那覇市配水池の市松模様は良く目立つ
[佐野川市松と女形(おやま)と写楽]
(Ichimatsu checkers of water supply pond of Naha
stands out, Okinawa)

-- 2014.06.23 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2016.12.10 改訂

 ■赤嶺緑地の「朱色と白の市松模様」は良く目立つ!

 私は
  2013年・那覇空港を遊ぶ(Play the Naha Airport, Okinawa, 2013)

に於いて赤嶺緑地の「朱色の市松模様」(※1)の事を次の様に記して居ます。

 『私は今年(2013年)の3月8日に初めて沖縄に来たのですが、空港からモノレールに乗り、ほんの少し走ると車窓から飛び込んで来るのがこの「朱色と白の市松模様」なのです。そして車窓から一端消えるのですが再び現れるのです(←モノレールはカーブしている)。その正体がこれで解った訳ですが、この市松模様の印象が焼き付いて仕舞いました。人に与えるインパクトは強烈です。という訳で、私の頭の中では大きな「朱色と白の市松模様」と那覇空港は切っても切れないのです。』

 那覇空港からモノレールに乗ると「朱色と白の市松模様」は現れたり消えたりします。「朱色と白の市松模様」の正体は赤嶺緑地に在る「那覇市水道局の配水池」(※2)で水道水を一時貯えて置く施設です。配水池の説明には高架方式プレストレストコンクリート円筒形(P.C)で、内径28m、水深6.6、有効容量4000㎥、緊急遮断弁付きです。...<中略>...現在の那覇市には浄水場は無いのです。』と書いて在ります。詳しくは前掲ページをお読み下さい。

 これが「」の市松模様だったら私は興味を覚えなかったでしょう。私が惹かれたのは「朱色」である事と可なり大きい物体(←配水池と知ったのは後からです)であるからです。
 その後、那覇市の各地で「朱色と白の市松模様」が見え私はデジカメで撮影して居ます。今回は各地から見た「朱色と白の市松模様」を御披露しようという、興味の無い人からは全く馬鹿げた内容です。そういう方は申し訳無いですが直ぐこのページから出て行って下さい、アッハッハッハ!!

 ところで「2013年・那覇空港を遊ぶ」を含む沖縄の本を1ヶ月程前に出版したばかりです、『めんそーれ沖縄!』(△1)という本です。「2013年・那覇空港を遊ぶ」は同書(△1のp36~49)に載って居ますので、宜しく!
 尚、「市松模様」の英語のタイトルに Ichimatsu checkers を使った心は後で述べます

 <P.S.>あっ、そうそう、忘れて居ました。今日6月23日は「慰霊の日」(※3)と言って沖縄戦追悼の日で「沖縄県は休日」です、沖縄県以外は休日では有りません。沖縄では商売なども休みにする所が結構在ります。
 私も今日は国際通り付近の街中を見て回り -去年は初めての慰霊の日だったので(→後出)がどうしてるか見に行きましたね- 、その後自宅で戦没者を悼んだ後で本ページを仕上げて居ます。

 ■2013年

 (1)赤嶺緑地 - 本家本元の迫力

 それでは先ず赤嶺緑地の配水池から見て行きましょう。これは前掲ページに既に載って居ますが写真を変えて表示します。
 安次嶺(あしみね)の交差点を渡り直ぐの所に赤嶺緑地那覇市赤嶺1丁目)は在り公園の様に整備されて居ます。赤嶺緑地は少し高台に在り金網の向こう側の階段を上り緑地に入りますが、赤嶺緑地の入口で2013年5月2日16:00頃に撮ったものです。貯水タンクはデカイですね、内径28m、水深6.6は半端では有りません。私が2013年3月8日に初めて「朱色の市松模様」を見た時の感動と言うか、驚きが甦って来ます。これが本家本元です!!


 同日16:05頃に赤嶺緑地の林の中から撮ったのが左下の写真、16:08頃に赤嶺緑地の祭壇の様な場所から撮ったのが右下の写真です。


 この「朱色の市松模様」が那覇市の各地から見え、それを紹介するのが本ページの役割なのです。

 (2)末吉公園

 5月8日末吉公園那覇市末吉町1丁目)です。末吉宮跡を訪ねた直後、ふと空港の方角へ目を転じると有・り・ま・し・た、もう私の目は「朱色と白の市松模様」を見付ける様に条件付けられて居ます。左下が望遠(撮影時刻11:28頃)、右下は広角(撮影時刻11:29頃)です。

 右の写真の左上部:直ぐ右➡➡➡➡

に「朱色と白の市松模様」が写って居ます。そして写真下部には市民病院前駅が写り、2輌連結のモノレールが駅に停車して居ます。
 つまり住吉宮跡と市民病院前駅と赤嶺緑地は”そういう位置関係に在る”のです。
 右が同日(=5月8日)撮った末吉宮です。「史跡 末吉宮跡」の説明板に拠ると、元々は末吉熊野権現社として室町時代中期に建立されたと在ります。歴史書で補えば第一尚氏の尚泰久の時で1450年代後半です(△2のp53)。波上・沖・安里八幡・識名・普天間・金武・天久と共に琉球八社の一つで、三間社流造の本殿は昭和11(1936)年に国宝に指定されましたが沖縄戦で砲撃を受け、現在の建物は残った礎石などから昭和47(1972)年復元修理されたものと在ります。

 右は末吉宮から同日(5月8日)撮った首里城です。

 首里城公園首里市首里当藏町1~3丁目)からも「朱色と白の市松模様」が見えますが、距離・角度は末吉公園に近く同じ様な写真に成るので省略します。

 尚、私は1998年頃から昆虫撮集(←これは私の造語)を遣っていて、要するに昆虫には一切手を触れず昆虫の写真を撮ってインターネット上のHP(ホームページ)でデータを公開する方式です。末吉公園や赤嶺緑地には珍しい沖縄産の昆虫が居ます。沖縄の昆虫の写真集は▼下▼
  私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)

をご覧下さい。これは『めんそーれ沖縄!』(△1のp52~63)でも掲載して居ます。

 (3)瀬長島

 5月27日瀬長島に行きました。私は「2013年・那覇空港を遊ぶ」に次の様に記して居ます。即ち瀬長島豊見城市瀬長)はモノレールの那覇空港駅から真南へ直線距離で約3.5km、道形(みちなり)に国道331号を通って行っても4km弱です。ところが滑走路の先端からは僅か700mです!と。
 ここからも「朱色と白の市松模様」が見えます。私のデジカメFinePix-S8000fdの特徴は光学ズームが最大18倍(約486mm望遠レンズに相当)です。今回は光学ズームを最大にして撮り(撮影時刻16:03頃)、しかも画像を原画サイスにしてみたのが左下の写真です。いやぁデカイですね、迫力が有ります!
 右下の写真は実は原画は隣のデカイ写真と同じです。それを原画サイズで載せると左下の写真の様に成って仕舞うので、右下の写真は原画を縮小してあるのです、お解りですね。海が見えて居ますが、ここは瀬長島です。周りは海に囲まれているのです。

 この2枚の写真の原画は同じです。赤嶺緑地の林も見えますね。


 ところで空港の方へ目を移すと、左下の写真(撮影時刻16:09頃)は遠浅の海岸 -子供たちは潮干狩りをして居ます- の向こう側に那覇空港が見えプロペラ機が着陸する所で、右端には着陸待機して居る飛行機も見えます。
 今回私の興味を惹いたのは真ん中に在る朱色の市松模様」です。それの拡大写真 -実は原画サイズで切り出して在る- が右下の写真です。赤嶺緑地の配水池の貯水タンクとは違いますが、やはり大きな市松模様です。これは滑走路の限界を示して居るのです。という事は「朱色の市松模様」には、そういう「危険を示す/大事な物を示す」とかの意味を有するものと思われます。

 (4)三重城

 5月29日三重城の先端那覇市西3丁目)に行きました。ロワジールホテルの所に「史跡 三重城」の石柱が在りますが、それを通り越して車が入れない中を700m位進み先端に着くと屋根付き休憩所が在ります。私は夏に成る -沖縄の夏は5月後半~10月半ば- と良く行きます。ここは人が余り来ないので木の椅子で寝られます。写真はその700m位の真ん中辺りで撮りました(撮影14:35頃)。手前の建物に依って見え隠れします。
 左が光学ズーム4倍位の望遠で撮影したもので写真の右側が那覇空港です。
 下が「朱色と白の市松模様」の拡大です。


 左下が三重城先端から見える那覇空港です。この写真は去年の慰霊の日(=2013年6月23日)に撮ったものです。ここから見える所は丁度LCC(low-cost carrier、格安航空会社のこと)の飛行機の待機場所で今はPeach航空の機体が見えていて、その上空を掠める様に飛行機が着陸して来ます。因みに飛行機は向かい風に向かって離陸しますので、風向きが逆に成ると写真の右方向に離陸します。大体この季節は写真の様に着陸で、秋に成ると離陸することが多く成ります。
 そして右下の写真が先程お話した屋根付き休憩所です、赤い屋根の下に木の椅子が在るのです(撮影2013年7月25日)。ご覧の様に人は少ししか来てないので、ゆっくり休めるという訳です。後は釣り人が少々。私はここに一日中居ても飽きません!
  

 三重城からの帰りは -戦前迄は女性が取り仕切って居た辻遊郭が在りましたが戦災で焼失し今は単なるソープランド街と化したのが残念、大阪の飛田の情緒が懐かしい!- を突っ切って天妃小学校の前を通って帰るのも良し、或いは波の上緑地波の上うみそら公園とも言う) -ここにも屋根付き休憩所が在り良くノラ猫が傍で寝て居ます- に寄って帰るのも良し、或いは波之上宮波の上ビーチ -この公園に旭ヶ丘公園の名が付いている事は誰も知らない、波の上ビーチは那覇市内で唯一の砂浜とか- に寄るのも良し、色々その日の気分でコースを変えて帰ります。因みに、辻のソープランドは年中無休 -私は元旦・盆・慰霊の日(※3、△1のp72)などに現地に行き、又客引きの”お兄さん”にも聞いて確かめて在ります- と見上げた心意気です!!
 右上の写真の辻町恋愛倶楽部は「女の子に自信があります。写真見学ご自由にどうぞ。」と壁に書いて在ります(2013年5月29日撮影)。
 沖縄は女性上位の島です!

 ■2014年

 (1)大石公園

 2014年の4月6日には私の家の東北東に在る大石公園那覇市識名1丁目)に行きました。この公園は私の家から近く、自転車で10分、徒歩で15分で来れます。自転車で来ると小山を登る為に自転車を降りないと登れません。そして大石公園の高台から”例の物”が見えるのです(下の2枚)。この2枚は同じ写真(撮影時刻11:56頃)で、左下が周りの風景を入れたもので右下が「朱色と白の市松模様」を原画サイズで表示したものです。




 この公園では毎年この季節に「大石公園ゆり祭」を開催して居ます。百合(ゆり)が沢山咲いて居ました(左の写真)、若干屋台が出て綿菓子を売って居ました。この写真は2014年4月15日に撮りました、この日は凄く好い天気でした。

 2014年は大石公園のみです。

 ■考察 - 市松模様の謂れ

 (1)古代から存在する市松模様

 「市松模様」(※1)とは左の格子状のパターン(図案)(※4)を言います。
 或いは西欧ではチェス(西洋将棋)の盤が市松模様に成って居ます(中央の写真)。
 或いはテレビでF1の自動車レースを見た方はレース終了の合図として旗を振るのを見た事が有るでしょう、あれをチェッカーフラッグ(checkered flag)(※5)と言い「黒と白の市松模様」をして居るのです(右の写真)。
 但し、日本で市松模様と言われたのは江戸時代に成ってからの事(→後出)ですので注意して下さい。このパターンは実は装飾模様として古代から存在して居るのです。

 例えば左はギリシャ(又はギリシア)の古代彫刻の図案(△3のp17)ですが真ん中に市松模様(←この本では襷(たすき)模様とか屈折模様と呼んで居ます)が在ります。又、右はケルト族(※6)の7~9世紀の絵画の装飾(△3のp66)ですが幾何学文様と市松模様が合成されて居るのを見出す事が出来ます。
 更にインカ帝国の織物や衣装にも使われて居ます(△3-1のp72、84)。

 この装飾模様は織物/衣装のデザイン/彫刻/陶器/金銀・宝石細工/紋章/銅版画/ステンドグラス/モザイク/タイルなど美術工芸の殆どの分野に及んで居ます。

 日本では古くは石畳(※7)とか霰(あられ)(※7-1)と呼ばれて来ました、左が石畳の図案です。
 日本の場合は特に家紋の紋章(※7-2)に使われて居ます。上の石畳の図案が家紋に応用されると色々な文様に成ります。幾つか挙げると下の様な紋章が在ります。他にも在りますが省略します。
 下の紋章は『日本姓氏紋章総覧』(△4)から採りました。△4は紋章に番号を振って居て、紋章番号も付けて在ります。

 左から三つ石畳かげ立三つ石畳四つ石畳丸に四つ石畳です(△4のp312)。
 左から丸に平五つ石畳つなぎ九つ角立石畳つなぎ平九つ石畳(以上が△4のp312)、そして市松四つ目結(△4のp350)です。
 この様に洋の東西に拘わらず、この格子状パターンには古代から親しんで来たのです。

 (2)「市松模様」とは初世市松が流行らせた格子模様

 では何故、この格子状パターンを日本では江戸時代前期から「市松模様」と呼んだのか?、それはこのパターンを歌舞伎俳優の初世佐野川市松(※8、※1-1)が好み、1741年江戸中村座で「高野心中」の小姓役に出演した際に「紺と白の格子状パターン」の袴を身に着け大変な評判に成り一般にも流行ったからです。ですからこの格子状パターンは古代から在りますが、それに市松格子/市松模様という名が付いたのは飽く迄も初世市松の1741(寛保1)年以降の日本に於いての話です。
 初世市松は美形で、初め若衆方(=美少年)で評判を得ますが宝暦の頃(1751年~)から若女形に転じ江戸を代表する女形(おんながた)/お山(おやま)(※8-1)に成りました。1741年の「高野心中」では未だ若衆方です。

 初世市松を描いた浮世絵が在ります(左の図「市松の人形遣い」、△5のp27)。これは奥村政信(※9)が描いた浮世絵初期の紅絵(※9-1)で、市松は確かに美形です。時流を捉える才が在った政信は市松模様が当たった市松をモデルに何枚も絵を描いた内の一枚です。
 見て下さい、市松の衣装を。最新の流行に敏感な江戸町人は流行りの市松模様を認めて満足するのです。「丸に同の字」紋は市松の家紋です。市松は人形を操って居ます(=一人遣いの両手突っ込み式)。この絵は寛保~延享(1741~47年)に描かれ、市松は若衆方です。そして政信は「根元」(※9)と書き入れ、俳人でもあったので俳句を詠んで居ます。

  おどり行 末の松山 夕時雨      政信

 この後、市松は女形に転じ一世を風靡しますが1762年に40歳の若さで夭逝します。紅絵と言うのは浮世絵が総天然色(カラー)に成る前の墨摺の上に紅を落とした擬似カラーですが、政信も鈴木春信が総天然色の錦絵(※10)を開発する僅か1年前の1764年に逝去するのです。市松も政信も、これが時代というものでしょうか。

 左の絵から50年程経って、3世佐野川市松(←やはり女形)(※1-1の[2])を写楽(※11)が描いて居ます(右の図「祇園町の白人おなよ」(白人とは素人のこと)、△6のp12)。写楽が描いた時期は1794(寛政6)5月~翌年1月の10ヵ月間(閏月を含む)のみ、しかも右の絵は第1期に属し1794年5月に描かれて居ます。絵を見ると3世市松は顔が長く老けた感じの年増ですが、市松模様の着物を2枚重ねて着て「丸の同の字」紋も見えます。
 この様に初世も3世も市松模様をトレードマーク(※12)として積極的に使って居た事が解ります。
 尚、右上の絵で布切れの様な物を頭に乗せて居ますが、これは野郎帽子(※13) -野郎歌舞伎(→後出)を参照- と言って女形がする置き手拭です。役者絵には良く出て来ますので注意して見て下さい。

 ここで『浮世絵類考』 -浮世絵に関する唯一無二の文献- の写楽の評には「これは哥舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を書かんとてあらぬさまにかきなせし故、長く世に行はれず一両年に而止む」と書かれて居ます(△7のp118)が、この写楽評は非常に有名な文章です。正にこの評の如く、3世市松が扮した「おなよ」は後世芸術性が高く評価されて居ますが、役者が役者絵を描かせる目的は「写真の無い時代のブロマイド」なのです。役者にとって大切な事は「役者が美しく見える仕上がり」であって芸術性など二流で良いのです。だから写楽は役者には評判が悪かったのです。
 それを証明する様に3世市松(1759~1814年)の経歴は面白く、初め男役の中村粂次郎を名乗って居ましたが、1784(天明4)年女形の3世市松を名乗り1794年にこの役者絵を写楽に描かせますが、1798(寛政10)年には初世市川荒五郎を名乗り再び男役に転じて居るのです。写楽に老けて描かれては女形で遣り通すのが難しく成ったのか?!、或いは本当に年を取ったのか?、は知る由も無いですが。

 ところで、テレビの歌舞伎中継などを見ると「おなよ」の様な老けた顔が大写しに成る事が時偶有りますが、あれは興ざめで何とかして欲しいですね。と同時にテレビは怖いと思いましたね、何故って写楽の様な「視点の鋭い絵師」しか捉えられない視点を、テレビは無意識の裡に不特定多数に[その視点]を”ばら蒔いて居る”からです。
 そういう意味で私は今の坂東玉三郎(5世)も、そろそろ女形は卒業だと思いますよ。やはり「役者は美しく見せる」のが使命です!

 (3)本ページの市松模様の英字タイトルに Ichimatsu checkers 使った心

 ところで「市松模様」の英語を「研究社 新英和・和英中辞典」で引くと

  市松模様 checks, a check [米 checkered, 英 chequered] pattern,
       a checkerboard pattern.
  市松模様の checked, 米 checkered, 英 chequered.

と出て来ます。つまり格子模様を英語で check(s) と言うのです。先程のチェッカーフラッグ(checkered flag)が良い例です。格子は checkers 、模様は pattern を使うので

  市松格子(Ichimatsu checkers)/市松模様(Ichimatsu pattern)

とも言えるのです。checks, checkers は単独でも市松模様の意味ですが、今回英語タイトルには Ichimatsu checkers を使いました。市松模様に対する思いを込めた積もりです。
    {この章は2015年1月15日に写楽のリンクを追加し、更に補筆し最終更新}

  ■■話の序でに - 歌舞伎の成り立ちと女形(おやま)

  (1)歌舞伎の成り立ち - 阿国歌舞伎がルーツ

 歌舞伎の話が出た序でに歌舞伎の歴史を少々勉強しましょう。女形(おんながた/おやま)(※8-1)の発生について知る為には「歌舞伎の成り立ち」 -即ち、歌舞伎の草創期の歴史- について知る必要が有ります。それには歌舞伎の【脚注】※8を読んで貰うのが纏まっていて良いと思います。要約すると、

    <歌舞伎の成り立ち>

  阿国歌舞伎        → 女歌舞伎 → 若衆歌舞伎
  出雲阿国、1603年京で興行    1629年禁止   1652年禁止
        (念仏踊)

    → 野郎歌舞伎      ⇒ 元禄歌舞伎    → 今日の歌舞伎
     女形(おやま)の発生    歌舞伎の様式を確立

という流れです(※8-2~※8-8)。この流れをもう少し詳しく説明しましょう。

 先ず、歌舞伎と言う言葉は「傾(かぶ)く」(※14)という動詞から来ていて「傾(かぶ)き者」(※14-1)は戦国末期辺りから使われた様です。室町時代に流行った「婆娑羅(ばさら)」と同様な意味で、異様な風体で”目立ちたがり屋”を揶揄して言う言葉です。その典型が佐々木導誉(室町)とか織田信長(戦国)です。信長など「大うつけ」と陰口されて居ました。但し、戦国~江戸時代は歌舞伎と言うよりも、一般には寧ろ狂言(※8-9)→後出)と言って居ました(或いは芝居狂言狂言芝居など)。
 歌舞伎の初めは1603年出雲阿国(※8-3)が京都賀茂河原で念仏踊(※15)を興行したのが最初と言われて居ます。そして、これが受けたので遊女を募り茶屋遊びを模した阿国歌舞伎(※8-2)を興行し当たります。更に女歌舞伎(※8-4)に発展及び広がって行きますが、幕府はこれを風紀が乱れる為に興行を禁止にします(1929年)。阿国が始めた阿国歌舞伎は遊女が体を売ることも有り阿国自体が遊女であるという説は可なり有力です。そもそも阿国が出雲大社の巫女説も怪しいもので出身すら解って無いのです。そういう意味で浄瑠璃のルーツの小野お通浄瑠璃姫と同じく伝説に彩られ焦点を当てると原像はぼやけて仕舞うのです。
 若衆歌舞伎(※8-5)も女歌舞伎と同様な運命を辿ります。
 そして野郎歌舞伎(1652~88年)(※8-6)だけが元禄歌舞伎(1688~1704年)(※8-8)への繋ぎの役を果たすのですが、野郎歌舞伎は文字通り「むさ苦しい男」の世界ですから必然的に或いは自然発生的に女形(おんながた/おやま)(※8-1)が生まれた事は寧ろ当然ですが、重要な事は女形が今日の歌舞伎に受け継がれて居るという事実です。糸縷(いとより)権三郎村山左近 -何れも1640年頃活躍- が女形の祖とされて居ます。
 元禄歌舞伎は歌舞伎の様式を確立して今日の歌舞伎の元に成りましたが、女形も歌舞伎に様式の一つに成ったという事です。そうした女形の系譜として元禄歌舞伎以後に佐野川市松の初世(1722~62年)3世(1784~97年が市松時代)が居た、という事です。


 右が歌舞伎の舞台絵です(右の図、△5のp26~27)。絵師は初世市松を描いた奥村政信で「芝居狂言浮絵根元」と在ります。浮絵(※9-2)とは遠近法で絵が浮き出して見える所から、この名が在ります。当時、日本の絵で遠近法は珍しく「根元」(※9)と奥村政信オリジナルな手法である事を謳って居ます。
 舞台は中村座の仮名手本忠臣蔵(※16)で天川屋義平を演ずるのは市川海老蔵です。元禄歌舞伎の舞台で、画面左側には花道が在ります。
 この絵は1749年の作(←浄瑠璃の初演が1748年なので1年後には歌舞伎で上演)で元禄歌舞伎の普及に仮名手本忠臣蔵は大いに貢献しました(←仮名手本忠臣蔵は当時からヒット作で人気は今日でも断トツです)。

  (2)女性が創った初期歌舞伎
       - 女性のエロスを女形(おやま)に昇華し男世界に

 今日の男世界の歌舞伎、女も男が演じその為に女形(おやま)が居り、その演技の妙は今日の坂東玉三郎迄綿々と受け継がれて居ます。この様な歌舞伎を見ると「歌舞伎は最初から男世界」と思い込んで居る人も少なく無いと思われます。
 しかし「歌舞伎の成り立ち」の節でお解りの様に、阿国歌舞伎女歌舞伎など「歌舞伎は女性が創った」のです。当時は歌舞妓という字も当てられました(←先程の『浮世絵類考』では哥舞妓と成っていました)。「妓(ぎ)」(※17)という字は妓女・芸妓・名妓・妓楼などに使われる通り初期の歌舞伎(=阿国歌舞伎や初期の女歌舞伎)が殆ど”遊女歌舞伎”だったからで、それ故にその興行が禁止されたのです。女性のエロス(※18)は本質的です、エロスは女性に限った事では有りませんが。
 それ以降、歌舞伎は「男のみで演じる物」に成り(即ち「妓(ぎ)」を「技(わざ)」に変え)、必然的に生まれた女形(おやま)はエロスを昇華して(即ち「技(わざ)」を「伎(ぎ)」(※17-1)に変え)、最終的に歌舞伎を「芸(げい)」の域に高めたと言えます。
 残念乍ら、今日私たちが見る事が出来るのは「男のみで創られた「完成された芸」」であって、女性が創造に参加した初期の歌舞伎は最早見れません。もし初期の歌舞伎が見たい、としたら再びエロスの問題が表面に出て来ます。まぁ、女性とエロスは切っても切れない関係に在るのです。それは次の節で説明しましょう。

  (3)機械的な男女同権論よりも、
       男女の機能差を理解し「らしく」生きよう

 これに対しフェミニスト(※19、※19-1)やジェンダー論者(※19-2)が歌舞伎に女性参加を求める論調を新聞等で時々目にします。又、大相撲でも「表彰状を渡すのは女性でも良いのでは?」(←大阪は春場所が有る)と主張した女性大阪市長が居ましたが、それなら「宝塚歌劇(※20)に男を参加させろ」と成って収拾が付かなく成ります。
 この様に、男女同権論や男女平等論を機械的に論ずると色々と話は変な方向に行って仕舞います。私が言いたいのは「男と女は機能的に違い(=機能差)が有る」という事です。手っ取り早く言えば「子を生むのは女」なのです、男は子を生めません。男はそれに”切っ掛け”を与えるだけです。
 この議論はもう「掲示板のおちゃらけ議論」で疾っくの前(=2003年)にして居ます。ちょっとだけ話すと男女の生殖機能には次の様な違いが有り、それが男女の物の考え方(=心理面)に影響して居るのです。

  男: = 行為そのものが最終目的
  女: = 収穫することが最終目的

 この続きは▼下のページ▼を読んで下さい。
  人工授精は出産ゲームだ!(Artificial insemination is the GAME)

 尚、この議論は先頃『文化スケベ学のすゝめ』という本に出版しました(△1-1のp169)ので本でじっくりお読み下さい。

 男女同権論や男女平等論を主張するのは結構ですが「男と女の機能的な違い(=機能差)」は是非理解して欲しいですね。この問題を突き詰めると女性とエロスは本質的に結び付いて居るという、これはヒト(人間)だけでは無く全生物学的な問題が私たちの前に立ちはだかって居る、という事に気付く筈です。ですから、ここではこれ以上突き詰める事は、し・ま・せ・ん、アッハッハッハ!!

                (@_-)

 私は「男は男らしく、女は女らしく」という言葉が自然で好きですね。最近は女性が強く成り、反対になよなよした男(←草食系と呼ぶらしい)が増え、更には年寄りらしい年寄りが滅法少なく成りました(←これを「多老」(←私の造語)と言います、△1-2のp53~57)。私は女子サッカーや女子レスリングなどは好きでは有りません。もう一度「男と女の機能的な違い(=機能差)」ということを考え直した方が良いと思って居ます。そして其々が「らしく」生きるという生き方を選択して欲しいですね!
    {この章は2015年1月15日に追加}

 ■2016年 - 「朱色と白の市松模様」は
            私の家の屋上からも見えていた!

 2016年12月10日、この日は好い天気だったので屋上 -私は屋上を目一杯利用して居ます- へ登って周りの風景を見て居ました。私の家(那覇市長田1-2-16)は住宅地で私は3階に住んでいて、その上が屋上です。屋上からは那覇空港から離陸する飛行機が見えます。
 この日は気温も暖かかったので屋上で位置を変えて色々な方角を眺めていて屋上の一番南西の端に来たら何と朱色の市松模様」が見えるでは有りませんか!
 私は早速デジカメを持って来てこれを背伸びして撮りました。しかし、背伸びでは貯水タンクに電線が入るのです。私は部屋の椅子を取って来て椅子に乗って撮ったのが左の写真(撮影時刻8:56頃)です、屋上の南西端の椅子に乗るのは少し怖いですが。光学ズーム18倍の望遠機能をフルに生かして撮り、画像を原画サイズにしました。
 私の家の屋上から「朱色と白の市松模様」が見える事を、この日迄知りませんでした。早速この記事を追加した事は言う迄も有りません!!

 もう一つ、屋上で撮った写真をご覧に入れましょう。右の写真は2014年8月24日の明け方に私の家の屋上から撮った月と木星と金星です。この写真は既に
  月見の宴(The MOON watching banquet in Japan)

に載せて在ります。

     木星
     

         月(有明の月)
    
    金星(明けの明星)

 月(有明の月)と木星と金星(明けの明星)で、撮影時刻は早朝の5:35頃です。もう明け方の撮影なので月齢計算は昨夜の8月23日で行います。昨夜は陰暦7月28日月齢は27.2と成ります。8月25日の晩が新月です。

 これは「朱色と白の市松模様」を撮ったのとは反対の東の方向です。実際は空はもっと明るいのですが明度を落としてあります。写真の右下からは雲が出ていて、その左に民家が見え空は大分明るく成って居ます。三日月も背後が丸く見えます。つまり、仰角が小さく水平線に近い所を空が明けて仕舞う直前に撮ったのです。
 まぁ、こんな時間に空を眺めてゴソゴソ遣ってる人間は余り居ないでしょう、ブワッハッハッハッハ!!
    {この章は2016年12月10日に追加}

 ■結び - 「市松という人が居た」という事

 如何でしたか?、赤嶺緑地の「朱色の市松模様」(実は「那覇市水道局の配水池」)は。私は沖縄に最初に来た日の印象がとても強く「朱色の市松模様」が心の中に刷り込まれて仕舞いました。皆さんは馬鹿馬鹿しいと思って居る事でしょう。
 でも何故市松模様と言うのか?、ついては「考察」の章で完全に理解出来たと思います。皆さんの中には市松模様が刷り込まれた人が居るかもしれませんね、まぁ「市松という人が居た」という事は覚えて置いて下さい。
 又「話の序でに」の章では、先ず歌舞伎の成り立ちをお勉強し、何故市松の様な女形が居るのか?、何故今の歌舞伎がだけなのか?、更には男と女の機能的違いについても説明させて戴きました。

 この様に馬鹿馬鹿しくも為に成る本ページに、最後迄付き合ってくれた皆さんには”正直呆れて”居ますが、本当に有難う御座居ました!!

                m(_~_)m

    {この章は2015年1月15日に補筆し最終更新}

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:市松模様(いちまつもよう、checker)とほ、紺と白と打違えに碁盤縞を並べた文様。1741年(寛保1)江戸中村座の俳優初代佐野川市松(1722~1762)が、この文様の袴を用いたのに起る呼び名。石畳(いしだたみ)。霰(あられ)。市松。
※1-1:佐野川市松(さのがわいちまつ)は、[1].江戸前期の歌舞伎俳優(1722~62)。京都生まれ。佐野川万菊の高弟。初め若衆方で評判を得たが、宝暦期(1751~)には江戸を代表する若女形に成り、世話物などで当たりを取った。衣装に用いた石畳模様が市松染めとして流行、市松模様と言われるように成る。屋号は新万屋・万屋。俳名盛府(せいふ)。江戸中期迄に3世迄数える。
 [2].3世は江戸中期の歌舞伎俳優(1759~1814)。初め男役の中村粂次郎他を名乗って居たが、1784年に女形3世市松を名乗り写楽に役者絵を描かせるも(=1794年)、1798年に初世市川荒五郎を名乗り再び男役に転じた

※2:配水池(はいすいち、water supply pond)は、配水の為に水道水を一時貯えて置く池。

※3:慰霊の日(いれいのひ)とは、1945年6月23日沖縄戦の組織的戦闘が終結した日で、本土復帰前は琉球政府と沖縄県で休日と定められた。72年の復帰後は日本の法律が適用され休日では無くなったが、1991年に沖縄県が休日条例で沖縄県の休日と定めた(←沖縄県以外は休日では無い)。この日は糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄戦の戦没者追悼式が催される。

※4:パターン(pattern)とは、[1].型。類型。様式。「ワン―」
 [2].図案。図像。「テスト―」。

※5:チェッカーフラッグ(checkered flag)とは、自動車競走などで、スタート/フィニッシュラインで合図の為に振る白黒の市松模様の旗。チェッカー。

※6:ケルト(Celt)とは、5世紀頃迄アルプス以北のヨーロッパの大部分とバルカン迄、広く居住した民族。やがてローマの支配下 -ローマ人は大陸のケルト人(Celts)をガリア人と呼び、イギリス諸島のケルト人をブリトン人と呼んだ- に入り、又、ゲルマンの圧迫に因り次第に衰退。現在はアイルランド/スコットランド/ウェールズ/ブルターニュなどに散在する。妖精伝説や多くの民話・神話で知られ、又、7~8世紀のアイルランドや北部ブリテン地方は、独特な幾何学模様に依るキリスト教美術で知られる。

※7:石畳/甃(いしだたみ)は、この場合、地紋、又は紋所の名。碁盤の面の様に方形を縦横に並べ、一つ置きに浮き沈みとした文様。又、文様の石畳を応用したものにも言う。霰(あられ)市松
※7-1:霰(あられ)は、この場合、織物、又は染物の文様の名。石畳の細かいもの。小石畳
※7-2:紋章([coat of] arms, crest, [heraldic] emblem)は、[1].家の章(しるし)として用いる一定の図柄。天地文・動植物・器物などに象(かたど)った図案が多く、日本では有らゆる階層が有している。定紋(じょうもん)。紋所(もんどころ)。
 [2].国家・市町村・学校・会社などの標章として用いるマーク。
 [3].西欧の紋章は盾の形に描かれ、貴族社会の専有物である。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※8:歌舞伎/歌舞妓(かぶき、kabuki)は、(戦国末期、人目を惹く服装や歩き振りが流行り、当時の流行語で「傾(かぶ)く」と言い、その人間を「傾(かぶ)き者」と言った。彼らは集団で人前で種々の仕草を見せた。)江戸初期に生まれ、今日に伝えられる日本特有の演劇。歌舞伎芝居の略。当初は[歌舞伎]狂言と言った。中でも人気が有ったのは出雲大社の巫女(みこ)を標榜して1603年に京都で興行した阿国(おくに)ら女の集団(=女歌舞伎)であった。これは風紀を乱す元と成り、1629年に禁止された。代わって美少年の歌舞伎(=若衆歌舞伎)が流行したが、同じ理由で1652年に禁止された。翌年、野郎頭(やろうあたま)の成年男子が、真面目な芝居をするという条件付きで許されたのが野郎歌舞伎で、この時から女形が発生した。元禄期(1688~1704)に成ると元禄歌舞伎が興り、初代市川団十郎坂田藤十郎芳沢あやめらの名優が輩出し、舞台も引き幕花道を持った独自の物に変わり、今日の歌舞伎の元に成った。18世紀後半に成ると、回り舞台迫(せ)りなどの舞台機構が工夫されて、時代物/世話物に所作事(しょさごと、舞踊)を加えて1日の演目とする様に成った。能楽・人形浄瑠璃と並ぶ三大国劇の1つ。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※8-1:お山/女形(おやま)は、この場合、(近世、仮名書きでは「をやま」とも)歌舞伎で、女の役をする男役者女形(おんながた)
※8-2:阿国歌舞伎(おくにかぶき)は、江戸初期、慶長の頃、出雲大社の巫女と称する阿国(おくに)が京都へ出て演じた流行歌(はやりうた)念仏踊などを交えた演劇。歌舞伎芝居の始め
※8-3:出雲阿国/阿国(いずものおくに/おくに)は、阿国歌舞伎の創始者。歌舞伎芝居の祖出雲大社の巫女(みこ)と自称して居たが出身地は不詳。1603年京都賀茂河原で念仏踊を興行。これが好評だった為、女弟子を募り、茶屋遊びの様(さま)を舞踊化した「かぶき踊り」を考案して、歌舞伎の先駆的な役割を果たした。没年は1613年(慶長18)以後。色々な伝説が在る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-4:女歌舞伎(おんなかぶき)とは、江戸幕府成立前後に流行した、歌踊を主とする演劇。阿国歌舞伎などに始まり、多く遊女が出演し、風紀を乱すとして1629年(寛永6)禁止された。以後、今日迄女性は出演出来ず、男の女役専門のお山(おやま)が生まれた。
※8-5:若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)とは、前髪の美少年を中心とした歌舞伎。江戸初期頃女歌舞伎の他方で行われて居たが、1629年に女歌舞伎が禁止されると、代わって隆盛を見た。しかし風紀上の理由で女歌舞伎同様、1652年(承応1)禁止された。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-6:野郎歌舞伎(やろうかぶき)とは、初期歌舞伎の一。1652年(承応1)若衆歌舞伎が禁止された後を受けて起ったもので、元禄歌舞伎迄(1688年)の間の歌舞伎を言う。年代的には寛文・延宝期(1661~1681)頃を最盛期とする。前髪を剃り落し野郎頭(やろうあたま)とさせた事から名付ける。この時に女形が発生し今日迄続いて居る事実は重要。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-7:野郎頭(やろうあたま)とは、男の、前髪を取り去った頭野郎歌舞伎で役者の前髪を除いたのに始まり、普通の成人男子の髪型の呼び名と成る。野郎髷。黄、高漫斉行脚日記「―にて和尚とあをがれ」。
※8-8:元禄歌舞伎(げんろくかぶき)は、元禄期(1688~1704)に栄えた歌舞伎。江戸に市川団十郎、上方に坂田藤十郎芳沢あやめらの名優が出て歌舞伎の様式を確立し、今日の歌舞伎に引き継がれて居る。一方では、近松門左衛門らの作家が活躍。写実的な科白(せりふ)劇/世話狂言が数多く生まれ、歌舞伎の高揚期を迎えた。舞台に引き幕花道が出来た。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※8-9:狂言(きょうげん)とは、この場合、歌舞伎狂言。歌舞伎劇の演目。又、劇そのもの。本来は初期の歌舞伎踊に対して劇的な演目を指した。

※9:奥村政信(おくむらまさのぶ)は、江戸中期の浮世絵師(1686~1764)。俗称、源八。号は芳月堂・丹鳥斎・文角。墨摺絵から紅摺絵迄、浮世絵の初期に活躍。西洋画法も採り入れ、浮絵(うきえ)・柱絵・三幅対物など新しい表現形式を始めた。俳諧的詩情に富む美人画などを多く遺す。柱絵や浮絵の創始者を自認し「根元(こんげん)」と称した。俳諧にも長じ、江戸通塩町に版元奥村屋を経営。門人に奥村利信。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※9-1:紅絵(べにえ)とは、[1].浮世絵版画の初期的技法の一。墨摺の上に紅を主として丁寧な筆彩を加えたもの。享保(1716~1736)前後に行われた。漆絵(うるしえ)を含めて言う事も有る。
 [2].紅摺絵(べにずりえ)のこと。
※9-2:浮絵・浮画(うきえ)とは、遠近法を応用し、実景が浮き出して見える様に描いた絵。浮世絵版画覗機関(のぞきからくり)の絵などに用いた。浮世絵師奥村政信が考え出したと言われる。くぼみ絵。伎、助六所縁江戸桜「安房・上総が―のやうに見へるは」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※10:錦絵(にしきえ)は、1765年(明和2)鈴木春信らに依って創始された華麗な多色刷浮世絵版画。以後、浮世絵版画の代表的名称と成り、春信始め鳥居清長喜多川歌麿歌川豊国葛飾北斎歌川広重ら優れた作者と彫師摺師との協力の下に主題と技法の幅を広げ、広く世に迎えられた。江戸絵。吾妻錦絵。東錦絵。

※11:写楽/東洲斎写楽(しゃらく/とうしゅうさいしゃらく)は、江戸中期の浮世絵師。別号、東洲斎。徳島藩主蜂須賀侯のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛と伝えるが不明。僅か1794~95年(寛政6年5月~7年1月)の10ヵ月間(閏月を含む)に140種程の役者絵と相撲絵を集中的に残すだけで、その後の消息を絶つ。版元は全て蔦屋重三郎。似顔表現を利かした強烈な個性描写が特色。閲歴・生没年未詳。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※12:トレードマーク(trade mark)は、[1].商標
 [2].比喩的に、或る人を際立たせる特徴的な印(しるし)。「―の口ひげ」。

※13:野郎帽子(やろうぼうし)とは、江戸時代、野郎歌舞伎の俳優が野郎頭を覆う為に額に置き手拭をしたのが、変じて帽子の様に成ったもの。又、それを真似て用いたもの。多く紫縮緬(むらさきちりめん)などで作る。沢之丞帽子/やでん帽子/水木帽子など種々の形式が派生した。額帽子。

※14:傾く(かぶく)とは、[自四][1].傾(かたむ)く。頭を傾ける。貝おほひ「―けるは稲のほの字ぞ京上臈」。
 [2].自由奔放に振舞う。勝手な振る舞いをする。日葡辞書「カブイタヒト」
 [3].異様な身なりをする。人の目に付く衣裳を身に着ける。伽、猫の草子「―きたるなりばかりを好み」。
 [4].歌舞伎をする。
※14-1:傾き者/歌舞伎者(かぶきもの)とは、異様な風体をして大道を横行する者。軽佻浮薄な遊侠の徒や伊達者。好色一代男5「博多小女郎と申して―ありける」。

※15:念仏踊(ねんぶつおどり)とは、[1].空也念仏のこと。太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし念仏・和讃を高唱する所作が踊るのに似るから言う。時宗の一遍に依り広まる。後に民俗芸能化。踊念仏(おどりねんぶつ)。
 [2].京都の六斎念仏、大阪天王寺の念仏会などの称。踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)・大念仏などとも称。後に盆踊と成る。
 [3].元は悪霊を踏み鎮める踊りに由来すると言い、17世紀初め出雲の阿国が小歌や念仏に合わせて踊った阿国歌舞伎が歌舞伎の母体と成った。

※16:仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)は、浄瑠璃の一。並木宗輔・2世竹田出雲他の合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期に取り、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。

※17:妓(ぎ)とは、音曲・声楽などを以て酒席に侍する女。芸者。遊女。「妓女・芸妓・名妓・妓楼」。
※17-1:伎(ぎ)とは、[1].(「技(わざ)」に通ずる)わざ(技)。腕前。「伎芸・伎倆(ぎりょう)」。
 [2].俳優。芸人。「伎楽・歌舞伎」。

※18:エロス(Eros)とは、[1].ギリシャ神話の愛の神。有らゆるものを結合する力を擬人化したもので、アフロディテの子とされることが多い。ローマ神話のキューピッドと同一視される。
 [2].。普通には恋愛・性愛の意味であるが、プラトンは肉欲から始まり、愛の上昇の種々の段階を説き、最高の純粋な愛は美のイデアに対する憧れであるとし、エロスは真善美に到達しようとする哲学的衝動を意味すると説く。フロイトの精神分析では生の本能を指す。→アガペー
 [3].小惑星433の名。地球に非常に接近する天体として有名。直径20km位。

※19:フェミニスト(feminist)とは、[1].女性解放論者。女権拡張論者。
 [2].俗に、女に甘い男。女性崇拝家。
※19-1:フェミニズム(feminism)は、(femina[ラ]、女から)女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動。女性解放思想女権拡張論。→ウーマン・リブ<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※19-2:ジェンダー(gender)とは、[1].生物学的な性別を示すセックスに対して、社会的・文化的に形成される性別。「―ギャップ」。
 [2].〔言〕名詞を分類する文法範疇の一。ラテン語・ドイツ語・ロシア語などでは男性・中性・女性に分ける。ロマンス諸語では多く男性・女性に分け、英語では性の区別が無い(人称代名詞には有る)。

※20:宝塚歌劇団(たからづかかげきだん)は、宝塚市に本拠を置く、女性だけでレビューや音楽劇やミュージカルを演ずる劇団。花・月・星・雪・宙(そら)の5組構成。阪急電鉄の小林一三に依り1913年(大正2)少女歌劇団として創始。40年改称。海外公演も多い。

    (以上出典は主に広辞苑)

【参考文献】
△1:『めんそーれ沖縄! ~新天地沖縄と物外館の思い出~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△1-1:『文化スケベ学のすゝめ ~「文化の地下水脈」に光を当てる~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△1-2:『日本の現状は「多老」だ ~偽善社会を抉る~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。

△2:『沖縄県の歴史』(新里恵二・田港朝昭・金城正篤著、山川出版社)。

△3:『世界装飾図』(オーギュスト・ラシネ著、マール社)。
△3-1:『マヤ・アステカ・インカ文明』(ジョヴァンニ・カセッリ監修、レンゾ・ロッシ/ダニエラ・ザニン/サラ・カセッリ共著、畑舜一郎訳、竹内均編、教育社)。

△4:『別冊歴史読本・永久保存版 日本姓氏紋章総覧』(新人物往来社編・発行)。

△5:『図説 浮世絵入門』(稲垣進一編、河出書房新社)。

△6:『謎の絵師 写楽の世界(東洲斎写楽全作品集)』(高橋克彦著、講談社カルチャーブックス)。

△7:『浮世絵類考』(大田南畝(蜀山人)原撰、斎藤月岑らが補筆、仲田勝之助編校、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):沖縄/那覇市の地図▼
地図-日本・南西諸島と沖縄
(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)

補完ページ(Complementary):赤嶺緑地の
「朱色と白の市松模様」の記事の初出▼
2013年・那覇空港を遊ぶ(Play the Naha Airport, Okinawa, 2013)
補完ページ(Complementary):写楽について▼
大童山と雷電-写楽の相撲絵(Daidozan and Raiden, Sharaku's Sumo woodcut)
沖縄の昆虫の写真集▼
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)
大阪の飛田の情緒▼
飛田新地(Tobita is quaint red-light district, Osaka)
天妃小学校には面白い標語が在る▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
辻について▼
元「物外館」ママの人生観(Former 'Butsugaikan' mama's life philosophy)
沖縄は女性上位の島▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
一人遣いの両手突っ込み式の操り人形や
浄瑠璃に於ける小野お通や浄瑠璃姫▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
婆娑羅と言われた傾き者・佐々木導誉▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
「大うつけ」と陰口を叩かれた傾き者・織田信長▼
東海地方の「ゆでピー」好み(Boiled peanuts in Tokai region)
「男女の生殖機能には違いが有る」事を理解すべき▼
人工授精は出産ゲームだ!(Artificial insemination is the GAME)
年寄りらしい年寄りが居なく成った▼
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)
月と木星と金星の写真集▼
月見の宴(The MOON watching banquet in Japan)


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