浪速のケッタイ
[ケッタイ怪(け)だらけ#1]
(Strange spots in Naniwa, Osaka)

-- 2004.10.20 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.11.01 改訂

 ■はじめに - ケッタイは大阪が本場

 「ケッタイ」(※1)という語は広辞苑に拠ると元々は上方方言、つまり大阪(昔の大坂)が本場です。私は当ページよりも1年半前に発表した「中国のケッタイな人々」の中で「ケッタイ」の意味を考察し、【脚注】※1~※1-2の広辞苑説に対して、現代用語的には

  「奇妙な体(てい)」(※1-3)
             → 「奇体・奇態(きたい)」(※1-4)
             → 「けったい」


という語源変化の方が感じが近い、と”ケッタイに勿体を付けた自説”を展開しました。その真偽は兎も角、「ケッタイ」という音(おん)も実に大阪的です。「ケッタイ」には他に「卦体」「希代」「怪体」などの字が使われます。
 そこで今回中国に遅れること1年半、満を持して「浪速のケッタイ」あれこれをご紹介します。中国のケッタイに”ほんまもん”の御株を奪われた感の有る浪速っ子は”本場もん”のケッタイで対抗しましょう。その為に中国仕込みの真っ黄色な背景色(=「き印」の象徴)も引き継ぎました。以下の項目目次の該当項目をクリックすればジャンプします。

    ●項目目次
  難波八阪神社の大獅子殿
  瑞龍寺(鉄眼寺)のミイラ
  大江神社の狛虎
  通天閣のビリケン

 ■大口の中の舞台 - 難波八阪神社の大獅子殿


写真1-1:難波八坂神社の大獅子殿。 先ずはドカンと左の写真を提示しましょう。このケッタイな建物が難波八阪神社(又は難波八坂神社、大阪市浪速区元町2-9)の境内に在る大獅子殿です。尚、神社の名称は今日では「八阪」の字を使って居ますが、元来は「八坂」です。2004年10月18日に初めてここを取材しました。
 大きな獅子舞いの獅子がガバッと口を開けた中に幅約10m、奥行き約8m、高さ約3mの獅子舞台が設(しつら)えて在り、ここで色々な祭式が執り行われます。
 元々は祇園祭で有名な京都の八坂神社(※2)から牛頭天王(※2-1)を勧請した分社ですが、流石は浪速っ子、本社もビックリ仰天のパフォーマンスです。この獅子の様に見える顔は、実は牛頭天王の顔を表して居ます。牛頭天王は「牛の頭を持つ忿怒相」をして居るからです(※2-1)。

 当社の創建は定かではありませんが、由緒書パンフレット「大獅子殿のある難波八阪神社」に拠ると仁徳天皇の時代に難波郷に悪病が流行した折、この辺りの森の松の木に牛頭天王の霊験が顕れ郷人がこれを祀ったのが始まりと伝えられ、以来「難波下宮」と呼ばれて来ました。後の後三条天皇の延久年間(1069~1074年)には牛頭天王を勧請する社として聞こえ、寛文元(1661)年には後陽成天皇の第八子・重雅親王直筆の縁起書を賜わって居ます。

 ところで日本の神は仏・菩薩の化身であるとする本地垂迹説(※2-2)では、牛頭天王は素戔嗚尊(※2-3)に、その妃・婆利采女は奇稲田姫命に垂迹したとされ、その8人の子を八王子と呼びます。という訳で御祭神は本社の京都祇園社と同じ素戔嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子命と成ります。又、以上の様な訳で本社同様仏教色の強い社で、嘗てはこの社の周囲には七堂伽藍・十二坊の寺院が在りましたが度々の兵火や明治の神仏分離で廃されました。当社も戦災に遭い現在の社殿は昭和49(1974)年に再建されたものです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 本地垂迹説とは「仏主神従」の神仏同体説ですが、「仏主神従」思想の拠り所は聖徳太子の「十七条憲法」第二条の「篤く三宝を敬へ」で、平安時代から主な神社を管理・統治する為に神宮寺神護寺別当寺などが置かれました。

写真1-2:難波八坂神社の鳥居と表参道。 因みに、上で当社は「難波下宮」と称されたと記しましたが、「難波上宮」と称されたのが難波神社(中央区南久宝寺町4丁目)で、江戸時代を通じて「難波大社」の尊称を受けたのが生国魂神社(天王寺区生玉町13-9)です。
 南の正面鳥居から表参道を写したのが右の写真で、これはマトモです。鳥居の扁額には「八坂神社」と書かれて居ます。
 鳥居の奥に見えている建物が本殿で、大獅子殿は境内を入った参道の左に西向きに建てられて居て、ここからは見えません。
 右下の写真は本殿の屋根の庇の下に掛けられた注連縄ですが、真ん中が太く絡み合い丸で蛇の様に左右に伸びている形状に注目して置いて下さい。
写真1-3:難波八坂神社本殿の八岐大蛇を象徴する注連縄。 この神社には毎年1月15日(今は1月の第3日曜日)に主祭神の素戔嗚尊に因み、八岐大蛇(※3)を象った大綱を引く「綱引神事祭」(市の無形民俗文化財)が伝わり、先程見た本殿の「蛇の様な注連縄」も実は八岐大蛇を象徴して居たのです。

 この神事は江戸時代前半には難波の名物に成っていて『摂津名所図会』(※4)に「難波村 牛頭天王綱引」として、男たちが裸で”力一杯”に綱を引き、見物人で賑わっている様子が描かれて居ます。由緒書パンフレットに載っている絵がそれで、左下の図です。
 又、1719年に初演された近松の浄瑠璃『平家女護島』にも

 「巻轆轤(まきろくろ)の大綱を両方向、五間引っ張って、巻いて取らんとひしめいたり、ハアゝ子供遊びの綱引きか。」

と書き留められて居る由緒有る祭(△1のp477)ですが、近代に成って一時期中断されたことも有り残念乍ら知名度はイマイチです。


 現在は氏子たちが烏帽子を被り揃いの紺の装束で”形式的”に綱を引き合います(右下の写真)。写真の様に綱の真ん中は蛇の蜷局(とぐろ)の様に巻いて上に赤い幟を立てますが、これが近松が記した巻轆轤です。綱の両端は八岐大蛇を象徴して8つに枝分かれして居ます。この写真は05年1月16日(日曜日)に撮影しましたが、この日は写真のこちら側の「南」が勝ちました。綱引神事には、どちらが勝ったかでその年の豊凶を占う「年占い」(※5)の意味が有ります。{綱引神事の写真は05年1月17日に追加}
 因みに秋田県大仙市の刈和野の大綱引(旧暦1月15日)、佐賀県唐津市の呼子大綱引(元々は旧暦端午の節句(5月5日)、今は6月上旬)、鹿児島県川内市の川内大綱引(9月22日)、沖縄県那覇市の那覇大綱挽(10月中旬)や糸満市の糸満大綱引(9月中旬)などでも同様の大綱引きが行われます(今は固定日では無くそれに近い日曜日に催されることが多く成りましたが)。
図1-1:江戸時代の綱引神事祭の様子。写真1-4:現代の綱引神事祭の様子。

 尚、ここの大獅子(=牛頭天王の忿怒相)の眼にはライトが、鼻の穴にはスピーカーが埋め込まれて居て正に「牛頭天王の鼻息荒し」です!

  ◆大獅子殿に良く似た中国昆明の虎舞台

 ところで04年10月30日に私は中国の昆明で、この章の大獅子殿と良く似た舞台を見付けました。それは虎舞台です。大きさも大獅子殿より少し小さい程度でした。ここをクリックして見比べてみて下さい。阪神タイガース・ファン(→後出)は必見ですゾ!
    {この虎舞台の記事は05年2月6日に追加}

 ■瑞龍寺(鉄眼寺)のミイラ・コレクション

 難波八阪神社から僅か300m程北に慈雲山瑞龍寺瑞竜寺とも書く、通称:鉄眼寺)という黄檗宗(※6)の禅寺が在ります(大阪市浪速区元町1-10)。この寺は元は難波郷の薬師堂でしたが、黄檗宗の鉄眼(※7)が布教の拠点として改修し、寛文10(1570)年に鉄眼を中興開山として瑞龍寺と改めました。故に別名を鉄眼寺と呼ばれます。04年10月22日にここを訪ねました、先ず下の2枚の写真をご覧下さい。
写真2-1:瑞竜寺山門。写真2-2:瑞竜寺本堂。 左が山門で扁額には「慈雲山」と書かれて居ます。右が本堂で、こちらの扁額には「瑞龍禅寺」と書かれて居ます。境内はアッケラカンと明るく、この明るさは、同じ禅宗でも侘び寂びて日本化した臨済宗や曹洞宗と異なり黄檗宗独特のもので、中国的な感じがします。事実、日本黄檗宗は初世・隠元(※6-1)から20世迄中国の僧が管長を務めました。
写真2-3:隠元の坐像。写真2-4:「禅瑞龍寺」と刻まれた屋根瓦。
 右上の写真で本堂の階段途中にほぼ等身大の布袋和尚の坐像(※8)が在りますが、それを拡大したのが左の写真です。布袋と言うと「七福神」として知られて居ますが、中国後梁に実在した禅僧で、特に黄檗宗では弥勒菩薩の化身として布袋様を尊びます。それにしても臍(へそ)を出してユーモラスですね。右上は「禅瑞龍寺」と刻まれた屋根瓦です。
 ところで、鉄眼とは一体どんな人物だったのでしょうか?、以下に鉄眼に関しては最も信頼性が高いと思われる【参考文献】△2に基づきその一生を追ってみましょう。

 鉄眼は寛永7(1630)年に肥後国益城郡森山(現、熊本県下益城郡小川町)の浄土真宗の末寺に生まれました。彼の先祖は壇ノ浦の戦で敗れた平氏の残党で、豊後(現、大分県)の佐伯に逃れた後肥後に定着した家系で、姓は佐伯です。13歳で出家し、明暦元(1655)年に長崎に渡り明(みん)から渡来して居た隠元に謁し木庵和尚に仕え黄檗宗に入ります。
 そして仏教の網羅的テキストとしての大蔵経(=一切経、※7-1)を印刷することを発起し寛文5(1665)年に大坂に出て、隠元の原本を基に版木作りの資金を集める為に寛文8(1668)年から喜捨を求めて全国行脚を開始、寛文9(1669)に刻蔵縁起疏文から刊行を開始し、その間に前述の如く寛文10(1670)年にこの瑞龍寺を興しました。延宝元(1673)年に隠元入寂(享年82歳)、翌年には父・浄信を亡くしその菩提を弔う為に生家に三宝寺を建立。
 その後不屈の精神で資金作りの旅を再開、延宝6(1678)年に6771巻の版木を竣功して後水尾太上法皇に奉献し、その後天和元(1681)年に完成させて大願を成就しました。これが世に言う鉄眼版(※7-2)で全6956巻、版木総数は6万枚以上です。この版木には吉野山の桜の木が用いられ活字は明朝体(※9)で、現在ワープロなどで普通に使われて居る明朝体の普及に一役買って居ます。

 そして翌天和2(1682)年の2月の近畿地方で1万人以上が餓死した大飢饉の際、山崎半右衛門という人に金子(きんす)を借りて迄窮民救済をして居ます。その過労から直後の3月22日に53歳で逝去しこの瑞龍寺で荼毘に付されました。


写真2-5:「鉄眼禅師荼毘処地」の石碑。 境内には現在「鉄眼禅師荼毘処地」の石碑が立って居ます(右の写真)。荼毘の日には10万人が見送ったと言われ、墓は宇治の万福寺宝蔵院に版木を見守る様に安置されて居ますが、これは鉄眼が生前「雖死不忘大蔵」(=例え死んでも蔵経のことを忘れない)と語ったことに報いる為です。

 瑞龍寺・三宝寺以外で鉄眼が開基した寺としては、宇治の宝蔵院、摂津国豊野の金禅寺、江戸青山の海蔵寺、近江国神崎郡の小松寺、和泉国の宝泉寺、近江国蒲生郡の延命寺などです。そして鉄眼の死に因って果たせなかった版木の徳川幕府への献納は瑞龍寺2世・宝洲が元禄3(1690)年に果たしました(△2のp62)。

 正に鉄眼は鉄人、朱子学の言う「精神一到何事不成」を体現した鉄の意志と不屈の精神力に基づく行状は、江戸ダンディズムの時代には”奇人(つまりケッタイな人)”と映ったらしく『近世畸人伝』(※10)に載りましたが、近代スノビズムが幅を利かす富国強兵の戦時下では奉仕精神の模範とされ小学校の教科書などに載り称揚されました。尚、その称揚の御蔭で巷間良く言われて居る「鉄眼が2度も刻蔵の為の喜捨を投げ出して窮民を救い3度目の勧進で刻蔵を成就した」という逸話は、『近世畸人伝』から尾鰭が付いた話の様です(△2のp71)。

 境内には他に宝暦元(1751)年に江戸堀の河内屋作兵衛が境内の東堀狐穴に創建したと伝えられるお勝稲荷神社が在り「お勝大明神とお初大明神」を祀って居ます。
 以上、物の順序として瑞龍寺の謂れと開山者の鉄眼のことを紹介しましたが、これ迄の話にはケッタイな要素は全く、あ・り・ま・へ・ん!
 → (>O<)  ケッタイな話は▼これから▼です。

  ◆ケッタイな河童と竜と人魚のミイラ

 実はこの瑞龍寺には河童(※11)と(※12)と人魚(※13~※13-2)の3体のミイラ(※14)が安置されて居るのです。私は寺の人と電話で話したのですが、ミイラは全て”本物”だそうで、一般公開は一切して無い(非公開)とのことです。
 寺に伝わる話に拠れば、河童のミイラは千利休の妹の嫁ぎ先の堺の商人・万代屋(もづや)から譲り受けたもの、竜のミイラもやはり利休に近い堺の商人からの奉納、人魚のミイラは天和2(1682)年にやはり堺の商人から奉納されたものだそうですが、天和2(1682)年と言えば鉄眼が死去した年、...頭部が鉄眼の可能性や如何?!
 それにしても河童も竜も人魚も「異界の生物」である点がミソで、瑞龍寺と千利休縁故の一族とのケッタイな「関係(αω)」、そして1680年頃に堺か難波に腕の良いミイラ職人が居たこと、が浮かび上がって来ます。
 一般にこの種のミイラを作るには、魚や山椒魚や鳥や蛇や亀や小動物や猿や胎児・嬰児・幼児[の死体]、などを組み合わせ剥製技術を応用して作りますが、まさか「異界の生物」のミイラを普通の剥製の様に店頭で大っぴらに売ることは出来ませんので、こうして寺社に奉納するか厳重に秘蔵するしか無いのです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 江戸時代に於いては兄弟姉妹が10人位が普通でしたが、栄養状態や衛生状態が悪く半分以上は幼くして死んで居ます。又、農村では食い扶持を減らす為に所謂「間引き」を行い胎児や嬰児を意図的に葬ることは日常的だった為、胎児・嬰児・幼児の死体を入手する事は今よりはずっと容易でした。

 河童のミイラは日本全国で全身3点・頭部1点・手足13点・不明1点が確認されて居るそうで、九州の松浦地方の松浦一酒造(佐賀県伊万里市)では家を護る水神様として祀って居て、一般公開もして居ます。瑞龍寺でも水神様として祀って居た様です。

 竜(龍)は中国では最も神通力の有る神獣として尊崇されて居ますが、アジアでの生まれ故郷はインドでその原型は蛇です。竜神はアジアや雷や雨や川を支配する農耕神ですが、ヨーロッパではドラゴンは魔物として恐れられて居ます。瑞龍寺の竜のミイラは鱗が銀色に輝き美しいものだそうですが、寺名の「瑞龍」と直結する物ですから大事にされて来たのでしょう。

 人魚(※13)はヨーロッパではマーメード(mermaid)と言われ、海辺の岩に腰を掛けて甘い声で人間の男を誘惑して海に引き摺り込む、と言われて居ます。水の中に引き摺り込む所は河童(これを河童駒引と言う)と同じですね。日本では『日本書紀』の推古天皇の時代(在位592~628)に滋賀県蒲生川で捕獲された「人魚の様な物」が初出します。即ち、推古27年夏4月の段に近江国の蒲生河で

  蒲生河に物有り。其の形人の如し。

と在り(△4のp132)、同年秋7月の段に摂津国の堀江で

  其の形児(わかご)の如し。魚にも非らず、人にも非らず、名(なづ)けむ所を知らず。

と在ります(△4のp132)。この頃は摩訶不思議な事が頻発し、翌々年の推古29年春2月に厩戸皇子(聖徳太子)が身罷ることへの伏線として記述されて居ます。{松浦一酒造や河童駒引へのリンクは2011年11月1日に追加}

 ところで日本で人魚と言うと「八百比丘尼伝説」(※15)が思い出されますね、その話を簡単にご紹介しましょう。

    ++++ 人魚と「八百比丘尼伝説」 ++++
 若狭の男が山中で異界の人の饗応を受け、「人魚の肉」を貰って帰ると、娘がそれを食し長寿を得て何時迄も白い肌で若々しかったので「白比丘尼」とも、八百歳迄生きたので「八百比丘尼(やおびくに)」とも呼ばれ、諸国を行脚した後岩屋に籠もって死んだ。
    ----------------------


 この話は若狭の空印寺(福井県小浜市小浜男山)の縁起に成り、境内には「八百比丘尼入定洞」と「八百姫神」が祀られ、又、若狭湾には人魚像も立てられて居ます。
 人魚のミイラを所蔵して居る所は他に、和歌山県学文路(かむろ)の苅萱堂(かるかやどう)、滋賀県の観音正寺、新潟県柏崎市の妙智寺などが在るそうです。特に苅萱堂は「石道丸物語」 -苅萱道心の子が出家した父を尋ねる哀話- で知られる所で、前述の『日本書紀』推古紀の「人魚の様な物」、と伝えられて居ます。人魚のミイラは【参考文献】△3のp10に写真が載って居ます。
 異界の人の饗応を受け長寿に成る点は「浦島伝説」にも似て居ますが、そんなエエモンなら私も食いた~い人魚の肉!!、男が食ったらアカンのかいな?!
                (-_@)

 さて、鉄眼の話に戻りますが、寛文8(1668)年に鉄眼が難波の月江院に於いて大乗起信論(※16)を講じ大蔵経刻版の抱負を演説した時に、その志の高潔さと壮大さに感激し白金1千両という大金を喜捨して刻蔵の基礎を成した観音寺の玅宇道人(しょううどうにん)という比丘尼が居たそうです(△2のp60)。果たしてこの比丘尼は八百比丘尼だったのでしょうか?、そして鉄眼とこの比丘尼は如何なる「関係()」だったのでしょうか?、興味は尽きませんね、ムッフッフ!!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 因みに、月江院とは今の月江寺(げっこうじ)(大阪市天王寺区生玉寺町)で、浄土宗の尼寺です。当時は広大な寺域を有し『摂津名所図会』に「藤の花と土器(かわらけ)投げ」で賑わっている様子が描かれて居ます(※4、△5のp132)。
 観音寺は、逢坂の一心寺(大阪市天王寺区逢坂2丁目)近くに建っていた大念仏寺の末寺のことらしく、大念仏寺を再興した大通上人は平野の豪族・徳田氏の出で、この観音寺に居寓し鉄眼の教えも受けたそうで、白金1千両を喜捨した玅宇道人は相当な富豪で大通上人の一族である様です(△2のp60)。玅宇道人は、【参考文献】△2の著者に依り並々為らぬ情熱を持って調査されて居ますが、未詳の様です。

 ■阪神タイガース・ファンの聖地 - 大江神社の狛虎


写真3-1:大江神社の社殿。 谷町筋の夕陽丘の愛染さん(勝鬘院)に入る通りを更に奥(=西)に進むと、天王寺七坂の一つの愛染坂の脇に大江神社(大阪市天王寺区夕陽丘町5-40)が在ります(右の写真)。
 社伝に拠れば当社は上之宮、小儀、土塔、河堀、掘越、久保の各社と共に天王寺七宮の一つとして四天王寺の鎮守の為聖徳太子が祀ったのが初めだそうです。
 主祭神は伊勢外宮の祭神と同じ豊受大神(=五穀豊饒の神)で、これに明治の神仏分離政策で小儀・土塔神社の祭神の素戔嗚尊(※2-3)、上之宮神社の祭神の欽明天皇・大己貴命・少彦名命を合祀して居ます(※17)。摂末社は日吉稲荷神社、呉羽神社、大江護国神社(山口藩殉難諸士招魂碑)。
 この社は四天王寺の北西の方角(=乾)に当たり乾社とか如意山神宮寺とか呼ばれ、北方の鎮守の毘沙門天(※18)を祀った毘沙門堂 -毘沙門天は四天王(※18-1)の一つ- が在りました(△5のp125)。上町台地の一角のこの辺りは嘗ては大江の岸と呼ばれ海が迫り夕陽の美しい所だった為、慶応3(1867)年に大江社に改名されました。近くには藤原定家らと共に『新古今和歌集』を撰した藤原家隆が晩年に菴を営み、「夕陽丘」の地名起源に成った歌を詠んで没した家隆塚が在り、境内には「夕陽岡」の石碑も在ります。


  ◆狛虎失踪記

写真3-3:古色を成した狛虎と奉納物。写真3-2:真新しい狛虎と奉納物。 これだけでは何の変哲も無い普通の神社なのですが、ここをケッタイにして居るのが境内の北西奥、社殿の裏に鎮座して居る狛犬(※19)ならぬ狛虎です。先ずは左右の2枚の写真をご覧下さい。右が古色を成した狛虎(口を開いた「阿」)、左が真新しい狛虎(口を閉じた「吽」)です。「虎」と言うよりも「猫」みたいで、どう見ても余り強そうには見えませんが。
 大阪は水の都、ケッタイの本場、更にはアホの生産地です。そして都の”悪い水”に当たりケッタイとアホを兼ね備えているのが阪神タイガース・ファンという人種です。彼等はこの狛虎に必死の思いでしがみ付きタイガース・グッズを奉納して、忽ちここを阪神タイガース・ファンの”聖地”に変えて仕舞いました。そんな阪神ファンの願いが天に通じたのか、2003年には駄目ニャンの眠り猫がやっと目を覚まし虎に変貌して18年振りにリーグ優勝出来たのは、屹度この狛虎の御利益に違い有りません。

 上の写真及び下の写真は何れも04年のセ・リーグ開幕直前の3月29日に撮ったものですが、ご覧の様に阪神ファンはタイガース・グッズを奉納し04年の連続優勝を祈願して居ました。しかし、04年はノムカン(※20)・岡田監督の”勘所を外したボケ野球”元の木阿弥。虎は再び駄目ニャンの眠りに就いた様です。
写真3-4:星野仙一と大江神社の献歌。 そして狛虎近くの楠の根元に捧げられて居た献歌の内の2首、右の写真の歌をご覧下さい。「耐へに耐ゆ 十八年の鬱積を 虎狛犬(こま)の遣はす」(星野仙一)と在ります。H15.7.19とは03年のリーグ優勝がほぼ確定した時期ですね。もう一首の大江神社献歌には「臥薪嘗胆十八年」(※21)という中国春秋時代の故事が『十八史略』から引用されて居ます。しかし「ガシンショウタン」などと言っても今の若い人には通じませんね、「ガシンタレ」(※22)なら理解されるでしょうが。それにしても18年は長かったですね。
 さて、阪神ファンを誘蛾灯の様に誘い込む狛虎ですが、江戸時代には1対、つまり2体の狛虎が前述の毘沙門天を守護する「神使」(※19-1、後述)としてここに置かれて居たのです(←狛虎の背後の空き地が毘沙門堂跡)。
 しかし明治の廃仏毀釈騒動の中でその内の1体(=「吽」)が行方不明に成った儘でしたが、03年の夏 -つまり阪神タイガースのリーグ優勝間近かという時- に失われた狛虎「吽」を氏子と阪神タイガース・ファンが復活し、阪神タイガースを守護することに成りました。それが上の真新しい狛虎だったのです。台座の刻印を見たら古い方に「丙辰 安政三年十二月十日」(=1856年)、新しい方に「平成十五年八月吉日」(=2003年)と在りました。

  ◆狛犬の雑学

 ここで暫し”話の寄り道”をしましょう。

    ++++ 狛犬の役割と神使について ++++
 狛犬は【脚注】※19に在る様に、元来はオリエントのライオンが起源の様で、ご本尊守護神使(※19-1)や魔除けの意味が込められて居ます。やはり百獣の王・ライオン(獅子)は神通力絶大らしくエジプトやアッシリアのスフィンクス(Sphinx)も人面獅身ですし、沖縄の瓦屋根の上に載っているシーサー(※23)も魔除けの唐獅子で、シンガポールの国名起源説話に成り国家の象徴であるマーライオンは獅面魚身の変形人魚です。
 狛犬と同じ使われ方として、中国の寺院では唐獅子や麒麟や一角獣などの1対を良く見掛けます。犬に変貌したのはライオンの居ない朝鮮半島経由の影響かも知れません。そして狛犬は阿吽とか雌雄とか陰陽とかの対を成す場合が多いですね。
 序でに、狛犬の変種としては狛虎の他に河童狛犬(岩手県遠野市・常堅寺)や猿顔の狛犬など、幾つか有る様です。
 又、神使として毘沙門天のの他、神社には稲荷神社の・熊野神社の八咫烏(やたがらす、足が3本)・天満宮(天神社)の・八幡神社の・日吉神社の・春日神社の鹿大国主を祀る神社の・護王神社のなどが在り、彫像や彫刻に成る場合も有ります。又、有力神社には神馬(※19-2)の像が奉納されて居ます。
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 成る程、狛犬も中々奥が深い様ですね。ところで「六甲おろし」を歌いたく成った方はココをクリックして下さい、しかしここで歌う貴方(又は貴女)は相当ケッタイでんな。筋金入りの阪神タイガース・ファンへのお薦めは、前述した中国昆明の大きな虎舞台「六甲おろし」を熱唱を以て奉納する事で、絶大な御利益を授かりそうでっせ!!

 ■通天閣のビリケン一代記


写真4-1:通天閣の展望台。 阪神タイガースの話を引き継いで次の話を始めましょう。右の写真は浪速のシンボル通天閣(大阪市浪速区恵美須東1-18、※24)の展望台です。別にこれは今回のネタのケッタイでは無いのですが、ケッタイと言ったらケッタイかも。と言うのは展望台下部に黄色と黒の縞模様の真ん中に丸く
  HANSHIN Tigers
とロゴの入った虎のマークが見えます。
 これは阪神タイガースがセ・リーグ優勝を決めた直後の03年9月30日に撮ったもの(優勝したのは9月15日)。凡そ20年に1回、彗星接近の如くにしか優勝しない阪神タイガースのマーク入り通天閣はやはりケッタイかも知れませんが、実は本当のケッタイのネタが、この通天閣展望台の中に鎮座して居るのです!
写真4-2:通天閣展望台に鎮座するビリケンさん。 それが右の写真のビリケン(※25)さん、名前からして如何にもケッタイです。体は赤ん坊みたいで、顔はお爺さんが笑っている様で、あのマヨネーズのキューピーが顔だけ老いた風体をして居ます。この像は両足を前に投げ出す形で座っていて、この足の裏を摩り乍ら願い事を唱えると叶う「福の神」だそうです。下膨れ顔で福耳ですので現世的御利益は有りそうですが...?!
 台座には

   BILLIKEN
  THINGS AS THEY

と刻まれて居ます。
 しかしビリケンが広辞苑に載っているとは全く予想外で”驚き”でしたねえ、【脚注】※25は広辞苑の引用です。それに拠るとアメリカ生まれということで背後の「仏像の後光の様なもの」に十字架マークが有るのが頷けます。そして「頭が尖り、眉が釣り上がった」顔は、名前の由来と共に実は米国第27代タフト大統領(※25-1)に関係して居ると言うのです。
 そこでタフト大統領の話に移りますが、この御仁もケッタイ、体重150kgの巨漢でホワイトハウスのバスタブに体が嵌まり込んで抜け出せなく成ったという逸話の持ち主で、しかも「頭が尖り、眉が釣り上がった」顔をして居たそうです。ビリケンの名前はそんな風貌の当時の大統領のファーストネームから

  William の愛称 Billy + ken(「小」を表す接尾語) → Billiken

に成ったという訳です。
 序でに言うと日本から贈られた有名なワシントンD.C.のポトマック川の桜は、タフト大統領夫人ヘレンらの強力な働き掛けに依って1912(明治45)年、タフトが大統領在職時に植えられたものです(※26)。

 こうしてアメリカで生まれたビリケンが如何なる経緯で今、通天閣展望台に鎮座して居るのか?、ビリケン像の台座下には右下の写真の「ビリケン由来記」(03年9月30日撮影)が書いて在りますので一応これをお読み下さい。しかし実は「由来記」のビリケン誕生の説明部分は誤りで、これは後で正します

写真4-3:ビリケン由来記。 ビリケン誕生後はアメリカで大変人気を博し何10万体と売り出され、ビリケン貯金箱なども出回わりました。それが日本に伝わり浪速の「新世界」にオープンしたルナパーク(※27)に石膏製の初代ビリケンが安置されたのが明治45(1912)年で、以後は「由来記」の通りです。ルナパーク閉鎖が大正12(1923)年で、行方不明状態から通天閣に復活する迄の経緯はWebの「通天閣オフィシャルサイト(=公式サイト)」(04年10月20日の記事)より補足します。
 それに拠るとオイルショックが去り、通天閣の灯が復活した1979(昭和54)年にビリケンさんを復活させる話が出、思案に暮れて居る時、大阪の繊維会社・田村駒(株)という会社が版権を持っていることが判明し同社のビリケン像を基に、伊丹市在住の彫刻家の手で木彫の2代目ビリケンを復元し、この通天閣展望台に安置し今日に至って居ます。

 ところがです、上の「由来記」と「通天閣オフィシャルサイト」の説明が、ビリケンの発祥について食い違っているのです。どちらも通天閣の公式の見解でっせ?!

    ++++ 通天閣のケッタイ ++++
 「由来記」(右上の写真)では女流彫刻家の名前は E.I.HORSMAと成っている(←しかも HORSMAN の間違いでは?、”BILIKEN”のスペルも”L”が1つ抜けて居ます)のに対し、Webの「通天閣オフィシャルサイト」ではフローレンス・プリッツ(Florence Pretz)と成って居ます。これはケッタイですねえ、通天閣さん一体どっちが正しいんでっか??
 私はその旨の質問書を10月25日頃に通天閣にFAXし、向こうでの着信を電話で確認して置いて中国雲南省に旅行に出掛けたのですが、帰国しても返事が有りません。そこで11月17日に再送して電話したら、通天閣事務所のおっちゃん曰く、「2つの説が在ってどちらも正解ですワ」と来ました。益々ケッタイな話です!!
    ------------------


 一体どうなってるんだ?!、と思っていて私は忙しい合間に本(△6)や外国人が英語で書いたサイトを調べました。通天閣事務所のおっちゃんの言う「好い加減な正解」では無く、ビリケン誕生の「正しい正解」を以下にご披露しましょう。

  ◆ビリケン誕生の真相

  (1)ビリケンの”産みの親”

 ビリケン(Billiken)の”産みの親”米国ミズーリ州カンザス市のフローレンス・プリッツ(Ms. Florence Pretz)という女性美術教師で、彼女が1908年に「The Graftsman's Guild of Chicago(シカゴ・グラフツマン組合)」主催のコンテストに出品して優勝し、この世に産み落とされました。彼女は早速6月9日に特許登録しビリケン貯金箱や置物を売り出し、ローカルな人気を得ました。
 それをニューヨーク市に本社が在るホースマン社(E.I.Horsman Co.)(※25-2)がプリッツ先生から1909年に版権を購入し製造、これを独占販売する為にシカゴに新設されたビリケン販売社(Billiken Sales Co.)と提携して、高さ60cmの石膏製ビリケン人形をアメリカとカナダで売り出し、最初の6ヶ月間で20万体以上を製造販売し全国的な人気を獲得しました。このビリケン販売社は今日のビリケン社(Billiken CO.)です。
 因みに通天閣の台座の正面に刻まれて居る "THINGS AS THEY" はビリケン販売社が売り出す際に台座に刻印した

  THE GOD OF THINGS AS THEY OUGHT TO BE.(万事在るが儘の神)

の一部です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) F.プリッツ女史が自身で特許を取っていたかどうかは長い間不明でしたが、1960年歴史家のドロシー・レイ女史(Dorothy Jean Ray)がシアトルの骨董品店で、表にビリケンが描かれたメダルの裏に "Patent No. D-39603" という刻印を発見、プリッツ女史が特許登録して居たことが判明しました(△6のp8)。

 現在、F.プリッツ女史所縁のミズーリ州のセントルイス大学ではビリケンがマスコットに成って居て、これはインターネットでも確認出来ます。これで決定的ですね。
                (-_@)

 この辺が色々と曲解され尾鰭が付いて諸説が出回っている様です。通天閣の「由来記」はホースマン社を女流美術家の名前と取り違えた結果です。だからビリケン像台座下の「ビリケン由来記」の方を訂正して欲しいですね、通天閣には観光客が結構訪れるのですから。

  (2)ビリケンの日本渡来

 前述の田村駒(株)の前身・神田屋田村商店の初代・田村駒次郎社長 -この会社は3代目社長迄は田村駒次郎を名乗る- の話に拠ると明治42(1909)年に東京銀座に登場したのが始まりで、同社は早速これを商標登録し明治44(1911)年には会社の広告に使用したそうです(△6のp36)。成る程、アメリカで売り出されたその年に早くも日本に上陸して居たのですね。尚、2008年に大阪府池田市が市制70年を記念して栄本町にビリケン像を建てましたが、これは初代・田村駒次郎の出身地だからです。{このビリケン像建造の記事は09年1月11日に追加}

  (3)ビリケンの原像

 しかし、ビリケンについては曖昧模糊とした部分が多く、例えば Billiken という名前の謂れもタフト説以外の話も在り、ビリケンの原像については通常言われて居る中国起源説の他にエジプト説カナダのイヌイット説など、諸説紛々として真実は霧の中と言った様相を呈して居ます。これらについては真相や新事実が出た時点で追加して行きましょう。
    {この節は05年1月17日に加筆}

  ◆通天閣の迷走

 私はビリケンについて更に調査を進め、「ビリケン誕生の真相」の節を05年2月6日に改訂したので、アップロードする前に「通天閣オフィシャルサイト」を参照しました。そしたら、な、何と、ビリケンの”産みの親”について、ホースマン説に戻して在ります。私の手元には04年10月20日にダウンロードしたページが在ります。

    ++++ 通天閣オフィシャルサイトのケッタイ ++++
 04年10月20日の記事「ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家フローレンス・プリッツ(Florence Pretz)という女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。」
                 |
                 ↓
 05年02月06日の記事「ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家E・I・ホースマンという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。」

 まさか私如きが通天閣展望台の「ビリケン由来記」と「通天閣オフィシャルサイト」の説明の”食い違い”を指摘したからでは有るまいと思いますが、何を血迷ったのか、間違っている説に訂正して居るのはケッタイです。04年10月20日の記事の方が正解なんでっせ!、通天閣展望台の「ビリケン由来記」の方を訂正して下さい!!!
    ---------------------------

    {この記事は05年2月6日に追加}

  ◆結論 - ビリケン年表

 以上、広辞苑と「由来記」と「通天閣オフィシャルサイト」とタフト大統領の逸話の合体の為、話が複雑に成って仕舞いました。そこで最後に正しい結論をビリケン年表として下に纏めて置きます。

  1908年  米国の女性美術家(F.Pretz)ビリケンの祖先を産み落とす
  1909年  米国第27代タフト大統領に肖(あやか)り Billiken と命名
       ホースマン社&ビリケン販売社で発売、米国を中心に人気沸騰
         (20万体以上が製造され世界中に拡散)
       ビリケン像(石膏製)日本に渡来(東京銀座)
  1912年  初代通天閣(75m)完成
       初代ビリケン(石膏製)ルナパーク・ビリケン堂に安置
         (この間、ビリケン饅頭・ビリケン人形などを売る)
  1923年  ルナパーク閉鎖で初代ビリケン行方不明
  1943年  火災後、軍需の鉄材供出の為解体、哀れ300トンの鉄塊
  1956年  2代目通天閣(103m)完成
  1979年  2代目ビリケン(木彫)を復元し、2代目通天閣展望台に安置
                ▼
              現在に至る


 フーム、「ビリケン一代記」と銘打って書いて来ましたが、通天閣のビリケンは「二代記」だったのですねえ、実に波乱万丈の生涯、「聴くも涙、語るも涙」のお話でした。
                (>_<;)

 そしてもう一つ大正から昭和初め(約1910~30年)頃の浪速の新世界が東京浅草六区周辺の歓楽街に猛烈な対抗意識を持っていたことにも気付きました。つまり

   <浪速の新世界>          <東京浅草六区周辺>
  ルナパーク(1912年)   ←→   ルナパーク(1910年)
  初代通天閣(1912年)   ←→   凌雲閣(1890年)
  ビリケンさん(1912年)  ←→   浅草寺の観音さん(628年)


という構図です。これを見ると浪速の新世界は1912(明治45=大正元)年という年がエポック(epoch)に成って居ますね。そして浪速っ子は観音さんの慈悲よりもビリケンさんに現世利益を求めたと思われます。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 通天閣が第5回内国勧業博覧会(1903年開催)の跡地に建造されたのに対し、凌雲閣は第3回内国勧業博覧会(1890年開催)の呼び物の一つとして建造されたのです。そしてどちらの塔も1889年、実に凌雲閣完成の1年前にパリの万国博覧会(※28)の目玉と成ったエッフェル塔(※28-1)に触発されて居ます。

 通天閣周辺をもっと散歩したい方はココをクリックして下さい。

 ■結び - ”本場もん”のケッタイよ、もう一度!

 どうでしたか?、”本場もん”のケッタイは。今の大阪は段々”ええカッコし”が増えて来てケッタイな人が減りました。昔持っていた「自前で遣る」という気風が薄れ、段々と国に頼ったり「寄らば大樹」に成ったりと、パワーが落ちました。関西の不況もこういう「自力不足」に原因が在ると私は常々思って居ます。もう一度”本場もん”のケッタイの精神を呼び戻して欲しいですね。

 尚、08年10月15日に
  九州のケッタイ(Strangeness in Kyushu)

を新規に掲載した時に当ページと[ケッタイ怪(け)だらけ]シリーズを構成することにしシリーズ化へ対応する為の変更を加えました。[ケッタイ怪(け)だらけ]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
    {シリーズ化への変更は08年10月15日に追加}

 >>>■その後 - 通天閣の御膝元で正しいビリケン由来記を発見

 ビリケンの由来を最終更新してから約4ヶ月位経た05年6月28日に私は新世界界隈を散歩して居たら、或る串カツ屋の店先に等身大のビリケン(左下の写真)を見付けました。
写真4-4-1:新世界の串かつ屋のビリケン。写真4-4-2:新世界の串かつ屋のビリケンの正しい由来記。 見ると胸に由来を書いた額(右の写真)をぶら下げて居ます。私は気になったので読んでみたら、この記事は正しいのです。
 「幸運の神様「ビリケン」」と題された右の写真は額のガラスが反射して字が読み辛いので、下に転記します。

  「ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家フローレンス・プリッツという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。」

 「ビリケン誕生の真相」の節で明確にしましたが、産みの親をフローレンス・プリッツと記した内容は正解です。ここ新世界は通天閣の御膝元で串カツ店が矢鱈と多いのですが、”通天閣の迷走”に惑わされず、正しい情報を伝えているのは立派です。さて、このお店はビリケンの御利益で儲かってるんでしょうか?!
    {この記事は05年6月28日に追加}

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:ケッタイは、(「卦体(けたい)」の転とも「希代(きたい)」の転とも)(上方方言)風変わりな様(さま)。奇妙な様。不思議な様。忌々しい。嫌な感じである。
※1-1:卦体(けたい)は
 [1].元々は、易の卦(け)に現れた算木(さんぎ)の様子。占いの結果。狂、居杭「先づ今日は、きやつの―が、ちやうどこれに当つて居りまする」。
 [2].転じて、縁起。
 [3].(普通「―な」の形で)忌々しい。嫌な感じである。根無草「あた―な、いまいましい」。「卦体糞が悪い」。
※1-2:希代・稀代(きたい、きだい)は
 [1].rareness。世に希なこと。珍しいこと。伎、韓人漢文手管始「―な。とつと手が見えぬわい」。平家物語10「天竺・震旦はしらず、我朝には―のためしなり」。「―の豪の者」。
 [2].extraordinariness, strangeness。怪しむべきこと。不思議なこと。伽、物くさ太郎「かかる―のことはなし」。「―なことを言う」。
※1-3:体(てい)とは、[1].appearance, air。外から見た有様、様子。(てい)。平家物語7「事の―何となうあはれなり」。「這這(ほうほう)の―」。
 [2].form, state。見せ掛けの様子。体裁。「―の良い言葉」「―良く断る」「体裁・人体(じんてい)」。
 [3].(接尾語的に)...の様なもの。...風情(ふぜい)。狂、苞山伏「まことに、我等―の営みと申すものは」。「商人―の男」。
※1-4:奇態・奇体(きたい、strangeness)は、風変わりな様(さま)。不思議な様。「―な言動」「―な人物」。

※2:八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都市東山区祇園町北側に在る元官幣大社。主祭神は素戔嗚命(=牛頭天王が垂迹)、他に奇稲田姫命・八柱御子神。例祭の祇園会(=除疫の御霊会)の他、特殊神事に白朮祭(おけらまつり)が在る。二十二社の一。元は祇園社と称し、1868年(慶応4)改称。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-1:牛頭天王(ごずてんのう)とは、〔仏〕元インドの祇園精舎の守護神とも、薬師如来の化身とも、素戔嗚尊に垂迹(すいじゃく)したともされる(本地垂迹説)。除疫神として、京都祇園社(八坂神社)などに祀る。頭上に牛の頭を持つ忿怒相に表される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-2:本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とは、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済の為に姿を変えて迹(あと)を垂れたものだとする、「仏主神従」の神仏同体説。奈良時代に始まり平安時代に広まり、鎌倉時代に神仏習合を支える理論として体系が完成、明治初期の神仏分離に因り衰えた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-3:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※3:八岐大蛇(やまたのおろち)は、記紀神話で出雲の簸川(ひのかわ=今の斐伊川)に居たという大蛇。頭尾は各々八つに分れる。素戔嗚尊(すさのおのみこと)がこれを退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、その尾を割いて天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得たと伝える。

※4:摂津名所図会(せっつめいしょずえ)は、秋里籬島著、竹原信繁他画に依り寛政8~10(1796~98)年に発刊された。

※5:綱曳/綱引/綱挽(つなひき)は、[1].物に綱を付けて引くこと。
 [2].競技の一種。1本の綱の両端を多人数で引き合って勝負を争うもの。日本では元は農作物の豊凶を占う年占(としうら)で、近畿以東では正月15日前後、中国以西では7月15日又は8月15日に行うことが多かった。季語は新年。

※6:黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本三禅宗の一。元は中国臨済宗の一分派。明の黄檗山万福寺の隠元が1654年(承応3)来日、京都宇治に黄檗山万福寺を建立して弘めた宗派。1876年(明治9)この宗名を称した。
 補足すると、一番後から移入された黄檗宗は、僧は長髪で経は唐音で唱え音楽的で、禅宗のみならず当時の停滞して居た仏教界に波紋を生じました。
※6-1:隠元(いんげん)は、日本黄檗(おうばく)宗の開祖(1592~1673)。明の福建省福清の人。名は隆琦(りゅうき)。1654年(承応3)日本に渡来。山城国宇治に黄檗山万福寺を創建。語録・詩偈集など開版されたもの多く、その書は茶席の掛け軸として珍重される。諡号は大光普照国師など。

※7:鉄眼(てつげん)は、江戸前期の黄檗宗の僧(1630~1682)。名は道光。肥後の人。木庵性滔(もくあんしょうとう)の法を嗣ぐ。大蔵経の覆刻を企図し、全国に勧進して13年後に完成(鉄眼版)。又、飢饉救済にも尽力。諡号は宝蔵国師。女性に向けて説いた「鉄眼禅師仮名法語」などの著作が在る。
※7-1:大蔵経(だいぞうきょう)は、仏教聖典の総称。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵及びそれらの注釈書を網羅した叢書。パーリ語・チベット語・モンゴル語・満州語・漢語のものが現存。一切経。蔵経。
※7-2:鉄眼版(てつげんばん)とは、鉄眼が明の万暦版大蔵経を覆刻し、1681年(天和1)に完成した7千巻近い仏教叢書。版木は万福寺宝蔵院に現存。黄檗版。

※8:布袋(ほてい)は、中国の後梁の禅僧(?~917)。明州奉化の人。名は契此(かいし)、号は長汀子。四明山に住み、容貌は福々しく、体躯は肥大で腹を露出し、常に袋を担って喜捨を求め歩いた。世人は弥勒の化身と尊び、その円満の相は好画材として多く描かれ、日本では七福神の一とする。

※9:明朝体(みんちょうたい)は、木版又は活字の書体の一。縦線は太く、横線の細いもの。最も普通に用いられる。元は宋朝に起り、明朝の時に日本に伝来した。現在、新聞・書籍・雑誌などの大部分がこの書体を使用して居る。

※10:近世畸人伝(きんせいきじんでん)は、江戸時代の徳行家・儒家・僧家・詩人・歌人・隠者など約2百人の奇異な行状を記した書。正編5巻(1790年刊)は伴蒿蹊(ばんこうけい)著。続編5巻(1798年刊)は三熊思孝原著、蒿蹊加筆。

※11:河童(かっぱ/かわわっぱ、water imp)は、(カハワッパの約)想像上の動物。水陸両生形は4~5歳の子供の様で、顔は虎に似、嘴(くちばし)は尖り、身に鱗(うろこ)や甲羅が有り、毛髪は少なく、頭上に凹みが有って、少量の水を容れる。その水の有る間は陸上でも力強く、他の動物を水中に引き入れて血を吸う。河郎。河伯(かはく)。河太郎。水虎(すいこ)。旅の人。かわっぱ。

※12:竜/龍(りゅう、りょう)は、(リュウは慣用音。漢音はリョウ)
 [1].dragon。想像上の動物。辰(たつ)
   [a].〔仏〕(梵語 naga「ナーガ(那伽)」)インド神話で、を神格化した人面蛇身の半神。大海や地底に住し、雲雨を自在に支配する力を持つとされる。仏教では古くから仏伝に現れ、又仏法守護の天竜八部衆の一とされた。「竜神・竜宮」。
   [b].中国で、神霊視される鱗虫の長。(ほう)・(りん)・(き)と共に四瑞の一。良く雲を起し雨を呼ぶと言う。竹取物語「はやても―の吹かする也」。「竜虎・画竜点睛」。
   [c].西洋のドラゴンのこと。西洋では悪・暗黒の形象化とされることが多い。
 [2].dinosaurs。化石時代の、大形の爬虫類を表す語。恐竜。「剣竜類・曲竜・首長竜」。
 [3].優れた人物の譬え。「臥竜・独眼竜」。
 [4].天子に関する物事に冠する語。「竜顔・竜駕」。
 [5].将棋で、飛車の成ったもの。「竜王」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※13:人魚(にんぎょ、mermaid(女の), merman(男の))は、上半身が人間(通常は女)で下半身が魚体という想像上の生物。動物ではジュゴン(儒艮)マナティーが比定されて居る。
※13-1:ジュゴン(dugong、儒艮)は、(マレー語から)カイギュウ目ジュゴン科の哺乳類。全長約3m。尾は横に扁平な尾鰭(おびれ)と成る。後肢は退化。インド洋・南西太平洋の沿岸の浅海に生息し、海草を食べる。立泳ぎし乍ら、子を抱いて授乳する姿から古来これを「人魚」とした。沖縄で犀魚(ざんのいお)。天然記念物。
※13-2:マナティー(manatee)は、カイギュウ目マナティー科の哺乳類の総称。体長約4m。ジュゴンに似る。水中に棲み、水草などを食べる。尾は団扇(うちわ)状の鰭(ひれ)で、前肢は鰭状、後肢は退化。アフリカマナティー、アメリカマナティー、アマゾンマナティーの三種。ワシントン条約に拠り保護。欧米でしばしば「人魚」とされる。

※14:ミイラ(mirra[葡], mummy[英]はmumiya[アラビア]に由来)は、(木乃伊は mummy の漢訳語)人間又は動物の死体が永く原形に近い形を保存して居るもの。天然的ミイラ人工的ミイラとが在り、天然的ミイラは土地の乾燥と、鉱物的成分、空気の乾燥、寒冷の為に、死体が自然に乾固したもの。人工的ミイラは主として宗教上の信仰から人間の死体に加工してその腐敗を防止したもので、エジプトインカ帝国ミャンマーなどに見られる。有名なエジプトのミイラはオシリス信仰と結び付いてBC3000年頃から人工的に作られた。日本では中尊寺金色堂に在る奥州藤原氏3代のミイラ湯殿山のミイラが有名。「―取りが―に成る」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※15:八百比丘尼(やおびくに)は、特別な物(特に人魚)を食べ800歳迄生きたという伝説上の比丘尼(出家した女性)。各地に分布する話で、常に16~17歳の娘の様な美しい肌をしていて、白比丘尼とも呼ばれる。特に福井県小浜市の伝説が知られて居る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※16:大乗起信論(だいじょうきしんろん)は、大乗仏教の論書。馬鳴(めみょう)の著と伝えるが、5~6世紀の成立か。真諦(しんだい)訳1巻、実叉難陀(じつしゃなんだ)訳2巻が在る。一心を基にして現実相(生滅門)永遠相(真如門)を関係付けたもの。「本覚(ほんかく)」という用語は有名。大乗仏教の入門書として広く読まれる。起信論。

※17:掘越神社(大阪市天王寺区茶臼山町)と久保神社(大阪市天王寺区勝山1丁目)は現在も残って居ます。

※18:毘沙門天(びしゃもんてん)とは、(Vaisravana[梵]の音訳ヴァイシュラヴァナから)〔仏〕四天王・十二天の一。須弥山(しゅみせん)の中腹北方に住し、夜叉・羅刹を率いて北方世界を守護し、又、財宝を守るとされる神。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、片手に宝塔を捧げ、片手に鉾(又は宝棒)を持つ。日本では七福神の一ともされる。又、原語の意味から多聞天とも訳し、四天王を列挙する場合には普通この名称を用いる。インド神話の財宝神クベーラ(Kubera[梵]、倶毘羅)が元。毘沙門天王。
※18-1:四天王(してんのう)とは、〔仏〕四方を守る護法神。須弥山の中腹に在る四王天の主。持国天(東方)・増長天(南方)・広目天(西方)・多聞天毘沙門天の別称、北方)の称。像容は、甲冑を着けた忿怒の武将形で邪鬼を踏み、須弥壇の四方に安置される。四大天王。四王。

※19:狛犬(こまいぬ)とは、(高麗犬の意)神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の獅子に似た獣の像魔除けの為と言い、昔は宮中の門扉・几帳(きちょう)・屏風などの動揺するのを止める為にも用いた。こま。
※19-1:神使(しんし/かみのつかい)とは、[1].神の使い。多くはその神に縁故の有る鳥獣・虫魚を言う。使わしめ。神社に付属して、その使と成る例としては、天神の牛/日吉の猿/稲荷の狐/八幡の鳩/春日の鹿/熊野の八咫烏/大黒天の鼠の類。
 [2].(かみのつかい)神社に遣わされる勅使・奉幣使。夫木和歌抄27「たれもみなそのうまやどに馬はあれど―にかちよりぞ行く」。
※19-2:神馬(じんめ/しんめ)とは、神の乗御に供する意で、神社に奉納する馬。神駒(かみこま)。

※20:岡田彰布監督(おかだあきのぶかんとく)は、野村克也(元南海ホークスの三冠王、南海・ヤクルト・阪神や社会人のシダックスなどの監督)と藤山寛美(松竹新喜劇の阿呆役の演技で一世を風靡)を足して2で割った様な顔をして居る所から昔からノムカンと渾名(あだな)されて居て、そのイメージ通り動きが鈍臭い。

※21:臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、(春秋時代、呉王夫差(ふさ)が越王勾践(こうせん)を討って父の仇を報じようと志し、常に薪の中に臥して身を苦しめ、又、勾践が呉を討って会稽(かいけい)の恥を雪(すす)ごうと期し、苦い胆を時々舐めて報復を忘れまいとした故事から)仇を討とうと長い間苦心・苦労を重ねること。転じて、将来の成功を期して長い間辛苦艱難すること。

※22:「がしんたれ」は、(大阪などで)意気地無し。甲斐性無し。やくざ者。吝(けち)。

※23:シーサーは、(獅子さんの意)魔除けの一種。沖縄で、瓦屋根に取り付ける素朴な焼物の唐獅子像。

※24:通天閣(つうてんかく)は、大阪市浪速区の歓楽街「新世界」の中心に在る高塔。1912年(明治45)エッフェル塔を模して竣工。高さ75m。56年に高さ103mの塔を再建(設計者は内藤多仲で2年後には東京タワーを設計)。
 補足すると、通天閣は東京浅草に在った凌雲閣(通称:十二階)に対抗して建てられたもので、命名は藤沢南岳です。
※24-1:凌雲閣(りょううんかく)は、東京都台東区浅草公園(現:台東区浅草2丁目13番)に在った12階の煉瓦造の建物。1890年(明治23)の建造。高さ50m。1923年(大正12)の関東大震災に倒壊し、撤去。俗称、十二階
 補足すると、この発破を掛けての撤去作業は大変な「呼び物」で、作家の川端康成なども野次馬見学で感嘆して居ます。

※25:ビリケン(Billiken)とは、(タフト大統領の愛称ビリーに由来すると言う)
 [1].頭が尖り、眉が釣り上がって、仏像の後光の様なものを具えた裸体の像。1908年アメリカの女性美術家(F.Pretz)が作り美術展に出品、評判と成り、幸運を招くとして世界的に流行
 [2].転じて、頭の尖った人を指して言う語。「―首相寺内正毅」。
※25-1:タフト大統領(―だいとうりょう、William Howard Taft)は、アメリカの第27代大統領(1857~1930、在職1909~13)。共和党出身。フィリピン総督・陸軍長官を経て大統領に当選。資本家中心の保守的政策と強硬な外交を推進した。
※25-2:ホースマン社(―しゃ)は、Edward Imeson Horsman(E.I.Horsman) という人が1865年にブルックリン(現ニューヨーク)に設立した会社で、E.I.Horsman という名は5代続きます。最初はゲーム機やスポーツ用具を販売して居た会社で、人形に特化し始めたのが1897年で当初はドイツの人形の輸入販売が中心でしたが、メーカーとしての最初のヒット商品がビリケンで、1909年の最初の6ヶ月間に20万体を売りました。
 この会社は現在もホースマン人形社(Horsman Dolls CO.)として各種の人形を製造・販売して居ます。特に同社のWebサイトからはビリケンに関する信頼度の高い情報を得ることが出来ました。

※26:ポトマック川の桜は、厳密に言うと最初の桜は1910年に2千本贈られましたが害虫が付き焼却処分され、2年後の1912年に3千本が再び贈り直されたのが現在の桜の祖先です。贈り主は当時の東京市長・尾崎行雄らで、理由は日米友好です。

※27:ルナパーク(Lunar Park)は、(Lunar は「月の」の意)1910年(明治43)東京浅草六区に開設された遊園娯楽場の名。12年大阪新世界にも開設。東京景物詩(白秋)「ルナアパークの道化もの」。

※28:万国博覧会(ばんこくはくらんかい、International Exhibition)とは、世界各国が参加する博覧会。最初は1851年ロンドンで開催。後1928年国際博覧会条約がパリで締結され、日本は1965年加盟。70年には日本(大阪)で開催。略称は万博エキスポ(Expo)
※28-1:エッフェル塔(―とう、Tour Eiffel[仏])は、パリのセーヌ河畔、シャン・ド・マルスの広場に立つ高さ約320mの鉄塔。1889年のパリ万国博覧会の際、フランス人技師エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel、1832~1923)の設計で建設。現在はラジオやテレビジョンの総合アンテナなどに利用。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『新編日本古典文学全集-76「近松門左衛門集3」』(鳥越文蔵他校注・訳、小学館)。

△2:『鉄眼と宝洲』(原題は『鐵眼と寶洲』)(石田誠斎著、石田文庫)。宝洲は鉄眼の弟子にして瑞龍寺2世で、鉄眼の伝記とも言える『瑞龍開山鉄眼和尚行実』を残して居て、『鉄眼と宝洲』はこの『行実』を典拠として鉄眼の生涯を綴って居ます。

△3:『図説 日本の妖怪』(岩井宏實監修、近藤雅樹編、河出書房新社)。

△4:『日本書紀(四)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△5:『上方風俗 大阪の名所図会を読む』(宗政五十緒編、東京堂出版)。

△6:『Lucky God BILLIKEN(20世紀に現われた福の神)』(藤井龍幸著、葉文館出版)。著者は大阪生まれで日本一のビリケン・コレクターです。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):聖徳太子の「十七条憲法」について▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
参照ページ(Reference-Page):「六甲おろし」の歌詞と由緒▼
エルニーニョの「六甲おろし(六甲颪)」(The Rokko-Oroshi)
補完ページ(Complementary):中国のケッタイ(昆明の虎舞台も)▼
中国のケッタイな人々(Chinese strange persons)
補完ページ(Complementary):河童について▼
河童考(About the Kappa, that is, water imp)
京都の八坂神社について(牛を神使とする神社にも言及)▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)

八岐大蛇伝説や素戔嗚尊・奇稲田姫命について▼
2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)
江戸ダンディズムや内国勧業博覧会について▼
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)
03年の阪神タイガース優勝パレード▼
2003年・阪神、御堂筋パレード
(The victory parade of HANSHIN Tigers, 2003)

鼠を神使とする神社の例▼
2008年・年頭所感-鼠の話あれこれ
(Several Rat's topics, 2008 beginning)

「元の木阿弥」について▼
大和筒井城(Ruins of Tsutsui castle, Nara)
通天閣周辺の界隈の様子▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
利休と堺について▼
阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
浅草六区やルナパークや浅草寺の観音や凌雲閣について
(大阪はそれらに対抗意識を持っていた)▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
ビリケン情報とホースマン社について▼
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