物外館の謂れとママの素顔
[梅田に「物外館」という店が在った!]
(Reason of 'Butsugaikan' and Mama's secret)

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 ■「物外館」の謂れ

 「物外館」のママ・富村豊子さんはこう語って居ました。

 『亡くなった主人(普英)の祖父(普助)の兄である「沖縄学の父」の伊波普猷(いはふゆう)に依ると、中国から来た役人達を接待する「物外楼」という迎賓館が嘗て那覇に在りました。それに因んで「物外館」と名付けました。普猷は「物外」(※1)という言葉の哲学的な意味が気に入りペンネームや号とし、又普猷の年忌を「物外忌」(※1−1)と言います。』

 成る程、解り易く言うとママはあの大学者の伊波普猷の弟の孫の嫁さんだったのですね、知られざるママの素顔の一つです。そこで伊波普猷についての囲み記事を入れましょう。

 伊波普猷(いはふゆう、1876〜1947)

写真1:伊波普猷の写真。 沖縄の歴史学・言語学・民俗学・宗教学・文学などの開拓者で、「沖縄学の父」と言われて居ます。生家は那覇士族魚氏の家系で素封家として知られて居ました。1906年(明治39)東京帝国大学を卒業して沖縄に戻り、郷土資料の収集 −やがて県立図書館初代館長として迎えられる、有名な右の写真も県立図書館で撮影− に当たる一方、著作活動や歴史・言語・宗教(組合教会)・エスペラントなどの講演活動に力を注ぎました。
 しかし普猷は1925年に上京(当時49歳)、それは元県立図書館司書の真栄田冬子(本名:マカト、28歳、1897〜1975年、△1)と東京で新たな生活を始める為で、沖縄では評判は極めて悪かったと言います。それは子供が居る正妻を棄てたという事、更に「伊波普猷を廻る五人の女」(冬子もその一人、△1−1のp142〜150)が居たからです。
 因みに、冬子が正式に入籍し伊波冬子に成るのは正妻マウシの死(1941年)から3年後の1944年の事です。いやはや御発展ですが、世は大正デモクラシーの時代(※2)だったのです。冬子がマカトという本名を使わずにヤマト風の冬子を使ったのも然りで、当時のハイカラ志向沖縄娘の流行だったのです。
 多くの著作は東京時代に書かれ、東京に出て多くの論客たちの知遇を得ました。皆さんは不思議に思われるかも知れませんが、しかし普猷は以後2度と沖縄には帰りませんでした。
 言語などの研究から「沖縄人とその言葉は、日本人とその言葉の遠い分れであり、元々は同じである」とする日琉同祖論(※3)を唱えました。しかし沖縄への差別や偏見には一貫して批判し続けました。普猷は沖縄県民に確り学問を身に付けよと言って居る様に思えます。東京の家ではゴーヤー棚を作り自ら”沖縄村”と呼んで居ました。交流関係は広く、中でも比嘉春潮・折口信夫・河上肇は特筆すべきですが、多くの人から慕われた事が何よりも普猷の人間性を雄弁に物語って居ます。
 普猷は「おもろ」(※4)の研究を基礎にして沖縄の古い文化を掘り起こし

  『古琉球』、『校訂おもろさうし』、『沖縄歴史物語』、
  『南島方言史攷』、『をなり神の島』、『琉球戯曲集』

など数多くの著作を残しました。
 1947年8月13日、戦争で自宅を焼かれ仮寓の比嘉春潮宅で永眠しました(死因は脳溢血、享年71歳)。伊波普猷の墓は10年以上東京築地本願寺に在りましたが、伊波冬子氏が1959年に遺骨と共に沖縄に戻って来ました。1961年に建立された伊波普猷顕彰碑(浦添城趾)には東恩納寛惇氏の名文が

    彼ほど沖縄を識った人はいない
    彼ほど沖縄を愛した人はいない
    彼ほど沖縄を憂えた人はいない
    彼は識ったが為に愛し愛した為に憂えた
    彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった


と刻まれて居ます。
 命日の8月13日物外忌と言います。


 ■ママの短歌

 ここで知られざるママの素顔をもう一つご紹介しましょう、それは短歌です。普段のママからは想像出来ませんが。想像出来ない人は思いっ切り想像力の回路をボリューム一杯にスイッチオンして下さい。ここは@想像力のワンダーランド@ですよ。それが解らない人は後でトップページを良く見て置いて下さい!!
 そこでママ自薦の短歌をご披露しましょう、熱い思いが伝わって来るではありませんか。

 くらき世に 明かりをともし
  彼(か)の人は 何時ぞは
  他人(ひと)の夫となりぬ


 別れ来て 始めて知る 我が心
  ただ幸あれと 我は祈らん


 彼(か)の君の 幸を願いて 別れしも 
  見ゆる映画の花嫁に
  うらやむ心 他人(ひと)しれず

         富村 豊子

【脚注】
※1:物外(ぶつがい)とは、[1].形有る物以外の世界。物質界以外。
 [2].俗世間の外。世間を離れた場所。「―に遊ぶ」。
※1−1:物外忌(ぶつがいき)は、伊波普猷の命日8月13日を言う。

※2:大正デモクラシー(たいしょう―)は、大正期(1912〜25年)に顕著と成った民主主義(デモクラシー)的・自由主義的風潮のこと。憲政擁護運動、普通選挙運動、或いは吉野作造の民本主義や一連の自由主義・社会主義の思想の昂揚等が有り、従来の諸制度・諸思想の改革が試みられた。第一次世界大戦の反動が見られる。

※3:日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)とは、日本人と琉球人(=沖縄人)の人種的・文化的同一性を学術的に立証することに依り民族的一体性を強調する理論。歴史的には17世紀に羽地朝秀(唐名:向象賢)が唱えた。近代の伊波普猷の論は政治権力に利用された、との見方も在る。

※4:「おもろ」とは、「思い」と同源で、神に申し上げる、宣(の)り奉るの意。沖縄・奄美諸島に伝わる古代歌謡。呪術性・抒情性を内包した幅の広い叙事詩で、略12世紀から17世紀初めに亘って謡われた。それを集大成したものに「おもろさうし」(22巻、1554首、1531〜1623年)が在る。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『白菊の花(伊波冬子遺稿集) 忍冬その詩・短歌・随想』(伊波冬子著、伊波冬子遺稿集刊行会、若夏社)。
△1−1:『素顔の伊波普猷』(比嘉美津子著、ニライ社)。著者は伊波冬子の従妹


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