鵲(かささぎ)の故郷を訪ねて
(Magpie's hometown)

-- 2013.06.23 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2013.06.27 改訂

 ■はじめに - 「鳥樔の郷」の縁

 皆さん、鵲(かささぎ)(※1)という鳥をご存知ですか?
 ハトよりは大きくカラスよりは小さい白と黒の鳥で、黒の一部には青緑食の金属光沢が在ります。でも殆どの日本人は実際にこの鳥を目にした事は無く、又日常会話にも出て来ませんので”知らない事さえ知らない鳥”です。それもその筈、元々日本には居なかったのですから。『魏志倭人伝』は「その地には牛・馬・虎・豹・羊・なし」と記して、3世紀中葉の日本に鵲はいないと伝えて居ます(△1のp46)。
 現在では佐賀平野を中心に北九州に生息し、村落付近の高木の枝に巣を造ります。佐賀県では1923(大正12)年に天然記念物に、1965(昭和40)年に県鳥に指定されて居ます。
 鳴き声は嗄れ声で「キューキュー」「カシャカシャ」「ガシャガシャ」「ガチガチ」などと鳴きます(△2のp592)。変名が多く勝鴉勝ち烏(かちがらす)、因みに韓国ではカチ烏鵲(うじゃく)、中国で喜鵲(きじゃく)などは鳴き声からです。他に朝鮮烏高麗烏など。日本では朝鮮の鳥と思われて来ました。
 因みに【脚注】※1に「日本には17世紀に朝鮮半島から持ち込まれたとされる」と在りますが、これは豊臣秀吉の朝鮮出兵 -1592~1598年の文禄・慶長の役、韓国では壬申倭乱- の際に佐賀藩や柳川藩が持ち帰ったものとされて居るからです。朝鮮出兵の話を持ち出すなら、何やら九州の焼物、例えば有田焼・伊万里焼・薩摩焼などの陶工(※2~※2-3)の様で、「故郷忘じがたく候」です(△3のp7~p66)。

 右の写真は2009年3月28日鳥栖駅付近(佐賀県)で撮影したものです(△2のp592)。この日は3羽が暖かい春の日差しを浴びて寛いで居ました。私も日本で鵲を見たのは、ここ以外では甘木鉄道(福岡県西部と佐賀県をほんの少し走る超ローカルな三セク線)に乗っている時に見掛けたのみですので、佐賀県に行ったら見えるぞ、と言える程には多くは無いのです。
 この写真は【ブラボー、クラシック音楽!】の第55回例会(09年7月1日)『七夕、そして星の曲』のCDジャケットに使って居ますので、覚えている方も居られるかも知れませんね。

 でも古典 -文学や歴史- を遣る人ならば、もっと早くに鵲を媒介にした朝鮮との交流が在った事をご存知かも知れません(→後出)。ところで古典と言えば、鳥栖(※3、※3-1)というのは元々「鳥の塒(ねぐら)」という意味で、『肥前国風土記』は

  鳥樔(とす)の郷。(郡の東に在り。)昔者、軽嶋の明の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし誉田の天皇のみ世、鳥屋(とや)をこの郷に造り、雑(くさぐさ)の鳥を取り聚めて養ひ馴け、朝廷に貢上(たてまつ)りき。因りて鳥屋(とや)の郷と曰ふ。後の人改めて鳥樔(とす)の郷と曰ふ。

と伝えます(△4のp318~319)。つまり、応神天皇(=誉田の天皇)の時代に鳥屋(とや)を造り鳥を朝廷に献上し、それ故に「鳥屋(とや)の郷」、後に改め「鳥樔(とす)の郷」と称した、と書かれて居ます。
 フーム、鳥栖で鵲の写真が撮れたのも「鳥樔の郷」の縁かも知れませんね!!

 ■古典に登場する鵲

 鵲については、以前(=2002年)に簡単に書いて居ますので、先ずは▼そちら▼
  鵲森宮と「美しい日本文化研究所」(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)

から記事をコピーしましょう。

    ▼▼▼(コピー)
 ヨーロッパではその鳴き声から、不吉な鳥とされて居る鵲は中国、朝鮮、日本では目出度い知らせを告げる鳥とされ、旧暦7月7日の七夕の夜、牽牛星と織女星とを会わせる為鵲が両翼を広げ(或いは鵲の群れが翼を連ね)て天の川に橋を渡す(△5のp19~p21)と言い伝えられ、和歌などにも詠まれて居ます。その中で有名なのは何と言っても『新古今集』の中納言家持(=大伴家持、※4)の巻6-620の歌

  鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける

でしょう(△6のp111)。この歌は『小倉百人一首』の6番歌にも採用され、境内にはこの歌の歌碑が在りますので注意して見て下さい(家持は七夕の歌も詠んで居ます)。更に近松も『曾根崎心中』-「道行」の冒頭で「梅田の橋を鵲の橋(※5)と契りていつまでも、われとそなたは女夫星(めをとぼし)。」と語らせて居ます(△7のp43)。ここの石崎宮司とは03年に交野の七夕伝説の地や枚方の鵲橋を訪ねました。
  2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)

 『日本書紀』の推古5(597)年の段に「冬十一月の癸酉の朔(ついたち)甲午に、難波吉士磐金(なにわのきしのいわかね)を新羅に遣す。六年の夏四月に、難波吉士磐金、新羅より至りて、鵲二隻を献る。乃ち難波杜(なにわのもり)に養はしむ。因りて枝に巣ひて産めり。」と在り(△8のp86~88)、この「難波杜」が東生郡森村の森神祠、現在の森之宮神社という訳で、これが当社が「鵲」の名を冠する根拠です。付近からは縄文の森ノ宮遺跡も発掘され、ここは古代から開拓が進んで居た地域なのです。
 尚、吉士氏(又は吉師・吉志)(※6)は外交に携わって居た新羅系渡来氏族(※6-1、※6-2)で、難波吉士は今の大阪市西成区岸里に住んで居ました。
    ▲▲▲

 つまり、推古5(597)年に新羅に遣わせられた難波吉士磐金翌6(598)年鵲2羽(=番(つがい))を持ち帰り朝廷に献じ、難波杜で飼ったのです。秀吉の朝鮮出兵などより遥か以前に鵲は日本に齎されて居ましたが、この鵲の系統は絶えたのです。序でに触れると、吉志氏は後に摂津三島郡にも住みそこが現在の吹田市岸部で、そこには吉志部神社が在ります。兎に角、吉士氏(又は吉師・吉志)が居住した所は岸里とか岸部とか、字は変わっても「読み」には「きし」を含んで居るのです。

 「鵲の橋」(※5)の七夕の言い伝えは中国起源で、この話は日本や朝鮮で定着しました。広辞苑で典拠としているのは『白孔六帖』(※7~※7-2)という唐宋代の百科全書ですが、この言い伝えは『楚辞』を始め多くの書に出て来るそうです(△5のp183)。特に朝鮮では難波吉士磐金の様に外交に鵲の番(つがい)が利用されている所を見ると、七夕の橋を渡す鵲は縁結び的な祥瑞を齎すものとも考えられて居た様です。

 ■ユーラシアが故郷

 鵲の分布を見ると、欧州、中央アジア、韓国・北朝鮮、佐賀県、カムチャツカ半島、北米西部です。シベリアの様な極寒地や熱帯地方には居ません。総じてユーラシア(※8)の”やや寒目”の気候が適して居る様です。
 食性は穀物・昆虫・木の実が中心で、日本では秋にイナゴを食べることから益鳥(←まぁ、天然記念物ですから)とされて居ます。

 (1)朝鮮半島

 韓国では首都のソウル特別市を始め多くの都市が「市の鳥」に指定し、ソウルの地下鉄には「カチ山駅」カチは鵲のこと)という駅が在ります(出典:『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』)。2004年の鳥インフルエンザウイルス騒ぎの時、慶尚南道の農場付近の鵲から鳥インフルエンザウイルスの陽性反応が出たことが有りましたね。
 北朝鮮の情報は入らないですが北にも居る筈です。

 (2)大連

 嘗てロシア人が租借してダーリニー(Dalian)と名付け、それが中国語に翻訳されて大連(※9)と成りました。市の中心の中山広場はヨーロッパ式の円形広場で、市にはロシア人や朝鮮族などが居ます。
 私が外国で始めて鵲を見たのは大連で、鹿の居る労働公園2005年9月1日の撮影です(左の写真)。これは単独でしたが、2~3羽のグループも見ました。鵲の密度ですが、佐賀県よりは濃いですね、明らかに。しかし皆さん、いくら濃いと言っても日本のハトやスズメみたいには居ませんよ、念の為。


 次が07年6月13日で、大連市の南東に位置する棒棰島です。中国要人の別荘が在る所として有名で、海水浴場やゴルフ場が在ります。ゴルフ場周辺の高木に止まって居ました(右の写真)。ここへ来る車の中から、何度か鵲が飛んでいるのを見掛けました。鵲が飛んでいるのは直ぐ解ります、と言うのは羽の先が白く、それが実に美しいからです。

 そして左右の2枚が07年6月16日で、再び労働公園です。今度は望遠を利かせて撮りました。この公園の何処かに必ず鵲が居る、と言えそうです。

 こうして大連では鵲を撮りましたが、大連よりも大都市の瀋陽では見ませんでした。瀋陽は埃っぽいので余り居ないのかも知れません。或いはこの辺が北の限界なのかも。

 (3)内モンゴル

 次は内モンゴル(内蒙古自治区)(※10)です。ここは錫林浩特市から東南へ車で2時間位のモンゴル民族が実際に遊牧生活を送っている所です(左下の写真)。
 パオ(※10-1)の後ろに煉瓦建ての家が見えますが今は中国政府が定住化を推進して居ます。パオの左横に立っているのは風車、即ち風力発電です。手前には飼っている牛とコクマルガラス(黒丸鴉)の群です。
 そしてこのパオから少し離れた杭の上に止まっている鵲を見付けました。09年9月13日の撮影です(右の写真)。鵲は群れません、精々2~3羽で多分家族です。
 ところで、ヒマラヤを越えるアネハヅル(姉羽鶴)を撮ったのも、ここへ来る途中だったのです。



 次は五当召というチベット仏教(=ラマ教)寺院(※11)に泊まった時に撮りました。因みに、モンゴル族は成吉思汗の時代に広大な帝国を築きましたが、宗教は何も持って居らずチベット族の宗教を取り入れたのです。
 09年9月17日の撮影です(右の写真)。ここでは鵲を非常に良く見掛けました。

 さて、こうして纏めてみると結構纏まるものです。何しろ訳有って急いで作りましたから。これを読むと私が鵲に気を配り乍ら外国を旅してたのか、と思われるかも知れませんが、それは全く違うのです。ただ少し私には余所見癖が有るのです。
 又、一部の人からは私はユーラシアン(※8-1)であるとか、今は沖縄に住んでエトランジェ(異邦人)(※8-2)であるとか言われてますが、これは確かにそうかも知れませんね、ムッフッフ!!

 ■ヨーロッパの鵲観 - 『泥棒かささぎ』

 アジアでは鵲は目出度い知らせを齎す鳥とされて居ましたが、ヨーロッパでは逆に嗄れ声で鳴く鵲は「不吉な鳥」とされて居ます。更に【脚注】※1-3を見ると、口語では何でも集めたがる人お喋り(な人)と在ります。
 この典型的な例が、ロッシーニのオペラ『泥棒かささぎ』(※12)という作品です。ボードゥアン・ドービニとケニエの同名の原作にジョバンニ・ゲラルディーニが台本を書いたオペラ・ブッファ(※13)で、1817年ミラノのスカラ座(※12-1)で初演されました。オペラでは銀食器が次々と無くなり主役のニネッタ(村の娘)が疑われ投獄されますが、ピッポ(召使い)が1羽の鵲が隠していた沢山の銀食器を見付け、ニネッタの疑いは晴れハッピーエンドで終わる、というものです。筋は可なり飛ばしてますが、オペラ・ブッファはハッピーエンドで終わる、これが基本中の基本です。
 ところで、鵲が銀食器を盗む泥棒役を押し付けられて居ますが、これは鵲が枝や種子などを巣や地中に隠す性質に起因して居ます。そしてもう一つピッポという召使いが”活躍”しますが、ピッポという名は「ピッポピッポ」と鳴く鳴き声を捩って居るのです。日本でも鳴き声から付いた名が多かったですね。
 オペラ『泥棒かささぎ』は今日余り上演されませんが、序曲はしばしば演奏されます。

    ○○○ ロッシーニの第2の人生 ○○○

 オペラが当たり金持ちのロッシーニは貧乏なベートーヴェンに対し生活の援助を申し出ましたが、その時ベートーヴェンは「貴方のオペラ・ブッファは素晴らしい。貴方はずっとオペラ・ブッファを書くべきです。」と最大限の皮肉を言って申し出を断ったそうです。ロッシーニはベートーヴェンに逆らって真面目な歌劇「ウィリアム・テル」(※13-1)を書くと40歳位で作曲家を引退し、後は自らのサロンの為の私的な小品しか作曲しませんでした。
 隠居生活に入ったロッシーニ、第2の人生は美食家(※12-2)です。それもハンパなものでは無くパリにレストランも出すのです。特に彼はトリュフ(※12-3)という臭い茸 -犬や豚に掘らせる- が大好きで、この茸を掘る為の豚を飼って居ました。彼の料理はレシピに「ロッシーニ風」と名前が付いて残って居ます(△9のp259~291)。
 死ぬ前の太った体を見ると彼は大食漢(※12-4)でもありました。これは父親の遺伝かも。彼の父親ジュゼッペは”食肉工場の検査官”をし乍らトランペット奏者をして居たのです。

 ■結び - 歌の「遊び」

 冒頭で述べた様に、17世紀迄は鵲は日本には殆ど居なかったのです。そこで既に見た大伴家持の歌を検討する為に有名な『新古今集』の歌を再度▼下▼に書き写してみます。

  の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
                        中納言家持


 そこで家持は鵲を見て詠んだのか?、見ないで想像力を働かせて詠んだのか?、という問を発して見ます。当時、日本には殆ど居ないのです。”殆ど居ない”という意味は、朝鮮半島に居る鵲が或いは迷鳥として紛れているかも知れない、という事です。でも鵲は渡り鳥では無いのです。
 そう、99.99%位の確立で家持は見ないでこの歌を詠んだのです。家持は当代随一の学者で、国は唐文化を積極的に取り入れる時期です。家持は唐風文化の粋が横溢する「鵲の橋」(※5) -鵲そのものでは無い- に纏わる話を想像力を駆使して開示して見せたのです。家持の時代(750年頃)は難波吉士磐金の598年から150年程経って居ますが、或いは鵲の「原イメージ」を留めた資料が朝廷には在ったのかも知れません。

  彦星の 行きあひを待つ かささぎ
    わたせる橋を われにかさなむ

                        菅贈太政大臣


 これは菅原道真の歌で道真というのは死後に太政大臣の位を加増されて居ます。この歌は『新古今集』の1698番(△6のp273)ですが、『新古今』-巻18「雑歌下」には道真の歌が沢山載ってます。道真も当代随一の学者で、唐の勢いは衰えたとは言え朝廷は依然唐志向です。道真は漢学など得意中の得意ですから「鵲の橋」 -これも鵲そのものでは無い- を歌の中に詠み込むなんぞ朝飯前です。しかし、これも鵲を見ないで詠んだ歌なのです、何故ならば日本には殆ど居ないからです。598年からは300年位経ち、鵲そのもののイメージは更に遠く成って居ます。

 日本で16世紀以前に詠まれた歌で「鵲」を詠み込んだ歌は、鵲の実物を見ないで詠んでいるのです、何故なら鵲は日本には殆ど居ないからです!!
 実は和歌や俳句の世界では、実際に見ないで作る事は実は非常に多いのです。例えば「ほととぎす」「あかとんぼ」「初鰹」...。「初鰹」という題が与えられたからと言って「初鰹」の料理を食してから歌を作る、という決まりは無い訳でどっちでも良いのです。中には「初鰹」という語感だけで詠むかも知れません。「ほととぎす」という題が与えられたとして、今日ホトトギスの姿を見るのは至難の技です。だから想像力が左右します。そして、それが一つの慣例として定着して行くのです。
 定着すると、それは「遊び」に成ります。より技巧的に高度に洗練されて行き作者は想像世界を自在に飛翔します。しかし、それが行き過ぎると「原イメージ」が伴わない「力」 -私は歌の「力」を大切に考えて居ます- が無いものに成って仕舞います。その辺の按配の加減が難しい所です。

 一方『源氏物語』には「山の方は、霞へだてて、寒き洲崎に立てる笠鷺の姿も、所からは、いと、をかしう見ゆるに、...」と出て来る箇所が在ります(△10のp116)。ここで笠鷺(かささぎ)(※1-1)と呼んで居るのは青鷺(あおさぎ)(※1-2)のこと、とされて居ます。これは「寒き洲崎」という所に実際に笠鷺が立っているのを見ている訳で、笠鷺(=青鷺)は日本に居る鳥です。

 鵲が”知らない事さえ知らない鳥”であった貴方(貴女)も、このページに目を通した方は鵲の「原イメージ」が心の中にはっきりと出来た筈です。それでは一首捻り出してみましょうか、「原イメージ」の力を込めて。何?、力んでウンコじゃ無い!

  大草原 内蒙古の風 吹き渡る ふと振り向けば お前は
                        月海

 月海とは私の号ですゾ。おっと、背景画も鵲が一杯ですな、ムッフッフ!!

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:鵲(かささぎ、magpie)は、(朝鮮語の慶尚南北道方言カンチェギからか)スズメ目カラス科の鳥。カラスよりやや小。肩羽と腹面とが白色である他は黒色で金属光沢が有る。北半球の中北部に広く分布し、日本には17世紀に朝鮮半島から持ち込まれたとされる。佐賀平野を中心に北九州に生息し、天然記念物佐賀県の県鳥。村落付近の高木の枝に大きな巣を造る。かちがらす(勝鴉/勝ち烏)。朝鮮烏。高麗烏。烏鵲(うじゃく)。季語は秋。推古紀「―二隻を献る」。
※1-1:笠鷺(かささぎ、gray heron)は、サギの一種。今のアオサギ(青鷺)と言う。源氏物語浮舟「寒き洲崎に立てる―の姿も」。
※1-2:青鷺(あおさぎ)は、サギの一種。全長約1m。背面が灰色で翼は青黒色、後頭に青黒色の長い飾り羽が有る。ユーラシア大陸やアフリカに広く分布し、日本では漂鳥。 季語は夏。
※1-3:magpie は、[1].鵲(カササギ)。黒白の羽毛で、鳴き声が喧しく、様々な小さな物を巣に集めて来る。
 [2].《口語》
   [a].(がらくたでも)何でも集めたがる人
   [b].お喋り(な人)
<出典:「研究社 新英和・和英中辞典」>

※2:有田焼(ありたやき)は、佐賀県の有田を中心とする1帯から産する磁器。朝鮮から連れて来た李参平が、1616年(元和2)に日本で初めてこの地で磁器を製作。伊万里港から積み出したので、伊万里焼とも言う。
※2-1:伊万里焼(いまりやき)は、伊万里港から積み出された磁器の総称。有田焼の通称。江戸初期からの交易で流布。
※2-2:薩摩焼(さつまやき)は、薩摩産の陶磁器の総称。文禄の役で島津義弘が連れ帰った朝鮮の陶工に依って創始。鉄分の多い胎土を用い鉄釉を掛けて製し黒物(くろもん)と呼ばれた日用雑器と、白い胎土を用いて白物(しろもん)と呼ばれた錦手・白薩摩などの藩主の御用品を産出。→古薩摩(こさつま)。
※2-3:古薩摩(こさつま)は、元禄(1688~1704)以前の初期の薩摩焼。

※3:鳥栖(とす)は、佐賀県東部の市。鹿児島本線・長崎本線の分岐点。古くから交通の要地。昔(応神天皇の時代)この地に鳥屋(とや)を造り、鳥を朝廷に献上するのを例としたので、鳥樔郷と称したと言う(肥前風土記)。人口5万7千。
※3-1:鳥栖/鳥座/塒(とぐら)とは、(「くら」は人・動物が居る所、又、物を乗せて置く所)鳥の夜寝る所。塒(ねぐら)。鳥屋(とや)。万葉集2「―立て飼ひしかりの子巣立ちなば」。

※4:大伴家持(おおとものやかもち)は、奈良時代の歌人(717?~785)。三十六歌仙の一旅人の子越中守を初め、中央・地方諸官を歴任、783年(延暦2)中納言万葉集中歌数最も多く、その編纂者の一人に擬せられ、繊細で感傷的な歌風は万葉後期を代表。

※5:鵲の橋(かささぎのはし)とは、[1].[白孔六帖の鵲部、注「烏鵲填河成橋度織女」]陰暦7月7日の夜、牽牛星と織女星とを会わせる為、が翼を並べて天の河に渡すという想像上の橋。烏鵲橋(うじゃくきょう)。鵲橋。季語は秋。詞花和歌集秋「逢瀬に渡す―」。
 [2].(宮中を天上に見立てて)宮中の御階(みはし)。新古今和歌集冬「鵲の渡せる橋に置く霜の」。

※6:吉士・吉師・吉志(きし)とは、[1].新羅の官名。17等中の第14等。
 [2].大和朝廷で、外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称。後に姓(かばね)の一と成る。
※6-1:新羅(しらぎ)は、(古くはシラキ)古代朝鮮の国名(356~935)。三国の一。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国(しらくに)に始まり、4世紀(356年)、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽倻(加羅)諸国を滅ぼし、又、唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。更に唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。新羅(しんら)。
※6-2:辰韓(しんかん)は、三韓の一。古代朝鮮の漢江以南、今の慶尚北道東北部に在った部族国家(3世紀ごろ12国に分立)の総称。この中の斯盧に依って統一され、356年、新羅と改称。

※7:白孔六帖(はっこうりくじょう)は、宋代に晁仲衍が注を為し、孔伝が「白氏六帖」の続編として「孔氏六帖」30巻を撰したので、後人はそれを本書と合本し「[唐宋]白孔六帖」と称した。100巻の類書
※7-1:白氏六帖(はくしりくじょう)は、中国唐代の類書。撰者は白居易で、全30巻。正式には「白氏六帖事類集」。
※7-2:類書(るいしょ)とは、[1].内容を事項に依って分類・編集した書物。特に漢籍の分類項目の称の一。「芸文類聚」「太平御覧」など。
 [2].同種類の書物。類似の書物。類本。「―が多い」。

※8:ユーラシア(Eurasia)は、(EuropeとAsiaの合成語)ヨーロッパとアジアとの総称。亜欧州。「―大陸」。
※8-1:ユーラシアン(Eurasian)は、ヨーロッパ人とアジア人の総称。ユーラシア大陸に居住する人。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※8-2:エトランゼ/エトランジェ(etranger[仏])とは、見知らぬ人。外国からの旅行者。異邦人。外国人。

※9:大連(だいれん/たいれん、Dalian)は、中国、遼寧省南部の港湾都市。遼東半島の末端に近く、大連湾の南西岸。1898年ロシアが租借してダルニー(ダーリニー)と命名、日露戦争後、日本の租借地。中華人民共和国成立後、旅順などを合せて旅大市と成る。1981年大連市と改称。外資進出による経済開発が著しい。人口254万7千(1995)。

※10:内モンゴル自治区(うち―じちく)/内蒙古自治区(うちもうこじちく)は、(Neimenggu Zizhiqu, Inner Mongolia autonomy district in China)1947年内蒙古地域に成立したモンゴル族の中華人民共和国の自治区。省に相当する。面積約120万k㎡。人口2237万(1995)。大部分が草原・砂漠で、牧畜業が盛ん。黄河流域の河套(ホータオ)平原は古くから灌漑農業が発達。包頭(パオトウ)市は同国有数の鉄鋼基地。区都はフフホト(呼和浩特)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※10-1:パオ(包)とは、モンゴル人など遊牧民の住居で、フェルト張りの饅頭型組立式のもの。移動性に富む。ゲル

※11:チベット仏教(―ぶっきょう、Tibetan Buddhism, Lamaism)とは、仏教の一派。吐蕃王国時代にインドからチベットに伝わった大乗仏教と密教の混合形態。チベット大蔵経を用いる。後にモンゴル・旧満州(中国東北地方)・ネパール・ブータン・ラダックにも伝播した。主な宗派はニンマ派(紅教)・サキャ派・カギュー派・ゲルク派(黄教)の4派。俗称、ラマ教

※12:ロッシーニ(Gioacchino Antonio Rossini)は、イタリアの作曲家(1792~1868)。豊かな旋律と躍動感溢れるリズムのオペラ・ブッファ「セビリアの理髪師」の他、歌劇「ウィリアム・テル」、宗教曲「スターバト・マーテル」などを作曲。後半生は美食家としてパリに移住。
※12-1:スカラ座(―ざ、Teatro alla Scala[伊])は、イタリアのミラノに在る歌劇場。1778年開場。多くのオペラの名作を初演。サンタ・マリア・デラ・スカラ(階段の聖マリア)教会跡に建設。
※12-2:美食(びしょく、delicious food)は、旨い物や贅沢な物を食べること。又、その食物。今昔物語集5「麦、大豆等を以て―として」。「―家」。
※12-3:トリュフ(truffe[仏])は、食用茸の一種。小球形で、土中に育つ。フランス南西部のペリゴール地方産の黒トリュフ、イタリアのピエモンテ地方産の白トリュフが有名。独特の強い香りが有り、高級料理の材料として珍重。イヌ・ブタの嗅覚を利用して採集。西洋松露(しょうろ)。トリュッフ。
※12-4:大食漢(たいしょくかん、heavy eater)は、大食らいの男。

※13:オペラ・ブッファ(opera buffa[伊])は、喜歌劇の一。18世紀に成立したイタリア語に依る滑稽諷刺的なオペラを言う。軽快な音楽を主とし、重唱を多用する。ペルゴレージの「奥様女中」、モーツァルトの「フィガロの結婚」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」など。←→オペラ・セリア
※13-1:オペラ・セリア(opera seria[伊])は、(セリアは「真面目な」「本格的な」の意)正歌劇。悲歌劇。イタリア語による正統的なオペラ。主に古代史の英雄物語を題材とし、レチタティーヴォと華麗なアリア中心の整った形式で構成される。←→オペラ・ブッファ

    (以上出典は主に広辞苑)

【参考文献】
△1:『魏志倭人伝 他三編』(石原道博編訳、岩波文庫)。

△2:『山渓ハンディ図鑑7 日本の野鳥』(叶内拓哉・安部直哉・上田秀雄著、山と渓谷社)。

△3:『故郷忘じがたく候』(司馬遼太郎著、文春文庫)。作者は薩摩焼について記している。

△4:『新編 日本古典文学全集5-風土記』(植垣節也校注、小学館)。

△5:『中国神話伝説集』(松村武雄編、伊藤清司解説、現代教養文庫)。

△6:『新古今和歌集』(佐佐木信綱校訂、岩波文庫)。

△7:『曾根崎心中・冥途の飛脚』(近松門左衛門作、祐田善雄校注、岩波文庫)。

△8:『日本書紀(四)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△9:『ロッシーニと料理』(水谷彰良著、丸善)。

△10:『源氏物語(六)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):内モンゴル(内蒙古自治区)の地図▼
地図-モンゴル国と中国の内蒙古
(Map of Mongolia and Neimenggu, -Mongolia, China-)

参照ページ(Reference-Page):天の川について▼
資料-天文用語集(Glossary of Astronomy)
参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』の鵲の歌(6番)▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
サブページ(Sub-Page):森之宮神社の写真集▼
鵲森宮写真集(Photographs of Kasasagi-Morinomiya)
補完ページ(Complementary):以前の鵲の記事▼
(「鵲」の字を冠している神社)
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)

補完ページ(Complementary):七夕伝説巡り▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて
(Vega and Altair legend of Katano, 2003)

甘木市、甘木鉄道の紹介▼
2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)
『曾根崎心中』の舞台▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
難波吉士の居住地▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
韓国の鵲が陽性反応▼
2004年・鳥インフルエンザ流行(Avian Influenza, 2004)
ヒマラヤを越えるアネハヅル(姉羽鶴)▼
2010年・出水のツル探訪記(Cranes in Izumi, Kagoshima, 2010)
私の余所見癖▼
ちょっと気になるマンホール蓋(Slightly anxious MANHOLE COVER)
沖縄を遊ぶ▼
2013年・那覇空港を遊ぶ(Play the Naha Airport, Okinawa, 2013)
私は沖縄でもエトランジェ(異邦人)▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
私は大阪のエトランジェ(異邦人)▼
赤エイの御利益(Divine help of STINGRAY, Kinki)
道真は死後に太政大臣を加増された▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)

【ブラボー、クラシック音楽!】の
第55回例会(09年7月1日)の『七夕、そして星の曲』▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


トップメニューに戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu