-- 2014.03.03 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.04.30 改訂
私は2013年3月18日(月)から沖縄(※1)に住んで居ます。永住です。そこで当ページでは、沖縄に住むことにした経緯を書いてみようと思い立ちました。今迄に他のページに書いたことは部分的にコピーして来て当ページに集約しました。各章の構成と内容は凡そ次の通りです。
「娑婆に復帰してから沖縄に来る迄」
2013年2月18日(娑婆に復帰)~3月19日の那覇市転入
「病院という所」
2011年12月2日(脳出血)~2013年2月18日(娑婆に復帰)
「2011年10月28日に見た不思議な鳥」
沖縄移住を決意するのに影響在りや?
「大阪での最後に」
娑婆に復帰後に大阪で最後にした事
「沖縄に来てから[n]」
2013年3月18日~2014年4月、沖縄に来てから考えた事・した事
これで2011年12月2日(脳出血→後出)~2014年4月の現在迄が全て書かれて居ます。私が沖縄に来てから遣っている事が解るのでは、と思って居ます。
沖縄に来て一番良かったと思うことは冬でも暖かいという事です。私の様な病気をした者にはそれが一番有り難いのです。その為に来た訳ですから予想通りなのですが「冬が無い」と言った方が良いかも知れませんね、つまり「春夏夏秋」です。大阪でも冬に成ると手が悴(かじか)む日が有り手袋をしますが、沖縄ではそんな日は1日も有りませんでした。コートが欲しい日も有りませんでした。勿論、10年に1度位は気候に変動で有ると思いますが。今年の最低気温が一番低い日で12℃位です。今年の1月31日(金)は晴れ上がり温度も上がり、波の上ビーチと言う”ちゃち”なビーチが在るんですが、そこへ自転車で散歩に行ったら数10名が来てて海パン一丁で砂浜の上で甲羅干しです。流石に水浴びしてる人は居なかったと思いますが。要はその様に暖かいのです。今に成って思うと写真撮っとけば良かったなと思いますね、カメラは持って居たのです。でもその時は撮影意欲が湧かなかったのです。えっ、何故かって?、それは女の子が居なかったからです、ホッホッホ!
でも沖縄の人は滅茶寒がりです。寒く無い冬に皆コートを着て、フード(hood)の有る被り物を着けて歩いて居ます。家では暖房をガンガン焚いて居るんだそうな。沖縄の人に言わせると、私も後2~3年して沖縄に慣れたら寒がりに成るそうです。2~3年経ってどう成って居ますやら。その前に御陀仏に成って居るかも、ブワッハッハッハ!!
尚、沖縄の地図は▼下から適宜参照▼して下さい。
地図-日本・南西諸島と沖縄(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)
私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血で倒れ(→後で詳述)、2011年12月初~2012年2月末迄の3ヶ月は病院で入院生活を送りました。その後約1年間を或る施設でリハビリに専念し2013年2月18日(月)に施設を抜け出し”娑婆”に帰って来ました。▼最初に私の脳出血を書いたページは下▼です。
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
以下は私の著作『富樫穎先生追悼文集』の「私自身の事と「居酒屋レキオス」」の前半からのコピーが中心です(2014年3月10日発行、△1のp44~45)。この『追悼文集』はHP(ホームページ)原稿は有りません。実は「パーリャン村の小学生を支援する会」(2004年からは「パーリャン村の小学生を支援する会」(会長:目瀬先生)が引き継ぐ)の会長だった富樫先生が2013年暮れに亡くなられました。ご冥福を祈ります。富樫先生を偲ぶ方は▼下のページを参照▼して下さい。
パーリャン村の小学生を支援する会(Support team for Paliang's schoolchildren)
パーリャンに小学校をつくる会(Construct team for Paliang's primary school)
私が娑婆に復帰してから沖縄に来る迄の1ヶ月間(2013年2月18日~2013年3月18日)は非常に忙しく、先ず2013年2月20日に医者に行きMRI(脳の磁気共鳴映像法)を撮ると、患部が大幅に縮小して居り大変すっきりした気持ちに成りました(MRIは2011年12月6日、2012年1月5日、2013年2月20日の3回撮って居ます)。そして引っ越しの手配、沖縄の家を決める -その為に3月8日~3月12日に沖縄に来る(家を7~8軒見ました、因みに私は3月8日が初めての沖縄入りです!)- 、荷造り、その間に友人との別れの会を10回位、と目まぐるしかったですね。右半身は今でも痺れが有り言語障害が有ります、後遺症という事なのでしょうね。
実はこの間に、今遣っている出版事業の打ち合わせ -2013年からは出版事業を遣ると既に決めて居ました(→後出)- を2013年2月22日に森之宮神社の宮司と行い編集を引き受けて貰い、2月26日に全ての資料を渡し、原稿は後日USBメモリーで送ることにしました。そして2日後の2月28日には初回印刷分を振り込んで居ます。この森之宮神社の宮司は私の友人ですが、コンピュータ時代の編集には向いて居ない(=即ち古い)、という事で第1作『エルニーニョの鵲森宮と愉快な仲間たち』の奥付(△1-1の最終ページ)の様に編集から降りて戴き発行者として名を留めて居ます(詳しくは第2作『鵺(ぬえ)は飛び散りエイ躍る』の「まえがき」を参照(△1-2のp4))。
そしてもう一つ。2013年3月6日(水)には私が主宰してた【ブラボー、クラシック音楽!】の最終回を遣らせて戴きました。実はこの会こそ2011年12月7日(水)に予定して居たのですが脳出血の為に開催出来なく成ったという曰く付きの会でした(→後で詳述)。
そして2013年3月18日(月)昼に沖縄に来て仲介の不動産屋で正式に契約し家の鍵を貰い一応家に行って見ました。唯荷物は19日午後に届くので18日はここ迄で、この日はホテルに泊まります。元々不動産屋と正式契約の手続きが在るので荷物が届く前日に現地入りするというのは予定通りの行動です。
そして3月19日(火)午前中に転入の手続きで市役所(徒歩8分の真和志支所)へ、午後から引っ越しの荷物の受け入れです。その後”有るべき物が有るべき所”に納まるには10日位掛かりましたが。
[ちょっと一言] 真和志地区は那覇市中央部に位置し1957年に那覇市に併合される迄は独立の市でした。従って今の那覇市役所の真和志支所には元々全ての機能が備わっていて、何も市役所本庁(徒歩で45分、自転車で25分)に出向かなくても間に合って仕舞うのです。私は市役所本庁に行った事は有りません。行政的には真和志支所管内と呼ばれて居ます。更に沖縄赤十字病院/中央保健所/那覇警察署/那覇市民会館/沖縄県立図書館/那覇市立図書館/与儀公園など、那覇市の主要公共施設が私の家から徒歩15分以内に在ります。私は真和志地区こそ那覇市の文化的中心地であると思って居ますゾ!
私は自分が脳出血で入院した体験を書き留めて置こうと思ったのですが、2013年から出版事業を立ち上げたので忙しく成って仕舞い中々その時間が取れなかったのです。ところが『追悼文集』の中で一部を書いたので、それを”流用”しようと考えた訳です。”流用”と言っても元は全部私の書いた文章ですから、煮て食おうと焼いて食おうと何ら問題は無いのです。
これから書くことは当ページが最初で、この章はコピーでは有りません。時間を遡って脳出血からリハビリ施設を抜け出す迄 -2011年12月2日~2013年2月18日迄- を述べる事にします。
(1)第1の病院 - 放ったらかし
私は12月2日に脳出血で倒れと書きましたが、実は倒れて無いのです。21時15分に風呂に入ろうと思ってパソコンを離れ立ち上がった瞬間にフラフラとしてしゃがみ込んで仕舞い、以後立てないのです。立てなかったのは事実ですが意識は確りしてました。一般的に「脳出血で倒れ」という表現が多いので世間の常識に従った迄です。
しかも何処も痛く無いのです。だから、その時は脳出血とは思わなかったのです。暫く寝てたら直るんじゃないの、てな感じでしたね、オッホッホ!
それで12月6日の朝迄家で寝てましたよ。その間に流石に12月4日頃から腹が減って、もう12月なんで切り餅を買って在ったのでそれを焼いて食ったりしてました。もうこの時はゆっくり立って歩けましたよ。でも変なので12月6日にタクシー乗って病院に行きましたね。
入院して最初の日にMRI(脳の磁気共鳴映像法)を撮り、最初の2日位は彼方此方の検査や診察を受け、それで脳出血と言われたのです。後日MRIの映像を見せて貰いましたが左の脳に出血の映像がはっきりと写ってましたね。手術するか否かという判定会議が有った様ですが結局手術は無し。午前中に1回と午後に1回、血圧を計りに来るだけで後は放ったらかしです。薬も大した薬ではなく血圧降下剤です。始めの1週間位は食事も無し、尤も食欲が無かったですけど。この最初の1週間位で15kg以上痩せました。良いダイエットです、オッホッホ!!
その内、やっと腹が減って看護婦に言ったら「あっ、そう」ですと。最初の3日間は病院規則で「お粥」なんです。病院の正規食は朝はパン、昼は軽い飯、夜は御数が増えた飯です。風呂にも入りたいと言ったら1日置き -病院は毎日は焚いて無い- に入りました。周りの連中は文句ばかり言ってたけど私は黙々と食いました(←私は病院に3ヶ月居ましたが残した事は1回も有りません)。だけど決められて居て日に1400kcal位 -健常者は男子で2250kcal位、女子で1750kcal位- なので、それに減塩なので推して知るべしです。この頃(12月半ば)に成って体の変調に気が付きましたね。痺れとか右足の自由が利かないとか言語障害とか右目の視力が落ちたとか皆さんの顔は覚えて居るが名前が思い出せないとか。それでリハビリを遣る様に成って外界とのコミュニケーションが出来ました。又、多くの方に御見舞に来て戴きました、本当に有難う御座いました!!
12月の後半は病院食だけでは足りないので最上階のコンビニで菓子パン買って食ってましたね。私はこの時に思いました。入院生活とかリハビリ生活とは私にとっては正に「檻の中」に幽閉されたも同然の状態で基本的には単調な毎日です。そして体が回復して来ると昼間寝なく成り1日が暇で暇で、今でも覚えて居ますが12月22日の冬至の日、この日は天気が好く暇で暇で1日が”中~~々”暮れないのです。冬至の日ですよ、昼の時間が1年中で一番短い日ですよ!、それが暮れないのです。私はずっと窓の外を見て居ましたね、私はこの時程1日を長く感じた事は有りません。この病院は年が明けた1月5日に退院しました。
(2)第2の病院 - リハビリは微温湯的で本を読んだ事
私は2012年1月6日からリハビリテーション病院に移りました。前の病院は救急患者が割り込みで入って来るので落ち着かない所が有りました。薬は前の病院を引き継いで血圧降下剤です。しかしリハビリテーション病院に来て居る患者は殆どが老人で、この病院の患者の平均年齢は70歳位なので私よりも上です。はっきり言って”甘ったれた老人”が多く、リハビリも厳しい痛いリハビリを期待したのですが、それは叶わず -そういうリハビリを遣ってもし傷めたら病院の責任に成るので出来ないとはっきり言われました- 後半病院の周りを先生が付き添いで週に3日程度500m歩くのが精々でした。病院と患者は”持ちつ持たれつ”で「事勿れ主義」に安住してる所が有りました。
そこで持って来てあった本を読みました。先ず『往生要集』(△2)ですね。これは前に飛ばし読みしてたので、もう一度じっくり読んでみようと思ったのです。特に「厭離穢土」の迫力は凄い、これでもう地獄は嫌だと思わせるに充分です。「ぽっくり死」が良いと考えて居る人たちに『往生要集』が人気が在るのです。これは▼下の論考の補遺ページ▼で詳しく論じて居ますので見て下さい。先ず下のページに入り、それから補遺ページに入って下さい。補遺ページは直接リンクはして居ません、そういう決まりなのです。
今は「多老社会」(←これは私の造語です)で、正に”甘ったれた老人”が溢れて居るのです。”甘ったれた老人”には老人徴兵制の方が良いと思ってますが...。
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)
次に読んだのが『東海道中膝栗毛』(△3)ですね。これも大分前に拾い読みしてもう大分忘れたので読んでみました。会話が調子良く進み「トトーントントン」と勢いを付けて行く所は流石です。十返舎一九というのは江戸のリズムで読ませます。
それから曹洞宗の開祖・道元(※2)の書いた『典座教訓・赴粥飯法』(※3、△4)は面白かったですね。禅寺に於ける食事や粥の作法が書いて在ります。道元は宋から帰朝後越前に道場を開き、寛元4(1246)年に永平寺と改名し僧堂生活の規範を「永平清規」に定め、その中で初めて「禅の茶礼(されい)」(=茶の礼式)を確立しました(△5のp105)。道元は栄西の孫弟子に当たりますが人間が大きくて奥深い。茶の作法に興味有る方は▼下を参照▼して下さい、殆どの方は興味無いと思いますが。
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
それから『能・狂言図典』(△6)ですね。これも斜め読みしてたのですが、この際じっくり読んで遣ろうと初めから読み直しました。能・狂言の構造が良く解りました。
この病院には文学が好きなナースが居て道元の『典座教訓・赴粥飯法』を読んでみたいと言うので貸したら喜んで居ましたが、こんな本を面白がるなんて相当変わって居ますね。この人には今は私の本を贈って居ます。
この病院にも多くの方に御見舞に来て戴きました、有難う。私はここに2月28日迄居ました。
(3)第3の施設 - リハビリには良かった
第3の施設は病院では有りませんが一番長く居たので少しだけ触れて置きます。ここは宗教施設です。2012年は閏年で、2月29日を丸々次の施設に入る為の準備に当てました。そして3月1日から施設に移ったのですが、私が何故宗教施設を選んだのか?、その真の理由を知る人は数名の人のみです。施設の方では私が一生入信するものと思って居た様です。
そして3月26日~6月28日は奈良県の本部に泊まり込みで修養会に参加させられました。まぁ、人格改造ですな、私は全然改造されませんでしたが。第2の病院では歩くのが精々500mでしたが -第1の病院では0m- 、奈良の本部では片道1.3km、構内移動が何だ彼だで1km以上、本堂の回廊を雑巾掛けすると1km以上、その他に掃除を割り当てられる事も在り、何だ彼だで1日に歩く距離は毎日5km~7kmに成りますので、これはリハビリには良かったですね。申し遅れましたが病院は奈良の時は奈良の、大阪に戻ってからは施設の近所のクリニックで診て貰い、薬は前の前の病院を引き継いで、相変わらずと言うか、又もやと言うべきか、血圧降下剤です。私がクリニックの先生に聞いた所に依ると、この薬を飲むと血圧は一時的に下がるが又直ぐに上がるそうで、ずっと飲み続けないと行けないという話です。阿保らしく成ります!
兎に角、一神教の宗教施設から抜けるのは中々大変な事なのです。それから後は初めに述べた通りです。私はこの宗教施設には感謝して居ます。唯それに依って信者に成るか成らないかは心の内面の問題ですから。私は2012年3月1日~2013年2月18日迄この施設に居ました。2013年6月27日には修養会の同期生が2人沖縄に来て呉れました、有難う!
では、2013年2月初旬(→後出)に何故沖縄行きを思い立ったのか?、それには鳥が関係して居るのです。この不思議な話を次にしましょう。私はこの鳥の記事を宗教施設の中で書き上げ、それが「エイが向かいし島「江井ヶ島」」(2012年11月22日作)です。そして2013年に『鵺(ぬえ)は飛び散りエイ躍る』の一部として出版も果たしました。ですから、この部分は殆どこの作の「結び」の章(本では△1-2のp65)からのコピーです。
(1)不思議な鳥はハッカチョウ(八哥鳥)
私は2011年10月28日(金) -脳出血の1ヶ月とちょい前- に江井ヶ島(兵庫県明石市大久保町江井島)という所を色々と訪ね廻ったのですが、その夕方に山陽電鉄「江井ヶ島駅」に帰る途中で実に不思議な鳥を見つけました。地上4~5mの電線に止まって居ました。こんな鳥をそれ迄見たことは有りません。この鳥は一体何でしょう?、目で見た特徴は嘴の上の前頭部の冠羽とオレンジ色の目ですが、私はこの鳥は初めて見る鳥です(右の写真)。
私はこの部分の記述を脳出血後の2012年11月22(木)に仕上げたのです。当時私はリハビリの為に或る施設 -上で述べた宗教施設- に居たので自由時間はとても制限されて居ました。パソコンは持ち込んで居ましたがオンラインで外部と接続は出来ません。そこで私は施設でこの鳥の写真から鳥の名前を調べてくれそうな、又そういう事が出来そうな人にお願いして調べて貰いました。
1日位して『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に在りました。名前はハッカチョウ(八哥鳥)/ハハチョウ(哥哥鳥)と言い、スズメ目ムクドリ科の鳥です(△7のp587)。原産地は中国南部・台湾~インドシナ半島に掛けてで、日本では与那国島などの南西諸島を除いては居なかった鳥ですが、御多分に漏れず近年は”人為的”にこれらの種が日本に定着化して、もう本州の中南部で確認されて居ます。体長は25cm位、食性は雑食です。中国では人に良く懐き、特に人語(※4)を真似るので人気が有るそうです。それで私が今迄見た事が無い鳥だった理由が解りました。
ハッカチョウ(八哥鳥)は江井ヶ島港の良き思い出ですが、「それにしても私は何故かこの鳥がずっと気になって居たのです、1年越しで。」と書いて居ます。この鳥を江井ヶ島で撮影したのが2011年10月28日、この記事を書いたのが2012年11月22日、その間に2011年12月2日の脳出血を挟んで居たのです!
(2)ハッカチョウ(八哥鳥)に因縁を感じる今
『鵺(ぬえ)は飛び散りエイ躍る』の「あとがき」(2013年8月3日作、△1-2のp81~82)に次の様に書きました。その引用部分をここにコピーしましょう。
「[エイを追え#2]-エイが向かいし島「江井ヶ島」」の「結び」の章に、偶然江井ヶ島で撮ったハッカチョウ(八哥鳥)の紹介記事を書き写真も載せましたが、この鳥は全体の筋からして全く無関係なのです。読んでいて、そう感じた人も居られるでしょう。では何故無関係な鳥を登場させたのか?、種明かしをしましよう。
それには[エイを追え#2]を取材した日から「沖縄の人」に成る迄を時系列に並べてみると解り易いのです。
2011年10月28日 江井ヶ島(兵庫県明石市)を取材
その帰り掛けにハッカチョウを撮影
2011年12月 2日 脳出血で倒れる
2012年 9月30日 「エイが向かいし島「江井ヶ島」」を完成
~2012年11月22日 (2012.11.22 にハッカチョウの資料貰う)
2013年 2月初旬 沖縄移住を決意
2013年 2月18日 リハビリ施設を出る
2013年 3月19日 沖縄の人と成る
ハッカチョウは本文から引用すると「スズメ目ムクドリ科の鳥です。原産地は中国南部・台湾~インドシナ半島に掛けてで、日本では与那国島などの南西諸島を除いては居なかった鳥。」です。しかし私は見た、見ただけで無く写真を撮って居るのです。私が撮影出来たのは「御多分に漏れず近年は”人為的”にこれらの種が日本に定着化して、もう本州の中南部で確認されて居ます。」所為なのです。実は沖縄引越に献身的に協力して呉れた人が与那国島出身です。そして「それにしても私は何故かこの鳥がずっと気になって居たのです、1年越しで。」と書いた様に、脳出血で倒れても気になる鳥の記事を挿入したのです。
沖縄移住を決意(→次章) -沖縄はハッカチョウの故郷に限り無く近い- したのはハッカチョウの導きではなかったか?、と今にして思えるのです。しかし私はあの時以来、那覇市に来てからもハッカチョウを見て居ません。今後永久に一期一会かどうかは判りませんが...。
(1)私が沖縄へ来たのは2人のキーマンの御陰
ところで沖縄に来る事を何時決めたか?、というと2013年2月初旬です。1月30日に太田照政氏に会った時は未だ冗談で沖縄の話をしてました、太田さんは沖縄に思い入れが在るのです。私が施設を出て沖縄に来るには物凄く世話に為った人 -キーマン(key man)/キーウーマン(key woman)- が2人居りますが、その内の1人が太田さんです。私は最初に記した様にそれ迄沖縄に来た事が無いので、例えば家探しとかをするのも大変で、それを手伝って呉れた人が居るのですが、その人は訳有って匿名希望です。この2人が居なかったら私は沖縄に来れて無いでしょう、本当に有難う!!
(2)【ブラボー、クラシック音楽!】の事
【ブラボー、クラシック音楽!】の最終回を2013年3月6日(水)に代替開催して戴いたことを感謝と共に書きます。会の皆さんには2011年12月7日(水)の最終回が私の脳出血で開催不能に成り大変なご迷惑をお掛けしました、誠に済みませんでした。太田照政さんには入院した私に替わって全てをお任せしました。12月7日には私は全然喋れなかったのです、何か言おうとすると「わあう、おへあー」と成って仕舞うのです。太田さんには感謝、感謝です!
その代替開催ですが、12月7日の当初の予定通り<ベートーヴェンが最後に希求した単純なメロディー>というテーマで遣らせて戴きました。この日の曲目はオール・ベートーヴェンで
『弦楽四重奏曲第13番』第4楽章及び「大フーガ 変ロ長調」
『弦楽四重奏曲第14番』第5楽章
『弦楽四重奏曲第15番』第3楽章
『弦楽四重奏曲第16番』第4楽章
というものです。ベートーヴェンは『第九』を書き上げた後は上記の弦楽四重奏曲しか書いて居ません(←主立った曲では)が、段々と「単純なメロディー」に収斂して行くのです。
思えばこの会は2004年10月1日(金)に第1会を「前衛」で開き、ドヴォルザークの『交響曲第9番「新世界より」』で幕を開けたのです。以後、会場を何度か替わり乍らも「月一」のペースで続けて来て、代替開催した最終回が第84回です。この日は壮行会も開いて貰いました。この会は私が最も力を入れて居ました。
右の写真が最終回に集まった人たちです。皆さん有難う!!
最終回の模様は▼下からも参照▼出来ます。
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')
(3)出版事業の事
出版事業の事を考えたのも2013年2月初旬です。そして「日本図書コード管理センター」からISBN出版者記号=907464を取り、2013年7月26日に受理されました。出版者名は
かわず
蛙ブックス
にしました。出版第2作目からはマイブランドと言う訳です。
蛙の読みは「かえる」と「かわず」が有り、どっちでも良いのですが、「かわず」(※5)という古風な方を採用しました。そうすると芭蕉の「古池や かわずとびこむ 水の音」と直接的に繋がります。そしてもう一つ、「かわず」は古代では「カジカ(ガエル)」(※5-1、※5-2)を指して居り上流階級ではその美声を聞く為に家庭で飼育したのです。私は子供の頃田舎で聞いたカジカ(河鹿)の幻想的な鳴き声を僅かに覚えて居ますが、姿は見たこと有りません。カジカも今や絶滅危惧種です。以上の部分は『鵺(ぬえ)は飛び散りエイ躍る』の「まえがき」からのコピーです(△1-2のp5)。
しかし出版第1作目はマイブランドでは在りません。色々と付き合い・柵(しがらみ)と言うのが有って、出版第1作目の『エルニーニョの鵲森宮と愉快な仲間たち』(△1-1)はそちらの出版社から出してます。こういう事は今後も在るかも知れません。又、出版社と出版者が在るのですが当方は個人で登録してるので出版者です。
私は本の出版という事は前から考えて居て -当サイトを立ち上げた2002年11月20日時点からその意識は在りました- 第3の施設にパソコンを持ち込んで2012年秋にエイが向かいし島「江井ヶ島」を完成させた時は明確に出版を意識してました。唯この時は未だ第3の施設を何時出られるか全然判らない段階でしたので、意識はしてたものの「出版を事業として遣る」事は考えて無かったのです。そういう意味で出版事業の事をはっきりと考えたのは、やはり2013年2月初旬なのです。
【ブラボー、クラシック音楽!】の最終回(代替開催)の場で、2013年2月初旬の決意を表明する為に「私は沖縄に行って出版事業を遣ります。」と言ったのですが、多分大方の人は「あんな事を言ってるが3年の内に1冊でも出したら良い方さ。」位に受け止めたと思いますが、1年目の去年に3冊出版しました。これで私が本気である事が解って戴けたと思います。
(4)健康回復の程度
最初は全然字が書けなくて困りましたね、2cm角位のデカイ字に成って仕舞うのです。しかも真っ直ぐに書けない、一つの線が震えて仕舞うのです。これも太田さんに頼んで小学生用の漢字練習帳(所謂ドリル)を買って来て貰い、このドリルで練習しました。それでやっと小さい字が書ける様に成り、あの程度に書ける様に成りました(←私から葉書や手紙を貰った人なら解るでしょう)。又、筆圧が85%位しか戻って無いので字が薄いのです。これは出版事業でFAXを送る時に解ったのですが、字が薄くて相手が読めないのですが、筆圧不足でどうしても濃く書けないのです。又、今は本の原稿をパソコンに打ち込んで居ますが、これも練習して今は左手で入力して居ます(←私は本来右利きです)。
健康回復の具合は未だ右半身に痺れが有り言語障害が15%位残って居ます。身体的には細かく言うと未だ未だ色々有ります。人に依ってはマイナス面ばかりを気にして余生を暗く捉えて仕舞う人も有るでしょうが、私は痺れは在るが痛みは無いのです。これをプラスに考え余生 -後何年生きられるか解りませんが- を精一杯楽しく生きたいですね。アバウトに見れば元の健康状態の90%は取り戻したかなという感じで、この様に元気だと言えるでしょう。
(5)脳出血の本当の原因
今現在痺れが集中的に在るのは右の足首ですが、これについて知って居る人は2011年の初秋に私が足首を痛めて居るのをご覧に為った方が居ると思います。実は脳内視野で脳出血が起きた箇所がポイントしてるのが右の足首なんです。医者も知りません、医者に話て無いですから。それと脳出血を起こした日は酒は一適も飲んで無いのです。可なり集中してHP(ホームページ)を編集して居たのです、実は出版の事を意識して居ました。
そして実に傑作な話が在るのです、ヒントは飯田線の天竜駅です。このヒントで解る人が【ブラボー、クラシック音楽!】の会員の中に極少数居る筈です。この傑作な話の為に私は素直に脳出血を運命として受け入れる事が出来たのです。
まぁ、この傑作な話と脳出血との関連については、機会を改めてお話しましょう。
以下は沖縄に来てからの話です。この部分は再び『富樫穎先生追悼文集』の「私自身の事と「居酒屋レキオス」」の後半からのコピーです(△1のp45~46)。富樫先生の思い出は冒頭の章へ。
2013年3月18日(月)昼に沖縄入りして用事を済ませ、この日はホテルに泊まります。この話は最初に書きました。ここでの話はその続きです。
ホテルに帰りシャワーを浴びて、泡盛で一人だけの乾杯をしたい、それじゃこの前飲んだ所へ行こうか、と決めて外へ出ると雨が降っているのです。それで近場で切り上げることにして偶々入った店が、この追悼文集に河合ママが寄稿して居る「居酒屋レキオス」だったのです。ママは2000年の視察旅行に参加した方です。しかしこの店が”パーリャンに関係有る店”なんて事は全く知らずに入った訳です。これは運命です、神のお導きです!!
どうしてパーリャンの話に成ったのか?、どちらが先にパーリャンと言ったのか?、はもう覚えて居ません。唯ボランティアの中に沖縄の人が居て富樫先生はその店に行ったことが在る、と仰ってたのを聞いて居たので、「ははん、ここがその店なんだ。」と納得しました。以来私は月に1度か2度はこの店に通って居ます。今から考えると国際通りのど真ん中の「むつみ橋」交差点から徒歩15秒 -分では無く秒です!- の所に在るこの店はめちゃ便利な所です。観光客に人気の第一牧志公設市場も5分で行けます。右の写真が居酒屋レキオスと河合ママです。
更に『富樫穎先生追悼文集』の「あとがき」からのコピーです(△1のp54)。
要するに去年の3月18日に居酒屋レキオスに入ったのは実に運命的ですね。しかも雨が降って居た、ここが肝腎です。雨が降って無かったら他に行こうという店が有りレキオスに入って無いのです。しかも雨は帰る頃には止んでいたのです。不思議ですね。
しかし最近、違う考えが頭の中を過り、河合ママがテレパシー(※6、※6-1)か何かを使い私の心を遠隔操作(※6-2)して、要は私がレキオスに行く様に予め操作が施されて居たのでは、という考えです。”雨”もそういう操作の一つです。
そう成ると可哀想なのは私で、「飛んで火に入る夏の虫」の「屁っぴり虫」もいい所です!!
私が沖縄入りしたその日にパーリャン関連の「居酒屋レキオス」と出会(くわ)して居る訳ですから何とも不思議な話で、これが新天地沖縄でのスタートに成りました。尚、レキオス(Lequios)はポルトガル語で琉球人を表します。
{この章は2014年4月10日に最終更新、写真は4月30日に追加}
(1)シーサーと石敢當
左の写真の両脇の恐ろしい顔をしたもの、これがシーサー(※7) -獅子さんという意味- です。これは神社の狛犬と同じで魔除けの置物で門柱や家の入口の屋根に置きます。
真ん中の「石敢當」と書かれた物は文字通り石敢當(石敢当)(※7-1)です。これは三叉路とかT字路の突き当たりに置き、やはり一直線にしか進めない悪鬼の突進を防ぐので、やはり魔除けの一種です。
四川省出身の周煌の著した『琉球国志略』の巻4下「風俗」の「屋宇」(※8)に、「屋上門前多安瓦獅。及立片石。刻石敢當者。」という記述が在ります(△8のp201、△9のp315)。大意は「屋上や門前に瓦獅(=シーサー)を安んじ、及び片石を立て石敢當と刻む者多し」と成ります。つまり1756年に既に「琉球には石敢當が多い」(※1-1、※1-2)と言って居るのです。
石敢當をサンドイッチしなければ為らない、という事は有りません。これは土産物屋で買った物を私がその様に置いただけです。写真のシーサーは高さが7.5cm位の小さな物で、これを家の入口に置き家の魔除け/守り神にして居ます。しかし那覇の国際通りは石敢當が多いですね、解って石敢當を設置してるんかいなと思って仕舞います。現在は「県全域で一万基を上廻ることになるのではないかと思うが、果たして実態はいかかであろうか。」(△8のp67)と書いて在りますが、全く同感です。
(2)シーサーや狛犬が怖い顔をしてる訳
以下は
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
の「狛犬の雑学」からのコピーです。「狛犬の役割と神使について」と題して次の様に言ってます。
狛犬(※9)は元来はオリエントのライオンが起源の様で、ご本尊守護や神使(※9-1)や魔除けの意味が込められて居ます。やはり百獣の王・ライオン(獅子)は神通力絶大らしくエジプトやアッシリアのスフィンクス(Sphinx)も人面獅身ですし、沖縄の瓦屋根の上に載っているシーサーも魔除けの唐獅子で、シンガポールの国名起源説話に成り国家の象徴であるマーライオンは獅面魚身の変形人魚です。
狛犬と同じ使われ方として、中国の寺院では唐獅子や麒麟や一角獣などの1対を良く見掛けます。犬に変貌したのはライオンの居ない朝鮮半島経由の影響かも知れません。そして狛犬は阿吽とか雌雄とか陰陽とかの対を成す場合が多いですね。
序でに、狛犬の変種としては狛虎が在り、他に河童狛犬(岩手県遠野市・常堅寺)や猿顔の狛犬など、幾つか有る様です。
又、神使として毘沙門天の虎の他、神社には稲荷神社の狐・熊野神社の八咫烏(やたがらす、足が3本)・天満宮(天神社)の牛・八幡神社の鳩・日吉神社の猿・春日神社の鹿・大国主を祀る神社の鼠・護王神社の猪などが在り、彫像や彫刻に成る場合も有ります。又、有力神社には神馬の像が奉納されて居ます。
シーサーや狛犬が怖い顔をしてる訳がこれでお解り戴けたと思います。魔除けとして悪鬼や悪魔を追い払うには相手が震え上がる様な怖い顔が必要なのです。又、ここに書いて在る通り、上の写真の右側が口を開いた「阿(あ)」の相、左側が口を閉じた「吽(うん)」の相で、1対で「阿吽」(※10)を表します。狛犬も1対ですね。これらは万物の初めと終りを象徴して居るのです。
(1)野蚕について
これから蛾(が)の話をします。▼昆虫豆知識▼を適宜参照して下さい。
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
アヤミハビルとは、与那国島の方言でアヤミが「模様の有る」、ハビルが「蝶」という意味で、和名をヨナグニサン(与那国蚕)(※11)と言います。野蚕(※11-1、※11-2)とは、カイコガ(蚕蛾)(※12~※12-2) -これから絹(キヌ、silk)を採るのは知ってますね- 以外の幼虫で繭(まゆ)から糸を採りだせる種を指し、主にヤママユガ(山繭蛾)の幼虫を指します。具体的には、ヤママユ(山繭)(※11-3)/サクサン(柞蚕)(※11-4、※11-5)/ヨナグニサン(与那国蚕)/シンジュサン(神樹蚕)(※11-6)/クスサン(樟蚕)(※11-7)などで、何れもヤママユガ科です。つまり野蚕とは絹以外の糸を紡ぐ事です。しかし野蚕として実用化されてるのは、ヤママユ(天蚕)(※11-2)とサクサン(柞蚕)で、クスサン/シンジュサン/ヨナグニサンは実用化されて居ません。最近では野蚕を化粧品/医薬品/医療素材に更には蜘蛛の糸も利用出来ないか研究されて居ます。
以下は世界の野蚕について【参考文献】△10の「シルクのお話」を見てみましょう。
繭(まゆ)は元々昆虫が蛹(さなぎ)の時期に自らを保護する為のもので、カイコの他にも繭を作る昆虫は沢山居ます。特に、カイコに近縁なヤママユガ科の仲間は繭を作ります。雑木林でクヌギやカシの葉を食べて居るヤママユは緑色の立派な繭を作るので山繭とか天蚕(※11-2)とか呼ばれ、昔から糸を取る為に野外で飼育されて来ました。ヤママユガの繭からは黄色くて強い光沢が在る天蚕糸が採れます。ヤママユガの繭は鮮やかな緑色をして居ますが、緑色に着色する為には繭を作る前の幼虫が明るい光に当たることが必要で、日光の当たらない室内で飼った繭は黄色く成ります。天蚕糸は生産量が少なく高価なので、主に着物やネクタイの一部に使われて居ます。
カイコ以外の蛾の仲間で繭を利用出来るものを野蚕と呼び、世界中で色々な野蚕を利用して居ます。中国では古くからサクサンというヤママユガの仲間を利用して居ます。サクサンの繭は褐色をしていて、繭から糸を取る他、蛹を食用にして居ます。インドにはタサールサン/ムガサン/エリサンという3種類の野蚕が居ます。エリサンはインドのアッサム地方が原産地ですが、可なり家畜化が進んだ野蚕で中国やベトナムでも飼育されて居ます。世界最大の蛾のヨナクニサンは東南アジアで工芸用に利用されて居ます。インド/中国/日本で利用されて居る野蚕は全てヤママユガの仲間ですが、アフリカでは別の蛾の仲間が利用されて居ます。アフリカの中~南部では、ギョウレツケムシガの仲間が作る繭が、織物を作るのに利用されて居ます。この蛾は沢山の幼虫が集まって大きな繭を作ります。又、アフリカとマダガスカルには幼虫の背中に鋭い棘の束が有るトゲカレハの仲間が居ます。幼虫は繭を作る時にこの棘を繭の表面に植え込んで棘だらけの繭を作ります。この繭から作った布はマダガスカルでは死者を包むのに使われ、蛹は食用にされます。
中々貴重な話が載って居ましたね。日本では野蚕は量が少ないので高級品です。
蛹を食用にしてる所は結構多く、中国ではサクサン(柞蚕)の蛹や蛹の串焼を食用に売ってるのを見ました。食の文化は長~い歴史が有るのです。▼下をご覧▼下さい。まぁ、人間は他の動物を蹴散らして食物連鎖の頂点に立った動物ですから”何でも食った”のです。
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
(2)アヤミハビルの蛇
右がアヤミハビル(=ヨナグニサン)です。これは昨年6月か7月頃(←もう忘れた)那覇で手に入れた標本で開張は22cm在ります。私は上述のシーサーや石敢當と同じく魔除け/家の守り神として、又観賞用として家に飾って在ります。
ところで翅の褄(つま)の部分に1対の蛇の顔の様な紋様が在るのに気が付いたと思いますが、これが私の言うアヤミハビルの蛇なのです。沖縄だからハブ(※13)に肖って居るかどうかは解りませんが、アヤミハビルの神通力を表している様です。が、何と無く可愛い感じの蛇でちょっと迫力不足の感じは否めません。
「アヤミハビルの蛇」という呼び方には蠱惑的で怪しい響きが有ります。
(1)黒潮が運ぶ民話
このページの基本部分は
2011年・年頭所感-今年は大人しく(Behave yourself and keep quiet, 2011 beginning)
からのコピーです。
例えば因幡の白兎(或いは因幡の素兎、因幡は鳥取県)の話は非常に良く似た話がインドネシア民話に在るのです(△11の「だまされ鰐」(西ボルネオ)の後半、p82~83)。兎の役は、この地方に居る豆鹿(※14)が担って居ます。日本(この場合は因幡)では苦労して敵役の鰐鮫(わにざめ、鮫の一種)を捻り出して居ますが、インドネシアでは単純にワニ -インドネシアではクロコダイル(※15)- です。従って因幡の素兎は明らかにインドネシアの話が祖型です。
更に言えば、インドネシアには他にも海幸山幸説話を彷彿とさせる話(△11の「釣針探し」(ケイ島)、p150~153)や猿蟹合戦に似た話(△11の「猿亀合戦」(セレベス島)、p104~107)などが在り、これらの各説話は黒潮文化圏の海洋民(※16)に運ばれて伝播して来た幾つかの話の一部でしょう。この黒潮伝播説を補強する材料として、日本で琉球音階(或いは沖縄音階)と呼ばれるド・ミ・ファ・ソ・シの五音音階は沖縄固有のものでは無くインドネシア(バリ島も含む)やベトナム、タイなど東南アジアに共通するペロッグ音階(※17)に属する事、沖縄の泡盛はタイ米を原料とする焼酎で味も東南アジアの焼酎に近い事、沖縄にはフィリピンを始め南方系の顔立ちの人が多い事、を挙げて置きます。
更に、最近フィリピンの民話を調べて居たら『竹取物語』と同様にフィリピンでは竹から生まれた人間が創世神話に成って居り、この話はフィリピンではとてもポピュラーです(△12のp373~376)。
(2)沖縄~日本を巡る海流
先ず右の沖縄~日本を巡る海流図をご覧下さい。勿論、赤い→が暖流、青い→が寒流です。沖縄~西日本は黒潮(日本海流)(※16)が大雑把に言えば南から北へと流れて居るのです、これは一目瞭然ですね。タイやフィリピンの人が漂流したと仮定すると、漂流民は黒潮に乗っ南から北へと流され沖縄とか日本に漂着する可能性が高いのです。
一方、海流は逆には流れません。前節の民話の広がりも黒潮の流れに乗ってるので、例えば「因幡の素兎」が先に在ってインドネシアの民話「だまされ鰐」が後から出来る、という逆は起こり得ないのです。
黒潮は太平洋を横断しているのでジョン万次郎(※18、※18-1)の様にアメリカに漂着する事すら在るのです。更に南米のエクアドルから縄文式土器に似た土器 -バルディヴィア土器と言う- が出土(1956年)した事からエヴァンス博士夫妻らは縄文人が南米大陸に到達して居たと主張して居ます。
尚、「沖縄~日本を巡る海流図」は
地図-日本・南西諸島と沖縄(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)
にも載って居ますので、適宜参照して下さい。
漂着物のサイト(△13)を見ると、沖縄には中国/台湾/韓国の他に予想通りインドネシア/ベトナム/マレーシア/オマーン/シンガポール/ミャンマーなどから漂着して居ます。という事は古代の人間もそちらの方面から琉球に漂流して居るのです。詳しくは【参考文献】△14などをご覧下さい。
漂流の場合は更に台風や貿易風や偏西風などの風も考慮に入れないと行けませんね。何れにしても、伊波普猷(※19)が唱えた日琉同祖論(←その賛否は兎も角)(※19-1~※19-2)の枠組みだけではどうにも為らない、沖縄や日本の周りには別の黒潮のベクトルが存在して居る事は確かです。
{この章は2014年3月14日に最終更新}
(1)黒麹菌は多量のクエン酸を生成
泡盛(※20)はタイ産の砕米を黒麹菌で麹を造る沖縄独特の蒸留酒であるという話は沖縄に興味が有る人は皆知って居ると思いますが、意外に知られて居ないのが黒麹菌は多量のクエン酸(※21)を生成しているという事実です(△15)。クエン酸とは、まぁ簡単な話がミカンの果実に含まれ酸です。これが諸味/醪(もろみ) -米麹に水と酵母を加えてアルコール発酵させる段階- の酸度を高く出来て雑菌に因る腐敗を抑えることが出来るのです。黒麹菌は原料である穀物の澱粉質を糖化する酵素の力がとても強い事も特徴で、お酒そのものの収量を増やして呉れる菌でも有るのです。黒麹菌は沖縄やタイなどの亜熱帯海洋性気候に適している訳ですね。
ところで、我々人間もクエン酸回路(或いはTCA回路/トリカルボン酸回路)(※21-1)という基本的なエネルギーを取り出すシステムを体の内部に持って居り、細胞の中のミトコンドリア(※22)で行って居ます(△16のp15~16)。クエン酸とは意外と我々に身近な物なのですね。泡盛とミカンのカクテルを試してみようかしら、オッホッホッホ!
(2)私は古酒に拘泥らず
最近は泡盛と言うと直ぐ古酒(クース)と言い”通振る”人が急増しましたが困ったものです。今は3年寝かせたものを古酒と言うそうですが、これは泡盛本来の熟成法とは異なるのです。本来の熟成法とは、一番古い甕(かめ) -これを親甕或いはい1番甕と言う- から飲み、飲むと当然減るので2番甕から親甕へ、3番甕から2番甕へと、順次注ぎ足す -これを仕次(しつぎ)と言う- のです。この仕次は既に15世紀には行われて居り、琉球に漂着した朝鮮人が『李朝実録』の1462年の条(※23)に「那覇港には倉庫用の城があり、そこには酒蔵が並び、甕に入った酒で満ちていて、一年酒庫、二年酒庫、三年酒庫に分けられていた。」と記して居て、仕次をし乍ら3年寝かして居るのです(△17のp5)。
話を初めに戻し”通振る”人が増えたので古酒(クース)に”在らぬ価値”を付与する為に1本1万~数万円(1升)もするのも在る様です。しかしねえ、いくら古酒と言っても精々10~20%旨く成る訳で、1本数万円の値段を付けたからと言って泡盛がブランデーに化ける訳では無く、泡盛は何処迄行っても泡盛なのだ、という事をお忘れ無き様に。私はそんな高い泡盛は飲みません!、そんな高いなら最初からブランデーを飲みます、ワッハッハッハ!!
泡盛の良い所は安く飲める、特に沖縄では。そして十分酔える、ということです。これは泡盛に限らず、九州地方に広がって居る焼酎文化にも言えることです。因みに、私が若い頃は焼酎は背広ネクタイ組は飲みませんでした、焼酎飲むのは現場労働者と決まって居ましたよ。沖縄の人は泡盛を飲みますが東京の人は”あの臭い焼酎”飲みやがって、という感じでした。私は1日1合と決めてますが泡盛は1合で十分酔えます。そんな恰好付けで古酒なんかに拘泥りません。
最後に沖縄の人に一言苦言を。泡盛は水割りでは無くオン・ザ・ロックかストレートで飲んで欲しいですな(△17のp3)。これは私の酒を飲む哲学 -つまり拘泥り- ですが強い酒にはそれなりの存在理由が在って、私は決して水割りは飲みません(←付き合いで飲む場合は在りますが)。今の沖縄の人は殆ど水割りを飲んで居ますね、帰りに車を運転するからでしょうかねえ。あっ、これは口が滑りましたな、シーッ!
私は体が弱く成ってオン・ザ・ロックかストレートを受け付けなく成ったら泡盛を止めます。しかし酒は止めませんよ、未だビールが在りますから、ブワッハッハッハ!!
(1)女性上位は東南アジアに共通の文化
女性上位と言っても、私は別に体位のことを言ってる訳では有りません。冊封使の夏子陽は『使琉球録』巻下の琉球録撮要補遺「国俗」に於いて、「琉球の人は、つましくはあるが、いそしむことはなく、貧しくはあるが、盗みをしない。素朴であるが、けじめはある。...<中略>...女は機織にはげむが、男は反対に何もせずに食わしてもらっている。耕作には糞を用いない。...<中略>...民家は草葺きで、官屋は瓦葺きである。...<中略>...山には、蛇は多いが、虎はいない。」と在ります(△18のp266~267)。『使琉球録』は良く引用されますが、それは琉球が薩摩の島津氏に征服される(=1609(慶長14)年)3年前の記録であること、又事実上明朝最後の記録だからです(△18のp1)。万暦34(和暦では慶長11=1606)年12月に夏子陽が書いた「使琉球録序」が付いて居ます(△18のp9~11)。
それにしても沖縄では女性が良く働きます。第一牧志公設市場の在るアーケードに一歩入ってご覧なさい、女性が目立ちます。又、沖縄では宗教が女性中心です(→後で又出て来ます)。御嶽(ウタキ)(※24)とか聞得大君(きこえおおきみ)(※25)とかノロ(※25-1)とかユタ(※25-2)とか、男子禁制の所も在ります。辻も「女性のみに依り管理運営された」由緒在る遊郭でした(△19のp12)。歴史的には琉球王国時代の1672年に公娼街として公認後栄えて来ました(△19-1のp138)が、沖縄戦で焼け戦後は所謂”風俗街”に成りました。
中国雲南省では女性が体の何倍もある作物を背負って居るのに、男はそれを見乍ら水煙草を吸っている光景を良く見掛けましたが、中国南部・東南アジアなどでは男は何もせず女性が良く働くのは確かです。流石に那覇では女の人が頭に物を載せて運搬することは今は離島でも無くなりましたが。
私は沖縄は”半分東南アジア”と思って居ますが、「女は機織にはげむが、男は反対に何もせずに食わしてもらっている。」と露骨に書かれては、どうしようも無いですな。確かに男は大人しい人が多いですね、毛むくじゃらにも拘わらず。まぁ、嚊天下(かかあでんか)ですね。それ故に女性上位を体位と理解されても私は一向に構いません、ムッフッホッハハハ!!
(2)沖縄を理解するには女性史から - 伊波普猷と女性史
私はもう何年の前から、もし沖縄に来る事が在ったら伊波普猷と女性史(※19)を遣ろうと思ってました。但し、来る事が無かったら遣らないと決めてました。前節でも述べましたが沖縄という所は女性が中心で、女性史の持つ比重が内地のそれとは比較に成らない程重みが有ります。それで2013年から沖縄に来て居るので伊波普猷と女性史を遣ることにしました。これは避けて通ることは私にとって出来ないのです。もう基本的文献は2013年に概略目を通しました(△20~△20-3)、伊波普猷の膨大な論文は未だこれからですが。
では何故「女性史」で無く「伊波普猷と女性史」なのか?、と言われればその方が面白いと感じて居るからです。私は伊波普猷に対しては次の諸点から批判的に成らざるを得ません。伊波普猷は「沖縄学の父」として言われて久しいですが、後の者たちが”普猷を奉り上げる”傾向が有り、惹いてはそれが沖縄学の停滞を招いて居る様に思われます。
伊波普猷という人間は色々と内的矛盾 -特に女性に関する矛盾- を抱えた人間なのです。例えば父普済 -父の祖先は中国からの渡来人- の女狂いのため宗教に走った母マツルに教育された事、母の選んだ無学な女性マウシと学生結婚しますが長男熈(ひろし)と次男国男を儲けている事、1925年に妻子を棄て東京で冬子(△20)と新しい生活を始めた事 -当時普猷49歳、冬子28歳- 、「沖縄学の父」と言われ乍ら以後二度と故郷に帰らなかった事、河上肇(※26)の様な反体制の学者と親密な交流をした事、普猷は1947年に死去して居ますが浦添城趾に在る顕彰碑(←東恩納寛惇氏の名文が在る)は冬子の帰郷に依って1961年に建立され、それ迄普猷の墓は築地の仮の墓所に在った事、などなどです。
特に女性史との関連で言えば「無学な女性」と言われる正妻マウシについて調べてみたいですね。マウシは本当に何の不満も不平も無かったのか?、私はそんな事は無い!、と思ってますがマウシの声は何処からも聞こえて来ません(←誰もマウシ側から見てない)。冬子の場合も二人が一緒に上京したのでは無いのです、冬子の方が半年も先に上京して居るのです。無名の冬子(←彼女は所謂「×一」)が先に行って待つのに不安は無かったのか?、世間に名を成した普猷が本当に来て呉れるだろうか?、と思った筈です。普猷が約束通りに遣って来て東京で落ち合う場面はドラマティックでさえ有ります。もう一つは普猷の年譜ですが、冬子は前半全く登場せず浦添の顕彰碑の所で突然登場するのです。これは少し可笑しいと思いませんか?、確かに冬子が正式に入籍し伊波冬子に成るのは正妻マウシの死(1941年)から3年後の1944年の事です。しかし、1925年に冬子が上京する事は物凄く大事なポイントで私は当然年譜に反映させるべきとの考えですが、その様な年譜は皆無です。こういう所に”普猷を奉り上げる”人々を感じて仕舞います。
いっその事、「伊波普猷を廻る五人の女」(△20-1のp142~150)の話を芝居に仕立てにしたりして人間・伊波普猷をもう一度我々と同じ目線の所に取り戻す必要が有ると思います、これは面白い芝居に成ると思いますが。兎に角”普猷を奉り上げ”て居ては話に成りません。何れにせよ普猷の場合は女性史 -それも普猷自身の内面の- が鍵を握って居る、というのが私の考えです。そこの点を明確に捉えないと伊波普猷を廻る議論は全て”絵空事”の”綺麗事”、「沖縄学の父ですか?、じゃエライんだ」という安直な空論に終わって仕舞います。もっとどろどろした世界が在るのです、普猷には。
前出の日琉同祖論(※19-1)は、時の政府の「同化政策」に利用されたとか、迎合したとされ問題多き論です。これに対しはっきりと批判してるのは新川明氏(△20-4)位で、学者先生の論は歯切れが悪く結局何を言いたいのか良く解らない、話に成らないというのが正直な感想です。因みに新川氏の『新南島風土記』(△21)は中々面白い。日琉同祖論には余り捉われたく無く私は黒潮文化圏の方に興味が有ります。
東恩納氏の言う「沖縄を愛した為に憂えた」という普猷の「憂え」とは何だったのか?、上に述べた様な誰も遣らなかった伊波普猷論が出来そうな気がして来ました。しかし直ぐには遣りません。先ずは今迄の溜まっている分を出版して出して行く事が私の真っ先に遣ることですから。まぁ、ボチボチと...。
{この章は2014年3月14日に最終更新}
沖縄の人々は吉田松陰の『幽囚録』(※27、△22、△22-1)をご存知でしょうか?
前に何処かのページで一度紹介してますが、『幽囚録』は余り読まれて居ないので特に沖縄の人には是非読んで貰いたいと思って居ます。但しこの本は全集本の中でしか出てない様なので、『幽囚録』が入ってる全集本を買うか図書館を当たるしか無い様です。
『幽囚録』の一節には「今急に武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムチャツカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球(※1-1)に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸(ぜん)に進取の勢を示すべし。」と書かれて居るのです(△22のp54、△22-1のp199)。これは吉田松陰が長州の野山獄で記した獄中記で安政元(1854)年冬の自序 -処刑の5年前- が付されて居ます。松陰は師と仰ぐ佐久間象山(※27-1)にも密かに送って居ますが、「少壮鋭烈の気が前に出過ぎ反省すべきだ」と窘(たしな)められて居ます(△23のp4)。
この論理は”遅れて来た帝国主義者”(※28) -葡・西・蘭・英・米・露などが帝国主義の先輩格で当時は帝国主義が”流行り”の様相を呈して居ました- 以外の何物でも有りません。しかも、ここに書かれて居る事が、その後の日清戦争・日露戦争・太平洋戦争に於いて大日本帝国が取った植民地主義(※28-1、※28-2)の作戦そのものである事に驚く筈です。松陰の子分である草創期の伊藤博文・井上馨・山県有朋から始まり桂太郎・寺内正毅などを経て、戦後の岸信介・佐藤栄作、そして今の安倍総理と、何れも長州閥の政治家が深く関わって居ます。沖縄戦の悲劇は既に幕末に準備されて居たのだ、という事にもっと気が付くべきです。それに気が付かないで悲劇的な部分だけを取り上げて騒いでいるとすれば沖縄人は甘いと言われても仕方有りません。もう一段思想的に深化させて捉える必要が有る様に思います。
彼が養子に成った吉田家は山鹿流兵学(※27-2)の師範として代々毛利家に仕える家系で、彼が良く引用する『孫子』の兵法も15歳で萩の明倫館で講義して居ますので若干”頭でっかち”の感は否めませんが、しかし幕末のこの当時の男子は”こんなもの”でした。今の若者が当時と競べ大分幼稚に成って居るという事です。
【参考文献】△22-2で解説を担当して居る藤田省三氏は、この全集に於いて「渡辺崋山、高野長英、佐久間象山、横井小楠、橋本左内」が5人で1冊で在るのに対し「吉田松陰」は1人で1冊という出版者の岩波に「小首をかしげざるを得ない」と敢えて苦言を呈して居ます(△22-2のp597)。彼の論をもう少し見て行くと「松陰は思想家とは言い難い。...<中略>...「世界に対する徹底的な考察的態度」が――恐らく欠けていたのである。...<中略>...松陰は考察の人ではなく行動の人であり、構成の人ではなくて気概の人であり、全てのものについて距離を維持することに不得意であって状況の真只中に突入していくことを得意とした人であった。...<中略>...彼には「主著」なるものはない。」と言って居て(△22-2のp598)、全く同感です。これと同様の批判は作家の井出孫六が前掲書(△23のp5~6)や「『幽囚録』と満蒙開拓計画」という小論に於いて行って居ます(△23-1のp19~20)。
そして配分のアンバランスは後年吉田松陰が持ち上げられ、松陰神社が出来て松陰が神格化されたりと色々な事と絡んで居ますが、何時しか問題の本質から遊離して行き表面的レベルでは問題の摩り替えが行われ吉田松陰の”虚像”が一人歩きして現在に至って居ると考えます。
{この章は2014年4月10日に最終更新}
私が昆虫が好きで写真を撮ってる事を知ってる方が何人か居られると思います。しかし私の昆虫の趣味には断絶が有ります。初めに遣ったのは物心が付いた時から15歳位迄で、この時は昆虫採集 -昆虫を取って殺して展翅して標本を作る事- をして居ました。その後「食う為に働く」行為をしてる間は封印し、1993年秋に働くのを止めたので、背広を脱ぎ時計を外し夏は半ズボンを穿いて、やはり「食う為に働く」間中断していた自転車を乗り回し彼方此方を駆け巡りました。楽しい思い出が山程有ります。
そして1998年頃からデジカメを買い”昆虫撮集”を始めました。昆虫撮集という聞き慣れない言葉は私の造語で、要するに昆虫には一切手を触れず昆虫の写真を撮ってインターネット上のHP(ホームページ)でデータを公開する方式です。虫を殺す昆虫採集はもう遣らないのです。尤もインターネットを始めたのは2002年11月20日ですから、それ迄はカメラの練習ですね。それと観察です、この観察が随分役に立って居ます。それで2003年からインターネット上でデータを公開し乍ら虫の数を増やして行ったのです。大阪の昆虫は殆ど撮り尽くしましたが、大阪での「昆虫撮集」の成果は目下大改造中です!
それで沖縄に来て南方産の種のみのHP(ホームページ)を作って居ますので▼下から▼ご覧下さい。「昆虫撮集」の造語の説明はこのページからのコピーです。
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)
実は沖縄での「昆虫撮集」の事は沖縄に来て思い付いた訳では無く「沖縄に行こう」と大阪で決心した時から概略は考えて居ましたよ、だって暇ですから!!
ところが出版事業を始めてから忙しいのです。何故か?、と言うと私の場合殆どHP(ホームページ)から出す訳ですが中には完成して無いものが有って、そういう不完全なものを完成させ乍ら編集するので忙しく成るのです。現にこのページなど殆ど出版が決まってから新規作成して居ます。もう時間との競争です!
今年は午年(うまどし)です。本来なら12年に1度この午年にイザイホー(※29)という大変由緒在る神事が秋に久高島で行われる筈ですが、もう1978年以来行われて居らず(←つまり1990、2002年は中止)、今年2014年はどう成ることやら...。何しろ人口が200人強という物凄く過疎なのです。久高島は「神の島」と呼ばれ琉球王国以来最高の聖域とされイザイホーは神女洗礼の儀式です。ニライカナイ(※29-1)からの来訪神を迎え新しい神女をその神々に認証して貰い島から去る来訪神を送るのですが、これも女性中心の神事です。
我が国最西端、そしてアヤミハビル(与那国蚕)の与那国島も人口1700人位でやはり過疎です。間も無く自衛隊の基地が出来ます。
そして竹富島。八重山諸島の小島で島全体が西表石垣国立公園に指定されている事、日本最大規模のサンゴ礁に囲まれている事など在りますが、やはり人口350人位で過疎の島です。竹富島憲章では「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」の島を守るための4原則を掲げて居ますが、それよりも現在は教科書問題で揺れて居ます。たった一つの島で米軍基地問題の記述が少ないと押し付けられた教科書を使わずに、独自に採択した教科書を使う事に私は敬意を表します。
しかし、何処も過疎の為に状況は厳しいと言わざるを得ません。中学校を卒業したら島を出なければ進学出来ないので若い人は故郷を捨てて出て行かねば為らないのです。久高島などは島に一つしか無い小中学校が廃校の危機に見舞われた事も在ったとか。つまり過疎化は同時に高齢化を引き起こして居ます。そう言っては何ですが、久高島の高齢化した神女たちは宛(さなが)ら山姥(※30)を連想して仕舞います。
という事で、私が沖縄に来てから1周年を過ぎました。1周年の時は友達が訪ねて呉れました、嬉しいですね。私は既にウチナーンチュ(沖縄の人)に成って1年を経過しました。そして右が私の部屋です(2枚の合成写真)。
これで大阪から沖縄に来るに際し思っている事を全て書きました[と思います]。特に沖縄に来てから[6]、[7]の章では沖縄の人には若干耳の痛い事を述べたかも知れませんね、沖縄の皆さんは迷惑そうな顔をしてますが。これが私の正直な気持ちです。それ故に私は沖縄に来てもエトランジェ(etranger[仏]=異邦人)(※31)を意識せざるを得ないのです!!
このページは出版する事にし、その為にシリーズ化する事にしました。シリーズ名は[めんそーれ沖縄!]です。当ページの方が後に作りましたが、時系列的には先なのでシリーズNo.は#1です。#2では「那覇空港を遊ぶ」が書かれて居ます。そして本のタイトルも『めんそーれ沖縄!』に決めました。皆さん、めんそーれ沖縄(=いらっしゃい沖縄へ)!!
[めんそーれ沖縄!]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
{この章は当ページを2014年3月14日に出版するに際しシリーズ化する事とし更新しました。そして本のタイトルを決めたのは2014年4月14日です。}
【脚注】
※1:沖縄(おきなわ)は、[1].日本最南端の県。沖縄本島を始め琉球諸島を含む。県庁所在地は那覇市。面積2265㎢。人口129万5千。全10市。太平洋戦争の激戦地と成り、敗戦の結果、アメリカが施政権を行使。1952年4月、自治体琉球政府が置かれたが、その施政の範囲には制限が在った。72年5月15日、米軍基地の存続など問題を残し施政権は返還。→琉球。
[2].沖縄本島中部の市。1974年、コザ市と美里村が合併して発足。駐留米軍の嘉手納空軍基地がある。人口11万7千。
※1-1:琉球(りゅうきゅう)は、
[1].沖縄(琉球諸島地域)の別称。古くは「阿児奈波」又は「南島」と呼んだ。15世紀以降日本・中国に両属の形を取り、1609年に薩摩の島津氏に征服され、明治維新後琉球藩を置き、1879年(明治12)沖縄県と成る。→流求。
[2].琉球表(おもて)の略。
[3].琉球紬(つむぎ)の略。
※1-2:流求(りゅうきゅう)は、隋書などに見える、東海中の一国。今の台湾とする説と、琉球とする説とが在る。
※2:道元(どうげん)は、鎌倉初期の禅僧(1200~1253)。日本曹洞宗の開祖。京都の人。内大臣久我(土御門)通親の子。号は希玄。比叡山で学び、後に栄西の法嗣に師事。1223年(貞応2)入宋、如浄より法を受け、27年(安貞1)帰朝後、京都深草の興聖寺を開いて法を弘めた。44年(寛元2)越前に曹洞禅の専修道場永平寺を開く。著「正法眼蔵」「永平広録」など。諡号(しごう)は承陽大師。
※3:典座(てんぞ/てんざ)とは、(ゾは唐音)禅寺で、食事などの事を司る役僧。六知事の一。
※4:人語(じんご)とは、[1].人間の言語。日葡辞書「ワウム(鸚鵡)ジンゴヲマナブニニタリ」。
[2].人の話し声。「山中―を聞かず」。
※5:蛙(かわず)は、(古くはカハズ)[1].カジカガエル。万葉集10「―鳴くなり秋といはむとや」。
[2].(平安初期頃から混同して)カエルのこと。季語は春。「古池や―とびこむ水の音」(芭蕉)。
※5-1:河鹿蛙/金襖子(かじかがえる/カジカガエル、Japanese riverfrog)は、カエルの一種。両生綱カエル目アオガエル科。体は緑色を帯びた褐色で、暗褐色の斑紋が在る。指先に吸盤を持ち、谷川の岩間に棲む。体長は雄が3~4cm、雌が5~7cm。日本特産で本州/四国/九州に分布。岡山県湯原町/山口県美川町の生息地は天然記念物。昔は雄は美声を発するので飼養された。カジカ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5-2:河鹿(かじか/カジカ)は、カジカガエルに同じ。季語は夏。
※6:テレパシー(telepathy)は、言語その他の感覚的手段に依らずに、或る人の精神から他の人の精神に思考・観念・感覚などの印象が伝達されること。遠感現象。精神感応。→超心理学。
※6-1:超心理学(ちょうしんりがく、parapsychology)とは、自然法則に合致しないと思われる超日常的な精神現象を対象とする心理学の一分野。テレパシー、又は所謂、第六感/念力/未来の現象の予知などを扱う。→心霊現象。
※6-2:遠隔操作(えんかくそうさ、remote control)は、離れた所から機械や装置の運転・制御を行うこと。遠隔制御。リモート・コントロール。リモコン。
※7:シーサーは、(獅子さんの意)魔除けの一種。沖縄で、瓦屋根に取り付ける素朴な焼物の唐獅子像。
※7-1:石敢當/石敢当(せきかんとう/いしがんとう)とは、沖縄や九州南部で、道路の突き当たりや門・橋などに、「石敢當(当)」の3字を刻して建てて在る石碑。中国伝来の民俗で、悪魔除けの一種。
※8:琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)は、周煌の著。1756(乾隆21)年に冊封副使として来琉し約7ヶ月の滞在経験を纏めた地誌で、翌年に上呈される。後に日本に伝わり、1831(天保2)年と1832(同3)年に和刻本が刊行され、北斎の「琉球八景」(1832)の元絵と成った。誤記が多いのが難点。
※9:狛犬(こまいぬ)とは、(高麗犬の意)神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の獅子に似た獣の像。魔除けの為と言い、昔は宮中の門扉・几帳(きちょう)・屏風などの動揺するのを止める為にも用いた。こま。
※9-1:神使(しんし/かみのつかい)とは、[1].神の使い。多くはその神に縁故の有る鳥獣・虫魚を言う。使わしめ。神社に付属して、その使と成る例としては、天神の牛/日吉の猿/稲荷の狐/八幡の鳩/春日の鹿/熊野の八咫烏/大黒天の鼠の類。
[2].(かみのつかい)神社に遣わされる勅使・奉幣使。夫木和歌抄27「たれもみなそのうまやどに馬はあれど―にかちよりぞ行く」。
※10:阿吽/阿呍(あうん)とは、(梵語ahum、「阿」は口を開いて発する音声で字音の初め、「吽」は口を閉じる時の音声で字音の終り。万物の初めと終りを象徴)
[1].alpha and omega。最初と最後。密教では、「阿」を万物の根源、「吽」を一切が帰着する智徳とする。
[2].寺院山門の仁王や狛犬などの相。一は口を開き、他は口を閉じる。
[3].inhalation and exhalation。呼気と吸気。
※11:与那国蚕(よなぐにさん/ヨナグニサン、atlas moth)は、チョウ目ヤママユガ科のガ(蛾)。開張は20~25cmで、日本最大。6月と8月に羽化する。翅は赤褐色で、黒褐・黄色などの文様が在る。前翅の先端部は伸びて側方へ曲る。幼虫も大形で、モクタチバナ/アカギなどを食う。インド・中国南部・台湾に掛け広く分布、日本では石垣島・西表島・与那国島に局産。天然記念物。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
補足すると、ヨナグニサンは翅の褄(つま)の部分に1対の蛇の顔の様な紋様が有ります。
※11-1:野蚕(やさん)とは、カイコガ(蚕蛾)以外に繭(まゆ)の繊維を糸に利用出来る種で、絹以外の糸を採り出す。主にヤママユガ科を指す。実用化してるのはサクサンとヤママユ。←→家蚕。
※11-2:天蚕(てんさん)とは、ヤママユの別称。
※11-3:山繭/天蚕(やままゆ/ヤママユ、Japanese oak silk-moth)は、ヤママユガ科のガ(蛾)。黄褐色乃至暗紫褐色、翅に眼状紋と黒褐色の条が在る。大形で、開張約13cm。幼虫は淡緑色で、体長約8cm。クヌギ/ナラなどの葉を食い、黄緑色で楕円形の繭を作る。日本各地の山地に分布。ヤママユガ。天蚕(てんさん)。山蚕(やまこ)。季語は夏。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11-4:柞蚕(さくさん/サクサン、Chinese oak silkworm moth)は、ヤママユガ科の大形のガ。開張約12cm。体と翅は黄褐色で眼状の紋が在る。幼虫は緑色で、ナラ/クヌギ/カシワ/クリなどの葉を食べて成長、ヤママユに似て褐色を帯びた繭を作り、繭紬(けんちゅう)を作る。原産地は中国。中国では蛹を食用とする地方が在る。日本では1877年頃輸入され、長野県・岐阜県で飼育。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11-5:繭紬・絹紬(けんちゅう)は、経緯(たてよこ)に柞蚕糸を用いて織った織物。淡茶色を帯びて節が在る。中国山東省から多く産出。
※11-6:神樹蚕/樗蚕(しんじゅさん/シンジュサン、ailanthus silkworm moth)は、ヤママユガ科のガ。黄褐色。大形で、開張約13cm。幼虫はシンジュ/ニガキ/キハダなどの葉を食う。繭は紡錘状で両端が尖り、繰糸は困難。日本全土から朝鮮半島・東南アジアに分布。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11-7:樟蚕(くすさん/クスサン)は、ヤママユガ科のガ。大形で、開張10~12cmで、黄褐色、或いは紫褐色、各翅に一つずつの眼状紋と数本の波状線が在る。秋に発生。繭は網目状の俵形で、クリなどの小枝に付く。幼虫はクリケムシ/シラガタロウ(白髪太郎)などと呼ばれ、クリの大害虫。日本全土に分布。幼虫から「てぐす」(多くは釣糸の原料)を採る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12:蚕蛾(かいこが/カイコガ、silkworm moth)は、カイコガ科のガ(蛾)。体も翅も乳白色、翅に淡褐色の斑紋が有る。開張約4cm。口は無く、食物を摂れないので、交尾産卵後約1週間で死ぬ。産卵数約500個。飛べない。幼虫は蚕で、絹糸が採れる。カイコノチョウ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12-1:蚕(かいこ、silkworm)は、(「飼い蚕(こ)」の意)チョウ目(鱗翅類)カイコガの幼虫。孵化した時は黒く見える毛蚕(けご)(蟻蚕(ぎさん)とも言う)が、第1回の脱皮後灰色と成る。多くは暗色の斑紋を具え、13個の環節が在る。通常4回の眠を経て、脱皮して成長し、絹糸を吐いて繭(まゆ)を作り、中で脱皮して蛹(さなぎ)と成る。羽化したカイコガは、繭を破って外に出て交尾・産卵後、死ぬ。繭から絹糸 -キヌの原料- を取る。家蚕(かさん)。御蚕(おこ)。季語は春 。堤中納言物語「きぬとて人々の著るも―のまだ羽つかぬにし出だし」。
※12-2:家蚕(かさん)とは、蚕(カイコガの幼虫)。野蚕に対して言う。←→野蚕。
※13:波布・飯匙倩(はぶ/ハブ、habu pit viper)は、爬虫綱トカゲ目クサリヘビ科の毒ヘビ。沖縄諸島・奄美諸島に分布。全長2mに達し、頭は略三角形、飯を盛る匙の様でマムシに似るが、頭部背面の鱗は小さい。小動物を捕食。夜行性。卵生で親は抱卵して敵から守る。樹上、又は草陰に潜み、人畜を咬む。攻撃性が強く、猛毒を持つ。奄美・沖縄諸島には、太く短い別種ヒメハブも分布。季語は夏。椿説弓張月残編「蝮蝎の殊に大きなるものを―と唱ふ」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※14:豆鹿(まめじか、mouse deer)は、ウシ目マメジカ科の哺乳類の総称。マメジカ(東南アジア産)、ミズマメジカ(西アフリカ産)の2属4種。有蹄類中最小で体長50~80cm、肩高20~40cm。角は無く、雄は上顎の犬歯が発達し、牙と成る。毛色は一般に茶、種に依り白の縦線や白斑が有る。熱帯雨林に棲み、夜行性。西アフリカ、東南アジアに分布。ネズミジカ(鼠鹿)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15:クロコダイル(crocodile)は、クロコダイル科のワニの総称。吻端が尖り、頭が長い三角形で、口を閉じても、下顎の前から4番目の歯が露出する。熱帯に棲み、水辺に近付く人や獣を襲う種類が在る。ナイルワニ/イリエワニ(ウミワニ)/アメリカワニ/コビトワニ/マレーガビアル/ヌマワニ(インドワニ)など。体長2~7m。
※16:黒潮(くろしお、Japan Current)は、日本列島に沿って流れる暖流。藍黒色で、幅は100km、流速は毎秒1.5m程度。フィリピン群島の東岸から、台湾の東側、南西諸島の西側、日本列島の南岸を流れ、犬吠埼沖に至って陸から離れ、太平洋の中央部に向かい、亜熱帯環流の一部を形成する。太平洋最大の海流。日本海流。黒瀬川。←→親潮。
※17:ペロッグ(pelog[インドネシア])とは、インドネシア音楽の重要な音階。半音を含む五音音階で3種類在り、基本の形は琉球音階に似る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※18:ジョン万次郎(ジョンまんじろう)は、中浜万次郎の異名。
※18-1:中浜万次郎(なかはままんじろう)は、幕末・明治の語学者(1827~1898)。土佐国の漁夫の次男。1841年(天保12)出漁中に漂流、アメリカ船に救われ米国で教育を受け、51年(嘉永4)帰国。土佐藩、次いで幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当る。後、開成学校教授。ジョン万次郎。
※19:伊波普猷(いはふゆう)は言語学者・民俗学者(1876~1947)。沖縄生れ。東大卒。琉球の言語・歴史・民俗を研究。編著「南島方言史攷」「校訂おもろさうし」など。後に「沖縄学の父」と呼ばれる。
※19-1:日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)とは、日本人と琉球人(=沖縄人)の人種的・文化的同一性を学術的に立証することに依り民族的一体性を強調する理論。歴史的には17世紀に羽地朝秀(唐名:向象賢)が唱えた。近代の伊波普猷の論は政治権力に利用された、との見方も在る。
※19-2:羽地朝秀(はねじちょうしゅう)は、琉球国の摂政(1617~1675)。唐名は向象賢(しょうしょうけん)。琉球史「中山世鑑」を編纂。又、財政の立て直しに成功、その令達集を後世「羽地仕置」と言う。
※20:泡盛(あわもり)は、沖縄特産の焼酎。多くタイ産の砕米を原料とし、黒麹菌で麹にし -その際に多量のクエン酸を生成- 、これに水と酵母とを加え発酵させ蒸留する。長年熟成したものを沖縄では古酒(クース)と言い芳醇。アルコール30~40%を含む。
※21:クエン酸/枸櫞酸(くえんさん、citric acid)は、柑橘類の果実中に遊離して存する他、生物界に広く分布する水酸基を含むカルボン酸。又、細菌などの発酵生成物。水に溶け易い結晶で、爽快な酸味を持ち、清涼飲料水の酸味料や媒染剤などに用いる。そのナトリウム塩は血液凝固阻止剤。
※21-1:トリカルボン酸回路(―さんかいろ、tricarboxylic acid cycle)とは、生物の呼吸に於いて最も主要と考えられる代謝経路。糖質・脂質・アミノ酸などの炭素骨格は、最終的にはこの経路を経て完全に酸化・分解され、生体のエネルギー源と成る。発見者のH.A.クレブスは1953年ノーベル生理・医学賞受賞。クレブス回路。クエン酸回路。TCA回路。
※22:ミトコンドリア(mitochondria)とは、細胞小器官の一。真核生物の細胞質中に多数分散して存在し、内部にクリスタと呼ぶ棚状の構造が在り、独自のDNAを持ち、自己増殖する。呼吸に関係する一連の酵素を含み、細胞のエネルギー生産の場。独立した好気性細菌が進化の過程で別の細胞に取り込まれ、共生したものという説が有る。糸粒体。
※23:李朝実録(りちょうじつろく)は、李朝の太祖から25代哲宗に至る約5百年間の編年体記録。1706巻。李朝史研究の根本史料。朝鮮王朝実録。
※24:御嶽・御岳(うたき、おたき)とは、沖縄の村々に在る聖地で、多くは森。石やクバ・ガジュマルの木などが神聖視され、最も神聖な場所とされ、祭の多くはここで催される。女性が祭を司り、王国時代は男子禁制だった。
※25:聞得大君(「きこえおおきみ」又は「きこえおおぎみ」)は、琉球王国時代の政治的支配者・国王に対応する宗教的最高位の神女。沖縄には現在でもノロと呼ばれる神女が居る。
※25-1:ノロ(祝女・巫女)とは、沖縄で部落の神事を司る世襲の女性司祭者。特に未婚の者が選ばれる。
※25-2:ゆた/ユタは、沖縄で、口寄せをする巫(かんなぎ)。男にも女にも言う。
※26:河上肇(かわかみはじめ)は、経済学者(1879~1946)。山口県生れ。東大卒。京大教授。人道主義的立場から貧困問題の解決に関心を寄せ、後マルクス主義経済学の研究・啓蒙に専心、1928年大学を追われ、労働農民党・日本共産党などの運動に従事。33~37年入獄。著「資本論入門」「貧乏物語」「自叙伝」など。
※27:吉田松陰(よしだしょういん)は、幕末の志士(1830~1859)。長州藩士。杉百合之助の次男。名は矩方(のりかた)、字は義卿、通称、寅次郎。別号、二十一回猛士。叔父吉田大助の養子と成り、幼時から儒学・兵学を学び、19歳で山鹿流兵学の師範となった。次いで江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用い、1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。後、萩の松下村塾(叔父の玉木文之進が開いた)で子弟 -久坂玄瑞・高杉晋作・前原一誠・山県有朋・伊藤博文など- を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死。東京の墓所には松陰神社が立つ。著「西遊日記」「講孟余話」「留魂録」「幽囚録」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※27-1:佐久間象山(さくましょうざん)は、(ショウザンは一説にゾウザンとも)幕末の思想家・兵学者(1811~1864)。信州松代藩士。名は啓(ひらき)。通称、修理。学を佐藤一斎に受け、又、蘭学・砲術に通じ、海防の急務を主張。1854年(安政1)門人吉田松陰の密航の事に坐し、幽閉され、64年(元治1)幕命に依って上洛、攘夷派の浪士に暗殺された。著「海防八策」「省諐録(せいけんろく)」など。
※27-2:山鹿流(やまがりゅう)は、兵学の一派。北条流を学んだ山鹿素行が独立してからのもの。「―の陣太鼓」。
※28:帝国主義(ていこくしゅぎ、imperialism)とは、[1].広義には、軍事上・経済上、他国又は後進の民族を征服して大国家を建設しようとする傾向。
[2].狭義には、19世紀末に始まった資本主義の独占段階。レーニンの規定に拠れば、独占体と金融寡頭制の形成、資本輸出、国際カルテルに依る世界の分割、列強に依る領土分割を特徴とする政治的・経済的な侵略主義。
※28-1:植民地(しょくみんち、colony)とは、或る国の海外移住者に依って、経済的に開発された地域。本国 -しばしば帝国主義[列強]と呼ばれる国々- にとって原料供給地・商品市場・資本輸出地・低賃金労働力(その究極は奴隷)の供給地を成し、政治上も主権を有せす宗主国に直接統治される完全な属領。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※28-2:植民地主義(しょくみんち、colonialism)とは、一国の対外政策を植民地の獲得に求める思想。大航海時代~20世紀前半に列強国の人口爆発や産業革命が起こり、領土拡張や原材料確保などの為に、[帝国主義]列強国に侵略・支配されたが、現地の反植民地闘争・民族解放運動の高まりに因り衰退。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※29:いざいほう/イザイホウ/イザイホーとは、沖縄本島の南東方に在る久高島で、12年に1度、午年の旧暦11月15日から5日間行われる神事。30歳から70歳迄の全女性が参加。神女洗礼の儀式と解される。
※29-1:ニライカナイとは、奄美・沖縄地方で、海の彼方に在ると信じられて居る楽土。そこから年毎に神 -赤また・黒また・まゆんがなし(真世がなし)など- が訪れ、豊穣を齎すと考えられて居る。
※30:山姥(やまうば/やまんば)とは、[1].深山に住み、怪力を発揮したりすると考えられて居る伝説的な山の女。山女。鬼女。やまんば。
[2].やまんば(ヤマウバの音便)。能や歌舞伎の演目の一。
※31:エトランゼ/エトランジェ(etranger[仏])とは、見知らぬ人。外国からの旅行者。異邦人。外国人。
(以上出典は主に広辞苑)
【参考文献】
△1:『富樫穎先生追悼文集 -『パーリャン小学校の思い出』別冊-』(厉仁玉・武田淳・河合民子・西潟範子・エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△1-1:『エルニーニョの鵲森宮と愉快な仲間たち ~神社・磐座・岩刻文字・温泉・酒など~』(エルニーニョ深沢著、美しい日本文化研究所)。
△1-2:『鵺(ぬえ)は飛び散りエイ躍る ~極々マイナーな伝説の旅~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2:『往生要集(上・下)』(源信著、石田瑞麿訳注、岩波文庫)。
△3:『東海道中膝栗毛(上・下)』(十返舎一九作、麻生磯次校注、岩波文庫)。主人公の弥次さん・喜多さんは有名で、「弥次喜多道中記」と俗称されます。
△4:『典座教訓・赴粥飯法』(道元著、中村璋八・石川力山・中村信幸訳注、講談社学術文庫)。
△5:『カラーブックス 茶道入門』(井口海仙著、保育社)。
△6:『能・狂言図典』(小林保治・森田拾史郎編、小学館)。
△7:『山渓ハンディ図鑑7 日本の野鳥』(叶内拓哉・安部直哉・上田秀雄著、山と渓谷社)。
△8:『石敢當』(小玉正任著、琉球新報社)。
△9:『周煌 琉球国志略』(周煌著、原田禹雄訳注、榕樹書林)。
△10:「自然素材寝具の通信販売 天然屋(株式会社 山繊)」公式サイトより「シルクのお話」。
△11:『世界神話伝説大系15 インドネシア・ベトナムの神話伝説』(松村武雄編、名著普及会)。
△12:『フィリピンの民話』(マリア・D・コロネル編、竹内一郎訳、青土社)。
△13:「股旅の漂着物のリスト2」のサイト(股旅作)。
△14:『異国漂流物語』(荒川秀俊著、現代教養文庫)。
△15:「泡盛百科(沖縄県酒造組合)」の公式サイトより「黒麹の源流」。
△16:『生物にとって時間とは何か』(池田清彦著、角川ソフィア文庫)。
△17:『泡盛の考古学』(小田静夫著、勉誠新書)。
△18:『夏子陽 使琉球録』(夏子陽著、原田禹雄訳注、榕樹書林)。
△19:『沖縄の遊女について -宗教社会学論集-』(阿部達彦著、近代文芸社)。
△19-1:『沖縄女性史』(宮城栄昌著、沖縄タイムス社)。伊波普猷にも同名の著作が在るが、伊波普猷を対象にするので伊波普猷以外の本にしました。
△20:『白菊の花(伊波冬子遺稿集) 忍冬その詩・短歌・随想』(伊波冬子著、伊波冬子遺稿集刊行会、若夏社)。
△20-1:『素顔の伊波普猷』(比嘉美津子著、ニライ社)。著者は伊波冬子の従妹。
△20-2:『人間・普猷 思索の流れと啓蒙家の夢』(中根学著、沖縄タイムス社)。
△20-3:『時代を彩った女たち 近代沖縄女性史』(外間米子監修、琉球新報社編、ニライ社)。
△20-4:「伊波普猷と「同化」の暴力 -1910年前後の思想を考える-」(九州国際大学(通巻第47号)の冊子、三笘利幸)。
△21:『新南島風土記』(新川明著、大和書房)。
△22:『吉田松陰全集 第二巻』(山口県教育会編、大和書房)。原文。「幽囚録」はp37~91。この中の特にp54に書かれて居る内容は、その後の日清戦争・日露戦争・太平洋戦争に於いて大日本帝国が期せずして取った作戦そのものである。
△22-1:『講孟余話ほか(吉田松陰)』(松本三之介・田中彰・松永昌三著、中央公論新社)。現代語訳。「幽囚録」はp175~234。
△22-2:『吉田松陰 日本思想大系54』(吉田常吉・藤田省三・西田太一郎校注、岩波書店)。
△23:『石橋湛山と小国主義』(井出孫六著、岩波ブックレット No.510)。
△23-1『近代日本と「偽満州国」』(日本社会文学会編、不二出版)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):南西諸島と沖縄の地図▼
地図-日本・南西諸島と沖縄
(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):黒潮が巡る
インドネシアや東南アジア諸国の地図▼
地図-東南アジア(Map of Southeast Asia, -Multinational-)
@参照ページ(Reference-Page):昆虫の分類学と特徴▼
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
@参照ページ(Reference-Page):伊波普猷について▼
物外館の謂れとママの素顔(Reason of 'Butsugaikan' and Mama's secret)
@補完ページ(Complementary):最初に私の脳出血を書いたページで
且つ脳出血後の最初の新規ページで、
ハッカチョウ(八哥鳥)の初出記事▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
@補完ページ(Complementary):”甘ったれた老人”は必読▼
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)
@補完ページ(Complementary):2013年3月6日の最終回代替開催の
<ベートーヴェンが最後に希求した単純なメロディー>と壮行会▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')
@補完ページ(Complementary):シーサーや狛犬について▼
「浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)」
@補完ページ(Complementary):黒潮文化圏について▼
2011年・年頭所感-今年は大人しく
(Behave yourself and keep quiet, 2011 beginning)
@補完ページ(Complementary):南方産の種の「昆虫撮集」▼
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)
富樫先生の思い出▼
パーリャン村の小学生を支援する会
(Support team for Paliang's schoolchildren)
パーリャンに小学校をつくる会
(Construct team for Paliang's primary school)
茶の作法について▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
種が”人為的”に日本に定着化している例(アカボシゴマダラ)▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
懐かしい今は無き「前衛」▼
在りし日の前衛倶楽部(Zen'ei Club of the past)
神使:稲荷神社の狐▼
松浦一酒造とカッパのミイラ(Matsuura-ichi brewing and Kappa's mummy)
神使:天満宮(天神社)の牛▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)
神使:大国主を祀る神社の鼠▼
2008年・年頭所感-鼠の話あれこれ
(Several Rat's topics, 2008 beginning)
柞蚕の蛹や串焼を売っている中国▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
辻について▼
元「物外館」ママの人生観(Former 'Butsugaikan' mama's life philosophy)
『幽囚録』の紹介▼
北斗七星は天の茎嚢だ!(Big Dipper is heaven's PENIS and SCROTUM)
萩の明倫館▼
2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)
山姥とは?▼
「妻」「野の花」(柳田国男の悲恋)-布佐
('A wife', 'Field flowers', (K.Y's tragic love), Fusa, Chiba)
沖縄に来ても私はやはりエトランジェ(異邦人)▼
鵲(かささぎ)の故郷を訪ねて(Magpie's hometown)
当サイトを立ち上げた2002年11月20日時点から
既に出版を意識していた▼
ようこそ【エルニーニョの世界】へ(Welcome to ElNino's world)