資料-日本の相撲の歴史と仕来たり
(History and custom of Sumo in Japan)

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 ■「すもう(相撲・角力)」の語源

 この段は主に広辞苑からの引用です。日本語の「相撲(すもう)」(※1)とは動詞「争(すま)ふ」が語源で「すまふ」 → 「すまう」 → 「すもう」と変化して来ました。又、「すまふ」の連用形から「すまひ」 → 「すまい」(※1-1)とも言います。因みに古語の

  ・争ふ(すまふ)とは、負けまいと争う。抵抗する。伊勢物語「女も卑しければ―ふ力なし」。

という意味です。漢字「相撲」の「撲(ぼく)」は「手」編に「菐」、「菐」は「パンという音」を表し「撲」は「手でパンと打つ」が原意で、「打撲」「撲殺」「撲滅」などの熟語が在ります。つまり「相撲(すもう/すまい)」という熟語は「相打つ(あいうつ)」という意味から発して居ます。
 一方「角力」は中国で春秋戦国時代(前722~前221年)から使われ出した語で、元々の日本語読みは「かくりょく/すもう」(※2)です。「角(かく)」には「比べる」「競う」という意味が有り「角逐」(※2-1)などと使います。「角力」とは文字通り「力を競う」ことで、中国の相撲的競技を指すので後に「すもう」という読みを当てました。相撲の社会を角界(かくかい)(※2-2)と言いますが、これも「角力(すもう)の世界」という意味です。又、相撲取りの事を「力士」(※2-3)と呼ぶのも「角力」から来て居ます。
 中国の「角觝(かくてい)」→後出)(※2-4)は日本の相撲のルーツと目され、他に「摔跤(シュアイジャオ)」が在ります(△1のp123、154)。中国では角觝は秦の時代(前221~前206年)に流行り(△2のp93)、その後角觝が祭儀化・芸能化した -日本の相撲と同様- のに対し、摔跤は投げ技中心の格闘技へと武技を進化させ、寧ろ日本の柔道の源流と目されて居ます。
 角觝は前200年頃には日本に伝来していた可能性が有ります、何しろ徐福が秦の始皇帝の命令で日本に来たという伝説が各地に在りますから。

 ■日本の相撲の歴史

    ●神話中の相撲

 日本の相撲の起源を遡ると、『古事記』の出雲の国譲りの建御名方神(諏訪神社上社の主祭神)と建御雷命(鹿島神宮の主祭神)との力競べ(△3のp62)や、『日本書紀』垂仁天皇紀の野見宿禰当麻蹶速角力が文献上の初出(△4のp32~34、△5のp15)で、何れも神話的伝承ですが、日本に力競べや相撲が古くから存在した事の反映と考えられます。

  ・野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。

  ・当麻蹶速当麻蹴速(たいまのけはや/たぎまのくはや)は、伝承では垂仁天皇時代の人。相撲(角力)の祖とされる。大和国当麻に住み、強力を誇ったが、垂仁天皇の命に拠り出雲の野見宿禰と力を競べ、腰を蹴折られ殺されたと言う。

 『日本書紀』が「野見宿禰が当麻蹶速の肋骨を折り更に腰を踏み砕いて殺したと記す御前仕合(△4のp32)は格闘技の究極である命懸けの決闘(△6のp14)ですが、古代の相撲は土俵が無い為に投げ技とか潰し技が中心レスリングモンゴル相撲に近い形態でした(△7のp17~18)。

    ●古墳時代 - 角觝図が示唆する日本の相撲のルーツ

 古墳時代では考古学的遺品が手掛かりに成ります。井辺八幡山古墳(6世紀、和歌山県)を始め複数の古墳から(ふんどし)をした力士の埴輪(※2-3)が出土(△5のp68、△8のp49)し神話を裏付た事は、相撲や力士が地方王権社会の中で既に一定の役割を担って居た事を示します。更に高句麗壁画古墳(中国集安市、角觝墓は5世紀中頃(△6のp52))には現在の相撲のスタイルに酷似した絵が描かれ、相撲の源流と伝来経路を考える上で興味深い存在です。そこで私が2007年7月末に集安市を訪れた際に購入した本から下の2枚の図を追加掲載します(△2のp92~94)。
 画像1:中国集安市の高句麗壁画古墳の相撲図1。画像2:中国集安市の高句麗壁画古墳の相撲図2。
 左上が高句麗古墳角觝墓(=角觝塚)の角觝図で、著者は力士の鼻が高いので西域胡人(※3、※3-1)として居ます(△2のp93)。右上は秦の墳墓から出土した篦(へら)の柄の角觝図です。角觝には行司が居ることは注目に値し、角觝が日本の相撲のルーツと目される所以です。
 又この篦(へら)というのが意味深で、トルコやギリシャのレスリングでは体にオリーブ油を塗って闘い、闘い終わった後に篦で体の油や泥を落とすのです(△1のp132、△6のp54)。つまり角觝に影響を与えたスポーツとして西アジア・中央アジア(レスリング)からモンゴル辺り(モンゴル相撲)、更に韓国相撲のシルムが浮かび上がり、関連性を辿るとシルクロードを経てオリンピック発祥地ギリシャに連なりそうです(△6のp50~52)。

    ●上代~中世の相撲の変遷

 奈良~平安時代の貴族社会では聖武天皇の734年から300余年間に天覧の節会相撲(=相撲の節(※1-2))が宮中行事として行われ国技(※4)と言われる様に成りました。それに伴い奉納相撲(※5)などの様に相撲が神道の祭儀(←平たく言えば神事に組み込まれ年中行事や農耕儀礼の一部に成りました。古代や未開社会に於いては相撲に限らず大半の競技が祭儀性を帯び狩猟や農耕の儀礼と結び付きました(△6のp3)が、武技が儀礼化すると演技が派生します。即ち、

    純粋の勝ち/負け + 神事として他人に見せる演技
                        └→後の興行

が付加されたのです。
 しかし鎌倉~戦国時代には、戦場に於ける組討ちの必要性から再び武技の面が重視されました。

 職業相撲は戦国末期の安土桃山時代の元亀・天正年間(1570~85年頃)に生まれ、土俵もこの頃に出現したとされて居ます(△7のp18)。これは織田信長の時代で、信長は相撲好きで近江国の力自慢を集め度々上覧相撲大会を開催し、勝ち抜いた者を召し抱え、部下に行司を命じて居ます(△9のp103・241・249・323・354)。信長の上覧相撲の際に何らかの「囲い」が必要に成ったので土俵が出現した訳です(←現在JR安土駅南広場には信長に肖って土俵と相撲櫓が在ります)。土俵の出現は日本の相撲を「投げ」「潰し」から「押し」「寄り」と大きく変質させましたが、それは「太平な江戸時代」を待たねば為りません。戦国時代は「勝つ相撲」が求められたのです。

    ●近世の相撲の人気 - 興行としての相撲

 「太平な江戸時代」「新興町人の江戸時代」の中頃には木戸銭を取って興行(※6)する勧進相撲(※6-1)・勧進興行(※6-2)が京を中心に興り大衆の人気を博し、やがて江戸・京・大坂の三都で開催する三都勧進相撲 -春・冬:江戸、夏:京、秋:大坂の4場所なので四季勧進相撲とも- へと発展しました。興行の相撲とは「見せる為の相撲」で、相撲の芸能化が進み力士は一面演技者と成り「力士が顔に白粉を塗った」話も在ります(△7のp24)。”見せる為”に「舞台としての土俵」は高くされ、力士名を序列した番付が作られ、細部の所作は神道的に様式化されて(かた)が生まれ、こうして江戸中期頃迄には現在の大相撲(※7)に近い組織や制度が出来上がり、「仕来たり」(※8)として慣例化し今に至って居ます。尚、当時の力士は大名などが召し抱える場合(=御抱え力士)が多かったのですが、これは信長の先鞭です。
 相撲興行は江戸中期には町人の娯楽の一つに成り(←但し、観戦料は歌舞伎より高かった)、『相撲之図式』(作絵:不明)(元禄期:1688~1704年)、『すまふ評林』(能見角作・絵:不明)(1756年)、『根元角觝大全』(勝川春童作・絵)(1791年)などの絵入りの本が出版されました。
 又、相撲絵(=相撲の浮世絵)が人気を獲得し、写真の無い時代のブロマイドの役を果たしました。右の図は歌川国貞が描いた相撲絵で、力士は左は鏡岩、右が狭布里、裃を着て軍配を持っているのが行司、右端が勝負審判です(『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』より)。
 相撲絵は勝川派歌川派の絵師たちが多く描いて居ます。写楽大童山を描いて居て、その見物人に谷風雷電が居ます(△10のp88~91)。

  ・相撲絵(すもうえ)は、浮世絵版画で、相撲を描いたもの。力士の似顔絵の他、取組み・土俵入などが在る。

 ところで、江戸時代は女性は相撲観戦禁止でした。一方で女相撲が出来て寺社で興行され、やがて男の座頭(盲人)が女力士に加わりました。戦後の女子プロレスはこの系統を引き継ぐものです。

    ●横綱の始祖 - 明治末迄は横綱は名誉職

 江戸相撲は明治末迄は番付の最上位は大関です。江戸時代前記から大関の中の優れた者に「横綱」という栄誉称号が与えられ横綱を締めての単独土俵入り(=横綱の土俵入り)が許されましたが、地位は飽く迄も大関でした。この時代の力士に大関の雷電為右衛門が居ますが、彼は横綱に成って無いのです。
 最初の横綱については説が分かれます。後述する日本相撲協会は、第12代横綱・陣幕久五郎が富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」に基づき横綱の代を決めている為、伝説上の人物などを含みます。その相撲協会が初代として居るのが明石志賀之助ですが多分に伝説的な要素が強く詳細も判らず、実在が確実なのは第4代横綱の谷風梶之助(2代)です。

  ○大関
   ・雷電為右衛門(らいでんためえもん)は、江戸後期の力士(1767~1825)。信濃の人。25歳で力士に成り、30歳で第76代大関に。江戸の力士浦風林右衛門に入門し、谷風(2代)の内弟子と成る。不世出の強力で、逸話が多く、横綱谷風を凌駕したと言われる。大関を16年間務めたが、横綱には成って無い講談に成り、張り手・鉄砲・閂(かんぬき)は禁じ手とされたという俗説が在る。『諸国相撲控帳』(雷電日記)と『万御用覚帳』の著作を残す。

  ○横綱
   ・明石志賀之助(あかししがのすけ)は、寛永(1624~1644)年間の力士。宇都宮藩の人と伝える。後世、初代横綱とされた伝説的人物。京都の天覧相撲に勝って朝廷から日下開山(ひのしたかいざん)の称号を許された。

   ・谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)は、
    [1].(初代)江戸時代前期の力士(1694~1736)。陸奥の人。讃岐高松藩松平家の抱え力士と成り、多年大坂で活躍し強力無双と称せられた。江戸の記録には無い。
    [2].(2代)江戸時代中期の力士(1750~1795)。陸奥の人。江戸で関ノ戸の門に入り、1789年(寛政1)、吉田司家(よしだつかさけ)から横綱の最初の免許を受けた(第4代横綱)。力量・人格共に優れ、初期勧進相撲興隆の中心と成る。63連勝の記録を持ち、258勝14敗優勝21回と言う。第35代大関。

    ●明治末年に横綱の地位確立

 横綱地位として確立されたのは1909(明治42)年の相撲規約改正に依ります。そう成ると、地位が確立された最初の横綱は1911年に昇進した第22代横綱の太刀山という事に成ります。
 尚、現在の新横綱決定方法は後で述べます。

  ・横綱(よこづな)とは、
   [1].四手(しで)を垂れた白麻で編んだ太い綱。大関の力士で技量・力量抜群の者が授与され、土俵入の際、化粧回しの上に纏う。地鎮祭で地面に張る綱に由来。
   [2].力士の最上の地位。本来は、大関の内で横綱を締めることを許された力士栄誉称号であったが、1890(明治23)年に初めて番付に記(しる)され、そして1909年(明治42)に相撲規約に地位の名として定められ今日に至る。
   [3].転じて、同類中の最も優れた者。

  ・大関(おおぜき)とは、相撲の番付の最上位。又、その力士。本来は称号であった「横綱」が、後に地位として考えられる様に成って、現在は横綱に次ぐ地位とされる。

 横綱の[1]は横綱力士が胴に巻く「綱」の意味解釈で、地位名としての横綱は[2]です。

 ■興行と八百長体質 - 見せる為の相撲

 天下太平に依り同じく武技としての実用価値を失った剣術・弓術が精神性を深め剣道・弓道に変容したのと、大きく異なった分岐点は江戸時代の興行です。勧進興行や「見せる為の相撲」の技はと化し、興行は”八百長”(※9) -八百長という言葉自体が明治初年の相撲から生まれた!- を暗黙の了解事項として内側に取り込んだのです、即ち「勝つも負けるも芸の内」なのです。士農工商の身分社会で職業相撲の力士は次第に賤視されて行きました(△7のp15)が、八百長も賤視の理由の一つです。
 相撲には「がちんこ」(=本気勝負真剣勝負)という言葉が在りますが、それは逆に「真剣勝負で無い勝負」の存在を認めている訳で、それが巡業場所八百長の勝負を表して居るのです。

  ・「がちんこ/かちんこ」は、相撲で、本気勝負真剣勝負。広く、正面から本気で対決する事にも言う。

 この八百長体質は21世紀に成ってやっと少しメスが入りましたが、日本相撲協会内部の相互互助的な”ごっつぁん道”(→後出)とも微妙に絡んで居るので、果たして改革の成果は...と見守る中で、相撲協会は2011年3月場所(=大阪場所)を異例の休場とし八百長について考える場と決めたのですが、2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に因り「旧(もと)の木阿弥」に帰しました。相撲協会は膿(ウミ)を多少は出す覚悟をして居ましたが、震災のどさくさで膿を全て飲み込み、結果として何一つ変わって無いことに留意して下さい!!

                (>v<)

 ■現在の相撲

 現在の相撲の決まりや「仕来たり」の主なものを以下に記します。

    ●大相撲の本場所

 江戸中期の三都勧進相撲の年4場所制を基に、現在は6[場所/年](奇数月)、15[日間/場所](幕下以下は7[日間/場所])、日本相撲協会が主催し興行する。偶数月は地方の巡業場所が在る。
 横綱の推薦には横綱審議委員会が当たり、番付の異動は番付編成会議が決める。

       1月:初場所       東京(両国国技館)
       3月:春場所(大阪場所) 大阪
       5月:夏場所       東京(両国国技館)
       7月:名古屋場所     名古屋
       9月:秋場所       東京(両国国技館)
      11月:九州場所      福岡

    ●現在の横綱

 現在では日本相撲協会が理事長名で横綱審議委員会(横審)の諮問を仰ぎ、横審はそれについて協会理事長に答申します。協会の推挙横審の答申が一致すれば新横綱誕生と成ります。横審の権威を保つ為、協会は横審の答申を尊重する事に成って居ます。

  ・日本相撲協会(にほんすもうきょうかい、Japan Sumo Association)とは、相撲の維持・発展を目的とする財団法人。力士・年寄・行司・呼出し・床山などで構成。1889年(明治22)発足の東京大角力協会を1925年(大正14)大日本相撲協会と改称し、27年大阪大角力協会と合併、58年現名となる。理事長を始め役員は主に力士出身者が務め、年6回の本場所や巡業、両国国技館、相撲博物館などの維持運営に当たる。
    ★今日では日本相撲協会主催の相撲興行を特に大相撲と呼ぶ。

  ・横綱審議委員会(よこづなしんぎいいんかい)とは、横綱の推薦・引退勧告など横綱に関する審議に当たり、日本相撲協会の諮問に答える機関。1950年設置。略称は横綱審議会、横審

  ・番付編成会議(ばんづけへんせいかいぎ)とは、本場所終了後に各力士の成績を審査し翌場所の地位を決める会議。審判部の部長・副部長で構成。

 ■相撲の決まりや仕来たり - 相撲は「様式の競技」

 以上の様に、古代・上代の祭儀化近世の芸能化、そして近世後期以降の横綱土俵入りを以て相撲は高度に様式化され、我が国独特の「様式の競技」 -単に「勝ち/負け」を争うのでは無い競技- なので有り、だから型(かた)に煩いのです。
 又、相撲では「心技体」という事が良く言われますが、心(精神面)と技(技能面)と体(体力・体格面)のバランスと充実が大切で、特にを以てを制御する」意味が込められて居て「心」が最も大切である事を言って居ます。

  ・(かた)は、武道・芸能・スポーツなどで、規範となる方式。「踊りの―」「攻めの―」。
  ・取口(とりくち)は、相撲をとる手口。相撲の技巧。「―を変える」。

  ・土俵(どひょう)は、直径4.55m(=15尺=1丈5尺=2間3尺)、高さ約60cm。土俵は相撲の興行では晴れの舞台。陰陽五行的解釈では宇宙。神道的解釈では造化の三神が宿る神域(※10) -土俵中央に主神の天御中主神(※10-1)、正面に高皇産霊神(※10-2)、裏正面に神皇産霊神(※10-3)が坐す- で、故に勝敗を判定する行司神主の装束を着用。呼び出し半被を着るのは江戸時代の勧進相撲から登場した為。<神道+陰陽五行>
  ・四色の房(ししょくのふさ)は、土俵という宇宙の各方位を守護する四神(※11)、即ち
     青房:北の青龍 赤房:南の朱雀 白房:西の白虎 黒房:北の玄武
の象徴。五行の「木火土金水」の割り当ては、東が南が西が北が、そして土俵が<陰陽五行>
  ・決まり手(きまりて)は、現在約70余手。
  ・番付の文字は、相撲字と言われる独特の書体。
  ・力士の名前「しこな」は、元来は醜名。現在は四股名と書くことが多い。
  ・回し(まわし)/締込み(しめこみ)は、力士が相撲を取る時に締める(ふんどし)。
    ・化粧回し(けしょうまわし)は、十両以上の力士が土俵入りなどに用いる回し。前面の前垂れを刺繍や絵で装飾する。多く緞子(どんす)で仕立てるので「どんす」とも言う。
  ・関取(せきとり)は、十両以上の力士のこと。十両とは江戸時代に給金が年10両だった為の呼称で、相撲界では十両以上と以下で待遇に雲泥の差が有り、付け人に背中を流して貰えるのも十両から。つまり十両以下は半人前で上位力士の付け人・飯盛り・洗濯などをさせられる。
  ・幕の内(まくのうち)/幕内(まくうち)は、相撲の番付で、第1段の欄内に名を記される上級の力士。前頭以上の者。転じて「幕の内弁当」

  ・三段構え(さんだんがまえ)は、支障の起った場合に困らない様に、3段階の備えをすること。
  ・四股(しこ)を踏むのは、(元来は(しこ)と書く)足下の醜悪なものを踏み付け地固めする為。現在は準備運動を兼ねる。<神道>
  ・両手を開き掌を上に反す塵手水は、武器を隠して無いことを証す為。
    ・塵手水(ちりちょうず)とは、力士が土俵に上り、取り組む前に行う清めの礼式。徳俵で蹲踞(そんきょ)、拍手して後、両手を左右に開き、掌(たなごころ)を上に反すこと。
    ・蹲踞蹲居(そんきょ)とは、相撲や剣道で、爪先立ちで深く腰を下ろし、膝を開いて上体を正した姿勢。
  ・力水(ちからみず)は、穢れを清める為。<神道>
  ・(しお)を撒くのは、土俵の邪気を祓う為。<神道>

  仕切り(しきり)は、立合の前動作で早く低く立てる様に構える。制限時間迄複数回行なう。
  ・仕切りでの見合いは、単なる”睨み合い”では無く、立合に向けて互いの呼吸を合わせる為。これが日本独特の間(ま)に通じる。
  ・立合(たちあい)は、双方が仕切りから立ち上がり勝負を始めること。仕切り制限時間以内に立っても良く、両者が「阿吽の呼吸」で立つ事が肝腎。
  ・待った(まった)は、相手の立合を待って貰う時に発する語。
  ・手刀(てがたな)は、勝力士が懸賞を受ける時に土俵に坐す造化の三神 -天御中主神高皇産霊神神皇産霊神- に謝意(※10)を表す為に右手で「中・右・左」の順に切る。<神道>

  ・弓取(ゆみとり)は、元来千秋楽に優勝力士が弓を受け取る儀式。<神道>
    → 現在は特定力士が結びの勝者に代わって毎日の最終取組後に行う。
  ・呼出し(よびだし)は、取り組む力士の名を呼んで土俵に上がらせる役。触れ太鼓櫓太鼓を打ち、土俵を整備するなどの仕事も分担する。呼出奴(やっこ)。
  ・触れ太鼓(ふれだいこ)とは、相撲の興行の開始前日に、呼出しが太鼓を打ち乍ら町に触れて歩くこと。又、その太鼓。
  ・櫓太鼓(やぐらだいこ)とは、相撲場又は歌舞伎劇場で、開場又は閉場の知らせとして、櫓で打つ太鼓。好色一代男3「―の聞え侍る。是は藤村一角が旅芝居と」。
  ・打ち出し(うちだし)とは、一日の興行の終り太鼓を打つので言う。

  ・取り零し(とりこぼし)は、負ける筈も無い相手との試合に負けること。「大事な星を―」。
  ・角番(かどばん)とは、この場合、相撲で、その場所に負け越せばその地位から転落するという局面。「―大関」。

  ちゃんこ鍋(―なべ)/ちゃんこ料理(―りょうり)は、(「ちゃんこ」は「おっさん」などの意相撲部屋の料理人)力士社会独特の手料理。多くは魚/肉/野菜などをごった煮にし、ちり鍋風にして食べる。栄養価が高い。
  ・タニマチ(谷町)とは、「力士の贔屓筋」(※12)を指す相撲界の俗語。江戸時代のダンナ(旦那) -ダンナは芸者・役者・力士・太鼓持などを贔屓にした- に近い。力士はタニマチに対して何でも「ごっつぁん」(←「御馳走様」が約(つづ)まった語)と恭順し、タニマチは贔屓の力士を接待し化粧回しを贈り懸賞を懸けて力士の”ごっつぁん道”を引き立て乍ら自己宣伝に力士を利用する、という「広告とスポンサー」の関係(△1のp169)。

    ●横綱の土俵入り

 江戸後期以来の横綱の土俵入りは、塵手水・三段構え・四股から成り、現在の型は雲竜型不知火型の2種。

  ・土俵入り(どひょういり)は、土俵の地鎮祭の意味が有る。即ち土俵を清め、その日の無事を祈願する祭儀。横綱が太刀持・露払を従えて単独に行うものと、横綱を除く幕内全力士が円形に並んで行うものとが在る。<神道>
    ・太刀持(たちもち)は、相撲で横綱力士が土俵入をする時、太刀を持って後に従う力士。横綱の背後を守る意味が有る。太刀取(たちとり)。<神道>
    ・露払い(つゆはらい)は、相撲の横綱土俵入りの時、先導として土俵に上がる力士。<神道>

  ・雲竜型(うんりゅうがた)とは、横綱の土俵入りの型の一。競り上がりの時、左手を脇に付け右手を横に伸ばす左手は守り、右手は攻めを表す。綱の後方の結び目に大きな輪を作り、その中央に両端を揃えて背筋に立てる。10代横綱雲竜久吉が創案。

  ・不知火型(しらぬいがた)とは、横綱の土俵入りの型の一。競り上がりの時、両腕を左右に大きく開くのが特徴。攻めを表す。綱の後方の結び目は左右に二つの輪を作り中央の輪を立てる。8代横綱不知火諾右衛門が創始。

    ●勝負の判定

 相撲の勝負の判定は行司が先ず行います(第一次判定)が、これに異議を唱えて「行司差し違え」「物言い」などで判定を覆すことが出来るのが審判員(第二次判定)です。審判の判定には取口のビデオ判定が利用され、審判員の合議で決定されます。第二次判定には行司が口を挟むことは出来ず、そういう意味では審判員の方が行司よりも権威が有ると言えます。

  ・行司(ぎょうじ)は、相撲の土俵上で両者を立ち合わせ、勝負を判定し、勝ち名乗りを授ける人。「立(たて)―」「―が差し違える」。
  ・軍配(ぐんばい)/軍配団扇(ぐんばいうちわ)は、この場合、相撲の行司が力士の立合いや勝負の決定を指示するのに用いる具。形は武将の軍配に同じく、金泥で「天下太平国家安全」「一味清風」などと記し、長打紐を付ける。
    ・立行司(たてぎょうじ)とは、大相撲で、行司の最高位

     ★木村庄之助(きむらしょうのすけ)は、相撲の行司の名家。寛永(1624~1644)年中、相撲中興の時、真田伊豆守の臣、中立清重が行司を務めたのを流祖とし、以後3代目に至って木村庄之助を名乗り、代々襲名。紫房(しぶさ)の軍配を用いる。現在、日本相撲協会の立行司の筆頭横綱格。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
     ★式守伊之助(しきもりいのすけ)は、木村庄之助に次ぐ相撲行司の名家で、江戸中期に始まる。代々襲名。紫白(しはく)の軍配を用いる。現在、日本相撲協会の木村庄之助に次ぐ立行司。行司として唯一人の大関格で、木村庄之助空位の時は代役を務める。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

  ・差し違え(さしちがえ)とは、相撲で、行司が勝負を見誤り、負けた方に軍配を差すこと。
  ・物言い(ものいい)とは、相撲で、行司の勝負判定に審判、又は控力士から異議を出すこと。現状では、控力士が異議を出す事は殆ど無い。「―が付く」。

【脚注】
※1:相撲/角力(すもう)は、(動詞「争(すま)ふ」から。仮名遣「すまう」とも)
 [1].土俵内で、二人が組み合い力を闘わせて、相手を倒すか、若しくは土俵外に出す事に依って勝負を争う技。古代から宮廷で、相撲の節(すまいのせち)としてに行われた。現在は国技と称される。季語は
 [2].相撲取の略。
※1-1:相撲(すまい)とは、(争(すま)ふの連用形から)
 [1].すもう。垂仁紀「捔力(すまい)とらしむ」。
 [2].「すまいとり(相撲取)」の略。能因本枕草子むとくなるもの「―の負けて入るうしろ」。
 [3].相撲の節(すまいのせち)の略。
※1-2:相撲の節(すまいのせち)とは、奈良・平安時代、毎年7月(=秋)天皇が宮中で相撲を観覧する行事。2~3月頃、左右近衛府から部領使(ことりづかい)を諸国に遣わして相撲人を召し出し、7月26日に仁寿殿(じじゅこうでん)の庭で予行の内取(うちどり)が在り、相撲人は犢鼻褌(たふさぎ)の上に狩衣・袴を着けて取る。28日(小の月は27日)に本番の召合(めしあわせ)が在って20番(後には17番)を取り、天皇が紫宸殿などでこれを観覧する。翌29日に抜出(ぬきで)という前日の相撲人の優秀者の取組と追相撲(おいずまい)とが在る。

※2:角力(かくりょく/すもう)は、力を競べること。相撲(すもう)
※2-1:角逐(かくちく)とは、(「角」は競う意、「逐」は駆逐の意)互いに相手を落そうと争うこと。互いに競争すること。「両国の中東に於ける―」。
※2-2:角界(かくかい/かっかい)は、角力(すもう)の社会。
※2-3:力士(りきし)は、(古くはリキジとも)[1].力の強い人。
 [2].相撲取り。「贔屓の―」。
 [3].金剛力士の略。古今著聞集10「鬼王のかたちをあらはして、―のたちまちに来るかとおぼえたり」。
※2-4:角觝/角抵(かくてい)とは、角力(すもう)。力競べ。

※3:胡(こ)とは、(呉音はゴ。唐音はウ)
 [1].中国で、異民族の称。秦代・漢代には北方の匈奴、唐代には広く西域や万里の長城の外に住む異民族を指す。「五胡」。
 [2].中国で、一般に異民族・外国を指し、外来のものに冠する語。「胡弓・胡椒・胡麻」。
 [3].出鱈目なこと。「胡言・胡散」。
※3-1:胡人(こじん)とは、中国で北方の匈奴、又は西域の異民族。又、広く外国人。「紫髯緑眼の―」。

※4:国技(こくぎ、national sport)とは、その国特有の技芸で、一国の代表的な競技(武術/スポーツなど)。日本の相撲スペインの闘牛など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※5:奉納相撲(ほうのうずもう)は、奉納仕合の一。神仏の祭礼などに、その境内で行う相撲。

※6:興行(こうぎょう、performance)とは、客を集め、入場料を取って演劇・音曲・相撲・映画・見世物などを催すこと。「顔見世―」。
※6-1:勧進相撲(かんじんずもう)とは、勧進興行の一。
※6-2:勧進興行(かんじんこうぎょう)とは、社寺・仏像の建立・修繕などの為に、金品を募って能や歌舞伎などの興行を行うこと。

※7:大相撲(おおずもう)は、[1].一流の力士。大きな力士。
 [2].盛大な相撲の興行。特に、日本相撲協会に依って行われる相撲興行
 [3].力の籠もった、見応えの有る相撲の取組。

※8:仕来たり/為来たり(しきたり)とは、(「して来た事」の意)以前からの慣わし。慣例。先例。「―を守る」。

※9:八百長(やおちょう)は、(明治初年、通称「八百長」と呼ばれた八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合せで、勝つ力を持ち乍ら常に1勝1敗に成る様にあしらって居た事に起ると言う)
 [1].fixed game。相撲や各種の競技などで、一方が前以て負ける約束をして置いて、上辺だけの勝負を争うこと。馴れ合い勝負。「―試合」。
 [2].rigged affair。転じて、内々示し合わせて置いて、馴れ合いで事を運ぶこと。「質疑応答で―をする」。

※10:造化の三神(ぞうかのさんしん)とは、天地開闢の初め、高天原に現れて万物を経営したという3神。古事記では、天御中主神高皇産霊神神皇産霊神
※10-1:天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)は、古事記で、造化の三神の一。天地開闢の初め、高天原に最初に出現、天の中央に座して宇宙を主宰したという神。中国の思想に拠る天帝の観念から作られたと言う。
※10-2:高皇産霊神/高御産巣日神/高御産日神/高御魂神(たかみむすひのかみ/たかみむすびのかみ)は、古事記で、天地開闢の時、高天原に出現したという造化の三神の一。天孫降臨の神勅を下す。鎮魂神として神祇官八神の一。別名、高木神(たかぎのかみ)。
※10-3:神皇産霊神/神産巣日神(かみむすひのかみ/かむみむすひのかみ)は、記紀神話で天地開闢の際、高天原に出現したと伝える造化の三神の一女神とも言われる。

※11:四神(しじん)とは、天の四方の方角を司る神、即ち東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武の称。四獣。

※12:タニマチ/谷町(たにまち)は、相撲界で、力士の後援者・贔屓筋のこと。明治末年に大阪谷町筋の相撲好きの外科医が力士から治療代を取らなかった事からと言う。
 補足すると、谷町筋には寺が密集し大阪場所の際に各部屋の宿舎に成った為に、大阪場所の季節には谷町界隈は力士で賑わいました。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『格闘技バイブル』(松浪健四郎著、ベースボール・マガジン社)。

△2:『集安高句麗壁画』(吴广孝著、山東画報出版社)。

△3:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△4:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△5:『相撲の誕生』(長谷川明著、新潮選書)。

△6:『図説 スポーツ史』(寒川恒夫編、朝倉書店)。

△7:『日本の相撲』(谷川徹三・笠置山勝一著、鰭崎英朋画、ベースボール・マガジン社)。

△8:『カラーブックス 埴輪』(伊達宗泰著、保育社)。

△9:『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦校注、角川文庫)。

△10:『謎の絵師 写楽の世界(東洲斎写楽全作品集)』(高橋克彦著、講談社カルチャーブックス)。


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