河童考
(About the Kappa, that is, water imp)

-- 2011.10.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2013.12.25 改訂

 ■はじめに - 前口上無しで直ぐ本題へ

 何時もは「はじめに」で何だ彼だと前口上を述べるのですが、今回は河童を”お勉強”しますので前口上は在りません。兎に角、河童についての総纏めのページを作ろうと思って居ますので、直ぐ本題に入ります。
 尚、当ページの背景画については後で説明します。

 ■河童学講座

 ここで河童について少し”お勉強”しましょう。題して「河童学講座」です。

 (1)河童の色々な呼び方

 先ず、河童(かっぱ)の形態については【脚注】※1や【参考文献】△1のp44~47を参照して下さい(△1には「色々な呼び方」についても載って居ます)。色について付け足せばカメレオン(※2)(→後出)の様に体色を変えるとも言われて居ます。
 河童は漢字でも河童/川童/河太郎(河郎)/河伯(※1-1)などと色々な字が当てられ、又、地方での呼び方も様々でカッパ(河童)/ガッパ/カワッパ/ガラッパ/カワワロ/カワランベ/カワタロー(河太郎)/カタロー/カワラボーズ(河原坊主)/カワノトノ(河殿)/カワンヌシ(河主)/ヒョース/ヒョースベ(兵主部)などなど -この他にも沢山在る- です。
 何故こんなに呼び名が沢山在るのかと考えた場合、河童は悪戯や悪さ好きですが何処か子供染みていて”憎めない”所が有るからではないでしょうか。だから河童は昔から子供たちに人気が有り多くの呼び名で親しまれて居る訳です。因みに「かっぱ」という読みは元は河童(かわわっぱ)で、「童(わっぱ)」には【脚注】※1-2の様な意味が在ります。又、上の河童の呼び名のヴァリエーションに於いて「河」「川」>は同義です。

 (2)河童の元は中国の河神/水神 - 道教的世界

 河伯(※1-1)は中国から伝来した言葉で、「河の神は河伯と通称される。...<中略>...このほかに、憑夷(ひょうい)は得道して河伯になったとか、人面で2匹の竜に乗っている冰夷(ひょうい)が河伯だとか、古いころの諸侯だった河伯を、のちに人びとが祀って神にしたとか、多くの説がある。」と在り(△2のp230)、『山海経』の注にも「河はまた河神・河伯・冰夷などと呼ばれる。」と在り(△2-1のp155)、やはり日本と同じで多くの説が在る様です。又、「水神(※1-3~※1-5)を玄冥(げんめい)というのは、『左伝』の説である。しかし『白沢図』では、色が黒く、赤目で、耳の長い子供のような罔象(もうしょう)(※1-6)だとか、大人に似た慶忌(けいき)だとかいう。『山海経』では人面虎身の天呉が水神だとする。」と在ります(△2のp229~230)。日本では後に罔象を「みずは」(※1-4、※1-6)と訓じますが、元々は中国の罔象(もうしょう)という水神なのです。

 そこで『山海経』を当たると「朝陽の谷の神を天呉(てんご)といい、それは水伯(※1-5)である。」と出て来ます(△2-1のp131)。

 左が『山海経』の天呉の図で、右が頭部の拡大ですが7つの人面が居ます(△2-1のp132)。河童の事を水虎(すいこ)(※1の[1])とも言いますが、これは『山海経』の天呉から来ていると思われます。水虎については後で触れます。正に道教(※3)の世界が見事に繰り広げられて居ますね。

 『史記』の「書」に「河渠書」が在りますが、その中で天子は「河の神」=河伯について次の様な歌を作り、

    ...<前略>...
  旧川に帰すれば神なるかな沛たり
  封禅せずんばいずくんぞ外を知らん
  わがために河伯にいえ、いずくんぞ不仁なると
  泛濫(はんらん)止まらず吾人を愁えしむ
    ...<後略>...


工事が中々進まない事を嘆いて居ます(△2-2のp207)。天子は河伯に「私に仁の道に反した所があったか?」と問いかけて居ます。
 又、もう一首の歌を作り、

    ...<前略>...
  長茭を搴(と)り美玉を沈め
  河伯許せども薪属(つ)がず
  薪の属がざるは衛人の罪なり
  焼いて蕭条(しょうじょう)たり
  ああ何をもってか水をふせがん
    ...<後略>...


と、長草を取り玉を沈めて河神を祀ったので河伯の許しが出ても薪が足りない。何を以て水を防ぐ事が出来ようか?、とここでも嘆いて居ます。

 日本では『日本書紀』に河伯という中国の言葉が日本に移入されていて、仁徳天皇の11年10月の条には「又将に北の河の澇(こみ)を防(ほそ)かむとして、茨田堤を築く。是の時に、両処の築かば乃(すなは)ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢みたまはく、神有しまして誨(をし)へて曰(まう)したまはく、「武蔵人強頸・河内人茨田連衫子二人を、以て河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞ぐこと獲てむ。」とのたまふ。則ち二人を覓(ま)ぎて得つ。因りて、河神(かはのかみ)に祷(まつ)る。」と書かれて居ます(△4のp240~242)。河伯(河神)に祭るとは、人身御供(=人柱)を行なうことです。皆さんも大阪長柄橋やその他の人柱伝説はご存知だと思いますが、古代に於いては難工事に際して神に犠牲を捧げて神の怒りを鎮めたのです。それは神聖な儀式でした。しかし未だこの時代は河伯に河童の意味は有りません
 因みに河川を表す言葉として「河」という字は中国で良く使われ「川」は余り使われません、例えば黄河や紅河です。逆に日本は殆ど「川」が使われ、「河童」は河伯と同じく中国から伝来したものでしょう。

 時代は下り、中国の明代後期(=1570年頃)に書かれた『西遊記』(※4、※4-1)には沙悟浄という両生類的な水怪が登場します。「紅色の髪の毛をふりかぶっている。2つの目が、赤いちょうちんをとぼしたようである。顔色が、青でもない、藍でもない。いかにも奇妙な色だし、その声は雷声。...<中略>...「降魔の杖」を授かっていた...<中略>...腹がへると水から出て、人間をつかまえて食い、腹がふくれると水の底に沈んで眠る、という両棲類の生活をまねている。」と出て来ます(△3のp231~234)。又、『西遊記の秘密』という本には沙悟浄の絵が載って居ます(△3-1のp71)。この両生類的両義性(即ち陸上生物水中生物)の故に沙悟浄を日本の河童のルーツの一つに挙げる学者も居ます。

 (3)中世に獺(カワウソ)のイメージと結び付く

 平安末期の『今昔物語集』巻27第5話「悪戯好きの池に棲む身の丈3尺許の水の精(※1-7)が捕らえられて盥(たらい)の水を要求し、それを差し出すと盥の水に消える話」が出て来ます(△5のp135~137)が、これなどは河童という言葉は未だ有りませんが明らかに河童の原像(=原イメージ)を見て取れます(△6のp17)。
 室町時代の古辞書『下学集』には

  (※5~※5-2)老いて河童(かはらふ)に成る」

と述べられて居り、同じく室町時代の古辞書『運歩色葉集』(1548年)には「頭に窪みが在って水をそこに入れると怪力を発揮する妖怪を河童と言う」と出て来ます(△6のp17)。室町末期頃から「河童」という言葉が出来、河童が水の精水神を変形伸縮して形作られて居ます。又、ここで獺(カワウソ)が出現しているのに留意して下さい(→カワウソは後で章を改めて扱います)。

 (4)江戸の好事家が今日的な河童のイメージを作り定着

 そして江戸時代に今日在る多様な河童のイメージが作られ定着ました(△6のp17~23)。今日の河童のイメージは凡そ江戸時代のものです。『水虎考略』(古賀侗庵著)には「相撲を好み、人語を解し、頭上が皿状の窪み、水掻やカメの様な甲羅が有り、肌がヌメッとしている」と書かれて居るそうです(△6のp18)が、特に本書が昌平坂学問所の儒者に依って真面目に追究されて居る点が注目に値します。江戸時代はこの様な好事家(=数寄者好き者)(※6、※6-1)を多数輩出した時代です。
 水虎(※1の[1])とは『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると、『本草綱目』(※7)に出て来る湖北省の川に棲んで居た怪獣で、外観は3~4歳の児童で体は矢も通さない程の硬い鱗に覆われて居て、普段は水中に潜って居り「虎の爪」に似た膝頭だけを水上に浮かべて居る、と在ります。この外観が児童(子供)という所が日本の河童と共通して居ます。水虎は元々は中国で考えられたものですが、日本に移入され江戸時代の好事家の手に掛かると、例えば鳥山石燕(1712~88年)は『今昔画図続百鬼』に於いて水虎の鱗をセンザンコウ(穿山甲)(※8)に擬して居ます。

 (5)近代の学問の成果 - 河童は水神が零落した姿で
                 トリックスター的両義性を帯びる

 時は下り、近代の柳田国男(※9)の『遠野物語』(※9-1) -遠野の人・佐々木喜善氏(鏡石は雅号、△7のp325)の語る話を纏めたもので、この本はローカルな民俗・民話が世の塵芥に埋もれずに残った貴重な実例として民俗学の金字塔的古典です- には、「川には川童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きわめて醜怪なるものなりき。」と記されています(△7のp38~39)。これをどう解釈するかですが、私などは近代初期の東北の農村では奇形児の出産が今よりはずっと多く、又「間引き」出産も有り、そうした事が江戸時代以前から続いて来た”事実”をカムフラージュする方便(※10)として河童とか狐の話が付加されたのでは、などと思って仕舞います。こういう話の方便としては確かに都合が良いのです。大体、童話とか童謡(わらべ歌も含む)とか、この様な口碑(※11)には、意外と残酷な話が”それと無く”隠されて居ます。又、今日言う所の”差別語”が使われたりします。
 柳田は河童という妖怪は水神が零落した姿だと考えました。「零落した姿」というのは、古代に於いては水神とか河神は人身御供という神聖な犠牲を要求したからです。それが何時の間にか河童に取って替わられて仕舞い、悪戯をする一方で農作業を手伝ったり秘薬を呉れたりします。オランダの文化人類学者アウエハント河童のトリックスター的両義性(※12、△8のp246)を指摘しましたが全く同感です。元々河童は両生類的両義性を具えた動物ですが、トリックスターだからこそ余計に”憎めない”存在と言えましょう。
 熊本地方では河童が秋に成ると山に入り山童(やまわろ)(※1-8)に成り、又春に成ると川に帰り河童に戻るとされて居ます。我々の祖先が遠い昔に農耕生活に慣れ平地に定住して行った後も尚、定住生活に同化せずに平地を離れ「川の民」「山の民」として”服わぬ”漂泊の生活を送った人々が少数乍ら居た時代の遥か昔の記憶かも知れません(△8のp247)。
 又、『遠野物語』の58話は「小烏瀬川の姥子淵の辺に、新家の家という家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽(うまふね)の覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥(ゆる)さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。」という話を伝えます。柳田も注に「この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。」と記す様に、これは「河童駒引」と言います。

 この研究は柳田から石田英一郎(※9-2)が引き継ぎ『河童駒引考』(△9)を著しました。序文には「謹みて この書を 柳田国男先生の霊前に ささぐ」と献辞が書かれて居ます。同書には「水中の神物が馬を水底にひきこもうとする話は、中国の文献にもいくつか見うけられるところである。たとえば漢の趙曄の撰とつたえられる『呉越春秋』にいう、「子胥曰く、椒丘訴は東海の上人なり。斉王の為めに呉に使し、淮津を過ぐ。馬を津に飲(みずか)わんと欲す。津吏曰く、水中に神有り、馬を見れば即ち出で、以て其の馬を害せん、君飲うこと勿れと。訴曰く、壮士当る所、何れの神か敢て干せんと。乃ち従者をして馬を津に飲わしむ。水神果たして其の馬を取る。馬没す。椒丘大いに怒り、袒裼剣を持って水に入り、神を求めて戦を決す。連日にして乃ち出ず。其の一日を眇す。遂に呉に之(ゆ)いて、友人の喪に会す。」...<中略>...このように馬匹、なかでも白馬を水神河伯に献げる例は、古より旧大陸の縁辺部にひろく見うけられ、柳田先生のいわれるように、わが河童駒引の伝説も遠くかかる供犠の古俗に由来することは、一応理解しえられるのである。」と在ります(△9のp51~52)。

 ちょっと脱線しますが、スラヴ(※13)には「水の精」(※1-7)が日本の河童と同じく駒引きをする話が多く在り、例えばヴァジャノイ(男性)「なまず(鯰)に馬代わりに乗って水の中を移動し、人々を水の中にひきずりこんで溺れさせようとする」とか、ヴォドニーク(男性)「川面の上に赤いリボンをつきだし、子供たちがそれに触れるとたちまち水の中へひきずりこむ」とか、東スラヴのルサルカ(女性)「その歌声や自分の美しさで人々を水の中にひきずりこむ」といった話が載って居ます(△10のp57)。
 私は【ブラボー、クラシック音楽!】という音楽会を主宰して居りましたが、この会で2007年11月7日(水)に皆さんと一緒にドヴォルザーク『歌劇「ルサルカ」』の「白銀の月」という歌を聴きました。この歌は正に「水の精」が歌う、とても美しい曲です。

 (6)九州地方に残る「兵主部(ひょうすべ)」という河童

 ところがです、九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真は河童を助け、そのお礼に河童たちは道真一族には害を加えない約束を交わしたという伝承が大宰府周辺に在るのです。菅原道真という人は天神信仰のみ為らず様々に拡大解釈され、意外な所に顔を出す事が良く在りますが、道真が九州地方の河童伝説にも登場するのです。川を渡る時、以下の歌を唱えると水難に遭わないと言い伝えられて居ます。

    兵主部よ 約束せしを 忘るなよ 川立ち男 氏も菅原

 兵主部(ひょうすべ)はこの地方の河童の呼び名兵主神に関係有る名前だと思います。兵主とは『史記』の「封禅書」に八神(天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主)の一つ(△11のp157)として出て来る元々は中国の武神です。この外来神が平安前期に日本に採り入れられ「延喜式神名帳」には19の兵主神社(←但馬から山陰地方に多い)の名が記されて居ますが、我が国では祭神の意味は”ぼやけて”仕舞い大己貴神/素戔嗚尊/天日矛神/御食津神などが祀られて居ます。
 兵主部(ひょうすべ)は兵主神の眷属(けんぞく)(※14)と考えられますが、日本では兵主神の性格が今一はっきりしない儘にその眷属が何時しか河童に摩り替わったのは、「水神が零落した姿」である河童のトリックスター的性格に依るのでしょう。
 序でに、豊臣秀吉が日吉丸だった時、主人の織田信長は日吉丸をと呼びました(←私は幼少時に”貸本屋”で読みました)。日吉丸の役目は厩で馬の世話をする事ですが、猿猴(えんこう)とも言いは馬の保護者だったのです(△9のp214、232~233)。信長が日吉丸を猿と呼んだ裏にはそういう意味も込められて居たのかも知れませんね。しかし水辺の馬は「河童駒引」で狙われ、ここでもトリックスターとして河童が登場するのです!!
 どうです、河童は中々一筋縄では行かないという事がお解り戴けたと思います。実に「ケッタイ」な、しかし面白い存在です。私は背景色をケッタイ色の「真っ黄色」にして遣ろうかと思いましたが、辛うじて思い留まりました。このページの背景画は後に出て来ます

 ■河童に纏わる話あれこれ

 (1)全国の河童伝説のほんの一部を紹介

 ここでは全国の河童伝説のほんの一部を紹介し許して貰います。と言うのは、河童の話は全国津々浦々に広がって居ます -と言っても水辺に多い- ので、とてもここで全部を紹介するなど出来ません。興味の有る方はご自分で調べて下さい。ここで紹介するのは『日本伝説の旅(上・下)』(△12)と私が旅先で見付けたものです。

  ▲岩手県遠野市の常堅寺には河童狛犬が在るそうです。肖り商法です。
  ▲先ず宮城県加美郡色麻町(しかまちょう)に磯良神社が在り、延暦23(804)年に坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神(=安曇磯良)を勧請して祀ったもので、河童明神とか「おかっぱ様」という名で知られて居ます(△12(上)のp100~101)。境内至る所に河童の像が在り初夏の河童祭りでは河童踊りが奉納されます。ここの河童は縁結びに御利益があるとか。
  ▲同じく宮城県大崎市岩出山に田子谷カッパ明神(田子谷磯良神社)神秘的な沼の邉に建って居ます(△12(上)のp101~102)。昔、平泉の豪族・藤原秀衡の馬屋に虎吉という名の河童が仕えて居ましたが、或る時ちょっとした油断からバレて仕舞い主家を離れることに成りました。虎吉は各地を巡って田子谷の沼まで来ると、ここが気に入り終の棲家としました。虎吉は多くの子供を授かり子河童たちが月夜の晩に沼の邉で相撲を取ったりするそうです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 磯良神社の祭神は安曇磯良で、一説によると安曇磯良こそ「安曇一族の祖神」と目されて居ます(△13のp43~44)。ところが安曇磯良は頭に海草や牡蠣が付着しその醜さを恥じ海中に常に没して居るので、それが何時の頃からか河童のモデルに擬される様に成りました。
 ところで登山をする人はご存知と思いますが信州穂高には「河童橋」(→後出)という橋が在り、これも安曇磯良に関係に有るのかも知れません。と言うのは、この辺り一帯は北安曇郡・南安曇郡とか安曇野などが在り安曇氏が最終的に居住した土地なのです。安曇氏は古代の有力氏族で元は九州の志賀島 -金印出土で有名な島で志賀海神社が本貫- の海人族で、訳有って信州迄逃げて来て、この地に氏神を祀り穂高神社(※15)を建てたのです。


  ▲「カッパの子ゝコ(ネネコ)」(茨城県北相馬郡利根町、△12(上)の122~124)については後で述べます
  ▲茨城県牛久市のマンホール蓋河童がデザインされて居ます(右の写真、2007年4月10日撮影)。河童は良く見ると右手で打出の小槌を、左手で黄瓜(きゅうり)を掴んで嬉々とした表情です。「かっぱの里」と書いて在ります。右下の池にはが居て蓮の葉の上で跳ねて居ます。河童は両生類的両義性を具えた生物ですが、蛙は両生類ですから蛙と仲が良いのでしょう。
 牛久沼の河童を有名にしたのは牛久在住の小川芋銭(※16)という河童好きな日本画家(漫画も描いた)の様ですが、牛久[沼]という地名がそもそも「河童の棲息地で良く牛を引き摺り込むという説(△14のp186)が載って居ます。「牛を引き摺り込む」のは前述の河童駒引です。
 △6の著者は牛久沼はカワウソ説を唱えて居ますが、私も古くはカワウソではと思いますね(△6のp24)。
 ところで、当画面の背景画はこのマンホール蓋から採りました。

  ▲大阪市浪速区の瑞龍寺(鉄眼寺)では以前紹介した河童のミイラが在るそうですが、ここは非公開です。詳しくは「浪速のケッタイ」を参照。
  ▲岡山県津山市もマンホール蓋に河童が在りますが、この地方ではゴンゴと呼ばれて居ます。
  ▲大分県中津市寺町の鏡智山円応寺(浄土宗鎮西派)には河童の墓(墓には河童の”戒名”も有る)と河童の池(左下の写真、2011年5月25日撮影)が在ります(→大分県中津市の地図)。

 江戸中期、人間が毎日日照り続きで苦しんで居る時に相撲ばかり取って居た3匹の河童の頭目静誉寂玄上人に説経されて改心し、死んだら寺を「火の災い」から守ると約束し、その代わり頭の皿が乾かない様に(=河童の池)を掘って呉れと言ったそうです。円応寺の屋根瓦は火災除けに「水」の字が刻まれて居て水文瓦と言います(右上の写真、2011年5月25日撮影)。
 尚、円応寺の「河童の墓」のより詳細な話を「九州のケッタイ」に載せて在ります
  ▲松浦一酒造(株)(佐賀県伊万里市山代町楠久)のカッパ(河伯)のミイラ公開して居ます(→伊万里地方の地図)。私は2010年12月21日に遂にここを訪ねましたので、詳しくは「松浦一酒造とカッパのミイラ」を是非ご覧下さい。ここでは、カッパにミイラについて少しだけ紹介します。
 右がアクリルの容器に納められた河伯のミイラです。一部分では無く全身のミイラです。ミイラは目測で30cm弱です。足は鳥の脚みたいですね。実在しない生物 -貴方(又は貴女)は実在すると思ってますか?!- のミイラ造りには剥製技術が不可欠です。この技術を駆使して複数の生物から「ミイラなる物」を作り出しているのです。
  ▲大宰府周辺の兵主部(ひょうすべ)の話は前出
  ▲雲仙岳の中腹(長崎県雲仙市南串山町)に在る温泉山一乗院(真言宗)には河童の手のミイラが在ります(△12(下)のp216)。その昔、当山第八世赤峰法印が諏訪池の悪戯河童を退治した時の物とか。
  ▲「河童渡来之碑」が熊本県八代市の球磨川の前川橋の傍に在ります(△12(下)のp218)。この碑自体は昭和29(1954)年に急拵えで建てられたもので、八代市はこの碑文に基づいて八代河童共和国を作って居ますが、実は碑文を作った人は同共和国大統領を務めた人です。ですので碑文の全てが信憑性があるとは言い難いですが「昔、中国大陸から河童が群れを成して渡来し八代の海岸に上陸した。」という部分は古老の口伝と合致し、その河童の頭領を「九千坊」と言います(△12(下)のp219)。
  ▲河童のミイラとして伝わるものの内、実はカワウソの手であるというものが幾つか在り、熊本の志岐八幡宮(熊本県天草郡苓北町志岐)のもその一つです(△6のp23)。
  ▲その九千坊が福岡県久留米市の水天宮(※17)に祀られて居ます。水天宮と河童が縁が深いのは水神信仰(※1-3~※1-5)からです。

 (2)『利根川図志』が伝える河童

 『利根川図志』(赤松宗旦著)(※18、※18-1)という幕末の地誌に「子ゝコ(ネネコ)」という女のカッパの話が載って居ます(△15のp71~73)。引用すると「カッパといふ物、本草綱目の水虎(溪鬼蟲附録)なりといへど、正しく当れりとも見えず。...<中略>...望海毎談に、刀祢川(=利根川)に子ゝコといへる河伯あり。年々にその居る所変る。所の者どもその変りて居る所を知る。その居る所にては人々も禍ありといへり。げにカッパの害ある。談(ものがたり)多し。牛山活套中巻に、筑紫ノ方ニハ河伯ノ邪崇多シ。金銀花ノ前湯ヲ用ヰテ神効アリといへり。試むべし。手指を裁断したるを接(つ)ぐ薬の方を、カッパより受けたるといふ事、いかでと思ひしが、若(もしく)はさる事もや有らむ。」と在ります。
 河童は元々両生類的両義性を具えた上に、一方で害を為し他方で薬を施すという河童のトリックスター的両義性が見て取れます。水虎(※1の[1])とは中国起源の河童の称です。ここで「筑紫ノ方ニハ河伯ノ邪崇多シ。」と述べて居るのは上記の「九千坊」のことを言って居るのでしょうか?
 右上の図が『図志』に載って居るカッパ(河童)の図です(△15のp72)。

 「カッパの子ゝコ」については『日本伝説の旅(上)』に載って居る話の方がより具体的です。それに拠ると「元は利根川の上流、片品川(群馬県利根郡)に棲息していたのが、段々利根川を下り最後は大利根と新利根川に挟まれた[茨城県北相馬郡]利根町の加納家に住み着きました。それ迄の子ゝコは生け簀の魚を盗み、馬屋の中に繋いだ馬を引き込み、水泳をする子供の尻子玉(※1-9)を抜き、農作物や特にキュウリ畑を荒らし、女だてらに無双の暴れん坊でした。利根町の加納家の先祖は武芸に秀でて居ましたので子ゝコを捕らえ、屋根裏の小さな祠に祀り込め暴れることの無い様に誓いをさせました。それ以来すっかり心を入れ替えた子ゝコは、縁結びや安産や金儲けに霊験灼(あらたか)です。」という事です(△12(上)のp123)。そして加納家の子ゝコ神像カッパ神社の写真が載って居ます。『図志』に「年々にその居る所変る。」と在るのは利根川に沿って下降してた頃の話でしょう。河童の色々の御利益は、加納家は商売をして居たので河童を上手く利用したと考えられます。

 ところで『図志』の著者の赤松宗旦は「下総布川(ふかわ)の人」(※18)と在りますが、父(←父も赤松宗旦を名乗った)の時に播磨(今の兵庫県南西部)から出て来たので元は播州で、播磨の赤松氏と言えば豪族(※18-2)です(△15のp6)。岩波版の『利根川図志』の校訂と序文は柳田国男(彼も播州生まれ)が担当して居ますが、何と柳田には下総布川で医師を開業した兄が居て明治二十年の初秋に、私は遠い播州の生れ在所から出て来て、此処で医者をはじめた兄の家に三年ばかり世話になった。」(△15のp3)と序に記されて居る様に、赤松宗旦と柳田国男は因縁浅からぬ物が在りました。
 『図志』は著者の構想では利根川の源流から銚子迄を網羅して書こうと思った -現に地図は載って居る(△15のp34~45)- 様ですが、その構想を諦め現実的な「下総布川」辺りから下流を書いて居るのは布川が著者の地元だからです(△15のp7)。そこで著者の自慢を一つ紹介すると「利根川の鰱魚(さけ)は布川を以て最とす。これを布川鮭といふ。」(△15のp63)と在り当時は利根川で鮭が獲れたのです。更に銚子にはアシカ(葦鹿)(※5-3)が居て「肉は剛(こは)くして味佳ならず。」と在ります(△15のp373)が、何でも食って居るんですね!
 そして下総布川とは「古は府川と書きて」(△15のp145)と在り、今の地名では何て言うの?、というと下総布川は今の茨城県北相馬郡利根町、何と「カッパの子ゝコ」の最終棲家、そして『図志』の著者の地元だったのです!!

 ■カワウソ(獺)の伝承 - 河童の原像(原イメージ)が付与

 (1)カワウソ(獺)の伝承

 カワウソ(※5)の話の発端は私の場合は高知県須崎市の「鍋焼きラーメン」からでしたが、後半を引き取って「カワウソ(獺)の伝承」として当ページで纏める事にしました。切っ掛けのページは▼こちら▼です。
  日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)

 カワウソは明治の中頃迄は北海道から九州の全域に生息して居ましたが、河川環境の悪化毛皮漢方薬目的の乱獲の為に急速に数を減らしました。東北地方ではマタギ(※19、※19-1)も毛皮目的で狙いました(△6のp10~11)。獲物を食べる前に並べる習性が有ることから「川獺の祭」(※5-1)とか獺祭(※5-2)という言葉が在る位です。カワウソは岸辺で滑り台遊びをしたり貝を拾って来て石の上に並べたりと、中々悪戯好きで賢い動物なので、日本全国の川に住んで居た頃は人間との交流譚に事欠かなかったのです。そして交流譚の中にはカワウソが人を化かしたり悪戯(いたずら)をする所から、段々と「カワウソに河童の原像(=原イメージ)が付与され」て行くのでしょう。この章ではそんなカワウソについての伝承を探って行きます。
 以下に主に『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』よりカワウソの伝承を拾って見ます。

  ▲青森県津軽地方では人間に憑くものと言われ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けた様に成ると言われました。
  ▲石川県鹿島郡や羽咋郡では「かぶそ」「かわそ」の名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり、若い女性に化けて人を誑(たぶら)かしたり、人を化かして石や木の根と相撲を取らせたりといった悪戯をしました。
  ▲北陸地方/紀州/四国などでは、カワウソ自体が河童の一種として妖怪視されました。室町時代の古辞書『下学集』には「老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられて居る事は前に触れました。これなどは「河童の原像」の最たるものでしょう。
  ▲滋賀県の琵琶湖には老カワウソが湖の妖怪に成ったという伝説が伝わって居る(△6のp2)とか。
  ▲広島県安佐郡沼田町(現・広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」と言って、カワウソが坊主に化けてに通行人の前に現れ相手が近付いたり上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げる様な大坊主に成ったとか。
  ▲愛媛県ではカワウソが手招きして風呂を沸かしたので入れと言うから入ったら湯では無く枯葉だったそうですが、これなど”何方(どっち)も何方”という感じがしますが(△6のp27)。
  ▲アイヌの昔話では、ウラシベツ(北海道網走市浦士別)でカワウソの魔物が人間に化け美しい娘の居る家に現れ、その娘の魂を奪って妻にしようとする話が在ります。又、カワウソは健忘症であるという伝説は憑依状態のシャーマンと深い関係が有るそうです(△6のp29)。
  ▲中国では、日本同様に美女に化けるカワウソの話が『捜神記』『甄異志』などの古書に在るそうです。

 ここで石川郎女(※20の[4]、※20-1)が『万葉集』巻2-126番歌に次の様な歌を作り大伴宿禰田主に贈って居ます(△6のp30、△16のp78)。

        石川郎女、大伴宿禰田主に贈れる歌一首

    遊士(みやびを)と 吾は聞けるを 屋戸(やど)かさず
        吾を還せり おその風流士(みやびを)


 大意は「遊士(あそびにん)と聞いて居たけど、私という女性に宿も貸さずに帰した貴方は随分と間抜けな風流士(きどりや)さんね。」ということです、女性からこう言われたら辛いですな~。問題は「おそ」ですが、一般には「遅い」と同じ意味で間抜け/愚図/愚鈍と解されて居ます。ところが室町時代の一条兼良(※21)は歌学集『歌林良材集』の中で「おそ」(※5-4)を「カワウソ」であると主張して居ます。そうすると既に出た「川獺の祭」とか獺祭を指し、「魚を沢山並べるだけの風流士(きどりや)さん」と一層間抜け度が増します、いやあ、これは堪らん!!

 芭蕉も句を詠んで居ます(△6のp30~31)。「獺の祭」の季語はです。この句は1690(元禄3)年1月に芭蕉の門人・酒堂が膳所から瀬田を通って伊賀上野 -芭蕉の故郷- への旅に出る時に芭蕉が贈った句で、現在句碑が立って居ます。

    (かはうそ)の 祭みて来よ 瀬田の奥
                        芭蕉


 カワウソが山を越えるという意味を持つ「獺越(おそごえ)」(※5-4)という地名は各地に残って居ます(△6のp10~11)。又、獺野・獺沢・獺庭・獺渕・獺河内・獺郷などの地名にも名残を留めて居ます(△6のp3)。又、「かわうそ」(獺・川獺)に対し「うみうそ」(海獺)(※5-5)というのが居て両者は区別されて居ますが、海獺(うみうそ)は今のアシカ(※5-3)のことです。『利根川図志』に銚子のアシカが載って居ましたね、アシカも今は日本では絶滅しました。

 ところでカワウソって立つ事が在るんですねえ、右の写真はノドブチカワウソの立ち上がり姿勢です(△6のp25)。遠くから見ると丸で老人が立っている様でも在り手招きして居る様でも在ります。一方、カワウソは誤認され易い動物です(△6のp104)が、こういう姿もカワウソのエピソードを豊富にしているものと思われます。
 河童やカワウソの薬との結び付きもカワウソの肝が漢方薬として珍重された史実が在るのです(△6のp24、p34~35)。ミャンマーの市場では「カワウソのペニス」が売られ、中国青海省ではビロードカワウソの毛皮が売られて居ます(△6のp34~38)。これ位で驚いては行けません、古代にはカワウソを食べて居たのですから(△6のp4~5)。
 面白いのは「漁労パートナー」としてカワウソを利用するもので投網漁法・刺し網漁法が在るそうです。江戸時代の『和漢三才図会』(※7-1)には「今漁舟往々に蓄ひ馴らして之をして魚を捕へしむ」水獺(かはうそ)を漁労パートナーとして日本でも使った事を記して居ます。カワウソは中々賢いですから中国/インド/バングラデシュ/タイ/インドネシアなどアジア各国で”獺飼”が今でも行われて居ます(△6のp33)。更にカワウソは江戸時代には山脇東洋(※22)などが解剖に利用して居ます。江戸時代は未だ人間を解剖するのは御法度 -日本では『解体新書』という翻訳本を出すのが精一杯- でした。サルとかカワウソの臓器は人に似るとされて来ました。ヨーロッパでも宗教的に人の解剖を嫌悪して来た歴史が在り、やはりカワウソを解剖して居ますがヨーロッパにはサルは居ないのです(△6のp36~38)。又、カワウソの尾の毛は絵筆の材料にも使われて居り(△6のp32)、それだけカワウソは利用価値が高かったとも言えます。

 (2)人間に親しまれたカワウソ - 絵や狂言や小説など

 獺の絵と言えば狩野探幽作(※23) -京都妙心寺に「八方睨みの龍」を以前紹介しました- の「獺図」(右の写真)が知られて居ますが、江戸時代初期には川辺に普通に居たのです。
 ところで私は動物園以外でカワウソを見た事は有りませんが、ヌートリア(※5-6)は大阪の淀川で撮影したりビデオに撮ったりして居ます。これも軍用毛皮の為に移入されカワウソと同じ運命に貶められましたが、その後関西でしぶとく野生化し生き延びたもので、やはり賢い動物です。何しろカワウソの学名ルートラが訛ってヌートリアに成ったと言うだけあって、一見カワウソに似て居ます。でもカワウソはネコ目イタチ科、対するヌートリアはネズミ目ヌートリア科で、分類学上はネコとネズミ程違うんですが!!

 狂言『鱸庖丁(すずきぼうちょう)』「都の伯父から任官の祝いの為に鯉(こい)を頼まれていた甥は伯父の家に出掛け「鯉を橋の杭に結い付けて置いたらカワウソが食って仕舞ったので持って来れなかった」と嘘を吐きます。それならと嘘を見破った伯父は鱸(すずき)料理に始まって酒を勧め茶を飲ませ暇乞いの方法迄も身振りで教え、逆に一本取る」という内容ですが、カワウソと人間との親密な関係を窺わせます(△17のp259、△6のp3)。

 泉鏡花(※24)の小説『歌行燈』(1910(明治43)年)に次の様な話が載って居ます(△18のp15)。この話は既に2007年の▼下の桑名の記事▼で採り上げました。因みに『歌行燈』は主人公が実は能役者というのが話の縦糸で、それに何故か当時桑名に多かった按摩が横糸として絡みます。
  日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)

 さて、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を道案内に桑名ステーションに降り立ったのが『歌行燈』の主人公で、主人公は桑名の湊屋で酒を飲み乍ら自分を語り明治末期の桑名の情景が次の如くに描写されます(△18のp15~16)。しかし明治晩年には桑名にもカワウソが居たんですね、今では動物園でしか見ることが出来ませんが。

 「湊屋、湊屋、湊屋。此の土地ぢや、まあ彼處一軒でござりますよ。古い家ぢやが名代で。前には大きな女郎屋ぢやつたのが、旅籠屋に成つたがな。部屋々々も昔風其のまゝな家ぢやに、奥座敷の欄干(てすり)の外が、海と一所の、大(いか)い揖斐の川口ぢや。白帆の船も通りますわ。鱸(すずき)は刎ねる、鯔(ぼら)は飛ぶ。頓と類のない趣のある家ぢや。處が、時々崖裏の石垣から獺(かはうそ)が這込んで、板廊下や厠に點いた燈を消して、悪戯をするげに言ひます。が、別に可恐(おそろし)い化方(ばけかた)はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩きをして見せる。・・・時雨れた夜(よ)さりは、天保銭一つ使賃で、豆腐を買ひに行くと言ふ。其も旅の衆の愛嬌ぢや言うて、豪い評判の好い旅籠屋ですがな。・・・お前様、此の土地はまだ何も知りなさらんかい。」

 ところで解説 -私の持っている版は久保田万太郎が解説を書いて居る- には『膝栗毛』は鏡花自身の愛読書である事が載って居ます(△18のp98)が、この様に『歌行燈』の主人公には鏡花自身が投影されて居ます。又、

 「世の中にゃ、こんな炭火があると思ふと、里心が付いて尚ほ寒い。堪らねえ。女房(おかみ)さん、銚子を何うかね、ヤケと言ふ熱燗にしておくんなさい。些(ちつ)と飲んで、うんと酔はうと云ふ、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、えゝ、親方。」
 「へゝゝ、お方、それ極熱(ごくあつ)ぢや。」


と在る描写(△18のp14)も正しく鏡花自身の投影です。鏡花は極度の黴菌恐怖症(=潔癖症の一種)饅頭は自分の手が触れた所は捨てる話は文人仲間の間では有名です。酒は好きでしたが徳利が持てない位に極熱(△18-1のp97)にしました、そうする事に依って煮沸減菌効果が有ると信じて居たのです。
 現在、鏡花の『歌行燈』を戯曲化した久保田万太郎(△18のp98)が上の湊屋のカワウソを詠んだ句が湊屋のモデルに成った船津屋に在ります。この句で「かわをそ」と言うのがカワウソです。

    かわをそに 火をぬすまれて あけやすき
                        久保田万太郎


 それで最初に戻りますが、高知県須崎市のカワウソはもう疾っくの昔の1990年代に絶滅して居る様です(△6のp105)。その理由は道路建設/護岸工事/埋め立て/工場排水/農薬/魚介類の激減/漢方薬目的の密漁/観光開発/海洋汚染etcです(△6の106~116)。ニホンカワウソも戦前迄は未だ居りましたが、臨海工業地帯の造成などの環境破壊(=開発側は”近代化”と言う)は戦後急激に不可逆的(※25、※25-1)に進んだのです(△6のp104、107の表)。
 それにしても【参考文献】△6の著者は河童やカワウソの民俗学について豊かな見識を持っていて脱帽です。
    {このカワウソの章は2011年11月1日に追加、絶滅記事は2013年10月3日に追加}

 ■芥川龍之介の小説『河童』 - 『河童』はユーモア小説なり

 芥川龍之介(※26)が小説『河童』(1927(昭和2)年)(※26-1、△19)を書いて間も無く自殺し、小説中に既に自殺を受け容れてる様な表現が在るとか、例えば近代宗教を「生活教」(△19のp64)であるとする厭世的・諦観的な捉え方に、自殺に向かって居る心が読めます。又逆に「自己・社会・芸術などへの批判」(※26-1)が展開されていると見ることも出来ます。ですがそういう事は文学者に任せ、「河童が好き」だった芥川(△19のp126)が殆ど最後に書いた小説という視点で『河童』を採り上げます。
 私は『河童』はユーモア小説(→後出)であると捉えて居ます。行き成りトンデモナイ事を、それも結論的に言って仕舞いましたが、これは本当です。しかし芥川は若干捻くれて居て諧謔的で韜晦的なので、余人には少し解り難いのです。しかし、この小説を読み進むと随所に隠されたユーモア、即ちブラック・ユーモア(※27)に出会(くわ)します。

 では内容を見て行きましょう。先ずタイトルの脇に

  「どうか Kappa と発音して下さい。」(△19のp5)

と書いて在りますが大きな意味は無いでしょう。物語は30過ぎの彼(実は僕) -S精神病院のS博士の患者- の話の筆記という形で始まります。すると彼(実は僕)は次の様に言うのです。

  「最後に、──僕はこの話を終った時の彼の顔色を覚えている。彼は最後に身を起こすが早いか、忽ち拳骨をふりまわしながら、誰にでもこう怒鳴りつけるであろう。──「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきった、残酷な、虫の善い動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」」(△19のp6~7)

 「僕」は3年前に穂高登山の途中で河童に遭遇します。そして河童橋の所から河童界に今の言葉でワープ(※28)するのです(←その時「僕」は気絶して居ましたが)。そして以下の様な河童界の話が展開されます。

  「しかし、一番不思議なのは河童の皮膚の色のことでしょう。河童は我々人間のように一定の皮膚の色を持っていません。何でもその周囲の色と同じ色に変ってしまう、...<中略>...あるいは河童は皮膚組織の上に何かカメレオン(※2)に近い所を持っているのかも知れません。」(△19のp15)
  「ただ僕に可笑しかったのは腰のまわりさえ蔽わないことです。僕はある時この習慣をなぜかとバッグに尋ねて見ました。...<中略>...「わたしはお前さんの隠しているのが可笑しい」と返事をしました。」(△19のp16)
  「僕はある時医者のチャックと産児制限の話をしていました。するとチャックは大口をあいて、鼻眼鏡の落ちるほど笑い出しました。...<中略>...「しかし両親の都合ばかり考えているのは可笑しいですからね。どうも余り手前勝手ですからね。」」(△19のp16~17)
  「その代わりに我々人間から見れば、実際また河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたってから、バッグの細君のお産をする所をバッグの小屋へ見物に行きました。...<中略>...父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。...<中略>...すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしていると見え、こう小声に返事をしました。「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。...<後半略>...」...<中略>...が、そこにい合せた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息を洩らしました。同時にまた今まで大きかった腹は水素瓦斯を抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。」(△19のp17~18)


 ここでバッグというのが漁師の河童で、最初に遭遇し「僕」を河童の国へ連れて来た河童です。しかし父親が母親の生殖器に口を付けて生まれる前の我が子と会話を交わす、というアイデアは笑えます。そして「お父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。」という”生まれる前の我が子”の返事が芥川の現状をシニカルに表して居ます
 芥川は河童について良く研究しています。曰く「河童はいつも獺(かわうそ)を仮設敵にしている」と言って置いて、これは柳田国男さんさえ知らずにいたらしい新事実ですから。」と言ってます(△19のp38)が、前出の獺が河童の原像とも考えられている日本の俗信を知って居るのでしょう。獺に纏わる話も色々在りました。
 更にこれは全般に亘りますが、河童語は頭文字が"Q(q)"で始まる語が多い。それから河童がを恐れて居ることも(△19のp49)。又、河童の国でと言われるのは人非人と同じとも言って居ます(△19のp58)。
 ちょっと脱線しますが、芥川は石敢當 -沖縄の人を除いて石敢當など殆どの日本人は知りません- についても非常に詳しく研究して居ます。{この石敢當の記述は2013年6月30日に追加}

 もう少し先を続けましょう。

  「我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の樹』は樹というものの、成し能(あた)わないことはないのです。)のみならず雌の河童を造りました。すると雌の河童は退屈の余り、雄の河童を求めました。我々の神はこの歎きを憐れみ、雌の河童の脳髄を取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』という祝福を与えました。……」(△19のp70)

 交合(※29)せよ、と言ってるのが好いですね。詰まる所、河童の世界の王道は快楽主義・刹那主義(※30)だと説いて居る訳です。そう言えば日本にも居ました、芥川の河童的刹那主義人間が。江戸中期の八戸に安藤昌益(※31)という医者兼社会思想家が居て「人間の平等性」 -この考え自体が身分制社会の枠組を大きく食み出して居ましたが- を唱えましたが、その彼が又「北斗七星は天の茎嚢だ!」と言って居ます(△20(上)のp51)。彼は芥川とは思想的には別世界の人ですがその傑作大理論は面白い!

  「詩人トック君の幽霊に関する報告。(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載))...<中略>...我ら会員は年齢順に従い、夫人に憑依せるトック君の心霊と左の如き問答を開始したり。
 問 君は何故に幽霊に出ずるか?
 答 死後の名声を知らんがためなり。
 問 君──あるいは心霊諸君は死後もなお名声を欲するや?
 答 少くとも予は欲せざる能わず。然れども予の邂逅したる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。
 問 君はその詩人の姓名を知れりや?
 答 予は不幸にも忘れたり。ただ彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。 問 その詩は如何?
 答 「古池や飛びこむ水の音」。
 問 君はその詩を佳作なりと做すや?
 答 予は必しも悪作なりと做さず。ただ「蛙」を「河童」とせん乎(か)、更に光彩陸離たるべし。」
 問 然らばその理由は如何?
 答 我ら河童は如何なる芸術にも河童を求むること痛切なればなり。」(△19のp73~75)

 トックというのは自殺した詩人の河童です、つまり未来の芥川 -もうこの時には明確に自殺を意識していた(→後出)- ですね。これは全く笑えます、私は腹を抱えて笑って仕舞いました。つまり自殺(←既定の方針)を覚悟した芥川が、単純に「蛙」を「河童」に置き換えた句

    古池や 河童飛びこむ 水の音
              刹那主義者の河童にして未来の芥川、芭蕉をおちょくる


ブラック・ユーモアを放って居るのです。
 芥川は俳句については造詣が深く高浜虚子(※32)に師事し『ホトトギス』(※32-1)に投稿したり、又私家版で『澄江堂句集』を出して居ます。中でも芭蕉については『枯野抄』(△19-1のp75~86)、『芭蕉雑記』(△19-2のp212~237、続編が在る)などが在り、俳諧を「生涯の道の草」と寂びた境地に達した芭蕉を俳聖として崇めて居ました(△19-2のp213)。
 序でに芥川は音楽ではストラヴィンスキーのSP盤 -今我々が言うストラヴィンスキーとは少し意味合いが違います、この時代はリアルタイムのストラヴィンスキーなのです!- を聞いて居ました。彼は作曲家芥川也寸志の父君です。{この「芥川の芭蕉崇拝論」やストラヴィンスキーについては2013年12月25日に追加}

 そして最後に人生(=”河童生”)を達観した様な河童に出会います。彼は老河童で生まれ年を取る毎に若くなり、今は子供になって仕舞った”年寄り”です。その”子供年寄り”人間界に通じる綱梯子を教えて貰い、再び人間界に戻って来ました。河童は河童界と人間界を自由に往来が可能です。

  「僕の病はS博士によれば早発性痴呆症(※33)ということです。しかしあの医者のチャックは(これは甚だあなたにも失礼に当るのに違いありません。)僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士を始め、あなたがた自身だと言っていました。」(△19のp86)

 ハッハッハ、面白いですね。最後には人間界と河童界の主客が転倒して読者も患者にされて仕舞います。しかし、こういう事 -価値観の逆転- は時々起こって居るのです。例えばソ連、フセインのイラクなど、旧体制が崩壊した時に見られます。日本も原爆を浴びるまで”日本は勝つ”と信じてた人が大勢居ました。そして戦後は鬼畜米英から米国追従へと180度転換した訳です。
                (*_@)

 ここでちょっと、彼の簡単な年譜を、特に出生に纏わる秘話では無いが余り知られて無い話を一言(←全集版などの詳しい年譜を参照して下さい)。1892(明治25)年3月1日に新原家の長男として東京の京橋に生まれ、辰年辰月辰日辰刻生まれの為に龍之介と命名。その年の10月末、母フク発狂。その為、母の実家(芥川家)で育てられ、龍之介10歳の時に実母死去、12歳の時に芥川家の養子と成ります。1927(昭和2)年7月24日、田端の自宅で服毒自殺因みに有名な芥川賞1935(昭和10)年に菊池寛が自らが創始した文芸春秋社に設定しました(第1回受賞作:石川達三「蒼氓」)。
 さて自殺者の場合、死という事が「現実の問題」として眼の前に提示され、自分の人生や理想、或いは対社会という事を「限られた時間」でどう総括するか?、という問題が最後に残ります。芥川の場合、それについては「遺書」が語って居ます。河童忌は芥川龍之介の忌日7月24日を言い、この小説『河童』に因む名ですが「河童が好き」だった芥川に相応しい命名です。

 彼は大正8(1919)年には「春陽堂主人」の別号で谷崎潤一郎作品の広告を出したりもして居ます。そして大正11(1922)年に雑誌『中央公論』に載った『我鬼抄』から河童の歌を最後に一首紹介しましょう(△19-3のp426)。「戯れに河郎の図を作りて」と在ります。我鬼も芥川龍之介の号です。

    橋の上ゆ 胡瓜(きゅうり)なぐれば 水ひびき
           すなはち見ゆる 禿(かぶろ)のあたま

                        我鬼


 芥川が若し自殺をしなかったら1945年の敗戦を50歳台前半で迎える -彼は息子を戦死させて居る(←芥川は既に「あの世」に召されて居ますが)- 訳で、そう思うとあの時死んでて良かったんだと、妙な考えですが私にはそう思えるのです。そして彼はあの世の河童界に居て後から遣って来る河童たちに『食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』と説いているのかも知れません!!

 ところで芥川の小説『将軍』(1922年発表、△19-4のp143~172)というのを読んだら -何故こんなマイナーな小説を読んだかと言えば前述の石敢當絡みですが- 芥川はこの頃から既に自殺を考えて居たのではと感じました。この小説は芥川が1921年に従軍記者として中国視察旅行に行った事が土台になって居て、明治天皇崩御に殉じ夫人共々自殺した乃木希典将軍(殉職は1912年、※34)が主人公です。しかし将軍の「自殺」に焦点を合わせて終わって居るのです。戦時下で検閲も有る中で、わざわざ10年も前の事を題材に選びその様なストーリーにしたのかは意味深長なものが感じられます。芥川の自殺が1927年ですから5年も前の事です。未だこの時は自殺決行などと思い詰めては居ませんが、最初の自殺のイメージの種子がこの頃に出来て少しずつそれが心の裡で大きく成って行ったのだ、と思えて為りません。{この小説『将軍』の段は2013年12月10日に追加}

 ■結び - 柳田先生の若かりし頃

 河童学講座では柳田国男の『遠野物語』について”お勉強”しましたが、民俗学者として偉大な業績を残した柳田先生は若い頃は文学青年だった!、という話は余りと言うよりも殆ど知られて居ませんね。それについて興味有る方は[田山花袋を文学散歩#3]、即ち
  「妻」「野の花」(柳田国男の悲恋)-布佐('A wife', 'Field flowers', (K.Y's tragic love), Fusa, Chiba)

を参照して下さい。
 柳田の年譜(△7-1のp443~455)を見ると若かりし頃は文学青年で詩歌を同人誌や雑誌にどんどん投稿し詩集『抒情詩』(22歳、共著)を刊行して居ます。柳田 -旧姓松岡- は養子です。しかしその後に青春文学を柳田自身が封印したのです。それ故、文学青年柳田国男の話を今日知っているのは私の様な一部の好事家(※6)だけと成りました。
 その後の柳田国男の歩みは改めてここに記す必要は無いでしょうが、直ぐに民俗学に進んだ訳では無く、その前に官僚をそれも一流の官僚(←ちょっと癖の有る官僚)を勤め上げました。民俗学の仕事では私はやはり当ページで述べた『遠野物語』(1910年刊、民俗学を確立した書)『蝸牛考』(1930年刊、方言周圏論を導く)を挙げます。

 年齢では芥川龍之介より17歳上ですが若き柳田は芥川と近い世界 -柳田は詩とか短歌- を歩んで居り、1927年に自殺した芥川とは異なり柳田は第二次大戦を生き延び高度成長も半分位見て大往生しました。
 芥川の小説『河童』がユーモア小説である、というのは多分に皮肉を込めての表現ですが如何でしたでしょうか。それにしても河童伝説は彼方此方に在りますので、皆さんも探してみて下さい。
 これで「河童考」を終わります。どうも有難う御座いました。

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:河童(かっぱ/かわわっぱ)は、(カハワッパの約)。
 [1].water imp。想像上の動物。水陸両生形は4~5歳の子供の様で、顔は虎に似、嘴(くちばし)は尖り、身に鱗(うろこ)や甲羅が有り、毛髪は少なく、頭上に凹みが有って、少量の水を容れる。その水の有る間は陸上でも力強く、他の動物を水中に引き入れて血を吸う。河郎。河伯(かはく)。河太郎。水虎(すいこ)。旅の人。かわっぱ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].水泳の上手な人。
 [3].頭髪の真ん中を剃り、周りを残したもの。特に女子用の断髪は「おかっぱ」
 [4].見世物などの木戸に居て、観客を呼び込む者。合羽。
 [5].(川に舟を浮かべて客を呼ぶことから)江戸の柳原や本所などに居た私娼船饅頭(ふなまんじゅう)。
 [6].(河童[1]の好物であるからと言う)キュウリ(胡瓜・黄瓜・木瓜)の異称。「―巻」
※1-1:河伯(かはく)とは、[1].河を守る神。河の神。河神。元は中国より伝来。太平記14「いかなる―水神なりとも」。
 [2].河童(かっぱ)。
※1-2:童(わっぱ)とは、(ワラワ(古くはワラハ)の転)
 [1].男の子を罵って言う語。又、男の子自身の卑称。浄、用明天王職人鑑「―に仰せつけられば」。
 [2].子供が無理・我儘を言うこと。又、その言葉。わんぱく。
 [3].乱暴な者を罵って言う語。
 [4].軍中の間者。すっぱ。
 [5].年少の下僕。〈日葡〉。
※1-3:水神(すいじん/みなかみ)は、水、特に飲用水・灌漑用水などを司る神。又、火災を防護する神。水伯。後撰和歌集恋「水神(みなかみ)に祈るかひなく涙川」。
※1-4:水の神(みずのかみ)は、水を司る神。罔象女(みずはのめ)。神代紀上「―罔象女」。
※1-5:水伯(すいはく)は、水の神水神
※1-6:罔象(みずは)/罔象女(まずはのめ)とは、(古くはミツハ)水を司る神。元は中国の罔象(もうしょう)。〈神代紀上訓注〉。
※1-7:水精/水の精(すいせい/みずのせい)は、水の精。を言う場合も在る。
※1-8:山童(やまわろ/やまわっぱ)は、熊本県などで、山に棲む想像上の動物。河童が秋に山へ入って山童に成り、春には又、河童に成って川に戻ると言う。
※1-9:尻子玉(しりこだま)とは、肛門に在ると想像された玉。河童に抜かれると、腑抜けに成ると言われる。傾城買二筋道「―をぬかれねへよふにしや」。

※2:カメレオン(chameleon)は、爬虫綱トカゲ目カメレオン科に属するトカゲの総称。樹上生活に適応し、体は左右に扁平、表面に顆粒状隆起が有る。長さ数cmから60cm。普通、緑灰色で不規則な斑点が混在、体色を変えることで著名。眼は大きく、左右独立に動き、別々の物を見る。頭部は箱状で、縦走隆起や角の有るものが在る。長い舌を持ち、これを伸ばして昆虫などを捕食。尾は長く、後端を樹枝などに巻き付ける。アフリカ/マダガスカル/インド/南ヨーロッパを中心に約80種が分布。

※3:道教(どうきょう、Taoism)は、中国漢民族の伝統宗教。黄帝老子を教祖と仰ぐ。古来のアニミズムや巫術(=シャーマニズム)や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之(こうけんし)に依って改革され、仏教の教理を取り入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護を受けて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在迄広く行われる。

※4:西遊記(さいゆうき)は、この場合、明代の長編小説(1570年頃の作)。四大奇書の一呉承恩作。百回。唐僧の玄奘三蔵孫悟空猪八戒沙悟浄と共に、様々な妖魔の障碍を排して天竺に至り、大乗経典を得て帰るという筋。前代から多数在った三蔵取経の話を大成したもの。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4-1:四大奇書(しだいきしょ)とは、中国の長編小説、水滸伝三国志演義西遊記(又は西廂記)/金瓶梅(又は琵琶記)の4書を言う。

※5:川獺・獺(かわうそ、otter(ニホンカワウソは Japanese otter))は、ネコ目イタチ科の哺乳類。体長約70cm。イタチに似、体は褐色。四肢は短く、(みずかき)が有って泳ぎに適し、水中で魚などを捕食。毛皮は良質。ヨーロッパからアジアに広く分布するが、日本では高知県西部以外は絶滅。特別天然記念物。古来の俗説に、人語を真似て人を騙し、水に引き込むと言う。河童の原形ともされる。ニホンカワウソオソ。カワオソ。〈文明本節用集〉。
※5-1:川獺の祭(かわうそのまつり)とは、[礼記月令「孟春之月…獺祭魚」]川獺が捕えた魚を並べることを、祖先の祭をして居ると見立てて言う語。正月をその季節とする。かわおそのまつり。獺祭(だっさい)。季語は春。
※5-2:獺祭(だっさい)とは、[1].カワウソが多く捕獲した魚を食べる前に並べて置くのを、俗に魚を祭るのに譬えて言う語。獺祭魚。
 [2].転じて、詩文を作る時に、多くの参考書を広げ散らかすこと。正岡子規はその居を獺祭書屋と号した
※5-3:海馬/葦鹿/海驢(あしか、sea lion)は、(アイヌ語)アシカ科の哺乳類の総称。アシカ/オットセイ/トドなどを含み、6属14種。又、その一種。雄は体長約2.4mに達し、焦茶色、雌は小形。日本近海では絶滅、現在カリフォルニア近海とガラパゴス付近のみに分布。海獺(うみうそ/うみおそ)。海驢(みち)。〈和名抄18〉。
※5-4:獺(うそ/おそ/だつ)は、カワウソ。〈和名抄18〉。
※5-5:海獺(うみうそ/うみおそ)は、アシカの異称。
※5-6:ヌートリア(nutria[スペ], coypu[英])は、(カワウソの学名ルートラの訛)ネズミ目ヌートリア科の哺乳類。頭胴長50cm、尾長40cm程。毛色は褐色で、水中生活に適応し後足の指間に水掻きが有る。夜行性で水草や貝類を捕食。南アメリカ東部の草原や湿地の原産だが、毛皮獣として養殖され、世界各地で野生化して居る。日本では軍用毛皮獣として移入飼育されたものが、西日本各地で野生化。水辺の作物を荒らすのと、堤防に大きい巣穴を掘り危険な為、駆除される。沼狸。海狸鼠(カイリネズミ)。コイプ。

※6:好事家(こうずか、dilettante)とは、[1].物好きの人。
 [2].風流韻事を好む人。好士。
※6-1:好き者(すきもの)とは、[1].dilettante。風流な人。好事家(こうずか)。すきしゃ。数寄者。源氏物語若紫「笙の笛持たせたる―などあり」。
 [2].lecherous fellow。好色の人。堤中納言物語「この―叩けり」。

※7:本草綱目(ほんぞうこうもく)は、中国の代表的な本草書。明の李時珍の著。52巻。本草1890余種の漢薬を釈名・集解・気味・主治・修治・発明・正誤・付方の各項に亘って解説、処方8160。1578年に成り、96年刊。日本には1607年頃渡来し版行され、日本人の校勘本も多い。日本の本草学発展に寄与。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7-1:和漢三才図会(わかんさんさいずえ)は、図説百科事典寺島良安著。105巻81冊。明の王圻(おうき)の「三才図会」に倣って、和漢古今に亘る事物を天文・人倫・土地・山水など天・人・地の3部105部門に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。1712年(正徳2)自序、13年林鳳岡他序。和漢三才図会略。

※8:穿山甲(せんざんこう、pangolin)は、(中国名から)センザンコウ目(有鱗類)センザンコウ科の哺乳類の総称。1科1属7種が現存。体長30~90cm、体の外側は角質の鱗に覆われ、長い尾を有す。鱗の色は黒褐色から黄褐色。東南アジアアフリカに分布。前足に鋭い鉤爪が有り、木に登ることも出来る。歯は無い。昼は穴に隠れ、夜出て、長い舌で専らアリシロアリを食べる(アリクイ目の近縁)。敵に会えば体を丸めて身を守る。鯪鯉(りょうり)。ラーリー。石鯉

※9:柳田国男(やなぎたくにお)は、明治・大正・昭和時代の民俗学者(1875~1962)。兵庫県生れで旧姓松岡。井上通泰の弟、松岡映丘(えいきゅう)の兄。東大卒。詩人として出発。宮内省官吏貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。1932年同社を退き、以後本格的に民間伝承の研究活動に入る。この間、1913年雑誌「郷土研究」を刊行し、民間に在って民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学研究所を設立し、日本の民俗学研究の基礎を築いた「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。1951年文化勲章。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9-1:遠野(とおの)は、岩手県南東部の市。遠野盆地の中心、北上盆地と三陸海岸とを結ぶ交通上の要地。柳田国男の「遠野物語」で知られる。人口2万8千。
※9-2:石田英一郎(いしだえいいちろう)は、文化人類学者(1903~1968)。大阪生れ。東大・東北大教授、多摩美術大学学長などを歴任。日本に於ける文化人類学の普及に努める。著「河童駒引考」「文化人類学序説」など。

※10:方便(ほうべん)は、[1].〔仏〕(upaya[梵])衆生を教え導く巧みな手段。真理に誘い入れる為に仮に設けた教え。源氏物語蜻蛉「仏のし給ふ―は」。
 [2].means。目的の為に利用する便宜の手段。手立て。「嘘も―」

※11:口碑(こうひ)とは、(碑に刻み付けた様に口から口へ永く世に言い伝わる意)昔からの言い伝え。伝説。

※12:トリックスター(trickster)は、[1].詐欺師ぺてん師
 [2].神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担う様な両義的な存在

※13:スラヴ(Slav)は、ヨーロッパ東部から北アジアに広く分布するスラヴ系諸語を話す人々。東スラヴ人(ロシア人/ウクライナ人/白ロシア人)、西スラヴ人(ポーランド人/チェコ人/スロヴァキア人など)、南スラヴ人(セルビア人/クロアチア人/ブルガリア人など)に大別される。人口は他地域への移民も含めて3億人近くに達する。

※14:眷属/眷族(けんぞく)とは、[1].relative。一族。親族。身内。親族(うから)。族(やから)。
 [2].vassals。従者。家子(いえのこ)。腹心の者。
 [3].仏・菩薩に付き従うもの。薬師如来の十二神将、千手観音の二十八部衆など。

※15:穂高神社(ほたかじんじゃ)は、長野県南安曇郡穂高町に在る元国幣小社。祭神は穂高見命綿津見命の子)。同郡安曇村の上高地に奥社が在り、その背後の明神岳と穂高岳とは穂高神の幽宮と言われて居る。

※16:小川芋銭(おがわうせん)は、日本画家(1868~1938)。名は茂吉。東京の牛久藩邸で出生。平民新聞などに漫画を載せ、後に日本美術院同人。牛久に住み、「河童百図」など河童を描いて著名。

※17:水天宮(すいてんぐう)は、
 [1].福岡県久留米市瀬下町に在る元県社。祭神は天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位尼平時子。舟人の守護神として尊信が篤い。全国の水天宮の総本社
 [2].東京日本橋蠣殻町に在る神社。1818年(文政1)久留米藩主有馬頼徳が[1]の分社として勧請したのに始まる。水神、又、安産の神。

※18:利根川図志(とねがわずし)は、地誌。赤松宗旦(義知)著、葛飾北斎他画。6巻。1855年(安政2)刊。著者は下総布川(ふかわ)の人。利根川沿岸の名所・旧跡・物産・風俗等を挿絵入りで詳述。
※18-1:赤松宗旦(あかまつそうたん)は、江戸時代後期の医師、地誌学者(1806~1862)。下総相馬郡布川村の開業医の傍ら、父初代宗旦の志を継いで「利根川図志」を完成させた。名は義知(よしとも)。著作は他に「銚子日記」など。
※18-2:赤松氏(あかまつし)は、姓氏の一。播磨の豪族。鎌倉時代佐用荘を本拠として興り、南北朝時代以降同国守護。室町幕府四職家(ししきけ)の一。

※19:「またぎ/マタギ」は、東北地方の山間に居住する古い伝統を持った狩人の群秋田またぎは有名。起源として磐次磐三郎(ばんじばんざぶろう)の伝説を伝える。まとぎ。山立(やまだち)。
※19-1:磐次磐三郎(ばんじばんざぶろう)とは、伝説で、狩人の元祖と言われる兄弟。山の神の難を兄弟で助け、或いは山の神の難産を一人は助けるのを拒み一人は助けたなどと伝える。万次万三郎(まんじまんざぶろう)。大汝小汝(おおなんじこなんじ)。大満小満(おおまんこまん)。

※20:石川郎女(いしかわのいらつめ)は、万葉集に見られる次の六人の女流歌人。全てが別人かどうか不明。
 [1].久米禅師と歌を贈答した女。
 [2].大津皇子と歌を贈答し、皇子が通婚した侍女。大伴宿奈麻呂に歌を贈る。山田郎女。石川女郎。
 [3].日並皇子(ひまみしのみこ)が歌を贈った大名児(おおなこ)の別名。
 [4].大伴田主に自ら求婚した女。石川女郎。
 [5].大伴安麻呂の妻で坂上郎女の母の内命婦邑婆(おおば)。石川朝臣。
 [6].藤原宿奈麻呂の妻。離別の歌が在る。
※20-1:郎女(いらつめ)とは、(イラはイロ(同母)と同源の接頭語)若い女子を親しんで言う語。〈景行紀訓注〉。←→郎子(いらつこ)。

※21:一条兼良(いちじょうかねよし/―かねら)は、室町後期の公家(1402~1481)。経嗣(二条良基の3男)の子。関白太政大臣と成る。博学多才、古典・仏教に通じ、和歌に長じた。著「尺素往来(せきそおうらい)」「公事根源(くじこんげん)」「花鳥余情」「樵談治要(しょうだんちよう)」「文明一統記」など。

※22:山脇東洋(やまわきとうよう)は、江戸中期の医家(1705~1762)。本名、清水尚徳。実験医学の先駆者刑死体を解剖、その結果を「蔵志」に記述し、旧説の誤謬を指摘。

※23:狩野探幽(かのうたんゆう)は、江戸初期の画家(1602~1674)。鍛冶橋狩野の祖。孝信の子。永徳の孫。名は守信。後、探幽斎と号す。幅広い画技を有し、幕府の御用絵師として、一門の繁栄を拓いた。法印に叙せられる。二条城・名古屋城の障壁画など数多くの作品を残す。

※24:泉鏡花(いずみきょうか)は、小説家(1873~1939)。名は鏡太郎。金沢生れ。尾崎紅葉に師事。明治・大正・昭和を通じてロマン主義文学に独自の境地を開いた。作「夜行巡査」「高野聖」「歌行灯」など。「婦系図(おんなけいず)」を始め、しばしば新派劇に上演。

※25:不可逆(ふかぎゃく、irreversibility)とは、逆戻り出来ないこと。「―変化」。←→可逆。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※25-1:可逆(かぎゃく、reversibility)とは、逆戻りし得ること。←→不可逆。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※26:芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)は、大正時代の小説家(1892~1927)。別号、我鬼・澄江堂主人。東京生れ。夏目漱石門下。菊池寛・久米正雄らと第3次・第4次「新思潮」を刊行。「鼻」「芋粥」で注目された。作「羅生門」「地獄変」「蜘蛛の糸」「偸盗」「河童」「歯車」「或阿呆の一生」など。芸術至上主義の洗練された技巧と、古典に題材を求めた理知的作風で新理知派・新技巧派の代表とされた。しかし遺書「或る旧友へ送る手記」中に「将来に対する唯ぼんやりした不安」を書き残して服毒自殺。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※26-1:河童(かっぱ)は、芥川竜之介作の短編小説。1927年「改造」に発表。河童の社会に託し、自己・社会・芸術などへの批判を成したもの。

※27:ブラック・ユーモア(black humor)は、不安・不吉・残酷さ・無気味さを感じさせるユーモア。

※28:ワープ(warp)とは、(「歪(ゆが)み」の意)SFで、空間の歪みを利用して瞬時に目的地に移動すること。

※29:交合(こうごう、sexual intercourse, coitus)は、性交。交媾。交接。

※30:刹那主義(せつなしゅぎ、epicureanism)とは、過去や将来を考えず、唯この瞬間を充実すれば足りるとする考え方。

※31:安藤昌益(あんどうしょうえき)は、江戸中期の医者・社会思想家(1707?~1762)。出羽の人。1744(延享元)年から八戸で町医者を開業。自然真営道と称する社会改良案を提唱儒仏の教説を排し、一切の人の農耕に依る生き方を説き、男女万人の平等を唱えた。著「自然真営道」(全101巻の稿本)、「統道真伝」など。

※32:高浜虚子(たかはまきょし)は、俳人・小説家(1874~1959)。本名、清。愛媛県松山生れ。二高中退。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠の客観写生を説いた。「五百句」「虚子俳話」など。「俳諧師」「風流懺法」など写生文の小説でも知名。文化勲章。
※32-1:「ホトトギス」は、俳句雑誌。1897年(明治30)正岡子規主宰・柳原極堂編集の下に松山市で発行。翌年、東京に移し高浜虚子が編集。俳句の興隆を図り、写生文・小説などの発達にも貢献。現在も続刊

※33:痴呆/痴呆症(ちほう[しょう]、dementia)は、(senile dementia は老人性痴呆[症])一旦個人が獲得した知的精神的能力が失われて、元に戻らない状態。普通、感情面/意欲面の低下をも伴う。脳の腫瘍/炎症、中毒/血液循環障害などに由来。麻痺性痴呆[症]の類。加齢に因る事も有る(老人性痴呆[症])。

※34:乃木希典(のぎまれすけ)は、軍人(1849~1912)。陸軍大将長州藩士。日露戦争に第3軍司令官として旅順を攻略。後に学習院長明治天皇の大葬当日、自邸で妻静子と共に殉死

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『図説 日本の妖怪』(岩井宏實監修、近藤雅樹編、河出書房新社)。

△2:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。
△2-1:『山海経 中国古代の神話世界』(高馬三良訳注、平凡社)。
△2-2:『史記2 書・表』(司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫)。

△3:『完訳 西遊記(上)』(村上知行訳、現代教養文庫)。
△3-1:『西遊記の秘密』(中野美代子著、福武文庫)。

△4:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△5:『今昔物語集 本朝部(下)』(池上洵一編、岩波文庫)。

△6:『ニホンカワウソ-絶滅に学ぶ保全生物学』(安藤元一著、東京大学出版会)。著者は河童やカワウソの民俗学についても深い知識を持って居ます。

△7:『遠野物語・山の人生』(柳田国男著、岩波文庫)。
△7-1:『桃太郎の誕生』(柳田国男著、角川文庫)。

△8:『歴史読本特別増刊・事典シリーズ 日本「神話・伝説」総覧』(新人物往来社編・発行)。

△9:『新版 河童駒引考』(石田英一郎著、岩波文庫)。

△10:『世界の神話伝説 総解説』(自由国民社編・発行)。

△11:『史記2 書・表』(司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫)。

△12:『日本伝説の旅(上・下)』(武田静澄著、現代教養文庫)。

△13:『日本の古代 3 海をこえての交流』(大林太良編、中公文庫)。

△14:『日本地名ルーツ辞典』(池田末則・丹羽基二監修、創拓社)。

△15:『利根川図志』(赤松宗旦著、柳田国男校訂、岩波文庫)。

△16:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△17:『能・狂言図典』(小林保治・森田拾史郎編、小学館)。

△18:『歌行燈』(泉鏡花作、岩波文庫)。
△18-1:『文人悪食』(嵐山光三郎著、新潮文庫)。

△19:『河童 他二編』(芥川龍之介作、岩波文庫)。
△19-1:『戯作三昧・一塊の土』(芥川龍之介著、新潮文庫)。
△19-2:『芥川龍之介全集 第六巻』(芥川龍之介著、岩波書店)。
△19-3:『芥川龍之介全集 第九巻』(芥川龍之介著、岩波書店)。
△19-4:『芥川龍之介全集 第五巻』(芥川龍之介著、岩波書店)。

△20:『統道真伝(上・下)』(安藤昌益著、奈良本辰也訳注、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):大分県中津市や伊万里の地図▼
地図-日本・九州地方(Map of Kyushu region, -Japan-)
補完ページ(Complementary):松浦一酒造(株)のカッパのミイラ▼
松浦一酒造とカッパのミイラ(Matsuura-ichi brewing and Kappa's mummy)
補完ページ(Complementary):カワウソの話の発端は
高知県須崎市の「鍋焼きラーメン」▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
補完ページ(Complementary):若き頃は文学青年だった柳田国男▼
「妻」「野の花」(柳田国男の悲恋)-布佐
('A wife', 'Field flowers', (K.Y's tragic love), Fusa, Chiba)

大阪長柄橋の人柱伝説▼
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
童謡に隠された「意外と残酷な話」▼
童謡は不思議な世界(Nursery song is the mysterious world)
”服わぬ者”について▼
都島の鵺と摂津渡辺党(Nue of Miyakojima and Watanabe family, Osaka)
延喜式神名帳について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
貸本屋の思い出▼
浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)
ケッタイ色や瑞龍寺(鉄眼寺)の河童のミイラは非公開▼
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
牛久市のマンホール蓋▼
ちょっと気になるマンホール蓋(Slightly anxious MANHOLE COVER)
中津市の円応寺の「河童の墓」の詳しい話▼
九州のケッタイ(Strangeness in Kyushu)
狩野探幽の絵について▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
カワウソと良く似たヌートリア▼
”生きている”淀川の入江(Live CREEK in Yodo-river, Osaka)
明治晩年にカワウソ(獺)が居た桑名の街や
泉鏡花の黴菌恐怖症(潔癖症の一種)について▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
石敢當(石敢当)とは▼
石敢當-沖縄は何でこんなに多いの?
(Why are there a lot of Ishigantos ?, Okinawa)

芥川の河童的刹那主義人間を地で行く安藤昌益の傑作大理論▼
北斗七星は天の茎嚢だ!(Big Dipper is heaven's PENIS and SCROTUM)
SP盤のマニア▼
池田の蓄音機おじさん(Old-fashioned phonograph mania in Ikeda, Osaka)
芥川が谷崎潤一郎作品の広告を出したこと▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
リアルタイムのストラヴィンスキー▼
「モダニズムの音楽」概論(Introduction to the 'Modernism Music')
【ブラボー、クラシック音楽!】の活動履歴▼
(ドヴォルザーク『歌劇「ルサルカ」』の「白銀の月」という歌は
2007年11月7日(水)に聴きました)
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


総合目次に戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu