で私は大正区の千島公園を渡船場巡りの拠点及び休憩所に定め、この公園内に在る昭和山から大正区を鳥瞰することにしました(→大正区については最後に再び言及)。
千島公園は大正区を南北に縦断するメインストリート・大正通に面し、区役所や市民ホールや千島体育館などが在り大正区のヘソ(=中心)的存在で、可なり広い(約11ha)公園です。
昭和山は大阪市の地下鉄工事で掘り出した土砂を貯木池跡に盛り上げた人工の山で、昭和45年(1970年、即ち大阪万博の年)の11月に「昭和山」と命名され、公園にはソテツやツツジが植えられて居ます。昭和山は標高35mですが、ここからの眺めは中々素晴らしいです。
写真左が昭和山山頂に立つ木の標識で「昭和山山頂 標高三十五米」と書いて在るのが読めると思います。
その右の写真は山頂から北西方向の眺めで、新千歳橋のアーチが見えます。手前に写って居るのがこれから渡船場巡りをする愛車フェラーリ号です、何のことは無い普通のママチャリ(※1)ですよ、アッハッハ。
(1)千歳渡船場
千島公園から西にマリンテニスパークを目標に進み、そこを通過して新千歳橋脇の鋼材会社の倉庫の中をどんどん突端迄進むと、北恩加島2丁目、右の写真の様な千歳渡船場の管理小屋に出ます。千島公園からチャリで約20分です。小屋の左側の両側に「千歳渡船場」と書かれた門柱(?)の間の通路を入って行くと渡船場に出ます。
が、ンー?、左下の拡大写真をご覧下さい。右側の門柱の上には、何とルパン3世とウルトラマンが我々訪問者を歓迎して居ます、やあ、中々遣りますねえ。ルパン3世が
”Welcome to CHITOSE”
と言ってるのが読めますか?
右が時刻表です。
そして右が渡船場の風景です、少し潮の香りがします。停泊して居るのがこれから乗る渡し舟で、大阪市の市章である澪標(みおつくし)のマーク(※2、後で詳述)が見えて居ます。又、渡し舟の向こうには赤い港大橋とブルーのなみはや大橋が見えて居ます。
下は向こう側の鶴町4丁目へ渡たり着いてから撮った渡船場の風景。今年(2003年)開通し立ての新千歳橋の独特のフォルムの青色が実に鮮やかです。ここは渡る距離が長く約3分位ですかね時間にすると、充分乗り甲斐が有りますよ。
(2)船町渡船場
鶴町4丁目から南へ鶴町南公園を目標にチャリで移動、公園を過ぎ左折し約15分で鶴町1丁目の船町渡船場に着きます。左下が渡船場の管理小屋です。小屋の左の道を行くと右下の渡船場に出ます。渡し舟には澪標マークが見えて居ます。
右が鶴町側の時刻表です。ここは川幅、即ち乗船距離が短く呆気無く終わって仕舞います。渡ると船町1丁目です。
(3)木津川渡船場
船町1丁目から右手に日立造船の工場を見て南下、西舟町のバス停を左折して真っ直ぐ東に進みます。この道は工場群に乗り入れる大型の車が真っ黒い排気ガスをドバーッと振り撒き地響きをブリブリ立て乍らガンガン走っていて圧倒されます(※3)。右手には中山製鋼所が在り大きな木津川新橋手前の道を右折して入って行くと木津川渡船場に出ます。船町渡船場からチャリで約15分。
しかし私は暫く真っ直ぐ進んで行くことにしました。すると木津川新橋の下辺りに「木津川飛行場跡」という石碑が立って居ました(右の写真)。
石碑の隣の説明板に拠ると、我が国では1922(大正11)年頃から空の定期便が飛ぶ様に成り、大阪府ではこの木津川河口や堺の大和川河口に水上飛行場を建設しました。その後ここに陸上飛行場が計画され、1927(昭和2)年に着工し1929(昭和4)年には未完成乍ら大阪飛行場として開港し、東京や福岡に1[便/日]が就航しました。しかし地盤の悪さ(元々が軟弱な地盤)と市街地から交通の便の悪さの為、現・八尾空港(当時・離着陸訓練飛行場、1934年完成)や伊丹の現・大阪国際空港(当時・大阪第二飛行場、1939年完成)に役割を引き継ぎ、1939(昭和14)年に閉鎖されました。
成る程、そういう黎明期の日本の飛行場や飛行機にも興味が有りますが、ここは先に進みましょう。
更に進むと左手に中山製鋼所の錆びで赤茶けたパイプが道路に剥き出して居る所に出くわします(下の写真)。
こ、これは壮観です、圧倒的です、今にも爆発しそうです(中山製鋼所さん、済いまへん)、ス・ゴ・イ、ワオーッ!!
この光景にリチャード・プー氏は間違い無く感動するでしょう。
さて「男臭さと労働者の匂い」を充分堪能した後は先程の渡船場入口に引き返し、木津川渡船場に向かいます。
そして右が大正区船町1丁目の木津川渡船場の風景(渡し舟には澪標マーク)です。ここを渡ると住之江区平林北1丁目です。
ここも乗船距離が長くて乗り甲斐が有ります、約3分です。
右が大正区船町側の時刻表。ご覧の様に「港湾局」と書いて在りますが、この木津川渡船場だけが港湾局の管理で、他は全て建設局の管理なのです(前出の一覧表を参照)。
左が住之江区に渡って大正区側を振り返った風景です。
新木津川大橋が見事ですね。写真では判り難いのですがこのアーチは本当にデカイですよ、先程の千歳渡船場の渡し舟の上からも見えていたのですから。
実はこの橋、向こう側に螺旋状に上る道が在るのですが、ここに歩道が付いていて徒歩やチャリで渡れるんですね。
1日目はこれで引き上げました。
(4)落合上渡船場
以下は2日目の走破記録です。
6月6日(金)、チャリンコで昨日通った大正通りを行き先ず千島公園へ向かいます。そして千島公園から東に廻り込み三軒家川沿いの工場や倉庫群を南に進みます。千島公園からチャリで約15分で右の写真の落合上渡船場の管理小屋に出ます。注意深く行かないと行き過ぎて仕舞います。ここは大正区千島1丁目です。
下が渡し舟の上から木津川上流を撮ったもの。木津川水門が見えて居ます。渡ると西成区北津守4丁目です。ここも呆気無く渡り切って仕舞います。
左が渡って西成区側で撮った時刻表ですが、大正区側の時刻が載って居ます。
左下が西成区側から今乗って来た渡し舟です。やはり澪標マークが見えてますね。
右下が西成区側の渡船場を出た所に成っていた枇杷(びわ)の木で、枇杷の実が丁度好く熟れて居たので、採って食べたら旨かった、アッハッハ!
(5)落合下渡船場
今度は西成区を南に走り、約10分で左下の落合下渡船場に出ました(左下の写真)。ここも気を付けて行かないと行き過ぎて仕舞います、ここは西成区津守2丁目です。ところで、ここからは右下の写真の様に大阪ドームが見えます(←ドームの右には落合上渡船場から間近に見えた木津川水門が写って居ます)。ドームへの距離は先程の落合上渡船場の方が近いのですが、ビルの陰に隠れてチラッとしか見えません。
右が時刻表。西成区側で撮ったものですが、やはり大正区側の時刻が載って居ます。ここを渡ると大正区平尾1丁目です。
そして船を待って居たら向かい側の渡船場に学校帰りの小学生が沢山乗って来ます。下の写真は全員が一度に乗り切れず、先発グループがワイワイ言い乍らこちらに渡って降りて来た所です。柱の陰から舟の澪標マークが半分見えて居ます。
私はこの船に乗って渡って行きましたが、向こう側の渡船場には小学生が溢れて居ました。好いですねえ、こういう「渡し舟」で通学するのは。
(6)千本松渡船場
再び大正区に入りました。平尾1丁目から南に千本松大橋を目標に約10分走ると千本松渡船場に出ます。
渡船場に入る所は右の写真の様に、金屑の捨て場に成って居ます。如何にも”場末”という感じです。ここは大正区南恩加島1丁目です。
下が時刻表です。
右が渡船場の風景です。船が渡る上には千本松大橋が通って居ます。向こう側は西成区南津守2丁目です。渡し舟の澪標マークが見えてます。
向こう側の千本松大橋に螺旋状の道路が付いてるのが見えますが、あれと同じものがこちら側にも付いていて、しかも歩道付きです。つまりこの大きな橋はチャリで渡れるのです。
私は渡し舟で向こうに渡った後、向こう側に見える螺旋道路を登って千本松大橋を渡ってこちら側に戻って来ました。
左の写真は、上の写真の向こう側の螺旋道路を登った地点から西側、即ち大阪港側を映したものです。橋梁の一部が写って居ますが、この写真はチャリで走り乍ら”山勘”で下の螺旋道路と川を撮ったもので、ご覧の様に予期した以上に上手く撮れ満足です。
しかしチャリから降りて改めて下を見ると足が竦(すく)みますねえ、エッヘッヘ!
(7)甚兵衛渡船場
この後甚兵衛渡船場に行く為に西に進んで大正通りに出て、すっかり御馴染みに成った千島公園に行き、再び昭和山に登りました。右の写真が昭和山から南の眺めです、正面に新木津川大橋のアーチが見えて居ます。
千島公園から泉尾浜公園を目標に西に進みます。やがて佐川急便の建物が見えて来たらその右側に廻り込んで行けば甚兵衛渡船場に出ます。
左の写真が渡船場への入口で「甚兵衛渡船場」と縦書きされてるのが小さく見えると思います。千島公園からチャリで約15分、ここは大正区泉尾7丁目です。
左下は渡し舟に乗り込む乗客たちです。背後にJR環状線弁天町駅(港区)の高僧ビルが見えて居ます。勿論私もこの後直ぐに乗り込みました。
右下は動き出した渡し舟の船内風景です。上流方向を撮ったもので、高校生のバックのブルーのアーチは尻無川水門です(←左下の写真の右端にも少し写って居ます)。ここを渡ると港区福崎1丁目です。ここも呆気無く渡り終わって仕舞います。
ところで尻無川という名前はこの辺りで終わりです。ここから上流は岩崎運河を経て道頓堀川に成ります。そこで「尻無川っちゅう川の尻は何処へ行ったんかいな?」という笑い話が生まれました。何処へ行ったか行方を”尻たい”、いや知りたい方はココをクリック!
左が渡り終えて港区側で撮った時刻表ですが、ここも大正区側の時刻が書いて在ります。
甚兵衛渡船場から5分位北に行くとJR貨物線(=臨港線)の単線レールが在りました(左の写真)。ここは港区福崎1丁目、如何にも”場末”感が有りますね。
(8)天保山渡船場
港区福崎1丁目の甚兵衛渡船場から天保山に行く為には、真っ直ぐ北へ向かい、みなと通りに出たら左折、後はみなと通りを真っ直ぐ行き天保山運河に架かる千舟橋を渡って北に行けば天保山公園に出ます。天保山渡船場は公園の北側に在ります。甚兵衛渡船場から天保山渡船場迄はチャリで約30分です。
右の写真は千舟橋から天保山大橋を望んだものです。大きな橋です、天保山大橋は。
私はちょっと寄り道して千舟橋を渡った所で北に向かわず南に行ってみましたよ。
海岸通を南に行き突き当たった所は住友倉庫の赤レンガの倉庫群(左上の写真)でその向こうに赤い鉄骨を組み合わせた港大橋(右上の写真)が見えて居ます。
引き返す途中で築港南公園に行ったら住吉神社が在りました(右の写真)。住吉さんは航海安全の神力が有ります。
寄り道から引き返し、みなと通を越えて北に行けば天保山公園です。天保山の名前の謂れは、天保年間に造成されたからで、1831(天保2)年、安治川(※4)の水深を確保する為に河底をさらった土砂を盛り上げ、その上に高灯籠を置いて入船の指標にしたので当初は目印山と呼ばれて居ました。因みに天保山は標高4.53mで日本一低い山だそうです。いやあ、何にしても日本一はスゴイことです!
ここは大阪港の海が近いので潮の香りがし開放的な印象がします。四国徳島方面への高速船の発着所も在ります。渡船場に行く前に又もや寄り道をして天保山公園を散歩し、幾つか風景写真を載せましょう。
左下が「大阪市青年聯合團建之碑」で、台座部には「明治元年三月 明治天皇大阪ニ行幸アラセラレ天保山ニ上リテ親シク軍艦ノ操練ヲ閲シ給フ...」と刻まれて居ます。真ん中が天保山の名物の大観覧車、右下が高速船の発着所から見た大阪港を疾駆する府警の船です。
下は安治川に入って行く船と天保山大橋です。この辺りは川幅が広く下の写真の様に可なり大型の船が行き来します。
ここは外海に近いので左の写真の様に高いマストの観光用帆船も通過します、中々カッコイイですね。後で調べたらサンタ・マリア号です。
そして向こう岸から波飛沫とエンジン音を立てて向かって来るのが天保山渡船場の渡し舟(右の写真)です。観光用帆船を見た後では大分見劣りしますが、ちゃんと澪標のマークが見えて居ます。
右が天保山渡船場の管理小屋です。天保山大橋の真下に在りますが、何故か公園からは判り難く成って居ます。ここは港区築港3丁目です。
右上の写真の渡し舟が船着場に着いて下船した乗客が管理小屋から出て来る所です。
左が港区側の時刻表です。向こうに渡れば此花区桜島3丁目です。周辺の写真などを撮り少し時間を潰して、左の時刻表の18時発の船で桜島に渡りチャリで帰宅しました。
ここは乗船距離が長く(時関は約3分)、周りの景色も開放的で全渡船場の中で一番景色が良いですね。この渡し舟は納涼に好いですよ、でも浪が有る日は少し揺れまっせ!
以上が6月5日(木)、6日(金)の2日間に亘った大阪市渡船場巡りの旅でした。
{この節は03年6月13日に加筆修正}
今回何処も初めてだったので2日に分けて巡りましたが、道を知って居ればチャリンコで1日で充分です。歩いて巡るのでしたら2日に分けた方が良いですね。市街地図をコピーして持って行ったので凡その道は判るのですが、渡船場への入口は引っ込んで居て、気を付けて進まないと通り過ぎて仕舞います。”今時”の「渡し舟」を全て乗って全渡船場を走破した感想を以下に纏めて置きます。
○全部走破してみて解ったことは、1つの川を挟む渡船場のどちらか片側には必ず管理小屋が在って、職員はそこで連絡や事務をし乍ら時間が来た時だけ往復運航して戻ります。
○「浪速八百八橋」では源兵衛渡のエレベーターの職員は態度が悪いと書きましたが、渡し舟の職員は何処も親切で皆明るい表情をして居て、とても好感が持てました。同じ市の職員なのに雲泥の差ですので、これは特筆して置きましょう。
○やはり渡航距離の長い所が”乗り甲斐”が有りますね。
○印象的な光景は木津川渡船場近くの製鋼所の赤錆びた光景、千本松大橋の上から眺めた光景でした、中々普段見れない光景です。でも一番感動したのは落合下渡船場の小学生たちですね。
○そして何よりも川を縦に運航する運搬船と、川を横断する渡し舟とが共存して居る姿は、現代の我勝ちな効率主義とは違う譲り合い認め合う心の賜で、温もりと郷愁を感じさせます。
今時「渡し舟」を8ヶ所も運航して居る(しかも無料で)自治体は珍しく、大阪市もパンフレットを刊行したりして少し広報に力を入れて居る様ですが、果たして知られざる観光スポットに成り得るでしょうか?
左の図が「水の都」の大阪市の市章「澪標(みおつくし)」で船に関係の深いマークです。これは【脚注】※2に在る様に、元々は「通行する船が通れる一定以上深い水脈=澪(みお)を知らせる為に立てた杭」のことで、古代の大阪は上町台地の裾迄干潟を成す入江で難波江とか難波潟と呼ばれ、そこには難波津・難波の津を始め幾つかの船着場が在りました。干潟には葦が生い茂って見通しが利かず、舟を導く目印が必要だったのです。それが澪標です。従って澪標は浪速八百八橋と言われる「水の都」大阪の象徴なので市章に採用されました。因みに大阪市市章の制定は明治27(1894)年4月です(△1のp22)。
ところで澪標は音通から「身を尽くし」に掛けて古くから『万葉集』(巻12−3162や巻14−3429、△2)や『古今集』(巻12−567、△3)などに詠まれて居ます。特に難波の澪標を詠んだ歌は『小倉百人一首』に2首(20番歌と88番歌)在りますので参照して下さい。
又、澪標は『源氏物語』の帖名にも成り、住吉大社の大祓に舟で詣でた帰路、難波の堀江(※5)で明石上の舟と行き会った源氏は明石上と次の様な歌を交わします(△4のp125)。
みをつくし 戀ふるしるしに こゝまでも
めぐり逢ひける 縁(えに)はふかしな 光源氏
數ならで 難波の事も かひなきになど
みをつくし 思ひそめけむ 明石上
光源氏の豪華船には到底及ぶべくも有りませんが、今回私は澪標マーク入りの渡し舟を全て乗船して来ました。時代遅れの感じのする渡し舟の乗り場は、何れも工場や倉庫群や瓦礫の廃棄場の様な、場末の機械音が唸る油臭い埃っぽい所に在ります。渡し舟が渡る川はどれも汚い川です。
高層ビルや洒落たプロムナードを都市の表の顔(=化粧顔)とすれば、渡船場は都市の裏の顔(=素顔、すっぴん顔)で、地元の人やその近辺の工場に勤めて居る人以外は誰にも知られて居ないでしょう。しかし渡し舟は裏街で一定の機能を果たし親しまれ乍ら、毎日逞しく運航して居ます。この様に「渡船場から都市を見る」という視点は都市の姿の表裏の実態を裏側から見るもので、「新たな発見」に満ち満ちて居ました。更には出発前に述べた様に8ヶ所の渡船場の内7ヶ所が大正区と他区、或いは大正区内を結んでるので、渡船場を巡った後で改めて地図を見ると大正区は木津川と尻無川で他区と分離された”島”の様な区である事が解りました。これも私には「新たな発見」でした。やあ、これこそ「日本再発見の旅」の真骨頂です。そして私はあの渡し舟で通学する小学生たちに「共存とか共生」への希望を託したいと思って居ます。
そして最後に渡船場の職員の皆さん、道を聞いた時に親切に教えて呉れた工場の兄ちゃんや近所のオバちゃん、擦れ違った皆さん、あ・り・が・と・う!
m(_=_)m \(^O^)/
その後、03年9月24日に日本の橋の起源についての記事<#3>起源編を掲載しました。当ページの続編と成りますので是非お読み下さい。
尚、[浪速の橋と渡船場]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
{この章は03年6月13日に加筆修正、「起源編」の紹介記事は03年9月24日に追加}
【脚注】
※1:大阪では自転車のことをチャリンコ(略してチャリ)と言います、多分チャリンチャリンと鳴らすからでしょう。お母さんが買い物に使う様な自転車のことをママチャリと言います。
広辞苑を引くとチャリンコは
[1].子供の掏摸(すり)を言う隠語。
[2].自転車を言う俗語。
と在りました。
※2:澪標(みおつくし)は、[1].「水脈(みお)つ串」の意。通行する船に通り易い深い水脈を知らせる為に立てた杭。歌で多く「身を尽し」に掛けて使われる。みおぎ。みおぐい。みおじるし。
[2].源氏物語の巻名。源氏28歳の10月から29歳の冬に至る。
[3].香の名。香の少し辛く苦いもの。
※3:木津川渡船場を渡る為にはどうしてもここを通りますので、マスクを用意した方が良いかも知れません。実際この近辺の工場の人が作業服でチャリに乗ってるのと擦れ違ったのですが、彼は工業用マスクをして居ました。何しろ「ドバーッ、ブリブリ、ガンガン」ですからね
※4:淀川下流の分流。大阪市堂島の南から南西流して大阪湾に入る。貞享(1684〜1688)年間河村瑞賢が開削。河口部南側に天保山が在る。
※5:なにわのほりえ。仁徳天皇が水害を防ぐ為に、高津宮(たかつのみや) −現在の大阪城付近− の北に掘ったという運河。現在の大阪市の堀江とは異なる。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『カラーブックス 日本の市章(西日本)』(丹羽基二著、保育社)。
△2:『万葉集(下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△3:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。
△4:『源氏物語(二)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):大阪市渡船場の地図▼
地図−日本・大阪市の橋と渡船場(Map of bridges and ferries, Osaka -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』の
澪標の歌2首(20、88番)▼
資料−小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
尻無川の尻の行方▼
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
光源氏が詣でた住吉大社▼
阪堺電車沿線の風景−大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
日本再発見の旅▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
私の「共生の哲学」▼
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)