松浦一酒造とカッパのミイラ
[ケッタイ怪(け)だらけ#3]
(Matsuura-ichi brewing and Kappa's mummy)

−− 2010.12.26 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.10.24 改訂

 ■はじめに − 松浦一酒造を知る切っ掛けは
           「浪速のケッタイ」の瑞龍寺(鉄眼寺)のミイラ

 私は前から行ってみようと思い気になって居た松浦一酒造(株)(佐賀県伊万里市山代町楠久312) −今は「まつうら」、昔は「まつら」と言いました(※1、※1−1)− に2010年12月21日(火)に遂に行きました。前からってどの位前から?、と言うと「浪速のケッタイ」で「瑞龍寺(鉄眼寺)のミイラ・コレクション」の章(※2)を書いた時が松浦一酒造のカッパのミイラの初出ですから、2004年以来ということに成ります。そのページの特に「ケッタイな河童と竜と人魚のミイラ」の節は▼下から▼ご覧下さい。
  浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)

 又、松浦一酒造(株)に行った記事は▼下▼
  日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
  九州のケッタイ(Strangeness in Kyushu)

にも書きました。

 では何に惹かれて?、それがカッパ(河童/河太郎/河伯etc、※3)のミイラなんです。でも松浦一酒造は真面な会社です。河童についての総纏めのページは▼下から▼ご覧下さい。
  河童考(About the Kappa, that is, water imp)
    {「河童考」へのリンクは2011年10月24日に追加}

 私は「浪速のケッタイ」の上記の節にミイラ造りや松浦一酒造について書いて居ますので、少し長いですがミイラ造りの技術的な事にも触れてますので抜き出して置きます。

    ◆「浪速のケッタイ」の「ケッタイな河童と竜と人魚のミイラ」の節

 実はこの瑞龍寺には河童人魚の3体のミイラが安置されて居るのです。私は寺の人と電話で話したのですが、ミイラは全て”本物”だそうで、一般公開は一切して無い(非公開)とのことです。
 寺に伝わる話に拠れば、河童のミイラは千利休の妹の嫁ぎ先の堺の商人・万代屋(もづや)から譲り受けたもの、竜のミイラもやはり利休に近い堺の商人からの奉納、人魚のミイラは天和2(1682)年にやはり堺の商人から奉納されたものだそうですが、天和2(1682)年と言えば言えば鉄眼が死去した年、...頭部が鉄眼の可能性や如何?!
 それにしても河童も竜も人魚も「異界の生物」である点がミソで、瑞龍寺と千利休縁故の一族とのケッタイな「関係(αω)」、そして1680年頃に堺か難波に腕の良いミイラ職人が居たこと、が浮かび上がって来ます。
 一般にこの種のミイラを作るには、魚や山椒魚や鳥や蛇や亀や小動物や猿や胎児・嬰児・幼児[の死体]、などを組み合わせ剥製技術(※2−1)を応用して作りますが、まさか「異界の生物」のミイラを普通の剥製の様に店頭で大っぴらに売ることは出来ませんので、こうして寺社に奉納するか厳重に秘蔵するしか無いのです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 江戸時代に於いては兄弟姉妹が10人位が普通でしたが、栄養状態や衛生状態が悪く半分以上は幼くして死んで居ます。又、農村では食い扶持を減らす為に所謂「間引き」を行い胎児や嬰児を意図的に葬ることは日常的だった為、胎児・嬰児・幼児の死体を入手する事は今よりはずっと容易でした。

 河童のミイラは日本全国で全身3点・頭部1点・手足13点・不明1点が確認されて居るそうで、九州の松浦地方の松浦一酒造(佐賀県伊万里市)では家を護る水神様(※4〜※4−2)として祀って居て、一般公開もして居ます。瑞龍寺でも水神様として祀って居た様です。

 浪速の瑞龍寺(鉄眼寺)の方が河童・龍・人魚とミイラが揃って居て”ケッタイ度が上”で怪しい感じがしますが、松浦一酒造は怪しい感じはしません。が、やはりケッタイの仲間に入れました。従って背景色は”ケッタイ色”です。
 尚、松浦一酒造の在る佐賀県伊万里市の地図は▼下▼をご覧下さい。
  地図−日本・九州地方(Map of Kyushu region, -Japan-)

 ■松浦一酒造(株)

 (1)河伯のミイラの謂れ

 昨日は唐津に泊まり、今日酒造会社に行くので前祝いに唐津で美味しいお酒を飲みました、当ては焼鳥。本当は今日12月21日が満月ですが、昨日の12月20日も良い月でした(右の写真、月齢14.4)。この写真は夜の19:37頃、JR筑肥線の筑前深江駅で撮影したものです。という訳で昨日は「前祝いの月見酒」だったのです。
 松浦一酒造は松浦鉄道の楠久駅(くすくえき)が最寄りです。

     JR筑肥線     松浦鉄道
  唐津 −−−−− 伊万里 −−−− 楠久
  8:24        9:13
            9:37       9:50頃
                     ↓
                 松浦一酒造見学
                     │
                     ↓  松浦鉄道     JR
                    楠久 −−−− 佐世保  ⇒ 熊本
                    11:40頃     14:09

 松浦一酒造を訪れる人で私の様に電車で行く人は居ないみたいで、と言うのは後で貰ったパンフレットを見ると車の道案内で、楠久駅が載って無いからです。地元の人は皆車です。私が旅行用に持ち歩く小型の時刻表には主立った駅しか乗って無く、それで楠久到着時刻が「頃」が付きます。
 私は「青春18きっぷ」「旅名人の九州満喫きっぷ」を組み合わせての低運賃の旅です。即ち、九州のJR普通列車・地下鉄・私鉄・三セク線を延べ3日間乗り放題で10500円=3500[円/日]で旅出来るのです、こういう地方をローカル線で旅する事は良いものです。佐世保行き各駅停車(1輌編成のワンマンカー、左下の写真)で、楠久駅(中央下に駅名の拡大)で私だけが降りました。そもそも乗客が数名しか居ないのです。駅を出ると水鳥の群れが飛んで居て長閑な風景です(右下の写真)。


 すると何やら怪しい荒熊稲荷社(→後出)が現れますが取り敢えず無視して進むと、間も無く煙突「銘酒 松浦一」と書いて在る、左の写真)が見えます。これが目印です。
 古来より河童の原像とされる獺(かわうそ)(※5)が出て来ても可笑しく無いな、などと思い乍ら更に歩いていると、出て来たか(右の写真)!
 否、「かっぱの酒造 松浦一」の看板でした(笑)。獺は日本では殆ど絶滅して居ます。

 河童の看板が見えたら直ぐに酒造です。

 右下の写真の建物が見学用で、昭和30年代(1960年頃)迄使用していた道具類とかカッパ(河伯)のミイラを展示して居ます。そして煙突が有りますね、これが信号機の所から見えて居たのです。
 そして右下の写真の左端の海鼠壁(※6)を更に左へと辿ると、左下の写真の様に奥の酒造所(醸造所)に続きます。こちらで酒造りをして居ます。


 ここで「松浦一酒造」公式サイト(△1)より「水の守り神<河伯のミイラ>の由来」を転記します。

    ◆「水の守り神<河伯のミイラ>の由来」

 松浦一酒造(株)の創業は正徳6(1716)年で、290年間、松浦地方で一番になりたいと銘柄へ願いを込め、お酒を造り続けております。
 当家には「我が家には何か珍しいものがある」と代々の当主から当主へ語り継がれる話がありました。しかし17代続くなかで、それが何を意味するのか不明のまま推移しておりました。それが約50年前、母屋の屋根がえの時に大工の棟梁が「梁の上にこんなものがくくりつけてありました。」とボロボロになって埃だらけ、しかしとても丁寧に紐でくくられた箱を持ち下ったのです。(←ちょっと補足が要りますね。現在の当主は第18代目の田尻泰浩氏で、ボロボロに成った箱を大工の棟梁から受け取ったのは第16代当主で昭和28(1953)年の事です。)
 蓋をとるとなんとも不思議な形をしたミイラ(※2)がでてきました。黒い箱のほこりを払うと、その箱には「河伯」(※3−1)という文字が書かれてあります。当主は大変驚き、いろいろ調べましたが、箱の「河伯」という文字が、カッパを意味するということ以外手がかりが見つかりません。
 しかし、これが祖先から伝わる言い伝えのものに違いない。そして河伯さまがこの蔵を守ってくださる。と神棚を作り、水神様(※4〜※4−2)としてお祭りするようになりました。

 という事です。松浦一という名前は「松浦で一番」に成るんだ、という意味だったんですね。佐賀一、九州一、日本一、とせずに松浦一という所が実に素晴らしい!

 (2)松浦一酒造の酒蔵を見学

    ◆カッパ(河伯)の祭壇

 では見学させて貰いましょう。左下の写真が当酒造の酒蔵で最も神聖な場所、カッパ(河伯)のミイラを祀って在る祭壇 −和式の神棚構造をしている− です。丸く奥深い所の中央に灯明と榊と御神酒 −ここは造り酒屋ですゾ!− で清められたミイラが安置されて居ます。
 机の上の右端にミイラが入って居た黒っぽい箱が在り、この箱の表面に「河伯」と書かれて居ます(右下の拡大写真)。

                ↑            ↑
           ミイラの入って居た箱    表面に「河伯」の文字

 左がアクリルの容器に納められた河伯のミイラです。一部分では無く全身のミイラです。ミイラは目測で30cm弱です。足は鳥の脚みたいですね。「浪速のケッタイ」から転記した記事を思い出して下さい。実在しない生物 −貴方(又は貴女)は実在すると思ってますか?!− のミイラ造りには剥製技術(※2−1)が不可欠です。この技術を駆使して複数の生物から「ミイラなる物」を作り出しているのです。
 しかし、そう言って仕舞うと夢が無いですね、ここではやはり「河伯のミイラ」にして置きましょう。更に両生類的両義性(即ち陸上生物水中生物)を感じ取って下さい。

    ◆酒蔵見学

 以下は昭和30年代(1960年頃)迄使用して居た酒造りの道具農機具などです。先ず左下の写真から(左上から説明)、

    内桶:蒸した米を甑(こしき)(※7)から内桶に取り出して選んだ
    棒櫂(ぼうかい):蒸米、麹水を良く混ぜ合わせる為の混ぜ棒
    仕込桶:もろみ(※8)仕込用
    引掛:桶のフチに引っ掛け、それを踏み落として使用した


中央下は

    横づち
    棒栓:棒の栓として用いた
    ......


と説明が続きます。成る程、お酒(=清酒(※8−1、※8−2))が出来る過程の一部が良く解りました。
 そして右下の写真は当酒造所がカッパ・コレクションと呼んでいるものです。手前下は「流れる水は先を争わず」(立松和平)と在り、有名人も訪れている様です。そして左奥にラッパを備えた蓄音機が在りました。私の知り合いに昔の蓄音機とかSPレコードのマニアが居ますが、ここでSPレコードを蓄音機で聴く会を遣るというのは、どうでしょうか?!


 この展示会場の全体は左下の写真の様に成って居ます。最後は松浦一酒造のお酒を売っている(右下の写真)という趣向で中々商売の方も「お上手」です。酒が好きな私は現当主の田尻泰浩氏「松浦一 誠 原酒」「純米酒 松浦一」(いずれも720ml)を1本ずつ家迄送って貰いました、これは正月の酒です。送って貰った理由は、私は更に旅を続けなければならないからです。もう年の瀬だったので酒に浸して飲む屠蘇散(※9〜※9−2)を貰いました、そうです正月は屠蘇酒(※9−3)です。2本とも送って仕舞ったので寂しく成ったので「松浦一 誠」の180ml(1合)を買い、これは今日の電車の旅のお共です。


 こうして松浦一酒造の見学は終わりましたが、私は団体さんと一緒に成ったら嫌だなあと”密かに”思って居たのですが、この日の見学は私一人でとてもラッキーでした。と言うのは、今年も後僅かですが未だ右の写真に在る様に団体で見学を予約してる方が可なり居られるからです。
 今日は予約無しで、しかも私一人だけで見学させて貰い、とても面白く又昔の人が使って居た道具類は中々参考に成りました。
 当主殿、どうも有難う御座いました。

 (3)松浦一酒造の当主・田尻氏とは

 田尻氏は筑後(※1−2)の名門です。田尻氏の祖先は、元大蔵姓です。諸国より納められた物を帳簿に記録する人ですね、これが大蔵氏・内蔵氏(※10〜※10−2)です。
 「田尻系図」(田尻家文書)では寿永元(1182)年に大蔵春実より8代目の種成の子が、長男種直が原田氏を、次男種雄が秋月氏を、三男実種が田尻氏などを継ぎ、それぞれの祖と成って居ます。尤も「大蔵氏系図」では春実より6代目の種輔の子に種綱が在り、その曾孫に当たる種範田尻の祖と成って居て食い違いが有ります(△2のp285)。がここでは、一応「田尻系図」に従います。何れにしても彼等は大蔵党と呼ばれました。
 田尻実種は平安時代の末期頃に筑前国(※1−3)から筑後国三池庄田尻邑(高田町田尻) −因みに、ここは三池炭坑(※11)で後に有名に成る所です− に移り住み田尻三郎と称し田尻山の飛塚城を居城としました。原田種直らは平氏と運命を共にしましたが、田尻氏は源平の覇権争いには深入りしませんでした。しかし蒙古襲来には九州の武士は逃げる訳にも行かず駆り出され、田尻氏も一定の戦功を挙げては居りますが討死した人も居ります。平安末期・鎌倉・室町は田尻氏は雌伏の時期、力を貯える時期でした。▼三池郡高田町田尻の田尻氏関連地図▼を見て下さい。
  地図−日本・柳川/大川/佐賀

 戦国時代に成ると田尻親種は天文年間初期(1532〜1540頃)に鷹尾城を築き、地図を見ると柳川の東南、矢部川沿いに田尻鷹尾の地名を確認出来ます。間も無く大友氏と龍造寺氏が争いを始めると田尻氏は最初は大友方に就きますが、大友宗麟の力が衰えると龍造寺氏に鞍替えをし、龍造寺隆信が島津氏との戦いで戦死し、最終的には秀吉が出て来て島津義久を降伏させて九州全土を平定しますが、すると田尻氏は佐賀藩の鍋島氏の傘下に入ります。非常に目まぐるしい変転振りですが弱者が戦国時代を生き延びる知恵と申せましょう。こうして田尻氏は戦国時代を”行き延びた”のです。
 時代は下って明治7年(1874)、征韓論分裂(※12)で下野した江藤新平(※12−1)らが郷里の佐賀で不平士族を集め反乱を起こします(佐賀の乱(※12−2))。小城城の鍋島家の元家臣で在った田尻一族らも佐賀の乱に加わり佐賀城を占拠し、県境の朝日山では小城の田尻種博と唐津の井上考継が政府軍に応戦しましたが、佐賀城に攻め込まれ敗れます。江藤らは鹿児島の西郷隆盛の援軍を求めますが得られず、四国の高知に逃れるも阿波で捕らえられ処刑されました。田尻氏は新制明治で「負け組」に成ったのです。
 四国に逃れていた田尻一族はその後各地に離散したと伝えます。現在、伊万里市東山代町の親種寺の檀家には山代町(松浦一酒造を含む)福岡市の2つの田尻家が存在します。
 松浦一酒造の田尻家は上記の如く筑後の豪族の家系で、鍋島直茂(1538〜1618年)に依って現在の土地(伊万里市山代町)を与えられ移り住み、正徳6(1716)年に酒造業を興し(前述)、今日に至って居ます。ところで田尻家では「代々の当主から当主へ語り継がれた[河伯のミイラの]話」とは、筑後時代から即ち1600年頃から語り継がれて居るのではないか、と考えている様です。
    {この章は2010年12月31日に最終更新}

 ■度派手ケッタイな荒熊稲荷社

 楠久駅から松浦一酒造に行く途中に在るのが下の写真の荒熊稲荷社(又は荒熊稲荷神社)(伊万里市山代町楠久670)です。兎に角、度派手で毳毳しい感じの神社で、こういう造りの所は大抵新興宗教系なのですが、稲荷社ですから、はて?、と成る訳です。
 でも、やはり稲荷では在りますが限りく新興宗教に近いですね。右下の写真の説明板を読むと「初代は明治37(1904)年”神憑り”となり、旧唐津城主小笠原家の守護神にて一時鏡山に御奉りして在る荒熊大神」が主祭神の様です。2代目が戦前・戦中・戦後を切り抜け、現在は3代目の神職です。
 ここには稲荷の事は明確には書いて在りませんが、神社名から荒熊大神が稲荷神(※13)の様です。


 どうやら明治末に出来た新興宗教という事が解りましたが、正月を間近に控えて御土産とかをもう準備して商売気だけは人一倍の様です。しかし神社の境内を綺麗にしているのは善い事です。そして「家内安全 交通安全 五穀豊穣 商売繁盛」を謳い、祀っている神さんも多いですね、これも新興宗教に良く在ることですが。黒髪山龍王神/鎌倉銭洗弁財天/肥前七福神などなどです。
 最後に、ここは狛犬もお稲荷さんのシンボルであるの象も全て写真に在る様な「黒地に金」で統一して居ます(右の写真)。最初少し驚かされますがデザインの統一はこれに懸けた意思を感じさせ評価出来ます。今は3代ですが後100年も続いたら神社も古色を帯びて来るかも知れません、がその前に”先立つ物”が無くなるかも。
 兎に角、こんな静かな田舎に度派手ケッタイな神社が在るとは、知りませんでした!

 この日は熊本に泊まりです。そして明日は出水(いずみ)の渡り鶴を見に行きます。さっき松浦一酒造で買った酒が有りますね、あれをチビチビ遣り乍ら、後はずっと各駅停車の旅です。
    {この章は2011年1月27日に追加}

 ■結び − 大晦日は忙しい!

 という具合で年末の旅から帰って今日は大晦日です。大晦日はHP(ホームページ)を出している人には忙しいのです。色々と年度の切り替えとかWeb年賀状etc、とかの更新をしなければ為らない事が有りまして、兎に角今は忙しいのです。
 そんな中で松浦一酒造(株)のカッパ(河伯)のミイラを何とか年内に間に合わせました。これにて失礼させて戴きます。
 皆さん、良いお年をお迎え下さい!!

                m(_~_)m
    {この章のここ迄は2010年12月31日に追加}

 その後、荒熊稲荷社の度派手ケッタイを年を改めて追加しました。このページはこれで完成です、どうぞ宜しく!!
    {この段は2011年1月27日に追加}

 尚、[ケッタイ怪(け)だらけ]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:松浦(まつうら)は、長崎県北部の市。伊万里湾に面する。中世、松浦党(まつらとう)の居城が在った。嘗ては炭鉱都市として栄えたが、現在は炭鉱は閉山。人口2万3千。古くは「まつら」で、肥前国の郡名。
※1−1:松浦(まつら)は、肥前松浦地方(現在の佐賀県・長崎県の北部)の古称。「魏志」に見える末盧(末羅)国に当たる。古代に、松浦県(まつらあがた)、次いで松浦郡が設置された。梅豆羅国(めずらくに)。
※1−2:筑後(ちくご)は、[1].旧国名。今の福岡県の南部。
 [2].福岡県南西部、筑紫平野南東部の市。花筵(むしろ)・茣蓙(ござ)・和紙などを産。人口4万5千。
※1−3:筑前(ちくぜん)は、旧国名。今の福岡県の北西部。

※2:ミイラ(mirra[葡], mummy[英])は、(木乃伊は mummy の漢訳語)人間又は動物の死体が永く原形に近い形を保存して居るもの。天然的ミイラ人工的ミイラとが在り、天然的ミイラは土地の乾燥と、鉱物的成分、空気の乾燥、寒冷の為に、死体が自然に乾固したもの。人工的ミイラは主として宗教上の信仰から人間の死体に加工してその腐敗を防止したもので、エジプトインカ帝国ミャンマーなどに見られる。有名なエジプトのミイラはオシリス信仰と結び付いてBC3000年頃から人工的に作られた。日本では中尊寺金色堂に在る奥州藤原氏3代のミイラ湯殿山のミイラが有名。「―取りが―に成る」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2−1:剥製(はくせい、stuffing, stuffed animal)は、動物(主に鳥・獣)の皮を剥ぎ、内臓・肉を除き、中に綿などを詰めて縫い合せ、防腐法を施して、生きている形に擬して作ること。又、その物。

※3:河童(かっぱ/かわわっぱ)は、(カハワッパの約)。
 [1].water imp。想像上の動物。水陸両生形は4〜5歳の子供の様で、顔は虎に似、嘴(くちばし)は尖り、身に鱗(うろこ)や甲羅が有り、毛髪は少なく、頭上に凹みが有って、少量の水を容れる。その水の有る間は陸上でも力強く、他の動物を水中に引き入れて血を吸う。河郎。河伯(かはく)。河太郎。水虎(すいこ)。旅の人。かわっぱ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].水泳の上手な人。
 [3].頭髪の真ん中を剃り、周りを残したもの。特に女子用の断髪は「おかっぱ」
 [4].見世物などの木戸に居て、観客を呼び込む者。合羽。
 [5].(川に舟を浮かべて客を呼ぶことから)江戸の柳原や本所などに居た私娼船饅頭(ふなまんじゅう)。
 [6].(河童[1]の好物であるからと言う)キュウリ(胡瓜・黄瓜・木瓜)の異称。「―巻」
※3−1:河伯(かはく)とは、[1].河を守る神。河の神。河神。元は中国より伝来。太平記14「いかなる―水神なりとも」。
 [2].河童(かっぱ)。

※4:水神(すいじん/みなかみ)は、水、特に飲用水・灌漑用水などを司る神。又、火災を防護する神。水伯。後撰和歌集恋「水神(みなかみ)に祈るかひなく涙川」。
※4−1:水の神(みずのかみ)は、水を司る神。罔象女(みずはのめ)。神代紀上「―罔象女」。
※4−2:罔象(みずは)/罔象女(まずはのめ)とは、(古くはミツハ)水を司る神。元は中国の罔象(もうしょう)。〈神代紀上訓注〉。

※5:川獺・獺(かわうそ、otter(ニホンカワウソは Japanese otter))は、ネコ目イタチ科の哺乳類。体長約70cm。イタチに似、体は褐色。四肢は短く、(みずかき)が有って泳ぎに適し、水中で魚などを捕食。毛皮は良質。ヨーロッパからアジアに広く分布するが、日本では高知県西部以外は絶滅。特別天然記念物。古来の俗説に、人語を真似て人を騙し、水に引き込むと言う。河童の原形ともされる。ニホンカワウソ。オソ。カワオソ。〈文明本節用集〉。

※6:海鼠壁(なまこかべ)は、土蔵・塗屋などの外壁に方形の平瓦を貼り、その目地(めじ)を漆喰で海鼠形(蒲鉾形とも言う)に盛り上げた壁。

※7:甑(こしき)とは、[1].米などを蒸すのに用いる器。瓦製で、形は円く、底に蒸気を通ずる穴が在る。後の蒸籠(せいろう)に当たる。播磨風土記「阜(おか)の形も―・箕(み)・竈(かまど)どもに似たり」。→甑(そう)。
 [2].小形の溶銑炉の俗称。

※8:醪/諸味(もろみ)は、醸造して、未だ粕(かす)を濾さない酒、又は醤油。〈和名抄16〉。
※8−1:清酒(せいしゅ、sake)は、[1].日本の代表的な醸造酒。蒸した白米に麹(こうじ)・水・酒母を加え発酵させて醪(もろみ)を造り、これを搾り濾過して製する。淡黄色で特有の香味が有る。日本酒
 [2].澄んだ純良な酒。すみざけ。←→濁酒。
※8−2:濁酒(だくしゅ、unrefined sake)は、日本酒の1種。発酵後、醪(もろみ)を搾らないもの。麹(こうじ)や米が混じって白濁している。にごりざけ。どぶろく。白馬(しろうま)。←→清酒。

※9:屠蘇(とそ)は、[1].屠蘇散に同じ。
 [2].屠蘇散を入れた酒みりん。正月の祝儀として飲む。季語は新年。
※9−1:屠蘇散(とそさん)は、魏の名医華佗(かだ)の処方と言い年始に飲む薬。山椒/防風/白朮(びゃくじゅつ)/桔梗/蜜柑皮/肉桂皮などを調合し、屠蘇袋に入れてみりんに浸して飲む。1年の邪気を払い、齢を延ばす −邪気を(ほふ)り、魂を(よみがえ)らせる事から「屠蘇」と名付ける− とされる。日本では平安時代から行われる。屠蘇。屠蘇延命散。
※9−2:華佗/華陀(かだ)は、後漢末・魏初の名医。生没年未詳(160頃か〜208年)。字は元化。麻沸散(=麻酔薬)に依る外科手術屠蘇散を開発し、五禽戯と称する体操などを始める。曹操の侍医に成ったが、後に曹操に殺された
 補足すると、華佗の行った治療や手術は『三国志』華佗伝『後漢書』方術伝に載って居る。又、華佗は『三国志演義』にも登場する。
※9−3:屠蘇酒(とそしゅ)は、屠蘇を入れた酒。年始に用いる。

※10:大蔵(おおくら)は、朝廷の倉庫。伝説では、雄略天皇時代に、内蔵(うちくら)から分離秦氏がこれを司った。
※10−1:内蔵(うちくら)は、[1].斎蔵(いみくら)・大蔵と共に大和朝廷の三蔵(みつくら)の一。伝説では、履中天皇の時、斎蔵の傍に建てて官物を収納した。(古語拾遺)うちつくら。
 [2].律令制官司の一。宮中の御料を収納する。内蔵寮(くらりょう)の倉庫。うちのくら。くら。
※10−2:斎蔵(いみくら)は、大和朝廷の祭祀に用いる神宝を納めた蔵三蔵の一斎部氏がこれを管理したと言う。(古語拾遺)。

※11:三池(みいけ)は、福岡県大牟田市の一部。元立花氏支藩1万石の城下町。有明海沿岸にあり、三池炭田の石炭の積出港として栄えた。

※12:征韓論政変(せいかんろんせいへん)は、1873年(明治6)に起きた西郷隆盛の朝鮮遣使への賛否を巡る政変。西郷・板垣退助・江藤新平らは遣使を主張したが、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは朝鮮との戦争に繋がるとして内治優先の立場よりこれに反対。結局、前者の意見が敗れ、西郷らは下野し、政府は分裂。明治6(1873)年政変。これが西郷の「西南の役」の伏線に成った。
※12−1:佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7)2月、佐賀の不平士族が江藤新平・島義勇を担いで蜂起した事件で、士族反乱の最初のもの。政府軍に敗れ江藤らは処刑された。
※12−2:江藤新平(えとうしんぺい)は、幕末・明治の政治家(1834〜1874)。名は胤雄。号は南白。佐賀藩士。幕末、志士として活動。維新政府の司法卿と成り、改定律例を制定。後、参議。征韓論政変で下野。板垣退助らと民撰議院設立を建白した直後、佐賀の乱を起し処刑

※13:宇迦御魂/倉稲魂/稲魂(うかのみたま)は、食物、殊にを司る神。「うかたま」「うけのみたま」とも。稲荷の神の一名。「三狐神」とも当て字されたので狐に付会された。〈神代紀上訓注〉。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:「松浦一酒造」公式サイト。

△2:『日本史小百科 家系』(豊田武著、東京堂出版)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):九州北西部の地図▼
地図−日本・九州地方(Map of Kyushu region, -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):田尻氏の三池郡高田町田尻の地図▼
地図−日本・柳川/大川/佐賀
(Map of Yanagawa, Okawa and Saga, Fukuoka and Saga -Japan-)

補完ページ(Complementary):河童についての総纏めのページ▼
河童考(About the Kappa, that is, water imp)
カッパのミイラはやはり珍奇▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
千利休について▼
阪堺電車沿線の風景−堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
月見酒色々▼
月見の宴(The MOON watching banquet in Japan)
「青春18きっぷ」と「九州満喫きっぷ」の組み合わせ、
そして出水の渡り鶴▼
2010年・出水のツル探訪記(Cranes in Izumi, Kagoshima, 2010)
私の知り合いの蓄音機やSPレコードのマニア▼
池田の蓄音機おじさん(Old-fashioned phonograph mania in Ikeda, Osaka)


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