2003年・大阪城の梅便り
[春を告げる花#1]
(Japanese apricot blossoms of Osaka castle, 2003)

−− 2003.02.17 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.03.23 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに − 憚り乍ら、大阪城公園は「私の庭」です

写真1:大阪城。 立春が過ぎたらやはり段々と暖かく成って来た様な気がします。そこで大阪城の梅便りをお伝えしましょう。
 という訳で2月13日に写真撮影に行ったのですが、薄紅梅の写真が少なかったので2月17日にもう一度薄紅梅を撮りに行きました。今年は暖冬で2月13日が満開(←通常は2月25日頃〜3月5日頃)で、17日には少し散って居ました。
 →大阪城の地図を見る(Open the map)

 大阪城はご存知の様にあの太閤秀吉が石山本願寺跡に1583(天正11)年から築城し、当時は大坂城と書きました。その後大坂夏の陣で焼失後、元和〜寛永年間に大修築されましたが、1868(明治1)年、明治維新の動乱の戦火を蒙り建造物の大部分が焼失しました。1931(昭和6)年本丸内外の一部を公園とし、天守閣を再建しました。又、最近の2000(平成12)年には城の外装・内装を修築し、燻っていた白壁を右の写真の様に化粧直しをしました。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 現在残っている五重天守の大阪城は秀吉が創建したものでは無く、寛永年間に徳川幕府に依り再建されたものです。徳川再築の際には築城の名手と言われた藤堂高虎の献策を入れて堀の深さと高さを秀吉築城当時の倍にし、本丸正面には日本一の大きさを誇る花崗岩を使用し、望楼型天守閣も秀吉当時の倍の大きさにして居ます。長い戦乱の後漸く安定化し始めた徳川幕府は、尚機会を伺う西国大名や大坂の商人達に対しての防御という戦略的意味合いと、幕府の絶対的権威を誇示する為のシンボルという心理的意味合いから、当時の最新技術を駆使して、全国に天下普請の大号令を掛けたのです。

 公園内は新春が梅(※1)、春は桜、秋は銀杏の黄葉と四季折々の姿を見せ、緑の少ない大阪の街中(まちなか)ではオアシス的な存在です。大阪城公園は私の散歩コースの1つで、言わば「私の庭」の1つですので、皆さんが今後大阪城公園に入る時は一言私に断って下さい、アッハッハ!
 1つ困ったことが有るのですが、不景気の所為かここ数年ホームレスの人達が年々増え続けて居ますが、ここ大阪城公園と隣接する桜之宮公園は今やホームレスのメッカと化して、テント村が出来上がって居ます、彼等も私に無断なんですがねえ、いやはや。

 ■大阪城梅林の起源

 大阪城公園梅林は本丸東側の内濠の外の二の丸に在り、往時は加番大名とその家来の長屋が建ち並び市正曲輪(いちのかみくるわ)(※2、※2−1)と称され、戦時中は陸軍用地だった所です。戦後市民に開放されて大阪府立北野高等学校六稜同窓会1973年10月6日に創立100周年を記念して大阪市に22種・880本の梅を寄贈したのが切っ掛けで梅林が造成され、今では約90種・1200本以上の梅林に成長しました。尚、創立100周年とは前身の中学校が難波御堂内に創立された1873年を基点としたもので、「北野」の名は大阪駅北の北区北野芝田町(現北区芝田)に移転した1902年からです。

写真2:本丸から梅林を望む。 左の写真が本丸の東から内濠の向こうの梅林を望んだ写真で、遠くには東大阪の街並みと生駒山が見えます。今年は暖かく、ご覧の様に2月13日には梅見客が大勢繰り出して居ました。
 右下の写真が梅林入口の「大阪城梅林」の石碑です。
写真2−2:大阪城梅林の碑。
 左下の写真が梅林の発祥を証する北野高校六稜(りくりょう)同窓会の寄贈碑で、梅林の中に在ります。「寄贈 梅880本」「1973.10.6」と刻んで在りますね、裏には「母校の創立百周年記念事業として大阪の人々に感謝の念を込め緑化の一助として梅を贈る」と書いた銘板が嵌め込まれて居ます。{この写真は04年3月23日に追加}写真3:大阪城公園近くを飛ぶ飛行機。
写真2−3:北野高校六稜同窓会の寄贈碑。
 右の写真は梅林の東側上空を飛ぶ飛行機です。先程の生駒山の背後の方から大阪城公園東の上空を通って伊丹の空港に向かうもので、この辺りでは可なり高度を下げて居るので大きく見えます。ですから飛行機は大阪城公園の重要なアイテムです。

 それでは梅林を散歩し乍らボチボチと梅を見て行きましょう。

 ■梅の競演

 私は梅の木の詳しい名前は知りませんが、見て判るのは花の色で、花の色から大別すると大阪城公園の梅は、白(白梅)ピンク(薄紅梅)赤(紅梅)黄(蝋梅)の4種類です。ですから花の色別に写真を展示することにします。どうぞご緩りとご覧下さい。

 (1)白梅

 左下が八重、右下が一重の白梅です。白梅はやはり清楚な落ち着きが有りますね、じっと見ていても飽きません。
写真4:白梅の花。写真5:白梅の花。

 下は一重の白梅の見事な咲きっぷりで、女王の様な貫禄が有ります。
写真6:白梅の花と梅の実。

 梅は花だけで無く枝振りも鑑賞の対象に成り、その証拠に日本渡来以前の古代中国時代から盆栽に用いられ(△1)、光琳の有名な『紅白梅図屏風』でも花よりも幹と枝振りが強調されて居ます。
 下の写真も白梅ですが、少し離れて見ると松を想わせる「雲形」をして居ます。梅林を廻っていて気が付いたのは、この様に松をイメージした形の木が結構在りました。
写真7:松梅。

 下の白梅も松を想わせる雲形をして居て「南高」という品種です。この梅の背後・左側の莚(むしろ)は臨時出店の茶店の裏です。この様にシーズンに成ると茶店や盆栽屋(梅を見に来る人は盆栽好きだろうと踏んでのことでしょう)が出て、中々賑やかに成ります。私は甘酒を買って飲み乍ら回りました。背後・右側に見える屋根はこの梅林の休憩所(常設)のものです。
写真8:白梅。

 ところで、こうして梅林を廻っていると、梅の花からは甘酸っぱい香りが可なり強く押し寄せて来ます。しかし、花に顔を近付け直(じか)に花の匂いを嗅いでも、沈丁花(じんちょうげ)などとは違い、然程匂いません。この辺が梅の梅たる所以でしょう。

 (2)薄紅梅

写真10:薄紅梅。  薄紅梅も中々好いですね、中庸で温和な品(ひん)が有ります。そして枝振りも様々です。
 左下のは枝がすーっと真っ直ぐ伸びて居ますが、右のはやはり松の様にあしらって在ります。
写真9:薄紅梅。
写真11:薄紅梅。
 左は普通の枝振りですね。下は枝垂れです。
写真12:薄紅梅(枝垂れ)。
 

 下が八重の薄紅梅の花冠です。
写真13:薄紅梅の花弁。

 (3)紅梅

 清少納言(※3)は『枕草子』第37段(※3−1)で

  木の花は こきもうすきも紅梅。

と、紅梅と薄紅梅を第一に推奨して居ます(△2)が、特に深紅の紅梅は白梅の清楚さや薄紅梅の温和さとは対照的で、その艶(あで)やかさには強さが有り彼女の「内に秘めたる強い意思」の様なものを感じさせます。
 そもそも『枕草子』という随筆は物事を「好き、嫌い」で割り切った宣言集であり、そう割り切れる彼女は寧ろ男性的な理知と才気煥発の人と思えます。もしかしたら清少納言自身も紅梅の色の強さに自分自身を投影して見て居たのかも知れませんね。
写真14:紅梅。


写真15:紅梅の花。写真16:紅梅。写真17:紅梅の花。

 (4)蝋梅
写真18:蝋梅。
 黄色の梅が蝋梅(※4)です。俗に唐梅(からうめ)、南京梅と言われて居るものです。中国原産ですが、他の梅がバラ科サクラ属の落葉高木(※1)であるのに対して、これはロウバイ科の落葉低木です。
 木の幹は右の写真の様に小振りで、花弁は名前の通り厚ぼったく蝋で作られて居る様に見えます(下の写真)。そして花は甘酸っぱい香気を強く発します。
 又、同じ発音で臘梅とも書きますが、その理由は旧暦12月頃に咲く −昔は旧暦12月(=現在の1月頃)を臘(ろう)(※4−1)と呼んだ− からで、つまり早咲きです。
写真19:蝋梅の花。

 ■古人と梅

 奈良時代の古人(いにしえびと)の間では「花見」と言うと梅見が盛んに行われたらしく、梅を詠んだ歌が多数残されて居ます。『万葉集』では桜の歌が44首在るのに対し、梅の歌は118首と圧倒的に多いのです。桜が現在の様に「花見」や「春の花」の中心に成るのは平安時代の『古今集』以後なのです、ご存知でしたか?

 □万葉集(815番、833番、843番歌、△3)

  正月(むつき)立ち 春の来たらば かくしこそ
    を招(を)きつつ 楽しき竟(を)へめ   大弐紀卿

  年のはに 春の来たらば かくしこそ
    をかざして 楽しく飲まめ     大令史野氏宿奈麻呂

  の花 折りかざしつつ 諸人の
    遊ぶを見れば 都しぞ思(も)ふ       土師氏御通


 □古今和歌集(5番、38番歌、△4)

  がえに きゐる鶯 春かけて
    鳴けどもまだ 雪はふりつつ         詠人しらず

  きみならで 誰にか見せん の花
    色をも香をも 知る人ぞ知る         紀とものり


 上で「梅をかざして」とか「折りかざしつつ」と在りますが、昔は宮廷では男性が想いを寄せる女性に梅の枝を折って手渡すという遊びが在ったのですね、だから地方の任地でそういう遊びを見ると都を思い出す訳です。

 □拾遺和歌集

 ところで梅と言えば忘れて為らないのは菅原道真(※5)です。道真は平安貴族の御霊信仰(※6)で天神様に祀り上げられて仕舞いましたが、各地の天神社(天満宮とも言う)の境内には必ず梅の木が植えられて居て、これは飛梅伝説(※7)に由来します。菅原家の家紋や天神社の神紋も梅鉢紋です。その伝説の元に成ったのが大宰府配流の出立の折に詠んだとされる以下の歌です。

  東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ の花
    あるじなしとて 春な忘れそ         菅原道真



 尚、『小倉百人一首』の24番歌には『古今集』巻9−420(△4)から採られた道真の別の歌が在ります。

                (-_*)

 ■結び − 梅に鶯か?!


写真20:梅林から望んだ大阪城。

 さて、これで一通り梅を眺めて来た訳ですが一口に梅と言っても色々在るんですねえ。梅林を去る前にはもう一度大阪城(大坂城)の梅の花を振り返ってご覧下さい。

写真21:白梅とメジロ。
 2月17日に薄紅梅を撮影しに再び梅林に行きました。この日は晴れてとても暖かい日で、梅の香りに誘われてか、13日には余り居なかったオリーブ色をした小鳥が5、6羽位ずつ群れを為して何度か白梅の枝に飛んで来ましたので、私は嬉しく成ってシャッターを切りました(右の写真)。「梅に鶯」か、と思いきやこれは目白(メジロ)でした、ご覧の様に眼の周りが丸く白く成っているのがとても可愛いですね。「チュンチュン」鳴いて居たので、私が「ニャーオ」と言ったら逃げて行きました。
 

 如何でしたでしょうか。我が国では春を真っ先に告げるのが梅ですね。やがて柳の芽が芽吹き、桜が咲いて春マン開、春爛漫と成る訳です。桜の花見も良いですが、春の訪れを告げる梅の木の下で熱燗徳利で一杯遣るのも身が引き締まりオツな心持ちに成れるのではないでしょうか。

  ホーホケキョ 十九の春は 遠けれど
    枝をかざして 見酒かな
        月海

 ハッハッハ、前出の『万葉』『古今』を踏まえているでしょ、特に沖縄のウチナンチュウには「もう一つの謎掛け」が解ると思います。因みに私はドコナンチュウ(=国籍不明人)です。
 さて、大阪城公園の梅、これも「日本再発見の旅」の一つです。皆さんも身近な所で日本を再発見してみて下さい!
 このページはを特集しましたが、桃・桜と合わせて[春を告げる花]シリーズを構成して居ます。因みに梅・桃・桜は何れもバラ科サクラ属(※1)です。最後に写真でお見せ出来なかった「梅に鶯」を花札でご覧下さい。
                花札の図:「梅に鶯」。

 尚、[春を告げる花]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:梅(うめ、Japanese apricot)は、(狭義には「実」を表し、木は tree、花は blossoms を付加、「研究社 新英和・和英中辞典」に拠ると、梅は従来 plum と英訳されて居るがこれは正しく無いとのこと)。
 (「梅」の呉音メに基づく語で、古くはムメとも)バラ科サクラ属の落葉高木。中国原産。古く日本に渡来。樹皮は黒褐色。早春、葉に先立って開く花は、5弁香気が高く、奈良時代及びそれ以前は木の花の主流で、特に香りを賞で詩歌に詠まれる。花の色は白・紅・薄紅、一重咲・八重咲など多様。果実は梅干或いは梅漬とし、木材は器物とする。未熟の果実を生食すると、しばしば有毒。ブンゴウメ・リョクガクバイなど品種多数。好文木(コウブンボク)。季語は花が春、実が夏。
 補足すると、6月(旧暦では5月)頃降り続く長雨を五月雨(さみだれ)又は梅雨(ばいう、つゆ)と言いますが、梅雨とは「梅の実が実る頃に降る雨」に由来します。

※2:市正曲輪(いちのかみくるわ)は、豊臣の家臣・片桐市正且元の屋敷が在った所からその名が残ります。
※2−1:片桐且元(かたぎりかつもと)は、安土桃山時代の武将(1556〜1615)。近江の人。豊臣秀吉に仕え、市正(いちのかみ)と称。賤ヶ岳七本槍の一。秀吉の没後、秀頼の後見と成る。大坂落城後間も無く病没。
 補足すると、彼は大坂冬の陣の引き金と成った、有名な「国家安康」の方広寺鐘銘事件の処理を巡り大坂城を退去。家康からの信任も厚かった彼は冬の陣・夏の陣では徳川方として参戦。後加増され山城・大和・河内・和泉で4万石を領有しました。

※3:清少納言(せいしょうなごん)は、(「清」は本姓清原の略。「少納言」は宮中での呼称)平安中期の女房。元輔の女。中古三十六歌仙の一。生没年未詳(966頃〜1017以降)。本名未詳。981年頃に橘則光と結婚、翌年則長を生むが離別。993年に一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇を受けた。1000年定子没後の消息は不明だが、藤原棟世と再婚して上東門院に仕えた小馬命婦(こまのみょうぶ)を生んだらしい。和漢の学に通じた才女で、紫式部と並び称せられ「枕草子」の作者。家集「清少納言集」。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※3−1:枕草子(まくらのそうし)は、平安中期の随筆清少納言作。最終的成立は1000年(長保2)以後か。雑纂形態の本と類纂形態の本とが在る。作者が中宮定子に仕えて居た頃を中心に、外なる事物、情意生活、四季の情趣、人生などに関する随想・見聞を、歌枕類聚・「物は」類聚・日記回想などとして記す。簡潔で理知的な文体で鋭い写実と才気煥発に溢れ、「をかし」の美の理念を確立した作品と言われる。源氏物語と共に平安[女流]文学の双璧とされる。清少納言枕草子。清少納言記。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※4:蝋梅/臘梅(ろうばい)は、ロウバイ科の落葉低木。中国原産。高さ約3m。葉は卵形で両面共ざらつく。冬、葉に先立って香気の有る黄色の花(中心が暗紫色)を開く。外側の花弁は黄色、内側のは暗紫色で、蝋細工の様な光沢を有し、後に卵形の果実を結ぶ。観賞用。唐梅(からうめ)。南京梅。
※4−1:臘(ろう)とは、[1].冬至の後、第3の戌(いぬ)の日に行う祭。猟の獲物を先祖百神に供える
 [2].年の暮。旧暦12月の異称。臘日。

※5:菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安前期の貴族・学者。是善の子(845〜903)。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣と成ったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言に因り大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、配所に没。書を良くし、三聖の一。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。死後、種々の怪異が現れた為に御霊(ごりょう)が天神様として北野天満宮に祀られ、後に学問の神として尊崇される。菅公(かんこう)。菅丞相(かんしょうじょう)。菅家(かんけ)。

※6:御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊(ごりょう)の祟りとして恐れ、御霊を鎮めることに依って平穏を回復しようとする信仰。
※6−1:御霊(ごりょう)とは、[1].霊魂の尊敬語。後に、尋常で無い祟りを現す「みたま」(=死者の霊魂)について言った。保元物語「これ讃岐院の―なりとて」。
 [2].御霊会(ごりょうえ)の略。

※7:飛梅(とびうめ)とは、[1].菅原道真が大宰府に左遷されて家を出る時
  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
と詠んだ梅の木が道真の配所筑紫迄飛んでその庭に生え匂ったという故事。
 [2].安楽寺(太宰府天満宮)の庭に在る、[1]の伝説に基づく梅の木。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『中国の盆栽』(巴山祖友義・中国人民美術出版社編、美乃美)。

△2:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。

△3:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△4:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):大阪城付近の地図▼
地図−日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)

参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦の各月と季節▼
資料−「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』の菅原道真の歌▼
資料−小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
補完ページ(Complementary):大阪城の花▼
2008年・大阪城の躑躅(Azalea of Osaka castle, 2008)
「私の庭」について▼
ここが「私の庭」だ!(Here is the territory of Me !)
大阪城の夜景▼
黄昏の淀川〜大阪城(Twilight scene from Yodo-river to Osaka castle)


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