大童山と雷電-写楽の相撲絵
[マンガチックな大童山]
(Daidozan and Raiden, Sharaku's Sumo woodcut)

-- 2015.01.15 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■はじめに - 写楽の相撲絵





 相撲の歴史や専門用語については
  資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)

を適宜参照して下さい。


 ■大童山という力士





『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると





 写楽の相撲絵の大童山(※3)を見ると見物人に谷風や雷電が居ます(△10のp88~91)が、雷電は色が黒く、滅法強かった雷電は黒人力士の様に見えます。しかし大童山はマンガチック(Japanese Manga-tic)(←これは和製英語、※3-1)で面白い!







 ■考察 - 写楽という絵師















 ■結び






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【脚注】
※1:写楽/東洲斎写楽(しゃらく/とうしゅうさいしゃらく)は、江戸中期の浮世絵師。別号、東洲斎。徳島藩主蜂須賀侯のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛と伝えるが不明。僅か1794~95年(寛政6年5月~7年1月)の10ヵ月間(閏月を含む)に140種程の役者絵と相撲絵を集中的に残すだけで、その後の消息を絶つ。版元は全て蔦屋重三郎。似顔表現を利かした強烈な個性描写が特色。閲歴・生没年未詳。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※1-1:蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、蔦屋の主人(1750~1797)。本名、喜多川柯理。号、耕書堂など。蜀山人(大田南畝)山東京伝ら江戸の狂歌師・戯作者と親しく、喜多川歌麿・十返舎一九・滝沢馬琴らも一時その家に寄寓。通称、蔦重(つたじゅう)又は蔦十。自らも狂歌・戯文を作り、狂名は蔦唐丸(つたのからまる)東洲斎写楽の版画は全て蔦屋から出ている事は注目に値する。1791(寛政3)年、幕府の風俗取締りに因り家財半減の処分を受けた。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※2:浮世絵類考(うきよえるいこう)は、浮世絵師の伝記を集めた書。大田南畝(蜀山人)原撰。寛政初年成立。写本。笹屋邦教/山東京伝/式亭三馬/渓斎英泉/斎藤月岑らが補記・追考を加える。浮世絵研究の基本的文献




※3:大童山文五郎(だいどうざんぶんごろう)は、江戸中期の相撲力士(1788~1823)。本名は塩野文五郎、山形県出身。最高位は西前頭5枚目(1805年2月場所)。現役時代の体格は159cm、169kg(成年時)。たった10ヶ月しか描かなかった写楽の相撲絵に姿を留める。
※3-1:漫画チック/マンガチック(まんが―)は、(チック(tic)は英語の形容詞語尾で和製語)漫画みたいな様。漫画的。

※4:雷電為右衛門(らいでんためえもん)は、江戸後期の力士(1767~1825)。信濃の人。25歳で力士に成り、30歳で第76代大関に。江戸の力士浦風林右衛門に入門し、谷風(2代)の内弟子と成る。不世出の強力で、逸話が多く、横綱谷風を凌駕したと言われる。大関を16年間務めたが、横綱には成って無い講談に成り、張り手・鉄砲・閂(かんぬき)は禁じ手とされたという俗説が在る。『諸国相撲控帳』(雷電日記)と『万御用覚帳』の著作を残す。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>





    (以上、出典は主に広辞苑です)


【参考文献】
△1:『謎の絵師 写楽の世界(東洲斎写楽全作品集)』(高橋克彦著、講談社カルチャーブックス)。

△2:『浮世絵類考』(大田南畝(蜀山人)原撰、斎藤月岑らが補筆、仲田勝之助編校、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):相撲の歴史と仕来たり▼
資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)





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