−− 2014.05.09 富村豊子・太田照政
[編集:エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)]
■はじめに
本稿は太田照政氏が纏めた「ママの一代記」(2005年に口述筆記)を基に、編者が「ママの手記」 −色々書き綴って最後は2014年4月に完成、他に写真や葉書などが在る− から適宜「ママの生の声」として挿入して作りました。尚、[]で囲んだ部分は編者が補った箇所です。
右のママの写真は2009年12月19日の「物外館友の会」にて撮影したものです。沖縄の地図は▼下から▼ご覧下さい。
地図−日本・南西諸島と沖縄
当初、この文は応援メッセージとして「友の言葉」に入れる予定でしたが、「ママの一代記」として本文に登録する事にしました。本文に登録されるとインターネットから参照可能に成ります。その為、本文の文章は或る決まり(=標準化規則) −一々説明は省きますが文章の体裁を見れば解る筈− が在って、その決まりに従う様に改造しました。従って、編集責任は全て編者に有ります。それでは太田さん、水先案内を宜しく!
■父の死
ママは昭和3年1月19日(辰年)、南大東島で生まれた。そして3歳位の時に那覇に出て来た。父違いの義兄弟併せて10人中の真ん中で、昭和16年に垣花尋常小学校を卒業する直前に父がマラリアに罹り逝去した。父親は琉球王国中城(なかぐすく)城の按司(あじ)で、第一尚氏の六代の功臣・護佐丸盛春(唐名:毛國鼎)の血統を曳く末裔にあたる。
父の死に関するママの手記より(以下同様)。
父が昭和16年2月11日午前11時になくなったのです。母が弟の法事で久米島に出かけたのが2月8日で、昼頃父が真っ赤な顔をして会社から帰って来て豊子頭が痛いから早退して帰って来たと言って寝込んでしまいましたので、カタクリに砂糖をまぜて焚いて食事の代りにと思い勧めましたが、今は食べられないと言って眠ってしまいました。...<中略>... |
■7歳より全て記憶している
当時13歳ながら向学心に燃えていたが、孝行のためにと決意して働き口を求め、親類を頼って一人浮島丸に乗船し、4日掛かって大阪の地を踏んだ。
[姉が]豊子を大阪に来る様に母に言って来ましたので、大阪に行く様に県庁に母と共にキップを売ってくれる様に頼みましたが、こんな小さい子供を一人で行かせないとの事。母に後半年になると大きな戦争が始まるので生死を共に出来ない、売れないとの事。母は言いました。子供7人を残して私一人で育て切れないので是非お願いしますと言って居たら、じゃ子供に聞くが一人で大阪に行けるのか、5日間船に乗るんだよ、それでも良いのかと言われ、私は母が一人で苦労するから大阪で一生懸命に働いてお金を沢山送って親孝行したいから、キップをどうか売って下さいと頭を下げて頼みましたら、この子は大変しっかりして居るね、じゃ売りましょうと言って買うことが出来、昭和16年6月10日に旅に出ました。 |
■戦争を乗り越え − 高知は第2の古里
若い時の苦労は買ってでもせよと言う言葉を念頭に置き、先ず東洋化成はじめ、此花区の酒場、西宮の邸(やしき)での女中奉公や薬品会社勤めから、傷病者手当ての看護婦を補助する救護隊員などを数々と転職した。そして後に高知ではバスガイドまで科(こな)したが、一部の同僚に意地悪くされることが多かったが母親のことや、後に残された4人もの弟を携(たずさ)えていたため辛抱して頑張らざるを得なかった。
西淀川区の東洋化成株式会社の挺身隊として務めて居りましたが空襲で宿舎が焼けまして、何も彼も失いました。姉の店に私の物全部預けて居りましたがB29の為無くなりました。...<中略>... |
■戦後 − 苦労を背負い込み人間哲学に開眼
今日まで13歳より世に出て人間好きと主に料理が趣味でやって来た。そして人間哲学に凝り、理に叶ったこと等ものごと白黒ハッキリさせ過ぎて、自ら背負い込んで苦労の連続だった。また今迄は殆ど仕事に振り回されてばかりで、残り人生の最後の事は自分なりに考えるようにしている。
終戦後は当時流行っていた映画関係の仕事に従事邁進。24歳の時に2歳になる娘を抱いて飛行機(当時のフィリッピン軍用機他)の乗り継いで[初めて]帰沖した。当時は当然乍らパスポートを必要とし、また日本円の持ち出しは18万円迄(当時の500ドルで大学出の初任給4〜5千円の頃)の規制があり、母親はじめ兄弟達に孝行しようと思い、蓄財から100万円を新聞紙に包んで帯揚げの中にしっかり縫い込んで持っていった。母親の安否を心配していたが戦時中は郷里の久米島に疎開をしていて無事に過ごしていたことを知り、感涙に噎(むせ)ぶ再会となった(沖縄では終戦日は「慰霊の日」と制定された6月23日)。後には沖縄銀行牧志支店長をしていた義兄は昭和33年に早世した。
昭和28年頃、映画館社長代理の時、年間に2〜3回は沖縄を往復し大阪に戻って来る時には何時も数10人の従業員に30個程のネックレス等を持ち帰りお土産として配った。
■スナック「クイーン」時代
昭和33年に曽根崎で甥(姪の稲原さんの弟)がやっていた店を、450万の権利保証で兵庫相互銀行から借り、義姉と安里の保証人で買った。そしてスナック「クイーン」として開業(昭和33年)し、沖縄海洋博(昭和50=1975年)の2年前には那覇市に大きな大阪姉妹店「クイーン」を出店した。(編者注:スナック「クイーン」はオリオンビールの売り上げにも協力し、新聞にも取り上げられました(平成4年)。)
ここでママの手記は、那覇市の姉妹店「クイーン」での大変面白い話を伝えて居ます。
海洋博で沖縄県那覇市辻町(編者注:後で述べます)に一年早く昭和48年末頃、大阪姉妹店スナック「クイーン」を出店して多くの人が珍しがって何時も満席でした。...<中略>... |
(編者注:辻は琉球王国時代の公娼街で、近代に成ってからも「女性のみに依り管理運営された」由緒在る遊郭でした。戦前迄は沖縄の男は家に妻子を養い辻に妾を持つのが「男の甲斐性」の証明でした。学校の教師が嘗ての教え子と辻でバッタリなんて事も在りました。戦後は所謂”風俗街”に成りましたが、高級料亭も在り格式が在りました。去年の「慰霊の日」(6月23日) −この日は沖縄は休日で商売を休む所も多い− にも辻は遣って居ました。去年の盆も、今年の元旦も遣ってました。これは全て編者の体験レポートです。気合入ってますゾ、辻は!)
■物外館時代 − 沖縄料理の店
スナック「クイーン」はその後、琉球料理「物外館 クイーン」(昭和55年、店名のルーツは沖縄民俗学の父、伊波普猷の関係)となり、更に沖縄料理「物外館」(平成5年頃)になった。
実はママは娘には反対されたが、「沖縄民俗学の父」と謳われた伊波普猷の血脈を誇る伊波さんと再婚し、相手の歳が3つ上と思い込み、実際は7つも下であった。酒を飲むと最初は良いが40度の泡盛をヤケ酒に飲んだら脳細胞がいかれてしまい、最後には手が出る。扱い方が分からず悩むことも多かった。
夫と付き合い3回目の時に母に会ってくれと言われ会った時に感じた事に、なんと暗い方で生活にずい分苦労なさって居る様に思いました。...<中略>... |
(編者注:伊波普猷に依れば、中国から来た役人達を接待する「物外楼」という迎賓館が嘗て那覇に在り、「物外館」はそれに因んで居ます。「物外」とは「物以外の世界」「俗世間の外」という意味で、普猷はこの言葉の哲学的な意味が気に入りペンネームや号とし、又普猷の年忌を「物外忌」(8月13日)と言います。ママはその話を別れたご主人から聞いたのでしょう。尚、「物外」という熟語は余り使われて無いですが夏目漱石が使って居ます。)
■人生を振り返って − 恩は「きる物」
顔に出すようじゃ本当の苦労人じゃない。苦しさ・悲しさ・悔しさ等、これは自分自身に対し勉強させて貰っていると思うことが大切であって、有難い事であり、また愉しい事でもあると考え、精神を逞しくさせる。つまり苦労を苦労と考えず、打たれ強く常にプライドを失わず悔いの無いようにしたい。
ただ余りにも潔癖症で真正直過ぎ、曲がった事が大嫌い。又、一本気で筋を通す胆の据わった女傑だが反面、女性としての細やかな優しさや温もりを併せ持っていた。
ママの手記は次の様に結ばれます。
父は最高に心の美しい人で、町の人々にもやさしく良い人で尊敬されて居ました。もしあの世が有れば一番先に会いたいと思って居ります。私が16才の時に大人の方がつぶやいた言葉を思い出す事が有ります。その通りだと思います。私の好きな詩です。 |
■結び − 皆さん、どうも有難う
人の面倒見が良く此れまでに男女問わず情けを掛け過ぎ、波乱万丈の人生を振り返れば失敗を招き易いことが多かった!...(編者注:ママの2004年5月28日の<最後の晩餐>を紹介した2日前の新聞記事には97組のカップルの世話をしたと在ります。)
最後に、太田さんへの次の様な依頼文が在りました。
太田さん、御免なさいね。一年に一度、年賀を書く事以外に字を書いた事がなかったので乱筆で、又誤字が多く有るでしょうが、ゆっくり良く読んで理解して書いて下さい。お願い申します。 |
編者と太田さんの編集後記。
編者:「太田さん、ご苦労様。」
太田:「やあ、お疲れ様。大変でしたね、全部打ち込んで頂いて。」
編者:「ところで太田さん、ママが言ってる様に良く読んで理解しましたか?」
太田:「わ、私は知りませんよ、そんな...。」
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):南西諸島と沖縄の地図▼
地図−日本・南西諸島と沖縄
(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)
@サブページ(Sub-Page):物外館の謂れや伊波普猷やママの短歌について▼
物外館の謂れとママの素顔
(Reason of 'Butsugaikan' and Mama's secret)
@補完ページ(Complementary):大阪梅田(曽根崎)に在った物外館▼
梅田に「物外館」という店が在った!('Butsugaikan' on my mind)
辻のシステムと沖縄では女性が強い事▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)