−− 2002.12.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.11.17 改訂
■はじめに − 個性有る文化に触れて
私は昨年中国雲南省の麗江に行きました。そして感じた事なのですが、あの旧市街(四方街)の柳の垂れさがる疎水を歩いて居てやたらとカフェやイタ飯屋が目に付いたことで、地元の人に聞いてみるとやはり世界遺産に登録されてからということでした。麗江が世界遺産に登録されたのは1997年のことでした。ということはそれから僅か4年で大いに変わったということです。そして又、麗江が大震災に見舞われたのが96年でした。
右は麗江旧市街の古城から麗江のシンボル的存在である玉龍雪山を撮ったものです。
麗江と言うと先ず思い浮かぶのがあの不思議なトンパ(東巴)絵文字、灰黒色の瓦屋根の家並み、そして柳の疎水ですね、正に小京都です。麗江を訪れたことの有る人はやはり玉龍雪山は忘れられないでしょうが、この景色は京都には有りません。
ここはナシ族(詳しく知りたい方は最下行の「中国の少数民族」へのリンクで参照して下さい)の人たちが長い時間を掛けて自然と共生し伝統を守り乍ら、自分たち固有の文化を本当にゆっくりゆっくりと慈しみ育んで来た場所なのです。しかし彼等に決して気負いは有りません。それ故にこういう個性、ここにしか無い固有性に、訪れる人たちは感動するのでしょう。確かに日本から見ればここは田舎です、文明の利器も遅れて居ます。しかし、彼等の文化は決して遅れても居ないし、前述の様にその固有性に於いては何処にも引けを取りません、何処にも負けて居ません。
そもそも文化とはこういう固有性(=ローカリズム)とか希少性が大切なのですね、この固有性が全体としての文化の多様性の構成要素を担う訳です。高層ビルがどれ位在るとか、車が沢山走っているとか、マクドナルドやコンビニが沢山在るとか、GDPがどうだとか、それは文明の問題であって文化とはそんなモノ(物)・カネ(金)だけの問題では無いと私は思って居ます。そう思っているからこそユネスコの世界遺産について一つの問題提起をしたいのです。
★お断り
ここで読者の方々に予めお断りして置きます。私の議論を進めて行く手がかりとして、既に触れて居ますが中国の麗江の旧市街を取り上げます。ここは世界中で700件以上も在る世界遺産登録地の内の中のたった一つの例に過ぎません。それぞれの遺跡や歴史的場所の”在り方”はそれぞれに違いますし、全てが麗江の様だとは決して言って居ませんので、その点をご理解下さい。
■世界遺産とは
さて議論に入る前に、先ず世界遺産とは何か?、という要点を簡単に押さえて置く必要が有ります。これから記述する世界遺産の概念資料としてはハンドルネーム「浦に〜と」氏の世界遺産に関するサイトを参照させて戴きました、浦に〜とさん有り難う。このサイトには世界遺産についての網羅的情報と浦に〜と氏の見解が載って居ます。このサイトへのリンクを最下行に付けて置きますので世界遺産について詳しくお知りに為りたい方はこのリンクで参照して下さい。
それに拠りますと世界遺産とは 1972年のユネスコ総会で採択された「世界遺産条約」に基づく「世界遺産リスト」に登録された、世界中の自然や文化のことです。世界遺産には概念的には大きく2つのカテゴリーが在り、「自然遺産」と「文化遺産」です。そしてこの2つが複合して居るものとして「複合遺産」が在ります。
世界遺産への登録は、ユネスコが世界中を見渡して決めるのでは無く、それを所有する国がユネスコへ登録を申請する、という形で行なわれます。ですから、どんなに素晴らしい文化や自然であっても、所有国が申請しない限り世界遺産には成れないのです。世界遺産に登録されると、所有国にはその遺産を守る義務が生じますから、遺跡保護に金を使いたく無い国や、保護したくても金が無い国は余り申請しないという傾向に在ります。又、観光地として見込みの有る場所が優先的に世界遺産に申請されるという傾向も見受けられる様です。
そして世界遺産制度の趣旨は、地球に在る素晴らしい自然や文化を、国や民族の区別無く、全地球人のものとして守って行こうというものだそうです。麗江は文化遺産として登録されて居ます。
■問題提起 − 「文化の固有性」の大切さ
世界遺産の趣旨自体は大変結構なのですが、問題は麗江の様な所を「誰が誰の為に守るのか?」ということです。そう言うとそれは「ユネスコ」の名に於いてであり従ってユネスコに登録して居る世界中の国々の人々という事に成ります。大変結構な事です。
ところが実情は世界の人々が「観光」として多数訪れる事に成り、更に地元や国も観光客を呼び入れる為にホテルを作ったり道路を整備したり、公衆トイレを整備したり、観光客が休憩出来るカフェを作ったりお腹が空いた人の為にマクドナルドを作ったり、大衆向けの大規模劇場やレジャーランドを作ったり、お金を拠出する企業を誘致したりという事に成ります。その結果どう成るでしょうか?
その結果所謂「観光地化」と「開発」が急速に進み、世界遺産に登録される前には個性有る風景や町並みを醸し出し「文化の固有性」(=ローカリズム)を保持して居た所が、世界遺産に登録後にはすっかり近代化して仕舞い「何処にでも在る風景」に変貌して仕舞うという逆説的結果が生じるのです。これが世界遺産登録のパラドックスです。
少なくとも麗江はそうです。麗江は今正に現在進行形でこの「近代化」の真っ最中に在ります。旧市街にはモダンなカフェがボコボコ出現し、ロックミュージックがガンガン鳴り、カメラをぶらさげた青い目のガイジンさんが溢れて居て、私は一見麗江も国際化したなあと思いましたが、直ぐに或る違和感に捉えられました。ちょっと待てよ、これでは「何処にでも在る風景」に成って仕舞うぞ、と。
風景だけでは有りません。ナシ族の人々はもう一つ独特の音楽も持っていて、彼等の日常の暮らしの中で色々な行事や祭の中で演奏し、その芸能を綿々と継承して来たのですが、今ではそれらの音楽は彼等の日常から離れて観光客相手に劇場で演奏される様に成って居ます。演奏者も今迄の様に野良仕事をする日常の生活者が演奏するのでは無く、演奏だけに特化した”ミュージシャン”に成りました。つまりイベント化したんですね、演奏も祭事も。しかし華美洗練と引き換えに脆弱性を内包したのです。日常性に培われ成り立って来た芸能が日常性の背景を喪失したらどうなるか?、日本の古典芸能が戦後歩んで来た道と同じ道を辿るしか有りません。
麗江の場合、今は訪れる観光客が沢山居るから良いですが、平凡な「何処にでも在る風景」に成って仕舞う(今は成りつつ在る段階ですが)とやがて「飽きられる」時が必ず来ます。飽きられて観光客の足が鈍って来て、今迄劇場で毎日演奏して居たのが2日に1回に成り3日に1回に成り...した時に、その音楽や芸能は廃れて行くのです。その時に成って日常に帰ることは出来ません。日常性に立脚して居れば仮に年に数回しか上演機会が無くても、その日常性が続く限り、つまりは人々の暮らしが続く限り、その音楽や芸能は命を保ち続けます。それが民俗芸能の本来在るべき姿なのです。ところが日常性から一旦遊離して仕舞った芸能はそういう訳には行きません、こういう現象を「文化の空洞化」と言うのです。
今迄綿々と継承されて来た民族固有の文化が世界遺産に登録された為に陳腐化し空洞化されて行くのは何とも皮肉ではありませんか?
■議論 − 世界遺産を「負の遺産」にしない為に
ここで私の議論の本題に入りましょう。私は再び文化は「誰が誰の為に守るのか?」と言いたいのです。国連機関の一つであるユネスコの名に於いて世界の人々が守るというのは大変崇高な理念ではあるのですが、麗江の例の様に、どうもそこには「地元以外の言わば”余所者”の人々が観光で訪れたりエンジョイする為に自分たちの都合の好い様に守る」という隠れた欲望が有る様に私には思えるのです。更に言うならば、世界遺産の中の特に「自然遺産」と言われる所の多くは所謂未開な地域に在るのですが、「そういう未開の人々に任せるよりも文明の利器の発達した先進国が守って上げましょう」という、上から見下す様な視点が有る様にも思えます。ですから前述の様な「近代化」が導入されて仕舞うのです、その方が観光で訪れる側にとっては便利ですからね。この視点、つまり訪問者側の視点、を強引に拡大解釈して行くとやがては植民地思想に行き着いて仕舞います。
しかし、地元の側から見たらどうでしょう?、地元も近代化された方が良いと思っているかも知れませんね、それも解ります。しかしその様な発想では結局バカを見るのは地元の人々なのです。そりゃそうですよね、観光客は訪れた後には必ず帰って行きますが、地元の人々は他に帰る所は在りませんからね。外部の観光客やメディアに食い物にされた挙句、最後に貧乏籤を引かされ「負の遺産」を背負って生きて行かねば為らないのは地元の人々だけである、ということを忘れては行けません。外部の観光客やメディアはブームを造ったり囃し立てはしますが、決して「負の遺産」を一緒に背負っては呉れません。だからこういう遺跡や文化を守る為には「そこに住む人がそこに住む人の為に守る」のでなければ為らない、それが地域の個性(=「文化の固有性」)を保つ為には不可欠だ、と私は思うのです。これは先進国が対外援助する場合にも留意せねば為らない大事な視点だと思います。
■私の結論 − 極力そっとして置く
それではどうしたら良いのでしょうか?、私の結論はこうです。
先ず第1は世界遺産などに登録せず、そっとして置ける所は極力そっとして置く。これが一番です、地域紛争に巻き込まれて破壊の危険性が有る様な所は別ですが。
そもそも麗江の様な固有の文化 −特にマイナーな文化− が何故長い歴史の風雪に耐えて保持されて来たかと言えば、それは世界のメジャーから振り向きも去れず”そっとされて来た”からではないでしょうか?、世界のグローバリゼーション化から取り残されて来たからこそ、儚い命を保って来れたのです。私たちはそこを良く考えないと行けないと思います。正に儚い命ですから、グローバリゼーションなどという圧倒的な力の前では虫けらの様な存在なのです。そして私たちの方も、何も全員が世界の隅々迄知らなくても良いのではないですか?、そりゃ知る権利は有るかも知れませんが、知る人ぞ知る(=知らない人は全く知らない)で良いのではないか、と私は思っているのです。
第2は、世界遺産に登録する場合でも、観光客的な外側からの発想や、よしんば植民地思想の様な支配の発想では無く、地元の側からの −そこに今現在も住み子孫たちもそこに暮らして行かなければ為らない人々の側からの− 視点で取り組むことが大切だと痛感して居ます。皆さんはどう思われますか?
■日本の世界遺産登録熱に関して一言
浦に〜と氏の資料に拠ると、2002年末の時点で日本は下表の11箇所が世界遺産の文化遺産又は自然遺産に登録されて居ます(資料はハンドルネーム「浦に〜と」氏の世界遺産に関するサイトの「世界遺産リスト・アジア」より抜粋)。
日本国内の世界遺産登録地域(2002年11月現在)
地域 登録年/種別(*)
法隆寺地域の仏教建造物群 93/C
姫路城 93/C
白神山地 93/N
屋久島 93/N
古代京都の文化財(京都市、宇治市、大津市) 94/C
白川郷と五箇山の歴史的集落群 95/C
広島平和記念碑(原爆ドーム) 96/C
厳島神社 96/C
古代奈良の文化財 98/C
日光の神社群や寺院群 99/C
琉球王国のグスク遺跡群と関連する遺産群 00/C
(*種別で Cは文化遺産、Nは自然遺産、NCは複合遺産)
しかし、昔の屋久島を知っている人に聞くと93年に登録された屋久島も観光客用の「開発」が進んで来て、地元でも意見が割れて居る様ですね、いやはや。
私は大阪に住んで居るので経験談を話しましょう。関西では94年に京都の文化財が世界遺産に登録され、98年に奈良の文化財が登録されました。この京都が登録され奈良が未だ登録されて無い時(この間に95年には阪神淡路大震災が有りました)の事情を関西の人間として間近に見ていて感じた事を言います。
先ず京都が登録された時、やれこれから町興しだの、××の国際会議を誘致だの、果ては地元に及ぼす経済効果が¥××円だの、とお決まりのワンパターンさで地元商店会や財界、メディアが挙って吹聴しましたね、そしてそれを見ていた奈良が「何で京都やねん、修学旅行かて京都と奈良をセットで来るのに、何で奈良が無いんや」という訳で猛烈に奈良の世界遺産登録運動が活発化したのを覚えて居ます。ユネスコの審査委員を接待しようなんて話も出てましたね、まその所為か奈良は98年目出度く文化遺産に登録された訳ですが。浦に〜と氏に拠るとこの時奈良は、宮内庁所有ということでこれ迄文化財指定を受けて無かった正倉院を1997年にわざわざ国宝に指定し敷地を文化財保護法の対象にした、というウラ技を使ったそうですね(←世界遺産の文化遺産登録には、当該文化財が法律で保護の対象とされて居ることが必須条件である為)。
皆さん、こういうのどう思いますか?、私は地元の人たちの気持ちもそれはそれで解るのですが、これはもう”横並び意識”言い換えると”悪平等主義”(=平等主義の履き違え)です。こんなんで本当に遺跡や文化財が守れるんかいな?、と思って仕舞いますね。これは世界遺産に限らずオリンピックなどの開催地誘致活動でもそうですが、何か「世界遺産」という”商用看板”をカネで買ってる様に見えて仕舞うんですがね、そう女を買う様にね。
そしてもう一言。上で紹介した様に世界遺産制度そのものは崇高な理念で発足したのですが、一旦制度が運用され出すと本来の理念から離れて独り歩きを始めて仕舞うもので、日本ではこの制度が「格付け」に変質して受け取られて居ます。つまり「世界遺産に登録されてるからスゴイ、登録されて無いから価値が低い」という暗黙の諒解(=無意識の合意)が成り立って仕舞うのですね、深層心理の怖さです。その結果、日本の各都道府県は”横並び意識”を剥き出しに競って登録運動を展開し、この勢いは全都道府県が登録される迄終わりそうに有りません。
私は、現在登録されて居る日本の世界遺産の何割に本当の「世界的価値」が有るのか?、日本人は世界遺産を”日本遺産”と勘違いして居るのではないか?、と危惧して居ます。呉々も世界遺産の価値を低めない様に願いたいですね。皆さんはどう思われますか?
■結び − 世界遺産の存在意義とは
現在本屋に行くと綺麗な写真入りの世界遺産登録地の紹介や案内書が沢山在ります。それらを見て、こういう所へ行ってみたいと思う方も沢山居られるでしょう、又その内の幾つかに実際行って来られた方も多いと思います。そういう時少し思い出して貰いたいのです、「世界遺産は何の為に、そして誰の為に在るのか?」と!!
>>>■その後
●世界遺産の功罪 − 麗江
私は2004年11月1日に開かれたパーリャン小学校竣工記念式典に参加しました(←私は1999年秋からこのプロジェクトにボランティアでちょっぴり協力です)。今回が最後という事で竣工記念旅行として景洪・大理・麗江・シャングリラ(嘗ての中甸)などの見物が付随して居り、全日程は10月29日〜11月11日、皆開放感からか楽しい旅でした。
しかし11月6日にナシ族が住む麗江に行って唖然としました。大研鎮(麗江県城)が更に俗化するのは仕方無いですが、束河鎮が3年前の2001年には俗化されて無くて良かったのですが、僅か3年でホテルが出来(未だ建築中)、九鼎龍潭に行く道は疎水 −麗江は疎水が名物です− が流れ他には何も無くて良かったのですが、疎水の奥に喫茶店やレストランが立ち並んで居ます(左下の写真)。もう昔(と言っても3年前)の様な素朴さを脱皮して”観光の町”に変貌中でした(右下の写真)。
2001年の観光地化の波を被って無い束河鎮を▼下から▼ご覧下さい。左下の写真とちょうど同じ場所を同じ角度で撮っている写真が在りますので比較して見て下さい。又、右下の写真は左下の写真を逆方向から撮ったもので、観光客が立っている直ぐ下を疎水が流れ、人は疎水に架かる小橋を渡って店に入ります。
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
そして束河鎮の未だ観光化されて無い地域へ行き四合院造りの民家を5〜6人で見せて貰いました。すると一人のお婆さんが出て来てとても愛想が良かったのですが、私たちが帰ろうとするとお婆さんが急に出口に走り両手を広げて”通せん坊”をし、何か叫んで居ます。「100元払え」と言って居るのです。代表者が交渉して漸く外に出られましたが、幾ら払ったのか私は関知して居ません。昔(と言っても3年前)の束河鎮はそんな事は無かったのです。四合院造りの民家に入り盆栽の五葉松を写真に撮ったりしたのです。
人心が変わったら後へは戻りません。麗江が世界遺産に登録されたのは1997年で、今年で未だ7年目です。世界遺産の功罪を考えない訳には行きません。これは麗江のみの問題では有りません、日本の世界遺産も同じ問題を抱えて居るのです。
{この記事は04年11月17日に追加}
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):雲南省の麗江の地図▼
地図−中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):阪神淡路大震災について▼
資料−地震の用語集(Glossary of Earthquake)
@参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料−中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@補完ページ(Complementary):麗江訪問記▼
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
@補完ページ(Complementary):観光行政と「文化の固有性」について▼
日本の観光立国行動計画とは(The VISIT JAPAN program)
@補完ページ(Complementary):対外援助と「文化の固有性」について▼
対外援助ボランティア活動の在り方と私(The way of foreign aid volunteer)
パーリャン小学校竣工記念式典▼
パーリャン村の小学生を支援する会
(Support team for Paliang's schoolchildren)
祭とイベントの違い▼
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
「文化の空洞化」について▼
冷泉家時雨亭文庫(Reizei Shigure-tei library)
平等主義や悪平等主義について▼
理性と感性の数学的考察(Mathematics of Reason and Sense)
浦に〜と氏の世界遺産やナシ族(リンク先ではナーシー族)について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')