§.「肉を食らう」ということ
[肉食の哲学:脱”管理食”のすゝめ
(Carnivorous life)

−− 2002.11.28 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.06.10 改訂

 ■はじめに − 問題提起
 先日(2002年11月20日頃)ニュースで「日本の黒和牛だというラベルを貼って売られて居た肉が実は外国産だった」と報道されて、それを聞いた消費者がケシカランと言って被害者意識を剥き出しに、販売して居た業者や国に対して責任追及とか、被害者救済がどうのこうの、と言っていたのを見て、私は「フフン又か、消費者めザマァー見ろ!」と思いました。確かに外国産牛肉を国産と偽って販売して居た業者は悪い、責任は大いに有ります。又それを見逃して居た国や行政にも監督責任は有りましょう。それは私も認めます。
  しかし騙された消費者は100%被害者で全く責任は無いのでしょうか?
 この問いに直ぐ答えを出す前に、少し別の話に言及してそれを基に私の結論を述べたいと思います。何故ならこの問題は単に消費者と業者の問題では無く、そこには「現代日本のより根源的な問題」が横たわって居る、と考えられるからです。
  {尚、本稿は初稿に2つの「エルニーニョの小定理」の部分を03年3月15日に加筆し全体を整理・再編成しました。更に04年6月10日に「民族変わればゲテモノ変わる」掲載に際し、それに対応させるべく<「肉食」と「セックス」との相関表>の一部を改訂しました。}

区切り線。

 ■日中「肉食」比較
 実はこのニュースを知る前に私は中国を旅して来ました。そして今回2003年3月初旬に成って漸く、これ迄の中国の旅で経験した中国人の「食」、特に「肉食」の実体験レポートを「外国旅行」のコーナーに満を持して掲載しました▼。
  中国のヘビーなお食事−”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
 上のレポートはちょっとふざけたタイトルですが、本論考を補完する内容なので是非お読み下さい。本論考が書き出しは早かったものの長い間”未完”の儘に成っていたのは、上のレポートを一つの実証として示したかった為ですが、これで完成です。

 中国は今迄に数回行って来ましたがその度に感じるのは「食」に対する考え方が非常に、本源的(original)と言うか野性的(wild)で、逆に日本人からは、原始的(primitive)又は野蛮(barbarous or uncivilized)に見えるでしょう。特に「肉」を食べる時にこの違いが最も良く現れ、全く対照的或いは正反対です。
 例えば日本人が好む牛肉は、柔らかく、肉汁が甘い、所謂霜降り牛ですね。そしてモツ(※1)などは気持ち悪がる人が多いですね。況してや血など飲みません。そしてやたらとラベルの表示、例えば種類や産地や賞味期限などに小煩いですね。日本人はラベルで判った様な顔をして、美味しい肉の誉め言葉は決まって「マイルドでジューシー」のワンパターンです。その癖、冒頭に述べた様に簡単にラベルに騙されるのです。
 中国人は違います。肉は大体が骨付き肉、モツも食べれば血も飲みます。つまり捨てる箇所が無い食べ方をする訳です。柔らかいだとかジューシーなんて考えはハナから有りません。しかも市場に行くと豚や牛や山羊など丸ごと置いて在りますし、内蔵など溢れ返っていて、血も洗面器に入れて売って居ます。その場で解体して居る場面に出会(くわ)す場合も有ります。そして何よりそういう商品にはラベルなど貼って在りませんから当然の事乍ら賞味期限も書いて在りませんし、値段すらその場の交渉で決まります。中国では食える食えないを決めるのは買い手である消費者の「眼と鼻と歯と舌」だけです。こういうのをテレビなどで見て日本人は、中国は遅れて居るとか、汚いとか、或いはやっぱり日本に生まれて良かった、などと思っている訳です。
 肉の料理も中国では、頭や足や尻尾など「原形が判る姿」で出て来ます。日本人はダメですね、こういうの。日本人は「原形を残した形」で出て来ると殆どの人は食べることが出来ません。そこで日本人の「食」、取り分け「肉食」について考察を進めましょう。

 ■日本人の「食」一般の問題点 − ”管理食”偏重
 これはそれぞれの文化の違いですから、片方が正しく、片方が間違っているという事では無いのです。恐らくどちらも正しいのでしょう。唯、私は「肉食」に限らず、日本人の食生活の余りにも人工的で軟弱なジュース粉末物インスタント物に偏っている事、更にラベルや所謂「健康食品」のヘルシー物に依る”成分合わせ”に頼り過ぎている事、について「疑問」を感じます。言い換えると、日本人の食生活が段々と”ひ弱”に成って来ている、という事です。
 そこで少し「肉食」に限らず「食」一般について考察してみましょう。私の「疑問」についての「私の考え」は次の2点
  [1].ラベルの有無では無く、自分の「眼と鼻と歯と舌」で”味わう”ことが大切。
  [2].「原形が判る姿」で食べることこそ「食」の基本で、それは決して野蛮では無い。

に集約されます。これは日本人の現在の「食」の在り方、即ち
         軟     弱   ”成分合わせ”
         ↓     ↓     ↓
  原形無き「マイルド・ジューシー・ヘルシー」志向
       [mild, juicy, and healthy] directivity

に対する私の警告です。そしてこの様に人工的に過度に管理された病院食的な「食」の在り方を”管理食”と命名して置きます。
 以下に私の主張を絡め乍ら、「肉を食らう」ということ、について考察を進めて行きましょう。

 ■日中の「食」の指向性の違い − 羊水国家とボーダーレス国家
 では日本人が何故、「マイルド・ジューシー・ヘルシー」志向に向かうのか?、それは日本人の特性に起因して居る、と私は考えて居ます。次にそれを提示しましょう。
 同じ農耕民族を主体とし乍ら日本と中国で大きく異なるのは、日本は四方を海に囲まれて居る島国であるのに対し中国は多民族が接する大陸国という点です。日本が海という羊水(※2)で守られて居る「羊水国家」の為に母性原理の保護の下で「甘えの構造」(△1のp187)を脱し切れずに居る −最近「母原病」(※3、△2)という事が言われて居ます− のに対し、中国は沿海部以外は直接外国や国内の異民族と絶えず接し緊張を強いられる −事実北方の遊牧騎馬民族(※4)に依る遼・金・元・清という征服王朝を経験して居ます− 「無境界国家(=ボーダーレス国家)」の為に中国主流の漢民族は父性原理を獲得したと考えられます(→この2つのタイプの国家の違いについては、末尾に「参考資料」を付しました)。
 これを図式的に纏めると、つまりは
  日本:島国の母性原理 → 原形無き「マイルド・ジューシー・ヘルシー」志向
  (羊水国家)        母乳への回帰(=「食」の”ひ弱”さ)
                自立出来ない「甘えの構造」 → 被害者意識
  中国:大陸の父性原理 → 「原形が判る姿」で食べる
  (ボーダーレス国家)    自分の「眼と鼻と歯と舌」胃袋を鍛える
                精神的自立 → 自己責任意識

という事です。
 最近の日本の若者の精神構造(或いは精神力)が”ひ弱”(=軟弱且つ脆弱)に成っている、という話をしばしば耳にしますが、これは上の日中の「食」の指向性の分析結果と符合します。案外「「食」の”ひ弱”さが精神の”ひ弱”さを齎す」のかも知れません、この問題については後で詳述します。
 私は「形有る物をバリバリ食う」主義です。つまり自然志向でありアンチ「マイルド・ジューシー・ヘルシー」志向、即ち
        野性的で 活き活きと 変化に富んだ
         ↓     ↓     ↓
  原形有る「ワイルド・ヴァイタル・ヴァリード」志向
       [wild, vital, and varied] directivity

ですので宜しく!!
 尚、”成分合わせ”の食事や健康食品志向は私の自然体な生き方と真っ向から対立し、「私の健康論−不摂生は健康の母」の中でも議論を展開して居ますので是非ご覧下さい。
 それでは次に、「「食」の指向性」と「心の奥底」とがどういう関係を持っているのか?、という点についての私の独特な持論を更にご披露しましょう。これがこのページで披露する私の第1の定理です。


 ■エルニーニョの小定理 − 肉食とセックスの相似性
 「形有る物をバリバリ食う」と言っても野菜とか果物だったら平気でも、それを「肉食」に応用すると言うと、大抵の日本人は引いて仕舞います。それは理屈では無く、動物は我々人間と同じ「赤い血」を流す、という本能的抵抗感が根底に在る為です。
 今日の文化人類学的到達点と性心理学や精神分析学(※5)の成果を、人間の深層心理(=心の奥底、※5−1、※5−2)に内在する「禁忌(=タブー)意識」(※6)に対して応用してみると、「肉食」と「性行為(=セックス)」とは見事な相関を示し、下表の様に概括的に纏めることが出来ます(△3の「食物タブーと文化理論」の章)。

    <「肉食」と「セックス」との相関表>
   食 欲               性 欲
    ↓                 ↓
  <肉 食>             <セックス>
  魚貝類(漁場)        ←→ 見合い結婚(ノーマル:
  鳥類(養鶏場)        ←→ 見合い結婚(ノーマル:
  牛や豚や羊(牧場)      ←→ 見合い結婚(ノーマル:
        ↑(管理生産は見合い結婚に対応)↑
  頭部や内臓を全体摂取(牧場) ←→ 見合い恋愛(少し野性的:
        ↓(珍奇食趣味や悪食趣味は非合法な姦通に対応)↓
  虫や爬虫類や鯨や野生動物   ←→ 自由恋愛・自由体位(野性的:
  犬や猫などのペット類     ←→ 友人との不倫相姦(不倫:
  猿類             ←→ 近親相姦(野蛮:
  糞尿・腐肉・屍肉       ←→ 屍姦(変態・狂気:
  人間(吸血やカニバリズム)  ←→ 親子兄弟姉妹の肉親相姦(タブー:


 この表が示す様に、人間生活の根幹を成す2つの欲望は
  「肉食」と「セックス」の深層心理は互いに相似的で、禁忌意識が規制する
と指摘出来るのです(※7)。これを「肉食とセックスの相似性」に関するエルニーニョの小定理 と呼びます。人間はこの様に日常的に無意識の裡に「肉食」と「セックス」を結び付けて判断して居ますが、これがフロイトが唱えたリビドー(Libido)の作用(※5−3、※5−4)です。尚、私エルニーニョはこれに今流行りの健康食品を追加して置きましょう、即ち

  <肉 食>             <セックス>
  健康食品           ←→ インポ(性的不能:


です。「健康食品」に頼るのはインポテンツや発育不全の小児病に等しいのです、アッハッハ!
                (^O^)

 この対応表でお解りの様に、多くの日本人は一定の管理生産場で生産される精肉のみを私たちは暗黙裡にノーマル(=「マル」)な「肉」として認知・了解して居て、それ以外の「肉」は大なり小なりアブノーマルとして拒否して居ます。しかし、これでは見合い結婚のみを正当と見做すのに等しく恋愛の醍醐味を味わうことが出来ません。「マル」の全体摂取野生的肉食こそ前述の
  野性的で(wild)、活き活きと(vital)、変化に富んだ(varied)
に相当する「食」の範疇だ、という事をここで強調して置きます。「マル」はノーマルなのです!!
 一方、極端な珍奇食趣味や悪食趣味はアブノーマルな領域に属し、その程度は「マル」「マル」「マル」「マル」「マル」などに分類出来、「マル」はどの社会でも第1級の犯罪です。しかし「マル」以外のアブノーマルとノーマルの中の「マル」は、その具体的内容が民族や地域に依って大きく異なり、これは「禁忌(=タブー)意識」の違いに起因して居ます。
 又「マル」の糞尿の中で特に「自分の糞尿」を嗜食する人はセックスに於いてはナルシシズム(narcissism)、即ち病的自己偏愛者の自慰行為中毒に相当するでしょう。何年か前に日本で自分の尿を毎朝飲む「尿健康法」なるものが流行りましたが、これは「痩せる石鹸」ブームと同じ現象です。
 以上の「食」の指向性から貴方(貴女)の「心の奥底」を自己分析してみると面白いかも知れませんね。


 ■「食」は「文化の固有性」の基本要素
 この様に「肉食」には、個人の生い立ちやその人間が属する社会や共同体の習慣や宗教や歴史的過程などに依って後天的に形成された「禁忌意識」が常に付いて回り、「食べる」という行為を無意識に規制する力が働くのです。この「禁忌意識」の違いは或る2つの民族間では非常に大きく隔たり、これが民族理解の妨げに成る場合が有ります。ヒンドゥー教徒の牛食禁忌、ユダヤ教徒やイスラム教徒の豚食禁忌は有名です。
 この「食」の嗜好(=指向性)の違いこそが文化のローカリズムの地下水であり、各民族の言語や方言と共に「文化の固有性」の基本要素を成して居ます。私たちはこの様なそれぞれの文化の固有性の”違い”を認め合うことが大切で、それが総体としての文化の多様性であり、そこから共生という考え方が生まれて来るのです。

 ■「食」の指向性は”壁”を作る
 この「食」の”壁”について、具体例で示しましょう。現代の日本人の多くは管理生産場で”システム的”に生産された肉、即ち動物の”屠刹や解体される場面”を見ずに、しかも”顔や頭や手足”などを見ずに、最終素材として「原形を残さず部分抽出された精肉」だけを食べる”管理食”に慣れ切って居ます。従って食卓に動物の”顔や頭や手足”が載ると動物の”生きた姿”を連想し食べられなく成ります。それは”生きた姿”こそ「赤い血」を連想させるからでしょう。
 しかし、この「原形を残さず部分抽出された精肉」だけを食べるのは見合い結婚に対応し、「肉食とセックスの相似性」で示した様に恋愛を拒絶して居るのと同じで、実は偏食なのです。これは日本人が平安(或いは奈良)時代〜江戸時代の長い間「肉食」の習慣が中断した所為かも知れません。でも逆に外国人が気持ち悪がる魚を”尾頭付き”で生(なま)で食ったりして居ます。これは日本人が”顔や頭や手足”を絶対的に禁忌して居るのでは無く、単なる”慣れ”の問題に過ぎない、という事を証明して居ます。
 翻って欧米を始め多くの肉食人種は”顔や頭や手足”や内臓などを平気で食べ、それこそ「肉食」の醍醐味である訳ですね。その代わり肉食人種は魚に関しては臆病で、鮭(さけ)か鱈(たら)か舌鮃(したびらめ)以外は食べません。中国人でも、食べるのは金魚以外の淡水魚ばかりで海の魚は食べません、世界で最初に海鼠(なまこ)を食った中国人が、です。
 この様に民族(或いは人種)や個人の性格や文化を理解する手っ取り早くて確実な方法、それは「食」である、というのが私の持論です。何故ならば、「食」の嗜好(=指向性)こそ理屈を超越した各民族の環境適応の結果であり、直ぐには”越え難い壁”だからです。

 ■”管理食”は自己家畜化を促進する
 ところで、”顔や頭や手足”などを丸ごと全体摂取したり野生的肉食をするのは恋愛行為や自由な体位のセックスに対応し、飽く迄もノーマルなのです。恋愛の醍醐味がここに在るのと同様、本来の「食」の醍醐味も全体摂取と野生的食材にこそ在るのです。ともするとこの全体摂取や野生的肉食が所謂「ゲテモノ食い」(※8)と混同されて忌避される傾向に在るのは、現代管理社会の歪みと言わざるを得ません。つまり私は現代日本人が志向する”管理食”は、人工的な管理社会の中で人間が飼い馴らされ「自己家畜化」しテレビ情報などで類型的にモルモット化して行く過程での”家畜の餌”に等しいと考えて居ます(△4、△2のp68)。
 さて”慣れ”とは家畜に於いては馴化という言葉が用いられますが、以上の様に「肉食」に於ける肉種や特定部位の好みや忌避は、その民族なり人種なりの生存競争に於ける環境適応の結果であり極めて習慣的なローカリズム且つ自己中心的である、という事がお解り戴けたと思います。つまりセックスに於いては人に依り好みの体位や”遣り方”が在ると同様に忌避するそれとが在る、という事に対応して居ます。だからこそ逆に、「食」の指向性から人間の深層心理を読み取ることが出来、お互いに食事をし”違い”を認め合うことは相互理解の第一歩として有効なのです。
 そこで愈々「肉食」には「肉食の哲学」が必要だという本題に入りましょう。尚、哲学が苦手の人には脱家畜化のショック療法も用意して居ますよ、ムッフッフ!

 ■私の主張 − 「肉食」には「肉食の哲学」が必要
 この様に「肉を食らう」為には、色々な要因から心の深層の潜在意識に”刷り込み”(※9)された”壁”を乗り越える「哲学」が必要なのです、又、時間も必要に成るでしょう。「哲学」を必要としない「マイルド・ジューシー・ヘルシー」志向では”壁”を乗り越えることは出来ません。それ故に「「食」の”ひ弱”さが精神の”ひ弱”さを齎す」のです。これは正に人間の家畜化です。
 ですから、欧米人が自分たちが鯨を食わないからと言って、鯨文化の国を野蛮視したり非難するのは、自己中心的考えの”押し付け”でしか無いのです。しかも、そういう”押し付け”に反論出来ない日本人にも困ったものです。これは自分のセックスに対して他人の”遣り方”を押し付けられて居るのと同じですから、「そんなモン、どう遣ろうとオレの勝手や、オマエに言われる筋合いは無い!」とキッパリ反論しないと行けません。それを欧米中心史観に気触れたマスメディアの動物愛護論に乗せられて、「捕鯨は可哀相」などと安っぽいヒューマニズムに溺れて居る姿は情け無くも有り、滑稽です。
 動物虐待を振り回すなら、窮極的にはヴェジタリアン(vegetarian、菜食主義者)に成らなければ行けません。ヴェジタリアンは立派な哲学です。それはセックスに於ける禁欲主義者に対応します。即ち

  <肉 食>             <セックス>
  菜食主義           ←→ 禁欲主義の戒め(ノーマル:


です。戒律の厳しい修道院や寺院の修行僧の様な存在でしょう。しかし「牛を食うのが動物愛護で、鯨を食うのが動物虐待」という変な論理が、古来からの鯨文化の国・日本で罷り通っている様を何と理解したら良いのでしょうか?
 ヴェジタリアンの様に「肉を食わない」のも一つの峻厳な哲学ですが、人間と同じ「赤い血」を流す動物を屠って「肉食」をするには「肉食の哲学」が必要です。その「哲学」が”あやふや”だから健康食品などの母乳への回帰現象が起こるのです。肉を食うには先ず動物を屠り、自分の顎と歯で肉を”食い千切り噛み砕く”作業が必要です。自分の顎が痛く成る筋肉運動に依り顎や歯が丈夫に成り、同時に「人に食われる動物」の痛みを知り、「自然の摂理」(※10)と「生命」の尊さに想いが至り「恵み」への感謝の気持ちが湧いて来るのです。
                (-_*)

 ■脱家畜化のショック療法
 現在の日本の余りにも現実と遊離し過ぎた食肉状況(=自己家畜化した状況)を是正するには、小学校の授業で動物を屠殺する場面を見学させるのが良い、と私は考えて居ます。これは自己家畜化から脱却する為の言わばショック療法(※11)ですが「肉食の哲学」の論理的帰結です。それで肉が食えなく成るかどうか、各自がどういう認識に至るか、は人それぞれです。しかし「生命」とか「生きて行くこと」という本源的課題を身近に体全体で感ずる筈です。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 私は「生命」の尊さ、などは学校の教室で理屈や論理で教えるよりも、こうした実体験を通じて”体得”することの方が余程重要だ、と考えて居ます。実体験を伴なわない理屈や論理は「空論」に陥り易く、これが「安っぽいヒューマニズム」の原因に成って居ます。

 ■覇者の食事
 人類の歴史の覇者は「何でも食うヤツ」が頂点に立つ、それの繰り返しだ、という説が在るそうです。貪欲に何でも食って頂点に立つと人間は”洗練され(sophisticated)”て行き、例えば昔ニンニクを丸齧(かじ)りしてた人がニンニクを食べなく成ったり(←多分、夜、女に嫌われるからでしょう)、肋肉をバリバリ食べてた人が肉団子やスープを食す様に成ったり(←人の上に立つと上品にカッコ付けたく成るからでしょう)で、昔の様なヴァイタリティ有る食べ方をしなく成って、又、覇者が交代するという説です。この説は人間を可なり”動物”と見做して居る点が私と共通して居て、又上述の「「食」の”ひ弱”さが精神の”ひ弱”さを齎す」という私の認識とも合致します。故に真剣に検討する必要が有る説だ、と考えて居ます。

 マイルドでジューシーなハンバーグばかり食ったり、健康食品で”成分合わせ”ばかりして居ると、知らず識らずの裡に「生命」を軽視し「感謝」を忘れ、心が驕って来るのです。巨大な大量破壊兵器を有して驕る覇権国家が、「食」に於いては「ハンバーグ国家」だ、という事は大いに教訓とすべきです!

区切り線。

 ■問題への私の結論 − 格好付けるなら「違いが判る」人に成り為さい!
 「食」についての議論を深めた所で冒頭のニュースを検討しましょう。そもそも国産の黒和牛に拘泥る(拘泥るのは大いに結構ですが)なら、テレビのコマーシャルではありませんが、「違いが判る人」(又は「違いが解る人」)に成らなければ行けません。違いが判らずラベルに騙されるからそういう事に成る訳です。違いが判らない人は単に「牛肉」とだけ言って食べる方が良いのです。
 最近の日本人は何彼に付け直ぐ被害者意識に凝り固まる傾向が有ります。又、マスメディアがそれを煽っている面が有り、特にテレビは被害者を100%のイイモン、加害者を100%のワルモンという極端な二項対立に仕立てて放映する傾向が強く、まあ、その方が視聴者には単純明解に解り易いのでそうして居るのでしょうが、こういうテレビばっかり見ていると、結局見ている自分が単純人間に成って仕舞うので要注意です。{この段は、03年2月27日に追加}

 そこで初めに提示した問題
  しかし騙された消費者は100%被害者で全く責任は無いのでしょうか?
に立ち返って、結論を言いましょう。マスメディアは騙された消費者を100%のイイモン、騙した業者を100%のワルモンとして、消費者の救済とか言っている訳です。ま、騙した業者がワルモンである事は確かです、私もこの様な業者の肩を持とうとは思って居ません。問題は騙された消費者の方ですね、これに対して私の評価はマスコミ一般とは違います!!
 私に言わせれば、騙された消費者も「悪い」のです。何故なら、この消費者は「違いが判らない」のに「黒和牛」に拘泥った点で、騙された原因の半分は自分に在り自己責任が有る(=アホモン)、と言うのが私の結論です。その点を棚上げして被害者意識だけで騒いで居るのは「自己責任意識の欠如した子供の論理」なのです。ですから私は騙された消費者に申し上げたい。
  何が黒和牛やねん、日本の消費者諸君!、お前等に黒和牛と外国産との味の違いが判るんけぇー。
 ハッハッハ、又吼えて仕舞いましたね。ま、冷静にしないと行けませんね。しかしこれが私の結論ですよ、気持的には。
 ですから初めに述べたニュースをもっと解り易く翻訳すると
  外国産牛肉を国産黒和牛だと偽って売っていた業者は悪いが、味の判別が出来ない癖に生半可なカッコ付けて高い金払わされた消費者はもっとアホ
という事に成ります。ま、この勝負一時的にせよ儲けた業者の勝ち、と言えましょう。だから私は申し上げたい、
  こんな消費者は救う必要有りません!!
と。
                (>v<)

 ■結び − 脱”管理食”のすゝめ
 こういう違いが判らないアホモン(=味覚鈍感人間)が増えた直接原因は、”部分抽出された精肉”だけを食べる様な部分摂取が横行し、その結果ラベル以外にその部分食材を保証するものが無くなった事に在ります。日本人も嘗て食糧の自給自足をして居た時代は全体摂取が基本で味覚に長けていた事を考え合わせると、どうやら
  味覚鈍感人間の割合は食糧自給率反比例する
という方程式が成り立ちそうです。これは
  味覚鋭敏人間の割合は食糧自給率正比例する
と等価です。これを「味覚鋭敏性と食糧自給率」に関するエルニーニョの小定理として置きましょう。これがこのページの第2の定理です。更なるアホモンの詳細分析はこちらを参照して下さい。
 今私たちは「食糧の自給自足」「全体摂取」の原点を見詰め直し「形有る物をバリバリ食う」という「脱”管理食”のすゝめ」を実践すべき時期に来ているのではないでしょうか?!、冒頭で「現代日本のより根源的な問題」と言ったのはこの事なのです。
 最後に中国人が食べない金魚から毛虫・ナメクジ・ペンギン・狸や象迄食った兵(つわもの)が著した本『町人学者の博物誌』をご紹介して置きますので、興味有る方は是非一度お読み下さい。この中で著者は現代人の「食」を偏食と断じ、更に
  食べられるものと食べられないものとの識別ができ、
   おいしいもの、栄養があるものを弁別できることは、
    生命にかかわる重大事である。

と述べて居ます(△5のp51)が、これは当論考に於いてラベルに頼らず「眼と鼻と歯と舌」で”味わう”ことが大切と言った、私の主張と全く同じ立場です。

 ◆◆◆参考資料 − 「無境界国家」と「羊水国家」の違い

 この「無境界国家(=ボーダーレス国家)」「羊水国家」という言葉について、誤解の無い様に以下に説明して置きましょう。

 (1)「無境界国家(=ボーダーレス国家)」とは

 今日の国境線が出現し始めたのは世界史的に見て「大航海時代」が始まった頃で高々500年前の話です。これに対し陸続きの地の各民族は悠久の太古から存在し、移動し、それ故に衝突し”国盗り”合戦を繰り返し、鬩(せめ)ぎ合いの中で、陸続きの国境線は絶えず生成消滅と移動を繰り返して来ました。それ故に現在のたった今でも、パレスティナの様に国境紛争をして居る国が在ります。陸続きの国境線は決して固定的な存在では無く、現在の”力関係”の一時的結果に過ぎない存在で、将来的保障は何も有りません。
 従って陸続きの国境を抱える国は将来的にも国境が不安定な「無境界国家(=ボーダーレス国家)」として国家運営せざるを得ず、羊水にどっぷり浸かって”安眠”することは外敵に門を開く行為で、国家の滅亡を意味します。但し、国家が滅亡してもその民族は生き延び、再び新たな国家形成運動に向かいますが。

 (2)「羊水国家」とは

 これに対し海を国境にする国は違います。突然海が無くなったり、国が海に沈んだりはしません(大洋上の岩礁国家で無い限り)。海という国境は現在も将来も相対的に安定な存在なのです、但し無防備だと侵食されるので絶対安定では無いですが(←過去に、鎌倉時代の元寇(※4−1)や第二次大戦での米軍に依る原爆投下や空爆に襲われた)。外敵よりも津波や台風などの自然災害に因る海岸線の防備の方が現実的課題です。
 確かに日本国内に於いても1600年頃迄は戦国武将たちが領地争いをし国内紛争に明け暮れて来ました。これは陸を接する国同士の争いと同様ですが、違いは争ったのは武将たちだけで、領地の生活者同士が民族的に憎しみ合った訳では無く民族的には一体感が有りました。
 そういう意味では日本国内の民族的覇権争いは古墳時代で完結 −アイヌ民族との抗争は江戸時代迄持ち越したが、覇権争いでは無い− し、以後国内は混血に因る均質化が進み「日本国」としてはどっぷりと羊水の中に浸かり、国境が安定な「羊水国家」を形成維持して、現在は羊水のプールの上を”アメリカの傘”で覆われて居ます。私は傘を差し出して呉れる人が”本心から親切な人”であることを唯々祈ります。

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:モツは、(「ぞうもつ(臓物)」の略)鳥獣の料理で、内臓などの称。

※2:羊水(ようすい、amniotic fluid)は、羊膜(=昆虫類・爬虫類・鳥類・哺乳類の羊膜類に在る胚膜の一つ)の内側を充たす透明な液。胎児を保護し、又、分娩時に流出して出産を容易にさせる。羊膜液。

※3:母原病(ぼげんびょう、mother-pathogenic disease)とは、とは、〔育児〕(「母親が原因の病気」から)母親の育て方が原因で、子供の心身形成・人間形成に歪みが出て来る文明病を言う。ミルク嫌い/喘息/アトピー性皮膚炎/習慣性腹痛/長期の下痢/言葉遅れ/登校拒否/家庭内暴力に至る迄、従来の治療法では治療し得ない症状だが、これらの原因は育児感覚を持たない親の育児方法に起因するとされる。特に子供との接触が多い母親が原因である場合が多いことから、この名が付けられた。<出典:「現代用語の基礎知識(1999年版)」>
 補足すると、「育児感覚を持たない親」は高度成長期以降の核家族化で急増しました。
※3−1:文明病(ぶんめいびょう、civilization disease)とは、[1].物質文明が極度に発達した結果として生ずる病症。現代病。
 [2].性病の俗称。

※4:騎馬民族(きばみんぞく、equestrian people)とは、中央アジアなどに住み、馬の機動性を利用して遊牧と軍事力を発展させ対外進出を行なった遊牧民族。西方のスキタイ/フン、中央の烏孫(うそん)、東方の匈奴(きょうど)/烏桓(うがん)/鮮卑/突厥(とっけつ)/ウイグル/モンゴルなど。夫余(ふよ)/高句麗/渤海/女真などを加えることも有る。
※4−1:元寇(げんこう)とは、鎌倉時代、(=モンゴル民族が建国)の軍隊が日本に来襲した事件。元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府(←北条時宗が執権)に拒否され、1274年(文永11)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、81年(弘安4)再び范文虎らの兵10万を送ったが、二度とも大風 −日本は神風と呼んだ− が起って元艦の沈没するものが多く、日本は侵略を防ぐことが出来た。しかし、この戦いは鎌倉幕府衰亡の切っ掛けと成った。蒙古襲来。文永・弘安の役

※5:精神分析(せいしんぶんせき、psychoanalysis)とは、[1].精神の深層、即ち無意識に関係の有る行動についての観察と分析。
 [2].〔心〕フロイトが神経症患者の診断法として創始した無意識に関係する行動や性格についての観察と分析。又、それから発展したフロイトの深層心理学説やフロイトの系統をひくユング/アドラーらの学説。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※5−1:深層心理(しんそうしんり、deep psychology)とは、人間の精神活動の内、意識されて無い心的領域、即ち無意識の心の動き。ヨーロッパではフロイトが初めて注目。
 補足すると、フロイトは無意識を特にリビドー(性欲衝動)との関連で解明を試みました。しかしアジアでは古代インドの唯識派阿頼耶識(あらやしき)という言葉で無意識下の心を分析して居ます。
※5−2:深層心理学(しんそうしんりがく、depth psychology)とは、心理学の一分科。人間の精神活動の中に大きな部分を占める無意識の世界を研究し、日常の精神的現象をこの無意識に依って説明する。スイスの精神医学者ブロイラーの命名。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※5−3:フロイト(Sigmund Freud)は、オーストリアの精神医学者(1856〜1939)。人間の心理生活を、下意識又は潜在意識の領域内に抑圧された性欲衝動(リビドー)の働きに帰し、心理解明の手段として精神分析の立場を創始。主著「夢判断」「日常生活の精神病理学」「精神分析入門講義」。
※5−4:リビドー(Libido[独])とは、(本来はラテン語で欲望の意)。精神分析の用語で、フロイトは性的衝動を発動させる力(=性欲衝動)とし、ユングは全ての本能のエネルギーの本体とした。
※5−5:阿頼耶識(あらやしき、alaya vijnana[梵])とは、〔仏〕人間存在の根底を成す意識の流れ。経験を蓄積して個性を形成し、又、全ての心的活動の拠り所と成る。唯識派で説く。八識 −眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識− の中の第8識。旧訳(くやく)では阿梨耶識。略して阿頼耶・頼耶・阿梨耶・梨耶とも。

※6:タブー(taboo)は、(ポリネシア語で「聖なる」の意のtabu、tapuが原意)超自然的な危険な力を持つ事物に対して、社会的に厳しく禁止される特定の行為。触れたり口に出したりしては為らないとされる物・事柄。禁忌

※7:「肉食とセックスの相似性」については、あのフロイトが『性の理論に関する三つの論文』で真っ先に論じて居ます。

※8:ゲテモノ/下手物(げてもの)とは、[1].average goods。並の品。高価で精巧な一品作りの品に対し、日常用いる大衆的・郷土的で質朴な雑器。←→上手物(じょうてもの)。
 [2].bizarre taste。一般から風変わりと見られるもの。「―趣味」。

※9:刷り込み(すりこみ、imprinting)とは、[1].〔生〕多くの動物、特に鳥類に於いて最も顕著に認められる学習の一形態ローレンツが最初に記載。生後間も無い特定期間内に目にした動物や物体が雛に固定的に認識され、以後それを見ると機械的に反応する。刻印付け。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、一部「Microsoft エンカルタ総合大百科」より>
 [2].転じて一般用語として、特定の物事が短期間で覚え込まれ、その影響で以後の思考や行動が長期間に亘り規制される場合にも使う。洗脳と同様の作用を及ぼす。「―効果」。

※10:自然の摂理(しぜんのせつり、Providence of Nature)とは、自然界を支配して居る理法。

※11:ショック療法(―りょうほう、shock treatment)は、[1].精神科の療法の一種で、薬物(インシュリンや強心剤)電流(電気ショック療法)で生体に衝撃を与えて効果を得る方法で、危険を伴う場合も多い。向精神薬が使われて以降は、薬物ショック療法は殆ど行われなく成った。
 [2].転じて、強い衝撃を与えて膠着した心身の状態や事態の打開を試みること。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『「甘え」の構造』(土居健郎著、弘文堂)。

△2:『母原病−母親が原因でふえる子どもの異常』(久徳重盛著、サンマーク文庫)。著者は「母原病」を「文明国型育児不能」と定義して居ます。

△3:『「食」の歴史人類学』(山内昶著、人文書院)。

△4:『ペット化する現代人』(小原秀雄・羽仁進著、NHKブックス)。小原氏は動物学者の立場から現代人の「自己家畜化」現象を逸早く指摘して居ます。

△5:『町人学者の博物誌』(筒井嘉隆著、河出書房新社)。著者は大阪天王寺動物園の園長などを務めた動物学者で作家・筒井康隆の実父です。この本の野生的食の実践記録は貴重且つ希少です。

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