謎の三柱鳥居
[謎を追え#2:秦氏三井家を紡ぐ綾糸]
(The mysterious Trinity torii)

-- 2010.02.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2019.05.01 改訂

 ■はじめに


 謎の三本足の鳥居(三柱鳥居とか三才鳥居と言う)は下記の通り。





  木嶋神社          京都市右京区太秦
  (正式名:木嶋坐天照御魂神社、摂社に蚕養神社が在る)
                  葛飾北斎「三才鳥居」図
  大神神社の大神教会     奈良県桜井市
  三囲神社          東京都墨田区向島
  大和三柱鳥居        岐阜県郡上郡大和町
  穂積三柱鳥居        岐阜県武儀郡洞戸村
  神山三柱鳥居        徳島県名西郡神山町(神山スキーランド内)
  諏訪神社境内末社の蛭子社  長崎県西山町(現存せず)
  和多都美神社        長崎県対馬


 ■北斎が描いた『北斎漫画』に三柱鳥居

 (1)木嶋神社と蚕の社

 右下が葛飾北斎が描いた京都太秦の木嶋神社(このしまじんじゃ) -正式には木嶋坐天照御魂神社(※1)と言う- の三才鳥居(※2) -一般には三柱鳥居と言う- です(△1のp264、265)。この神社の摂社の一つに「蚕の神」を祀る蚕養神社(こかいじんじゃ)(通称:蚕の社)(※1)が在ります。太秦(※5)は秦氏の本貫地です。太秦の地図は▼下▼を参照。
  地図-日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)

                            「三才鳥栖」の書き込み
                                     ↓
 北斎は『北斎漫画』の第11編28丁に「三才鳥居」を描いて居り、画中右上には「三才鳥栖(さんさいとりゐ)」と書き込んで在ります(右に拡大写真)。
 「栖」は漢和辞典では、〔音〕セイ、〔訓〕すむ・すみか、と読み(鳥が巣に)やどる、住む(棲む)という意味です。佐賀県に鳥栖(とす)(※7)という地名が在り古代に鳥を飼い鳥を朝廷に献上してた所ですが、もう一つ鳥栖(とぐら)という読みも在り【脚注】※7-1の様な意味です。

 何れにしても、北斎が読ませた「鳥栖(とりゐ)」は、鳥居の意味をより明確に表現したい考えたのでしょう。拘泥りの”北斎らしさ”が出て居ます。










    {この節は2011年8月26日に最終更新}


 (2)『梁塵秘抄』に載る木嶋神社

 『梁塵秘抄』(後白河法皇撰)(※9、※9-1、△2)には木嶋神社(このしまじんじゃ)を詠み込んだ歌謡や短歌が収められて居ます。先ず△2のp52より

    金(かね)の御嶽(みたけ)は一天下、金剛蔵王釈迦弥勒、
      稲荷も八幡も木島(このしま)も、人の参らぬ時ぞなき。


が在り、稲荷は伏見稲荷、八幡は石清水八幡、木島は木嶋神社(このしまじんじゃ)の事です。これは七五調が4回、即ち今様歌(※9-2、※9-3)の典型の七五調4句です。
 又、△2のp87より

    太秦の薬師が許(もと)へ行く麿(まろ)を、
      しきり止(とど)むる(こ)の島の神。


が在り、「太秦の薬師」は広隆寺の薬師如来(※11)、「木(こ)の島」とは木嶋神社です。これは

    太秦の 薬師が許(もと)へ 行く麿(まろ)を
      しきり止(とど)むる (こ)の島の神


の様に区切ると、古典的な五七五七七の短歌です。
 ところで、今様(※9-2、※9-3)というのは声を出して歌うのです。後白河法皇は大変美声 -今のバリトンの名歌手- で今様の弟子も沢山居ました。『梁塵秘抄』の「梁塵」(※9-4から※9-6)が優れた歌謡・音楽を表して居るのはその為です(△2-1のp119)。

 尚、後白河天皇(法皇)は▼下▼で論じて居ます。特に院政(※9-7)を長期に亘り敷き権力を私物化した「後白河法皇の特異な才能」について鋭く切り込んで居ますので、是非▼下▼を
  備中鬼ノ城と温羅伝説(The GOD'S ROCK Kinojo and Ura legend, Okayama)

お読み下さい。
    {この節のここ迄は2013年7月1日に最終更新}

 皆さん、今度の平成天皇から今上天皇(=令和天皇)への譲位に当たり、政府が最も配慮したのが、院政の弊害を被らない事だったのです。この事はマスメディアでは余り声高には言われませんでしたが。
    {この段は2019年5月1日に追加}

 ■謎の秦氏









 太秦の地図を参照。

木嶋神社摂社の蚕養神社(蚕の神)
養蚕/機織の神

秦河勝を祭神とする神社
  赤穂の大避神社
  太秦の大酒神社(元は大避神社と記した)


常世虫(シンジュサンの幼虫)の大生部多を
  秦河勝(蚕の保護者)が鎮圧(皇極3(644)年)
    常世という語は道教の神仙境を指す場合も有る


 京都三大奇祭
  鞍馬の火祭(由岐神社、10月22日)
  やすらい祭(今宮神社、4月第2日曜日)
  牛祭   (広隆寺、10月12日)
   ↑ 道教の漢神(あやがみ)への牛の犠牲供犠(※11-1、※11-2)
     (摩多羅神が登場)




三井家の守護社

京都市右京区太秦にある木嶋神社の摂社『蚕養神社』(通称:蚕の社)は、そもそも地場産業でもある機織の神様を奉るが、三井家は創業以来より常にこの社を信仰して来ていた事実がある。正徳三年(1713)当時荒廃していた木嶋神社を再興し祈祷所としたが「越後屋」という名で呉服商を家業としていた三井家がこの神社を祈祷所とした理由も頷ける。

三井家では、先祖の死後百年経過すると全て神として崇める慣わしがあり、安永九年(1780)境内に三井家先祖の霊を奉る『顕名霊社』を勧請し歴代の御霊を合祀した経緯があり、三井家との関わりは深い。『顕名霊社』は、移転移築を繰り返し京都と東京に分霊され悲運な経緯を持つが、以下関連項目のみ年代順に記述する。


三井越後屋の家紋は「丸に組み井桁三」 -井桁の中に三井家の「三」の文字を入れ丸で囲んだもの- です。



広隆寺の弥勒菩薩の半跏趺坐像と慶州(旧新羅国)の弥勒菩薩の半跏趺坐像との類似
 新羅花郎は弥勒菩薩の化身
 秦氏と新羅との関係
 飛騨の両面宿儺と新羅花郎との関係



    {この章は2014年9月14日に最終更新}

 ■桂川が大堰川と呼ばれる訳 - 秦氏の葛野大堰

 (1)大堰川 - 秦氏の葛野大堰

 以下は「関西歴史散歩の会」(下村治男会長)で、2005年10月2日に見学に行った資料を基に書いてます。この日の講師は森征樹さんで資料の題は「往古の桂川・太秦伝承」です。森さんの作る資料は大変綿密に書かれて居て何時も感心させられます。私の写真もこの日に撮ったものです。
 京都に大堰川(おおいがわ)(※14)という川が在るのを御存知ですか?、それとも桂川(※14-1)と呼んだ方が解り易いですかねぇ。
 実は大堰川、或いは桂川は頻繁に名前を変える川で、この川は京都の西北の日吉ダムの上流から発しているのですが、この辺りの地図には大堰川と載って居ます。亀岡を過ぎると保津川(※14-2) -保津峡が在る- に成り、嵐山渡月橋付近で再び大堰川に戻り(←ちゃんとした地図なら大堰川と載ってます)、松尾辺りより下流が桂川なのです。つまり大堰川/保津川/桂川は1つの川なのです。やがて宇治川と合流し、最後は淀川に成り大阪港に注いでいるのです。
 京都桂川の色々な呼び名については
  2010年・京都樒原の棚田(Rice terrace of Shikimigahara, Kyoto, 2010)

に記して居ますので、それを▼下▼にコピーします。

    <大堰川/保津川/桂川は1つの川>

  最上流地区  日吉ダム~園部~亀岡  大堰川
  上流地区   保津峡         保津川
  中流地区   渡月橋付近より上流   大堰川 ← 名称の由来:葛野大堰
  下流地区   松尾付近より下流    桂川  ───┬─→ 淀川
                            │
                     宇治川 ───┘

 この川は京都付近では古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれて居ました。何故かと言うと、嵐山付近は山背国葛野(かどの)郡と言ったからです。では何故、大堰川と呼ぶ様に成ったのか?、それには大きな事実が在ったのです。大堰川は「堰(せき)」(※14-3)の字を含んで居る事に、皆さんは気が付きませんでしたか?
 歴史を紐解くと、それは秦氏(※5-1) -秦氏の出自に関しては諸説在る(→後出)- が5世紀後半~6世紀初頭頃領地の山背国葛野郡(現:京都府右京区太秦)葛野大堰(かどののおおい)という「治水及び灌漑用の利水施設」を築いたからなのです。

 葛野大堰とは今の渡月橋辺りです。つまり葛野大堰が大堰川の名称起源嵐山や渡月橋辺りで大堰川と呼ばれる事は大いに意義が有ると考えます。実際、右の写真に在る様に渡月橋の橋名には「渡月橋」(←これは当たり前)と、川名には「大堰川」と書いて在ります。{この2枚の写真は△6のサイトより2018年11月6日に追加}
 

                                  →葛野大堰

                左岸                    右岸
                ↓                     ↓

 渡月橋(右の写真)は現在は鉄筋コンクリートですが、橋のデザインは昔の木橋のイメージを出す様に工夫されて居ます。
 右の写真は渡月橋を上流から撮って居ますので葛野大堰は写真を食み出して、ずっと右側に在ります。
                                ↓
                                上流

 因みに、渡月橋の名は亀山天皇(1249~1305年)が大堰川(桂川)に架かる橋を見て「隅なき月の渡るに似る」と言われた事に由ります。

 (2)葛野大堰の位置 - 一ノ井堰碑

 大堰川(桂川)の右岸、渡月橋の100m位下流「一ノ井堰碑」が在ります。住所で言うと京都市西京区嵐山西一川町です。地図を参照して下さい。この石碑は高さが約2mで、上段には建立当時の京都府知事の筆跡で「一ノ井堰碑」と在り(左下の写真)、下段には「一之井堰並通水利組合」の碑文(右下の写真)が在ります。

 下が上段に刻まれらた文字です(←何れも縦書き)。

  一ノ井堰碑

  京都府知事 林田悠紀夫


 碑文(右上の写真)は以下の通り(太字及び注は筆者が編集)。

 秦氏本系帳によれば山城地方の開発につとめた大豪族秦氏が秦の昭王(※15、※15-1)の事績にならって、当時の日本にはたぐい稀な葛野大堰をつくったとされている。そしてその築造の時期は五世紀頃と考えられ、その場所はこの地附近と推定されている。また応永二十六年(一四一九)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋のやや下流の右岸に一ノ井と云う名称で用水取入口が記入されているが、それから見れば現在地がそれと同一場所であることに間違いない。その当時この樋門(※16)は松尾桂川岡の十ヶ郷の農地灌漑用水路として潤っていた。

  昭和五十五年二月建之
  一之井堰並通水利組合


 昭和55(1980)年に建立された、この碑の位置が「一ノ井」という用水取入口が在った場所で、秦氏が築いた葛野大堰はこの付近に在った、と陰刻されて居ます。

 (3)「一ノ井堰碑」の碑文を解釈

  (3)-1.「昭王の事績」とは何か?

 ここで「一ノ井堰碑」の碑文を解釈しなければ為りません。「秦氏本系帳」は暫く置いといて、先ず昭王の事績」から行きましょう。この昭王(或いは昭襄王)(※15、※15-1)は中国の戦国時代末期(※17)に秦(※17-1)の王に成った人で始皇帝(※15-2)の曽祖父に当たる王です。
 昭襄王は『史記』の「秦本紀」に出て来ます(△3のp128~134)。昭襄王47年に「大いに趙軍を長平に破り、四十万人をことごとく穴に埋めて殺した。」と在ります(△3のp132)。
 「昭王の事績」とは▼下の図▼に示した様な都江堰(※15-1)を築いた事を指します。但し、都江堰については『史記』は何も触れてません。

    <昭襄王(或いは昭王)の事績>

 昭襄王(昭王)は都江堰を築いた李冰を蜀の郡守(*)に任命。始皇帝の曽祖父

  ...        戦国時代       >< 秦 >
                         前221~前206年

    昭襄王(昭王) → 孝文王 → 荘襄王 → 始皇帝
     │                     ↑
     ↓                 父親は呂不韋(※15-3)
   蜀の郡守に                 説が在る(→後出
    李冰を任命
     │
     │昭襄王が
     ↓銀10万両を援助
  李冰都江堰に着手 → 息子の李二郎が完成
   前256~前251年
    に原形の堰を築造

 *.蜀の国は既に前316年に秦の司馬錯に因って滅ぼされているので、
   蜀は秦国の蜀郡です。

 都江堰が出て着たら私の旅行記を披露せねば為りません。私は2001年に都江堰を見て来ました。都江堰については詳しく記して在りますので、是非▼下▼をお読み下さい。
  2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)

  (3)-2.秦氏本系帳

 『史記』にはこれ以上の情報は無いので、ここで秦氏本系帳を見てみましょう。

    ++++ 「本系帳」とは ++++
 ここで本系帳とは「氏族の系図や歴史」であるが、奈良末期~平安初期に掛けて朝廷は各氏族に本系帳の提出を命じ勘系所で照合しました。今日に伝わる本系帳は「中臣氏本系帳」(『中臣氏系図』、これは所載書名)/「秦氏本系帳」(『本朝月令』)/「多米宿禰本系帳」(『政事要略』)/「藤原本系帳」(『尊卑文脈』)/「菅原本系帳」(『菅原御伝記』)などです。今日に伝わる本系帳は非常に少ないのですが本系帳が在る氏族は有力氏族ばかりという事が解ります。こうして本系帳が整理され嵯峨天皇(※18)の『新撰姓氏録』(※18-1)に纏められました(△7のp226)。
    -----------------


 秦氏本系帳には「造葛野大堰。於天下誰有比検。是秦氏率催種類所造構之。昔秦昭王。塞洪河通溝澮。開田萬頃。秦富数倍。所謂鄭伯之沃衣食之源者也。今大井堰様。則習彼所造。」と在ります(←前述の森征樹氏の資料のp4)。訳すと「葛野大堰を造る。天下に於いて誰が比べられようか。これは秦氏が民を率いて造った「仕組み」だ。昔(中国に)昭王が居た。堰を造り河を洪水から救った。よろず田が開けた。秦の富は数倍に成った。所謂(いわゆる)鄭伯の沃野の衣食は潤った。今の大井の堰の様だ。則(すなわ)ち彼所(あそこ=都江堰)を習って造ったのだ。」と成ります。
 これですね。これは明らかに都江堰の事を言っており、秦氏が造った葛野大堰は「則(すなわ)ち彼所(あそこ=都江堰)を習って造ったのだ。」と言ってます。

    ◆都江堰と、想像上の葛野大堰の比較

 ここで成都の都江堰を見てみましょう。都江堰は所謂ダムとは違い、流れを分水し(魚嘴分水堤)、片方(外江)は洪水の排出を、もう片方(内江)に水を引き入れ灌漑用に水量を調節し(飛沙堰) -これが(※14-3)- 、運河へ導水している(宝瓶口)のです。後は自然に任せ流体力学の原理に従って作動しているのです。
 我々は実際の葛野大堰は見れません。ですから、ここから先は私の推測です。中の島で川の流れを本流用水路分水し、本流は灘を深く掘りそれに依って水位を余り高くせずに堰き止めて -これが- 、灌漑用の用水路に水を招き入れる(=導水する)のです。しかし洪水の時は低い堰を乗り越えて水は本流から出て行くのです。「深淘灘、低作堰」(深く灘を掘り、低い堰を作る)という李冰の格言はここでも生きて居る筈だ、というのが私の考えです!

                \(^o^)/

 今迄一説に拠ると、と書いて来ましたがそれは「秦氏本系帳」だったのですね。そして「一ノ井堰碑」の碑文に秦氏本系帳の事が記して在りました。「一之井堰並通水利組合」は中々遣りますね。
 秦氏は中国四川省に在る都江堰 -紀元前256年に開始された治水及び灌漑用の利水施設- を手本にしました。その理由は堰を築く目的が全く同じだからです。特に都江堰は随所に「竹」を使用して居ましたが、太秦(※5)の近くには今でも「嵯峨野の竹林」で有名な位「竹」は豊富に有ったからです。私は秦氏がこの「竹」をヒントに葛野大堰の手本に都江堰を考え付いたのではないかとさえ思って居ます。
 秦氏と言うと養蚕機織技術七夕伝説を伝えた事は知られて居ますが、治水及び利水事業もしてたのですね。私は不勉強で、今迄秦氏のこの方面の話は余り知らなかったのです。しかし私だけで無く、秦氏の治水及び利水事業について知ってる人は少ないですよ。もっと言えば桂川を大堰川と呼ぶ事を知ってる人も少ないです。更に葛野大堰を知ってる人はもっと少ない筈です。渡月橋を渡る人は非常に多いですが...。
 そう言えば秦河勝(※5-2)という聖徳太子に仕えた人物が居りますが、河勝という名前は「河(川)に勝つ」と書きますが秦氏が治水及び利水事業を遣って居たと成れば河勝という名は極めて当然に思われます。因みに河川を表す言葉として「河」という字は中国で良く使われ「川」は余り使われません、例えば黄河や紅河です。逆に日本は殆ど「川」が使われます。

 (4)葛野大堰の考古学

 それでは葛野大堰の遺構が考古学的に見付かっているのか?、と言うと何しろ1600年も前の話なので、そう簡単では無い様です。しかも渡月橋付近の大堰川(桂川)には近代迄「堰」が造られて居ますので古い堰の跡は取り壊される可能性も在る訳です。
 しかし渡月橋の少し上流には当時の段差が在り、渡月橋の下流の松尾中学校の敷地には弥生~飛鳥時代(=前4世紀~6世紀末)の松室遺跡が在り、そこから古代の水路跡が見付かって居ますが、断定は出来ません。葛野大堰の築造時期は5世紀後半~6世紀初頭頃(←前出)とされて居ます。
 ところで、室町時代の渡月橋は今よりも300m位上流に架けられて居ました(←森征樹氏の資料のp9)。当時、葛野大堰がもし在れば「一ノ井堰碑」 -今の渡月橋より100m位下流に在る- の位置からして妥当な位置です。私は葛野大堰は今の渡月橋より300m位上流~松室遺跡が在る付近迄と考えて居ます。

 兎に角、今迄見て来た様に木嶋神社の摂社「蚕養神社」(通称:蚕の社)の三柱鳥居広隆寺大酒神社(←古くは大避神社と言った)、それに今回の葛野大堰と、京都は秦氏が色濃く足跡を残した土地である、と申し上げて置きます!!
    {この章は2014年9月14日に最終更新}

 ■秦氏の日本への渡来

 (1)朝鮮半島の情勢

 秦氏は朝鮮半島から渡来しますので先ず朝鮮の歴史を概観します。早くも殷が滅亡(=前1023年)した後には箕子朝鮮(※19)が出来たとされ、以来中国は朝鮮半島に並々ならぬ興味と関心を抱いて来ました。箕子朝鮮に関しては『史記』「殷本紀」及び「周本紀」に載って居ますが、余りにも時代が古いので割愛します。

 しかし同じ古朝鮮(※19-1)でも衛氏朝鮮(※19-2)は我々が注目している時代で凡そ前190年です。『史記列伝』「朝鮮列伝」には「朝鮮王の衛満(※19-3)というのは、本来の人である。戦国時代、まだ侵略を受けないころから燕は真番(鴨緑江の西)と朝鮮を攻略して領有し、統治のために官吏を置き、城塞を構築した。は燕を滅ぼすと、遼東の外がわの地帯まで領有した。の始め、それらの地域が遠方で守備が困難なことから、もう一度遼東の古いとりでを修理して、[氵貝]水(ばいすい、鴨緑江)までを国境線とし、燕国の領土とした。燕王の盧綰(ろわん)が漢にそむいて匈奴の国へ逃げこんだとき、衛満も亡命し、千人余りの仲間を集め、魋結(ついけい) -前後に突き出た髷(まげ)- をゆって蛮人の服装に変え、東に向かい国境を越えて逃げ、[氵貝]水を渡り、秦の時代には誰も住まなかった地域にある城塞に居住した。だんだんと、真番と朝鮮に住む蛮人と、むかし燕や斉から亡命して来たものを支配下に収め、かれらの統治者となって王険(今の平壌)を都とした。」と在ります(△3-1のp139~140)。ここで[氵貝]は1文字です。フォントが無いので悪しからず。
 更に「朝鮮列伝」では孫の衛右渠の時代(前130年頃)でからの亡命者は非常に多く、そのうえ一度も漢に入国して天子に拝謁することはしなかった。」と在ります(△3-1のp140)。
 この様に朝鮮半島は中国に絶えず狙われて居たと言っても過言では有りません、中国と朝鮮は陸続きですから。日本はそれ程神経をすり減らさなくてもが守ってくれたのです、正に羊水国家の日本です!

 朝鮮半島は今度は朝鮮族同士で争います。3世紀に書かれた『三国志』(※20、※20-1)で見て行きましょう。『三国志・魏志』東夷伝・辰韓弁韓の条を見ると、辰韓(※21~※21-2)在馬韓(※21-3)之東。其耆老傳世自言。古之亡人。避役來適韓國。馬韓割其東界地與之。...<中略>...今有名之為秦韓者。」と在ります。訳すと「辰韓は馬関の東に在る。耆老は世に伝えて次の様に言う。古(いにしえ)の亡命者で、秦の労役を避けて韓国に来た。馬韓は東の外れの土地を割き与えた。...<中略>...今その土地を秦韓と呼ぶ者が有る。」です。ここで辰韓は新羅(※21-2)の前身で、馬韓が百済の前身の国です。
 そうすると、「おそらく秦氏は、朝鮮半島の楽浪・帯方二郡の遺民(※22)で、五世紀はじめごろに渡来し、朝廷の伴造に加えられたものであろう。養蚕・機織りの技術をもって朝廷に仕え、各地の秦部を統率した。」という意見(△7のp21)と極めて符合します。即ち、秦氏の朝鮮半島の遺民説(=亡命者説)は極めて妥当性が高いと思われます。

    ++++ 『史記』「始皇本紀」
           絶対年代(=西暦)と対応がが付く ++++
 ここで『史記』「始皇本紀」は絶対年代(=西暦)と対応がが付くという事を言って置きます。それは始皇帝の26年の条で「斉王を虜にした。ここで秦は初めて天下を統一した。」という箇所です(△3のp144)。又、この年に「自今、諡(おくりな)の法をなくして、朕を始皇帝とし、後世は二世三世とかぞえて万世にいたり、無窮に伝えることとする」と在り(△3のp145~146)、自ら始皇帝(※15-2)と宣っています。これが秦の始まりの年の前221年です。即ち
    秦の26年 = 前221年(=秦の始皇帝の元年)
です。
    ----------------------------


 朝鮮半島は『史記』「始皇本紀」の始皇帝26年(=秦の元年=前221年)の条に「版図は、東は海と朝鮮に至り、西は臨洮・羌中に至り、南は北戸に至り、北は黄河に拠って長城をつくり、陰山から遼東に至った。」と在り(△3のp147)、この記述は先程の『史記列伝』「朝鮮列伝」の記述と呼応して居ます。

 (2)『日本書紀』に書かれた弓月君と秦酒公

 『日本書紀』「応神紀」14年の条に「是歳、弓月君(※5-3)、百済より来帰(まうけ)る。因りて奏して曰さく、「臣(やつかれ)、己が国の人夫(たみ)百二十県を領ゐて帰化(まう)く。然れども新羅人(※21-2)の拒(ふせ)くに因りて、皆加羅国(※21-4、※21-5)に留れり。」とまうす。爰(ここ)に葛城襲津彦(※23)を遣して、弓月の人夫(たみ)加羅に召す。然れども三年経るまでに、襲津彦来ず。」秦氏の祖である弓月君が出て来ます(△8のp204)。これには続きが在って、16年8月の条に「仍り精兵を授けて、詔して曰(のたま)はく、「襲津彦、久に還こず。必ず新羅の拒(ふせ)くに由りて滞れるならむ。汝(いまし)等、急(すみやか)に往(まか)りて新羅を撃ちて、其の道路(みち)を披(ひら)け」とのたまふ。是に、木菟(つくの)宿禰等、精兵を進めて、新羅の境に莅(のぞ)む。新羅の王、愕(お)ぢて其の罪に服しぬ。乃ち弓月の人夫(たみ)を率て、襲津彦と共に来り。」と在ります(△8のp206~207)。これに拠ると、「弓月君(※5-3)は120県の領民を率いて日本に帰化しますが新羅の抵抗に遭い加羅(※21-4)(=伽耶(※21-5))に留まった。そこで日本は木菟宿禰が新羅の境界迄兵を進めると新羅の王は怖じ気付いて罪に服したので、弓月君と領民と役に立たなかった葛城襲津彦が帰って来た。」と成ります。
 『日本書紀』はもう1箇所で秦氏の渡来に触れて居ます。「雄略紀」15、16年の条に「十五年に、秦の民を臣連等(※24)に分散(あか)ちて、各欲(おのおのねがひ)の随(まにま)に駈使(つかまつ)らしむ。秦造(はたのみやつこ)に委(ゆだ)にしめず。是に因りて、秦造酒、甚(にへさ)に以て憂(うれえ)として、天皇に仕へまつる。天皇、愛(うつくし)び寵(めぐ)みたまふ。詔(みことのり)して秦の民を聚(と)りて、秦酒公(※5-4)に賜ふ。公、仍(よ)りて百八十種勝(すぐり)を領率(ひき)ゐて、庸調(ちからつき)(※25~※25-2)の絹縑(きぬかとり)を奉献りて、朝庭(みかど)に充積む。因りて姓(かばね)(※24)を賜ひて禹豆麻佐(うつまさ)と曰ふ。一に云はく、禹豆母利麻佐といへるは、皆盁盈(み)て積める貌(かたち)なり。
 十六年の秋七月に、詔して、に宜き国県(くにあがた)にしてを殖ゑしむ。又秦の民を散ちて遷して、庸調を献らしむ。」
と在ります(△8-1のp78)。

    ◆雄略天皇は年代がはっきりしている大王

 ところで、雄略天皇は年代がはっきりしている天皇です。「倭の五王」の武が雄略天皇で、これは中国の文献の『宋書』巻97夷蛮伝・倭国(=『宋書』倭国伝)に出て来るのです。▼下▼を参照して下さい。
  獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)

それに拠ると、

  倭王の武 : 第21代雄略天皇で在位は462~485年
                     <在位期間は23年>

と成り「雄略紀」の15年は476年に成ります。

                (*_@)

 (3)秦氏が禹豆麻佐という姓(かばね)を賜る

 秦氏が始皇帝前259~前210)(※15-2)の時代の遺民とすれば秦酒公で約680年位、弓月君で約580年位、先祖が朝鮮半島に過ごした事に成ります。
 『日本書紀』に戻ると、「秦造」「秦造酒」は何れも「秦酒公」(※5-4)を指し、造(みやつこ)とか公(きみ)(※24-1)は姓(かばね)(※24)です。因みに、秦氏の姓(かばね)は(きみ)(みやつこ)(むらじ)忌寸(いみき)宿禰(すくね)が在ります。「庸調(ちからつき)」租庸調(※25)の内の(※25-1)と調(※25-2)です。そして『書紀』は非常に重要な事を言ってます、即ち禹豆麻佐(うつまさ)という姓(かばね)を賜わったと。養蚕をして絹織物を”うず高く”積み上げたからです。当時は清音、今は濁音で太秦(うずまさ)と書き地名に成って居ます。太秦は秦氏の本貫地です。
 又、「公、仍(よ)りて百八十種勝(すぐり)を領率(ひき)ゐて、...」と在りますが、「欽明紀」元年8月の条に「秦人の戸(へ)の数、総べて七千五十三戸。」と在ります(△8-1のp240)。一方、『新撰姓氏録』(※18-1)には「得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於。」と在り(△8-1のp360)、『姓氏録』は誇張されて居ますが秦氏は可なりの数の部民を抱えて居ました。「酒」は秦酒公の事で、秦酒公は応神朝に日本に渡来した弓月君の孫です。
 秦氏は「十六年の秋七月に、詔して、に宜き国県(くにあがた)にしてを殖ゑしむ。又秦の民を散ちて遷して、庸調を献らしむ。」と在る様な養蚕を始め、機織技術七夕伝説の流布、葛野大堰で見た様な治水及び利水事業などは、個人では不可能です。秦氏は正に非常に統率の取れた技術者集団なのです。そして政争には関与しない、これも大事な事です。それ故に『日本書紀』は秦氏に関し大変好意的です。

                (*_@)

 私は麻を広めた忌部氏も似ているな、と思いました。忌部氏については▼下▼を
  忌部氏所縁の地を訪ねて(Visit the country where Inbe-Uji connected)
お読み下さい。又、四国徳島の忌部氏の大麻比古神社については▼下▼を
  板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)
お読み下さい。
    {この章は2014年9月14日に最終更新}

 ■始皇帝について

 (1)始皇帝と徐福伝説 - 徐福(或いは徐芾)のしたたかさ

 徐福伝説(※26)は皆さんも御存知だと思います。実は始皇帝不老不死に嵌り込み、『史記』「始皇本紀」と『史記列伝』「淮南・衡山列伝」に徐福(或いは徐芾(じょふつ))という方士(※26-1)が登場します。
 先ず「始皇本紀」の28年の条 -『史記』「始皇本紀」は西暦と対応が付くという事は前に述べました- に「頌徳碑を立てることが終わると、斉人の徐芾らが上書して、「海中に三つ神山(※26-2)があり、蓬莱(※26-3)・方丈(※26-4)・瀛洲(※26-5)と申して、僊人(せんにん)が住んでおります。斎戒して童男童女を連れ、僊人を探したいと思います」と言った。そこで徐芾をやり、童男童女数千人を出して海上に僊人を求めさした。」と在ります(△3のp151)。
 35年の条では「また徐芾らに費やした金は巨万に達するのについに仙薬を得ることができず、ただ彼らが姦吏を貪っていると告げる声が、毎日耳に入るだけだ。」と言って居ます(△3のp160)。
 37年では「方士の徐芾らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費えが多いだけだったので、罰せられるのを恐れ、いつわって、「蓬莱では神薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられて、島に行くことができません。上手な射手をつけていただければ、現われたら連発の強弓で射ていただきとうぞんじます」と言った」と在ります(△3のp164)。「始皇本紀」では以上の3箇所です。
 一方『史記列伝』「淮南・衡山列伝」には「また道士徐福を使者として、東の海上の仙人の島へ不死の薬を求めに行かせましたが、徐福は帰ると、いつわりの報告をして、「わたくし東の海で大神さまにお目にかかりましたところ、「おまえは西の皇帝の使者であるか?」とお尋ねになり、わたくしが「その通りです」とお答えしますと、「おまえは何をさがし求めておる?」と聞かれ、「延命長寿の仙薬をいただきとうございます」と申しあげますと、大神さまは、「おまえたちの秦王の供物が少ないから、おまえは見ることはできても、手にいれることはできぬ」とおおせられ、それからわたくしを東南のかた蓬莱山へおつれくださいました。...<中略>...(わたくしは)お尋ねしました、「何の品を献上いたしますとよろしゅうございましょうか?」と、その海神さまは、「良家の少年少女たちとさまざまの器械や道具類を献ずれば、望みのものは得られよう」とおっしゃったのです」と言上しました。秦の始皇帝はたいへん喜んで、少年少女三千人を送り出し、五穀の種子と器物や道具類をそえて、旅立たせました。始皇帝をたくみに欺いた徐福は広い平野と沼のある島にたどりつき、そこに居ついて自分が王となり、帰って来なかったのです。」と在ります(△3-1のp246~247)。
 話の内容から見て、この『史記列伝』「淮南・衡山列伝」の話が先に在って、「始皇本紀」の28年の条に続きます。徐福(徐芾)は最初から始皇帝を騙し、童男童女/物資/船(=船団)/貢物などを始皇帝の権力と金力に任せました。徐福の方が始皇帝より一枚も二枚も上手ですね、恐れ入りました!!

 (2)道教の不老不死に嵌り込んだ始皇帝

 ところで徐福(徐芾)は出て来ませんが、始皇帝が不老不死や仙人に嵌り込んでいる事が解る記述が『史記』「始皇本紀」に未だ在るのです。32年の条に「燕人盧生に仙人の羨門高を探させ...」と在り(△3のp153)、又「ついで韓終・侯公・石生に仙人の不死の薬を求めさせた。」と在ります(△3のp154)。
 更に35年の条には盧生が始皇に説いて言った。「わたくしらが霊芝・奇薬・仙者を捜しましたが、いつも出会ったことがありません。何か障りがあるもののようです。方術の中に、『人主時に微行をなし、もって悪鬼を去れ』とありますが、人主は悪気が去れば真人(※27)になれるのでありまして、居所を臣下が知れば、神気に障りがあります。真人は水中に入っても濡れず、火中に入っても焼けず、雲気をしのぎ、天地と共に長久のものです。いま主上は天下を治めておられますが、まだ恬淡(てんたん)にはなっておられません。どうぞ主上のおられる場所を、人に知られないようになさいますように、きっと不死の薬が得られるでしょう。」そこで始皇は、「わしは真人になりたい。だから自分で真人といい、朕とはいわないでおこう」と言い、...<後半略>...」と在ります(△3のp158~159)。ここで穭生とは「盧生の夢」と言われる人物で、人生の栄枯盛衰の儚さを説くのが得意でした。
 真人(しんじん)(※27)とは道教 -仙人や不老不死は道教です- で最高の人格です。始皇帝のわしは真人になりたい。」という叫びが空しく響きます。因みに、日本で道教の真人にのめり込んだのは天武天皇で自分が作った八色姓で最高位の姓(かばね)(※24)が真人(まひと)です。

 (3)冷酷残忍で大胆な性格だが実行力に富んだ始皇帝

 『史記』「始皇本紀」の秦の10年(=始皇帝が秦王だった時代)の条の尉繚(うつりょう)(※28)が言った言葉に「秦王は人となり、鼻が高く目が長く、摯鷹(くまたか)のように胸が突き出て、豺(さい)のような声をし、残忍で虎狼のような心をもっている。困窮した時には人に卑下するが、得意な時には平気で人を喰ったようなことをする。...<中略>...いっしょに長くつき合える人物ではないと在り(△3のp140)、中々鋭い人物評です。右が始皇帝の肖像画(△9のp26)ですが「鼻が高く目が長く、摯鷹(くまたか)のように胸が突き出て」居るのが良く解ります。
 又「始皇本紀」の太史公自序には「始皇は自己を完全なものとして人の言を聴かず、過ちでも思いのままに遂行して変えなかった」と在ります(△3のp180)。
 『史記列伝』「淮南・衡山列伝」には「秦は、聖人の教えを棄てさり、道を学んだ者たちを殺し、『詩経』『書経』などの古典を焼き、礼法を投げすてて、詐欺と暴力を重んじ、刑罰を頼みとしたのです。」と在ります(△3-1のp245~246)。

 要するに、部下たちは始皇帝を恐れ敢えて諫言を言える人は居なかったのです。その結果、秦という国は僅か3代16年で滅亡しました。秦が滅びる時、民衆の或る者は反乱軍に加わり、或る者は遠く朝鮮半島に逃げて行き亡命しました。又「始皇本紀」には始皇帝が罪人を度々肉体労働に使って居ます。

                (>_<)

 (4)秦氏は徐福の護衛隊だった - エルニーニョの仮説

 さて皆さん、韓国の済州島(※29)にも徐福が来た」という伝説が在るのを御存知ですか?
 韓国の済州島の「西帰浦(ソギポ)市」は、徐福が来て不老不死の仙薬を探したが見付からず、定住すること無く西って行った」のでその名が付いたとされて居ます。
 ここからが「エルニーニョの仮説」です。童男童女数千人(←「始皇本紀」)とも三千人(←「淮南・衡山列伝」)とも言われる様に、多数の人間を連れて行ったのです。当然、船団は数十隻と成ります。そして護衛の部隊も必要に成ります。私はその任を秦氏が引き受けたと考える訳です、何しろ秦氏は始皇帝と同族ですから。或いは始皇帝に連なる高貴な人も居たかも知れません。しかし仙薬は見付からず西って行った」のですが外洋に出た辺りで嵐に遭い船団はばらばらに成り、その内の何隻かは海に呑まれましたが何隻かは漂流して南韓国に上陸するのです。だから西帰浦の人々は「西に帰って行った」と思っているのです。後は『三国志・魏志』東夷伝・辰韓弁韓の条に書かれた様に成る、という訳です。私は秦氏が朝鮮で遺民に成る為には、この方がずっと”それらしく”思えます!!

 徐福(徐芾)に関して言えば、この嵐で南に流され日本に漂着した、として置きましょう。その方が日本人に夢を与えます。実際、日本には徐福が来たという伝説が彼方此方に在ります。例えば和歌山県新宮市、三重県熊野市波田須町、鹿児島県出水市、鹿児島県いちき串木野市、宮崎県延岡市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島などです。
 朝鮮の著者が日本と琉球について書いた『海東諸国紀』の孝霊天皇の条には「七十二年壬午、秦の始皇徐福を遣わし、海に入り仙福を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。」と在り(△10のp57)、紀伊、即ち今の三重県や和歌山県で住んだと書いてます。又、崇神天皇の条には「是の時、熊野権現神始めて現わる。徐福死して神と為り、国人今に至るまで之を祭る。」と在り(△10のp58)、熊野権現ですから今の和歌山県です。

 この記述から見ると紀伊半島が可能性が高いですが、三重県熊野市波田須町からは前200年頃(=始皇帝の頃)の中国の半両銭(※30)が出土して居ます(△9のp27)。半両銭(右の図、右から「半両」と刻印が在ります)というのは始皇帝が通過を統一しようという意気込みを持って流通させた通過ですので、直径3.4cm、厚さ0.2cm、重さ約11gです。大いに期待が持てますね!
    {この章のここ迄の節は2014年9月14日に最終更新}

 (5)始皇帝の父親は? - 呂不韋説の検証

 『史記』「秦本紀」の2年の条で「五月丙午の日、荘襄王が卒し、子の政(せい)が立った。これが秦の始皇帝である。」と在り(△3のp135)、はっきりと「荘襄王の子」と言って居ます。しかし「始皇本紀」の冒頭で荘襄王が秦のため人質となって趙に行っていたとき、呂不韋の妾を見そめ、喜んでこれをめとり始皇を生んだ。秦の昭王の四十八年正月、邯鄲(かんたん)に生まれたので、正月にちなんで名を政(せい)とした。姓は趙(ちょう)である。」”意味深な事”を言ってます(△3のp136)。つまり、荘襄王の種(たね)が入る以前に呂不韋(※15-3)の種が入っていたら、始皇帝は呂不韋の子に成ります。何しろ呂不韋の妾ですから、その可能性は極めて高いと言わざるを得ません。
 そこで『史記列伝』「呂不韋列伝」を見ると非常に面白い事が書かれて居ます。先ず冒頭に呂不韋というのは、陽翟(ようてき)の大商人であった。」と出て来ます(△3-2のp122)。そして昭王(=昭襄王)の40年(前267年)に太子が亡くなり昭王は次男の安国君(後の孝文王) -安国君には20人以上の息子が居た- を太子にします。安国君の中程の息子に子楚(しそ) -異人(いじん)が本名- が居て彼は人質として趙の国へ預けられました。そこで呂不韋が”商人の口の上手さ”を発揮して華陽夫人 -安国君の正室だか子供が無かった- に子楚を世継ぎとする様に巧みに口説き、これが成功しました、勿論彼の金力もです(△3-2のp122~125)。そこで次の様に続きます。呂不韋は邯鄲の女のなかでも容姿抜群で舞いに巧みな者を家にいれていたが、身重になったことがわかった。そのとき呂不韋の家へ宴会に招かれた子楚は、その女を見て惚れこみ、立ちあがって呂不韋に祝辞を述べたついでに、女をくれまいかと頼んだ。...<中略>...(呂不韋は)その女を献上した。女自身も身ごもっていることは隠していた。それから期が満ちて、(後の始皇帝)という男子を出産した。子楚はかくて女を夫人の身分になおした。」と在り(△3-2のp125~126)、これはもう決定的です。身重に成った女は夏姫と言います(△3-2のp126)。つまり始皇帝の父親呂不韋である、と「呂不韋列伝」は言っているのです!!

 そして「呂不韋列伝」を読むと「荘襄王の元年、呂不韋を丞相(※15-4)にとりたて、文信公に封じ、河南の雒陽附近十万戸の所領を与えた。...<中略>...秦王(=始皇帝)は年幼く(即位の時は十三歳)、太后(始皇帝の実母で呂不韋の妾)はおりを見ては呂不韋と密通を重ねた。」と在ります(△3-2のp126)。
 その後、「呂不韋列伝」は呂不韋が食客に『呂氏春秋』(※15-5)を編纂させた事を記し、再び太后(=夏姫)の淫行に話が及びます。太后の淫乱な性格を見抜いた呂不韋は嫪毐(ろうあい)なる巨根(=デカ魔羅)の持ち主を捜し出すと、案の定、太后は嫪毐を寵愛し子を2人も成しました。嫪毐は宦官を擬装していた事もばれ、秦王(後の始皇帝)の9年(前238年)に嫪毐は死刑、太后と嫪毐の2人の子も殺し、更に嫪毐の父母/兄弟/妻子も皆殺しにしました。そして呂不韋が連座している事が明らかに成り、秦王の10年に呂不韋を解任しました。呂不韋はやがて自分も死刑に処せられると悟って鴆毒(※31)で自殺したと在ります(△3-2のp126~129)。呂不韋の自殺は「始皇本紀」に拠れば秦王12年(前235年)です(△3のp141)。そして秦王の19年(前228年)に淫乱好きの夏姫(元呂不韋の妾、後の始皇帝の母)が薨じました(△3-2のp129)。
 以上、「呂不韋列伝」に書いて在る事を年表に纏めると▼下▼の様に成ります。

        <「呂不韋列伝」を年表に纏める>

  前258年 呂不韋が元自分の妾(夏姫)に”種”を仕込む  ↑
  前259年 政(後の始皇帝)が生まれる←呂不韋が父親   │
  前251年 昭襄王が崩御  安国君(孝文王)が秦王に   │
  前250年 孝文王が崩御  子楚(荘襄王)が秦王に    │戦国時代末期
                  荘襄王、呂不韋を文信侯に │
  前247年 荘襄王が崩御  政(後の始皇帝)が秦王に   │
                呂不韋と夏姫は密通を重ねる  │
  前244年頃、呂不韋巨根の嫪毐を捜し出し、       │
           夏姫(後の始皇帝の母)に宛がう     │
           嫪毐・夏姫は2人の子供を成す      │
  前238年(秦王 9年)  秦王、嫪毐を処刑       │
  前237年(秦王10年)  秦王、呂不韋を解任      │
  前235年(秦王12年)  呂不韋が服毒自殺(鴆毒)   │
  前228年(秦王19年)  後の始皇帝の母の夏姫が崩御  ┘

  前221年(秦王26年)  秦王が天下を統一し始皇帝に  ┐
  前210年 始皇帝が崩御                 │秦帝国
  前206年 秦帝国が滅亡                 ┘

 安国君孝文王)は太子の時に20人以上の息子を作り精力を使い果たした所為か、僅か1年で崩御します。その子の子楚荘襄王)も3年の在位です。

    ◆始皇帝の冷酷残忍な性格形成に貢献 - 呂不韋と淫乱な篤姫

 私は始皇帝の「困窮した時には人に卑下するが、得意な時には平気で人を喰ったようなことをする。」という尉繚が語った冷酷残忍な性格は、「呂不韋の元妾」且つ「荘襄王の妻」且つ「始皇帝の実母」夏姫の淫乱さ呂不韋に依って形成されたという思いを強く抱きました。始皇帝の思春期(=性格形成期)密通を重ねた呂不韋と夏姫の影響は大きいと言わざるを得ません。始皇帝だって馬鹿じゃ無い訳で、13歳にも成れば母親の不順なセックスには気が付いて居ますよ。しかし始皇帝はその話を何処にも持って行けない、自分一人で飲み込むしか無い訳です。こうして冷酷残忍な性格が形成されたのです。始皇帝の父親については賛否両論が有りますが、私は寧ろ始皇帝の性格形成に関して呂不韋と夏姫の果たした影響は甚大だという結論に至りました。秦王の19年(前228年)に「太后(=夏姫)が薨じ、諡を帝太后とし、荘襄王(=夏姫の夫)に合わせて芷陽に葬った。」と在ります(△3-2のp129)が、この時の始皇帝の心中は如何に!、と私は思います。

 ところで「昭王の事績」の所で昭王は始皇帝の曽祖父として居ましたが、呂不韋が始皇帝の父親だとすれば、この関係即ち昭王(昭襄王)孝文王荘襄王始皇帝とは何の血縁関係も無くなる訳で、笑っちゃいますね、アッハッハッハ!!
 まぁ、呂不韋の役所(やくどころ)は要するに”狂言回し”ですが、中々才気に溢れ自ら主役や脇役を演じ「始皇帝の父親は誰か?」という問題を大いに面白く盛り上げて居ます。呂不韋に乾杯!!

                (*_@)

 ところで司馬遷は『史記』の「本紀」を書く場合は、飽く迄も”タテマエ”を重視するのに対し、『史記列伝』を書く場合は、より歴史著述家としての直接的な興味を前面に押し出して居ます。それは『史記列伝』の中に「刺客列伝」(△3-2のpp133~163)や「游侠列伝」(△3-3のp102~118)が在る事でも解ります。ここでは「刺客列伝」や「游侠列伝」についてはこれ以上触れませんが、譬えて言えば日本の歴史の正史、即ち『日本書紀』の中にヤクザ者の清水次郎長/森の石松/幡随院長兵衛などの話が1章を与えられて出て来るのです。皆さん、「刺客列伝」や「游侠列伝」は中々面白いですゾ!

    ◆鴆毒について

 鴆毒とは(※31-1)という鳥のに在るとされる猛毒です。勿論、これは架空の話実際にはという鳥は居ませんが、この様に中国では古来から伝説化して『史記』にも登場するという訳です。
 『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の「鴆毒」に拠ると、『周礼』には鴆毒の作り方が載って居ると在ります。下の五毒

  ①.雄黄(ゆうおう)    砒素硫化物
  ②.礜石(よせき)     硫砒鉄鉱
  ③.石膽(せきたん)    硫酸銅
  ④.丹砂(たんしゃ)    辰砂(=硫化水銀)
  ⑤.慈石(じしゃく)    磁鉄鉱

素焼の壺に入れ、その後三日三晩掛けて焼くと白い煙が立ち上るので、この煙で鶏(にわとり)の羽毛を燻(いぶ)すと「鴆の羽」に成るそうです。古代中国では「鴆の羽」と称して、上の方法で作った毒羽(=鶏の羽)を売っていたかも知れませんね。漢方薬を見れば解る様な気がします。鶏の羽で「鴆の羽」が作れるならお安い御用、何方(どなた)かこの方法を試して欲しいですな!
 通常、鴆毒で自殺するのは鴆毒を酒に混ぜた鴆酒(※31-2)を飲みます。上の呂不韋の場合も鴆酒の様です(△3-2のp129)。

 ところが、パプアニューギニアの固有種のピトフーイ(Pitohui)という鳥の羽に毒性が在る事が1990年頃解かり、世界初の毒鳥として登録されました。この毒は餌の昆虫毒蛇に依るものです。この鳥は背中は黒で腹部が橙色で可なり目立ちます、こういうのを警告色(※32)と言います。生物の警告色については▼下▼をご覧下さい。
  資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)

 ピトフーイという名は鳴き声に由来し、地元の原住民や猟師は「昔から食べられない鳥」として来ました。正に現代に成ってが甦ったと言えるでしょう!!
    {この章は2016年10月31日に最終更新}

 ■秦河勝と聖徳太子



 右が秦河勝の肖像画です(『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』より)。







他にも木嶋神社その他の三柱鳥居は三井家と関係が深く、秦河勝は大生部多 -野蚕(※40~※40-2)を常世神と称した新興宗教の教祖- を討ちました。当然、河勝は野蚕 -蚕以外の蛾から繊維を造ること- は許せなかったでしょう、河勝は養蚕を推進してる訳ですから。




    {この章は2016年10月31日に最終更新}

 ■秦氏の出自

 (1)


 これは面白いテーマです。中々多彩と言うか、雑誌『ムー』推奨のネタも在り、支離滅裂とも言える賑やかさです。














 (2)秦氏の系図

  (2)-1.秦氏の系図の不合理さ

 私は「秦氏の系図」は少なくとも秦の始皇帝~功満君(=功満王)迄は信用して無いです。何となれば、始皇帝が死んだ年が前210年、それから功満君(仲哀天皇(←応神天皇の父)の時に渡来したと言う)が渡来した時期は340年頃とすれば、始皇帝から550年位経っているのです。通常、100年で4人、もっと少なく100年で3人は必要で550年では16、7人が必要です。なのに「秦氏の系図」では、

        信用出来ない                信用出来る
  ───────────────────────┐ ┌──────────→
  始皇帝 ─ 故亥皇帝 ─ 孝武皇帝 ─ 功満君 ─ 弓月君 ─ 秦酒公
  前210年没                350年頃   370年頃   476年




と成っていて明らかに不合理です。始皇帝に無理矢理こじつけて居ます。
 弓月君以下の系図は信用出来ると思います。やはり日本の正史の『日本書紀』に載っている記述は重要です。







 (3)秦氏が本当に始皇帝に連なるのか?

 秦氏と言うと直ぐに秦の始皇帝(※15-2)が引き合いに出されますが、果たして「秦氏が本当に始皇帝に連なるのか?」については意見が大いに異なります。上の系図は明らかに不合理で破綻して居ます。
 しかし、秦氏(※5-1)は『史記』に載って居ます。「秦本紀」を見ると、太史公自序に「太史公言う。秦の遠祖の姓は(えい)であるが、後世子孫が分封せられ、封国の名をもって氏となし、徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、将梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏があった。しかし、秦の直接の先祖の造父は、趙城に封ぜられたので趙氏である。」と在り(△3の135)、秦氏が中国の正史の『史記』に載っている事は確かです。
 しかし信頼出来る歴史的資料は有りません。資料が無ければ秦氏と始皇帝を結び付ける事は出来ない、というのが私の結論です。雑誌『ムー』の愛読者日ユ同祖論者は勝ってに遣って下さい。











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 ■結び - 












綾糸(あやいと)は怪糸(あやいと)です。



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φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は、京都市右京区太秦に在り、通称を木嶋神社(このしまじんじゃ)、別名を蚕の社(かいこのやしろ)と言う。主祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)で、創建は不詳乍ら大宝元(701)年以前(←文献に在る為)の式内社(名神大社)で、境内には珍しい三柱鳥居が在る事で「知る人ぞ知る」神社である。又、ここは嘗ての秦氏の勢力地で、木嶋神社の摂社の一つに蚕養神社(こかいじんじゃ)が在り、祭神として蚕の神 -秦氏が将来した養蚕・機織の神- を祀る。木嶋神社が「蚕の社」と呼ばれる所以である。

※2:三柱鳥居(みつばしらとりい/みはしらとりい)とは、京都太秦の木島神社(このしまじんじゃ)に在る特殊な石鳥居。春日鳥居を3個組み合せた様式で、笠木などを互いに組み合せ、柱を鼎足(ていそく)状にしたもの。日本全国に数基確認されて居る。三才鳥居とも。









※5:太秦(うずまさ)は、(古くはウツマサ)京都市右京区(旧は葛野郡)の一地区の名。飛鳥時代以前から渡来人の秦氏が住んで居たことから生じた名。同地の広隆寺は聖徳太子の時代(7世紀前半)に秦氏が建立。現在は映画撮影所で知られる。
※5-1:秦氏(はたし/はたうじ)は、(古くはハダ)姓氏の一。古代の渡来系の氏族。応神天皇の時に来朝した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と称するが、確かでは無い。5世紀後半頃より、伴造(とものみやつこ)として多数の秦部(はたべ)を管理し、養蚕機織の技術で織物の生産などに携わった。
※5-2:秦河勝(はたのかわかつ)は、飛鳥時代の山背国の豪族で厩戸皇子(聖徳太子)の側近(6世紀後半~7世紀中期)。用明2(586)年に物部守屋征討の際、軍政人として活躍。推古11(603)年に太子所有の仏像を授かり、葛野郡(現、京都市太秦)に蜂岡寺(今の広隆寺)を建立(←「日本書紀」、但し「広隆寺縁起」は同寺建立を壬午歳(622年)とする)。推古18(610)年に新羅・任那使入京の際、導者を務めた。皇極3(644)年に富士川の邉で常世神信仰 -この時は野蚕(絹以外の糸)の幼虫- が流行すると、首謀者の大生部多(おおうべのおお)を討った(←養蚕を推進管理する秦氏は野蚕の流行は断じて看過出来なかった)。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※5-3:弓月君(ゆづきのきみ)は、秦氏の祖とされる伝説上の人物。秦の始皇帝の子孫で、百済に移住して居た秦人(はたひと)・漢人(あやひと)から成る127県の民を率いて応神朝に来朝し、養蚕機織などの技術を伝えたと言う。融通王
※5-4:秦酒公(はたのさけのきみ)は、半伝説的人物で雄略天皇に仕え、太秦(うずまさ)の姓を与えられたとされ、その姓が今も地名として残る。秦造酒とも。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>











※7:鳥栖(とす)は、佐賀県東部の市。鹿児島本線・長崎本線の分岐点。古くから交通の要地。昔(応神天皇の時代)この地に鳥屋(とや)を造り、鳥を朝廷に献上するのを例としたので、鳥樔郷と称したと言う(肥前風土記)。人口5万7千。
※7-1:鳥栖/鳥座/塒(とぐら)とは、(「くら」は人・動物が居る所、又、物を乗せて置く所)鳥の夜寝る所。塒(ねぐら)。鳥屋(とや)。万葉集2「―立て飼ひしかりの子巣立ちなば」。








※9:梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は、今様歌謡集後白河法皇編著。1179年頃の成立か。「梁塵秘抄」10巻と「梁塵秘抄口伝集」10巻。両者の巻1の抄出と梁塵秘抄巻2及び口伝集巻10だけ現存。現存本でも法文の歌、4句の神歌など560余首在る。「うつばり(=梁)のちり(=塵)の秘抄」という解題が在る。
※9-1:後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、平安後期の天皇(1127~1192、在位1155~1158)。鳥羽天皇の第4皇子。母は藤原璋子。近衛天皇の跡を継いで即位。名は雅仁(まさひと)。即位の翌年、保元の乱が起る。1158年二条天皇に譲位後、5代34年(二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽)に亘って院政。計略に優れ、初め平氏を登用したが清盛が力を伸ばすとこれと対立、源義仲・源頼朝が挙兵すると義仲を利用して平氏を追い、次いで頼朝を利用して義仲を倒し、更に頼朝源義経を争わせた1169年(嘉応1)入道に法皇と成り、造寺・造仏を盛んに行い、今様歌を好んで「梁塵秘抄」を撰す。第3皇女が式子内親王。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9-2:今様(いまよう)は、この場合、今様歌の略。
※9-3:今様歌(いまよううた)は、平安中期から鎌倉初期に掛けて流行した新様式の歌七五調4句のものが代表的で、和讃や雅楽の影響から起る。白拍子・遊女などが歌い、宮廷貴紳にも愛誦され、後には宮中の節会などにも歌われた。「梁塵秘抄」に集大成。
※9-4:梁塵(りょうじん)とは、[1].梁(うつばり)の上に積る塵(ちり)。
 [2].(「梁塵を動かす」の故事から)優れた歌謡・音楽の意。
※9-5:梁(うつばり/うつはり)とは、(古くはウツハリ。内張の意)柱上に渡して小屋組を受ける横木。梁(はり)。三蔵法師伝承徳点「釈衆の梁(うつはり)摧(くだ)けぬ」。
※9-6:「梁塵を動かす」は、[劉向別録「魯人虞公、発声清越、歌動梁塵」]歌う声の優れていること。転じて、音楽に優れている事を言う。
※9-7:院政(いんせい、rule by a retired Emperor)とは、[1].1086年の白河上皇の専政的な権勢下に定着した、院庁で上皇、又は法皇が国政を行うのを常態とする政治形態。名目上は1840年の光格天皇迄断続的に続くが、実質的には鎌倉末期の後宇多上皇の時期迄の約250年である。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].転じて、一旦引退した筈の人が、尚実権を握って取り仕切ること。









※11:広隆寺(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦に在る真言宗の寺。603年秦河勝聖徳太子から授かった仏像を祀る為に建立したと伝える。飛鳥時代の仏像(特に弥勒菩薩半跏思惟像)以下貴重な文化財が多く、又その牛祭は有名。蜂岡寺太秦寺。秦公寺。葛野寺。
※11-1:牛祭(うしまつり)とは、
 [1].神事の中心にウシが使われる祭り。ウシは農業にとって重要な動物なので、古くから神の使いと考えられた。
 [2].京都市太秦の広隆寺で陰暦9月12日(今は10月12日)夜に行う神事。摩多羅神を祭る。寺中の行者が仮面を被り、異様の服装をして牛に乗り、祠殿を回り、上宮王院の前で国家安穏・五穀豊穣・悪病退散の祭文を読む。京都三大奇祭の一。季語は秋。
※11-2:摩多羅神(またらじん)とは、天台宗で常行三昧堂の守護神、又、玄旨帰命壇の本尊。頭に唐制の幞頭(ぼくとう)を被り、和様の狩衣を着、鼓を打つ姿をしたもの。左右に笹葉と茗荷を持って舞う童子を伴う。円仁が唐より帰朝の時、この神が空中から呼び掛けたと言い、又、源信が念仏の守護神として勧請したとも言う。京都太秦広隆寺の牛祭はこの神を祀る。









※14:大堰川(おおいがわ)は、丹波山地から亀岡盆地を経て、京都盆地北西隅、嵐山の下へ流れ出る川。亀岡盆地と京都盆地の間は保津川とも言い、下流を桂川と言う。嵐山付近では平安時代に管弦の船を浮べて貴族が宴遊した。大井川。
※14-1:桂川(かつらがわ)は、京都市南西部を流れる川。大堰川(おおいがわ)の下流。鴨川を合せ、宇治川に合流して淀川と成る。嘗ては鮎の産で有名。
※14-2:保津川(ほづがわ)は、大堰川(おおいがわ)の一部。通常、亀岡盆地と京都盆地との間の山地を流れる部分を言う。嵐山付近から下流は桂川と成る。保津川下りで有名。ほうづがわ。
※14-3:堰(せき、dam, sluice)は、(「塞(せ)く」の連用形から)取水や水位/流量の調節の為に、水路中、又は流出口に築造した構造物。いせき。→―を切った様。

※15:昭襄王/昭王(しょう[じょう]おう)は、戦国時代末期の秦の王(前325~前251、在位期間は前306~前251)。都江堰を築いた李冰を蜀の郡守として駐在させた。始皇帝の曽祖父で、以下、孝文王→荘襄王→政(=始皇帝)と続く。「史記」には趙軍を破り四十万人を悉く穴に埋めて殺した」と在る。
※15-1:都江堰(とこうえん、Dujiangyan)とは、[1].中国四川省中部の都市。人口57万3千(1995)。
 [2].[1]の北西部、岷江中流に在る古代以来の水利施設。秦の昭襄王(昭王) -始皇帝の曽祖父- の代、蜀の郡守であった李冰B.C.256年に築造を開始したが、息子の李二郎に引き継がれ、やっと完成した。現在も成都平原の治水に資する。
※15-2:始皇帝(しこうてい、Shi Huangdi, Pristine Emperor)は、秦の第1世皇帝。名は政(前259~前210、在位:前247~前221、秦で前221~前210)。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら始皇帝と称した。法治主義を採り諸制(←枡/量/物差し/車の軌/書体の統一など)を一新、郡県制度(←三十六郡)を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山(りざん)の陵を築造。
※15-3:呂不韋(りょふい)は、秦の丞相(~前235)。元、河南陽翟(ようてき)の豪商。秦の子楚(後、荘襄王)が趙の人質と成った時、これと結び、王が位に付くや丞相と成り、文信侯に封。後、始皇帝に依り罪せられて自殺始皇帝の実の父とも言う。編著「呂氏春秋」
※15-4:丞相(しょうじょう/じょうしょう)とは、(「丞」も「相」も助ける意)[1].昔、中国で天子を助けて国政を行なった大臣。
 [2].日本で、大臣の異称。
※15-5:呂氏春秋(りょししゅんじゅう)は、中国、戦国時代末、秦の呂不韋が食客らに作らせた書。26巻。儒家を主とし、道家/墨家の説を交え、諸種の学説を編集。呂覧。

※16:樋門(ひもん)は、用水の取入れや悪水の排除の為、堤防を横断して作られた暗渠(あんきょ)及びゲートの総称。

※17:中国の戦国時代(せんごくじだい)は、中国で、魏/趙/韓の三国が晋を分割して諸侯に封ぜられてから秦の始皇帝の統一に至る時代(前403~前221)。
※17-1:秦(しん、Chin)は、この場合、中国の国名(前771年~前206)。春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政始皇帝)に至って六国 -韓(かん)/趙(ちょう)/魏(ぎ)/楚(そ)/燕(えん)/斉(せい)、これに秦を加えて戦国の七雄と言われた- を滅ぼして天下を統一前221年)。中国史上最初の中央集権国家。全国に郡県制を敷き、文字/度量衡/貨幣を統一し、万里の長城を大増築した。始皇帝の死後、反乱が起こり3世16年漢の高祖に滅ぼされた。(前206)。中国を指す China (日本語ではシナ)は秦(Chin)が語源。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※18:嵯峨天皇(さがてんのう)は、平安初期の天皇(786~842、在位809~823)。桓武天皇の皇子。名は神野(かみの)。「弘仁格式」「新撰姓氏録」を編纂せしめ、漢詩文に長じ、「文華秀麗集」「凌雲集」を撰せしめた。書道に堪能で、三筆の一。
※18-1:新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は、古代氏族の系譜集成。京/畿内に本籍を持つ1182氏をその出自や家系に依って神別/皇別/諸蕃に分類。嵯峨天皇の勅を奉じて万多親王らが編し、815年(弘仁6)完成。30巻/目録1巻。現存のものは抄本。新撰姓氏録抄。姓氏録。

※19:箕子朝鮮(きしちょうせん)は、古朝鮮の一つ。箕子が、前1023年紂王(ちゅうおう)の死後に開いたとされる朝鮮の伝説上の王朝。首都は王倹城(現:平壌)。前194年衛満に滅ぼされた。→箕子。
※19-1:古朝鮮(こちょうせん)とは、前108年、漢の武帝に依る楽浪郡設置以前箕子朝鮮衛氏朝鮮。地域は略大同江以北。神話である檀君の時代を含めて言う事も在る。
※19-2:衛氏朝鮮(えいしちょうせん)は、古朝鮮の一つ(前194~前108)。華北の燕から朝鮮北西部に逃れた衛満が建て、その孫右渠が漢の武帝に滅ぼされる迄存続した朝鮮の王朝。都は王険城(現:平壌)。
※19-3:衛満(えいまん)は、衛氏朝鮮の祖。元、燕(えん)の人。漢の高祖の末年、朝鮮の大同江流域に至り、前194年箕子朝鮮を滅ぼして王と成った。

※20:三国志(さんごくし)は、二十四史の一。魏/呉/蜀3国の史書。65巻。晋の陳寿撰。→三国志演義
※20-1:陳寿(ちんじゅ)は、西晋の歴史家(233~297)。字は承祚。四川安漢の人。中国正史の一である「三国志」の他、「益都耆旧伝」などの著が在る。

※21:辰韓(しんかん)は、古代朝鮮の三韓の一つ。漢江以南、今の慶尚北道東北部に在った部族国家(3世紀頃12国に分立)の総称。この中の斯盧(しら)に依って統合され、356年新羅と成った。
※21-1:斯盧(しら/しろ)は、古代朝鮮の辰韓の国の一つ。現在の韓国慶州市付近に位置した。新羅の前身。
※21-2:新羅(しらぎ)は、(古くはシラキ)古代朝鮮の国名(356~935)。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧(しら)国に始まり、4世紀辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽耶(加羅)諸国を滅ぼし、又、と結んで百済/高句麗を征服668年朝鮮全土を統一。更に唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教仏教律令制などを独自に発展させ、日本への文化的/社会的影響大。新羅(しんら)。→辰韓。
※21-3:馬韓(ばかん)は、古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅/忠清二道、及び京畿道の一部)を占めた。4世紀半ば、その一国伯済国を中核とした百済(くだら)に依って統一。
※21-4:加羅(から)は、伽耶(かや)に同じ。
※21-5:伽耶/伽倻(かや)とは、古代、朝鮮半島南東部に在った国々。諸小国全体を言う場合も有り、特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)を指す場合も有る。562年新羅に依り併合。日本では多く任那(みまな)と呼ぶ。加羅。「―琴(きん)」。

※22:遺民(いみん)とは、[1].君主や朝廷が滅んで後に残った民。
 [2].前朝の臣民で、節を守って新しい朝廷に仕えない者。

※23:葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)は、古代の武人。葛城氏の祖武内宿祢の子で、仁徳天皇の皇后・磐之媛命(いわのひめのみこと)の父とされ、神功皇后の時代に新羅を討ったと言う。

※24:姓(かばね)とは、(「かばね」は、元はのこと。父系の血筋は骨に宿ると考えられたことから。<出典:「漢字源」>)、この場合、古代豪族が政治的・社会的地位を示す為に世襲した称号(おみ)・(むらじ)・(みやつこ)・(きみ)・(あたい)・(ふびと)・県主(あがたぬし)・村主(すぐり)など数十種が在る。初めは私的な尊称であったが、大和朝廷の支配が強化されると共に朝廷が与奪する様に成り、臣・連が最高の姓と成った。大化改新後の684年、天武天皇は皇室を中心に八色姓(やくさのかばね)を定めたが、やがて姓を世襲する氏(うじ)よりも氏が分裂した結果である家(いえ)で政治的地位が分れることに成って、氏(うじ)や家(いえ)との混同を経て自然消滅した。せい。
※24-1:公/君(きみ)とは、この場合、古代の姓(かばね)の一。主として継体天皇以後の諸天皇を祖とする「公」姓の13氏は天武天皇の時に真人(まひと)と賜姓され、八色姓(やくさのかばね)の第1等と成った。「君」姓の者は多く朝臣(あそん)と賜姓。

※25:租庸調(そようちょう)とは、唐の均田法下の税制。土地を給与された丁男(ていだん)(21~59歳)に対して課した現物税は粟2石、は元年20日間の力役が1日に付き絹3尺に換算されたもの、調は土産の絹2丈と綿(まわた)3両、又は麻布2.5丈と麻3斤。後、両税法がこれに代わった。日本でも大化改新以降に同様のものを制定。 →租。→庸。→調。
※25-1:庸(よう)とは、律令制の現物納租税の一。大化改新では、仕丁(しちょう)采女(うねめ)の衣食用として1戸に付き布1丈2尺・米5斗。大宝律令制定後は、唐の制度に倣って毎年10日間の歳役(さいえき)の代納物とし、成年男子一人に付き布2丈6尺、又は米6斗。奈良/平安時代を通じては、布1丈4尺、又は米3斗が一般。ちからしろ(力代/庸)。
※25-2:調(ちょう)とは、この場合、(「徴(ちょう)」と通ずる)律令制の現物納租税の一。大化改新では田の面積に応ずる田調と戸毎の戸調とがあった。7世紀末から唐制に倣(なら)って成年男子の人頭税とし、繊維製品・海産物・鉱産物など土地の産物を徴収した。分量は、例えば麻布・栲布(たえのぬの)の場合に一人当り2丈8尺。他に調副物(ちょうのそわりつもの)という付加税も在る。みつぎ(貢/御調)。

※26:徐福(じょふく)/徐芾(じょふつ)は、秦の始皇帝の命で、東海の三神山に不死の仙薬を求めたという方士。徐福は「史記」の「淮南衡山列伝」に、徐芾は「始皇本紀」に出て来て、同一人物と考えられる。日本の伝説では、渡来し熊野、或いは富士山に定住したと伝える。
※26-1:方士(ほうし/ほうじ、wizard)とは、神仙の術、即ち方術を行う人。仙人。道士。今昔物語集10「―と云ふは蓬莱に行く人を云ふなり」。
※26-2:三神山(さんしんざん)とは、[1].中国で、東方絶海の中央に在って、仙人の住むと伝えられた、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の3山の総称。三山。三島。
 [2].日本で、富士・熊野・熱田の3山。祝賀の画題とする。
※26-3:蓬莱(ほうらい)とは、この場合、[1].[史記秦始皇本紀]三神山の一。中国の伝説で、東海中に在って仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。蓬莱山。蓬莱島。
 [2].日本では、富士/熊野/熱田など霊山/仙境の称。蓬が島(よもぎがしま)。日本の場合は徐福伝説と結び付いてる場合が多い。竹取物語「東の海に―といふ山あるなり」。
※26-4:方丈(ほうじょう)とは、この場合、三神山の一つ。神仙の住むという、東方絶海の中央に在る島。方壺。懐風藻「此れの地(ところ)は即ち―」。
※26-5:瀛州/瀛洲(えいしゅう)とは、中国で、三神山の一つ。東海に在って神仙が住むと仮想された海島。日本の事に宛てても用いる。東瀛。

※27:真人(しんじん)は、[1].誠の道を体得した人。
 [2].道教では、最高の人格を備えた人。聖なる仙人。

※28:尉繚(うつりょう)は、中国戦国時代の兵家。大梁(河南開封)の人。兵書「尉繚子」5巻(又は2巻)の著者とされる。

※29:済州島(さいしゅうとう/チェジュード、Cheju-do)は、朝鮮半島の南西海上に在る大火山島。面積1840㎢。古くは耽羅(たんら)国が成立していたが、高麗に因り併合。1948年、南朝鮮単独選挙に反対する武装蜂起(四・三蜂起)の舞台と成る。付近海域はアジ/サバの好漁場。観光地として有名。周辺の島嶼と共に済州道を成す。

※30:半両銭(はんりょうせん)は、古代中国の銅銭円形方孔が有り、「半両」と記す。秦の始皇帝の統一に依り天下に普及。戦国時代から漢代まで使われた。

※31:鴆毒/酖毒(ちんどく、zhendu)とは、の羽に有るという猛毒。太平記[19]「命を―の為に縮めて」。
※31-1:鴆(ちん、zhen)とは、[1].伝説的な一種の毒鳥。その羽を浸した酒を飲めば死ぬと言う。
 [2].鴆酒に同じ。酖。
 [3].鴆毒に同じ。太平記[12]「―といふ恐しき毒を入れられたり」。
※31-2:鴆酒/酖酒(ちんしゅ、zhenjiu)とは、鴆毒を混ぜた酒。毒酒。

※32:警告色(けいこくしょく、aposematic coloration)とは、〔生〕一般に有毒/悪臭/悪味などで他に害を及ぼす動物の持つ、目立つ体色/紋様。スズメバチの黒と黄色のだんだら紋様など。他動物への警告的な信号とされる。無害な動物が擬態として持つことも在る。警戒色。


















※40:野蚕(やさん)とは、カイコガ(蚕蛾)以外に繭(まゆ)の繊維を糸に利用出来る種で、絹以外の糸を採り出す。主にヤママユガ科を指す。実用化してるのはサクサンヤママユ。←→家蚕。
※40-1:天蚕(てんさん)とは、ヤママユの別称。
※40-2:山繭/天蚕(やままゆ/ヤママユ、Japanese oak silk-moth)は、ヤママユガ科のガ(蛾)。黄褐色乃至暗紫褐色、翅に眼状紋と黒褐色の条が在る。大形で、開張約13cm。幼虫は淡緑色で、体長約8cm。クヌギ/ナラなどの葉を食い、黄緑色で楕円形の繭を作る。日本各地の山地に分布。ヤママユガ天蚕(てんさん)。山蚕(やまこ)。季語は夏。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>









    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『北斎漫画 1.江戸百態』(葛飾北斎著、和田京子編、青幻舎文庫)。全3巻(1.江戸百態、2.森羅万象、3.奇想天外)で4000枚に及ぶ北斎漫画を全て網羅して居ます。

△2:『新訂 梁塵秘抄』(後白河法皇撰、佐佐木信綱校訂、岩波文庫)。
△2-1:『別冊國文学・特大号 日本古典文学研究必携』(市古貞次編、學燈社)。

△3:『史記1 本紀』(司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫)。
△3-1:『史記列伝(四)』(司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫)。
△3-2:『史記列伝(二)』(司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫)。
△3-3:『史記列伝(五)』(司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫)。







△6:「ガイドブックに載らない京都」公式サイトの「葛野大堰 秦氏がんばる」。

△7:『日本史小百科 家系』(豊田武著、東京堂出版)。

△8:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△8-1:『日本書紀(三)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△9:『(総合)新世界史図説-十四訂版』(帝国書院編・発行)。

△10:『海東諸国紀』(申叔舟著、田中健夫訳注、岩波文庫)。







△14:『古代の虫まつり』(小西正巳著、学生社)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):京都洛西の地図
(京都の葛野大堰の「一ノ井堰碑」の位置を示す)▼
地図-日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):聖徳太子と関係濃厚な秦氏について▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
参照ページ(Reference-Page):生物の警告色について▼
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
補完ページ(Complementary):後白河天皇(法皇)について▼
備中鬼ノ城と温羅伝説(The GOD'S ROCK Kinojo and Ura legend, Okayama)
補完ページ(Complementary):養蚕や機織技術や七夕伝説を伝えた秦氏▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
補完ページ(Complementary):秦氏の姓が『史記』に載っている事や
四川省成都の都江堰や道教について▼
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)


佐賀県の鳥栖の地名由来▼
鵲(かささぎ)の故郷を訪ねて(Magpie's hometown)
「蚕の神」を祀る神社(=太秦の木嶋坐天照御魂神社)▼
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
京都桂川の色々な呼び名▼
2010年・京都樒原の棚田(Rice terrace of Shikimigahara, Kyoto, 2010)
葛野大堰が在った所(嵐山や渡月橋付近の大堰川(桂川)の光景)▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
京都嵯峨野の竹林▼
竹林の美(The beauty of BAMBOO grove)
河川を表す言葉として「河」という字は中国で良く使われる▼
河童考(About the Kappa, that is, water imp)
箕子朝鮮について▼
2001年・紅葉の中甸(Red leaves of Zhongdian, China, 2001)
羊水国家の日本について▼
温故知新について(Discover something new in the past)
中国の『宋書』から年代がはっきりしている雄略天皇▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
忌部氏について▼
忌部氏所縁の地を訪ねて(Visit the country where Inbe-Uji connected)
四国徳島の忌部氏の大麻比古神社▼
板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)
八色姓の最高位の姓(かばね)が真人(まひと)▼
日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)




大生部多の富士川での虫祭り▼
舞踏現象学(The DANCE phenomenology)

野蚕について▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)



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