−− 2010.05.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2010.06.17 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★−−−暫くお待ち下さい(Wait a minute)−−−★ |
私は04年4月24日(土)に、亀岡から京都に帰る車の中から「形の好い棚田」(※1)を偶然発見し、それが京都市樒原の「鎧田の棚田」(京都市右京区嵯峨樒原鎧田)であることを知った事は既に別稿の
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
に記した通りです。その時迄は樒原(しきみがはら)という地名も、そこに棚田が在ることも全く知らず、又帰りに樒原を通る予定も無く、それは全く偶然の”未知との遭遇”、つまり「思わぬ発見」だったのです。この樒原の棚田に興味を持った私は”棚田を見る”為に改めて樒原を訪ねてみたいと思いつつ数年を経て仕舞いました。
その理由は亀岡市との市境、つまり”境の地”に位置する樒原は大阪からは車でないと非常に不便な所で、人力二輪車(=自転車)以外のエンジン付き四輪者(=乗用車)を運転しない(←出来ない)私には、樒原特産物加工場の小母さんが言ってたバスが唯一の頼りです。ところが当時はネット検索でバスがJR山陰本線の八木駅(京都府南丹市八木町、南丹市は旧船井郡)から出てるらしい迄は判りましたが発車時刻を掴めずボトルネックに成って居た訳です。JR八木駅も今迄降りたことの無い駅でしたが時刻表を見ると列車の便は何とか成りそうでした(→八木駅の写真は後出)。
そんな訳で「鎧田の棚田」のことを暫く忘れて居ましたが、昨年辺りから思い出し樒原へ行こうとネット検索したら、「京都市右京区役所」公式サイトのページに出会い、それに拠ると樒原には宕陰出張所(右京区嵯峨樒原宮ノ上町)が在り、JR八木駅発の京阪京都交通バスの「原行き」に乗り「原神社前」という停留所で降車したら良いと書いて在りました。JR八木駅発原行きのバスの時刻は京阪京都交通バスのサイトから取得出来、平日・休日共に8:24、12:51、15:51の3本だけ(←バスの乗車時間は45分位らしい)です。
つまりJR八木駅で8:24に乗る為には
<−−−−−−− JR −−−−−−−><− バス −>
大阪駅 京都駅 八木駅 原神社前
<宕陰出張所前が現地確認名>
平日 7:03(新快) → 7:32
休日 6:56(快速) → 7:31
7:40 → 8:18
8:24 → 9:10頃と予想
<9:12が現地確認時刻>
というスケジュールに成りますが、こんなのは私としては”へっちゃら”(※2)の”屁の河童”(※2−1)です。もっと厳しいスケジュールを数え切れない程に熟(こな)して来た私は旅の兵(つわもの)です。亀岡市の地図は▼下▼。
地図−日本・京都府(Map of Kyoto prefecture, -Japan-)
尚、現地に行って初めて判った事ですが「原神社前」という停留所名は「宕陰出張所前」に変更(後述)されて居ました。そこで序でに現地で確認した帰りのバスの時刻もここに記載して置きます。
<−−−−−− 帰りのバス −−−−−−>
原 宕陰出張所前 八木駅
9:23 → 9:25 → 10:13
13:51 → 13:53 → 14:41
16:51 → 16:53 → 17:41
この時刻表でお解りの様にJR八木駅〜「原」間は1台のバスが3往復/1日してるだけです(「原」での休憩時間は10分)。
後は何日に出掛けるかですが、公式サイトで得た宕陰出張所の電話番号に電話し、棚田にお百姓さんが水を張る時期を問い合わせた所、今年は天候不順で寒い日が多く例年よりも1週間遅れて居る、水張りが完了するのは4月27〜29日頃だろう、多分5月の連休中には田植えをするだろうとの返事でした。棚田の見頃の一つが水張りが完了し田植え前の時期だからです。
こうして私は好天日を待ち、遂に2010年5月1日(土)に丸6年振りに上の時刻に合わせて電車とバスを乗り継いで再訪しました。以下は「思わぬ発見」から6年の歳月を経て始まった新たな旅の報告です。それでは樒原の棚田風景をご緩りとご覧下さい。
尚、[米食日本の棚田の美]シリーズ −このシリーズ名には「米食日本を忘る勿れ」という私の思いが込められて居ます− の各ページの背景画は、ここ樒原の棚田の湾曲した田の写真を加工したものです。少し▼隙間▼を開けて背景画が見える様にしましょう。
(1)バス停名は変更されて居た − 宕陰出張所前
私が乗ったバスの運転士は若い兄ちゃんで、「原神社前」と言っても「樒原の棚田の前」と言っても土地を知らぬ風で、ネットから印刷した地図 −この地図には「原神社前」と記入が在る− を見せても埒明かずでしたが、地図を見乍ら「終点「原」の近くだろう」と宣ったので私は終点迄行く覚悟を決めました。JR八木駅から数人乗った登山者のグループと単独ハイカーも途中で降り、越畑辺りで乗客は私一人に成りました。一人に成ったので私は6年前を思い出し眼前の風景と比較し乍ら目を凝らして乗って居ると、越畑にも棚田が在りそれを見遣り暫く進むと眼前に突然「鎧田の棚田」が見えたと思ったらバスは無情にも既に通過して居ました。ワンマンバスの表示板は次が終点の「原」である事を告げて居たので私は諦めて余り遠くへ行かない事を願いつつ終点「原」に到着、9:10頃でした。ここで忘れて為らないのは帰りの八木駅行きのバスの時刻を控える事です(←「はじめに」の章に記した帰りのバス時刻)。終点「原」付近の風景は後で紹介します。
そしてバス道(=府道か市道)を数100m引き返して「鎧田の棚田」に着きました。そしてバス停を確かめると「原神社前」では無く「宕陰出張所前」と書いて在りました(右の写真)。「右京区役所」公式サイトにもネット地図にも「原神社前」と記載されてましたので、この名称変更は去年か今年に行われたものと思われます。そして私が乗った兄ちゃん運転士は今年入社の新米に違い有りません。だから私が「原神社前」と記入された地図を見せても判らず、地図上の相対的位置関係から「終点「原」の近くだ」と言ったのでしょう。
四所神社は後で参拝します。
まぁ兎に角、どうにかこうにか「思い出の地」に着くことが出来たので良しとしましょう。
(2)予備知識 − 樒原の棚田の略マップと「鎧田」の謂れ
棚田見物の前の予備知識として、先ず下の<樒原の棚田の略マップ>で凡その地形を頭に入れて下さい。府道が南北に貫きバス停「宕陰出張所前」〜四所神社(通称:原神社)の府道西側から直ぐ棚田の斜面が西に向かって山麓を広げる地形です。棚田斜面の対面は山地で、この山地に分け入る道が在ります。
<樒原の棚田の略マップ>
JR八木駅
越畑 ↑<北>
↑ │
│ │ │
山 │ │
│\ │府│
☆2 │ \ │ │
・ │ \ │道│ 冑
・ │ ─────│ │ 畑 の
>・│ │ │ 地 森
・ ・│ 樒原の棚田 │ │
☆1・│ (鎧田) │ │●宕陰出張所前、○右京区役所宕陰出張所
・│ 道標○│ │○樒原特産物加工場
地 ・+ \ \○四所神社(←地元では原神社と呼ぶ)
↑│ ─────── \ \
山│ / \ \
地│/ \ \
へ 原● \ \
の ┌─────┐「樒原」 ○\ \
道 │ │ の道路標識│ │□バス待機用空き地
│原の集落 │ │ └──────
│ │ 鳥居│ ┌────── →愛宕神社へ
└─────┘ │ │
│ │
│ │
↓
水尾・保津峡
(●:バス停、○:主要建物、☆n:高圧線中継鉄塔)
◆「鎧田」の謂れ
次に樒原の棚田についての予備知識を記します。ここの棚田全体は約800枚の田で構成されてるそうです。そして「鎧田(よろいだ)」という地名は棚田の在る山腹斜面を遠方から見た時に鎧を伏せた様に見えた事が起源です。この辺りは昔は「原の鎧田」と呼ばれ
山城の 原の鎧田 きてみれば 冑の森に 弓掛けの松
という歌が伝わって居ます。「山城」は今の京都府南部の旧国名「山城国」のことです。今の府道は近世迄は愛宕山参詣客の裏参道で宿屋も若干在ったとか(→愛宕山への登山口は後出)。それでここを「宕陰(とういん)」と呼ぶ訳ですね、「愛宕山の陰」という意味で愛宕山の北側を指すものでしょう、山陽に対する山陰と同じです。宕陰地区とは樒原(右京区嵯峨樒原)と越畑(右京区嵯峨越畑)です。
近年は御多分に漏れず過疎化した為に逆に鄙びた風情を残して居ます。今ではこの古歌を受けて棚田周辺一帯を「鎧田の里」(→2004年の記事参照)、棚田の背後の山林を「かぶとの森」と命名し「鄙び」を売りに転じる町興し作戦です。
(3)棚田見物
愈々これから棚田見物です。私は早速6年前に撮った写真を思い出し乍ら「確かここだ」という地点から同じアングルで撮影したのが右の写真です。6年前の写真と比較してご覧下さい。6年前は午後3時頃、今回は午前9時半頃なので陽射しの角度は違いますがほぼ同じアングルです。略マップの四所神社(→後出)の前の府道脇が撮影地点でした。
私が言う所の「形の好い棚田」、即ち私が好ましい形だと思う棚田とは、各田の畦の曲がり具合ですね、これです。人工的に区画整理或いは耕地整理された直線では無く地形に沿って湾曲してる、そこに私は惹かれる訳です。つまり自然な曲線美ですね。まぁ、妙齢な女性の脚線美と共通なもの、と言えるかも知れませんな、オッホッホ!!
◆6月17日の写真の割り込み − 棚田の稲が育ってた!
私はこの写真を撮った1ヶ月半位後の10年6月17日(木)に又ここを通りました。今回も時間は午前9時半頃です、私はこの曲線が好きなのです。しかし稲が育って居ました。そこで6月17日の写真をここに割り込ませますので上の写真と見比べて下さい、少し角度が違いますが。
曲がりくねった棚田の緑の隙間から水の青さが見え、何とも言えず良いものです。
序でに原の集落(後述)で右の看板を見付けて仕舞いました。この辺りで猪肉や鹿肉が食えるんですね。斯く言う私は猪鍋(牡丹鍋)や鹿の刺身が大好きなのです。猪鍋(牡丹鍋)は
2005年・丹波篠山牡丹鍋(The BOAR STEW of Sasayama, Hyogo, 2005)
から、鹿の刺身は
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)
から、ご覧下さい。
実は私は6月17日は愛宕山の登山に来たのです、どうも済みません!!
m(_=_)m
{この節は10年6月17日に追加}
右上の写真の右奥の地点から逆にこちらを見て撮ったのが左の写真です(2日後の5月3日撮影)。背後に瘤(こぶ)の形をした愛宕山の稜線が見えて居ます。
宕陰出張所の人の話の通りお百姓さんは田植機(※3)を出して早朝から田植えを開始して居ました(右の写真)。
サギ(鷺)も朝日を浴びて佇んで居ました(左の写真)。可なりの望遠です。
私は畦道を少しずつ下って行きました。遠くの山を背景にタンポポ(蒲公英)の咲いた畦道の曲線も良い趣が有ります(下の写真)。
右上の写真で畦道の一部が濡れて居ますが、これは畦の脇を流れる棚田の排水が少し溢れてるからです。
その排水は左下の写真の様な配水管で行われて居り、棚田では大事な施設です。田圃の遠くでは田植機で田植えをして居ますが、その拡大が右下の写真です。
この棚田からは左下の写真の様に原の集落(後述) −バスの終点の「原」停留所下の盆地の集落− が見える場所が在ります。丸で箱庭(※4)の様な感じで心に沁みます。
又、斜面の下から見上げた棚田の形状は右下の様に見えます。
私は別の畦道を通って斜面を登り引き返して来ました。下の写真の畦道も中々良かったですね。
こうして再びバス停「宕陰出張所前」の所に帰って来ました。右の写真は府道脇に
こしはた
みぎ かみよし道
せぎすじ
と読める字が刻まれた石の道標を前景にした棚田の遠景です。
裏面に何か刻まれて居ますが摩滅して読めません。
「こしはた」は越畑、「かみよし」は神吉と解りますが、「せぎすじ」は世木筋(?)でしょうか。神吉の北の日吉ダム(京都府南丹市日吉町)の南の世木ダムに僅かに「世木」の名を確認出来ます。江戸時代にはその辺りを世木筋と呼んで居たのかも知れません。そうすると、この道標が置かれた車道(=府道)を北に辿ると越畑・神吉・世木の順に出て来ます。
(1)四所神社
次にバス停「宕陰出張所前」付近をご紹介します。先ずは四所神社から。私は常に旅先の神々を大事にして居るので、このページの記載順とは違って当日は真っ先に四所神社をお参りして居ます。
左下が四所神社の鳥居と本殿(鳥居の右奥)、中央下が鳥居の扁額です。地元の「鎮守の杜」ですが、由緒や祭神については未詳です。地図などに「原神社」と記されて居るのは、この四所神社のことです。地元の人はここを単に「原」と呼び慣らして居ます。
右下が境内の府道側に在る「連理の銀杏と杉」(左が銀杏、※5)で注連縄が巻かれて居ます。江戸時代では「この世」で結ばれぬ相思相愛の男女が「あの世」で固く結ばれる事を願って、こういう連理の樹木を死に場所に選び心中しました。
(2)樒原特産物加工場
そして左下が6年前にご紹介した樒原特産物加工場で、坂のカーブの東側に在る四所神社の北隣に在ります。6年前と変わらぬ佇まいです。入口右側に
平成十年度
きらめく農村女性活動推進事業
鎧田の里直売所
と書いた表札が掛かって居ます。私がここに着いた時は閉まってましたので、どうやら棚田見物してる間の10時頃に開店した様です。
実は私は前に見た時から直売所よりも「ようこそ鎧田の里樒原」と書いた看板の下に在る”大きな樽”の方に10倍も興味を持って居て、今はもう無いのでは?、と心配してましたので樽が以前と同じ姿で在った事に先ず安心しました。ドアは鍵が掛かり開きませんが、右下が直径2m位の樽の中を窓から覗いた写真です。真ん中に机、その両側にはソファ、奥には掛け時計 −時計は止まり7時頃を指した儘− が在り、思った通り待合室的構造ですが中に入れないのが非常に残念でした。
この中でビール飲んでみたいですな。しかしこの大樽は酒樽か醤油樽か味噌樽か?、新たな疑問が又湧きました。
直売所で私は土産物の煎餅と「ういろう」 −名古屋の名産のあのポテッとした甘い餅菓子− を買い、煎餅は持ち帰り「ういろう」は”朝食”として直ぐ食べました、旨かった!
(3)京都市右京区役所の宕陰出張所
宕陰出張所(嵯峨樒原宮ノ上町)は上の特産物加工場の写真左の隣の隣に在ります。右の写真で右端が特産物加工場、中央は車庫、左端が右京区役所の宕陰出張所です。
私は特産物加工場の写真に写ってる2人の小母さん −いや失礼、”きらめく農村女性”です− に話を伺い、「棚田が鎧の形に見える場所」とそこへの行き方を教えて貰い再び棚田見物に出発しました。
実はこの写真は”その場所”から望遠で撮ったものです。
{この章は10年5月14日に追加}
(1)棚田斜面向かいの山地に分け入る
「棚田が鎧の形に見える場所」とは略マップの☆印の2つの高圧線中継鉄塔の地点です。2つの鉄塔は特産物加工場からも見えますが斜面の畦道を下って行くと段々大きく見えて来ます。左下の写真が棚田斜面に対面する山です。写真左の鉄塔が☆1、右端で空に突き出てる鉄塔が☆2です。手前に見える下り勾配の畦道の両脇には棚田からの排水がチョロチョロと流れて居ます。
斜面を下迄下り山地への登り口に行くと右下の写真の様に金網扉で閉ざされて居ます。
実はここは朝の棚田見物でも来て居ましたが閉ざされて居たので引き返した場所です。しかし今度は先程の小母さん、いや”きらめく農村女性”に言われた通りに3箇所結わえられてる紐(右の写真)を解き、閂を外して中に入りました。入った後で紐と閂を元通りに戻し扉を閉ざしました。道の脇にも金網が張って在ります。この処置は猪除けとのことです。
この道を道形(みちなり)に真っ直ぐ行くと墓地ですが、墓地の手前を右折して進みます。途中は概ね杉林の道ですが、左の写真の様に倒れた木が道を塞いでる所が2、3箇所在りました。
しかし、丁度今が旬のツツジ(躑躅)が綺麗に咲いてる箇所も在りました(上の中央と右の写真)。
(2)樒原の「鎧田の棚田」の全景
そうこうする内に登り始めて15分位で略マップの☆1の鉄塔(右の写真)に着きました。左下が☆1の鉄塔下から見た樒原の「鎧田の棚田」の全景です。
そして右には比較参考の為に本物の鎧兜の写真のスキャナー画像を添えて置きました(△1の表紙より)。因みに兜・冑・甲は同義です。どうでしょうか、右の画像と見比べて左上の棚田(=鎧田)が「鎧の形」に、そして棚田の上方の森(=冑の森)が「冑の形」に見えるでしょうか?!
現代人には馴染み薄いですが昔の人々には鎧兜は日常的な装束でしたので、この様な景観から鎧や兜を連想し得たのしょう。
尚、前掲の宕陰出張所の望遠写真はここから撮影したものです。
(3)越畑の棚田も遠望
ここからの眺望は素晴らしく、この樒原の棚田の左方に目を転じると越畑の棚田も見えます(左の写真)。左の棚田の一部の拡大が左下の写真です。越畑の棚田はバスの車窓からも少しだけ見れます −ほんの一瞬なので車窓からの撮影は前以て構えてないと難しい− が、ご覧の様に越畑の棚田は直線的です。
宕陰地区とは樒原と越畑と前述しましたが、ここは両方の棚田が鳥瞰出来る絶好の地です。
ちょうど昼過ぎだったので、私はこの眺望を楽しみ乍ら持参した握り飯で昼食としました。山を登った時は握り飯が一番旨いと何時も感じます。昼食後、ここを引き返しましたが例の金網扉を元通りに閉めた事は言う迄も有りません。
★鉄塔下からの眺めを収めたビデオ(size=783KB)を下からご覧下さい。
ビデオ−樒原の「鎧田の棚田」
(VIDEO - Rice terrace 'Yoroida', Shikimigahara)
{この章は10年5月14日に追加}
5月は春の草花が綺麗に咲く時です。田圃の畦道にも気を付けて見れば小さいが綺麗な花が幾つも咲いて居ます。
先ず目に付くのはタンポポ(蒲公英)の群生です(左の写真)。そしてその蜜を吸ってるハナバチ(花蜂)です(右の写真、実物の約4倍)。
例の金網扉の傍には小さな桜の木が在り、サクラの花も咲いて居ました。(左の写真)
しかし私が一番苦労して撮ったのが右のベニシジミ(紅蜆蝶)です。シジミチョウ類は小さな蝶で、写真は実物の4倍位です、念の為。棚田の写真に蝶が添えられてる所が実にエルニーニョ的と私は密かに自画自賛して居ります。
以上で樒原の「鎧田の棚田」については全てご紹介しました。
(1)棚田という文化
日本は狭い島国の上に国土の大半を山林が占めるので山腹や丘陵地の斜面を有効利用せざるを得ない為に、小面積の田畑が階段状に密集する棚田(※1)や段々畑(※1−1)が日本に多いのは事実です。そこで棚田の記事では良く「日本の原風景」(※6)とか「日本人の心の故郷」とか形容される事が多いのも事実です。勿論【脚注】に在る様に「原風景」とは個々人の「原体験」に根差した心の「原像」ですから、棚田を「日本の原風景」と感じるのは個々人の自由であり一向に構いません。但し、私がここで敢えて主張したいのは棚田は日本固有の文化では無いという事です。
【参考文献】△2に拠れば、棚田や段々畑は階段耕作(※1−2)という範疇に入り、段々畑は粟・稗・黍(きび)・蕎麦などの雑穀類 −麦を段々畑で耕作する事は少ない− の他にジャガイモ・大豆・トウモロコシから菜種や茶などなど、多種の作物に亘るので段々畑は世界的な広がりを持ち、中でも南米アンデス地方のトウモロコシの段々畑はインカ帝国の遺跡としても有名です。
それに対し米は陸稲・水稲(※7〜※7−2)を合わせ元々は米を主食とする東南アジア・東アジア(=アジア・モンスーン地帯)が中心(※8)でした(←アフリカの一部でも陸稲が耕作されましたが生産量ではアジア地域に遠く及びません)。現在では「米国」と呼ばれるアメリカ合衆国(=北米とも)でも稲作が行われ彼等は米を主食としないので”米国は[文字通り]米の輸出国”ですが、それでも生産量から見て水田は今でも東南アジア・東アジアが中心で、米国は広大な平坦地に機械力を導入した大規模農法ですので棚田は東南アジア・東アジアに限定されます。この様に棚田は決して日本に限定されたものでは無いので、棚田は東南アジア・東アジアの米食民族に共通する固有の文化であり棚田風景は米食民族に共通する固有の風景である、という認識を日本の皆さんに持って戴きたいのです。
それともう一点、山地斜面を開墾する棚田は灌漑や湛水に工夫が必要(※9)、土堤や石垣などの段部の補強技術が必要、牛耕などの家畜農法は困難、大規模農法は無理など、平坦地の田(=平田)に比べ”格段に不利な条件”を幾つも克服して初めて収穫可能だという事も見落としては為りません。私は棚田を見る時にこれらの工夫や技術にも目を配る様にして居ます。
(2)稲作の起源と日本への伝播
現在では稲作の起源はアッサム(インド北東部)から雲南(中国南西部)に掛けての高地とする説が有力(△2のp62、△3のp485〜486、p497)で、
雑穀類との混耕 → 陸稲 → 水稲
という段階を踏み発達して来ました。水稲は品質が良い(=美味しい米が獲れる)ですが高度な灌漑技術を要する為に最後の段階に登場した訳で、その時期は凡そ紀元前3000年紀頃と考えられて居ます。以後、水稲はアジア・モンスーン地帯を中心に発達し、揚子江流域を経由して日本に稲作が伝えられたのは縄文時代晩期(=BC4世紀頃)です。稲作だけが伝えられたと考えるのは不自然で、縄文晩期に水稲技術を有した人々が種籾を携えて数次に亘り日本に渡来したと考えるのが道理で、その人々こそ弥生時代(※10)を形成した「弥生人」(△4、△5の「はじめに」)で後に大和朝廷を開き日本を支配した人々に他なりません。
尚、弥生人の食生活は「日本の肉食文化の変遷」を、稲作発祥地の一角を占める中国雲南省の少数民族の暮らしは「2002年・雲南タイ族民家宿泊記」を参照して下さい。私が何度も雲南省に旅する裏にはこの様な考えが有っての事なのです。
(3)日本と外国の棚田の違い
最初に棚田という文化の稲作地域での共通性を述べましたので、次に日本と外国(=東南アジア・東アジア)との違いを述べます。端的に言えば違いは規模です。外国には非常に大規模な棚田が在り、特に
中国:雲南省の元陽(ハニ族、超大規模)や
広西チワン族自治区の龍勝(ヤオ族)
(中国では棚田のことを梯田と書きます)
ネパール:ヒマラヤ山麓のポカラ
ベトナム:ハジャン省のムンフン
インドネシア:バリ島
フィリピン:ルソン島のコルディリエーラ(世界最大規模)
などが有名で、小規模のものはタイ/ラオス/インドなどにも存在します。そして外国の棚田は殆どが少数民族に依り耕作されて居るのが大きな特徴ですが、その理由は前述の”格段に不利な条件”を甘受せざるを得ない立場に在るのが少数民族だからです。
一方、国土が狭い島国日本には大規模な棚田は無いのです。古(いにしえ)の日本人はそんな小単位密集型の棚田を千枚田と呼び慣らし、棚田の各小水田の一枚一枚毎に点々と映る月を「田毎の月」と言い表して愛でて来ました。私は上に記した中で中国の大規模棚田は全て見知って居ます −龍勝以外はホームページを作って無い− が、国内では規模よりも「チマチマした曲がった棚田」(※11)や「海に面した棚田」などに寧ろ”島国らしさ”を感じます。
序でに言えば私は”チマチマ”こそ日本人特有の文化 −”兎小屋”のチマチマした家、原形の無いチマチマした料理、細部改良のチマチマした技術、大局よりも末梢に拘泥るチマチマした気質etc− だと思ってますが、如何でしょうか?!
(*_@)
(4)米食日本を忘る勿れ
戦後、日本はアメリカの占領政策の一環としての食糧政策に因り”米食離れ”しました。しかし以上でお解りの様に棚田が点在する日本は元来「米食文化」の地である事を日本人は忘れては為らないでしょう。副題であり当シリーズ名の[米食日本の棚田の美]には、「米食日本を忘る勿れ」という私の思いが込められて居るのです。
[ちょっと一言] 日本人の”米食離れ”は表面的には日本政府が推進しマスコミが”提灯持ち” −当時はテレビ以前の新聞・雑誌・ラジオが主体− を買って出たので、日本人はパン食の方がハイカラ且つモダンと思い込みアメリカに強制されたとは思って居ませんが、そういう本質の洞察に欠ける点が”日本人の甘さ”です。
とは言え、斜面の棚田は美観の為に作られてる訳では決して無く、平坦地の広い田に比べ”格段に不利な条件”を克服して生活の為に切り開かれた土地だという事も忘れては為らない歴史です。
{この章は10年5月24日に追加、6月1日に更新}
次はバス停終点「原」付近から垣間見た原の集落です。一部しか見てないので風景の断片です。
左がバス停「原」から京都方面を見た風景ですが、私は何故かこの光景をはっきり覚えて居ます。電柱の上の道路標識「樒原」(右上が拡大)もはっきり覚えて居ます。懐かしさが込み上げ急に6年前にタイムスリップした気分に成りました。
この標識を通り過ぎた所で道路は右折します。右折せず突き当たりの家の前の道路左側に空き地が在り、バスはその空き地で向きを変えJR八木駅行きとして待機します。ここから先は道幅が狭く成り大型バスの通行は無理なのです。
左上の写真の道路標識の先を右折すると艶やかな愛宕神社の両部鳥居(左の写真、※12)が在り、扁額の拡大が右の写真です。愛宕山は元々は修験道の行場で愛宕神社の祭神は愛宕権現(※12−1)とも呼ばれ神仏混淆的性格が強いので権現鳥居の別名を持つ両部鳥居に納得ですが、この鳥居は最近の建立の感じです。
6年前にここを車で通過してる筈ですが、この鳥居の記憶は曖昧です。
左上の写真の鳥居の奥に見える家の前の道路を登れば愛宕神社と愛宕山に行けそうです。この道が愛宕神社の裏参道で江戸時代には亀岡方面からの参詣客はここから登り付近には旅籠も在った事は前述した通りです。実はこの時に近々ここから愛宕山に登ろうという決意を内心固め、2日後の5月3日にそれを実行しました。裏参道からの登山は私一人でしたが良い登山でした。機会が有れば忘れられた愛宕山裏参道をご紹介します。
棚田からは箱庭の様に見えた原の集落でしたが、この鳥居の所からも眼下に集落が見えます。右は集落の屋根の上を元気良く泳いでいた鯉幟です。この日は5月1日、「端午の節句」の直前でした。
5月1日はこの鯉幟の写真を撮った後、「原」発13:51のバスで帰りました。この日の朝バスで終点「原」に着いた時、帰りのバスの時刻表を確認すると時刻表の下に「積雪・凍結等により安全輸送の確保が困難な時は、原・神吉線(神吉口〜原間)を運休する場合がありますのでご了承下さい。」という注意書が在りました。冬には愛宕山の頂上付近が冠雪するのは知ってましたが、「愛宕山の陰」の宕陰地区も雪で閉ざされる事が有るんですね。そう言えば5月3日に愛宕山に登って愛宕山頂に嘗てスキー場が在った事を初めて知りました。
{この章は10年5月14日に追加、5月22日に更新}
以下は帰りのバスの車窓からの風景です。私にとって目的地だけが旅のスポットとは限らず、目的地に向かう乗り物の中から既に旅が始まって居ます。見知らぬ土地の車窓風景は充分に旅情を掻き立てて呉れます。そんな訳で最後に今回初めて乗ったJR八木駅〜終点「原」間のバスの帰りの車窓風景(←往路は撮影せず)を掲載します。
先ず右は神吉の「廻り田池」(京都府南丹市八木町神吉、バス停名は「神吉池」)です。バスは越畑で府道を抜け[同時に京都市を抜け]て国道477号で北上し南丹市の神吉地区を巡回して再び越畑に戻る為にこの池の前の道を往復します。朝の往路では別々の池が2つ在ると勘違いして居ましたが、そうでは無くバス停「神吉池」を2回通るのです。これも「思わぬ発見」の一つです。
実は「廻り田池」は南丹市と京都市右京区に跨っていて、昔も丹波国と山城国の国境(くにざかい)で「丹波国と山城国の国境の碑」(明治時代製作)が付近に在ります(△6)。地図を改めて見ると池の西側数100mの地点が南丹・亀岡・京都3市の市境です。木立が生い茂る「中の島」がこの池の特徴ですが、この日は水量が多いのか一瞬水中から木が生えてる様に見えました。この光景を”神秘的”と形容してるサイトが幾つか在りますが、つまりは樒原と同じく「廻り田池」は不便な”境の地”に位置する故に神秘さを保って居るのです。
しかし、この池を真に神秘的・異郷的にして居るのは、水面に滑り落ちそうな斜面に水面スレスレ迄へばり付く墓石群、即ち”臨水墓地”です(左の写真、下は一部の拡大)。
水面下にも埋没墓石が在りそうな一種独特な寂寥感には言葉が有りません。私はこういう光景を見たのは初めてで非常に幻想的且つ幽玄に感じました、つまり幽霊が出そうだと。
下の2枚は神吉地区の折り返し点付近で撮影しました。
左はこの地方、即ち八木から樒原に掛けて良く見掛ける豪壮な農家の藁葺屋根の原型を残した金属板葺の屋根です。屋根の上が神社建築の千木(※13)の様に成って居ます。
右は神吉の水田です。沿道の遅咲きの八重桜も写って居ます。
越畑〜八木駅間の国道477号は途中で京都市と亀岡市の市境の峠を越える為に可なり鬱蒼とした杉林の細道を走ります。峠を過ぎ亀岡市の山間部を下り始めると視界は開け、山や渓流の景色を楽しめます。左は亀岡市の山間部に自生する桜です。
左は露出した屏風岩、右は三俣川の渓流の砂防です。
バスは三俣川に沿って亀岡市を下って行き、やがて亀岡市を出て再び南丹市に入ると八木の市街地も間近です。
◆大堰川について − 大堰川/保津川/桂川は1つの川
八木市街に入ると三俣川は大堰川(おおいがわ)(※14)に合流します。左が大堰川に架かる八木大堰橋で青いトラス構造の主桁(※15)が鮮やかでした。
右が5月3日に大堰橋上から撮影した大堰川です。
それにしても大堰川は頻繁に名前を変える川です。▼以下▼をご覧下さい。
最上流地区 日吉ダム〜園部〜亀岡 大堰川
上流地区 保津峡 保津川(※14−1)
中流地区 渡月橋付近より上流 大堰川 ← 名称の由来:葛野大堰
下流地区 松尾付近より下流 桂川(※14−2)─┬─→ 淀川
│
宇治川 ──────┘
つまり大堰川/保津川/桂川は1つの川なのです。この川は京都付近では古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれて居ました。大堰川は「堰(せき)」(※14−3)の字を含んで居ますが、それは秦氏が5世紀後半〜6世紀初頭頃に領地の山背国葛野郡(現:京都府右京区太秦)に葛野大堰(かどののおおい)という「治水及び灌漑用の利水施設」を築いたからです。山背国葛野とは今の嵐山や渡月橋辺りで、それ故に大堰川と呼ばれる様に成ったのです。つまり、これが大堰川の名称起源で嵐山辺りで大堰川と呼ばれる事は大いに意義が有ると考えます。
この工事の跡らしき痕跡も見付かって居ます。嵐山や渡月橋付近の大堰川(桂川)の光景は▼下のページ▼をご覧下さい。
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
ところが一説に拠ると、秦氏は中国四川省に在る都江堰 −紀元前250年頃の治水及び灌漑用の利水施設− を手本にしたと言われて居ます。それは作る目的が全く同じだからです。この説は面白いですね、私は有り得る話だと思って居ます。私は2001年に四川省成都の都江堰を実際に見に行ってます、そのページは▼下▼をご覧下さい。
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)
謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)
秦氏と言うと養蚕や機織技術や七夕伝説を伝えた事は知られて居ますが、治水及び利水事業もしてたのですね!
(-_*)
大堰橋を渡ると八木駅は直ぐです。
左がJR山陰本線の八木駅(南丹市八木町八木)と乗って来た京阪京都交通バスの車輌です。
ご覧の様に見知らぬ土地のバスの車窓風景は良いものです。
{この章は10年5月14日に追加}
棚田が周囲の里山に溶け込んだ風景は良いものです。米食人種(=米食民族)の血でしょうか、私は斜面一面に広がる棚田や狭隘な谷にへばり付く棚田を見ると言葉に表せない情感に打たれます。単なる郷愁では無く或る種の共感めいたものです。広大な平田は”近代的で工業的”な感じがしますが、斜面の棚田は効率的な農法が利かず一枚一枚”手作り的”な感じがします。それは恰も新幹線とSLの違い、豪華列車と地方のローカル列車の違い、エンジン付き四輪者(=乗用車)と人力二輪車(=自転車)の違いにも似たものです。それ故に棚田では「米を作る人の息遣い」が聞こえて来そうな気が私にはします。とは言え、お百姓さんが作る棚田を外から眺めるだけの私は”傍観者”に過ぎません。
この樒原の棚田は畦の湾曲に趣が有り私が言う所の”島国らしさ”を感じさせて呉れ、「やはり来て良かった」と大いに自己満足出来た旅でした。私の心を和らげて呉れる棚田は正に米食日本の「温故知新」と言うに相応しい存在です。
尚、[米食日本の棚田の美]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:棚田(たなだ、rice terrace)は、急な傾斜地を耕して階段状に作った田。膳棚田(ぜんだなた)。特に各段の田が狭く多数密集してるものを千枚田と言う。
※1−1:段々畑(だんだんばたけ、terraced fields, terraces)は、山腹などの傾斜地に、段を設ける様に作った畑。
※1−2:階段耕作(かいだんこうさく、cultivation on the stairs)とは、傾斜地を階段式に利用する耕作方式。段々畑・棚田の類。
※2:平ちゃら(へいちゃら/へっちゃら)は、物ともしない様。気に掛けない様。又、容易(たやす)い様。平気。「この靴なら山道でも―だ」。
※2−1:屁の河童(へのかっぱ)は、何とも思わないこと。へっちゃら。河童の屁。
※3:田植機(たうえき、rice planting machine)は、イネの苗を水田に自動的に植え付けて行くエンジン付き機械。歩行用と乗用が在る。苗は田植機に合わせて予め苗箱にマット状に栽培して置き、苗箱の苗を台に取り付け、クランク運動する爪に依って苗を取り出し植える。現在、農家の大部分が利用し、人手に依る田植えは少なく成った。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4:箱庭(はこにわ、miniature garden)は、箱の中に土砂を入れ、小さい木や陶器製の人形・家・橋・舟・水車などを配して、庭園・山水・名勝などを模したもの。江戸時代に流行。石台。季語は夏。
※5:連理(れんり)とは、[1].1本の木の幹や枝が他の木の幹や枝と連なって木理が通じて居ること。「―の枝」。
[2].夫婦、又は男女の深い契りの譬え。
※6:原風景(げんふうけい、original scenery)とは、心象風景の中で、原体験を想起させるイメージ。「引揚げ者にとっての―」。
※6−1:心象(しんしょう、mental image)とは、〔心〕意識に浮んだ姿や像。心像(しんぞう)。「―風景」。
※7:稲(いね、rice plant)は、イネ科の一年生作物。栽培種は2種。サチバ種は東南アジア起源、現在、世界各地の熱帯・温帯で栽培。グラベリマ種はアフリカ起源、現在はアフリカの一部で僅かに栽培。サチバ種には、籾(もみ)の丸くて短い日本型(ジャポニカ(japonica))、細長いインド型(インディカ(indica))、大粒のジャワ型(ジャヴァニカ(javanica))の3亜種が在る。日本への伝来経路は諸説在るが、縄文末期迄に将来されたらしい。草丈は、改良種では1mを超えない。茎は中空で数個の節が有る。葉は長線形で、葉身と葉鞘とから成り互生。夏から秋に掛けて出穂する。秋に熟する果実を米と言い、食用。日本の農業上、最も重要な作物で、水田に栽培する水稲と、畑地に栽培する陸稲とが在る。成熟の遅速に依って早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)に分け、澱粉の性質に依って粳(うるち)・糯(もち)の2群とする。しね。季語は秋。万葉集14「―舂(つ)けば皹(かか)る吾が手を」。
※7−1:陸稲(りくとう/おかぼ、dry-field rice plant)は、畑地に栽培する稲。生育中、水稲程多量の水を要しないが、水稲より収量が少なく品質も劣る。季語は秋。←→水稲。
※7−2:水稲(すいとう、wet-field rice plant)は、水田で栽培する稲。←→陸稲。
※8:モンスーン(monsoon)とは、(mausim[アラビア語](季節)に由来)
[1].広義の季節風。広い範囲に亘って、約半年毎に風向が変わる風。冬と夏とで風向がほぼ反対に成る。東アジア・インド地方に著しい。
[2].アラビア海で冬季に吹く北東風と夏季に吹く南西風。
[3].インド・東南アジアでは夏の南西の季節風に因る雨季。又、雨季の雨。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9:湛水(たんすい、water collection)とは、ダムや水田に水を溜めること。
※10:弥生時代(やよいじだい、the Yayoi period, Age of Yayoi)は、BC4世紀頃からAD3世紀頃迄。縄文時代の後、古墳時代の前の時代。その開始の指標を弥生土器の出現とする考え方と、稲作の開始とする考え方とが在る。大陸文化の影響を受けて水稲耕作や紡織・金属器の使用が始まり、銅剣・銅矛・銅鐸の他、鉄器も用いられる。普通、前・中・後の3期、或いはI〜Vの5期に分ける。農業生産に依って富が蓄積される様に成り階級が生じ、後期には北部九州や近畿地方に小国家群が出現した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11:ちまちま(small and neatly)とは、小さく纏まって居る様。ちんまり。小ぢんまり。「―した家」「―とした顔」。
※12:両部鳥居(りょうぶとりい)とは、柱の前後に控柱(又は稚児柱)を設け、本柱と控柱との間に貫(ぬき)を付けた鳥居。宮島の厳島神社の鳥居が有名で、神仏混淆の神社に多い。例えば敦賀の気比神宮の鳥居。別名を権現鳥居/四脚鳥居/稚児柱鳥居/枠指鳥居など。
※12−1:権現(ごんげん)とは、仏・菩薩が衆生を救う為に種々の姿を採って権(かり)に現れること。又、その現れた権の姿。権化(ごんげ)。本地垂迹説では、仏が化身して日本の神として現れること。又、その神の身。熊野三所権現・山王権現の類。
※13:千木・知木・鎮木(ちぎ、ornamental crossbeams)とは、社殿の屋上、破風(はふ)の先端が延びて交叉した木。後世、破風と千木とは切り離されて、単に棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)と成る。氷木(ひぎ)。祝詞、祈年祭「高天原に―高知りて」。
※14:大堰川(おおいがわ)は、丹波山地から亀岡盆地を経て、京都盆地北西隅、嵐山の下へ流れ出る川。亀岡盆地と京都盆地の間は保津川とも言い、下流を桂川と言う。嵐山付近では平安時代に管弦の船を浮べて貴族が宴遊した。大井川。
※14−1:保津川(ほづがわ)は、大堰川(おおいがわ)の一部。通常、亀岡盆地と京都盆地との間の山地を流れる部分を言う。嵐山付近から下流は桂川と成る。保津川下りで有名。ほうづがわ。
※14−2:桂川(かつらがわ)は、京都市南西部を流れる川。大堰川(おおいがわ)の下流。鴨川を合せ、宇治川に合流して淀川と成る。嘗ては鮎の産で有名。
※14−3:堰(せき、dam, sluice)は、(「塞(せ)く」の連用形から)取水や水位/流量の調節の為に、水路中、又は流出口に築造した構造物。いせき。→―を切った様。
※15:トラス(truss)とは、〔建〕構造骨組の一形式。節点が全て滑節(かっせつ)即ち回転自在の結合から成る。材の集合点に力が加わる時、各部材は曲げの力を受けないので変形し難い。結構。←→ラーメン。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『カラーブックス 鎧と兜』(山上八郎・山岸素夫著、保育社)。
△2:『縮刷版 文化人類学事典』(石川栄吉・梅棹忠夫・大林太良・蒲生正男・佐々木高明・祖父江孝男編、弘文堂)。
△3:『歴史読本・特別増刊 日本人の起源を探る』(新人物往来社編・発行)。
△4:『弥生』(高倉洋彰著、光文社文庫)。
△5:『古代朝鮮と倭族』(鳥越憲三郎著、中公新書)。
△6:Webサイト「花洛転合咄(からくてんごばなし)−畿内近辺の徘徊情報・裏話」の「保津峡から嵯峨越畑へ」。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):亀岡市や保津峡や嵐山の地図▼
地図−日本・京都府(Map of Kyoto prefecture, -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):秦氏について▼
資料−聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
@サブページ(Sub-Page):「鎧田の棚田」のビデオ▼
ビデオ−樒原の「鎧田の棚田」
(VIDEO - Rice terrace 'Yoroida', Shikimigahara)
@補完ページ(Complementary):樒原の棚田の第1報▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
@補完ページ(Complementary):「思わぬ発見」や島国日本について▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
@補完ページ(Complementary):中国雲南省元陽の棚田▼
雲南省元陽の棚田(梯田)(Rice terrace of Yuanyang, Yunnan, China)
@補完ページ(Complementary):中国広西チワン族自治区の龍勝の棚田▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
”境の地”の恩恵▼
2003年・伊賀忍者村訪問記(Iga NINJA-village, Mie, 2003)
2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
丹波篠山で猪鍋(=牡丹鍋)を食う▼
2005年・丹波篠山牡丹鍋(The BOAR STEW of Sasayama, Hyogo, 2005)
寸又峡で鹿刺(=紅葉)を食う▼
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)
連理の木の下で心中した江戸時代▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
米食民族について▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)
大和朝廷を開いて日本を支配した弥生人▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
弥生人の食生活について▼
日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)
稲作起源の中国雲南省の少数民族の暮らし▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
日本人が”兎小屋”に住まざるを得ない理由▼
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2004年・鯉幟の町−加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
「廻り田池」の”臨水墓地”の第1報▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
嵐山付近の大堰川(桂川)の光景▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
四川省成都の都江堰▼
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)
京都渡月橋の大堰川は秦氏の葛野大堰が名称起源で、
中国の都江堰を手本にしたという説が在る▼
謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)
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2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
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温故知新について(Discover something new in the past)