日本、形有る物を食う旅
[「脱”管理食”のすゝめ」の実践:国内行脚編]
(Practice of active meal, Japan)

-- 2007.02.06 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.02.04 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 軟弱で”ひ弱”な日本の「食」

 私は軟弱で”成分合わせ”でしか無い現在の日本の「食」の在り方
  「肉を食らう」ということ(Carnivorous life)

に於いて、このサイトの開設当初から理論的(←私の独断と偏見ではありますが)に批判文を掲載して来ました。栄養剤やドリンク剤やハンバーグの様な「形無き加工品」やラベルの宣伝文句や賞味期限に頼り、味覚の判断能力の低下した”ひ弱”(=軟弱且つ脆弱)な食文化人工的に過度に管理された”管理食”と断じました。そして
  民族変わればゲテモノ変わる(About the bizarre food)

に於いて、所謂ゲテモノ視は偏見や偏食に依存する場合が多いことを喝破しました。
 この様な”管理食”や偏食の現状を尻目に私は日々自然志向で「形有る物をバリバリ食う」ことを実践し、又、外国旅行の際にも必ず実践して居ますが、日本での実践録をこのページに順次載せて行こうと思い立った次第です。
 何故思い立ったかと言えば、06年暮れはノロウイルスへの過剰な恐れ、果てはテレビの納豆ダイエットのヤラセ(※1、△1のp147~173)など、「食」に対する哲学を持ち得ない連中が右往左往し付和雷同して居るからです。まぁ、大なり小なりテレビはヤラセ、そしてヤラセは捏造の一範疇(※1-1)ですが。更には哲学が無いのは「食」に限らず政治や教育など殆ど全てについて言え、今という時代と言うよりも無節操哲学の欠如は日本人の属性ではないか、と痛感させられます。
 価値観が時代と共に変化するのは世の常ですが、日本人が「肉を食らう」ことをどの様に考えて来たか、食われる動物とどの様に接して来たかは
  日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)

をご覧下さい。この論考の中で明らかにした様に、「形有る物をバリバリ食う」ことは現在蔓延して居るラベルに頼る”食い散らかし”の部分摂取から日本人が元来有していた全体摂取に立ち返ることであり同時に江戸時代の「粋」の心に肖(あやか)る実践ですが、それは取りも直さず現代日本の”飼い馴らされた”食文化への反骨の闘いだとも認識して居ます。
 更に中国に於いて「形有る物をバリバリ食う」ことの実践編も是非参照して下さい。
  中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)

 前口上が長く成りましたが、当ページは以上のページと密接な関係が有ることをご理解下さい。昨今の”ひ弱”な食文化の風潮に敢えて逆らって自分の健康論を実践して居る私の「食」の一端をここに開示しましょう。これは「「肉を食らう」ということ」に於いて私の提唱する「肉食の哲学:脱”管理食”のすゝめ」を実践する国内行脚編であり、又「敢えて言う」だけで無く「敢えて実行する」のも私の人生に於ける基本的態度です。形有る物を食ったら随時追加して行きます。
 尚、話の都合上偶(たま)に店の名前が登場しますが、このページはお店を紹介するのが目的では無い -店の紹介ページはネット上に文字通り”腐る程”在る- ことを予めお断りして置きます。

 ■土佐の鯵寿司

  ●06年10月15日 - 土佐で鯵寿司を食う

 05年~07年前半迄四国を集中的に回ってましたが、06年10月15日は室戸越えをする為、朝早くから高知を発ち、後免駅から土佐くろしお鉄道に乗り終点の奈半利駅に8時22分に降り立ち、路線バスを待ちました。バスはここが始発では無く途中の安芸駅始発で、ここには9時の到着です。
写真01:土佐の鯵寿司。 時間を持て余したので駅構内の「無花果(いちじく)」という売店を何気無くウロウロして見付けたのが左のアジ寿司(鯵寿司)(※2)です。ご覧の様にマアジ(真鯵)1匹の”姿寿司”(※2-1)で、これで400円です、安い!写真01-2:土佐の銘酒「土佐鶴」。
 これは誰が見ても原形が明解です。パックに「ゆず入」と書いて在る通り、(※3)の香りが効いて居ました。
 早朝とは言え、これを食うにはやはり酒が必要、そこで右の「土佐鶴」生貯蔵酒の小瓶(450円)も買いました。
 皆さん、早朝だからと言って酒を飲んでは行けない、或いはセックスをしては行けないという法律は無いのです。やはり”姿寿司”の醍醐味は格別で、私はバスを待つ間に食し尻尾迄しゃぶりましたよ、アッハッハッハ!
 これこそ土佐の「海の幸」の一つで、「日本、形有る物を食う旅」のトップを飾るに相応しい逸品でした。
 バスは定刻通りに出発、快晴の室戸岬の海岸は荒々しくも美しく阿佐海岸鉄道(三セク線)の甲浦駅に11時15分に到着しました。右上の酒は半分余ったので持って行き、日和佐城の天守閣で飲み干しました。予は満足であったゾ~!!

 ■鳴門の活牡蠣と佐賀県太良の牡蠣焼き

  ●07年1月11日 - 鳴門で活牡蠣を食う

 私は四国の一人旅の途次に、渦潮で有名な徳島県鳴門に寄りJR鳴門駅近くの居酒屋で、生きの良い魚介類をたらふく食いました。中でもノロウイルスの集団中毒の発生で”濡れ衣”を着せられて居る牡蠣(※4)を、敢えて世間に逆らって生(なま)食いました。
写真a1:鳴門の活牡蠣。 左が獲れ立ての殻付きの鳴門の活牡蠣、目の前で殻を割って貰って出て来た所です。実物はこの倍位の大きさで全部で4個、600円です。
 私は冬は最低3日に1日は生の牡蠣を食わないと居られないので思わず食おうとしましたが、直前に写真を撮ることを思い出し、御蔭でこうして皆さんにお目に掛けることが出来ました。
 味は至ってシンプル、紅葉卸しポン酢(※5)が少々、これに酸橘(※3-1)をキュッと絞って食う、素材の旨味を味わうのです。これを日本酒の燗と共に食う幸せ感は言葉などでは到底言い表せません、実に旨かった!
 ところで、【脚注】※5に在る様に、ポン酢の語源はオランダ語のポンス(pons)なんですね。
写真a2:鳴門駅の観光看板。
 牡蠣と言えば広島湾や松島湾そして浜名湖の養殖牡蠣が知られて居ますが、鳴門の渦潮に揉まれた牡蠣は磯の香りが高く絶品です。この店に入ったのが午後6時前、出たのが8時頃だったでしょうか。徳島のホテルに帰る為JR鳴門線に乗ろうとしましたが、出発迄1時間近く有ったので私はラーメン屋に入りこの日の晩飯としました。
 右が乗客も疎らな鳴門駅に立っていた観光看板です。

  ●10年11月14日 - 佐賀県太良で牡蠣焼きを食う

 JR長崎本線に沿って国道が通り多良駅付近 -太良町なのに駅名は多良駅です- には海を見ながら焼き貝が食える店が何軒か在ります。この日はそこで牡蠣焼きを食いました。システムが簡単で店は牡蠣とタレとビール等を用意し、後は客が勝手に焼き上げるだけ -旨いか不味いかは客の腕次第- です。余計なコストが掛からないので安いという訳で結構繁盛して居ます。大阪には無いね、こういう店。大阪は狡(こす)っ辛い!
 皆さん、佐賀県にも海が在るのですゾ(←広域地図で申し訳有りません)!
  地図-日本・九州地方(Map of Kyushu region, -Japan-)

 後でインターネットで調べたら、牡蠣焼き小屋が集まってる区域は「たらカキ焼海道」と言い大きな看板塔が在り、太良町が発祥です。何でも20年位前にドラム缶で牡蠣を焼いて出したのが始まりとか、いぁー豪気ですなあ。太良町の竹崎で養殖をしているので竹崎牡蠣と言うそうです、有明海で育てば旨い事間違い無し。

 ■丹波篠山の牡丹鍋

  ●07年2月4日 - 丹波篠山で牡丹鍋を食う

 先ず▼下のページ▼を是非ご覧下さい。
  2005年・丹波篠山牡丹鍋(The BOAR STEW of Sasayama, Hyogo, 2005)

 丹波篠山(兵庫県篠山市)には2年前の05年にも牡丹鍋を食いに行き、その時の記事が上のページです。当ページでも説明しますが猪鍋の作り方を詳しく紹介しています。
 今年は亥年(いどし)故に私は猪(※6)を食うことを今年の重大な行事と定めました。何故亥年に猪を食うのか?、これについては「2007年・年頭所感-猪食いに吉有り」の中でその心を詳述しましたので参照して戴くとして、結論は「肉食をする人間の業(ごう)の深さ(※7)と「食われる猪の痛み」を知り感謝の祈りを捧げようということです。そして「”膳”は急げ」と機会を窺って居ました。この日は05年のメンバーに西中島の「ひょうたん島」の大将 -昨年奈良の古墳をセスナで飛んだ仲間で「形有る物をバリバリ食う」同志にして「ラッポーエ同盟」の同志- と店の恵美ちゃんが加わりました。大将は山男なのでバスに乗らず全員JR福知山線篠山口駅から歩きました。帰りも歩きでした。猪鍋を牡丹鍋と呼ぶ訳は「日本の肉食文化の変遷」をご覧下さい、牡丹は猪の隠語(※8)なのです。
写真b1-2:偶蹄類の猪の蹄。写真b1:腹を裂かれ無造作に逆さに投げ込まれていた猪。
 先ず猪の解体所に行ったら水を張ったポリエチレン容器に腹を裂かれ無造作に逆さに投げ込まれて居た猪が居ました(右の2枚の写真)。容器から後脚が食み出して居ますが、蹄が2つに割れて居て猪が偶蹄類(※6-1)であることが見て取れます(拡大写真)。
 水がで赤く成って居ますが、これで引けて仕舞う様では貴方(又は貴女)は修行がたりませんゾ、「肉を食らう」とはこういう事なのです。

写真b2:この日のメンバー。 肉屋の店先の精肉だけを食して綺麗事を垂れて居る連中はこういう現実に目を背けているに過ぎません。現実を直視し「自然の摂理」を受け入れ己の業(ごう)を知る、それ故に「肉食には「肉食の哲学」が必要」なのです。
 私たちは修行を積んだ兵(つわもの)揃い、こんな光景はヘッチャラ、この後猪肉の串焼き(=200[円/本])を頬張り乍ら歩き、午後1時に「大手食堂」2階に陣取りました。右の写真の左側が大将と愛人の恵美ちゃん、右が古やんと私(撮影者が菅ちゃん)です。
 


写真b3:赤味噌仕込みの牡丹鍋。
 そして左が赤味噌仕込みの牡丹鍋、鍋は分厚い鉄鍋です。材料は厚切りの猪肉 -肉は厚切り大切りが必須- に豆腐・白菜・葱・菊菜・椎茸・人参・エノキダケ・ゴボウ・山芋(山芋はデカい)ですが、山椒をたっぷり入れ生玉子を付けて食います。生玉子はバンバン御代りして3~4個も食ったでしょうか、分厚くて噛み応えの有る猪肉を豪快に食って追加し結局5人で8人前を平らげ、酒もガンガン飲んで、最後はうどんをブチ込んで仕上げたら満腹。これだけ食って飲んで約6000[円/人]です。

    ◆食肉の隠語

 ここで「食肉の隠語」の例を「日本の肉食文化の変遷」から引用して置きましょう。

  猪肉:[1].牡丹 ← [1].「牡丹に唐獅子(からじし)」の縁語から。
            [2].色が似ていることから。
     [2].山鯨 ← 鯨肉は漁村では普通に食されて居たから。
  馬肉:桜  ← 色が似ていることから。
  鹿肉:紅葉 ← 鹿は秋の紅葉の季節に繁殖期を迎え、鹿には紅葉が
          取り合される所から。紅葉鳥は鹿の別称。
  鶏肉:[1].黄鶏(かしわ) ← 羽毛が茶褐色の鶏で、肉が美味とされた。
     [2].柏 ← [1].からの音(おん)の転用で、
          柏の葉の形が鶏の腿肉に似ているから、という俗説。
  獣肉一般:ももんじい ← 江戸の獣肉店の通称”ももんじ屋”から

 獣肉は体の芯から温(ぬく)まります。獣肉食御法度の時代にも「薬食い」 -これも「食肉の隠語」です- と称して猪肉を”滋養強壮薬”として密かに食して居た訳が解ります。

    ◆山間地には獣肉や雉の看板

 こうした獣肉や野鳥の食肉は、日本の山間地を歩いていると時々見付ける事が出来ます。左下は05年5月8日丹波周山城の麓にひっそりと出ていた看板です。「山里の味覚」と称してボタン鍋(=猪鍋)、キジ鍋と書かれて居ます。キジ(雉)は旨いでっせ!
 中央下は06年8月30日の午前大井川鐵道の接岨峡温泉駅のとある民宿の看板です。鹿鍋猪鍋が出て居ます。

 右は同じく大井川鐵道で寸又峡06年11月8日の晩に見付けた看板です。「はちのこめし」(=蜂の子飯)や珍味鹿刺が一際大きく書いて在ります。それで私は翌日に寸又峡の鹿刺を食った訳です。獲れ立ての鹿刺は確かに珍味ですが今は殆どが冷凍で、冷凍の鹿刺は珍味では無いと私は思って居ます。
 ところで寸又峡は静岡県北部で虫食文化の中心地・信州に近いのです。


 右は10年6月17日京都市樒原の「鎧田の棚田」の集落で見付けた看板です。京都の辺境では猪肉鹿肉を食えるみたいです。しかしインパクトは今一ですね、やはりキジ鍋が方がインパクト大です。
 という事で次に虫食を紹介しましょう。

    ◆信州の虫食の看板

 右は10年10月13日に長野県天竜峡駅近くの土産物屋の客引き短冊です。左から「ざざ虫」「蜂の子」という売り物が”さり気無く”書かれて居ます。「蜂の子」 -クロスズメバチの幼虫- は皆さんも幼少の頃食べた人が可なり居ると思いますが、「ざざ虫」 -カワゲラの幼虫- を食った事が有る人は十中八九が信州人で、飯田線沿線の伊那谷(※x)は「ざざ虫」の中心地です。

 他にも信州にはイナゴの佃煮蚕の蛹の佃煮などが在ります。信州の虫食文化については
  日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)

に詳しく載って居ますので、是非お読み下さい。中国の虫食文化も迫力が有りまっせ!!

                (*_@)
    {この節は2010年12月14日に追加}

  ●寸又峡で鹿刺を食う

 06年11月9日(木)寸又峡に行きました。寸又峡については何れ書こうと思って居ますが、未だ書いてません...(>v<)。
 私は寸又峡を散策した後で鹿肉(=紅葉)を食いました、何しろ昨日から珍味鹿刺と煽られて居ましたから。右下が店と親父です、暖簾には「珍味 寸又峡名物 鹿刺定食と書いて在ります。私は定食ではなく鹿刺(=鹿の刺身)と燗酒を頼みました、薬味は生姜です。手帳を見たら両方で1200円と書いて在りました。

 鹿肉は冷凍肉でしたね、即ち珍味では無いのです。獲れ立ての新鮮な肉を期待する方が無理でしょう。店の親父は真面目そうな無口な人で、鹿も昔より大分減ったけど一定程度の捕獲量は有ると言ってました。
 ところで客は私一人、それもそうでしょう、この写真を撮ったのが10:00頃で鹿食って酒飲んでも10:30発の帰りのバスに乗って居ます。私はこれから名古屋をちょいと探検したいので先を急いで居るのです!

 で、鹿肉の写真ですが有・り・ま・せ・ん!
 私は態々(わざわざ)寸又峡迄鹿を食いに来た事は頭の隅に入って居ましたが、朝っぱらから旨いを飲んで写真の事はすっかり忘れて仕舞いました、まぁ良く有る事です。許されよ、アッハッハッハ!!

 ■太地の鯨

  ●07年4月6日 - 太地で鯨のフルコースを食う

 猪の次は(※9)です。大阪で恒例の花見の宴を催し未だ桜の花が残っている4月6日に日本の捕鯨発祥地の太地(たいじ、和歌山県東牟婁郡太地町)(※10)に行きました。町営の国民宿舎「白鯨」 -メルヴィルの小説『白鯨』(→後出)から採った名でしょう- に宿を取り夕食に下の写真の鯨のフルコース(5250円)を食べました。古やんと一緒です。行き成り膳が出てますが、晩飯の前には太地の鯨を良く”お勉強”して来ました(→後出の「鯨の歴史と鯨食文化」を参照)。
写真c1:鯨のフルコース1人前。
 鯨のベーコン・マリネ・竜田揚げ・煮付け・刺身・オバケ(尾羽毛)・モツ(※11)の酢和え・鯨油で煮たヒジキ・ハリハリ鍋(うどん付き)などが並んで居ます。これに茶碗蒸しご飯・味噌汁が付きます。
 ところで鯨には歯鯨鬚鯨が有って(※9)、肉質は鬚鯨が良質と書いて在ります(△2のp150)。今日の肉はどちらでしょうか?、まぁ難しいことは考えず食いましょう。私は鯨は全て”ビールの当て”として食って仕舞い、飯の御数は味噌汁と御新香のみでした、アッハッハ!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 関西では鯨の皮の脂肪を取り除き乾燥させた物をコロと言い、水に戻して主に「おでん」に使います。

    ◆鯨肉の部位に依る名称

  セセリ、サエズリ :舌。   関西のおでん。
  コロ       :皮の脂肪。関西のおでん。
  尾の身      :尾肉の脂肪が霜降り状に成ったもの。
             最高級品で刺身や寿司ネタ。
  尾羽毛(おばけ) :尾肉のさらし鯨。
  鹿の子(かのこ) :顎、頬(ほお)。はりはり鍋など。
  赤肉       :背や腹の肉。竜田揚げなど。
  須の子      :下顎から腹の肉。刺身、ベーコン、すき焼きなど。
  皮        :皮。さらし鯨。
  百尋(ひゃくひろ):小腸。刺身など。
  丁字(ちょうじ) :胃袋。酢の物。
  豆臓(まめわた) :腎臓。刺身、揚げ物。
        (以上△2のp151、その他)

    ◆鯨肉の思い出と日本の鯨文化の豊かさ

 翌日は太地町で「鯨の缶詰」を御土産で買って帰り家で食べましたが、昔の「○は」マークの缶詰の方が肉は硬かったけど、もっと生姜が利いて旨かったですね。帰りには太地~那智勝浦港迄の鯨の遊覧船に乗りました。
 ところで昔は大洋漁業(株)という会社が缶詰作っていて、今の横浜ベイスターズの前身の大洋ホエールズ -ホエールズ(whales)はです- という球団を保持していた事を今の若い人はご存知でしょうか、しかも川崎球場です。私らの世代は鯨肉に随分お世話に為りました、小学校の給食にも鯨肉の竜田揚げなどが出ました。豚肉や牛肉よりも鯨肉の方が安かったのです。敗戦直後の食糧難の時代から高度成長初期の時代(1945~60年)をが食の面から支えたのです。でも今の若い人は鯨の味を知らないので可哀相ですな、その内食いたくても食えなく成りますよ、オッホッホ!!

 ところで「日本の肉食文化の変遷」で述べた様に675年天武天皇の詔勅仏教の不殺生思想の影響で日本人は中世以降から明治の文明開化迄獣肉を食べることを忌避して来ましたが、勇魚(いさな)(※9-1、※9-2)と呼ぶ如く日本人は鯨を”大きな魚”と見做し、紀伊・四国・房総など鯨が回遊する地方では鯨肉を食して来ました。
 世界に目を広げれば、人類と鯨との関わりは古く鯨の肉や油や骨を得る為の捕鯨は有史以前から一部の民族で行われ、日本の他にエスキモー(=イヌイット)スカンディナヴィア人(=ノルウェースウェーデンバスク人などの捕鯨が知られて居ます。ノルウェーにはB.C.2000年頃の捕鯨の壁画が残され(△2のp150)、日本の縄文遺跡からは小型の鯨の骨や鯨を突く銛(もり)が出土して居ます。日本では所謂「肉」の部分だけでなく内臓睾丸(=キンタマ)迄食い、鯨油は燃料に、セミクジラ(背美鯨)(※9-3)のはゼンマイに、も悉く利用し、残りは肥料にして全く捨てる部分が無かったのです。葛飾北斎歌川国芳などの版画の題材にも成って居ます。与謝蕪村には次の俳句が在ります(△3のp227)。熊野浦と言ったら太地も含まれますが当時から「熊野浦の鯨」は食通の間では名が通っていた様です。

    十六夜(いざよい)や くじら来そめし 熊野浦     蕪村

 こういう日本の鯨文化の総体を知らずして、近世産業革命後の機械文明の為に鯨油を取る為にだけ鯨を乱獲し現在は牛肉を”食い散らかし”乍ら文明国振って片手落ちの動物愛護を振り回して居る連中に、きちんと反論出来ない今の日本人はちとオカシイですね。この”食い散らかし”の食習慣こそが”使い捨て”消費文明を齎し、環境破壊の元凶なのです。

    ◆鯨の歴史と鯨食文化

 日本人は縄文時代から(※9)やイルカ(海豚)(※9-4)を食って居ます、詳しくは「日本の肉食文化の変遷」を見て下さい。
 万葉の時代には既に鯨取り或いは勇魚取り(いさなとり)(※9-2)という職業が「海」「浜」「灘(なだ)」に掛かる枕詞に成って居ます(←『万葉集』(△4)は780年頃の成立)。このことからも近海の鯨やイルカを(←銛を撃つ人を銛師と言う)で突き追い込む古代捕鯨は古くから行われて居り、古代の捕鯨地区では珍しい光景では無かったからこそ枕詞に使われたのです。枕詞では単に暗示する為に使われる場合も在りますが、例えば

  『万葉集』巻2-131番歌    石見      いさな取り
          138番歌    石見      いさな取り
          220番歌    讃岐      いさな取り
       巻3-366番歌    角鹿(敦賀)  いさなとり

の様に実際にその地方の海を指し「勇魚取り」を引き出して居る場合も在ります。この場合、石見/讃岐/敦賀では古代捕鯨が行われて居たと考えられます。特に敦賀の海には次の様な伝承が在ります。地図は▼下▼を参照。
  地図-日本・福井県(Map of Fukui prefecture, -Japan-)

 『敦賀には、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと) -金官加羅国の王子(←今の韓国)- が「額(ぬか)に角有ひたる人」と言われ

  角鹿(つぬが) → 敦賀(つるが)

と成ったという敦賀の地名起源が在ります。
 一方『古事記』に拠れば、新羅から帰還直後に筑紫で誉田別命(=後の応神天皇)を生んだ神功皇后が凱旋途中に忍熊王の反乱に遭ったので、禊として武内宿禰が幼い誉田別命を連れ敦賀に逗留した際に伊奢沙別和気大神(=伊奢沙別命)が現れ「自分の名を誉田別に替えて欲しい」と言い宿禰もこれを聞き入れて翌日浜で会う約束をし、翌日浜に行くと鼻に傷付いた入鹿魚(いるか)が湾に入って来たので誉田別命は大神が「自分に食料の魚を授けて呉れた」と叫んだので大神を御食津大神(みけつおおかみ)と名付け今の気比大神に成った、そして入鹿魚(いるか)の血が臭かったので

  血浦(ちうら) → 都怒我(つぬが) → 敦賀(つるが)

と成った、と別の地名起源を伝えて居ます(△5のp135~137)。』

 これなど敦賀の勇魚取りとイルカの関係を伝えて居ます。詳しくは下を参照して下さい。
  2003年・気比神宮初詣で(Kehi shrine, Fukui, 2003 beginning)

 その後、天武の詔勅仏教の殺生忌避思想の影響で鯨食は表向きには長らく影を潜めましたが鯨は勇魚、即ち”大きな魚”なので江戸時代に成り世の中が安定すると再び鯨食は地元で盛り返しました。他の獣肉食が表向きには明治時代迄行われなかったのに比べ250年早かったのです。しかし、これは飽く迄”表向き(タテマエ)”の歴史であって江戸では「ももんじ屋」(※12)という獣肉専門店がオープンし「通人」 -即ち獣肉の隠語の意味を解する人たち- の間では繁盛していた、という事実を知って置いて貰いたいですな!!

 07年4月6日の午後は太地町の岬を散策しました。先ず井原西鶴の『日本永代蔵』(※13、※13-1)巻2の「天狗は家な風車」に天狗源内という鯨捕りの話が出て来ます(△6のp59~64)。『永代蔵』に横手ぶしといへる小哥の、出所を尋ねけるに、紀路大湊、泰地(たいじ)といふ里の、妻子(つまこ)のうたへり。此所は繁昌にして、若松村立かる中に、鯨恵比須の宮をいはひ、鳥井に、其魚の胴骨立しに、高さ、三丈ばかりも、有ぬべし。目なれずして、是にけう覚(さめ)て、浦人に尋ねければ、此濱に、鯨突(くじらつき)の羽指(はざし)(※9-5)の上手に天狗源内といへる人。」と紹介されて居ます。この中で泰地と言ってるのが太地です。
 右上の写真がその恵比寿神社(←この段の写真は全て07年4月6日撮影)です。ここに三丈(=約9m)もある胴骨で作った鯨鳥居が在ります(写真の背後)。

 実は天狗源内のモデル初代・太地角右衛門(1623~99年) -因みに西鶴が1642~93年なので同時代の人- です。角右衛門は延宝5(1677)年に銛だけに頼る突取法を改良し、銛と網を併用する網捕り法を創案し組織的捕鯨法を確立して太地の基盤を強固にし、後に太地家を興し通称を角右衛門と改め以後代々角右衛門を襲名しました。この人、元は和田姓で熊野水軍(※10-1)の系譜に連なり水軍の戦闘技術を捕鯨に応用したのです。角右衛門の網捕り法は忽ち全国に広まり古式捕鯨[法]と言われる様に成りました。
 『永代蔵』は更に「諸人、浪の聲をそろへ、笛、太鼓、鉦の拍子をとって、大綱つけて、轆轤(ろくろ)をまきて、磯に引あげけるに、其たけ三十三尋弐尺六寸、千味といへる大鯨、前代の見はじめ、七郷の賑ひ、竈の煙立つ度々つゞき。油をしぼりて、千樽のかぎりもなく、其身、其皮、ひれまで、捨る所なく、長者に成は是なり。」と続け、最新の網捕り法(古式捕鯨)が活写されて居ます。「捨る所なく」全体摂取の精神が強調されてます。
 左が『永代蔵』p62~63の鯨捕りの挿絵(絵師は不明)です。
 背中に銛を突き立て居るのが天狗源内事初代太地角右衛門でしょうか。大の男が何十人も1頭の鯨に対峙し凄い迫力です。「其たけ三十三尋弐尺六寸の鯨と言うと、1尋=両手幅≒1.5mとすると約50m位に成って仕舞いオーバーです。鯨は大きい種(=シロナガスクジラ(白長須鯨))で35m位が最長です。ですから実際はこの絵の様に15m位(≒十尋)だと思います。

 先程の恵比寿神社の奥へ進むと古式捕鯨狼煙場跡(左下の写真)が在り、燈明崎には古式捕鯨燈明崎山見跡が在ります。更に梶取崎には梶取崎灯台古式捕鯨梶取崎狼煙場跡「くじら供養碑」(中央下の写真、昭和54(1979)年建立)が在ります、背後にはが咲いて居ました。
 鯨の供養碑や供養塔、鯨塚、鯨石などは幾つかの捕鯨地区で見られます。中でも鯨墓は、特に母鯨のお腹から出て来る赤ん坊鯨は幾ら勇魚と言っても哺乳類なのです。鯨墓は京都府伊根町、大分県臼杵市、山口県長門市青海島(←金子みすゞの詩で知られている)などに在ります。
 当時は鯨が”大きな魚”であると本当に信じていた人は大勢居ましたが、鯨墓を作った人々は鯨は哺乳類である事実を認識していた筈です。しかし、その真実を公表する事は御法度です。江戸時代はタテマエホンネの使い分けが生きる作法だったのです。
 


 左は太地町のマンホール蓋鯨がデザインされてます。私の余所見癖が発揮されてますね、オッホッホ!
 右は国民宿舎に置いてあった鯨のひげ -漢字で書くと髭(くちひげ)・鬚(あごひげ)・髯(ほおひげ)が在る- と在りますが、これはセミクジラ(背美鯨)のひげ(※9-3)です、物凄く大きいです。
 太地では1878年に捕鯨中に100人以上の死者を出す大事故(=俗に大背美流れと言う)を起こし1905年頃迄捕鯨を中断し、ここに古式捕鯨は終わりを告げたのです。因みに、太地の古式捕鯨を知りたい人には『勇魚(いさな)』という小説(△7)がお薦めです、これは幕末の太地の若者が主人公で何代目かの太地角右衛門も登場します。

 古式捕鯨に対し近代捕鯨捕鯨砲(※9-6)を船首に備えた捕鯨船(※9-7)で船団を組み南極とか遠洋捕鯨が可能です。捕鯨砲は1864年にノルウェーが開発したのでノルウェー式とも呼ばれます(△2のp150)。ノルウェーは上述のスカンディナヴィアで古くからの捕鯨国です。
 翌4月7日は「くじらの博物館」の方へ行き船首に捕鯨砲を据え付けたキャッチャーボート(捕鯨船)(※9-8)が保存されてるのを見ました(左右の2枚の写真)。「第十一京丸」で昭和31~52(1956~77)年迄現役で活躍後揚陸展示されて居ます。696t、25人乗りです。
 私はキャッチャーボートで捕らえた鯨をベーコンや缶詰で食って居た訳ですな。しかし日本人の多くは1945~60年に食ったをバネに高度成長したのです。

 古来より捕鯨地区として知られて居るのは、岩手県陸前高田宮城県石巻新潟県泊町・佐渡島福井県浜坂千葉県銚子静岡県西伊豆地区三重県大王町波切和歌山県太地町高知県室戸岬愛媛県宇和島山口県長門・青海島、そして西海地方(=佐賀県呼子町/長崎県平戸・五島・壱岐/大分県臼杵など(△8のp11~19))です。
    {この節は08年6月6日に追加}

    ◆メルヴィルの小説『白鯨』に見るアメリカの捕鯨
       - 鮫は鯨に群がる蛆である

 メルヴィル(※14-1)の小説『白鯨』(※14)は、話の筋は単純で短編小説ですが脱線と言うか挿入話がやたらと多い為に長編小説に成って居ます。要はエイハブ船長が昔マッコウクジラ(抹香鯨)(※9-9~※9-11)の白鯨に片足を遣られ義足を付けているが故に執念深く復讐するという極めてアメリカ的な内容です。因みに、船長は白鯨にモビー・ディック(Moby Dick)(←私の参照している本ではモゥビ・ディク)という名を付けて居ます(△12(上)のp277~278)。私が極めてアメリカ的と言ったのは、日本人の様にじめじめした情緒が入り込む余地は無く『白鯨』は格闘技小説であり明るいのです。詰まる所は日本人とアメリカ人の国民性の違いという事です。
 メルヴィルの年賦(△12(下)のp286~291)を見ると、彼が捕鯨船を体験したのは1841~42年(或いは43年の前半)で43年~44年はアメリカ軍艦の水兵に成って居ます。しかし、この短い経験が彼に強い印象を与えた事は『白鯨』を読めば判ります。19世紀のアメリカと言えば盛んに鯨油を採って居た時期です。

 さて『白鯨』の中で鯨食に触れて居る部分を抜き出す -当ページは「食」のページですゾ!- と、「三世紀のフランスでは、せみ鯨の舌肉は非常な美味」「さる宮廷料理人が、絶妙なソオスを発明し、それを、鯨の一種とされるところの海豚(いるか)の焼肉に添えて出した...<中略>...海豚は現代に至るまで大滋味」と在ります(△12(中)のp171)。更に「小さな抹香鯨では、脳部が馳走とされている。」と在り、結論として「鯨を文明の美味とするに憚(はばか)らしめる他の原因は、それが馬鹿に豊富だということだ。」と言って居ます(△12(中)のp172)。これなどは大量生産・大量消費の時代が到来した事を言って居る訳です。
 又、次の様にも言ってます。捕鯨した時は船員は疲れているので直ぐ解体せずに置くと、特に赤道上では「何しろ繋いだ[鯨の]屍(しかばね)に向って無限数のがむらがってくるのだから、もし六時間でもそのまま放置しておけば、朝になってみると、ほとんど骸骨しか残らぬという始末になる。」と言い、結局

  「鮫は鯨に群がる蛆(うじ)である」

という素晴らしい教訓に到達します(△12(中)のp175)。
 メルヴィルが捕鯨経験をした1841~42年は未だアメリカ人も銛手(←日本では銛師と言う)が鯨を捕らえ(△12(中)のp155)、鯨油を採るのが主目的ですから鯨切りが鯨切用絞轆で油肉を切り取り(←その様子を「屠殺場と化す」と言ってます)(△12(中)のp178)、後は船員が食いたい所だけを食って仕舞うと海に捨てますが、残り肉は全て「鯨の蛆」たるが片付けて呉れるのです。つまり鮫も環境保全に一役買って居るという訳です。又、捕鯨船の船員が死ぬとアメリカでも水葬にします(△12(下)のp125)。この様な事から「世間は鯨捕りを軽蔑している」と書いて居て、何とか反論を試みて居ますが成功したとは言えません(△12(上)のp178~179)。フーム、そうか。日本人は魚を食べますから鯨捕りと言っても漁師の延長上に在りますが、アメリカ人は基本的に魚は食べないですから鯨捕りは可なり少数派です。そういう”肩身の狭さ”が有ったのでしょう。
 小説『白鯨』にはこうした前近代式捕鯨の一齣が描かれて居るのですが、間も無く捕鯨砲を備えた近代捕鯨が始まる事は既に述べました。

 ところで、白鯨など本当に居るのか?、というと居るのです、突然変異でしょう。ザトウクジラ(座頭鯨)の全身真っ白なミガルー(Migaloo)1991年にオーストラリア沖で発見され、その後ミガルーが観光客船と並行して泳いでいる写真が公開されて居ますのでインターネットで見て下さい。と成ると真っ白いマッコウクジラ(抹香鯨)、即ち小説『白鯨』のモビー・ディックが居ても不思議では無いですね!

                (-_*)

 さて小説を離れて、最近ではアメリカに本部が在る環境保護団体「シーシェパード」の抗議活動(※15)が活発に成って居ますね。それに日本の言う調査捕鯨(※15-1)というのは”こじ付け”がましくて、これでは諸外国を納得させられないでしょう。もっと根本的に「肉食には「肉食の哲学」が必要」なんだという事を皆さんに理解して欲しいですね。
 この問題に関しては、既に2008年に論じて居ますので、そちらを参照して下さい。
    {この節は2010年12月14日に追加}

 ■巣鴨の鯡の塩焼き

  ●07年4月9日 - 巣鴨で鯡の塩焼きを食う

 正月に「数の子」(※20)を食べた事が有る人でも親魚の鯡(にしん、※20-1)を食べた事が有る人は今日では少ないでしょう。食べたとしても大抵は「身欠き鯡」と呼ばれる干物を醤油で甘辛く煮染めた物で、これを食べるのはお年寄りの一部です。京都の人はこれを蕎麦に入れた鯡蕎麦でご存知かも知れません。
 しかし東京ではこれを塩焼きで食べる習慣が僅かに残っていて、巣鴨の「ときわ食堂」では400円で大きな鯡の塩焼きを食うことが出来ます。ご飯の御数で定食として食うことも出来ます。昔は新宿の炉辺焼の店でも出して居た所が若干在りましたが、私の知る限り今ではここだけです、探せば在るんでしょうが。「ときわ食堂」は「とげぬき地蔵」(=曹洞宗の高岩寺の俗称)で有名な「地蔵通り商店街」(通称:お年寄りの表参道(※21))の中に在り、品数の豊富さと安さと旨さで何時も賑わって居ます。大抵は♂で内臓や白子を全部食い尽くしますが、偶に♀に当たると塩焼きの「数の子」を賞味出来ます。
 下がその♀の写真、実物はこの2倍位有りますから食い出が有ります。大根卸し醤油という極めてシンプルな味が私のお気に入りです。ここはビールや日本酒も飲めるので、私は酒の肴としてこれを食います。他では食えないので、東京に行ったら大抵ここに寄ってこれを食うことにして居ます。
写真d1:鯡の塩焼き(♀)。
 明治時代にはニシン王やニシン御殿が出現した程大漁に恵まれ、乱獲し食わずに肥料にした為に現在ニシンは激減しました。その様な人間の浅ましさを思いつつ、少し渋味の有る鯡の肉をビールと共に味わうのは格別です。

 ■浅草のモツ系料理とホッピー

  ●07年4月9日 - 浅草で牛や豚のモツを食う

 浅草の地図は▼下▼を参照。
  地図-日本・東京都(Map of the Metropolis, Tokyo -Japan-)

 昼に鯡の塩焼きを食った後、私は浅草田原町の「宮ちゃん」に行きました。この店は居酒屋で刺身や焼鳥など色々と揃って居ますが、私の目当ては牛や豚の内臓肉、即ち世間で言う所謂ホルモン(※11-1)やモツ系料理です。この日は田原町のホテルに泊まるので、料理の写真を撮る目的で何時もの様にカウンターに腰掛けました。大阪人の私ですが私はこの店の”常連”の一人なのです。
写真e1:モツの煮込み。
 私が最初に注文するのは大抵はモツの煮込みですね(左の写真)。関西でこれを出す店は少ないですが、関東では「突き出し」で最初に出す店も結構在ります。
 さっぱりした醤油味 -味噌仕立ての店も在ります- で、左下に白く見えるのが豆腐、それに関東特有の白葱の刻みを多目に掛け、私はこれに唐辛子をたっぷりと掛けます。モツの深い味わいが好きですね。
 最近は甘い味付けが多いのですが、私は甘いのは嫌いです。何となれば私は酒の当てとして食うからで、酒自体が甘いのです。
 この日、次に食ったのがセンマイの刺身です(下の2枚の写真)で、右下が拡大です。センマイとは牛の第3胃です。黄瓜細切り大根白胡麻を和え酢と胡麻油で絞めて在り、これを酢味噌を付けて食います。右下の胃袋のブツブツを先ず目で楽しみ、口に入れて歯応えを楽しむのが”モツ食いの通(つう)”です。
 左下の写真にグラスが写って居ますが、これは焼酎のオン・ザ・ロック(略称:焼酎ロック)でモツ料理にはピッタリです。
写真e2:センマイの刺身。写真e2-2:センマイの刺身(拡大)。


写真e3:豚串。 そして左がモツ焼きの一種の豚串(とんくし/ぶたくし)です。焼鳥が150~200[円位/本]に対し豚串は130[円/本]と、豚串は焼鳥より安くて量が多く野性味に溢れ旨いので、ヤラセが多いテレビ(※1、※1-1)を持って無い下層民の私に相応しい食べ物です。
 私は豚串をタレ(垂れ)では無く「塩」で食うのが好みです。凡そ肉に限らず野菜でも淡白な塩味で食うのが素材の味を生かす秘訣です。濃いタレに漬け込みニンニク(葫)を多く効かせたら腐った肉でも食えて仕舞いますゾ!

 豚串東京下町や関東の味と言えますが、静岡県のJR清水駅近くにもホルモンやモツ系料理が旨い「金の字」という店が在り、ここではカレー味のモツの煮込みが在り1L位のホンマの大ジョッキで生ビールが飲めます。

    ◆最後はオクラ納豆でサッパリと

 「宮ちゃん」ではオクラ納豆を最後に食べる事をお薦めします。ここでは「オクラ+とろろ芋+納豆+玉子の黄身」で玉子の黄身を除くと何れもネバネバした食材で味の芸術品ですね、とてもサッパリします。先程モツの煮込みを食った器で出て来るので量もたっぷり有り値段も350円と良心的です。でも納豆が嫌いな人はこれは食えませんね、アッハッハ!!

    ◆ホルモンやモツ焼きの名称

  豚
    レバー             :肝臓
    ハツ、ココロ          :心臓
    ガツ              :胃
    マメ              :腎臓
    シロ、ヒモ、コテッチャン    :小腸
    テッチャン、ホルモン、シマチョウ:大腸
    テッポウ            :直腸
    コリコリ、ハツモト       :心臓付近の動脈
    コブクロ            :子宮
    カシラ             :頭部、頬(ほお)肉
    タン              :舌
    トンソク            :足
  牛
    牛タン             :舌
    ミノ              :牛の第1胃
    センマイ            :牛の第3胃
        (以上△2のp156~159、その他)

  ●07年4月10日 - 浅草でホッピーを飲む

写真f1:黒ホッピー。 ホルモンやモツと来たら飲み物はホッピーです。4月10日、浅草稲荷町で黒ホッピーを飲みました(左の写真)。写真左端に見えるホッピーの瓶のラベルには上から

    発☆泡
  麦芽発酵飲料
   HOPPY
   ホッピー

と書かれて居ます。写真中央は焼酎で、これを右端のビールのジョッキに注ぎ、ホッピーを瓶から継ぎ足し氷を入れて(←入れなくても良い)出来上がり。焼酎の比率を加減することに依り、自分の好みに合ったアルコール度数に調整可能な”優れ物”です。
 バブル崩壊後に値段の安い発泡酒がビールに代わり日本人の間に急速に浸透しましたが、このホッピーこそ「発泡酒の元祖」で、ホッピーは東京下町やその周辺に限られた飲み物です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 私がホッピーを知ったのは70年代後半、その頃の年齢が20代後半で、普通のサラリーマンは絶対にホッピーなど飲まなかったですね、と言うよりも焼酎を口にしなかったのです。ホッピーや焼酎は嘗ては労働者の味、プロレタリアート(※22)の飲み物だったのです。それが健康ブームとかで90年代 -実はバブルが弾けただけ- から急にホッピーとか焼酎が背広・ネクタイ姿組にもOLにも飲まれ出したのですから世の中随分と変わったものです。最近はワーキング・プア(※22-1)と言われる人たちが輩出しているのに労働者もプロレタリアートも見掛けなく成りましたが、皆さんそんなに豊かに成ったのでしょうか??

                (>v<)

 関西ではホッピーという名前すら知らない店主が殆どでしたが、05年頃から関西でホッピーの看板を掲げた店をポツポツ見掛ける様に成りました。
 という訳で私は浅草や横浜の野毛に来るとこうしてホッピーを飲みます。夏などはビールよりもスキッとして気持ち好いでっせ!

 ■大阪の鼈鍋

  ●08年1月28日 - スッポン鍋(鼈鍋)

 愈々スッポン(鼈)(※30、※30-1)です。


  「ひょうたん島」の鼈鍋(SOFT-SHELLED TURTLE of Hyotan-jima, Osaka)



私は日本で100匹とは言いませんが、多分70~80匹は食って居ますゾ!
「ラッポーエ同盟」の同志

 ■熊本の馬肉のモツ鍋

  ●08年4月8日 - 熊本で馬肉のモツを食い芋焼酎を飲む

 08年からは九州を集中的に旅する九州プロジェクトを開始しましたので、熊本馬肉を集中的に食って居ます、何しろ熊本と言えば馬食文化の本場です。大阪辺りでは馬肉と言っても冷凍物なのでレバーなどのモツ系(※11、※11-1)は食えませんが、馬肉の本場である熊本では必ず内臓を食うことにして居ます。
 先ず左下の写真が馬刺しですが、この日は特に馬の精肉(=桜肉)と馬のレバ刺です。胡麻油と醤油と塩と山葵と生姜が添えて在り、客は好みに応じてそれらを付けて食べます。熊本の馬刺しは最高!
 右下は馬肉のモツ煮込み(→後で再び登場)で、東京圏に多い牛のモツ煮込みよりもサッパリして旨いでっせ。
写真g1:馬の精肉(=桜肉)と馬のレバ刺。写真g2:馬肉のモツ煮込み。
 そして馬肉に合うのが芋焼酎です。やはり土地の食い物とは密接な関係が有るのです。

  ●08年9月5日 - 熊本で馬肉ステーキと馬肉のモツ鍋を食う

写真g3:馬肉の串焼き。 もう何回も行ってるので私が”常連”に成ってる店の馬肉料理をご紹介しましょう、JR熊本駅近くの「花屋」という店名の飲み屋です。先ずは左の馬肉の串焼き(馬肉ステーキ)です。皿にキャベツと共に1本だけ載って居りのは、元々は4本在ったのに私が写真を撮るのを忘れて食って仕舞ったからで、それ程旨かったというものです。新鮮な厚切り肉を串に刺して焼いたもので中は生(なま)、即ちレア(rare)の焼き加減なのです。
 因みに、御飯の御数で馬刺しとか馬肉ステーキとかを食べる人は居ません。皆、酒の当てです!

 しかし、この店の極め付け何と言っても馬肉のモツ鍋です。左下が馬モツ韮(にら)と一緒に煮込んでる所、このモツや野菜を芋焼酎飲み乍ら食うのは堪りませんね。豪快旨く安い味はやはり牛モツ鍋よりサッパリして居ます。これぞ熊本の醍醐味ですな。
 そして具を食い終わったら右下の様にラーメン -チャンポン麺に使う太麺がベスト- を入れて食いますので二重に旨さが楽しめるという訳ですが、この二重の旨さは普通の牛モツ鍋でも同じです。麺が赤みを帯びてるのは胡椒の他に唐辛子 -九州は唐辛子文化で九州人が好きな柚胡椒も辛味は唐辛子なのです- をガンガン入れたからで、これが御飯の代わりです。私が唐辛子を非常に多く入れるのは中国雲南省の影響 -もう5回位行ってますので- です。

 この店には馬のレバ刺も在れば魚介類御飯も在り、ここ1軒で飲食は全て満たされるので手っ取り早く、余った時間を睡眠に注ぎ込める訳です。旅では睡眠は最重要です。
写真g4:馬肉のモツ鍋。写真g5:馬肉のモツ鍋の後のラーメン。
 九州は全体にモツ鍋文化で熊本は馬肉の本場ですが、馬肉のモツ鍋を出す店は熊本でもそう滅多には無いでっせ!!
 中国東北部ではロバの肉(=驢肉)を食べる習慣が有ります。驢肉のハムは旨かった!

    ◆馬食文化あれこれ

 加藤清正(※40)が秀吉の朝鮮出兵 -文禄(1592年)と慶長(1596年、98年の秀吉の死で撤退)の役- で食糧の補給が断たれたので加藤清正が軍馬を食い帰国後清正自らが広めたのが肥後(熊本県)の馬食の始まりだという俗説が罷り通って居ます。まぁ、これなど何でも武田信玄に結び付ける甲斐(山梨県)と同じですね。笑えるネタでは、大分前に王監督が秋山幸二選手に怪我をした患部を冷やす為に馬肉を贈った(←彼は台湾人、馬肉を湿布剤に使うのは中国の民間療法)のですが、秋山選手(←彼は馬食の本場熊本県人)は当然の如くこの馬肉を食って仕舞った、という話が有りました。
 私が経験上、馬刺しを良く食べたのは熊本長野会津です。熊本では上記の店の他、阿蘇高原には馬肉専門店が在り、しかも安く地元の人は相当な量の馬肉を買い込みますが、旅行中だったので馬刺し2人前食ったのが忘れられない思い出です。2人前で千円位でした、安い(2003年のこと)。私は馬のレバ刺が好きですが馬の内臓を食うのは熊本だけ、と決めてます。


 長野県では長野、上田、上諏訪・下諏訪、松本などで食いました。何処も馬刺しですね、酒は日本酒です。特に寒い日の日本酒は旨い。
 右は馬肉の看板灯で「馬肉」「さくら」という仮名が振って在りますが、これは馬肉の隠語です。又「創業明治三十二年」(=1899年)と書いて在りますね。この店は焼鳥・焼豚・ホルモン焼き(※11-2)などを商って居ます(2011年1月7日に松本市で撮影)。尚、獣肉の隠語については「日本の肉食文化の変遷」を参照して下さい。
 福島県では会津若松駅で食いました。会津若松市の地図は▼下▼を参照。
  地図-日本・福島県(Map of Fukushima prefecture, -Japan-)

 会津若松駅は常磐西線と只見線の乗り換え駅(←私もこれから只見線に乗り換えです)で、私は蕎麦でも食おうと駅の食堂に入ったら「馬刺し」の品書きを見付けました。私は馬刺しを注文し序でに熱燗も頼みました。この日は雪がちらついていたので熱燗が最高。この後、蕎麦も食いました。

 まぁ面白い話は色々有りますが、馬食文化は「馬の生産地」で生まれたものです。熊本は馬が駆け巡る阿蘇高原の御膝元、信州伊那谷(※x)は大和朝廷に馬を献上した所、会津坂下町は江戸時代に馬の競り場が有りました。そういう風土の中で馬食文化が育まれたのです。馬食文化が在る地方は、熊本・福岡・高地・長野・山梨・福島県・秋田・山県・北海道などです。長野と福島に挟まれた群馬県の馬食の話を余り聞きません。
 ところで馬肉のモツ煮込み信州では「おたぐり(お手繰り)」と呼ばれます。25mも在る長い馬の腸を”手繰り”乍ら塩水と束子(たわし)で扱いて洗う事に由来する名称で、伊那地方の郷土料理です。但し、洗う前には腸の内容物 -ウンコの一歩手前のもの- を取り出さないと行けませんよ。信州には虫食文化も有りますが伊那地方は両文化の中心地です。
    {この節は2010年12月14日に追加し、2011年2月4日に写真を追加}




 ■モロッコ鍋

  ●10年3月29日 - モロッコ鍋?、そんな鍋料理が在るの?!

 既に丹波篠山の牡丹鍋で登場した大阪西中島の「ひょうたん島」の大将の店です。大将の店の地図は▼下▼を参照されたし。
  地図-日本・淀川、桜之宮と大阪城(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)





「ラッポーエ同盟」の同志







 ■写真が少ない刺身料理

  ●10年9月20日 - 島原半島の小浜で刺身を食う

 2010年は随分長崎県の島原半島を訪れて居ますが、9月20日は半島西部の温泉町小浜(おばま)を訪ねました、雲仙岳の麓です。
 左が剣先烏賊の造り(※42)(←こちらの人は五島烏賊と呼ぶのでしょう)とカニです。このカニは小浜では「夕焼けガニ」と呼ぶそう -小浜は夕日がとても美しい(右の写真)- です。
 このカニは実はワタリガニ科のガザミ(蝤蛑)(※43)、一般にはワタリガニと言われて居て島原半島の名物です。それでカニの横に玉子が在るのは、このワタリガニを温泉で蒸している事が判る様に温泉玉子を付けて居るのです。芸が細かいですね!
 それで翌日に温泉でカニを蒸している所を撮りました(右の写真)。幟(のぼり)に「夕やけカニ祭り」と書かれ、白い湯気がもうもうと立っている所が「温泉蒸し釜」で、更に「足湯」と出て居ます。斜めに立て掛けて在るのは料金表で「わたりがに(大) ¥2000、伊勢えび ¥2000」と書いて在りました。

  ●01年10月初旬 - 大阪今里で伊勢海老他活け造りを食う

 ところで私は刺身(お造り)は大・大・大の大好きで、凡そ7日の内の5日は刺身を食っています。ところが写真を撮って無いのです、あれ程食って居るのに、です。しかし皆さんもそうでしょう、外国を旅行したとか、牡丹鍋とか鼈鍋とか鯨のフルコースとかの特別な料理以外は態々写真は撮りません。

                     造り盛り合わせ  カワハギと肝
                     (空っぽ)     下が伊勢海老
                          ↓     ↓

 右の写真は2001年10月初旬の写真をスキャナーで読み込んで画像にしました、大阪の今里の店です(右の写真)。
 造り盛り合わせはもう食って仕舞い刺身のツマだけが残って居ます。カワハギと小皿に入れたカワハギの(←この季節が旬で肝(きも)が旨い!)と、伊勢海老活け造り(※44)です。
 既に「造り盛り合わせ」は全部食って仕舞って空っぽです、ワッハッハッハ!!


    ◆刺身文化と生食文化







 ■結び - 人間本来の「食」の在り方を求めて

 如何でしたか、「形有る物をバリバリ食う」脱”管理食”の旅は?
 日本国内だけでも、「食」の嗜好(=指向性)には地方差が存在することがお解り戴けたことと思います。参考の為に凡その値段も記して置きましたが、私たちの様な”庶民”に分類される人間にはコスト・パフォーマンス(=費用対効果)は重要な要素です。因みに私が「旨い」という食べ物は「安くて旨い物」のことです。高くて旨いのは”当たり前”で、私は「旨い」とは言いません。1個=30万円の夕張メロンなどを売り出し悪乗りして居た夕張市が破産に至ったことを肝に銘じるべきでしょう!
 その後「鯨の歴史と鯨食文化」「メルヴィルの小説『白鯨』に見るアメリカの捕鯨」「馬食文化あれこれ」「刺身文化と生食文化」の節を追加し改訂しました。{この項は2010年12月14日に追加}








 「肉食には「肉食の哲学」が必要」というのが私の持論且つ主張ですが、このページは成分合わせの栄養剤やドリンク剤や賞味期限のラベルなどを否定して、本来の「原形を確認して食う」「形有る物をバリバリ食う」という私の哲学の実践であり、「食」の原点に回帰せんとする旅であります。「肉を食らう」動物としての人間本来の「食」の在り方を、皆さんも見詰め直して下さい。
 そして日本国内のみでは飽き足らず更に”上”を目指す方中国や東南アジアに「食」の武者修行に出掛けることを推奨します。各民族の「食」の嗜好(=指向性)の違いこそが「文化の固有性(=文化のローカリズム)」の基本要素であり、文化の固有性が文化の多様性を下支えする、という私のもう一つの主張を理屈では無く貴方(貴女)の目と口とで地球規模で確認出来るでしょう!!

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:ヤラセ/遣らせ(prearranged performances)とは、事前に打ち合わせて自然な振舞いらしく行わせること。又、その行為や演出。
※1-1:捏造(でつぞう/ねつぞう、fabrication, made-up story)とは、(本来はデツゾウ)事実で無い事を事実の様に作り上げること。でっち上げ。「証拠を―する」「―記事」。

※2:鯵・鰺(あじ、horse mackerel)は、アジ科の魚の総称。マアジ・ムロアジなど。夏から秋が漁期。食用。季語は夏。
※2-1:真鯵・真鰺(まあじ)は、アジ科の海産の硬骨魚。全長約40cm。長い紡錘形で、側線は湾曲し、その上に楯鱗(じゅんりん)が発達。背部は暗青色、腹部は銀白色。温帯に広く分布し、重要な惣菜魚。俗に、単にアジと言う。
※2-2:楯鱗(じゅんりん)とは、サメ・エイ類の鱗(うろこ)。真皮中に骨性の基底板が有り、その中央に突起が有る。サメでは体表に密生し、所謂鮫肌を形成。エイでは体表に点在する。

※3:柚・柚子(ゆず、Chinese lemon)は、ミカン科の常緑低木。高さ約3m。中国原産。庭木、ミカン類の接ぎ木の台木とする。耐寒性が有る。枝幹、葉の付け根に刺が多く、葉は長卵形で有翼。夏、白色の小花を開き、花後、球形黄色のミカンに似た果実を結ぶ。果皮には疣(いぼ)状突起が有り、香気と酸味とを有する。果実・蕾は香味料用浴用(=柚湯)などに利用。スダチは同類。ゆう。ゆ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-1:酸橘・酢橘・醋橘(すだち)は、ミカン科ユズ類の常緑低木。果実はユズより小形、緑色の内に独特の香気と酸味を賞味する。香味料として賞用。主に徳島県で栽培。

※4:牡蠣(かき、oyster)は、イタボガキ科の二枚貝の総称。貝殻は形がやや不規則で、左殻で海中の岩石や杭などに付着。「海のミルク」と言われる程に肉は栄養に富み美味で、古くから世界各地で養殖される。日本では各種が全国に分布し、又、各地でマガキを中心に養殖され、宮城県・広島県が有名。他にスミノエガキ・イタボガキなどが在る。貝殻から貝灰を作り薬用。ぼれい(牡蠣)。オイスター。季語は冬。

※5:ポン酢(ぽんず、pons[蘭])は、(「ポンス」の転訛したポンズに「酢」を当てたもの)
 [1].橙(だいだい)など柑橘類を絞った汁。ポン酢。
 [2].合わせ酢の一。橙(だいだい)・酸橘(すだち)など柑橘類を絞った汁に同量の醤油を加え、味醂(みりん)・鰹節・昆布を加えて旨みを出したもの。鍋物・蒸し物などの付け汁として用いる。ポン酢醤油

※6:猪(いのしし、wild boar)は、ウシ目(偶蹄類)イノシシ科(広くはペッカリー科を含む)の哺乳類の総称。又、その一種。体は太く、頸は短く、吻が突出して居る。我が国産のものは頭胴長約1.2m、尾長20cm。ヨーロッパ中南部からアジア東部の山野に生息する。背面に黒褐色の剛毛が有り、背筋の毛は長い。犬歯は口外に突出。山中に生息、夜間、田野に出て食を求め、冬はかやを集めて眠る。仔は背面に淡色の縦線が有るので瓜坊(うりぼう)・瓜子とも言う。豚の原種。しし。い。いのこ。野猪(やちょ)。季語は秋。崇峻紀「―を献ることあり」。
※6-1:偶蹄類(ぐうているい、even-toed ungulates)とは、哺乳綱の一目。ウシ目。現生では約80属185種。イノシシ・カバ・ラクダ・シカ・キリン・ウシなどの9科を含み、オーストラリア区以外の全世界に分布。四肢の第1指(親指)は退化し、第2指・第5指も退化の傾向で、体重は第3指と第4指に掛かる。原始的な種類はを、進化した種類ではを持つ。多くは草食性で、胃が複雑に成り反芻する。←→奇蹄類。

※7:業(ごう、karma)とは、〔仏〕(karman[梵]、羯磨(かつま)の呉音)
 [1].行為。行動。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為(三業)。又、その行為が未来の苦楽の結果を導く働き。善悪の行為は因果の道理に拠って後に必ずその結果を生むと説くのが仏教及びインドの多くの宗教の説。「業苦・因業」。カルマ。←→果報。
 [2].業の果報。「業病」。

※8:隠語(いんご、argot)とは、特定の仲間の間にだけ通用する特別の語。隠し言葉。


※x:伊那谷(いなだに)/伊那盆地(いなぼんち)は、長野県南部、天竜川に沿って南北に細長く伸びる盆地。西を中央アルプス、東を南アルプスが囲む。伊那平。




※9:鯨(くじら、whale)は、哺乳類クジラ目の海獣の内、大形のものの総称。形は魚に似、海中生活に適する。種類が多く、歯の有るもの(歯クジラ亜目)と、無いもの(鬚クジラ亜目)とに分ける。体長30mに達する現存の動物中最大のものを含む。皮膚は裸出し、その下に厚い脂肪層が有って体温を保つ。後肢は退化し、前肢は鰭(ひれ)状、尾は尾鰭状であるが、魚と違って水平に広がる。餌は小魚・海老類など。水面に浮き上がって空気を呼吸し、その時鼻孔から吐く呼気中の湿気が水滴と成って柱状に立ち上る。鼻孔に溜まった海水、付近の海水もこれに伴って吹き上げられる。これを俗に「潮を吹く」と言う。嘗て大規模な捕鯨をし、食用・油・工芸に使った。歯鯨にはマッコウクジラ/アカボウクジラ/ゴンドウクジラなど、鬚鯨にはナガスクジラ/セミクジラ/イワシクジラ/ミンククジラ/ザトウクジラなど。南北両極の海、特に南氷洋に多い。古称、勇魚(いさな)。季語は冬。
※9-1:鯨/勇魚(いさな/いさ)とは、クジラの古称
※9-2:鯨取り/鯨魚取り/勇魚取り(いさなとり)は、《枕》「海」「浜」「灘(なだ)」に掛かる。万葉集2「―海辺を指して」。
※9-3:背美鯨(せみくじら、right whale)は、鬚クジラの一種。大きいものは15m以上に達し、頭部は体長の3分の1を占める。上顎部には「ボンネットの山」と称する隆肉が有る。背部は黒色で背鰭が無い鯨鬚は360余枚有って長さ各々約3mに及ぶ。噴気は左右の鼻孔から並行して出る。動物性プランクトンを捕食。熱帯地方を除いた太平洋・大西洋に広く分布。日本人は江戸時代より鬚をゼンマイとして利用して来た。潜水時間が短く捕獲容易で、近年著しくその数を減じた為に国際条約で捕獲を禁止。背乾鯨(せびくじら)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、日本人には馴染みの鯨です。
※9-4:海豚(いるか、dolphin)は、歯クジラ類の内の小形種の総称。体長1~5m。両顎に歯があり、体形は紡錘状で頭部は長く延びる。背鰭(せびれ)は普通鎌形で大きい。前肢は鰭と成り、後肢を欠く。群を為して遊泳。種類が多い。しばしば船舶に平行して走る。マイルカは背部藍黒色、腹部白色。大西洋・インド洋、その他日本近海にも産。季語は冬。新撰字鏡9「鮪、伊留加」。
※9-5:刃刺/羽差/羽指(はざし)とは、近世の沿岸鯨漁で、勢子船に乗った銛師(もりし)。銛を打ち、捕った鯨を船に結び付けるなど、危険で熟練を要する仕事を受け持つ役。
※9-6:捕鯨砲(ほげいほう、harpoon gun)は、捕鯨船に装備した砲。綱の一端に固着した銛(もり)を発射してクジラを捕獲するもの
※9-7:捕鯨船(ほげいせん、catcher boat)は、クジラを捕獲する為に特別の装置・用具を備えた船。季語は冬。
※9-8:キャッチャーボート(catcher boat)は、捕鯨母船に従って捕鯨に従事する船。高速で耐波性・牽引力に富み、船首に捕鯨砲を備える。捕鯨船
※9-9:抹香鯨(まっこうくじら、sperm whale)は、黒くて前頭部の大きな最大の歯クジラ。哺乳綱クジラ目マッコウクジラ科。全長雌15m、雄20mに達する。背鰭は無く、背部後半に隆起が並ぶ。下顎に円錐形の歯が20~25対有る。北緯50度と南緯50度との間の暖流域に棲み、日本では金華山・潮岬などで見られる。主に深海生のイカを捕食。優秀な鯨油が採れ、頭部から脳油を、腸から香料の竜涎香(りゅうぜんこう)を採った。潜水力に優れ1時間も潜って居られる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9-10:抹香/末香(まっこう、incense powder)は、香の名。沈香(じんこう)と栴檀(せんだん)との粉末。今はシキミ(樒)の葉と皮とを乾かした物を粉にして作る。仏前に用いる。〈文明本節用集〉。
※9-11:竜涎香(りゅうぜんこう、ambergris)は、マッコウクジラ(抹香鯨)の腸内から採取する、松脂に似た一種の香料。麝香(じゃこう)に似た風雅な芳香がある。アンバーグリス。〈書言字考〉。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※10:太地(たいじ)は、和歌山県南東部、熊野灘に臨む漁港の町。日本の捕鯨発祥地として有名。
※10-1:熊野水軍(くまのすいぐん)は、中世、熊野地方を本拠として力を振った海上勢力。源平合戦時の源氏南北朝争乱時の南朝はこの力に依存し、信長秀吉も重用した。

※11:モツは、(「ぞうもつ(臓物)」の略)鳥獣の料理で、内臓などの称。
※11-1:ホルモンとは、ホルモン焼きに使う内臓肉のことで、「捨てる物」という意味の関西弁の「放るもん」語源説が有力。明治の肉食文化移入直後は食べずに捨てていたのを、大阪の新世界や西成辺りの労働者が食べ出したらしく、性ホルモンの様に如何にも精力が付く料理を連想させる労働者向きの命名です。
※11-2:ホルモン焼き(―やき)は、豚などの臓物を小さく切って焼いたもの。


※12:ももんじ屋(―や)とは、(「ももんじい」から)江戸時代、主に猪・鹿などの獣肉を売った店。他にも犬・猿・牛・馬などの肉や料理を扱って居た。



※13:井原西鶴(いはらさいかく)は、江戸前期の浮世草子作者・俳人(1642~1693)。本名、平山藤五。大坂の人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3千5百句の記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。作品は良く雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性を生き生きと見せ、元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた町人物などに特色が有る。作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。
※13-1:日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)は、浮世草子。井原西鶴作。6巻6冊。1688年(貞享5)刊。各巻5章、30話。町人たちの致富に対する逞しい意欲と盛衰の物語。町人物の初め。



※14:白鯨(はくげい、Moby Dick, or The Whale)メルヴィルの小説。1851年刊。エイハブ船長が復讐の為に巨大な白鯨と闘う様を描く。象徴性と哲学的思弁に富む。
※14-1:メルヴィル/メルビル(Herman Melville)は、アメリカの小説家(1819~1891)。捕鯨船の水夫の体験を基に書き始め、後思弁的で難解な小説へと進んだ。作「白鯨」「ピエール」「ビリー・バッド」など。

※15:シーシェパード(Sea Shepherd Conservation Society)は、生態系と生物種の保全を名目とした団体の一つで、「世界の海洋に於ける野生生物の棲息環境破壊と虐殺の終焉」を目指して活動する国際非営利組織アメリカ合衆国ワシントン州に本部を置く。元環境保護団体グリーンピースのメンバーが1977年に設立。環境保護団体を自称し乍ら、捕鯨船に発砲、抗議船を捕鯨船に衝突、環境への放出が禁じられた薬物の投擲(とうてき)、ワイヤーの海洋投棄など、環境破壊過激な行動が目立つ。<出典:「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」>
※15-1:調査捕鯨(ちょうさほげい、research whaling)は、クジラの生息数・分布などに関する科学的調査の為の非商業的な捕鯨国際捕鯨取締条約で認められ、日本は1987年より実施して居るが、形を変えた商業捕鯨だとの反発も強い。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>










※20:数の子(かずのこ、herring roe)は、(「鰊(かど)の子」の意)ニシンの卵巣を乾燥又は塩漬にした食品。水に浸して戻し、醤油などを掛けて食する。カズノコを子孫繁昌の意に取って、新年・婚礼等の祝儀に用いる。かずかず。季語は新年。
※20-1:鯡・鰊(にしん、herring)は、ニシン科の海産の硬骨魚。マイワシに似て、全長約35cm。鱗は剥離し易い円鱗で背部は暗青色、腹部は銀白色。3~4月頃産卵の為に浅所に回遊する。北太平洋に産し、北海道・サハリン西海岸に多い。食用肥料鯡油など用途が広い。「数の子」はその卵。鰊(かど)。青魚。春告魚。季語は春。
※20-2:身欠き鰊(みがきにしん)は、頭と尾とを取り去り二つに裂いて乾したニシン。みやき。

※21:表参道(おもてさんどう)は、明治神宮の表参道で若者の町・原宿の中心的通り。

※22:プロレタリアート(Proletariat[独])/プロレタリア(proletariat[仏])とは、
 [1].古代ローマに於ける最下層の市民たち。
 [2].[a].資本主義社会に於いて、生産手段を持たず、自己の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者の階級。無産階級。←→ブルジョアジー。
   [b].[a]に属する個々の労働者。無産者
 [3].貧乏人。
※22-1:ワーキング・プア(working poor)とは、正規雇用に就いて居るにも拘わらず、低賃金や養育費の支払いなどの為に生活保護の水準以下の生活を強いられて居る階層。2006年に流行。






※30:鼈(スッポン/すっぽん、soft-shelled turtle)は、カメの一種。爬虫綱カメ目スッポン科。甲羅は軟らかな皮膚で覆われ、他のカメと異なり鱗板は無い。又、中央を除いて骨質板の退化が著しく、縁辺は軟らかい。頸は長く、自在に伸縮する。背部は淡暗青灰色、腹部は白色、口吻は尖って良く物を噛む。前後肢共に3爪を具える。本州・四国・九州の河川・池沼に棲む。肉は美味、滋養に富み、血は強精剤とされる。又、広義にはスッポン科のカメの総称。アジア/アフリカ/アメリカに約20種。蓋(ふた)。川亀。泥亀。丸(まる)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※30-1:まる(丸・円)とは、上方で、スッポン(鼈)の異称。浮世風呂2「―とは何だヱ。御当地でいふすつぽんぢやがな」。



※33:河豚/鰒(ふぐ、globefish, puffer)は、この場合、(古くはフク)フグ目フグ科とその近縁の硬骨魚の総称。多くは体は肥り、背鰭(びれ)は小さく、腹鰭は無い。歯は板状で鋭い。攻撃されると、腹部を膨らますものが多い。肉食性。肉は淡泊で美味冬が旬であるが、内臓などにはを持つものが多い。マフグ/トラフグ/キタマクラ/ハコフグなど約50種が分布。肉はトラフグが最も美味で、刺し身ちり鍋などにする。フグ毒の成分はテトロドトキシンで、中枢神経を麻痺させ死ぬことも在る。かとん(河豚)。ふくべ。ふくとう。ふくと。季語は冬。〈和名抄19〉。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※33-1:テトロドトキシン(tetrodotoxin)とは、フグ毒(属名テトロドン)の主成分。化学式C12H19N3O9。呼吸や感覚の麻痺を起こす。海生の微生物に由来し、フグの体内に蓄積される。卵巣肝臓に多い。猛毒で致死量は体重1kgにつき10~6g。鎮静薬として神経痛の治療に用いることがある。或る種のカエルなどにも見出される。フグ毒。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>









※40:加藤清正(かとうきよまさ)は、安土桃山時代の武将(1562~1611)。尾張の人。豊臣秀吉の臣。通称虎之助と伝える。賤ヶ岳七本槍の一。文禄・慶長の役(=秀吉の朝鮮出兵)で蔚山(ウルサン)に勇名を馳せ、関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有。



※42:剣先烏賊(けんさきいか、long-finned squid)は、ジンドウイカ科のイカ。胴長約40cm。ヤリイカに似て、幅が広く、腕が太い。食用。房総半島以南に分布。五島烏賊。メヒカリ。アカイカ

※43:ガザミ/ガサミ(蝤蛑)は、ワタリガニ科のカニ。大形で、甲は横に延びて菱形、左右両端が尖る。鉗(はさみ)は大きく、最後の歩脚は扁平で遊泳脚となる。函館以南の内湾に棲む。昼間は海底の砂中に潜み、夜間出て活動。肉は美味初夏にを持つ頃が旬。又、広くは同科のジャノメガザミ/ノコギリガザミなどの総称。がざめ。ワタリガニ。季語は夏。

※44:活け造り・生け造り(いけづくり)/活き造り・生き造り(いきづくり)は、
 [1].コイ/タイ/伊勢エビなどを生きた儘、頭・尾・中骨はその儘に、身を切り取って手早く刺身に造り、再び原形の様に並べて出す料理
 [2].転じて、新鮮な魚の刺身。





    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『情報操作のトリック その歴史と方法』(川上和久著、講談社現代新書)。

△2:『食材図典』(小学館編・発行)。

△3:『蕪村俳句集』(与謝蕪村著、尾形仂校注、岩波文庫)。

△4:『万葉集(上・下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△5:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△6:『日本永代蔵』(井原西鶴作、東明雅校訂、岩波文庫)。

△7:『勇魚(いさな)(上・下)』(C.W.ニコル著、村上博基訳、文春文庫)。


△8:『FUKUOKA STYLE Vol.12 [特集]西海の捕鯨』(筒井泰彦編、星雲社)。





△12:『白鯨(上・中・下)』(メルヴィル作、阿部知二訳、岩波版ほるぷ図書館文庫)。

●関連リンク




参照ページ(Reference-Page):九州広域の地図▼
地図-日本・九州地方(Map of Kyushu region, -Japan-)



参照ページ(Reference-Page):福井県敦賀市の地図▼
地図-日本・福井県(Map of Fukui prefecture, -Japan-)

参照ページ(Reference-Page):浅草の地図▼
地図-日本・東京都(Map of the Metropolis, Tokyo -Japan-)


参照ページ(Reference-Page):会津若松市の地図▼
地図-日本・福島県(Map of Fukushima prefecture, -Japan-)

参照ページ(Reference-Page):大阪西中島の「ひょうたん島」の地図▼
地図-日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)


参照ページ(Reference-Page):兵庫県篠山市の地図▼
地図-日本・兵庫県の城(Map of castles, Hyogo -Japan-)


参照ページ(Reference-Page):感染症や免疫関連の用語集▼
資料-最近流行した感染症(Recent infectious disease)



補完ページ(Complementary):肉食の哲学:脱”管理食”のすゝめ▼
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日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)
補完ページ(Complementary):「形有る物をバリバリ食う」実践(中国)▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
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