-- 2010.05.05 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2018.02.24 改訂
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2005年~09年の「珍にして奇なる光景」を掲載して来た
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
が満杯に成ったので、2010年以降を続編として当ページに掲載して行きます。「珍にして奇なる」と断じる「独断と偏見」の精神はその儘継承し、「珍奇」「奇妙」「珍妙」なる光景を羅列的に掲載して行きます。更に当ページでは”境の地”をテーマに加えます。もう10年位前から感じて居る事ですが、私が好いなと思う風景が大抵この様に”境の地”(=辺境)に在るのです。尤も私が好いと言うのは、世間一般では”変”だという意味ですので勘違い為さらぬ様に。”境の地”は今日では希少な風景を温存し、珍で在り奇で在るものを残して居ます。
尚、各節の<××.××.××:○○○○>は××.××.××が撮影日、○○○○が撮影場所です。又、引用文の漢数字はアラビア数字に変換しました。
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◆京都府神吉町「廻り田池」の”臨水墓地”
<撮影日=10.05.01:撮影場所=京都府南丹市八木町神吉>私は好天の2010年5月1日(土)に凡そ6年振りに京都樒原を再訪しました。目的は「鎧田」と呼ばれる棚田で樒原は6年前即ち2004年の”未知との遭遇”以来是非再訪したいと思って居た所です。樒原の棚田については新ページでご紹介する予定ですが、”珍にして奇なる”当ページでは帰りのバスの中から見た珍にして幽玄なる墓地を先にご紹介します。先ずは下の2枚の写真をご覧下さい、京都府神吉町「廻り田池」の”臨水墓地” -「臨水」は私の造語で、意味は「臨海」と同じく「水(水面・池水・湖水など)に臨む」の意味- です。
水面に滑り落ちそうな斜面に水面スレスレ迄へばり付く墓石群を見たのは初めてで、水面下にも埋没墓石が在りそうな一種独特な寂寥感には言葉が有りません。私にとっては初めて見た光景で、一瞬現実では無く幻想の世界に入り込んだ様な錯覚に襲われました。珍にして幽玄と形容して置きます。しかし、こういう光景は他所にも在るんでしょうか、??です。又、池名の「廻り田」も意味有り気で珍ですね。
私は何故かこの光景に強く惹かれます。綺麗事が流行りの昨今でが、太古の水葬(※1)を連想させる光景は時間軸を圧縮し私に彼岸の幻想を引き起こさせるのです。この地方を訪れて、何人の人がこの光景に気付くでしょうか?、誰も居ないのではと思います。ここを観光で訪れる人は居ません。ここは”境の地”(=辺境)なのです。
>>>★その後
この「廻り田池」の”臨水墓地”については「2010年・京都樒原の棚田」でも採り上げましたので、「京都樒原の棚田」と共にご覧下さい。
{この後日記事は10年5月14日に追加}
◆JR九州の吊り広告 - トマト大福はケッタイ!!
<10.05.27:福岡県~佐賀県>2010年5月27日、私は新幹線で博多駅に行きJR九州の「みどりの窓口」で「旅名人の九州満喫きっぷ」 -九州のJR普通列車・地下鉄・私鉄・三セク線を延べ3日間乗り放題で10500円=3500[円/日]- を今回初めて購入して地下鉄&JRで博多から唐津に向かいましたが、JR車中で「トマト大福」なるケッタイな食べ物の車内広告を見付けて仕舞いました(右の写真)。大福餅の中に完熟トマトがドカンと丸ごと入ってる有り様は強烈です。曰く
熟したフルーツミディトマトを
自家製白あんと柔らかいお餅で
優しく包みました。
果物のように甘くジュウーシーで、
酸味のきいたフルーツトマトが
驚くほどお餅や白餡とマッチした、
全く新しい
ヘルシートマトスウィーツです。
だとー!
ウヌー、この宣伝文に拠ればトマトと餅皮の間の黄色い層が白餡の様ですが、白餡と餅皮に包まれたトマトの味は斬新過ぎて私の頭の中ではベールに包まれて居ますが、機会が有れば挑戦したいか?、と問われれば何と無く味が想像出来るので私はパスします!
この後、私は次ぎの廃墟を見に行ったのです。
>>>★その後
トマト大福については、より詳しい記事を
九州のケッタイ(Strangeness in Kyushu)
載せましたのでご覧下さい。
{この後日記事は10年6月5日に追加}
◆松浦鉄道「浦ノ崎駅」 - 廃墟、開口した防空壕跡、桜のトンネル
<10.05.27:佐賀県伊万里市山代町>私が2008年から九州プロジェクトを開始してる事は[2005年~09年編]に記して居ますが、昨年(09年)に伊万里市(佐賀県)と佐世保市(長崎県)を繋ぐ松浦鉄道西九州線 -実は松浦鉄道は伊万里と有田(佐賀県)を結ぶ線も在りこれも西九州線と言います。これって”変”ですよね!- に初めて乗りました。この線は途中の「たびら平戸口駅」(長崎県北松浦郡田平町)という日本最西端の駅を擁する”最果てのローカル線”です。因みに、松浦は今は「まつうら」と読みますが昔は「まつら」と読み『魏志倭人伝』に末盧(まつろ)と出て来ます(△1のp40)。
で、この線の浦ノ崎駅(伊万里市山代町) -この駅は普段はガラガラですが、春の「桜のトンネル」(→後出)の時のみ俗人を引き寄せます- の500m位南側に実に心に沁みるビルの廃墟が在るのです(左の写真)。これは川南工業(株)浦之崎造船所跡で、1955年に倒産し打ち捨てられた為に蔦が覆って居ます。
右上の写真が廃墟の中です。元工場なので安全標語が手前の柱に「安全は器具と心のおきどころ」と書いて在ります -文字をちゃんと出すと背後が真っ黒に成って仕舞うのでこの位で我慢を- が、今と成っては虚しい感じがします。
実はこの廃墟は昨年車窓から見付け撮影しましたが、反対側の座席に座って居たので上手く撮れなかったので今年、この廃墟を撮影及び探検する為に私は態々大阪から遣って来たのですから、私も珍、変ですな、オッホッホッホ!
その帰路に見付けた -往路では気付かなかった- のが右の開口した防空壕跡(※2)で道路脇の小山に掘られて居ました。「防空壕」という言葉自体が死語化しつつ在る現在に於いて、通行量が少ないとは言え、今時道路脇に開口した儘の防空壕跡が存在する事は極めて珍しく貴重です。穴の手前には立て札が在り、
危ない!!
この防空壕は崩落のおそれ
があり、危険です。
中に入ってはいけません。
伊万里市都市開発課
と注意書きして在りました(←これも穴の中を見せる為に立て札は露出オーバー)が、見た所そう簡単には崩れそうに無く、穴の奥を覗くとどうやら「粗大ゴミ捨て場」として”お役立ち”の様でした。
私は又々「思わぬ発見」をして仕舞いましたが、「思わぬ発見」こそ旅の醍醐味なのです。そしてここも”境の地”(=辺境)です。
<<<★以前のデータ挿入開始
<09.03.29:佐賀県伊万里市山代町>それでは1年前に電車の中から撮った浦ノ崎駅の「桜のトンネル」の様子を載せて置きましょう。この日は曇りでしたので画面が暗いですが我慢して下さい。
ご覧の様に単線です。私が乗っているのが1輌編成のワンマンカーで各駅停車と、もうローカル尽くしです。
<<<★以前のデータ挿入終了
>>>★その後
廃墟マニアで軍事オタクの事情通氏(=横浜野毛に出没する”一発屋”の御仁)に拠ると、開口防空壕は横浜では珍ですが”半分米国領”の横須賀では幹線国道脇に普通に在るらしいです。横須賀ではパンパン文化も健在ですから!!
次は横須賀で”大股開きの防空穴巡り”でも企画しましょう。”半分米国領”と言えば、この松浦鉄道西九州線(伊万里~佐世保)の終点が横須賀と同じく”半分米国領”の佐世保です。
{この後日記事は10年6月12日に追加}
◆原城跡 - 心に沁みる「海を見詰める3体の石像」
<10.05.28:長崎県南島原市南有馬町乙>夕べは佐世保に泊まり5月28日には私は兼ねてより訪ねたいと思って居た原城跡に昼頃着きました。城跡は島原半島(※3)の南に位置し、私は佐世保からJR大村線で諫早(1時間20分位)に、諫早~島原外港は島原鉄道(1時間15分位)、そこから先は路線バス(外港~原城は30分位) -実は2008年迄は島原外港駅~加津佐間駅の区間にも島原鉄道が運行して居ましたが同年3月で廃線に成り、それで路線バスという訳です- に乗り継いで行きました。因みに私は「旅名人の九州満喫きっぷ」で旅して居ます。
廃線に成った事を知らなかった私は焦りましたよ、でも地元のお年寄りに外港駅のバス停を教えて貰いました、有難う御座居ます。初め若者に聞いたのですが若者はバス停を知らなかったですね、ここも車社会なのです。それに若者の数が少ない(=年寄り社会)ですね。この問題については後で又触れます。
肥前原城は日野江城の支城として1496(明応5)年に有馬貴純に依って築かれた平山城(※4)です。左の写真が往きのバスから撮った原城跡で、海は島原湾です。こうして遠くから眺めると平山城というのが良く解ります。バスは右の写真の根元(←写真から食み出して居ます)に着き徒歩15分位で先端の本丸に着きます。
右が原城跡の写真です。ご覧の様に何も有りません、「国指定史跡 原城跡」と書いて在るだけです。
原城はキリシタンの天草四郎(※3-1) -これは通称で本名は益田時貞(※3-1)と言いますが通称の方が圧倒的に通りが良い!、一般には天草四郎時貞が多い- が島原の乱(※3-2)で散った所です。
キリシタンに対する弾圧と民衆に対する苛酷な取り立てに、遂に一揆という形で怒りが爆発し1637年に天草四郎は若干16歳で反乱軍の救世主 -彼には常にカリスマ性と奇跡と伝説が伴う- と成り、反乱軍3万7千人が原城に籠城しました。幕府側は今風に言えば”国家反逆罪”と捉え極刑で対処しました。まぁ、天草四郎も幕府軍と戦って勝てるとは思っては居なかったでしょうから結末は悲惨です。翌1638年、彼は原城本丸で斬首され更に長崎出島で晒し首にされました、享年17歳。反乱軍は皆殺しにされ原城は3万人以上の死体が埋められた墓場と化し、城は破壊されました。それだけに原城はキリシタンや民衆の当時の悲哀や怨念が今でも抜け切って居ないと感じるのは、私だけでしょうか?
原城の本丸跡には天草四郎像と墓碑が在ります。その墓碑の説明板 -墓碑は磨耗して読むのは困難- には
○保○年 ○保○年
天草四郎時○○ → 天草四郎時貞○
○二月廿八○母 十二月廿八○母
と在ります。右は私が補いました。この墓碑はこの島原半島の西有家町の民家から移設したものです。
本丸の背後からは海(=島原湾)が見え私はしばし海を眺めていたのですが、海を臨む崖地の上に「海を見詰める3体の石像」を見付けて仕舞い(左下の写真)、良く見ると左端の像は右手に十字架を掲げて居ます(右下が拡大写真)。石像を正面から撮りたかったのですが、金網が廻らされて居り金網を乗り越えなくては為らないので止めました。
左端の像は
右手に
十字架
→
石像は島原湾や熊本方面を無言で見詰めて居ます。私は無神論者ですが、この光景は沁みますね~!!
この時、数名の中年のグループが木陰で30分位話し合いをして居たのですが讃美歌を歌い出しました。明らかに服装から、その内の一人はシスター -カトリック教の尼僧(※5)- です。彼等は讃美歌を歌い終わって帰路に着きました(多分車です)。私もそれを潮に原城を後にしました。原城跡は今もクリスチャン(Christian)の聖地なのです、これも沁みました!
私は事情通氏の様な廃墟マニアでは無いですが、廃墟が好きで、先程言った様に2年前迄は島原外港駅~加津佐間駅にも島原鉄道が運行してたので、バス停の原城の近くで廃線跡を探したら直ぐに見付かりました。右の写真です。
写真の左の方を嘗てレールが2本敷いてあり(←単線です)列車が走って居たのです。写真の右側が高く成って居るのは駅の跡です。もうレールは取り外してありますが、右下にレール等の廃材が未だ転がって居ます。
日本の田舎は車社会で列車の利用客が無く、街に若者が居ないですね。つまりワンパターン(=何処でも共通)の「日本の田舎の縮図」 -車社会と若者の過疎化- を見て取れます。
ところで私が乗った往きのバスのお爺さんは雲仙岳(※3-3)の噴火の時(=1990年)は大変だったと言いました。左が異様な姿を見せる雲仙岳頂上で、この写真はお爺さんと話し乍らバスの中から、FinePix-S8000fdの最高倍率18倍で撮りました。
私も覚えて居ます、確か火砕流(※3-4)という耳慣れない言葉は雲仙の噴火で馴染みの言葉に成りました。
実は雲仙岳は1792年に「島原大変肥後迷惑」(※3-5)と言われた火山性地震と有明海の津波の複合災害を引き起こし死者/溺死者1万5千人を出して居るのです、天草四郎の乱の155年後のことですね。お爺さんの話から「島原大変」を思い出した訳です。まぁ活火山ですからね、雲仙岳は。故に雲仙岳は雲仙天草国立公園として長崎/熊本/鹿児島に跨り、温泉が”売り”の風光明媚な観光地を形成して居るのです。島原~熊本間はフェリーも運行して居ます。
>>>★その後
<10.11.15:長崎県島原市深江町(雲仙岳を望む)>私は島原に来たのは2008年が最初で、次いで今回の2010年春と実は秋にも2回(何れも雲仙岳)来て居ますので、2年で都合4回です、好きですなぁ。
それでは11月15日(4回目の訪問)に訪れた時の写真を載せましょう(下の2枚)。この日は秋晴れの素晴らしい天候でした。5月は雲仙岳を南から撮ってますがこの日は東からで、しかも雲仙岳の中腹から撮って居ますので5月より大分近場から撮って居ます。
{この後日記事は10年12月14日に追加}
◆「野毛」が「野花」に成る?!
<10.07.14:横浜市西区野毛>私の生まれ故郷である横浜市西区ですが、こんな物を見付けました。商店街の名称を表示した何の変哲も無いものですが良く見て下さい、左下の写真を。「野花商店街」に成って居ます。そうです、「野毛」では無く「野花」 -読みは「のげ」なんでしょう- に成って居るのです。どうも「毛」という字を嫌って「花」に替えて居ます。そういうのを「毛嫌いする」と言いますね!!
左の看板の真ん中部分を拡大したのが右の写真です。するとこっちは「野毛」に成って居ます。正式な名称は「野毛」ですから、それを無視することは出来ないという訳ですね。「ジョイフル・タウン」と在ります。
きっとその内「野毛」を「野花」に名称変更してくれ、とか署名を集めたりするかも知れないですね。
こういうのはベッドタウンへ行くと良く見掛けられます。例えば「彩玉」とかね。埼玉県民 -埼玉都民と言う言葉が有り、他府県の人はダサイタマと言います- は市レベルでは結局「さいたま市」を作りましたが、埼玉県は依然として昔の儘で「彩玉県」にしたいのでは?!
埼玉や千葉や横浜などベッドタウンと言われる街はアイデンティティー(※6)が無いですな、だから”寝に帰る街”(=ベッドタウン)に成って仕舞ってる訳です。横浜の人は保土ヶ谷という名前を誇りに思うとか、野毛節でも歌ってみんしゃい、これは野毛の歌ですぞ(と言われて育ちましたが)!
野毛の人っていうネーミングの野毛英雄さん、如何ですか?、グワッハッハッハ!!
◆ユニークな飛行神社
<10.10.03:京都市八幡山土井>「関西歴史散歩の会」(会長:下村治男)で来ました。饒速日命(※7、左の写真)は天の磐船に乗って降臨したと記される物部氏の祖神です。この天の磐船が二宮忠八(※8)の時代には飛行機、今だったら宇宙船に相当するという訳です。それで飛行神社です。大阪府交野市の磐船神社 -この神社の周囲には不思議な磐座空間が在ります- から主祭神を勧請して居ます。薬祖神と在るのは二宮が後年製薬業を営んだ為です。
説明板には「当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動プロペラ式飛行器 -飛行機では無く飛行器は忠八自身の命名- の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉職者の尊霊を慰めるべく崇め祀った神社である。晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興に当り「空は一つなり」の信条のもとに、...<中略>...平成元年(1989)に全面改築をしたものである。」と在ります。
古代ギリシャ神殿式の拝殿や鳥居の材質がジュラルミン(※9)など、全面改築の成果です。
右の写真はプロペラの部分です。前に付いている説明板には、昭和58(1983)年10月下旬に大阪湾漁場に於いて大阪府岸和田市の漁師が、底引網に引っ掛けて岸和田漁港に引き上げた零式艦上戦闘機(=ゼロ戦)の機首部だそうです。
えらく魂消たでしょうね、このな物が引っ掛かって。しかし、未だ対戦中の遺物が在るんですね、海の中には!
最近では饒速日命を祭神にしてる所では縁起を担いで航空会社に勤めている人が初詣でに行く様ですが、ここは正真正銘です。
ところで、ゼロ戦という名前ですが、これは大日本帝国時代の皇紀2600年(※10)を基点とする呼び方に基づいて居ます。即ち
1940(昭和15)年:皇紀2600年 → 零式
41(昭和16)年: // 2601年 → 一式
12月 8日:真珠湾攻撃
42(昭和17)年: // 2602年 → 二式
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
45(昭和20)年: // 2605年 → 五式
8月 6日:広島に原爆を浴びる
8月 9日:長崎に原爆を浴びる
8月15日:2発の原爆で敗戦(=無条件降伏)(※10-1)
大日本帝国解体
ですね。ゼロ式(=零式)は1940年に開発されたという事が解る訳です。
◆飯田線・その1 - 天竜峡駅の虫食文化を垣間見る
<10.10.13:長野県天竜峡>私は飯田線を良く利用しますが、そして良く天竜峡駅(左下の写真)で降りて散歩を楽しみます。特に写真の様にこの日は好い天気です。
今度は右の写真を見て貰いましょう。これは天竜峡駅近くの土産物屋の客引き短冊です。左から「ざざ虫」「桧笠煎餅」「蜂の子」「水引細工」「野沢菜」「天竜峡万中」「信州そば」という売り物が”さり気無く”書かれて居ますが、良く見ると「ざざ虫」(※11、※11-1)、「蜂の子」(※11-2)が目を引きます。
「蜂の子」 -クロスズメバチの幼虫- は皆さんも幼少の頃食べた人が可なり居ると思いますが、「ざざ虫」を食った事が有る人は十中八九が信州人で、飯田線沿線の伊那谷(※11-3)は「ざざ虫」の中心地です。
信州以外の人は食べる所か「ざざ虫」ってどんな虫??、という話から始めなくては為りません。そこで広辞苑から「ざざ虫」の原料の写真を載せましょう(左右の写真)。左がカワゲラ(※11-1)の成虫、右が幼虫です。何れも実物の略2倍です。「ざざ虫」にするのは幼虫で、これをじっくりと佃煮にするのです。信州では珍味とされ客を持て成すのに出されたりします。貴方(貴女)はお一つ、どうですか?、ムッフッフ!!
「珍にして奇なる光景」を採り上げて居る当ページですが「ざざ虫」は間違い無く横綱級です。カワゲラは天竜川の様な渓流に居ますが、「ざざ虫」とは「ザザッ、ザザッと渓流のせせらぎの音」から来て居るのです。それでは渓流の風景を見て下さい。
左が天竜川の上流方向、右が下流方向を撮ったものです。右に見える橋は姑射橋(こやきょう)です(→後出)。
今はシーズンでは無いですが、ここは天竜川の川下りも在ります、右に舟が見えてますね。ここは天竜奥三河国定公園で、何と写真の場所へは天竜峡駅から徒歩5分位で来れるのです!
信州は昔から虫食文化が秀でて居ます。どうしてそう成ったか?、色々な説が在りますが基本は人間は何でも食って来たという事です。だから私は詮索はせずに唯事実だけを記します。他にも信州にはイナゴの佃煮(※11-4)、蚕の蛹の佃煮などが在ります。又、「まゆこ」 -蛾に成った蚕の雄の佃煮- も信州では珍重されます。総じて味付けは佃煮です。私は「ざざ虫」や「まゆこ」や「蚕の蛹」はパスしますが、「蜂の子」は幼少の頃食べました。「イナゴの佃煮」はパリパリしてビールの当てに好いですね。私が行って来た中国の虫食文化を是非ご覧下さい、もっと凄いでっせ!
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
尚、信州には馬食文化が有り、虫食文化と馬食文化のエリアが伊那地方(※11-3)で重なる事は面白い現象です。
◆飯田線・その2 - 天竜峡駅のホソミオツネントンボ
<10.10.13:長野県天竜峡>飯田線・その1の続きです。先程の天竜峡から見た姑射橋(こやきょう)に先ずは行って見ました。
左の写真が姑射橋で、橋名の拡大が右です。姑射橋は天竜峡に架かる橋ですが、竜の像が在り何か謂れが有りそうでその説明板も在りましたが、今回は省略します。
私は姑射橋を渡り向こう岸迄行き又直ぐに折り返し、左上の写真の右側の奥に在る林に入って行ったのです。何か予感めいた直感がそうさせました。橋の右手の林は鬱蒼として居ますが、林は一応整備されて居てベンチなども在ります。そこに居たのが右のホソミオツネントンボ(細身越年蜻蛉)です。♂♀は不明。実物は35mm~42mm位、写真は実物の略2倍です。
10月13日と言えば、ここ天竜峡では大阪などよりも寒く夜は大変冷えます。この日は好天で暖かいですが、この林の中は寒いです。正にこういう冷えた晩に「ざざ虫」が食いたく成るのでしょう、アッハッハ!!
さて、このイトトンボは成虫で越冬する数少ない種です(△2のp55~56)。これから冬を越して来年4月頃には成熟し体が空色に色付いて♂♀の区別も体色から容易に成ります。この近縁種にオツネントンボ(越年蜻蛉)というのが居て、やはり成虫で越冬しますが、こちらの方が体が細いのです。でも何匹も居た訳では無く私が見付けたのは2匹のみです。
分布は本州全土と成って居ますが河川環境の悪化などで年々数を減らして居るのではないでしょうか。それにしても誰が命名したか知りませんが、「越年(おつねん)」(※12)とは古い、多分に方言色の強い語です。
飯田線・その1と飯田線・その2で1時間余りの列車待ちを退屈する事無く過ごせました。そろそろ次の列車が来ます、私は天竜峡駅を後にしました。
◆飯田線・その3 - 東栄駅の鬼面駅舎
<10.10.13:愛知県北設楽郡東栄町>ここは奥三河です。飯田線の東栄駅(とうえいえき)は人目見るなり鬼面をして居るケッタイな駅舎です。私は飯田線は10回以上乗って居るので、もう何回もこの駅舎を見て居ますし写真も撮って居ますが、ここで紹介しましょう。
乗降客は殆ど有りません、つまり車社会と若者の過疎化(=「日本の田舎の縮図」)です。私もこの駅で降りた事は有りません。右の写真も対向列車待ち合わせの為数分止まったのでホーム迄出て撮りました。
さてどういう謂れで鬼面をしているのでしょうか?
そこで帰ってから調べると、駅舎のデザインは重要無形民俗文化財「花祭」 -元々は霜月(陰暦11月)に行われる神楽の一種- で使用される鬼面が元に成って居て、駅舎内には「ふるさと文化交流館」が併設されて居るそうです。そこで駅の歴史を繙(ひもと)くと、
1933年 三信鉄道の三輪村駅として発足
(三河川合~天竜峡間は三信鉄道に依って開通した)
1934年 三信三輪村駅に改称
1943年 三信鉄道が国鉄飯田線に吸収され、三河長岡駅に改称
1956年 東栄町の成立に合わせ東栄駅に改称
1985年 無人駅に
1987年 国鉄からJR東海に移行
1992年 駅舎改築に依り”鬼面駅”に
と在ります。しかし随分前から無人駅だったのですね、1人位は駅員が居ると思ってましたね、知らなかった。
ところで、設楽郡(したらぐん) -現在は北設楽郡だけですが旧くは北設楽郡と南設楽郡が在った- とは如何なる由来か?、私は予てから設楽(したら)の名称由来に興味を持って居るのですが複数の説が在り、今となっては詳らかでは在りません。その説を列挙すると
[1].稲穂が下垂(したたる)の転訛。
[2].新羅人のシラギがシタラに。
[3].麻織物の古名の倭文(※13)や倭文部(※13-1)の転訛。
[4].疫神であるシダラ神(志多良神/志多羅神/設楽神)。
[5].神に参拝する時の拍手シッタラの転訛。
などです(△3のp449)。
飯田線の旅は今回はこれで終わり。私は豊橋経由で大阪迄帰りました、「鉄道の日記念切符」を利用して。
◆松浦一酒造のカッパのミイラ
<10.12.21:佐賀県伊万里市山代町楠久>私は前から行ってみようと思い気になって居た松浦一酒造(株)に2010年12月21日(火)、遂に行きました。前からってどの位前から?、と言うと「浪速のケッタイ」で「瑞龍寺(鉄眼寺)のミイラ・コレクション」の章を書いた時が松浦一酒造のカッパのミイラ(※14、※15)の初出ですから、2004年以来ということに成ります。
カッパは漢字で河童/河太郎(河郎)/河伯などと色々な字が当てられますが、松浦一酒造ではカッパを河伯(かはく)(※14-1)と呼びます。それはミイラが入って居た黒っぽい箱が在り、この箱の表面に「河伯」と書かれて居るからです(左の写真)。それにしても河伯のミイラとは珍妙・奇妙・ケッタイで、尚且つインパクトが有ります!
右がアクリルの容器に納められた河伯のミイラです。一部分では無く全身のミイラです。ミイラは目測で30cm弱です。足は鳥の脚みたいですね。実在しない生物 -貴方(又は貴女)は実在すると思ってますか?!- のミイラ造りには剥製技術(※15-1)が不可欠です。この技術を駆使して複数の生物から「ミイラなる物」を作り出しているのです。
しかし、そう言って仕舞うと夢が無いですね、ここではやはり「河伯のミイラ」にして置きましょう。更に両生類的両義性(即ち陸上生物と水中生物)を感じ取って下さい。
この日の午前中、河伯のミイラと酒蔵を見学させて戴きました。午前中の見学者は私一人ということで、現当主の田尻泰浩氏(第18代目)には”即かず離れず”説明して戴き本当に有難う御座居ました。余りベタベタくっ付いて来たら煩いし、余り離れていたら質問し難いし、絶妙な距離感でした。多分、客の扱いに慣れているのです。
ところで、松浦一酒造の田尻家は筑後の豪族の家系で、鍋島直茂(1538~1618年)に依って現在の土地(伊万里市山代町)を与えられ移り住み、正徳6(1716)年に酒造業を興しました。しかし田尻氏は新制明治で「負け組」に成ったのです。四国に逃れていた田尻一族はその後各地に離散したと伝えます。現在、伊万里市東山代町の親種寺の檀家には山代町(松浦一酒造を含む)と福岡市の2つの田尻家が存在します。河伯のミイラのことは代々の当主から当主へと語り継がれて来たという話です。
私は720mlのお酒を家に送って貰い、これから熊本迄の道連れに1合瓶を買いました。熊本は出水の渡り鶴を見に行くのです。
尚、松浦一酒造や河伯のミイラについては、▼下▼に詳しく纏めて在りますので
松浦一酒造とカッパのミイラ(Matsuura-ichi brewing and Kappa's mummy)
ご覧下さい。
>>>★その後
尚、河童についての総纏めのページを作りましたので、興味有る方は是非▼下▼を
河童考(About the Kappa, that is, water imp)
を参照して下さい。
{この後日記事は2011年11月1日に追加}
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◆姨捨伝説の信州姨捨駅 - 知られざるスイッチバック駅
<11.01.06:長野県千曲市>姨捨伝説で一部の人たちに知られている姨捨駅がスイッチバック駅(※16)だという事は余り知られて居ません。
今、左下の写真の各駅停車が手前から向こう側に進み暫く行った所で停車します。そして今度はこちらに向かって進み、右下の写真の様に駅に停車します。私は駅に立った儘左下と右下の写真を撮りました。この列車は又向きを変え向こう側に発車します。
このスイッチバックを反対側から撮ったのが左下の写真です。レールが複雑に交差して居ます。
右下は雪に埋もれた姨捨の棚田です。姨捨駅は標高547mで駅からの眺望が素晴らしく、駅から見える斜面は棚田が美しい所で、更にその斜面を下った所を千曲川が流れ、その棚田に映える月は「田毎の月」のとして”知る人ぞ知る” -知らない人は全く知らない- 景勝地です。9月上旬~中旬が棚田の見頃です(→後出)。その姨捨山はJR篠ノ井線姨捨駅西方の冠着山(かむりきやま) -長野県千曲市大字羽尾と東筑摩郡坂井村との境、標高1252m)- とされて居ます。
冠着山の方向
↑
ここで信州の姨捨伝説の初出を「日本の現状は「多老」だ」の補遺ページからコピーしてお伝えしましょう(←補遺ページにはダイレクト・リンクは出来ないという決まりが在ります。えっ、そんな決まり誰が作った?、私です。アッハッハ!)。
「これは平安時代前半成立の『大和物語』第156段(※17)が伝えるものです(△4のp125~127)。
信濃国の更級という所に男が住んで居ました。若い時に両親を亡くし伯母が母親の如くに男の面倒を見て来ましたが、男の妻は醜く老いて姑(しゅうとめ)の様な伯母が嫌いで事有る毎に伯母の悪口を男に吹き込みました。伯母の腰が曲がり二つに折れんばかりに成ると妻は「こんなに成っても未だ死なないなんて」と思い、遂に「伯母を深い山の中に捨てて呉れ」と男に頼みました。愚かな男は明るい満月の晩に「お寺で有り難い法会が在るので見せて上げよう」と言うと伯母は喜んで背負われました。男は高い山の麓に住んで居たので、その山に登り高い峰の一人では到底下りて来られそうも無い所に伯母を降ろすと、男は伯母の言葉に返事もせずに山を逃げ下りて来ました。
男は家に帰ると、妻が腹立ち気に言った時は自分も腹が立ったが若い時から親の様に養って呉れた事が思い出され哀しい気持ちに成りました。まして伯母を捨てた山上から明月が出て居るのを見ると寝るに寝られません。男は
わが心 なくさめかねつ 更級や をば捨て山に 照る月を見て
という歌を詠むと、又山に行って伯母を背負って戻るのです。それ以来この山を姨捨山と呼ぶ様に成り、「慰め難い」の譬えに姨捨山を言うのはこの話に因ります。」
この話は平安末期成立の『今昔物語集』巻30第9話(※17-1)に略その儘採用されて居ます(△5のp242~244、△5-1のp442~444)。「わが心 なくさめかねつ」の歌は『大和物語』より成立年の古い『古今集』巻17-878に「題知らず、詠み人知らず」の歌として出て居ます(△6)ので更科地方には古くから姨捨伝説が存在した事は確かで、それが『大和物語』の話と同じかどうかは詳らかでは有りませんが。
又、他にも
あやしくも 慰めがたき 心かな 姨捨山の 月もみなくに
小野小町(続古今和歌集)
月もいでで やみに暮れたる をばすてに
なにとてこよひ たづねきつらむ
菅原孝標女(更級日記(△7のp69))
などと幾つもの歌に詠まれて居ますので、信州更科の姨捨山は都の上流貴族の間では古くから有名で、特に都の女性からは一種の神仙郷の様なイメージで憧憬されて居た様です。姨捨伝説の祖型は上の様に男が姨と嫁の間で葛藤するもので、同時にここが観月の名所である事を暗に言って居るのです。
>>>★その後
<11.09.08:長野県千曲市>私は同年の9月8日にもここを訪れ、駅から月と棚田の写真を撮りました(下の2枚)。この日は旧暦8月11日で月齢10.0の月(18:38頃)です。右下の棚田の写真は月を撮った直後にやはり駅から撮影しましたが、フィルム感度を上げる設定て撮りましたので、この様に明るく撮れました(三脚を使う)。江戸時代には駅の下方の長楽寺が俳句の名所と成り芭蕉を始め沢山の句碑が在ります。尚、この月のもっと大きい写真は
月見の宴(The MOON watching banquet in Japan)
に在ります。
駅の説明板に在る様な、お殿様のとか、設問が『竹取物語』やオペラのトゥーランドットばりの”三設問”だったりとか、棄てられる姨さんが知恵者だったりとか、更には設問の1つが蟻通明神擬いの話は、全て後の時代の付会で可なり逸脱してると言わざるを得ません。どうせ参考にするなら、現代小説で棄老を扱い異彩を放っている深沢七郎の『楢山節考』を挙げます。これも姨捨を信州の山の中に設定して居ます(△8のp34)。
以上見て来た様に、姨捨は古代から注目を集めて来ましたが現代人には何時しか忘れ去られようとして居ます。その理由は、この駅が各駅停車しか止まらず特急はあっと言う間に通過して仕舞うので、そんなローカルな事情(=姨捨伝説/スイッチバック/棚田/観月の短歌や俳句など)は情報価値が無いのでしょう。困ったもんです。
(>v<)
{この後日記事は2011年9月28日に追加}
◆雪深い所を平然と走る飯山線
<11.01.06:長野県/新潟県>姨捨駅のスイッチバックを撮影した後は雪の中を飯山線に乗り十日町(新潟県)迄に行き、又折り返して来ました。段々雪深く成って行きます、それが狙いです。実はこの線は去年も、しかし雪の季節で無い時に乗って居り、下調べは付いて居るのです。飯山線は豊野駅(信州)と越後川口駅(越後)を結ぶ線ですが、この線は信州(=長野県)と越後(=新潟県)の境(国境、県境)が雪深い(→後出)のです。何処か?、と言うと森宮野原駅(長野県)と足滝駅(新潟県)の間です。
もう戸狩野沢温泉駅(長野県)辺りに着くと可なり雪深く線路はもう埋まって居ます(右の写真)。右側の列車は対向の特急列車で、私が乗っているのは”例に依って”左側の鈍行の1輌編成のディーゼル・ワンマンカーですので、宜しく!!
この駅を過ぎると又直ぐに単線に成ります。森宮野原駅の1つか2つ手前の駅の単線区間を走っているのが左の写真です。線路は完全に埋まって居て僅かに「線路の跡」が見えるだけですが、鈍行列車はカーブの多い区間を”平然と当たり前に”走って行きます。私はこういう「人間力と自然力との拮抗」がとても好きですねえ。
でも、こんな写真を見たら東京や大阪の人はどう思うでしょうか。しかし、これが雪国では”当たり前”の風景なのです。
この議論については、既に2002年の論考で文字通り雪国の”当たり前”をメディア論も含めて論じて居ますので、▼下の論考▼を是非読んで戴きたいね。
東京が雪で大変?、じゃ札幌はどないするねん!(Snow in Tokyo and Sapporo)
さて、愈々森宮野原駅(長野県)に着きました。右の写真が森宮野原駅のモニュメントです。モニュメントには
日本最高積雪地点 飯山線
積雪7.85M 昭和20年2月12日記録 森宮野原駅
と書いて在ります。県境は雪深いと言ったのはこれです。又、今の面と90度を成す面には「とまとの国 秋山郷 下車駅」とも書いて在ります。
フーム、秋山郷ねぇ、懐かしいと言うか何と言うか暫く忘れていた名前を思い出し、平家落人伝説(※18、※18-1)ですね。鈴木牧之(←『北越雪譜』の著者)(※18-2)の『秋山記行』に秋山郷の貴重な生活誌が載って居ます(△9のp15~20)が、秋山郷とは新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村とに跨る地域で、正に”境の地”(ここは特に”ど辺境”)です。地図を見ると森宮野原駅からは奥志賀林道を相当南下し鳥甲山の南、津南駅(新潟県)からは国道405号を南下し中津川渓谷を過ぎた所に秋山郷は在り、今はこの辺り一帯は上信越高原国立公園です。
正に秘境(←事実、秘境100選の一つ)です。牧之は文化11(1828)年に生地塩沢から12も峠を越え秋山郷に入り、奥まった雪深い地に世間と隔絶した生活 -焼畑農業で粟、稗を栽培し熊狩りをし結婚は自分たち部落内部に限る- をし生き延びる姿を出版しました。こういう秋山郷の歴史を知る人間が千人に1人位は残って欲しいと願うばかりです。
森宮野原駅を出て新潟県に入り足滝駅に着く手前の区間を走行中の写真が左下です。線路は完全に埋まって居て、僅かに見える「線路の跡」を頼りに”平然と”走行するのは先程と同様です。この後長いトンネルに入り、抜けると足滝駅に着きます。
右の写真は終点の十日町駅で、ラッセル車(※19、※19-1)が写って居ます。背後の高架線は直江津駅と六日町駅を結んでいる北越急行 -愛称:「ほくほく線」- です。
雪国は人知れず力強い!!
<<<★以前のデータ挿入開始
<10.10.12:新潟県十日町市>左が十日町駅の高架線を走る北越急行の列車です、約3ヶ月前のデータですね。この線は去年乗り面白味の無い線ですが生活路線としては便利な線です。それはこの線が六日町駅を経由し越後湯沢駅に直結しているからです。
<<<★以前のデータ挿入終了
私は十日町駅で折り返して来ましたが豊野駅で飯山線を降り、信越本線 -長野駅と直江津を結ぶ線- に乗り換え関山駅迄行きました。左下が雪でメルヘンチック(Märchen-tic)な関山駅の外観です。
そして右が関山駅のホームで、氷結防止の水がホームを湿して居ました。これは日本の雪国の典型的な風景です、交差点などにも有ります。
私は以前に夜の富山駅前の交差点で知らずにこれの在る所を歩いて仕舞い両足びしょ濡れに成ったことが有ります。
関山駅では正月早々雪が降る晩にホームに出て居る人など居らず、僅か2、3人の客は皆待合室の中でした。
この日は長野に泊まります、早く暖かい酒が飲みたい!!
◆木次線・その1 - 八岐大蛇と奇稲田姫伝説
<11.04.01:島根県仁多郡奥出雲町(旧:横田町)>前日は松江では無く米子に泊まりました。宍道駅の近くでは宍道湖や出雲空港が見えます。
宍道駅(島根県)~備後落合駅(広島県)結ぶ路線が木次線(きすきせん) -木次は「きすき」と読みます(左の写真)- です。私は宍道駅から備後落合駅行きに乗り込みました。と言っても1本の列車では無く、私の”寄り道癖”から次の様な旅程です(この日は金曜日です)。岡山からは約3時間で大阪に着きます。
<山陰本線>
6:10 米子 → (6:43 松江) → 7:03 宍道
<木次線>
7:29 宍道 → 8:04 木次
9:40 木次 → 11:05 出雲横田
13:07 出雲横田 → 14:09 備後落合
出 三
雲 井
坂 野
根 原
駅 駅
└─┘
三段スイッチバック
<芸備線>
14:18 備後落合 → 15:42 新見
<伯備線> 15:50 新見 → 17:25 岡山
木次駅の時間を利用して駅周辺を散歩し、左下は斐伊川(ひいがわ)(※20)に架かる木次大橋です。「八俣の大蛇公園」では桜の開花を待ち屋台が準備されて居ましたが桜は全然咲いて居らず、未だ1~2週間掛かりそうでした。
所謂平成の大合併(住所は肥大化)に依って2004年に雲南市木次町(それ以前は大原郡木次町、右下の写真)に成りました。
木次線というのは、特に奥出雲地方は左の2枚の写真の様に、急カーブとかトンネルが多い、これだけで私なんかは嬉しく成ります。特に右の写真の様に長さ10数mの短いトンネルが在ります。ここをディーゼル機関車が車輪の摩擦音を軋ませ乍ら時速30km位で走るのです、恰好好い!!
木次線が走る奥出雲地方は出雲神話 -特に素戔嗚尊(※20-1)が八岐大蛇退治(※20-2)をし奇稲田姫(※20-3)に求婚する奇稲田姫伝説- で彩られて居ます。私は出雲横田駅(左下の写真)で下車し(←どうせここ止まり)、次の列車迄2時間有るので先ずは駅前の店 -1軒しか無い- で月見蕎麦(中央下の写真)で腹拵え、旨かった。出雲横田駅の赤い郵便ポストが好いですね。駅には雪が在ります。
駅の左側には稲田姫の像と説明が在りますが、それに拠ると、ここ奥出雲町(旧:横田町)が「稲田姫誕生の地」と書いて在りました(右下の写真)。
↑ ↑
雪 雪
左下が旧:横田町(今は奥出雲町)のマンホール蓋、八岐大蛇と奥出雲おろちループ橋(→後出)をデザインして居ます。
私は稲田神社(島根県仁多郡奥出雲町(旧:横田町)稲原)が在るという方向に散歩に出掛けました。すると中央下の「笹の宮」というのが在りました。ご覧の様に由緒有り気な笹を注連縄で囲って在り、誰かの胞衣塚(※21)の様にも見えます。立て札には「笹の宮/地名 稲田竹が花」と書いて在ります(右下の写真)。「笹の宮」の謂れについて、誰か地元の人に話を聞きたいのですが誰も歩いて無いのです...(>_<)。
「笹の宮」の謂れについて帰阪してから調べたら、稲田姫の「臍の緒」を切った竹(※21-1、※21-2)を祀って在るそうです。昔は胞衣刀(えながたな)(※21-3)と言って「臍の緒」は竹刀(たけがたな)(※21-4)で切った様です。という事で私が胞衣塚を連想したのもあながち的外れでは無かったのです。
直ぐ近くには稲田姫が浴びた「産湯の池」も在るそうです。
稲田神社の鳥居(左下の写真)が見えて来ました、私が地元の人が誰も歩いて無いと言った事がこれでお解りでしょう。中央下は「稲田神社」と書かれた鳥居の扁額です。右下は灯籠に在った稲田神社のマーク(六角形に姫)です。更に下右端の「稲田姫御誕生地」の銘板は誕生碑のものです。
左が稲田神社の本殿です。地面は雪で覆われて居ます。今日は4月1日です、念の為。
左下の説明板に在る通り、元は小さな祠だったものを昭和初期に横田町出身の小林徳一郎氏(九州小倉の石炭王)が社殿を新築したそうです。
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雪
誰もいない参道で帰りに見付けた「稲田 姫さん通り」の看板(右上の写真)が侘しさを増して居ました。この散歩で車は2、3台出会しましたが歩いている人には会いませんでした。
◆木次線・その2 - 出雲坂根駅~三井野原駅間の三段スイッチバック
<11.04.01:島根県仁多郡奥出雲町>木次線・その1の続きです。13:07に出雲横田駅を出た列車は13:30に出雲坂根駅を出ました。出雲坂根駅には天真名井と言う湧き水が在ります。
この路線には出雲坂根駅~三井野原駅間(何れも島根県)に何と三段スイッチバック(三段SB)(※16)が在り、これは非常に珍です。スイッチバックはローカル線に乗ると1路線に1つ位は出会すものですが(←遂この前に姨捨駅のスイッチバックを見たばかりです)、三段に成っているのは私も初めてです。何故三段か?、それは標高差です。出雲坂根駅(標高565m)~三井野原駅(標高726m)で、狭い所で標高差=161m在る訳です。
愈々第1段目のスイッチバックに入ります。左下の写真のトンネルの向こう側で列車は止まり、次に運転手が移動し逆進して右側の路線に入ります。この日は2輌編成でワンマンですから運転手&車掌は大変です。逆進する度に運転席が替わりますので、キーをガチャガチャ言わせ乍ら列車の中を移動します。左下の写真には鉄道マニア(鉄ちゃんと呼ぶ)のカメラが写って居ます。4月1日は金曜日ですが鉄ちゃんが数人乗ってました。
そして中央下の写真が三段スイッチバック(三段SB)です。判りますね、遥か下に1段目、真ん中に2段目、その上に3段目。しかし3段目は列車が線路の上に在りますから線路は見えません。右下の写真は三段SBを上り切った車輌から樹間を通して遥か下に見える出雲坂根駅です。
三段スイッチバック
↓
しかし、三段スイッチバックの急斜面を抜けると展望が一辺に変わります。先ず右の写真をご覧下さい。窓を開け体を乗り出して撮って居ますが、列車の下は雪です、4月1日に雪がこんなに在るんです。前方に赤い三井野大橋が見えて居ます。
実は次の三井野原駅は標高726mでJR西日本で標高が一番高い駅なのです。そしてこの辺りは比婆道後帝釈国定公園で東方近くには道後山(標高1271m)が在る -しかも道後山にはスキー場が在る- という、その様な立地なのです。
左下が奥出雲おろちループ橋(島根県仁多郡奥出雲町(旧横田町)、1992年に開通)ですが、高速道路も谷底から二重ループを描いて上って来るのが判ります。そして右下が三井野大橋(←奥出雲おろちループ橋の7つの橋の一つで最も標高が高い)に三国山(標高1004m) -実際、島根県・鳥取県・広島県に跨っている- です。斜面には雪が見えます。そう、ここも”境の地”です!
<<<★以前のデータ挿入開始
<10.12.23:広島県備後落合駅>最後に木次線の列車の写真です -勿論2011年4月1日の写真も撮りました- が、ここでは敢えて2010年12月23日に撮影した写真を載せます(右の写真、キハ120型気動車と言う)。というのは九州の旅の帰りに例に依って”寄り道癖”を出し、広島から態々(わざわざ)芸備線に乗り換えて三次駅に行き、三次から同じく芸備線で更に備後落合駅に着いたら、ここに入って来たのが右の木次線で、初めて見る車輌の色はとても印象的でした。
写真に写っているお母さんも車輌が珍しかったのでしょう、写真を撮って居ます。この時に密かに機会が有れば、否機会を作って、木次線に是非乗って遣ろうと思ったのです。それ程初めて見た時の印象が強かったのです。
この時の九州旅行では松浦一酒造のカッパのミイラ(当ページにも有り)を見学したり出水の渡り鶴を見ましたが、非常に成果の有った旅でした。そして、4ヶ月後に木次線に乗ったのですが、今見て貰った様に木次線は非常に素晴らしい路線です。木次線沿線には面白い所が有り私は非常に惹かれますね!!
後は11年4月1日と同じ時間で芸備線の新見駅を経由して大阪に帰りました。
<<<★以前のデータ挿入終了
ところで木次線の出雲横田駅~備後落合駅は奥まった”境の地”(=辺境)に在ります(だから奥出雲と呼び、特に先程出てきた三国山は正に3県に跨って居ます)。そんな辺境の地に奥出雲おろちループ橋が出来てからは皆車で利用する様になり、木次線の利用者が益々少なく成って、木次線を何時廃線しても影響無いという状況に成って居るのです。つまりワンパターンの車社会と若者の過疎化(=「日本の田舎の縮図」)という問題に収斂し世の中が単純化して居るのです。その為JRは2007年に奥出雲地方の木次駅~三井野原駅に古事記・日本書紀から採った愛称を付けて廃線に成らぬ様に抵抗を試みて居ます。実際この地方は雪深い地 -大阪では花見が出来る季節に未だ雪が在る- で、冬は積雪の為出雲横田駅~備後落合駅が長期間不通に成ったりして居ます。
◆大分県中津市・その1 - サラサヤンマのおしっこ(実は精子)を撮る!
<11.05.25:大分県中津市野依>大分県中津市野依新池は希少種のベッコウトンボ(鼈甲蜻蛉)が居るという情報を得て2011年5月24日、25日の両日、遥々大阪から新幹線で遣って来ました(→大分県中津市の地図)。私は2日共、吉富駅(福岡県)付近のレンタサイクル -この頃は八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)に良く行って居た- で自転車を借りて野依新池迄行きました、自転車で40分位です。今津駅から歩けば7、8分です。手前に新池、奥に中池が在ります。
私はベッコウトンボで有名な静岡県磐田市の桶ヶ谷沼にも2008年と2009年に訪れて居ます。ベッコウトンボの撮影は両方共成功して居ますが、「珍にして奇なる」を標榜している当ページでは、ベッコウトンボの珍は大した事では有りません。湿原に居るベッコウトンボやヨツボシトンボやハラビロトンボやサナエトンボなどは24日に撮って仕舞ったので、25日は野依新池の少し違う場所を物色しました。これから紹介する話こそ「珍」×「珍」と言えます。
先ず下の写真をご覧下さい、左下と中央下は略実物大です。これは小型(体長60~65mm位)のヤンマのサラサヤンマ(更紗蜻蜒)の♂(△2のp110)です。ちょっと緑掛かった色をして居ます。この本に「♂は低木がかたわらに生えていて、基底に適当な湿土があり、上空の開けた空間に縄張りを設定し、地上1mぐらいの高さで飛びながらパトロールするが、縄張りの範囲は長さが数m、幅2~3mぐらいのことが多い。」と書いて在りますが、正にその様な環境で縄張り飛行を始めました。このヤンマは中々止まって呉れないので、撮影したければ飛んでる姿を写すしか無いのです。皆さん、飛んでるトンボを撮ったこと有りますか?、非常に難しいですよ!!
私は何回もシャッターを切り出来の良い写真を掲示しているのです。先ず左下は正面写真でトンボの顔が写って居ます。
問題は中央下の写真です。見ると肛門付近の尿道から「おしっこ」(←実は精子)をして居ます、右下が肛門部分の拡大写真(原画サイズ)です。まぁ、トンボも「おしっこ(=精子)」をしますが、それを捉えて居るこの写真は凄い!、と我乍ら思いますね。正に決定的瞬間ですが、それ以上に「珍」×「珍」の偶然的所産です!!
↑ ↑
精子 精子を拡大
実はトンボの♂は生殖孔(精巣)は腹部の第9節腹板に開口して居ますが、サラサヤンマの様な不均翅亜目では♂の交尾器(陰茎(Penis))は第2・第3節腹板に在るので、精巣から交尾器へ精子を移動させる -これを移精と言う- 必要が有るのです(△2のp4~6、20)。移精はトンボにだけ見られる現象で他の動物には見られません。皆さん、トンボの♂♀が丸く連なって交尾している所を見たこと有りませんか?、無かったら△2のPLATE49の写真を見て下さい。この時♀は、♂の第2・第3節腹板に自分の尾部(第8・第9節腹板)を押し当てて居ます、これで受精します。
私が思うに、このサラサヤンマはもう30分近く縄張飛行を続けて居たので、移精した精子を持ちきれなく成ったので捨てたのでは(?)、と思います。
兎に角、そういう訳でサラサヤンマの精子を捉えているなどとは現場では判ろう筈も有りませんから、帰阪して写真をパソコンに取り込み、写真を精査して居て飛び上がる程驚きました。そして、私は嬉しく成りました!!
◆大分県中津市・その2 - 赤壁の寺
<11.05.25:大分県中津市寺町>サラサヤンマと格闘した後、私は吉富駅付近のレンタサイクルに乗って居ますので、午後は少し中津の街を散策しました。しかも何の案内書も見ずに気の向く儘に回りました。そうしたら「河童の墓」(※14)が在ったり、赤壁の寺が在ったりと、中津は中々面白い。それで、ここでは赤壁の寺を紹介しましょう。{「河童の墓」へのリンクは2011年11月1日に追加}
「浄土宗西山 赤壁 合元寺」と書いて在ります(左の写真)。そして赤壁が寺を覆って居ます(右の写真)。これは見るからに奇妙・珍妙です。何か謂れが在るに違い有りません。
寺の説明板に拠れば「当寺の開山・空誉上人は天正15(1587)年に黒田如水に従い姫路から中津に来ましたが、同17(89)年に如水が宇都宮鎮房を中津城で騙し討ちにし、家臣らは中津城を出て当寺を拠点とし奮戦し最後を遂げました。上人も如水の子の長政に福岡城で誘殺されました。上人は宇都宮鎮房の庶子とか。」と在ります。
上人は言わば上司親子に因って自分と父が騙し討ちに遭った訳ですから、その怨念は深く「当寺の白壁は何度塗り替えても血痕が浮かび上がり遂に赤壁にした」そうです。
◆大分県中津市・その3 - ビリケンクラブ
<11.05.25:大分県中津市(通称:宮島町通り)>次は中津の飲み屋街 -この通りは宮島町通りと言い、この通りが「飲み屋街」だということは右下の写真で、通りに面して「飲み屋」の看板灯がずっと出ている事で判ります(未だ午後3時位なので点灯はして無い)- で見付けたのが左下と右下の写真です。大阪の人には御馴染みのビリケンですが地方に於いては珍です(→大分県中津市の地図)。
先ず「味処 かかし」が通りに面したお店(左の写真)です。看板灯の「かかし」の顔は「へのへのもへじ」です。ここは和風ですね。
右のビリケンクラブは「味処 かかし」の奥に引っ込んだ所に在り、それで赤い矢印で奥を指してるのです。こちらは後でネットで調べたら住所は中津市大字島田でライヴハウスでした。しかし「味処 かかし」とビリケンクラブの看板が2つで1セットに成って居る様で中々「乙」な雰囲気です。
因みに私はビリケンについては2004年に徹底的に調べて在ります、▼下▼を参照して下さい。まぁ、ビリケンはケッタイや!
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
ところでビリケンは、大阪の人は”通天閣生まれ”と思い込んでいるかも知れませんが、生まれはアメリカのミズーリ州です。大阪人は更にケッタイや!!
◆大分県中津市・その4 - JR中津駅の「日本一長い鱧(ハモ)の椅子」
<11.05.25:大分県中津市>私は吉富駅で自転車を返し、小倉に寄って新幹線で帰阪します。ところが何故か又々”寄り道癖”が出て仕舞い、列車で隣の中津駅迄引き返しました。中津駅(大分県)と吉富駅(福岡県)は県を違えて居ますが、間を流れる山国川(※22)を渡れば直ぐ着いて仕舞う駅間距離が短い区間です。しかも列車の時刻表を見れば解りますが、小倉行きの各駅停車は行橋駅とか新田原から出て仕舞い、吉富駅からは結局中津駅発の列車に成るのです。それじゃ、中津へ戻ろうという訳です。しかし”寄り道癖”が功を奏したのですから、人間何が幸いするか分かりませんね。
左はJR中津駅の「日本一長い鱧(ハモ)の椅子」ですが、これは奇ですね。風倒木で出来ていて長さ10mの椅子です。ここも車社会で、この「鱧の椅子」に腰掛けて居る人は居らず10mという長さが却って閑散感を増幅させて居ます。
何でも「一村一品」という運動を中津市は展開してるそうですが、中津が昔から鱧(※23)の本場という話は聞いたことが無いので、それ故に奇なのです。
鱧料理の本場は京都・大阪の関西です。これは小骨を骨切りするんですが、その音が「トントントーン」と料理屋の近くでして、この音を聞くと京都の祇園祭とか大阪の天神祭の季節だなぁ、と関西人は思います。「祭り鱧」という言葉が在る位です。夏の湯引きは旨い、私は鱧料理が大好きです。ところが東京の人は鱧(ハモ)を気持ち悪がって食わんね、これは東京人が食う真っ赤な醤油汁の蕎麦や饂飩を関西人が食わんのと同じです。この好みの違いは歴然として居ますね。
私は若い頃から関西志向だったので、関西に行ったら鱧を食おうと思って居ましたね、特に鱧鍋が好きです。私はその後中国へ行き、蛇・犬・豚の脳味噌・血豆腐・蠍(さそり)などを食い完璧に国籍不明人に成りました、ブワッハッハッハ!!
フーム、よう解らんけど中津は中々奇やケッタイで頑張ってるやん。皆さん、中津は「1万円札の御仁」だけでは無いですゾ!!
◆高知県須崎市・その1 - 鍋焼きラーメンとはケッタイな
<11.07.24:高知県須崎市>昨日高知市に泊まった私はどこか寄り道をして行こうと思いつつ土讃線に乗りました。と言っても地方のローカル線の事、土讃線も高知より奥まった方へは極端に本数が減ります。私は高知発6:10の”専用車”(=各駅停車)に乗り、この列車が須崎(※24)という駅で7:43~8:07迄停車する僅か20分を利用しました。ところが、須崎市が中々ケッタイなのです。
先ず、左の写真。「鍋焼きラーメン」の看板、500円と書いて在りますね。鍋焼きと言ったら「うどん」と相場が決まって居ますが。
そして右の写真は駅に戻って来た時に気が付いたのですが、JRも出して居たんですね。食べているのは明らかに鍋焼きラーメンです。で、食べている動物はカワウソ(※25) -或いはニホンカワウソか- なのです。何故カワウソかは須崎市・その3で説明しますので、ここは「鍋焼きラーメン」に拘泥ります。
そこで「須崎市」公式サイト(△10)より、鍋焼きラーメンについて。
「スープは鶏がらの醤油味で、麺は歯応え有る細麺、具はネギ/竹輪/生卵と至ってシンプル。一番のポイントは器が土鍋である事。そして、何故かタクワン(古漬け)が付いて居ます。」
「事情通に依ると、「谷口食堂」(店主:故谷口兵馬さん)というお店が発祥との事。このお店は戦後間もなく開業、ご主人が亡くなったのを機に、昭和55(1980)年頃に閉店。しかし、嘗て昼食時や夜間には何時も満席で「今だにその味をよう忘れん」という熱狂的なファンも居る程。「伝説の名店、幻の味」として語り継がれて居て、今「鍋焼きラーメン」を出しているお店の殆どが、谷口食堂の流れを汲んで居ます。
では、この元祖・谷口食堂が「鍋焼きラーメン」を取り入れたのは何故?、それは保温の為です。出前の時に普通の丼を使うと冷めて仕舞う為、ホーロー鍋で届けて居ました(←それが近年、土鍋に変わって行った)。お客様に本当に美味しい儘で食べて貰いたい、そんな”おもてなしの心”から生まれて来たものです。だから、ストレートの細麺も固く食べる頃にちょうど良い感じに成るのです。
現在、須崎の街に「鍋焼きラーメン」を提供して居るお店は40軒余り(平成23(2011)年3月末日現在)。」
そうなんですか、いや御見逸れ致しました。味付けの基本が私の好みとピッタリです。私も「鶏がらで醤油」に拘泥って居て、大阪や九州のトンコツ味は食いません。「鍋焼きラーメン」を食べて見たかったですが、7:43~8:07の早朝の散歩でしたので未だ店は遣ってません。でも解ります味付けが、「鍋焼きラーメン」は○です!
◆高知県須崎市・その2 - 須崎駅の開運トイレとは?
<11.07.24:高知県須崎市>次は下の写真です。
須崎駅開運トイレ「はぴれっと」です(左上の写真)。「はぴれっと」は多分ハッピーとトイレットの合成語でしょう。左上の写真の説明パネルを拡大したのが右上の写真です。須崎駅前開運隊がパワーストーンと呼んで居る天然石で”運が付く”とか。「災い流して運がつく」と言ってます。さぁ、どうですか。トイレだけに「ウンが付く」のは解りますが!
◆高知県須崎市・その3 - カワウソ
<11.07.24:高知県須崎市>次は本命のカワウソ(獺/川獺)(※25)です。「須崎市観光マップ」という大きな地図が駅前に有るのですが、それに載って居ました。「須崎市観光マップ」の一部を右に表示します。それでニホンカワウソは須崎市のマスコットに成っていて先程の鍋焼きラーメンの宣伝に一役買って居る訳です。そこで再び「須崎市」公式サイト(△10)より、記事を拾うと
「遊び好きな賢い動物で、岸辺で滑り台遊びをしたり貝を拾って来て石の上に並べたりします。泳ぎは達者ですが生まれた時から泳げる訳では無く親が子に泳ぎ方を教えます。須崎市では新荘川や依包川や押岡川などで4月~9月頃に掛けて確認され、冬場に繁殖(1頭~3頭)します。
須崎市で1974年7月25日、上分公民館そばの新荘川で1頭の見慣れぬ動物が発見され、それが、特別天然記念物であるニホンカワウソと確認されました。ほとんど絶滅状態で幻の動物といわれていただけに、このニュースは日本中をかけめぐり全国的な話題となりました。また、翌1975年には大阪セメント須崎工場の食堂に侵入したのが発見され、1979年には、新荘川や依包川、押岡川などで4月から9月頃にかけてしきりに出現し、テレビ局や新聞社、地元の人のカメラなどがその姿を捕らえ、数多くの記録が残りました。このような中で、新荘川流域住民が地域ぐるみでカワウソを守り育てようと「新荘川の自然とカワウソを守る会」を発足させ、市議会においてもニホンカワウソの保護問題について「早急に対策を打ち出すように」との環境庁への意見が採択されました。また、県・市など関係者が集まり「カワウソ保護対策会議」が開催され、河川の土木工事での環境への配慮、パンフレットの配布、たて看板の設置、カワウソの餌の確保など多くの保護対策が提案されました。」
と在ります。
カワウソは明治の中頃迄は北海道から九州の全域に生息して居ましたが、河川環境の悪化や毛皮目的の乱獲の為急速に居なく成りました。獲物を食べる前に並べる習性が有ることから、「川獺の祭」(※25-1)とか獺祭(※25-2)という言葉が在る位です。更には、あの河童の原像(=原イメージ)が付与されているのです。
ところで私は動物園以外でカワウソを見た事は有りませんが、ヌートリア(※25-3)は大阪の淀川で撮影したりビデオに撮ったりして居ます。これも軍用毛皮の為に移入されカワウソと同じ運命に貶められましたが、その後関西でしぶとく野生化し生き延びたもので、やはり賢い動物です。何しろカワウソの学名ルートラが訛ってヌートリアに成ったと言うだけあって、一見カワウソに似て居ます。でもカワウソはネコ目イタチ科、対するヌートリアはネズミ目ヌートリア科で、分類学上はネコとネズミ程違うんですが!!
今現在、どの位ニホンカワウソが須崎市で生きて居るのでしょうか?
文献で調べると、高知県須崎市のカワウソ -カワウソの話も前掲の「河童考」に纏めて在ります- はもう疾っくの昔の1990年代に絶滅して居る様です(△11のp105)。もう絶滅してから20年位経っても「かわうその里すざき」を標榜しているとは、地元の人には悪いですが、私には理解し兼ねますね。{この絶滅記事は2013年10月3日に追加}
◆宇和島の闘牛場 - 闘牛場のトイレで「足を洗う」な!
<11.07.24:愛媛県宇和島市>須崎の後は宇和島に行き闘牛(※26)を見ました。宇和島市営闘牛場は高台に在ります。闘牛は初めて見るのですが、いやぁ闘牛(※26の[1])は面白い、血が沸き立って来ます!
それで、トイレに行ったんですが左の写真の様に貼り紙が在ります。その拡大が右の写真で、「この水道では足を洗わないこと!」と書いて在ります。という事は、闘牛場では洗面所で足を洗う人が居るという事です。さあ、何故なんでしょうか?
その答えが右の写真です。これは闘牛場の外ですが今”土俵”に上がっている牛のその次の出番や、次の次の出番、...の牛がこうして控えてるんですね。牛も興奮して気が荒っぽく成って居る、牛を手懐ける人間はもっと興奮 -中には1杯入ってるも居る- して居ます。
牛が入れ込んで興奮すると、牛は体勢を低くし前脚で砂を蹴る動作をします。この動作は宇和島の闘牛場でも良く見ましたが、興奮した牛に泥や砂を掛けられる訳で、従って「トイレで足を洗う」必要性が生じるのです!
左下が闘牛場です。牛と牛が戦う神聖な場所を思わず”土俵”と呼びましたが実際この様に丸いのです。そして各牛には予め番付が在り、これが相撲と同じく東西の前頭・小結・関脇・大関・横綱が在り、順位の低い牛から始まり最後は横綱対横綱で終わるという、正に相撲と同じなのです。そして戦う前に”土俵”の真ん中で「眼付け(がんつけ)」をし両者気合が入ったら放すのです。しかし右下の写真の様に、どちらも1人が付いて戦いをサポート -これを勢子(せこ)(※27)と言う- します。どちらかが戦意喪失して土俵内を逃げ回ったりしたら、そこで勝負有りです。
牛と牛が戦う競技は日本の闘牛は牛合(※26-1)/牛相撲(※26-2)/牛突き(※26-3)/牛の角突き(※26-4)などとも呼ばれ、人と牛が闘うスペインの闘牛(※26の[2]) -ピカソが闘牛を非常に好きだった事は有名- とはちょっと異なります。
しかし皆さん、牛と牛が「眼付け」直後に頭と頭を体当たりさせた時には「グワツーン」という音が場内に響き渡り、観客を一辺に闘牛の虜にします。この体当たりの馬力、否、”牛力”を出す為に牛は朝、生ニンニクを食べるそうです、精を付ける訳ですな。それから会場内では酒OK、煙草OKです、ここが素晴らしい!!
昔から牛主に成って闘牛を遣る人は財産を潰すとか博打(博奕)に嵌まるとか、色々言われて来ました。牛主に成る人は皆横綱、それも人々の記憶に残る横綱を持ちたい、そうしたら何某という自分の名も牛と共に少しは後世に残るだろう、と考えます。だから闘牛のある日には牛主は牛以上に興奮する訳です。正に一世一代の勝負な訳ですね。
右下は私の得意な宇和島市のマンホール蓋で、やはり闘牛がデザインされて居ます(2011年7月25日に撮影)。そして以下は宇和島市観光協会のHP(△12)より。
「最も盛んだったのが大正末期から昭和初期で、宇和島近辺の村々の山合いには必ず小さい闘牛場があり、農閑期やお祭りには盛大に開催されて居ました。闘牛は現在、年5回の定期大会が行われており、小高い丘の上に建てられたドーム形の闘牛場では、直径20mの土俵上で1トンを超える巨大な牛が激突するのを見ることが出来ます。荒々しい巨牛の息使い、かん高い勢子(せこ)の声、角と角がぶつかり合う鈍い音が館内にこだまし、白熱した戦いが繰り広げられます。」
定期闘牛大会
開催日/ 1月2日
4月(第1日曜)
7月24日(和霊神社の大祭)
8月14日
10月(第4日曜)
開催時間/各月共12時~15時頃
入場料/大人・高校生、当日券 3,000円
(前売券 2,500円)
中学生以下 無料
団体・高齢者・身障者割引あり
宇和島市観光協会も”土俵”という語を使って居ましたね。今では闘牛の開催日が全盛期に較べたら極端に少ないです。
ところで日本全国で今現在、闘牛を遣って居る所は岩手県久慈市/新潟県二十村郷/島根県隠岐島/愛媛県宇和島市/鹿児島県徳之島/沖縄県うるま市などですが、何処も辺境地ですね。これには私は”何らかの理由”が在ると思って居ますが、ここではここ迄とします。唯、辺境地ということは過疎地であり、闘牛の開催日数が減るのも現状では如何ともし難い問題なのです。
左が伊達氏10万石の宇和島城で標高90mの山上に建って居ます。伊達政宗の長子秀宗より伊予宇和島は伊達氏に成りました。
7月24日は和霊神社の祭礼(右の写真) -豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に相手を威圧する為に使ったとされる巨大な牛鬼がぶつかり合う- で今年はその日が日曜日だったので私が乗ったJR予土線(窪川10:04~宇和島12:11)は宇和島に近付くに従い段々混雑し最後は満員電車並みでした。という事で宇和島では闘牛場の外でも牛がぶつかり合うのです。
この日は宇和島名物の「鯛飯」(右の写真)を食って宇和島で泊まりました。これは鯛の刺身を態々(わざわざ)醤油味のタレ、生玉子、薬味のネギの中に入れ熱い御飯に掛けて食べるというものです。しかし何で素直に「鯛の刺身」を味わって食わんのやろ?、という素直で素朴な疑問が湧きますな。それで少し考えると、この料理には酒が無い、だからダメなんです。大体、世界中で旨い料理の95%以上は酒の当てなのです。この「鯛飯」も先ず「鯛の刺身」で酒を飲む、飯はお茶漬けで好いんです。
という事で宇和島の「鯛飯」は1度食ったら良いですね。
◆闘牛の序でに闘犬も
<11.07.23:高知市>日付は1日戻りますが、宇和島の闘牛の次は高知の闘犬(※26-5)という訳です。
右の写真を見て下さい、土佐犬(※26-6)が相撲と同じく横綱の化粧回しをして居る絵です。これは護国神社(高知市吸江(ぎゅうこう))に寄った帰りに鏡川 -上流の高知市北西部には鏡村が在ります- に架かる青柳橋(住所は同上)に在った絵です。
犬と犬が闘う闘犬競技は古代から行われ犬合(いぬあわせ)(※26-7)とか犬食い(いぬくい)(※26-8)などと呼ばれ、又闘犬で賭け事などもして来ました。闘犬の場合、昔は片方の犬が死ぬ迄闘わせたりしましたので、今日では闘犬を条例で禁止している県が多い中、高知県では今も行われて居ます。高知県では檻の中に土佐犬を入れて闘わせるらしいです(←私も実際には見た事が有りません)。昔は闘牛/闘犬/闘鶏など、何でも遣ったのです!
<11.07.25:高知市後免駅>この日、私は急変した天候の為に四万十地方の取材を諦め急遽帰阪する途中です。その記事は
歴史の横漏れ(Spill sideways from history)
をお読み下さい。
右の写真は、私が土讃線に乗って後免駅に停車して居ますが、向こう側のホームには土佐くろしお鉄道(後免駅~奈半利駅)の列車が停車して出発時刻を待って居る所です。ご覧の様に阪神タイガースのデザインです。列車は全面黄色に黒縞です。列車側面には
HANSHIN Tigers
Baseball park in Aki
と書いて在ります。まぁ、全面”き印”でケッタイ怪(け)だらけです!
ところで何故阪神タイガース列車か?、その訳を次に示しましょう。
<<<★以前のデータ挿入開始
<06.10.15:高知県安芸駅>その理由は土佐くろしお鉄道の安芸駅には阪神タイガースが毎年春のキャンプを張る高知県安芸市が在るからです。左の写真は土佐くろしお鉄道の安芸駅で車内から安芸ドームを撮ったものです。
この時は土佐くろしお鉄道(後免駅~奈半利駅)の端から端迄乗りました。そして終点の奈半利駅で鯵寿司を食い朝から酒を飲みました、旨かったですなぁ。鯵寿司ですからねぇ、やはり酒ですよ、アッハッハ!!
<<<★以前のデータ挿入終了
こうして或る写真から別の写真が思い出され、この様に写真の連鎖 -実は思い出の連鎖- が起こります。故に「珍にして奇なる」を貼り付けて置くことは、それなりに意味が在るのです。尚、土佐くろしお鉄道と呼ばれる線はこれだけでは無いのです。即ち
土佐くろしお鉄道 阿佐線 後免駅~奈半利駅
土佐くろしお鉄道 中村線 窪川駅~中村駅
土佐くろしお鉄道 宿毛線 中村駅~宿毛駅
の3路線が在り、何れも第三セクター線(略称:三セク線)です。
◆星の撮影・その1 - 木星とガリレイ衛星
<11.10.24:大阪市瓦屋町(=私の自宅)>木星(※28)は半径が地球の約11倍弱も有る太陽系惑星中最大の星です。ジュピター(Jupiter)という名もそれに由来して居ます。中国では歳星と言い古代から星の運行の基準星で、実は十二支もそかから派生的に生まれて居ます。それについては「2006年・年頭所感-十二支と猫」を参照して下さい。
木星は地球の様な表面が岩石では無く、表面は気体(の氷)です。地球型(=表面が岩石)の惑星は水星・金星・火星のみで他の惑星(=木星・土星・天王星・海王星)は木星型(=表面が気体)です(△13のp35)。冥王星は遠くて詳しいことは解って居ませんが、公転軌道が細長い楕円形で時には海王星より内側に入り込むので「海王星の衛星だった」という意見が前から有り、遂に06年8月24日の国際天文学連合は冥王星の惑星から準惑星への”格下げ”を決定しました。詳細は▼下▼をご覧下さい。
ホルスト「組曲「惑星」」(Suite 'The Planets', Holst)
ところで、私のデジカメはFinePix-S8000fdという機種で、光学ズームを最大の18倍(約486mm望遠レンズに相当)にしモードNで撮影しましたが威力を発揮して呉れました。何しろ星の写真はその場では上手く撮れてるかどうか確認が難しく、パソコンに取り込んで初めて出来不出来が判明します。
それで取り敢えず木星を最大倍率で撮り写真を<天体写真に編集>して見ました。左の写真がそれで撮影時刻は午前1時6分頃です。そしたら木星のガリレイ衛星(→後出)が写って居ます。3つしか見えないのは、1個は木星と重なっている所為です。衛星が横に流れているのは手撮りの所為です、三脚を使わなければ為りません。
私は最大倍率18倍 -これは面積倍率で長さ倍率は約4.24倍- で木星の衛星が撮れる事を、この写真を編集する迄知りませんでした。私は天体写真に俄然興味が湧きました!!
<11.10.26~11.05:大阪市瓦屋町>そこで今度は三脚を使って撮りました。
現在、木星の衛星は16個以上発見されて居ますが、1610年に当時最新型のガリレイ式望遠鏡でガリレイ自身に依って発見されたのが公転軌道内側からイオ(Io)/エウロパ(Europa)/ガニメデ(Ganymede)/カリスト(Kallisto)の4つ(※28-1~※28-4)で、これら4つはガリレイ衛星(Galilei satellites)と呼ばれて居ます。
公転半径: イオ < エウロパ < ガニメデ < カリスト
公転周期: 1.8日 3.6日 7.2日 16.7日
大きさ : ガニメデ > カリスト > イオ > エウロパ
(水星より大)
下の4枚の写真の撮影時刻は以下の通りです。
[1].10月26日、 4時 8分頃撮影。
[2].10月28日、 2時54分頃撮影。
[3].10月31日、19時 6分頃撮影。
[4].11月 5日、 1時 9分頃撮影。
10月26日 10月28日 10月31日 11月5日
こんなに続けて撮ったのは、ガリレイ衛星は公転周期が非常に短く1日ずれると位相が可なりずれるからです。地球の衛星である月の公転周期が27.32日であるのに対し、直径が地球の11倍も有る木星の周りをイオは1.8日で、エウロパは3.6日で一周して仕舞うのです(←上の公転周期を参照)。正にガリレイ衛星は”びゅんびゅん回転”してる感じです。しかし天候が悪かったら写真に撮れませんので、上の写真は好天候で私の都合が良い日に撮ったのです。この写真を見れば位相が大きくずれているのが一目瞭然です。
そして2011年10月27日に「木星とガリレイ衛星」を、11年10月30日に「星と星座の写真集-目次」をホームページを作りアップロード(upload)しましたので是非ご覧下さい。目次ページに入り、「星と星座の写真集の主題目次(Subject-menu)」から「写真-木星」を選択して下さい。
星と星座の写真集-目次(STARS and CONSTELLATIONS in Japan, Menu)
勿論、木星をダイレクトにも見れまっせ!
写真-木星(PHOTO - Jupiter, Japan)
◆星の撮影・その2 - オリオン座
<11.10.26:大阪市瓦屋町>この日は天候が好かったので木星を撮った後に撮影しました。これは皆さんも知って居る人が多いと思いますが、冬の夜空に映えるオリオン座で撮影時刻は午前4時14分頃です(右の写真)。
鮮やかに各星が浮かび出て居ます。首星ベテルギウスと言うのは寿命が末期の星で赤色超巨星、右の写真でもご覧の様に赤く見えて居ます。リゲルは青白く光る超巨星です。そして「オリオンの三つ星」も見えますね。更にオリオン星雲も見えます。オリオン星雲は赤とか緑色をして居ます。オリオン座は別に倍率を掛けなくても十分です。
オリオン座の天体写真は▼下▼から。
写真-オリオン座(PHOTO - Orion constellation, Japan)
皆さん、ここで一言。<天体写真の編集>には本格的な編集ソフトが無いと無理です。良く見掛ける「赤眼補正」とか「色合い補正」とかの簡易ソフトでは編集出来ません。私が使って居るのは「Microsoft Office Picture Manager」で Office 2003 の一部として最初から組み込まれて居たもので、つまり無料のソフトです。これは中々”優れもの”です。
光を電気信号に変換する半導体の受光素子 -これをCCD(charge coupled device)(※29)と言う- は「非常に凄い!」と感激して居ます。これを本格的編集ソフトで極端にコントラストを上げて行きます。この時に明るさも微妙に上げて行くのですが、その”兼ね合い”は実に微妙で言葉では「曰く言い難い」のです。これは編集を遣った人でないと解りません。下手をすると星を浮かび上がらせるのに失敗します、そうしたら又最初から遣り直しです。2時間位掛けて失敗だな、と思った時の消耗感は相当なものが有りますが、気持ちを入れ替えて遣り直す訳です。
そして編集が上手く行った時に最後の編集として、色の鮮やかさを強調するのです。ベテルギウスが赤色巨星だからと言って赤色を着色する、というのは邪道です。飽く迄も自然体、コントラストと色鮮度を強調して行くと原画には殆ど写って無かった星々が浮かび上がって来るのです。
それともう一つ、オリオン座の様に天空を見て直ぐ判る星座なら必要有りませんが、そうで無い場合は星図(※30)というものが不可欠です。私は【参考文献】△14を使って居ます。
そして私の場合、編集した天体写真をホームページに作りアップロードし、更にそれにリンクを張らねば為りません。だから天体写真を遣り出すと非常に忙しいのです!!
◆星の撮影・その3 - スバル(昴)
<11.11.16:大阪市瓦屋町>左が午前2時59分頃撮影した昴(すばる)ですが、実はプレアデス星団(Pleiades star cluster)という散開星団です。コントラストを上げて行くと緑とか青く光って居ます。日本で昴(すばる)と呼ばれるこの星団は牡牛座の一部を形成して居ます。『枕草子』254段には
星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星。
すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。
と出て来ます(△15のp279)。「ひこぼし」は牽牛星、「ゆふづつ」は長庚と書き宵の明星(金星)、「よばひ星」は流星のことです。
昴は六つの星から成る様に見えて「六つら星(むつらぼし)」とも言われます(左上の写真を良くご覧下さい、△16のp177)。その他にも色々な方言で呼ばれて居ます。それにしても清少納言に「星は昴(すばる)よ」と言われたら黙って引き下がるより仕方有りませんね。
しかし昴を肉眼で見つけられる人は眼が良い人です、私は中々昴を見付けられず牡牛座から辿って行きます。▼下▼が昴の天体写真です。
写真-昴(プレアデス星団)(PHOTO - Pleiades star cluster, Japan)
◆天体の撮影 - 飛行機も夜には天体に成る!
<11.11.21:大阪市瓦屋町>右は飛行機(ジェット機)です。星では有りませんが飛行機も夜には天体に成るのです。僅か3秒位の露光時間で、撮影時刻は19時25分頃です。星座は特定出来せず(←星図と見比べ乍ら特定するのは大変なので)。飛行機の約1秒置きのストロボライトが点に、主翼のライトが線に成って見えます。そこで一首。
夜旅立つ ジェット機は 流れ星
星座は君と 語りたいのさ
月海
<歌の解説>ジェット機は雲の上を飛ぶので地上で雨が降っても夜なら常にジェット機からは星が見えます。星座は恒星ですから星座の位置関係は不変で、離れた星座の情報は余り入って来ません。星座は流れ星に成った君(=ジェット機)の情報がとても欲しいのです。まぁ、精神年齢8歳位の歌ですな、ワッハッハッハ!
私は天体写真というのはそれ迄遣った事が無かったのですが、天体写真を作る過程に神秘と興味を感じ、2011年10月後半 -木星とガリレイ衛星を撮った時- から天体写真にのめり込んで集中的に撮りました。
>>>★その後 - 脳出血と天体写真と飯田線飯田駅で起きたこと
私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血に倒れましたが、実は脳出血と天体写真にのめり込んだ事は無関係では無いと思って居ます。何しろ天体写真を遣り出した時期が、上にも書いた通り2011年10月後半で脳出血の僅か1ヶ月半前なのです。コントラストを上げて行くと微少な光の星が浮かび上がって来るという事が解った時は本当に感動しました。安いデジカメでもCCDにはちゃんと写って居るんだという事ですね。2011年10月後半から脳出血で倒れる迄は殆ど天体写真に没頭して居たのです。それは非常に「言い難い」作業、"try
and error" の作業で、更にそれをホームページでアップロードしなければ為らず、脳にとっては負担の大きな作業だったのです。
実はもう一つ脳出血に関係している事が在るのです。それは同年9月10日の飯田線飯田駅で起こった事 -そう、姨捨に寄った信州の旅の最後の日でした- なのですが、この話は何れ時期が来たらお話しましょう。今はここ迄!
{この後日記事は2013年5月8日に追加}
→ 年度別目次に戻る(Back to Yearly-menu)
◆◆◆脳出血からの復活を期して居た2012年
その後2011年12月初~2012年2月末迄は「檻の中」で入院生活を送り、2012年3月~13年2月半ば迄はリハビリで過ごしましたが、2012年の後半からは復活に向けて活動を再開して居た、という事は皆さん余り気付いて居られませんね。
脳出血後第1作(改造) 大阪天満宮の天神祭船渡御
2012.09.30完
// 第2作(改造) <エイを追え#1>「赤エイの御利益」
2012.10.08完
// 第3作(新規) <エイを追え#2>「エイが向かいし島「江井ヶ島」」
2012.11.22完
この脳出血後の作については「エイが向かいし島「江井ヶ島」」(←これは脳出血に第1報でもある)にも書きましたし、後に出版してからも『鵺(ぬえ)は飛び散りエイ躍る』に書いてます(△17のp57)。{この出版してからの記事は2013年10月20日に追加}
私はリハビリ中は殆ど自由が無かった -故に「檻の中」と表現している- のですが、2012年の後半からは施設の周りを密かに「珍にして奇なる光景」を見付け、本作の為に写真を撮って居たのです。そんな中からご紹介しましょう、ムッフッフ!!
尚、この章の記事は脳出血から癒え、2013年に沖縄に引っ越して落ち着いてから即ち2013年5月12日から書きました。
◆八王子神社境内摂社の「巳さん」
<12.10.25:大阪市東成区中本4>私が居た施設から南へ徒歩15分位の所に八王子神社が在ります -八王子神社は各地に在ります- が、ここで紹介したいのは境内摂社の八立龍王大明神という蛇神(へびがみ)で、八王子神社の左奥に鎮座して居ます(左下の写真)。両脇に立っている石柱に「八立龍王大明神」と彫って在り、御神燈の下の榊を供えて在るのが蛇の像です(中央下が拡大写真)。この日は施設で初めてデジカメを携帯して午前9時頃にここに来ました。
ご覧の様に右側の蛇が口を大きく開いて「阿」を、左側の蛇が口を閉じて「吽」を、1対で「阿吽」を表して居て1対で「阿吽」というのは狛犬なども同じです。
別の場所には「白龍王大神」と彫った石柱も在りました(右の写真)。龍の名で呼んでいるのは尊称で実体は蛇なのです。2013年は巳年です。大阪辺りでは蛇神は「巳(みい)さん」と呼ばれ、お年寄りの世代には親しまれて居ます。その世代はアオダイショウ(青大将)などを家の守り神として居たのです。正月3日に行ったら鶏卵が山盛りに供えて在りました、鶏卵は蛇の大好物ですから。ここの「巳さん」は大事にされて居ますね。
皆さんも「巳さん」を探してみて下さい。小さい祠で「○○龍王(竜王)」と在るのは大抵「巳さん」です。但し、ここの様に蛇の像が在るのは「珍」です。
>>>★その後
大阪市東成区中本4の八王子神社の事は沖縄に引っ越してから▼下のページ▼に詳しく書きました。是非ご覧下さい。
2013年・年頭所感-今年は巳さん(This year is Mi-san, 2013 beginning)
{この後日記事は2013年5月12日に追加}
◆銭湯・その1 - 煙突は見えども銭湯は何処?(菊水温泉)
<12.10.25:大阪市城東区中浜1>上の「巳さん」を見た後、今度は施設の北へ徒歩15分位の所に在る銭湯を撮りに行きました。この銭湯は前から気になって居たのですが(←理由は後で述べます)、今日はデジカメを持って来たので何としても写真に撮る積もりでした。因みに時刻は午前9時45分頃です。
名前は「菊水温泉」で、銭湯のシンボルの煙突です(左の写真)。因みに「温泉」は関西では「湯」と同じ意味です。
右が正面玄関(=銭湯の入口)でペンキが剥げ錆で橙色に見える看板に「ゆ」の文字が辛うじて読め、「♨菊水温泉」と在ります。そして背後に見えるのが下水道資料館です(ここは中浜下水処理場の南側)。これで大体の立地条件が理解出来たと思います。
私が”変”と思っているのは、この入口前の路地も、それと直角を成す路地も非常に狭いのです。そういう立地に民家が立て込んでいるので、誰だってこんな所に銭湯が在るなんて思いません。煙突は見えども銭湯は何処?、と他人の地所に入る様な気持ちでここに入って来たのです。廃材を燃料にして居ます。そしたら偶々この銭湯の主人 -見たとこ70歳位か- が出て来たので私は思い切って「ご主人が創業者ですか?」と聞くと、「この銭湯は35年位前に権利を買ってワシが引き継いでいるんで創業者の事は知らんね」という答えでした。
ここで35年間も銭湯を続けて居る所を見ると「お客さんが居る」訳ですが、ここが入口だと知る人は少ない筈で地元の人しか知らないと思います。この銭湯は御近所の需要と供給を満たして居るのです。ネットで確認してみると古風な脱衣箱などが在りレトロな雰囲気が満ちて居て浴槽も清潔な感じです。城東区の住民はお試しあれ!
この近くには「白山」(←白山神社が傍に在るから)という銭湯も在ります。
◆銭湯・その2 - 人間洗濯機という看板灯(生駒温泉)
<12.12.22:大阪市東成区中道4>年末も押し迫って左の看板灯を見付けました。上から3番目迄は普通ですが、「寝風呂」「座り風呂」、そして「人間洗濯機」には笑えます。正に銭湯は人間の洗濯機には違い有りませんが、ネットで調べると「人間洗濯機」という機械が在り、人間を回しジェット水流で体を洗う装置です。何でも大阪万博に三洋電機から出展されて居たそうです。私も大阪万博に行きましたが全然知らなかった!!
右がシンボルの煙突です、「生駒温泉」と読めますね。実はここの煙突はちょっと離れて撮らないと「生駒温泉」の文字が良く見えません。
ここの銭湯は広い表通りに面して居り直ぐ判ります。この日は土曜日で午後4時頃に行ったのですが何故か銭湯がやって居ません。否、私が撮り忘れたのか?、もう今と成っては分かりません。
尚、ここは八王子神社の西側で徒歩で3分位です。又、ここから南に八阪神社(徒歩で5分位)が在りますが、そこには八阪湯が在ります。
>>>★その後
<13.01.05:大阪市東成区中道4>それで年が改まって翌年の正月5日に時刻も同じ午後3時45分頃に撮ったのが左の写真です。看板灯も写って居ますね。銭湯の前には自転車が見えてますが、これはお客の物です。ここは中々繁盛している様です。
そして暖簾の右端をご覧下さい、その部分を拡大したのが右の写真です。正月の挨拶です。尤もこの挨拶はその下に「牛乳石鹸」と入ってるので「牛乳石鹸」がスポンサーかもね。
しかし、こうやって足りない写真を取り直すなどプロ根性でっせ!!
{この後日記事は2013年5月12日に追加}
私の思い出に残っている銭湯は栃木市の「金魚湯」、大和郡山市の「大門湯」ですね。それから大阪では黒門市場の「末広湯」です。銭湯文化というものを感じますね、これについては「こんな女に誰がした-悲しきパンパン」をご覧下さい、
「末広湯」については「日本、珍にして奇なる光景」で触れて居ます。「末広湯」は銭湯としては特記すべきものは有りませんが私の地元なので何回か行きました。特に”場所柄”というものが在って、ここは「刺青の方はかたくお断りしております。」と書いて置き乍ら、午後3時頃に行くと必ず刺青が見れる、という面白い所です。実は私はそれが楽しみで行ってましたが、銭湯こそが刺青を公衆の面前に曝す場所なのです。そこでは刺青に対する私の持論も載って居ますので、興味有る方は是非ご覧下さい!!
◆細々と営業の「元町銀座街」
<12.12.22:大阪市東成区中道2>何時頃なんでしょうかねぇ、日本全国に「○○銀座」と称する商店街が大量に出来たのは?、高度成長期の頃だったと思います。
東京の戸越銀座は中々賑わって居ますが、こうして日本に銀座ブームが起こり、各地に全国津々浦々に「○○銀座」が生まれて行きました。しかし所詮、独自のコンセプトを持たない所はブームが去れば結局寂びれ廃れて行くのが運命です。そんな銀座が上の生駒温泉の直ぐ西側に在ります(左下の2枚)。
「元町銀座街 中道元町商店会」の看板の拡大が左の写真です。今「○○銀座」という看板を見ると寂寥感 -寂しーいーぃ!(←これも嘗ての流行語です)- だけが残ります(左下の写真)。
商店街に入ると(右上の写真)、豆腐屋さん、肉屋さん、コロッケ屋さん、雑誌とか雑貨屋さんが店を出して居ますが、閑散として居ます。現在店を遣っている人は皆年寄りで、店を継ぐ若い人は居ません。という事は「元町銀座街」も現在の年寄り迄でしょう。
「○○銀座」に限らず普通の商店街でも大手のスーパーなど(=つまり大手資本)に押され商店街を維持するのは難しい時代です。でも若い頃、そういう個人事業主の中で育った世代には何処か懐かしさや郷愁を感じます。私の少年期は皆”個人業”で仕事をして居ました、医者もそうですね。
嘗て 今
豆腐や納豆 → 豆腐屋 ─┐
肉 → 肉屋 ├→ スーパー
魚 → 魚屋 │
野菜や果物 → 八百屋 ─┘
歯 → 歯医者 → 歯科医
眼 → 眼医者 → 眼科医
その他の医療 → 掛かり付けの開業医─┐
小児科 │
内科 ├→ 大病院
外科 │
出産 → 産婆さん ─┘
個人事業主が斜陽を向かえている現状に私は「ナメラ商店街」を思い出しました。世の中がすっかり味気無く乾いた感じに変わりましたね。
{この2012年の記事は、2013年5月12日、即ち私が沖縄に引っ越してから記述しました。}
>>>★その後
<13.01.05:大阪市東成区中道2>ところで「元町銀座街」入口左側の喫茶店が12月22日には締めてましたので、これも正月に撮りました。正月の幟(のぼり)も出て居ます。この"COFFEE&REST Mr.ℇDO"という喫茶店には次の様な思い出が有ります。
この喫茶店には5、6回来ましたね。私は20日に1回位医者に行くのですが、まぁ、その時間を30分位誤魔化して時間を確保するのです。何時も午前9時半頃なのでコーヒー&モーニングサービスを頼み、それを食べ乍らスポーツ新聞を読みました。結構旨いでっせ。
私には殆ど自由が無かったので、こうする事に依って”私にとって外界”で在る所の世間の空気、即ち”娑婆の空気”に触れる事が出来る貴重な場所だったのです。
私はこれで30年以上住み慣れた大阪に別れを告げたのです。さらば、大阪!!
{この後日記事は2013年5月12日に追加}
→ 年度別目次に戻る(Back to Yearly-menu)
私は引越をして2013年3月19日から正式に那覇市の住民と成りました。という訳で、私は既にウチナーンチュ -「沖縄の人」という意味- なので宜しくお願いしま~す。そして何よりも私は再び自由人に成ったのです。ムッ、沖縄の皆さんは迷惑そうな顔をしてますな、然もありなん、ブハハハハハ!!
さて、那覇市の住民として「珍にして奇なる光景」が沢山有るか?、というと戦後から70年近く経った今は殆ど無いと言わざるを得ません。1972年に本土復帰 -以来”本土並み”という語がが標語化しました- を果たしましたが、沖縄の本土化は本土以上に進みました。公園は整備され、本土では地域に依っては未だ残って居る銭湯を当ページで見て来ましたが沖縄では殆ど無く、駐車場の無いコンビニは有りません。沖縄の車社会や、これらの浸透振りは本土以上です。そして沖縄は嘗ては長寿県でしたが今や”本土並み”に成りました、いやはや!
尚、沖縄の人は日本人のことを今でも”本土の人”、”内地の人”と言いますが(←沖縄の人はウチナーンチュです)、この呼び方は戦時中みたいですね。私も直ぐにそう呼ぶ様に成りました、何しろ周りに影響され易いですから!!
◆辻遊郭跡 - 琉球王朝時代から女が仕切った色街も今は単なるソープ街
<13.05.09:那覇市久米1>ひょんな切っ掛けで那覇市に住むことに成った私は辻(那覇市辻)という嘗ての遊郭に最も興味が有りますが、辻については別のページに書こうと思って居ます(←未だ調べなければ為らない事が沢山有ります)ので、私は沖縄の場合は「女性史」がキーワードを握って居ると前から思って居て、それで「辻の遊郭」と成る訳です。嘗ての辻遊郭は「女が仕切った色街」ですが戦後は「単なるソープランド街」に成りました、これも”本土並み”でしょうか?!
そんな中で辻の南側が久米ですが、そこに天妃小学校(那覇市久米1) -「天妃(てんぴ)」(※31、※31-1)という”何やら由緒有りそうな語”を冠した謂れは後で説明- が在り、その小学5年生(=小渡晴也君)の作で
夜遊びは 親も心配 身も危険
という標語が実に良いと私は思って居るのです(右の写真)。これを作った子の親は安心です!
しかし、人生というものはそう単純では有りません。この子が大人に成り「性」という大きな問題に直面した時にどうか?
親が心配し、身が危険に成ろうとも、それでも性の深味に嵌まって行くのは数多くの文学作品の主要テーマです。
私は三重城の先端や「波の上緑地」に羽を休める場所を見付け、夏に天気の好い時には -6月半ば~10月半ば頃迄- 必ずと言って良い程ここに来ます。2013年からは本の出版しようと思って居るので、三重城で日光浴をし乍ら構想を練るのに絶好の場所です。
そして帰りには辻を突っ切り、天妃小学校のこの標語の前を通り帰って来る事が多いのです。辻のソープランド街には入口に男の人が1人立って居ます -所謂呼び込みです- が、この標語を作った少年が大人に成って「ソープの呼び込み」を遣って無いとは断言出来ないのです、人生の奥は深いんですな。そこで私はこんな風に詠み替えてみました、ワッハッハッハ!!
親も心配 身も危険 然れど夜遊び
そういう意味で、私は天妃小学校も辻の一部と思って居ます、実際に辻とは300m位しか離れて無いのです。
さて天妃小学校の謂れは、天妃とは媽祖(※31-1)即ち航海安全を司る女神で、天妃小の西南端の門には上天妃宮跡(15世紀中頃建立)が在る -この信仰は中国の道教- からです(←詳しくは△18のp231~234を参照して下さい)。天妃小は2009年で創立120周年を迎えました。尚、下天妃宮跡は東町に形だけが残って居ます。
ここ久米町は1392年に閩人三十六姓(※31-2)と言われる中国福建省からの入植者が技術を齎し代々住んだ所縁の地 -当時は久米村(←粂村とも書く)- です。
>>>★その後
<15.06.09:那覇市久米1>ところがどっこい、「夜遊び」の標語が未だ貼り出されて在り、もう丸2年経って居ますので、取り敢えず写真を撮り帰ってから比較したら全く同じ(←両方共「天妃小5年」の儘)です、左の写真を2013年撮影の写真と較べてみて下さい。少なくとも丸2年間は全く変わって無いのです!!
2013年に小学校5年なら2015年は中学1年で、もう天妃小には居ないのです。私は2013年に那覇市の住民と成り偶々2013年に撮った写真を載せた訳ですが、一体この標語は何年に貼り出したものか?、が問題です。「那覇北ライオンズクラブ」さん、何とかして下さい!
もしかして最初の貼り出したのは創立120周年の2009年かも知れませんね。そうだとすると更に4年のズレが有る訳で、2015年は高校2年です。すると人生の奥の深さ即ち「然れど夜遊び」に開眼し、既に辻の呼び込みをしてるかも知れませんゾ、ブワッハッハッハ!!
ところで私は2013年より毎夏辻に来て呼び込みのお兄さんとも親しく成りましたが、辻は慰霊の日(=6月23日)/盆や旧盆/元旦も遣って居ります、つまり辻は年中無休ですので、宜・し・く!!
{この後日記事は2015年6月24日に追加}
◆那覇市のガーブ川とは??
<13.05.28:那覇市牧志1>ガーブ川という川が在る事を始めて知りました(左の写真)。モノレール -愛称:ゆいレール- の見栄橋駅を西に200m位行った所に在り、この橋は十貫瀬橋と言います。右が十貫瀬橋から上流方面 -川の左側がジュンク堂、右側が緑ヶ丘公園です- を撮ったものです。ガーブって何??
ガーブ(又はガーブー)とは沖縄方言で「湿地」を指すそうです(△19のp2)。漢字では我部と書きます(△19のp7)。
事実、見栄橋駅付近は低地で嘗ては海で、前島は塩田(△19-1のp4)だったのです。那覇は元々は浮島(※32)で、那覇と首里を連絡する道は安里迄は舟を並べて橋の代わりとして居ました。
1451年に国王尚金福は那覇と安里を結ぶ約1kmの浮道 -今の久茂地~崇元寺橋- を作り、1633年の中国冊封使がこの浮道を「遠望すれば長虹の如し」と讃え、以後「長虹堤」と称される様に成りました。昔を偲ぼうと思ったら、今の「牧志長虹橋」からモノレールの見栄橋駅方面を眺めてモノレールを「長虹堤」に見立てたら、少しは偲べるかも知れません。その後、那覇はどんどん埋め立てて立派に成りましたが昔とはすっかり変わりました。
長虹堤を偲ぶ他の方法は葛飾北斎の『琉球八景』の第6景「長虹秋霽」を見る事ですね。これは周煌著の『琉球国志略』(※33)のモノクロの元絵(△20のp80、81)を、北斎 -北斎は沖縄には来て無い!- がカラーの版画にした非常に”優れ物”です。この元絵から北斎の版画が作れるとは誰も思わないでしょう、それ程素晴らしい北斎の創作です。天保3(1832)年の琉球王使節の「江戸上り」に合わせて作ったもので、当時の江戸町人は好奇心旺盛で琉球は人気が有ったのです。
>>>★その後
<14.04.20:那覇市寄宮1(与儀公園)>ところがガーブ川という表示は与儀公園の北西端にも在りました、橋の名は四條橋です(左の写真)。ここは信号が在って写真のこちら側は神原中・小学で、毎日の様に私が通っている所ですが気が付かなかったですね...(>v<)。
ガーブ川は、私の家に近い沖縄大学前の商店街(長田1、△19のp14)に発し、沖縄海邦銀行の裏を流れ与儀公園を突っ切り(←それが左の写真)、この後は観光客で賑わう牧志公設市場の下を流れて国際通りの「むつみ橋」(←国際通りで最も繁華な所)や「おきえい通り」の下を流れ、ジュンク堂の手前で顔を出し先程の十貫瀬橋の下を流れて久茂地川に合流します。
{この後日記事は2014年4月28日に追加}
<14.05.29:那覇市寄宮1(与儀公園)>更に与儀公園の南東側の三條橋の下には魚が発生して居ました、大きさは20~25cmです(左下の写真)。
と言うのは、橋の陰に成っている所には魚がワンサと居るからです(右の写真)。私は去年も見て居ますが、こんなには居なかったです。
毎年少しは魚が発生しているのですが、今年は異常発生の様に思われます。念の為2015年も観察しましたが正常でした。
ところで、この魚食えるのですかねぇ、ホッホッホ!!
{この後日記事は2014年6月1日に追加}
因みにガーブ川と与儀公園の地理的関係は以下の様に成って居ます。四条と三條では京都みたいですが、「条」の字が違うことに注意して下さい。京都がどう成っていたかは覚えて居ませんが。
四条橋 北
----┌─────────┐
----│\ 与儀公園 │
ガーブ川│\\ │
(下流)│ ── 橋 │
│ ──(名無し)│県立図書館
│ \\ │市立中央図書館
│ \\---│------- ガーブ川
│ \---│------- (上流)
│ │三條橋
│ ┌┐ │
└─────┴┴──┘
焼芋屋の車
{この後日記事は2014年6月1日に追加し、2015年6月24日に最終更新}
◆与儀公園の焼芋屋
<13.07.01:那覇市寄宮1(与儀公園)>もう一つだけ採り上げましょう。それは与儀公園の焼芋屋(=石やきいも屋)です(→上の図を参照)。
ところで焼芋を何故採り上げるか、と言えば焼芋は沖縄の歴史に深く関わって居るのです。焼芋屋は今や内地でも少なく成りました(←未だ大阪は有ります)が、私が小学生の頃は石焼芋や壷焼きが在りました。しかし営業は戦後間もない全盛時でも冬場だけです。ところが与儀公園の焼芋屋は1年中、殆ど休まず遣って居ます。私の様に本土から移住して来た者には、これは可なりケッタイな現象に映ります。
与儀公園は私が毎日の様に通り焼芋屋の小母ちゃんとも親しく成り、先月焼芋を買って家に帰り食いました、6月に焼芋食ったのは初めてです。旨い味ですが、どうも私はサツマイモ(※34、※34-1)は子供時代に随分食わされた反動で苦手ですね。私と同世代の人なら解って貰えると思うんですが戦後世代の私でも戦後の食糧難から、御飯の中にサツマイモ、味噌汁がサツマイモ、天麩羅がサツマイモ、お八つがサツマイモ(=蒸かし芋)...、と「サツマイモ尽くし」を経験して居り、サツマイモは貧しい戦中的記憶です。しかし子供時代に焚き火をし、それで作ったサツマイモの焼芋は旨かったですね。{このリンクは2018年2月6日に追加}
さて沖縄とサツマイモですが、1594年(万暦22)に呂宋国(ルソン、現在のフィリピン)より密かに福建省商人が持ち帰り、その年に万暦甲午の大飢饉が福建省で起こり早速甘藷(←サツマイモの中国名)の栽培を行い、甘藷は「五穀と地を争わず」と言われる通り痩せた土地でも作れ救荒作物として非常に有用な事を証明しました。それを1605年に野国総管という人物 -これは「野国村の総管」という官職名で最近の研究では本名は与那覇松と言うらしい- が琉球に齎し郷里の北谷間切野国村に広め、更に真和志間切垣花村の儀間真常が普及させた(△21のp108)と在ります。主食が十分では無かった琉球では主食の補完食に成りました。
尚、1597年に宮古島の村役人が福建省に行きサツマイモの蔓(つる)を持ち帰りましたが帰りの船が九州に流れ着き、漸く宮古島に帰って栽培に成功しましたが、このサツマイモは沖縄本島には伝わって無いとの事。
その後、薩摩(鹿児島県)を経て江戸に齎され皆さんがご存知の青木昆陽は江戸に広める段階で『蕃藷考』を著して有名に成りました。
本土ではサツマイモ(薩摩芋)という呼び名が一般的ですが、沖縄ではトウイモ/カライモ(唐芋)と呼びます。そういう訳で沖縄の人たちはサツマイモに対し深い愛着を感じて居るのです。沖縄では焼芋はスーパーでも売ってます、勿論一年中販売している事は言う迄も有りません。沖縄には紫色をした紅芋 -これはお菓子の材料に使われることが多い- も在り焼芋や茹芋も旨いです。
尚、サツマイモの原産は中南米とされフィリピンに齎したのはスペイン人 -中南米、フィリピン共にスペインの植民地- です。中南米と言えばマヤ/アステカ/インカ文明ですね、夢は広がります。
再び与儀公園の焼芋屋に話を戻すと、焼芋屋の車の側面に「石やきいも事業共同組合 No.11」と書いて在ります。小母ちゃんは個人事業主で「事業共同組合」からは一銭も貰って無いと言ってました。番号は何番迄有るんでしょうかねぇ。しかし焼き釜、保温釜、燃料のプロパンガスを積み、勿論サツマイモや計りも積み、走る時には覆いをし、この車はスゴイ!!
2016年1月23~25日は記録的な寒さで那覇市でも霙(みぞれ)を観測しました。
この最も寒い1月23日に買って食った焼芋は旨かった!、やはり寒い時が旨いです。そしてその1週間後の2016年1月29日に写真を撮らせて貰いました(左右の3枚の写真)。
ネットで調べたら首里にも「石やきいも事業共同組合」の車が営業して居ます。
{この記事は2013年7月1日に初稿を書き、2016年1月29日に上の写真を入れ、2018年2月6日に最終更新}
◇◆◇◆◇
沖縄に来て最初に記した通り沖縄では「珍にして奇なる光景」は殆ど無しです。従って2014年、15年は該当データ無しです。
→ 年度別目次に戻る(Back to Yearly-menu)
「取り敢えず写真を貼り付ける」方針もその儘継承して居ます。後で別稿を起こした時は関連リンクから「補完ページ」としてリンクを張るのは前作と同じです。
そして”境の地”(=辺境)に一つの焦点を当て見て来ましたが、そこには多くの場合、車社会と若者の過疎化というワンパターンの「日本の田舎の縮図」が在る事に気付かされました。日本は「田舎の縮図」から脱却出来るのか、その答えは次の世代の課題でしょう。
もう10年位前(=2000年頃)から私は最新鋭の新幹線の様なもの、コンピュータの様なものには興味を失い、逆に人間力を発揮している無骨で頑固で”のろま”的なものに”大切な何か”を感じ惹かれる様に成りました。大きな心境の変化ですね、私はコンピュータの技術(=主に通信処理)でメシを食って来た訳ですから。
そして「珍にして奇なる光景」が、「意外に」と言うべきか「割合に」と言うべきか、人間力が発揮されて居る事に気付かされます。もう気付いた方が居られると思いますが、この[日本、珍にして奇なる光景]シリーズから様々なページが生まれて居ます(←「補完ページ」としてリンクを張られて居るページです)。その時は記事に出来なくても「写真を貼り付け」て置くと、或る時に何かの切っ掛けでそこからイメージが湧いて来るのです。随分多くのページがこのシリーズの「写真の貼り付け」の恩恵を受けて居ます。そういう意味で私にとっては様々な思い出が詰まったページです。しかし一般の皆さんは「何やこれ?」と思うでしょうな。どうも私は一般人とは感性が乖離して居る様で!!
{ここ迄の段は2010年5月5日に書きました。}
◆カンヒザクラ(寒緋桜)を撮る - 与儀公園
沖縄の桜を紹介しましょう、カンヒザクラ(寒緋桜)(※35) -ヒカンザクラ(緋寒桜)とも言いますが、これだとヒガンザクラ(彼岸桜)と間違え易いので最近は余り使わない- です(右の写真、略実物大)。赤が濃いのでヒザクラ(緋桜)、或いは原産地を採りタイワンザクラ(台湾桜)とも言います。開花時期は那覇市で1月末~2月初旬です。散る時はソメイヨシノと違い花弁1枚1枚ではなく、椿の様に花全体がぼそっと落ちますので、内地の人には違和感が有るかも知れません。この写真は2014年1月29日に与儀公園で撮影しましたが、この年は桜の開花には絶好の天気が続きました。
沖縄の人は内地の様な酒を飲む「花見」をしないので私が泡盛を飲む「花見」を沖縄で広めようと思って居ますゾ、ブワッハッハッハ!!
{このカンヒザクラの記事は2014年1月30日に追加}
◆リュウキュウメジロ(琉球目白)を撮る - 与儀公園
ところが2018年2月2日には同じく与儀公園でカンヒザクラ(寒緋桜)にメジロ(目白) -厳密にはリュウキュウメジロ(琉球目白)(△22のp532)です- が止まって居たのを望遠で上手く撮れましたので写真を載せます(右の写真、略実物大)。
他の人はサクラを撮って居ましたが、私は2014年からずっと沖縄のサクラを撮って居ますので、この年はメジロ(目白)に集中して居ましたね。ヒヨドリ(鵯/白頭鳥)も居ました(△22のp448)。
因みに、普通のメジロは脇腹が褐色味を呈してますがリュウキュウメジロはご覧の様に脇腹が真っ白なのです。普通のメジロが梅に止まった写真はコチラに在ります。
{メジロの記事は2018年2月6日に追加}
◆2018年2月21日 - 遂に泡盛を飲む「花見」を実行!
「私が泡盛を飲む「花見」を沖縄で広めようと思って居ますゾ」と書きましたが、2018年2月21日(水)は特別な日に成りました。遂に泡盛と日本酒で「花見」をしました、場所は与儀公園です。午後2時頃から酒を飲み、色々な話をし、御寿司などを摘み乍ら楽しい時を過ごしました。
右の写真は午後5時頃、この日集まった人で記念撮影です。一番右端が私で、私の隣が和泉さん、その隣が島川さん、後は和泉さんの友達です。カンヒザクラ(寒緋桜)の色が鮮やかです。
{花見の記事は2018年2月24日に追加}
尚、[日本、珍にして奇なる光景]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:水葬(すいそう、water burial)は、水中に死骸を投じて葬ること。四葬の一。一般に航海中の死者は水葬された。
※1-1:四葬(しそう、the four burials)とは、インドの4種の葬法、即ち水葬・火葬・土葬・林葬(林野に曝して禽獣に食わせる、風葬・鳥葬とも)の総称。
※2:防空壕(ぼうくうごう、air-raid shelter)とは、空襲の際に待避する為、地を掘って作った穴や構築物。
※3:島原半島(しまばらはんとう)は、長崎県の南東部に突出する半島。中央に雲仙岳が聳え、有明海・島原湾・橘湾に囲まれる。
※3-1:天草四郎(あまくさしろう)/益田時貞(ますだときさだ)は、島原の乱の首領。肥後天草の人(1621~1638)。小西行長の遺臣の子と言う。1637年(寛永14)キリシタン信徒の一揆に推されてその首領と成り、原城で幕軍に敗れ翌年討死。通称、天草四郎。
※3-2:島原の乱(しまばらのらん)は、1637~38年(寛永14~15)天草及び島原に起った百姓一揆。キリシタン教徒が多く、益田四郎時貞(=天草四郎)を首領とし、その徒2万数千が原城址に拠り、幕府の上使として派遣された板倉重昌はこれを攻めて戦死、次いで老中松平信綱が九州諸大名を指揮して城を攻落。天草(島原)一揆。天草の乱。
※3-3:雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県島原半島に在る火山群の総称。標高1359mの普賢岳を主峰とする。南西の山麓に硫黄泉の雲仙温泉が在る。ミヤマキリシマ/霧氷などは有名。1792年(寛政4)には死者1万5千人を出す火山性地震と有明海の津波を引き起こし、「島原大変肥後迷惑」と言われた。1991年の普賢岳の噴火では火砕流が発生し、死者・行方不明者44名を出した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-4:火砕流(かさいりゅう、pyroclastic flow)は、高温の火山灰/軽石/火山岩塊などが一団と成って高速度で斜面を流れ下る現象、又その堆積物。時速数十から百km以上で宅地や耕作地を襲い、大災害を引き起こす事が有る。粘性の大きいマグマを噴出する火山に生じ易く、熱雲/軽石流/火山灰流などに細分される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-5:島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)とは、1792年(寛政4)、島原半島の雲仙岳の一部が火山性地震に因って崩壊し(=島原大変)、有明海に押し出されたため津波を生じ対岸の肥後(今の熊本県)などで1万5千人もの死者/溺死者を出した(=肥後迷惑)、複合災害を言ったもの。「島原大変肥後迷惑」は、この災害直後から言われ出し、流行語的に広まった。
※4:平山城(ひらやまじろ/ひらさんじょう、hill-castle)とは、平地に在る丘陵を利用して造った城を言い、特に丘陵部の上部平面のみを利用した中世の丘陵城郭(=丘城)に端を発する。
※5:シスター(sister)は、[1].姉妹。姉、又は妹。
[2].カトリック教で尼僧。修道女。
[3].女学生間の同性愛の相手。エス(←sisterの頭文字で隠語化されている)。
※6:アイデンティティー(identity)とは、同一性。存在証明。
[1].狭義には、人格に於ける存在証明又は同一性。或る人が持つ「自分が自分である」という意識の一貫性が時間的・空間的に成り立ち、それが他者や共同体からも認められて居ること。自己の存在証明。自己同一性(又は自我同一性)。
[2].広義には、集団に於ける同一性を指す。或る共同体の構成員が他の共同体とは異なる同一性や親近感を互いの裡に認め合うことが出来、それに依って強い同属意識(又は帰属意識)や絆で結ばれ、同じ立脚点に立って共通の目標や価値観を持つことが出来ること。「民族の―」「企業の―」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7:饒速日命(にぎはやひのみこと)は、記紀神話で、天孫降臨に先立ち天より降り、長髄彦(ながすねひこ)の妹三炊屋姫(みかしきやひめ)を妃としたが、神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したと言う。物部氏の始祖と伝える。
※8:二宮忠八(にのみやちゅうはち)は、発明家・実業家(1866~1936)。愛媛県生れ。1891年(明治24)ゴム動力に依る模型飛行機を試作し、実験に成功。後、製薬業を営む。
※9:ジュラルミン(duralumin)は、ドイツの冶金学者ウィルム(A.Wilm1869~1937)の発明した軽合金。アルミニウムを主成分とし、銅4%、マンガン0.5%、マグネシウム0.5%を標準組成とする。強度・加工性などの機械的性質が優秀で、飛行機の骨組その他の構造用材料に広く使用。超ジュラルミン・超々ジュラルミンなども在る。
※10:皇紀(こうき)とは、日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当る)を元年として1872年(明治5)に定めたもの。大日本帝国は1940年が皇紀2600年に相当するとした。
※10-1:無条件降伏(むじょうけんこうふく、unconditional surrender)は、[1].一切の軍事力を放棄して無条件に敵の支配下に入ること。
[2].相手国から出された降伏条件を無条件で受け入れること。ポツダム宣言受諾に依る日本の無条件降伏は[2]に当たる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※11:ざざ虫(ざざむし)とは、カワゲラやトビケラなどの水生幼虫の、信州地方での称。
※11-1:川螻蛄/襀翅(かわげら、stonefly)は、カワゲラ目カワゲラ科及び近縁の数科の昆虫の総称。不完全変態。幼虫は流水中に生活し、総状の気管鰓で呼吸する。成虫は2対の翅を持ち、灯火に飛来。幼虫は淡水魚の餌と成る他、信州では「ざざ虫」と称してトビケラの幼虫と共に佃煮にする。又、その1種であるカワゲラは、体長14~18mm。6~7月頃羽化し、各地の渓流に棲む。日本全土・朝鮮半島に分布。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11-2:蜂の子(はちのこ)は、[1].蜂の幼虫。特にクロスズメバチの幼虫。塩で炒り、又味醂醤油で煮付けて食う。蛋白質・脂肪に富み、美味。長野県の名産。季語は春。
[2].ミミズの古称。新撰字鏡8「蟺(みみず)、波知乃子」。
※11-3:伊那谷(いなだに)/伊那盆地(いなぼんち)は、長野県南部、天竜川に沿って南北に細長く伸びる盆地。西を中央アルプス、東を南アルプスが囲む。伊那平。
※11-4:稲子/蝗(いなご、rice-field locust)は、バッタ科イナゴ属の昆虫の総称。体長約3cm。稲の害虫。体は緑色、翅は淡褐色で良く飛ぶ。鳴かない。夏・秋に田圃・草原に多く、秋、土中に産卵する。佃煮などにして食用にする。ハネナガイナゴ/コバネイナゴなど。季語は秋。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12:越年(おつねん)とは、年を越すこと。越年(えつねん)。〈日葡〉。
※13:倭文(しとり/しどり/しつ[おり]/しず[おり])とは、(奈良時代にはシトリ/シツと清音)古代の織物の一。楮(かじ)・麻などの緯(よこいと)を青・赤などで染め、乱れ模様に織ったもの。文布(あやぬの)。倭文機(しずはた)。しずり。倭文布(しずぬの)。倭文織(しずおり)。万葉集17「神のやしろに照る鏡―に取り添へ乞ひのみて」。
※13-1:倭文部(しとりべ/しどりべ)とは、垂仁紀に書かれている10の品部の一。倭文(しとり)を職掌とした。今日では郷名や里名に名残を残し、倭文神社が存する所も在る。
※14:河童(かっぱ/かわわっぱ、water imp)は、(カハワッパの約)。想像上の動物。水陸両生、形は4~5歳の子供の様で、顔は虎に似、嘴(くちばし)は尖り、身に鱗(うろこ)や甲羅が有り、毛髪は少なく、頭上に凹みが有って、少量の水を容れる。その水の有る間は陸上でも力強く、他の動物を水中に引き入れて血を吸う。河郎。河伯(かはく)。河太郎。水虎(すいこ)。旅の人。かわっぱ。
※14-1:河伯(かはく)とは、[1].河を守る神。河の神。河神。元は中国より伝来。太平記14「いかなる―水神なりとも」。
[2].河童(かっぱ)。
※15:ミイラ(mirra[葡], mummy[英])は、(木乃伊は mummy の漢訳語)人間又は動物の死体が永く原形に近い形を保存して居るもの。天然的ミイラと人工的ミイラとが在り、天然的ミイラは土地の乾燥と、鉱物的成分、空気の乾燥、寒冷の為に、死体が自然に乾固したもの。人工的ミイラは主として宗教上の信仰から人間の死体に加工してその腐敗を防止したもので、エジプト/インカ帝国/ミャンマーなどに見られる。有名なエジプトのミイラはオシリス信仰と結び付いてBC3000年頃から人工的に作られた。日本では中尊寺金色堂に在る奥州藤原氏3代のミイラや湯殿山のミイラが有名。「―取りが―に成る」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15-1:剥製(はくせい、stuffing, stuffed animal)は、動物(主に鳥・獣)の皮を剥ぎ、内臓・肉を除き、中に綿などを詰めて縫い合せ、防腐法を施して、生きている形に擬して作ること。又、その物。
※16:スイッチバック(switchback)とは、折返し式の鉄道線路。急勾配の途中に停車場を設置する為に本線から分岐して設けられるものと、勾配など地形上の必要から本線が折り返すものとが在る。
※17:大和物語(やまとものがたり)は、平安時代の物語。作者未詳。951年(天暦5)頃成立、以後増補か。170余編の小説話から成り、前半は伊勢物語の系統を引いた歌物語、後半約40編は歌に結び付いた伝説的説話の集成。
※17-1:今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)は、日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳。全31巻(その内28巻現存)を、天竺(インド)5巻、震旦(中国)5巻、本朝21巻に分け、各種の資料から一千余の説話を集めて居る。その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれ、「今昔物語」と略称する。中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3分の1以上を占め、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。文章は、漢字と片仮名に依る宣命書きで、訓読文体と和文体とを巧みに混用して居る。
※18:落人(おちうど)は、(オチビトの音便。古くはオチウトとも)戦いに負けて逃げて行く人。又、人目を避けて逃げて行く人。義経記4「左右なく―の入らせ給ひ候を」。「平家の―」。
※18-1:落人伝説(おちうどでんせつ)とは、落人に纏わる伝説。土地の自然物の由来を述べる鎧桜・休み石、先祖を落人とする平家谷伝説など。
※18-2:鈴木牧之(すずきぼくし)は、江戸後期の俳人・著作家(1770~1842)。本名、儀三治。俳号は秋月庵牧之。越後国塩沢に生まれ、家業は縮仲買商。諸方を遊歴して紀行を残し、江戸の山東京伝・曲亭馬琴・十返舎一九らと交遊。著書は「北越雪譜」の他に「秋山記行」「東遊記行」「西遊記行」などが在る。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※19:ラッセル(russel)は、(除雪装置を発明・創製した会社名に依る)[1].ラッセル車の略。
[2].(登山用語)深雪の際、身体で道を開き乍ら進むこと。
※19-1:ラッセル車(―しゃ、Russel snowplow)は、除雪機関車の一。雪を排除する楔形の鋤(すき)を前面に備えるもの。
※20:斐伊川(ひいかわ)は、鳥取・島根県境の船通山(標高1142m)中に発源し、宍道湖西端に注ぐ川。下流部は天井川。八岐大蛇伝説で知られる。長さ75km。簸川(ひのかわ)。
※20-1:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※20-2:八岐大蛇(やまたのおろち)は、記紀神話で出雲の簸川(ひのかわ=今の斐伊川)に居たという大蛇。頭尾は各々八つに分れる。素戔嗚尊(すさのおのみこと)がこれを退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、その尾を割いて天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得たと伝える。
※20-3:奇稲田姫・櫛名田姫(くしなだひめ、くしいなだひめ)は、出雲国の足名椎(あしなずち)・手名椎(てなずち)の女。素戔嗚尊の妃と成る。稲田姫。
※21:胞衣(えな/ほうい/ほうえ)とは、胎児を包んだ卵膜と胎盤。徒然草「御―とどこほる時の」。→後産(あとざん)。
※21-1:臍の緒(へそのお/ほぞのお、umbilical cord)は、臍帯(さいたい)に同じ。〈日葡〉。
※21-2:臍帯(さいたい、umbilical cord)とは、胎児と胎盤とを繋ぐ柔らかな索状の器官。内部に動脈・静脈を入れ、胎盤を介して母体の血液から酸素及び栄養物を胎児に送り、又、胎児の体内に於ける不要物及び二酸化炭素を母体血液に移す。ヒトでは長さ50~60cm。臍の緒(へそのお/ほぞのお)。
※21-3:胞衣刀(えながたな)とは、胞衣(えな)を切るのに用いた竹刀(たけがたな)。
※21-4:竹刀(たけがたな)は、[1].竹で作った刀。竹光(たけみつ)。浄、雪女五枚羽子板「身は―抜きかねて」。
[2].竹で作った馬櫛。刀に歯の付いた様な形のもの。〈日葡〉。
※22:山国川(やまくにがわ)は、大分県北西部の川。英彦山(ひこさん)の東に発源し、中津市の西から周防灘に注ぐ。長さ56km。上流・中流に耶馬渓が在る。中津川。広津川。高瀬川。
※23:鱧(はも)は、(古名はハム。ハミ(蛇類の総称)と同語源)
[1].conger pike。ハモ科の海産の硬骨魚。体形はウナギ形で、全長2mに達するものが在る。吻は尖り、口は大きく鋭い歯をもつ。背部は灰褐色、腹部は銀白色。体は滑らかで鱗が無い。水深約100mの海底に棲み、甲殻類/イカ/タコ類/魚類を捕食。本州中部から朝鮮半島/東南アジアの島々/紅海に分布。小骨を骨切りする。高級かまぼこ・ちくわの材料。関西では、はも料理(湯引き/鍋料理/寿司/蒲焼きなど)の材料として珍重。季語は夏。〈運歩色葉〉。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
[2].北日本で、アナゴのこと。
※24:須崎(すさき)は、高知県中部、土佐湾の入江に臨む市。元、鰹漁港、現在はハマチ養殖が盛ん。造船・水産加工・セメントなどの工場も有る。人口2万8千。浦ノ内湾は横浪三里(よこなみさんり)と呼ばれる景勝地。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※25:川獺・獺(かわうそ、otter(ニホンカワウソは Japanese otter))は、ネコ目イタチ科の哺乳類。体長約70cm。イタチに似、体は褐色。四肢は短く、蹼(みずかき)が有って泳ぎに適し、水中で魚などを捕食。毛皮は良質。ヨーロッパからアジアに広く分布するが、日本では高知県西部以外は絶滅。特別天然記念物。古来の俗説に、人語を真似て人を騙し、水に引き込むと言う。河童の原形ともされる。ニホンカワウソ。オソ。カワオソ。〈文明本節用集〉。
※25-1:川獺の祭(かわうそのまつり)とは、[礼記月令「孟春之月…獺祭魚」]川獺が捕えた魚を並べることを、祖先の祭をして居ると見立てて言う語。正月をその季節とする。かわおそのまつり。獺祭(だっさい)。季語は春。
※25-2:獺祭(だっさい)とは、[1].カワウソが多く捕獲した魚を食べる前に並べて置くのを、俗に魚を祭るのに譬えて言う語。獺祭魚。
[2].転じて、詩文を作る時に、多くの参考書を広げ散らかすこと。正岡子規はその居を獺祭書屋と号した。
※25-3:ヌートリア(nutria[スペ], coypu[英])は、(カワウソの学名ルートラの訛)ネズミ目ヌートリア科の哺乳類。頭胴長50cm、尾長40cm程。毛色は褐色で、水中生活に適応し後足の指間に水掻きが有る。夜行性で水草や貝類を捕食。南アメリカ東部の草原や湿地の原産だが、毛皮獣として養殖され、世界各地で野生化して居る。日本では軍用毛皮獣として移入飼育されたものが、西日本各地で野生化。水辺の作物を荒らすのと、堤防に大きい巣穴を掘り危険な為、駆除される。沼狸。海狸鼠(カイリネズミ)。コイプ。
※26:闘牛(とうぎゅう)は、[1].bullfight[英]。牛と牛とを戦わす力競べ。牛合(うしあわせ)。
[2].corrida de toros[スペイン]。徒歩又は騎乗の闘牛士と牛との決死的闘技。ギリシャ・ローマで行われたが、今はスペインの国技として知られ、更にメキシコなどにも普及。赤布で牛を怒らせ、最後に剣で突き刺す。
※26-1:牛合(うしあわせ)は、牛と牛とを角を突き合わせて戦わせ、その勝負を見る遊び。闘牛。牛突。牛の角突。牛相撲。西遊記続編「―といふ遊びあり」。
※26-2:牛相撲(うしずもう)は、牛合に同じ。
※26-3:牛突き(うしつき)は、牛合に同じ。
※26-4:牛の角突き(うしのつのつき)は、牛合に同じ。
※26-5:闘犬(とうけん、dogfight, fighting dog)は、犬を闘わせて観覧すること。犬合(いぬあわせ)。犬食い。又、それに用いる犬。土佐犬が有名。
※26-6:土佐犬(とさいぬ/とさけん)は、[1].イヌの一品種。高知県に居た在来種にマスチフなどを交配して作出したもので、体高60cm程。短毛で、毛色は褐色か茶褐色。闘犬用。
[2].土佐の地犬。純粋の日本犬で天然記念物。
※26-7:犬合(いぬあわせ)とは、犬を噛み合わせて勝負をさせる催し。闘犬。いぬくい。太平記5「月に十二度、―の日とて定められしかば」。
※26-8:犬食い(いぬくい)とは、[1].闘犬。犬合(いぬあわせ)。
[2].俯(うつむ)いて黙って一心に物を食べること。
※27:勢子/列卒(せこ、beater)とは、狩場などで、鳥獣を駆り起てる人夫。狩子(かりこ)。〈日葡〉。
※28:木星(Jupiter[ラ])は、太陽系の惑星の一。太陽の方から数えて第5番目。質量は太陽の約千分の1、地球に比べて質量は318倍、直径は約11倍で、惑星中最大。メタンやアンモニアを含む厚い大気を有し、赤道に平行な数条の帯は、年々その様相を変え、1878年に現れた大赤斑は、現在は非常に淡く成った。自転周期は約10時間、公転周期は11.86年。環を持つ。衛星は16個以上。ガリレイの発見した4個は、ガリレイ衛星とも言う。漢名は歳星、太歳。愚管抄6「太白―火星」。
※28-1:イオ(Io)は、木星の第1衛星。半径1,821kmで月よりやや大きい。1979年にアメリカの探査機ボイジャーが硫黄などに覆われた赤い表面の姿を捉え、火山の噴火を発見。公転周期は約1.8日。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※28-2:エウロパ(Europa)は、木星の第2衛星。1610年ガリレイが発見した4個の衛星の内の1つ。最大光度6等。半径1,565kmで月より少し小さい。氷で覆われた地表の下に温かい水の存在が観測されて居る。公転周期は約3.6日。ユーロパ。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※28-3:ガニメデ(Ganymede)は、木星の第3衛星。直径が約5,300km(半径2,650km)で、水星よりも大きい太陽系最大の衛星。公転周期は約7.2日。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※28-4:カリスト(Kallisto)は、木星の第4衛星。水星と同じ位の大きさ(半径2,400km)で、表面には多数のクレーターが在る。公転周期は約16.7日。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※29:CCD/CCD(シー・シー・ディー)とは、(charge coupled device の略)光を電気信号に変換する半導体製の受光素子。イメージ・スキャナー/ファクシミリ/デジタルカメラ/ビデオカメラなどに使用。電荷結合素子。
※30:星図(せいず、star atlas, star map)とは、天球を一つの平面上に投影して、天体の位置や明るさを表した図。赤道座標に基づく。フラムスチード星図/ボン星図/パロマー写真星図など。恒星図。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※31:天妃(てんぴ)とは、媽祖(まそ)のこと。
※31-1:媽祖(まそ)とは、中国南部の沿海地域を中心に民間で信仰される道教の女性神(元は10世紀の宋代に実在した娘とされる)。航海安全や安産の神とされ、媽祖廟に祀られる。天妃。天后。天后娘娘。→娘娘(ニャンニャン)。
※31-2:閩(びん)とは、福建省の別称。
※32:浮島(うきしま)は、[1].湖沼の中に浮かんで動く島状のもの。通常、植物体や泥炭から成る塊。
[2].水面に浮かんだ様に見える島。源氏物語玉鬘「―を漕ぎ離れても行く方や」。
※33:琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)は、周煌の著。1756(乾隆21)年に冊封副使として来琉し約7ヶ月の滞在経験を纏めた地誌で、翌年に上呈される。後に日本に伝わり、1831(天保2)年と1832(同3)年に和刻本が刊行され、北斎の「琉球八景」(1832)の元絵と成った。誤記が多いのが難点。
※34:薩摩芋/甘藷/甘薯(さつまいも、sweet potato)は、ヒルガオ科の一年生作物。中南米原産で、日本には17世紀前半に、中国・琉球を経て九州に伝わり普及。茎は蔓性で、地下に多数の塊根を付ける。暖地では、秋、ヒルガオに似た淡紅色の花を開く。塊根は食用の他、酒類・アルコール・澱粉の原料、又、蔓と共に飼料とする。異称多く、カライモ/トウイモ/リュウキュウイモ/アメリカイモなど。漢名、甘藷(かんしょ)。季語は秋。
※34-1:塊根(かいこん)とは、肥大して塊状と成った根。貯蔵物質が蓄積している。サツマイモ/ダリアの類。
※35:ヒカンザクラ(緋寒桜)/カンヒザクラ(寒緋桜):サクラの一種。沖縄・台湾・中国南部に自生。日本の暖地にも栽培。2月頃、葉に先立って濃紅色鐘形の花を下垂する。緋桜。タイワンザクラ(台湾桜)。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『魏志倭人伝 他三編』(石原道博編訳、岩波文庫)。
△2:『原色日本昆虫生態図鑑-II.トンボ編』(石田昇三著、保育社)。
△3:『日本地名ルーツ辞典』(池田末則・丹羽基二監修、創拓社)。
△4:『大和物語』(水野駒雄校注、改造文庫)。昭和13(1938)年印刷で横書きは右より始まる古い本。
△5:『今昔物語-若い人への古典案内-』(西尾光一著、現代教養文庫)。
△5-1:『今昔物語集 本朝部(下)』(池上洵一編、岩波文庫)。
△6:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。
△7:『更級日記』(菅原孝標女著、西下経一校注、岩波文庫)。
△8:『楢山節考』(深沢七郎作、新潮文庫)。
△9:『落人伝説の旅-平家谷秘話』(武田静澄著、現代教養文庫)。
△10:「須崎市」公式サイト。このHPは非常にすっきりして居ます。一般に県や市の公式サイトは「ごちゃごちゃして解り難い」ものが多い。
△11:『ニホンカワウソ-絶滅に学ぶ保全生物学』(安藤元一著、東京大学出版会)。著者は河童やカワウソの民俗学についても深い知識を持って居ます。
△12:「宇和島市観光協会」公式サイト。
△13:『ジュニア自然図鑑6 宇宙 太陽系・銀河』(磯部琇三監修、実業之日本社)。
△14:『天体ガイドマップ STAR ATLAS 2000.0』(冨田弘一郎監修、天文ガイド編集部編、誠文堂新光社)。
△15:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。
△16:『日本の星(星の方言集)』(野尻抱影著、中公文庫)。
△17:『鵺(ぬえ)は飛び散りエイ躍る ~極々マイナーな伝説の旅~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△18:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。
△19:『みーきゅるきゅる vol.4(特集 むつみ橋)』(特定非営利活動法人まちなか研究所わくわく編集・発行)。
△19-1:『みーきゅるきゅる vol.3(特集 前島)』(特定非営利活動法人まちなか研究所わくわく編集・発行)。
△20:『周煌 琉球国志略』(周煌著、原田禹雄訳注、榕樹書林)。
△21:『沖縄県の歴史』(新里恵二・田港朝昭・金城正篤著、山川出版社)。
△22:『山渓ハンディ図鑑7 日本の野鳥』(叶内拓哉・安部直哉・上田秀雄著、山と渓谷社)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):大分県中津市の地図▼
地図-日本・九州地方(Map of Kyushu region, -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):月の公転周期は27.32日▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@参照ページ(Reference-Page):星や星座の専門用語集▼
資料-天文用語集(Glossary of Astronomy)
@参照ページ(Reference-Page):十二支について▼
資料-十干十二支(Chinese zodiacal signs and 60 years cycle)
@参照ページ(Reference-Page):相撲の歴史と仕来たり▼
資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)
@補完ページ(Complementary):”境の地”について▼
2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
@補完ページ(Complementary):松浦一酒造のカッパのミイラの初出や
ビリケンについて▼
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
@補完ページ(Complementary):松浦一酒造のカッパのミイラ▼
松浦一酒造とカッパのミイラ(Matsuura-ichi brewing and Kappa's mummy)
@補完ページ(Complementary):河童の総纏めとカワウソ(獺)の伝承▼
河童考(About the Kappa, that is, water imp)
@補完ページ(Complementary):文字通り雪国の”当たり前”を
メディア論も含めて論じて居ます▼
東京が雪で大変?、じゃ札幌はどないするねん!
(Snow in Tokyo and Sapporo)
@補完ページ(Complementary):星と星座の写真集▼
星と星座の写真集-目次
(STARS and CONSTELLATIONS in Japan, Menu)
@補完ページ(Complementary):脳出血への第1報で、
且つ脳出血後の3作目(最初の新規ページ)▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
2004年の樒原棚田との”未知との遭遇”▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
京都市の「廻り田池」の”臨水墓地”▼
2010年・京都樒原の棚田(Rice terrace of Shikimigahara, Kyoto, 2010)
島原~熊本フェリー/トマト大福/松浦鉄道の”変”2つ/青木昆陽▼
九州のケッタイ(Strangeness in Kyushu)
「思わぬ発見」こそ旅の醍醐味▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
パンパン文化が健在な”半分米国領”や銭湯文化について▼
こんな女に誰がした-悲しきパンパン(Who did to such a woman ?, sad pompom)
私は無神論者▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
寝に帰る街やダサイタマや埼玉都民について▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)
アイデンティティーの大切さ▼
温故知新について(Discover something new in the past)
保土ヶ谷や野毛英雄氏について▼
まんこ/めこ/そそ/宝味etc(MANKO, MEKO, SOSO, HOUMI etc)
饒速日命と磐船神社▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
零式、一式、二式、...の基点▼
R.シュトラウス「皇紀2600年奉祝楽曲」
(Celebrating music in Imperial 2600, R.Strauss)
2発の原爆に沈んだ日本や
急変した天候の為に四万十地方の取材を諦め急遽帰阪▼
歴史の横漏れ(Spill sideways from history)
中国の虫食文化や野生的な食文化▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
信州の馬食文化や土佐の鯵寿司▼
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)
「鉄道の日記念切符」について▼
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)
疫神であるシダラ神(志多良神/志多羅神/設楽神)について▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)
出水の渡り鶴▼
2010年・出水のツル探訪記(Cranes in Izumi, Kagoshima, 2010)
関西本線のスイッチバック▼
2005年・伊勢鹿伏兎城(Ruins of Kabuto castle, Mie, 2005)
信州の姨捨伝説の初出は下記ページの補遺ページに在り▼
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)
JR篠ノ井線の姨捨駅での観月▼
月見の宴(The MOON watching banquet in Japan)
平成の大合併(住所は肥大化)とは▼
2006年・井川線あぷとラインの旅
(Ikawa Abt-line, Oi-river Railway, 2006)
素戔嗚尊・奇稲田姫について▼
2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)
大阪の比売許曽神社の胞衣塚や島根県の稲田神社の「笹の宮」について▼
比売許曽神社と胞衣塚(Himekoso shrine and afterbirth mound, Osaka)
福岡県吉富町の八幡古表神社▼
「妻」「野の花」(柳田国男の悲恋)-布佐
('A wife', 'Field flowers', (K.Y's tragic love), Fusa, Chiba)
大阪の天神祭や脳出血後の初仕事(ページの改造)▼
大阪天満宮の天神祭船渡御
(The Tenjin boating-festival of Tenmangu, Osaka)
大阪淀川のヌートリア▼
”生きている”淀川の入江(Live CREEK in Yodo-river, Osaka)
中国では木星は星の運行の基準星▼
2006年・年頭所感-十二支と猫
(Chinese zodiacal signs and Cat, 2006 beginning)
06年8月24日の国際天文学連合は
冥王星の惑星から準惑星への”格下げ”を決定した
(ホルストの『組曲「惑星」』の中心楽曲に成った木星)▼
ホルスト「組曲「惑星」」(Suite 'The Planets', Holst)
天体写真集(ダイレクト・リンク)▼
写真-木星(PHOTO - Jupiter, Japan)
写真-オリオン座(PHOTO - Orion constellation, Japan)
写真-昴(プレアデス星団)(PHOTO - Pleiades star cluster, Japan)
脳出血後の2作目(ページの改造)▼
赤エイの御利益(Divine help of STINGRAY, Kinki)
大阪市東成区中本の八王子神社及び境内摂社の巳さん▼
2013年・年頭所感-今年は巳さん(This year is Mi-san, 2013 beginning)
脳出血後からウチナーンチュ(沖縄の人)に成る迄▼
2013年・那覇空港を遊ぶ(Play the Naha Airport, Okinawa, 2013)
三重城の先端▼
那覇市配水池の市松模様は良く目立つ
(Ichimatsu checkers of water supply pond of Naha stands out, Okinawa)
北斎の『琉球八景』について▼
北斎の「琉球八景」(Hokusai's 'Ryukyu 8 scenic spots', Naha)
私の戦中的記憶▼
東海地方の「ゆでピー」好み(Boiled peanuts in Tokai region)
焚き火で作った焼芋は旨かった▼
信楽焼の狸(Raccoon dog of Shigaraki-yaki)
大阪の梅に止まったメジロ▼
2003年・大阪城の梅便り
(Japanese apricot blossoms of Osaka castle, 2003)