−− 2004.08.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2012.09.30 改訂
(1)当ページの完成が遅れた訳
当ページの写真の殆どは2004年7月25日(日)の大阪天満宮の天神祭船渡御(※1、※1−1、※2)(→後述)に乗り込んだ時のもので、当ページを作ろうと同年8月10日には写真を貼り付け8月末頃迄には記事も1/3位は入れたのですが、何かの理由で放棄して仕舞い、時間が経つに連れすっかり忘れて仕舞いました。私のHP(=ホームページ)は可なり膨大な量に成って居るので、しばしばそういうことが有ります。
ところが私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血で倒れ、2011年12月初〜2012年2月末迄「檻の中」で入院生活を送りました。入院生活とは私にとっては正に「檻の中」に幽閉されたも同然の状態ですが、でもそれなりに楽しい部分も有りましたが...、基本的には単調な毎日です。
詳細は省きますが、一応身体的には元の状態の90%は取り戻したかなという感じですが、言語障害が30%位残って居ます。これも2012年10月段階でも非常に”ゆっくり”とではありますが回復過程に在ります。
その様な状況の中で、私はHP作りをボチボチと再開しようと思い立ち、最初は新規作成では無く改造から始めようと考えて、埋もれて居た当ページを検索して見付けました。そして当ページの完成を試み、2012年8月8日〜同年9月30日の間に少しずつ文章を追加し改造して行きました。8年前の記憶ですがまざまざと覚えて居ました。記憶の方はどうやら大丈夫の様です!
HPの形式での編集や曰く言い難い手順など −大分忘れ掛けて居た!− に漸く慣れて、元の感覚を取り戻した所にやっと帰って来れたという感じです。兎に角、このページの改造の完成が脳出血後の最初の”仕事”です。
(2)大阪の夏祭
毎年夏は全国津々浦々で大小の夏祭が行われますが、真夏の7月24日(宵宮)と25日(本宮)に行われる大阪天満宮の天神祭(※1、※1−1)は日本三大祭の一つとも言われ、大阪の真夏の到来を告げる風物詩です(→大阪天満宮の地図)。
因みに、三大祭とは
祇園祭(京都)、天神祭(大阪)、神田祭(又は山王祭)(東京)
を言うんだそうです。又、大阪では
天満宮の天神祭、勝鬘院の勝鬘愛染会、住吉神社の住吉祭
を大阪の三大夏祭と呼んで居ます。
今回このページでは25日の本宮における船渡御(※2)の船に乗り込みましたので、その様子を中心にお話しましょう。そらー、迫力が違いまっせ、近くで鳴る花火の。そしてビールが旨い、川風に煽られて飲む味は。大阪はやっぱり「水の都」ですなあ!!
近年では日本の祭をイベントと捉え勝ちですが、イベントの要素を含み乍らも祭は単なるイベントとはちゃいまっせ、ということも少しお話させて貰います。
ところで例年この時期はクソ暑い最中ですが天神祭の直前には土用の丑(うし)の日(※3)が廻って来ますので、皆さん鰻(ウナギ)でも食って精付けてから見物するのも良いかも知れませんね。実はウシ(丑と牛)と天神さんとは関係が深いんでっせ!!
(1)菅原道真と天神信仰
大阪天満宮(大阪市北区天神橋2)が「学問の神様」として名高い菅原道真(※4)を祭神としていることは良く知られて居ます、「学問の神様」とは文章博士などの道真のキャリアの為です。そして正月三箇日の初詣は大変な賑わいを呈します。
ところで道真は”祟り神”としても知られて居ます。宇多天皇の贔屓で右大臣に迄登り詰めた道真ですが左大臣藤原時平(※5)の「分を弁えず専横甚だしきは謀反の心有り」という讒訴(ざんそ)に敗れ醍醐天皇治下の901(昌泰4)年の1月25日に道真の大宰府権帥への左遷が決議され(これを「昌泰の変」と言う)、配流から約半年後に醍醐政権は901年7月15日に「昌泰」から「延喜」に改元し権力側は自らの正当化を果たし、2年後の903(延喜3)年2月25日に道真は無念の内に大宰府で病没(享年59歳)して仕舞い怨念が残った、という内容です。
しかし道真が”祟り神”に祀り上げられるには、単純に左遷への恨みや時平への怨念のみでは無く、中世独特の御霊信仰(※6、※6−1)と結び付いて”怨霊”とか”祟り”とかが民衆的レベルで拡大解釈され、道真のイメージは死後に誇張され変質されて遂には超人的な「天神様(てんじんさま)」(※7の[3]) −この場合は濁って発音する− に成って行くのです。道真が火雷神に成ったり”クワバラ、クワバラ”(※8)などと言う呪文はその典型です。
その後、江戸時代に入り寺子屋の普及と共に天神様の「学問の神様」の面が大いに受けて全国津々浦々に拡散しました。その傾向は”受験戦争”の現代に於いても変わることなく重宝がられて居ます、「苦しい時の神頼み」という訳ですね。
このページでは天神信仰に関してはこれ位に留め次に進めましょう。尚、天神信仰の詳細については09年に
「2009年・年頭所感−聖牛に肖ろう」
をアップしましたので是非ご覧下さい。
(2)大阪天満宮の由緒
次は大阪天満宮の由緒について。道真は大宰府に左遷される前に摂津中島の大将軍社に参詣したそうですが、死後46年も経った949(天暦3)年の或る夜に大将軍社の前に突然7本の松が生え夜毎に梢は金色の霊光を放ったと言われます。これを聞いた村上天皇(※9)は菅公に縁の奇端として同地に勅命を以て菅公を祀ったのが大阪天満宮の起源とのことです(△1)。ということで949(天暦3)年を大阪天満宮の創始として居ます。尚、社殿は1837(天保8)年の大塩平八郎の乱で全焼し現在の社殿は1843(天保14)年に再建されたものです。大将軍社は今は摂社として祀られて居ます。
ところで天満宮とは菅原道真を祀る神社のことで、そこでは一般に道真のことを天神様(てんじんさま)と呼びますが、この訳は実は道真の神号(※10)が「天満大自在天神」(※11、死後に諡(おくりな)された)だからなのです。それで天満宮とか天神(てんじん)と呼ばれる神社は、稲荷社、八幡社、伊勢神明社に次いで全国で4番目に数が多く約1万余社在るのです(△2のp295)。
(3)天神祭の起源
天神祭の起源は、大阪天満宮が創始された2年後の天暦5(951)年から早くも始まったとされ、大川(旧淀川)より神鉾を流し流れ着いた場所に祭場を設けて禊払いを行ったのが起源とされて居ます。当初は陰暦6月1日に行われた様ですが、これが鉾流神事 −現在は宵宮の祭事− の元となり、その祭場に船で奉迎したことが船渡御(※2)の起源になったと伝えられて居ます(△3のp105)。そして太閤秀吉の頃には現在の船渡御に近い形に整備され、江戸時代の元禄の頃(1688〜1704年)には早くも大衆的人気を獲得し享保年間(1716〜1736年)には「講」(※12、※12−1)が組織され祭の母体に成って行きました。三大祭の一つに数えられるのもこの頃からです。
『摂津名所図会』(1800年頃刊)には当時の天神祭の様子 −この頃は渡御船は陰暦6月25日に出航した− が描かれ、花火も「星降り・昇り龍」など賑やかで「大坂第一の賑なり。京師の祇園会・浪花の天満祭(※1−2)は聞くよりも見るが百倍なるべし。」(△4のp441)と記されて居ます。
という訳で、天神祭は「水の都」大阪のシンボル、もう1千年以上の歴史を誇るのです。尚、江戸時代は「大坂」と書きまっせ。
2004年7月25日(日)に私は天神祭の渡御船(※2)に乗り込みました。
天神祭の船に乗るには、形の上では何処かの「講」に所属しなければ為りません。上述の如く享保頃から商人の町である大坂の米問屋とか魚問屋とか八百屋 −付近には江戸時代の天満青物市場跡も在った− とかが小単位の「講」を組織し、天神祭は大阪天満宮の氏子に依る祭事であるという体裁を整えるに至りました。と言っても協賛団体などが売り出すチケットを「予約」で買えば、一時的に協賛している「講」に入ったと見做せる訳です。この取引を保証するのは「¥」、つまり「なんぼやねん」という訳ですね。
森之宮神社(鵲森宮)の石崎宮司の顔が見えますが、この御仁が「¥」を媒介した人です。17時45分〜21時、お弁当とお茶付きで¥20、000でした。
船は4種類に分けれられます。御神霊を乗せた御鳳輦奉安船、催太鼓船や地車囃子船など神に仕える講社の供奉船、協賛団体や市民船などの神をお迎えする奉拝船、どんどこ船や御迎人形船、落語船など祭を盛り上げる為に運行する列外船です(『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』より)。私たちの乗った船は「天神祭渡御行事保存協賛会」という「講」が協賛して出す奉拝船で、桜之宮公園の飛翔橋の少し上流から乗り込みました。これから大川をゆっくりと下って行きます。
この写真の様に普通よりはちょっと豪華な幕の内弁当で腹拵えしました。後は缶ビールですね(但しビール代は別料金、この日は宮司さんが用意)、私はショートで3本位です。缶ビールなんてそれ程飲めるもんじゃありませんよ。やっぱり日本酒ですな、しかしそれは船を降りる迄おあずけでした。
奉拝船が他の奉拝船や列外船と行き会うと「大阪締め」と言う手締めを交わす習わしに成って居ます。しかし御鳳輦奉安船が通る時は逆に沈黙します。私たちの奉拝船には天神祭の概略を説明しガイドしてくれる女性が乗っており、ガイドに従って私たちも「大阪締め」を練習しました。
大阪締め
打ちましょ [パン、パン]
もひとつせぇ [パン、パン]
祝うて三度 [パ、パン、パン]
下の写真が私たちと行き違う別の奉拝船で、両船は互いに「大阪締め」でエールの交歓をしました。
下は薪能を演じて見せる能船で列外船の一つです。右下の写真は何やら舞っているところですが面は付けていませんね。
そして下が間近で鳴る花火です。天神祭と言うと何時もはこの花火を遠くから聞き、そして眺めている訳ですが、間近で聴く花火は流石に迫力が有りまっせ!
夜風が気持ち良くなって来ました。船上から少し違う風景を撮ってみました。左下はOAPタワーと帝国ホテル大阪のビルの間から月が覗いて居ました。今日は旧暦の6月9日、月齢7.7の上弦の月です。
右下は真っ赤な花火と銀橋(桜宮橋)です、この頃の銀橋は良かったですね。
花火もそろそろ終わりに近付いて来ました。左下の写真は川崎橋、右下は花火に照らし出された橋を渡るJR環状線です。桜ノ宮駅に着くところで、電車のお客の内の何人かは車窓からこの花火を見ていることでしょう。
午後9時近くに船を降りた私たちは有志で日本酒を飲みに行きましたよ、やはり酒を飲まん事にはアキマヘンわ。天満界隈には飲み屋は仰山(ぎょうさん)在りまっせ!!
(1)神紋
天神様に成った道真の紋所は「梅鉢」とされて居ますが、それが史実かどうかは定かでは有りません(△1)。
フーム、成る程。因みに、我が家の家紋が「丸に梅鉢」ですゾ。序でに加賀前田家の家紋が「剣梅鉢」です。左の写真が大阪天満宮の神紋のです。
また道真は梅の花や梅の木とも縁が深く、各地の天神社や天満宮の境内には必ず梅の木が植えられて居て、飛梅伝説(※13)なども在ります。その伝説の元に成ったのが大宰府配流の出立の折に詠んだとされる以下の歌です。
東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ 菅原道真
(2)天神様と牛
右の写真は当社の牛祭の為に寄進された等身大の伏臥牛像です。牛は菅公の神使とされ天満宮及び菅公を主祭神とする天神社には必ず寝そべった牛(=伏臥牛)の像が在りますので、心に留めて見付けて下さい。
ところで菅原道真は845(承和12)年6月25日京都生まれで(△1)、その干支は乙丑(きのとうし)つまり道真は丑年生まれなのです。
(3)聖数25
菅原道真が生まれたのが845(承和12)年6月25日で、大宰府への左遷が決定したのが901(昌泰4)年1月25日、そして2年後の903(延喜3)年2月25日に大宰府で病没(享年59歳)しています。これらの日付は全て旧暦ですが全て25日なのです。そしてこの天神祭の船渡御も元々は旧暦6月25日 −それは生誕日に一致している− に行われ、現在は7月25日です。
つまり天神信仰の背後にほ聖数25への収斂を見て取れる訳で、宗教を広める上ではこの様な聖数は大事な要素の一つです。天満宮や天神様では25日を縁日や月毎の祭礼に割り当てている所が殆どです。
(4)道真とは無縁な天神(てんしん)
ところで世の中には菅原道真とは無縁な天神が在るのです。この場合には天神(てんしん)(※7の[1])と濁らずと読むのです。つまり天孫系の神を祀り、××天神宮などと称する神社です。
祀っている神は様々で、少彦名命(※14)を祀っている所も少なく有りません。これらの神社は元々は道真とは無縁でありましたが、道真の天神様が余りにも普及したので後日に道真を祭神の一柱として加えた所も多く在ります。例えば
大阪: 御幸森天神宮・露天神社・服部天神宮 etc
京都: 五条天神宮・藁天神・北白川天神宮 etc
などが、元々は道真と無縁な天神宮(てんしんぐう)です。参詣の時など、ちょっと注意して見てやって下さい。
そもそも糞暑い夏の盛りに何で神輿を担いだりダンジリ引いたりと、余計に暑く成ることを何故するのかと言うと、何処の夏の祭にも共通することは、元々夏祭には暑気祓いと疫病祓いの意味が込められて居るのです。今の様に直ぐに抗生物質に頼れない昔の時代では、夏に体力を消耗し易く疫病が流行り易かったので、子供やお年寄りなど弱い人々がバタバタと夏に亡くなって逝くことが多かったのです。そこで夏の盛りに禊(みそぎ)を行い神に感謝し、病魔・罪穢を祓い清福を祈請し、同時に思い切り躍動感の有る祭事を奉納しました。
激しい運動をすれば汗を掻き腹が減る、従って新陳代謝が良く成り飯が美味く成って健康に成る、という訳です。全く理屈の上からも、健康食品を飲んで家に籠もって居るよりもずっと健康的なのです。
【脚注】
※1:天満宮(てんまんぐう)は、天満天神(菅原道真)を祀った神社の宮号。北野天満宮・太宰府天満宮・大阪天満宮など全国各地に在る。
※1−1:天神祭(てんじんまつり)は、7月(陰暦6月)25日に行われる天満宮の夏祭。天満祭(てんままつり)。季語は夏。
※1−2:天満祭(てんままつり)とは、大阪の天満宮の夏祭、即ち天神祭のこと。7月25日、昔は陰暦6月。神輿(みこし)の川渡御を中心行事として江戸時代を通じて盛ん。天満の船祭。天満天神祭。季語は夏。
※2:渡御(とぎょ)とは、天皇・三后、又は神輿のお出かけになること。おでまし。出御。後には将軍にも用いられた。保元物語「法住寺殿へ―あるに」。
※3:土用(どよう)とは、暦法で、立夏の前18日を春の土用、立秋の前18日を夏の土用、立冬の前18日を秋の土用、立春の前18日を冬の土用と言い、その初めの日を土用の入りと言う。普通には夏の土用を指して言う。
※3−1:土用鰻(どよううなぎ)とは、夏の土用の丑の日に食べる鰻。夏負けしないと言う。
※4:菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安前期の貴族・学者。是善の子(845〜903)。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣と成ったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言に因り大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、配所に没。書を良くし、三聖の一。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。死後、種々の怪異が現れた為に御霊(ごりょう)が天神様として北野天満宮に祀られ、後に学問の神として尊崇される。菅公(かんこう)。菅丞相(かんしょうじょう)。菅家(かんけ)。
※5:藤原時平(ふじわらのときひら)は、平安前期の貴族(871〜909)。基経の長子。宇多・醍醐両天皇に仕え、累進して左大臣。天皇の信任厚い菅原道真を大宰権帥に左遷し、政界に於ける藤原氏の地位を確立。「延喜格式」「三代実録」を撰上。その死は道真の祟(たたり)に因るという説が流布した。
※6:御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊(ごりょう)の祟りとして恐れ、御霊を鎮めることに依って平穏を回復しようとする信仰。
※6−1:御霊神社(ごりょうじんじゃ)とは、遺恨の死を遂げた人々の御霊(ごりょう)を祀る神社。崇道天皇社・上御霊神社・下御霊神社・北野天満宮などで、単に御霊神社という名の社も全国に散在する。
※7:天神(てんしん/てんじん)とは、
[1].(濁らず「テンシン」)
[a].(元々は中国で天界に住む神を言い)天の神。←→地神。
[b].(記紀神話に転用されて)天津神(あまつかみ)、天孫系の神。←→地祇、国津神。
[2].〔仏〕天界に住して仏法を守護する神。天。諸天。
[3].(濁って「テンジン」)菅原道真の神号。道真を火雷天神とする信仰が起り、後に京都に北野天神が創建された。又、道真を祀った神社(天満宮)。
※8:桑原(くわばら)とは、
[1].桑の樹を植え付けた畑。桑田。
[2].[a].雷鳴の時、落雷を避ける呪文として用いる語。又、一般に忌わしい事を避ける為にも言う。
[b].雷神が誤って農家の井戸に落ちた時、農夫は蓋をして天に帰らせなかった。雷神は、自分は桑樹を嫌うから、「桑原桑原」と唱えるならば再び落ちまいと答えたとの伝説に基づくと言う。
[c].又、死して雷と成ったと伝える菅公の領地桑原には古来落雷した例が無いのに因むとも言う。
狂、雷「アア、――」。
※9:村上天皇(むらかみてんのう)は、平安中期の天皇(926〜967、在位946〜967)。醍醐天皇の第14皇子。名は成明(なりあきら)。後世、天暦の治と称される。日記「天暦御記」。
※10:神号(しんごう)とは、[1].神の称号。
[2].神祇の別名として加える名号。皇大神・大神・大御神・明神・大明神・天神・地祇・菩薩・権現・天王・若宮・新宮・今宮の類。
※11:大自在天(だいじざいてん)は、(Mahesvara[梵]、摩醯首羅(まけいしゅら))ヒンドゥー教のシヴァ神の異名で、万物創造の最高神。仏教に入って護法神と成り、色究竟天に居住すると言う。密教では伊舎那天と同一視 −大自在天の忿怒形− され、十二天の一。 自在天。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12:講(こう)とは、[1].神仏を祀り、又は参詣する同行者で組織する団体。二十三夜講・伊勢講・稲荷講・大師講・富士講の類。
[2].一種の金融組合又は相互扶助組織。頼母子講(たのもしこう)・無尽講の類。
※12−1:講社(こうしゃ)とは、講中(こうじゅう)の団体。講。
※13:飛梅(とびうめ)とは、[1].菅原道真が大宰府に左遷されて家を出る時
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
と詠んだ梅の木が道真の配所筑紫迄飛んでその庭に生え匂ったという故事。
[2].安楽寺(太宰府天満宮)の庭に在る、[1]の伝説に基づく梅の木。
※14:少彦名神(すくなびこなのかみ)は、日本神話で高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(古事記では神産巣日神(かみむすびのかみ))の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当り、医薬・禁厭(まじない)などの法を創めたと言う。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:「大阪天満宮」公式サイト。
△2:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。
△3:『日本の神々 神社と聖地2』(谷川健一編、白水社)。
△4:『摂津名所図会 上巻』(秋里籬島著、原田幹校訂、古典籍刊行会)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):大阪天満宮の地図▼
地図−日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)
@補完ページ(Complementary):天神信仰の詳細について▼
2009年・年頭所感−聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)
@横顔(Profile):森之宮神社の石崎宮司とは▼
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)
脳出血後の最初の新規ページ▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
祭とイベントの違い▼
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
元々は道真と無縁な天神宮:
御幸森天神宮▼
猪甘津の橋と猪飼野今昔(The oldest bridge and Ikaino, Osaka)
露天神社▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
道真の飛梅伝説▼
2003年・大阪城の梅便り
(Japanese apricot blossoms of Osaka castle, 2003)