-- 2013.05.08 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.03.14 改訂
皆さん、私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血で倒れ、2011年12月初~2012年2月末迄「檻の中」で入院生活を送りました。そして2012年3月初め~今年(=2013)の2月18日(月)迄の略1年間は環境を変えて或る宗教施設でリハビリテーション(※1)に励みました。環境を変えてと言っても、これも「檻の中」の生活には変わり有りません。入院生活とかリハビリ生活とは私にとっては正に「檻の中」に幽閉されたも同然の状態で、基本的には単調な毎日です。
そして2月18日の朝に晴れて自由の身と成った私は、以後の余生を沖縄で暮らす事に決めて(実は2月18日以前に決めていた)、那覇市(※2、※2-1)に住む家を決め -これが中々大変でしたが或る人の献身的努力の御陰で無事クリア- 、引越をして3月19日から正式に那覇市の住民と成りました。やはり娑婆(※3)の空気は旨い!
身体的には細かく言うと色々有るのですが、アバウトに見れば元の状態の90%は取り戻したかなという感じです。右半身に痺れが有り言語障害が20%位残って居ます。でもアバウトに見れば、この様に元気なのです。
この辺の事は[めんそーれ沖縄!#1]、即ち
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
に全て纏めましたので、是非それを参照して下さい。
又、地図は▼下▼から(但し、広域です)。
地図-日本・南西諸島と沖縄(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)
{この記事は2014年3月14日に出版するに際しシリーズ化する事としました。}
という訳で、私は既にウチナーンチュ -「沖縄の人」という意味- なので宜しくお願いしま~す。ムッ、沖縄の皆さんは迷惑そうな顔をしてますな、然もありなん、ブハハハハハ!!
ところで、もうお気付きの方も居られると思いますが、この画面の背景画は琉球衣裳の藍染(紅型)の図で「笠に藤蛇篭水葵杜若文様紅型衣裳」(蔵:沖縄県立図書館)から採って居ます(△1のp238)。以後、私がウチナーンチュに成って以後の沖縄関連の記事に使いますので、この背景画も宜しく!!
(1)那覇空港
2013年5月2日に那覇空港(那覇市鏡水(かがみず))に初めて行き、その後もちょくちょく行ってます。私の家から自転車で40分足らずで着いて仕舞います。那覇市は狭い、言葉を変えると近いのです。私が最近迄住んで居た大阪市と比較してみると、大阪市が面積223㎢で人口267.8万人なのに対し、那覇市は面積39㎢で人口31.9万人 -今年の4月1日から人口30万人以上の中核市に成ったばかり- なのです。実に面積では大阪市の17.5%(=大阪市の約1/6)しか無いのです。これで私が那覇市を狭い、近いと感じて居た理由がお解り戴けたと思います。那覇市内へは何処へ行くのも簡単なのですが、自転車の場合は問題点が1つ有って坂が非常に多いのです。ですから自転車は那覇では”非常にマイナー”な乗り物なのだ、と言わざるを得ません。那覇のみ為らず沖縄は徹底した車社会なのです。
那覇空港へ国道331号を通って行ったのですが、先ず見付けたのが左の写真です。場所は安次嶺(あしみね)の交差点です。ここは海上自衛隊那覇航空基地です。陸上自衛隊訓練場も反対側に在ります。この戦闘機は展示用で雄姿を誇示して居るんでしょうが、最初に軍用機が見れる、これが沖縄です!
安次嶺の交差点を右折し県道231号を行きます。頭の上には那覇都市モノレール(→後で詳述、※4)が通って居て、後はこの道を真っ直ぐ1.2km位行けば空港です。
そして那覇空港に到着です(左の写真)。左の写真で上方に名前が書いてありますが、それを拡大すると上の写真の様に成り、ここは国内線ターミナルです。
那覇空港の沿革は、前身は1933(昭和8)年に旧日本海軍な小禄(おろく)飛行場です。そして戦後の1945年~1972年の沖縄返還迄は戦勝国の米軍統治下に置かれ、1972年~1982年の10年間は暫定期間として尚も米軍が管理、漸く1982年に飛行場の施設管理権が航空自衛隊に全面移管されました。現在では民間航空便の空港と航空自衛隊/海上自衛隊/陸上自衛隊の航空機を主体する部隊、又沖縄県警航空隊/海上保安庁航空基地が飛行場内に置かれて居ます。
民間利用分としては国内線ターミナル・LCCターミナル・国際線ターミナル・貨物ターミナルが在り、県内の離島/本土/海外を合わせて30以上の路線が就航して居ます(『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』より)。
これで軍用機が最初に見えた訳が解って戴けたでしょう。那覇空港は[良きに付け悪しきに付け]沖縄の象徴なのです。尚、LCCとは low-cost carrier の略で格安航空会社のことです。
先程の国内線ターミナルの左側に目を転じると空港の駐車場にはタクシーが一杯です、ここはタクシープールです。タクシープール脇には誰かが持って来た椅子が設えてあり、自転車で来てのんびりと話をしている人 -男性のお年寄りばかりが三々五々寄り集まって居る感じです- が20人位居ます。タクシーの運ちゃんも暇そうに車から顔を出して運ちゃん同士で話をして居ます(左下の写真)。皆暇そうですね。
この写真の左下に日航機の垂直尾翼が見えて居ます。その部分を拡大しましょう、鶴のマークです(右下の写真)。
私は鶴のマークを見ると思い出すことが在ります。1985年8月12日の日航機墜落事故 -日本航空のジャンボ旅客機が群馬県の御巣鷹山へ墜落した事故- を覚えてますか?、歌手の坂本九が死んだ事故です。
この事故の後マスメディアとそれに誘導された大衆は怒り「もう鶴のマークは見たくない」などという”善なる意見”が大勢を占めました。すると日航は何時の頃からか本当に鶴のマークを外しました。でも、放漫経営を再建した日航は再び去年頃から鶴のマークを復活しましたが、今度は世論は何も反応しませんでした。つまり、世論の熱(ほとぼり)が疾っくに冷めて仕舞って居たのです。嘗ての”善なる意見”は短期的には”正義”を代弁したかの様に見えましたが、熱が冷めたら”善なる意見”の方が偽善だった、という事です。
今の日本はこういうパターンが多いですね、沖縄でも短絡的思考の誤りを犯して居ます。一例を挙げると、ハブを遣っ付ける為にマングース(※5、※5-1)を外国から導入したが今はマングースの害に困って居るとか、漫湖(まんこ)の湿地帯にボランティアが主体に成ってマングローブ(※6~※6-3)を増やす為に植樹しましたが却って土壌が固く成り今はマングローブを伐採してる、などなどです。
何れも短絡的思考な偽善であり、これらの無駄の陰で公共予算を”食って”仕舞った連中が居る、という事をお忘れ無く。今の日本は偽善が横行して居る様に思います。
おっと、私がこういう話をするから沖縄の人が”迷惑そうな顔”をする訳ですな。ではこの話はこれ位で、ハッハッハ!
そんな事を考えていたら、飛行機が離陸しもの凄い速さで飛び上がって行きます(左の写真)。ここで飛行機を捉える為には予め出発時刻をチェックし先にカメラで待ち構えて置く必要が有ります。今の時刻は午後3時45分です。
(2)モノレール
ここは飛行機だけでは在りません。那覇都市モノレール -愛称(ニックネーム):ゆいレール(Yui Rail)- も頭の上を走って行きます。モノレールは跨座式と懸垂式が在ります(※4)が、ご覧の様に跨座式で2輌編成です。
因みに「ゆい」は琉球語の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたもの(『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』より)、だそうです。
沖縄ではこの様な「地元の言葉」、つまりウチナーグチ(沖縄方言)に依る表現がとても多いのです。私もウチナーンチュ(沖縄の人)に成ったからには、ウチナーグチをマスターしなければ為りません。第一飯(めし)が食えない!、何故ならオカズがどれもウチナーグチで書かれて居ます。
先程沖縄は徹底した車社会だと言いましたが、沖縄で電車の類(たぐい)が走って居るのはこの「ゆいレール」(那覇空港←→首里)だけ、正に唯一(ゆいいつ)の鉄道なのです。後はバスですがバスも行って無い所が在る、という訳で必然的に車社会(=マイカー社会)に成るのです。この現象は本土の田舎も同じですが。
その”ゆい一つのレール”の運営管理会社、沖縄都市モノレール株式会社が空港へ来る時に通って来た県道231号沿いに在るのです。左下の写真が会社の通用門で社名入りのプレートが掲げられて居ます。右下の写真が車庫でモノレールが何台も横に並んで居ます。道路は松並木に成って居ます。
という訳で、那覇空港は軍用機・旅客機・モノレールと色々楽しめて、自転車でここに来るのは穴場的な面白さが有ります。
(1)大きな「朱色と白の市松模様」
当初ここは全く予定外で、県道231号で安次嶺(あしみね)の交差点(=自衛隊の戦闘機が在った所)迄行き、左折して国道331号で戻ろう -つまり来た時の逆コースで- と思って居たのです。ところが、県道231号で安次嶺の交差点の手前で大きな「朱色と白の市松模様」(※7)を見付けて仕舞ったのです(下の左右の写真)。それがどうして那覇空港に関係有るの?、と思うでしょう。理由はこれから話します。
2013年5月2日にもちょっと寄りましたが5月7日に再び来ました。
安次嶺の交差点を渡り直ぐの所にそれは在り、公園の様に整備されて居ます。ここは赤嶺緑地(那覇市赤嶺1丁目)です。
早速この大きな「朱色と白の市松模様」の正体は何か?、それから説明しましょう。
これは那覇市水道局の配水池(※8)で水道水を一時貯えて置く施設なんです。しかも勢い良く水を出す為に「高い所」に在るのです。那覇市上下水道局のHP(ホームページ)に拠ると、高架方式プレストレストコンクリート円筒形(P.C)で、内径28m、水深6.6、有効容量4000㎥、緊急遮断弁付きです。
尚、序でに言うと、現在の那覇市には浄水場は無いのです。上下水道局のHPに拠ると「以前は那覇市も浄水場を持っていましたが、水源の水質悪化や取水量の低下から原水の確保が難しくなり、昭和63(1988)年に泊浄水場を閉鎖しました。現在は沖縄県企業局が浄水した水道水を受水して市民の皆様へ供給しています。」との事です。
私は今年(2013年)の3月8日に初めて沖縄に来たのですが、空港からモノレールに乗り、ほんの少し走ると車窓から飛び込んで来るのがこの「朱色と白の市松模様」なのです。そして車窓から一端消えるのですが再び現れるのです(←モノレールはカーブしている)。その正体がこれで解った訳ですが、この市松模様の印象が焼き付いて仕舞いました。人に与えるインパクトは強烈です。という訳で、私の頭の中では大きな「朱色と白の市松模様」と那覇空港は切っても切れないのです。
そこで赤嶺緑地を見て行くことにしました。最初の写真の金網沿いの階段を上がって行くと、右の写真の様な石のステージが在り、何やら神的で厳粛な感じがして居ます。沖縄ではこういう雰囲気を醸し出している場所は所々に在り、これは御嶽(ウタキ)(※9)に違い在りません。
(2)安次嶺の御嶽
上の石のステージの写真のこちらの奥に階段が在り、それを降りて行くと「安次嶺の御嶽」が在ります(左下の写真)。ここは国道331号に面して居ます。そして階段の上に「安次嶺の殿」が在ります。ここは2013年5月20日に初めて来ました。
そして祠(※10)が在り、2つの祭壇には何れも「御嶽火の神」と書いて在ります(左下の写真)。祠の右には「ビズン御泉」と「雨乞の御嶽」が在り、その右には「按司御嶽」(※11)が並んで居ます(右下の写真)。雨乞い(※12)をして居たんですね、その為に泉を祀り按司の力に頼ったのでしょう。
王国時代の琉球王朝が編纂した文献で各地の情報を収集し大変貴重な『琉球国由来記』(※13)に安次嶺の御嶽は次の様に記されて居ます(△2のp245)。
安次嶺嶽 神名 アウキラノ御イベ(※9-1)
安次嶺村
右十六箇所、毎年三・八月、四度御物参之有祈願也。
(3)赤嶺の御嶽
一方、石のステージの写真の向こう側にも御嶽が在ります。「字赤嶺御嶽」と刻んである石碑です(左の写真)。
そして左下の写真が赤嶺御嶽の全貌です。祠が在り祠の中に「火神殿内ノ御嶽」が在ります。こちらから見て左側に「上ノ御嶽」「上ノ御嶽火神」「西ノ御嶽」と並び(左下の写真)、右側に「金満アジシ」「金満御嶽」「安里ノ殿」「安里井」「地頭火神ノ神井」...、と並んで居ます(右下の写真)。それにしても「金満」とは面白いですね。
そして説明板が在りました、ということは私が入ったのは裏口だった様です。
それに拠ると、嘗てこの地は「上の毛(ウィーヌモー)」と呼ばれた聖地(=御嶽)で、「安次嶺の御嶽」「赤嶺の御嶽」は『琉球国由来記』にも書かれている歴史的な場所、と在ります。
多分『琉球国由来記』のこの箇所の記述(△2のp247)を指して居るのだと思います。そこには安次嶺之殿(安次嶺村)、赤嶺之殿(赤嶺村)の稲穂祭の祭祀や根神(※14)のことなどが詳しく書かれて居ます。
戦後は米軍に接収されて居ましたが返還後1997(平成9)年に緑地として整備したと在りました。
ところで「安次嶺の御嶽」「赤嶺の御嶽」を見て来ましたが、ここで気付くのは「火の神」(或いは「火ノ神」「火神」)が多いという事です。それも祠の中に祀られたものに付けられて居ます。これは元来御嶽が女性に依って祀られて来た -王国時代は御嶽は男子禁制でした(※9)- という歴史を反映して居るのです。これについては私も未だ研究途上ですので、【参考文献】△3のp17~28などを参照して下さい。
17世紀以後、琉球は徐々に日本化して行き本土の「竈の神」の習俗も取り入れた様です。が元を遡源すると東南アジアに一般的な母系社会(※15)に行き着くのです。日本は中世・近世の仏教や儒教の影響で段々と父系的な社会に成りましたが、平安時代の前半位迄は母系社会の名残が在りました。その典型的なものが招婿婚(しょうせいこん)(※15-1)です。つまり「嫁に行く」のでは無く「婿(むこ)に行く」のです(△3のp7~10)。例えばタイでは今でも招婿婚が[特に田舎では]一般的です。因みにタイは小乗仏教(=上座部仏教)の国です。これについては私が2002年にタイ族の家に泊まり実際に話を覗って居ますので、そちら(▼下のページ▼)を参照して下さい。つまりタイを始め東南アジアでは今でも母系社会は続いて居るのです。
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
平安貴族の殿方が女性の家に「婚(よばい)」(※15-2)をしたのは招婿婚の名残だった、という訳です。
(4)赤嶺緑地は非常に良い昆虫スポット
最後に赤嶺緑地に居たトンボです。右はハラボソトンボ(腹細蜻蛉)で、日本だと九州以南で大阪には居ませんが、沖縄では有り触れて居ます。私は中国雲南省でタイ族の民家の周りに居たのが印象的です(略実物大)。このトンボは形がサナエトンボ(早苗蜻蛉)に似て居ます。2013年5月7日に撮影。
後は名前は不明ですがヤンマ(蜻蜒)も1匹見ました。
それから沖縄ではそれ程珍しくも無いオキナワキノボリトカゲ(沖縄木登り蜥蜴)の♂(※16) -沖縄特産種で♂は黄緑色をして綺麗- が名前の通り木を登って居るのを私は初めて見ました。直ぐカメラを出しましたが「敵も然る者」、そんなウスノロでは有りませんでした!
6月15日にもここに来て、珍しい沖縄らしい昆虫を撮りましたので追加します。
左が沖縄のベッコウトンボ(鼈甲蜻蛉)と言われてるベッコウチョウトンボ(鼈甲蝶蜻蛉)、或いはオキナワチョウトンボ(沖縄蝶蜻蛉)とも呼ばれますが、何れもこのトンボを指します。5m位の高い枝で翅を休めて居た所を望遠で撮りました。
そして右がクロイワニイニイ(黒岩ニイニイ)です。多分クロイワさんという人が最初に見付けたセミ -後で調べると沖縄の動植物学者で国頭農学校校長を務めた黒岩恒氏- で、本土にも居るニイニイゼミの仲間ですが本土の種とは全く違います。先ず小さいのです、体長約30mm位です。又、翅が独特で、セミが半翅目 -最近ではカメムシ目と言います- だという事が良く解ります。
この赤嶺緑地でも或る松の木1本のみに居ました。クロイワニイニイは私は那覇ではここだけで見付けた種で、図鑑などに拠れば沖縄では普通に良く見掛けられると書いて在りますが、近年では急速に数を減らしているのでは?、と思います。2匹共略実物大です。
赤嶺緑地は一風変わった、珍しい昆虫が居る所で私にとって非常に大切な場所に成りました。那覇市で昆虫に好い場所は赤嶺緑地と末吉公園と旭ヶ丘公園(波の上ビーチが在る所)です。漫湖公園は期待外れです。▼昆虫の分類学と特徴▼と▼沖縄の昆虫の写真集は下から▼ご覧下さい。
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)
{この段の記事は2013年6月18日に追加}
(1)瀬長島初訪問 - 5月27日
瀬長島(豊見城市瀬長)はモノレールの那覇空港駅から真南へ直線距離で約3.5km、道形(みちなり)に国道331号を通って行っても4km弱です。ところが滑走路の先端からは僅か700mです!
今年の沖縄は5月中旬から梅雨でしたが、久し振りに晴れた「梅雨の晴れ間」の5月27日に行きました、勿論自転車で。家を出たのが3時で5時30分には、もう帰って来ました。それも色々寄り道をして -コンビニで支払いを済ませ、100円ショップで買い物をし、スーパーで買い物をし- 、下の写真を全部撮って、2時間半で帰って来れるのです。寄り道をして無かったら2時間で島を一周して写真を撮って帰れます、それも充分楽しんで。何が言いたいか、つまり初めに述べた様に那覇市は狭い、近いのです。
それともう一つ、ここは那覇市では有りません。この瀬長島から南側は豊見城市(とみぐすくし)に成ります。因みに、沖縄では城のことを「グスク」と言います(※17)、これは覚えといて下さい。
それでは島を見て行きましょう。先ず右は瀬長島から望遠で北の那覇空港を臨んだものです。近景の薄(すすき)の穂の向こう側に近代的な空港施設が見えて居ます。管制塔も見えて居ます。
瀬長島は長らく無人島でしたが、それに600m位の陸橋を架けて人が渡れる様にしたものです。今は島を一周する道路(一周約1.3km)が出来、島の真ん中には温泉が出るホテルが在ります。
島の周囲には左下の写真の様に干潟が続き潮干狩りが楽しめます。又、右下の写真の様に那覇空港の飛行機をバックに潮干狩りというのも中々乙(おつ)な趣が在りますね。
『琉球国由来記』はこの干潟について、次の様に記して居ます(△2のp238)。
旧跡
此瀬長ハ志茂田・我那覇之沖ニアリ。潮干ニハ潟ヨリ通ヒ、満潮ニハクリ舟(※18)ニテ渡ルナリ。往古、瀬長按司居住ノ旧跡アリ。今ハ菅原小山ニナルナリ。
この干潟は干潮の時は橋が無くても渡れたんですね、それと昔は瀬長按司(※11)が住んで居た様です。瀬長の御嶽については、△2のp237に
瀬長ノ嶽 神名 ヨリアゲ森マシラゴノ御イベ(※9-1)
瀬長村
の様に伝えます。又、瀬長の按司については△2のp165~p166に記述が在りますので興味が有る方は参照して下さい。
そして左の写真の大きな「朱色と白の市松模様」、カメラを望遠にセットすると赤嶺緑地の水道局配水池が見えて居ます。やはり内径28mというのはハンパでは無いのです。
何しろ「朱色と白の市松模様」は首里城からも末吉公園の末吉宮からも、肉眼 -望遠を覗かなくても良い- で見れるのですから。
そして私がここへ来た理由はこれです。先ずは着陸する旅客機です(右の写真)。着陸は向こうに止まりますので、望遠で撮る必要が有ります。
ところが離陸は違います。先程も言いましたが瀬長島は滑走路の先端から700mしか離れてないのです。下が離陸する旅客機ですが、離陸の場合はこちらに向かって来る訳ですから、望遠なんか使わずに充分撮れるんですが、それでは面白く無い。やはり離陸でも望遠を使い撮る、画面一杯に機体を広げて撮る、機体が画面から外れるリスクも有るんです。ほんの一瞬の勝負です、飛行機はどんどん大きく成り頭の上を通過してアッと言う間に飛び去って仕舞うからです。下の2機共 -この2機は別々の機体- 、原画では40cmも有ります。それでも、飛んでるトンボを撮るよりは簡単です。飛行機はトンボの様に「蜻蛉返り」(※19)はしませんので。
尚、この日は全部この向きに飛んで居ましたが風向きに因って逆向きに飛ぶ事も有ります(→後出)。
右の写真は西の方向で、慶良間列島でしょうか?
ここは入り日の名所です。他にも色々とレジャー施設が揃って居ます。
左の写真は島を一周して南側の景色です。国道331号を望遠で撮って居ますが、張り出して居るのは与根高架橋です。未だ工事中らしいですね。
私は後日この与根高架橋を渡って糸満市迄行きました。この橋は自転車で行くと”渡り甲斐”が有ります。自転車は車道脇の歩道を行きますが、良く高校生が歩いて渡って居ます。
川の方を見るとモーターボートも帰って来た様です。今の時刻は4時半です。
そして瀬長島で撮影したカバマダラ(樺斑)という斑蝶です(略実物大、2013年5月27日撮影)。瀬長島にはカバマダラが10匹位集まる木が在りました。この季節、沖縄では極めて有り触れて居ますが、やはり本土には居ません。私はやはり中国雲南省で見掛けて居ます。
以上の写真を2013年5月27日に撮りました。
(2)その後の訪問 - 6月15日、7月22日
その後6月15日にも瀬長島に来ました。この日は飛行機をビデオで撮るのが目的です。皆さんに那覇空港を離陸する飛行機が瀬長島から見たらどんなに迫力が在るのか、これで解って戴けるでしょう。
★サブページで「瀬長島から見る那覇空港離陸」のビデオ(size=1.04MB)をご覧に為れます。離陸の向きは5月27日と同じです。下をクリック!!
ビデオ-瀬長島から見る那覇空港離陸(VIDEO - Naha airport take off seen from Senagashima)
{この段の記事は2013年6月18日に追加}
そして7月22日にも瀬長島に飛行機を見に来ました。この日はビデオも1ヶ月程前に撮ったし写真も撮らずにのんびりと飛行機を見ていたのですが、午前11時頃何の前触れも無く飛行機が逆方向に飛んで来たのです。私もこれには慌てて、そして喜んでカメラを取り出し興奮し乍ら撮影しました。逆方向、即ち何時も離陸してた所に着陸して来るのです。私は何時かは逆方向 -どちらが正方向か向きは解りませんが- の写真を撮りたいと思って居ましたが、今迄離陸してたのが或る時刻を境に着陸に切り替わるという瞬間に”居合わせた”のは滅茶”仕合わせ”と言えます。この文章の低級な洒落が解りますね!
下が逆向きに着陸して来る旅客機です。車輪が3つ出て居ます。そしてライトも点いて居ます。逆向きの飛行機に狙いを付けていると自分に向かって突っ込んで来る様に見え、物凄いスリルです。近くに電柱が在りますが、飛行機はその少し先を掠めて行きます。
{この段の記事は2013年7月22日に追加}
瀬長島へは2013年5月27日、6月15日、7月22日の3日訪れました。いやあ、瀬長島は面白い!!
ところで、このページは出版する事にし、その為にシリーズ化する事にしました。シリーズ名は[めんそーれ沖縄!]です。当ページの方が先に作りましたが、時系列的には後なのでシリーズNo.は#2です。#1では「大阪から那覇へ」来る迄の事が書かれて居ます。
[めんそーれ沖縄!]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
{この記事は2013年5月30日に追加し、6月18日に更新。当ページは2014年3月14日に出版するに際しシリーズ化する事とし最終更新しました。}
【脚注】
※1:リハビリテーション(rehabilitation)は、治療段階を終えた疾病や外傷の後遺症を持つ人に対して、医学的・心理学的な指導や機能訓練を施し、機能回復・社会復帰を図ること。更生指導。リハビリ。
※2:那覇(なは)は、沖縄島南西部に在る沖縄県の県庁所在市。人口30.1万。1921年市制。琉球王国の都首里の貿易港として繁栄。1879年(明治12)より沖縄県の県庁所在地として発展したが、第二次世界大戦中の空襲と沖縄戦で焼け野原と成った。戦後は米軍の沖縄占領中は軍政府、後に民政府・琉球政府が置かれた。首里市や真和志(まわし)市を編入し、1972年(昭和47)返還後は観光都市としても発展。首里には再建した首里城など史跡が多い。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-1:沖縄戦(おきなわせん)は、太平洋戦争末期、沖縄本島とその周辺で行われた日米両軍の激戦。1945年4月アメリカ軍は沖縄本島に上陸、日本軍は抗戦のすえ6月23日全滅、住民十数万人が死亡。現在、沖縄では6月23日を「慰霊の日」と定め休日とし、様々な慰霊の鎮魂が行われる。
※3:娑婆(しゃば/さば、this world)とは、[1].〔仏〕(梵語 saha、忍土・忍界と訳す)苦しみが多く、忍耐すべき世界の意。人間が現実に住んでいるこの世界。
[2].自由を束縛されている軍隊・牢獄、又は遊郭などに対して、その外の自由な世界。俗世間。「さば」と読んで、源氏物語若菜上「―の外の岸にいたり」。
※4:モノレール(monorail)は、1本のレールに沿って走る鉄道。レールを跨ぐ跨座式(こざしき)と、レールに吊り下がる懸垂式とが在る。単軌鉄道。
※5:マングース(mongoose)は、(manguso[プラークリット語]に由来)ジャコウネコ科の一亜科の哺乳類の総称。独立の科とすることも在る。9乃至10属三十数種を含み、アフリカ/ヨーロッパ/東南アジアに分布。体長20~60cm程のイタチに似た体形。小動物を捕食し、ヘビを恐れない。日本ではその中のインドマングースを指すことが多い。毛色は灰色で、小さい黒の斑紋が有る。アラビアからインド、スリランカに分布するが、ハブの駆除用に沖縄や奄美に移入されて、野生化。ヘビクイネズミ。食蛇獣。
※5-1:プラークリット(Prakrit)は、中期インド・アーリア諸語の文語の総称。サンスクリットが雅語であるのに対して口語的。最古の文献は前3世紀のアショーカ王碑文。パーリ語もその一。
※6:マングローブ(mangrove)は、(マレー語の monggi に由来)[1].亜熱帯や熱帯の河口・潮間帯の泥地に発達する特異な植物群落。ヒルギ科などの高木・低木から成り、耐塩性で葉は常緑で厚く、支柱根・呼吸根が著しい。場所に依り構成種は多様。東インド諸島・マレー、南西諸島や台湾に見られる。紅樹林(こうじゅりん)。
[2].[1]を構成する樹木。ヒルギ科のオオバヒルギ・ヒルギダマシなど。
※6-1:蛭木・紅樹(ひるぎ)は、ヒルギ科のオヒルギ・メヒルギ・オオバヒルギなどの総称。マングローブを形成する。常緑の低木、又は高木で、呼吸根や支柱根を持ち、耐塩性など特異な生理的・形態的特徴が有る。種子は果実の中で発芽し、幼根が伸び出してから落下し、泥に突き刺さるとその儘発育する。世界に約70種。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-2:呼吸根(こきゅうこん、respiratory root)とは、水中又は泥中に根を有する植物の根の一部が直立して水面から出て、空中で呼吸作用を行うもの。ヌマスギ・ミズキンバイやマングローブの根の類。
※6-3:支柱根(しちゅうこん)とは、地上茎から生じた不定根の一種。ほぼ垂直に延びて土中に入り、主幹の支柱と成る。タコノキなどが持つ。支柱気根。
※7:市松模様(いちまつもよう、checker)とほ、紺と白と打違えに碁盤縞を並べた文様。1741年(寛保1)江戸中村座の俳優初代佐野川市松(1722~1762)が、この文様の袴を用いたのに起る呼び名。石畳(いしだたみ)。霰(あられ)。市松。
※8:配水池(はいすいち、water supply pond)は、配水の為に水道水を一時貯えて置く池。
※9:御嶽・御岳(うたき、おたき)とは、沖縄の村々に在る聖地で、多くは森。石やクバ・ガジュマルの木などが神聖視され、最も神聖な場所とされ、祭の多くはここで催される。女性が祭を司り、王国時代は男子禁制だった。
※9-1:威部(いび/いべ)とは、奄美・沖縄地方で、巫女たちが神祭りを行う聖地。又は、神。御嶽(うたき)の中でも最も神聖な場所で、神の依代(よりしろ)として神木や自然石が有り、香炉が置かれて居る。
※10:祠/叢祠(ほこら、small shrine)は、(ホクラ(神庫)の転)神を祀る小さな社(やしろ)。宇治拾遺物語11「その―に、修行しける僧のやどりて」。「―を建てる」。
※11:按司(あじ/あんじ)とは、古琉球の階級の一。諸侯に相当する。元は領主の意、後には一間切(村)を与えられた王家の近親を言う。あんず。
※12:雨乞い(あまごい、praying for rain)は、旱(ひでり)の時、降雨を神仏に祈ること。祈雨(きう)。季語は夏。天武紀下「是の月に、旱(ひでり)す。…―す」。
※13:琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)は、琉球王国の王府が編纂させた地誌。康熙52(正徳3、1713)年に尚敬国王へ上覧された。諸制度、各地の諸風土、琉球独特の御嶽(うたき)の神名縁起類など、沖縄を研究する上で欠くことの出来ない資料とされる。
※14:根神(ねがみ/にいがん)とは、沖縄で村の開創者の家系の娘。戸主を根人(ねひと)と言うのに対し、その姉妹を言い、宗教的権威を持った。
※15:母系社会(ぼけいしゃかい、matrilineal society)とは、母の系統の血縁者と共に家族・血縁集団を形成している社会。人は母方にのみ先祖を意識し、男の財産・地位は母の兄弟から受け継がれる。家族・血縁集団の統制権が女子に在るのを母権と呼ぶが、母系社会は必ずしも母権では無い。←→父系社会。
※15-1:招婿婚(しょうせいこん)は、「婿入り婚」のこと。
※15-2:婚(よばい)は、(ヨ(呼)バフの連用形から)
[1].求婚すること。言い寄ること。古事記上「さ―にあり立たし―にあり通はせ」。
[2].(「夜這」と当てる)夜、恋人の下へ忍んで行くこと。相手の寝所へ忍び入ること。
※16:木登り蜥蜴(キノボリトカゲ/きのぼりとかげ)は、トカゲの一種(爬虫綱トカゲ目アガマ科)。全長約25cmに成る。体色を巧みに変え、樹上性で、昆虫などを食う。奄美・沖縄・先島(さきしま)諸島に棲む。東南アジアに類縁種が多い。
※17:ぐすく/グスクとは、(琉球語)南西諸島の城・砦。13世紀頃から造られ、14世紀末~15世紀初めが完成期。その数は250を超える。中城(なかぐすく)・今帰仁(なきじん)のものが著名。ぐしく。すく。
※18:刳舟(くりふね)は、1本の木を刳り抜いて造った舟。うつぼ舟(うつお舟)。丸木舟。
※19:蜻蛉返り(とんぼがえり)とは、(トンボが勢い良く飛び乍ら、急に向きを後ろに変えることから)
[1].somersault。空中で体を上下1回転させること。宙返り。
[2].somersault。歌舞伎で、役者が舞台で手を付かずに宙返りすること。筋斗(とんぼ)返り。
[3].shuttle back and forth。目的地に着いて、直ぐ引き返すこと。「東京と大阪を―で往復する」。
(以上出典は主に広辞苑)
【参考文献】
△1:『日本の藍-ジャパン・ブルー』(吉岡幸雄監修、京都書院)。
△2:『定本 琉球国由来記』(外間守善・波照間永吉編著、角川書店)。
△3:『沖縄女性史』(宮城栄昌著、沖縄タイムス社)。
●関連リンク
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地図-日本・南西諸島と沖縄
(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):昆虫の分類学と特徴▼
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
@サブページ(Sub-Page):瀬長島から見る那覇空港離陸▼
ビデオ-瀬長島から見る那覇空港離陸
(VIDEO - Naha airport take off seen from Senagashima)
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(ハラボソトンボも居た)
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
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