備中鬼ノ城温羅伝説
[日本の神籠石・その1]
(The GOD'S ROCK Kinojo and Ura legend, Okayama)

-- 2010.12.14 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.02.02 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★

 ■はじめに - 脳出血で中断

 2010年12月12日(日)に私は予てから念願の備中鬼ノ城(きのじょう) -別名:鬼城(おにのき)岡山県総社市奥坂・黒尾- に遂に行く事が出来ました。「関西城郭研究会」(略称:関城研)のバス・ツアーに参加させて戴いて実現したものです。私の友人にして古代山城の師である河合延明さん -2007年に高句麗の山城を一緒に登りました- がこの会の幹事を務め、そんな関係から私も2、3回この会の城跡歩きに参加した事が有ったので、河合さんに連絡して予約を入れて貰ったものです。この日はその河合さんが講師を務めます。
 右が備中国の城郭地図です(△1のp689)。この日は朝8:30にJR三宮駅中央口で集合しチャーターした小型バスに27人が乗り込み鮨詰め状態で一路鬼ノ城に向かい、11:30に「鬼城山ビジターセンター」に到着。ここから徒歩で13:10頃迄、鬼ノ城山(標高397m)を一巡りしましたので凡そ1時間40分の遺跡巡りでした。
 この日はもう一つ備中松山城(備中高梁)の見学も組まれて居たので急ぎ旅と成り、山上での昼食は中止され松山城へ向かうバスの中での昼食に変更と成りました(←備中高梁に着いたのは14:30)。私が一人でトンボを追い駆けて山に登る旅ではメシなんか食わずに夕方迄歩き続ける事はザラなので、車中の昼食なんぞ屁の河童(※1)、メシが食えるだけでも有り難き幸せ、てなもんです。
 鬼ノ城 -何故「鬼ノ城(おにのしろ)」と呼ぶのか?、それは後のお・楽・し・み- は前から訪れたいと思って居た城ですが、岡山県総社市 -私は岡山駅や倉敷駅の周辺しか知らない- は「ソウジャって何ジャ!」てな感覚です。駅も知らない、道も知らないので今回の様に何処ぞのバス・ツアーに参加する以外に訪れるのは難しかったのですが、念願がやっと叶いました。天候にも恵まれました。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 鬼ノ城の最寄駅は一応「JR吉備線の服部駅、足守駅」らしいですが、ここから「鬼城山ビジターセンター」迄は平地を3km、山道が1km弱、凡そ1時間の歩きです。それを私の様に大阪の人間が、岡山に出て吉備線に乗り換えて更に1時間の歩きでやっと鬼ノ城の入り口です。大変な事が解って戴けるでしょう。しかし鬼ノ城の城郭の一部は車窓から見える(→後出)のです。

 御蔭で鬼ノ城を充分堪能出来ました。という事で2010年12月14日(火)から、このページをぼちぼちと書き始め鬼ノ城を皆で訪れた事を書いて居ました。

 ところが、私は2011年12月2日(金)21時15分脳出血で倒れ、以後11年12月初~13年2月中旬迄1年3ヶ月は病院等で入院・リハビリに専念し、13年2月18日にリハビリを終え、そして余生を沖縄(那覇市)で過ごす事に決めました。決断したら実行は早く、13年3月18日に沖縄に来て翌日には転入の手続きを済ましました。斯くて2013年3月19日(火)から晴れて沖縄の人(ウチナーンチュ)に成りました。脳出血から沖縄の人に成る迄の経過は▼下▼を参照して下さい。
  2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)

 以上の様な訳で、このページ作りには約4年間の中断 -環境の変化が大きい(大阪→沖縄)- が存在しますが、沖縄に来て幾つか本を出版し、腰を落ち着けて残りを仕上げましたので、是非ご覧下さい。
    {この段は2014年12月10日に追加}

 ■神籠石系山城の鬼ノ城を巡る

 ところで、タイトルからも解る通り鬼ノ城は神籠石(こうごいし)系の山城です。神籠石系山城については
  神籠石とは?(What is the GOD'S ROCK in Japan ?)

をお読み下さい。要するに普通の古代山城とは異なる点が在るのです。神籠石系山城の特徴、或いは謎は、古代山城(=朝鮮式山城)は『日本書紀』とか『続日本紀』に載って居るのに、神籠石系山城は一切文献に載って無いのです。この鬼ノ城など規模は大きいにも拘わらず、です。この問題は上の「神籠石とは?」を見て下さい。
 尚、<鬼城山の地図(ポンチ絵)>は鬼ノ城を見終わった後で出て来ます。

 (1)鬼ノ城巡り

  (1)-1.西門

 11:33~11:54。鬼ノ城は東西南北に4つの城門 -何れも掘立柱城門(←柱の根を直接に地に埋め立てた城門)- が在り、我々は西門から反時計回りに巡りました。
 先ずは西門跡からです。左下が遠景、右下が近景です。


 岡山県か総社市か知りませんが、”こんな漫画チックな物”(右の写真)を西門跡に造って仕舞いとんでもない事をしてくれます。ここに西門跡が在った事は発掘調査から明らかに成りましたが、未だ西門の形迄は解らないので困りますね。却ってこれに因り変な先入観が出来て仕舞います。

        (>_<)

 私は西門で気分を害しました。
 現地説明板(総社市教育委員会)に拠ると、西門は幅12.3mで中央の4.1mが通路で奥行きは8.2mです。これを12本の柱で支える為に1辺60cm角の柱を2mも埋め込んでいるそうです。これは古代山城で最大の大宰府大野城の幅8.85mの門より大きいと書いて在ります。更に頂上部から斜面に変わる辺りに鉢巻式の城壁がぐるっと山を取り巻き、その長さは周囲2.8km、城壁の下幅7m、上幅6m、高さ6mです。城壁に囲まれた面積は30haにも及びます。城壁は土を少しずつ入れ突き固めた版築土塁(※2、※2-1) -従って土城(※2-2)です- で、要所の6ヶ所には高石垣を築いて居り、その他は城壁上面は板塀が巡らされて居ます。又、途中には幾つかの水門が在ります。この辺りに朝鮮の築城技術が応用されているかも知れません。

  (1)-2・第1~第2水門、高石垣

 12:00~12:14。左下が第1水門(14.6m)で、右下が第2水門(16.4m)と説明板です。


                         第2水門 説明板
                            ↓↓
 右が第2水門(小さいので解り難いですが)と土塁(※2-1)です。


               城壁通路→


 説明板に拠ると、水門は水流・水圧に耐える様に石積みにし、上端に通水口を設け上部は版築土塁です。更に城外側に幅1.5mの敷石通路を設けて居ます。
                      └─────┬──────┘
                            土塁
 

 私たちが進む先には高石垣が小さく見えて居ます(左下の写真、望遠)。そして南の方向は視界が開けて居ます(右下の写真)。


 先程見えていた高石垣に着きました(左下の写真)。
 私は高石垣を降りて、高石垣を側面から撮ったものです(右下の写真)。石積みが逞しく大変見事です。


 高石垣を過ぎ左の様な城壁に沿った道を暫く歩くと間も無く南門です。
 

  (1)-3.南門

 12:16~12:19。そして、南門跡に着きました(左下の2枚)、右下は現地説明板の南門跡の図より。



 南門跡には左の写真の様に高石垣も在り、背後には東部方面の山麓の景色が見えて居ます。
 説明板に拠ると、南門は一辺が55cmの角柱を12本使用した掘立柱城門です。城門の中央には巨石を敷き詰めた通路と7段の石段(←左の上段の写真)が良く残って居ます。幅12.3m、通路4m、奥行8mです。南門と西門は規模や構造が共通し同一の設計思想で出来て居ます。

  (1)-4.南門から「屏風折れの石垣」へ

 12:22~12:25。次に移動ですが、岡山空港(岡山市日応寺)を離陸した飛行機(←未だ上昇中)が東北の方角に見えました(左下の写真)。岡山空港は岡山市中心部 -JR岡山駅- からは可なり奥まった所(←直線距離で14km)に在り、高速道路で15分位か。
 中央下の写真の様な城壁に沿った道を歩きます。この日は天候が良いので気持ち良いです。右下の写真の様に「S字」に成って居る所も在り、城壁の一部が見えて居ます。この写真はバック方向で撮りました。

    城壁の一部 S字路
        ↓ ↓


                     向こうの高石垣
                          ↓

 そして高石垣です(右の写真)。良い眺めです。


       向こうにも高石垣が見える→


 写真の左の人は何を撮って居るのでしょう??、向こうにも小さく見えて居る高石垣が在ります。
                         ↑
                    こちらの高石垣

  (1)-5.屏風折れの石垣

    {2010年12月14日に書き始めた当ページの原稿は、最初に書いた通り私の脳出血の為、ここで約4年間中断しました。以下は2014年12月10日に追加記事を書き始め、2015年2月2日に最終更新しました。}

 12:26~12:38。前の小父さんが撮って居た高石垣はこれで、約1km弱の前方に「屏風折れの石垣」が見えて居ます。この高石垣は90度湾曲して居り、それを「屏風折れ」と呼んで居る訳です。私はあんな西門跡では無く、この「屏風折れの石垣」こそ鬼ノ城最大の見せ場だと思って居ます。

    湾曲(屏風折れ)
      ↓
 ところで、左の写真を撮った後で移動しますが、そこに大きな岩に彫った磨崖仏が在りました(右の写真)。
 鬼ノ城は平安時代に山岳仏教(※3)が盛んに成ったそうです(→後で説明在り)。絵の左側に「五番」と彫って在りました。
 

 私たちは「屏風折れの石垣」を見乍ら進むと、「屏風折れ」が良く解る絶好の撮影スポットが在りました(下の写真)。ご覧の様に大きな石の石積みは実に雄大です!!


 「屏風折れの石垣」に着きました(下の2枚)。「立入禁止」の札が在ります。高石垣を上から覗き込むと足が竦(すく)む様な感じに成ります。実に壮観です!

 その近く「屏風折れの石垣」と「鬼ノ城」の説明板が立って居ました(下の2枚、右下は説明板部分の拡大)。

 「屏風折れの石垣」の説明板は、「屏風折れの石垣」血吸川の急崖上に舌状に構築されて居り内側列石や敷石が残って居るので、建築物は存在しなかったと考えられる、と記して居ます。
 一方「鬼ノ城」の説明板には、鬼ノ城一帯は平安時代に新山や岩屋と共に山岳仏教(※3)が栄え大伽藍が建ち西方教化の拠点と成った、と在ります。先程の磨崖仏がそれです。


  (1)-6.温羅舊跡の碑

 12:43。そして「屏風折れの石垣」から5分程山の内部に入る温羅舊跡(温羅旧跡)の碑が立って居ます(右上の写真)。
 「鬼ノ城」の説明板には温羅 -読みは「うら/おんら/おら」など様々- についても少しだけ触れて居ますが、実は温羅はとされて居て、この山を何故「鬼ノ城(きのじょう=おにのしろ)」と呼ぶのか?、はその為です。
 温羅については次章で詳しく記します

  (1)-7.北門

 12:44~12:53。

 温羅舊跡の碑から左右の様な山の内部の道を通って北門に向かいました。

 12:51に北門に着きました。下の3枚が北門跡の写真です。4つ在る門の内、唯一背面に在ります。その背面の山が見事です(右下の写真)。
 左下の写真と右下の写真との位置関係は、北門の通路の位置から判断して下さい。即ち左下の写真は門を側面から撮っているのに対し、右下の写真は門を内側正面から撮って居ます。
 北門は現在整備中で工事用テントが見えてます。門の内側の通路床面と門の外側は2m位の段差が有り -この様な門を縣門(けんもん)と言う- 、これに依り外的の侵入に対し抵抗に成ります。現在この縣門に斜面を付けて人が通り易い様にして居ます。門柱は本柱のみ角柱で他は丸柱です(左下の写真)。

        角  角
        柱  柱
        ↓  ↓







北門の通路
─┐
┐│
││斜
││面
││             │ 北 │
               │ 門 │
               │ の │
               │ 通 │
               │ 路 │
↑ ↑  ↑
丸 丸  丸
柱 柱  柱

    ┌──────斜面
    │ 通路 ┌─ を付けている

 西門・南門に比べると北門・東門は小規模です。通路床面には大きな石を敷いて居ます。又、床には排水溝が設けられて居ます(左の写真)。

  (1)-8.礎石建物跡


 13:04~13:06。最後に礎石建物跡を見ました。建造物の柱の礎石ですね。左右と左下の写真がそれです。
 左の写真に「礎石建物跡」と書いた案内板が写って居ます。

 左の写真で歩いてる人が冒頭で紹介した河合延明さんです(その拡大が中央)。
 今日一日御苦労様でした、そしてどうも有難う御座居ました(←本当はこの後、備中松山城の案内も在るのですが、それは省略)。
 以上の様に、それぞれのスポットでの所要時間で解る通り大変急ぎで鬼ノ城を巡りました。最後にこの日巡った<鬼城山の地図(ポンチ絵)>を▼下▼に記します。鬼ノ城は神籠石のパターンが典型的な鉢巻式で、鉢巻がぐるっと山を取り囲む様に城壁を形成して居ます。

    <鬼城山の地図(ポンチ絵)>

                      北
                     _門___
               神籠石  / □   \
                ↓ _/       │
  鬼城山          __/         │
   ビジターセンター __/     ●礎石建物跡 \
      \  ┌─/                \
       \ │           温羅舊跡の碑● \
        \│ ▲鬼城山(397m)         ●─┘
         └□_/◎─◎__          │屏風折れの石垣
          西  第 第  \        / (高石垣)
          門  1 2   ●     _□
             水 水 高石垣\□__/ 東
             門 門     南    門
                     門

    {「屏風折れの石垣」~ここ迄の節は2014年12月10日に追加、2015年2月2日に最終更新}

 (2)JR吉備線から見える鬼ノ城

 鬼ノ城はJR吉備線の東総社駅・服部駅・足守駅間で車窓から見ることが出来ます。但し望遠で撮らないと画像は物凄く小さいです。私のデジカメはFinePix-S8000fdという機種で、光学ズームを最大の18倍(約486mm望遠レンズに相当)の望遠で撮影しましたが威力を発揮して呉れました。
 私は鬼ノ城を登る何年も前から城郭の一部が車窓から見える事は知って居ました(その事は冒頭に記しました)ので、今回写真に撮ることを思い付いた訳です。

                    西門
                    ↓
 2011年4月1日(金)に鳥取方面から帰る途中に総社駅で態々(わざわざ)伯備線から吉備線に乗り換えて鬼ノ城を撮りました。時刻は17:10頃、多分東総社駅~服部駅間から撮ったものです。
 これは西門です。西陽を浴びて輝いて見えます。
    {この節は2015年2月2日に追加しました。}

 ■温羅伝説と吉備津彦 - 桃太郎伝説の原型

 (1)吉備津彦の温羅退治

 吉備津彦命(本名:彦五十狭芹彦命、孝霊天皇の皇子)の温羅退治とは、古代吉備地方(※4)に温羅(うら)と言う鬼(※5) -鬼というのは、そもそも”服わぬ者”や異民族(※5の[2])を指す場合が多い- が住んでおり、この鬼ノ城を拠点にこの地方で悪行を重ねて居ました。吉備の人々が都へ出向いて窮状を訴えると、時の崇神天皇四道将軍(※6)の吉備津彦命(※6-1)を吉備地方に派遣しました。命(みこと)は現在の吉備津神社(※7、※7-1)の地に本陣を構えました。因みに、ここは備中国賀夜郡(→後出)です。
 命は温羅に対して最初は矢を1本ずつ射ましたが岩に呑み込まれました(←矢喰神社(岡山市高塚)が在る)。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜きました(←温羅の眼から流れた血が血吸川に成ったと言う)。すると温羅がに化けて逃げたので命はに化けて追い、更に温羅はに身を変えて逃げたので(←鯉喰神社(倉敷市矢部))、命はに変じて追い、遂に温羅を討ち捕り鬼(=温羅)を退治しました。
 尚、吉備津神社や矢喰神社・鯉喰神社・血吸川の地図は後で出て来る<鬼ノ城と吉備津神社・吉備津彦神社の位置関係図>を参照して下さい。
 これが話の概要です。そもそも何故「鬼ノ城(おにのしろ)」と呼ぶのか?、その「鬼」の名前が「温羅」なのです。尚、崇神天皇や吉備津彦の時代とは4世紀初頭と私は考えて居ます。

 (2)吉備地方に伝わる温羅の伝承 - 温羅伝説の形成

 日本の正史とされる『日本書紀』には吉備津彦について、崇神紀10年に大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。因りて詔して曰はく、「若し教(のり)を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬を授(たま)ひて将軍とす。」と、実に簡単に四道将軍派遣の詔(※6)が在るのみ(△2のp286)で、温羅の話は全く出て来ません。温羅の様な「教(のり)を受けざる者」兵を挙げて伐たれた[のであろう]、只そう思わせるだけです。
 正史に載ってない人物は地元の伝承に頼る以外有りません。そこで吉備地方に伝わる温羅の伝承を見てみましょう。吉備津神社に伝わる縁記などに拠れば、温羅は百済から飛来した渡来人と言い、後に百済の王とされ、つまり朝鮮半島の渡来人ですね。それが鬼ノ城の岩屋の洞窟に住む事で、”服わぬ者”即ち異民族の条件を早くもクリアします。後は尾鰭が付いて1丈4尺(約4.2m)の大男・空を飛ぶ・怪力・眼は爛々と輝き髪や髭は伸び放題・大酒飲みetcと成り、段々との相貌が付与されて行きます。

    ◆真金吹く吉備

 一説に拠ると、温羅は先進の製鉄技術を持った渡来人グループのリーダーとされます。吉備地方が古代に於いて製鉄、即ち踏鞴(たたら)(※8~※8-3)が盛んで在った事は「真金吹く吉備」(※8-4~※8-5) -「真金吹く」とは吉備・丹生に掛かる枕詞- から推測出来ます。踏鞴とは要するに「足で踏み込む大きな鞴(ふいご)」(※8-1)です。古今集-巻20の「神遊びのうた」には

    まがねふく 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
                            よみ人しらず
        この歌は承和の御(おほん)べの吉備の国のうた


という歌が在り(△3のp253)、「承和の御べ」とは仁明天皇の大嘗会(だいじょうえ)です。細谷川備前国と備中国を隔てる川(→後出)です。又、この歌も後で登場します。
 温羅の妻・阿曽媛の出身地の阿曽郷 -鬼ノ城山東麓、現在「西阿曽」「東阿曽」の地名が残る- からは踏鞴跡が多数見付かって居ます。そもそも阿曽媛は阿曾郷の祝(はふり)の娘(※9、※9-1)だったと言い、即ち巫女(みこ)です。

                (-_*)

 さて鬼退治ですが、討たれた温羅の首は時々唸り声を上げるので命は首をに食わせましたが静かには成りません。そこで今の御釜殿の下に首の骨を埋めましたが効果無し。或る日の事、命の夢に温羅が現れ妻の阿曽媛に御釜殿の神饌を炊かせる様に告げ、命がその通りにすると唸り声は治まりました。そして温羅は吉凶を占う存在と成ったのです。これが吉備津神社に伝わる鳴釜神事(※7-2) -釜を鳴らすのが- の由緒です。以来、吉備津神社の釜は阿曽郷の鋳物師 -阿曽郷は鋳物師の町- が造り、御釜殿の巫女を阿曽女と言いますが、これは温羅の妻・阿曽媛の具現化です。
 所縁の地には矢喰神社・鯉喰神社・血吸川が在る事は既に述べました。鬼ノ城山南麓を流れる血吸川が赤いのは鉄錆の色と言われて居ます。
 一説に拠ると、吉備津彦は最初は彦五十狭芹彦命という本名で温羅と戦って居たのを、温羅が死ぬ時に温羅から吉備津彦という名を譲られたという話も伝わって居ます。
 温羅伝説はこうして形成され、鬼(=”服わぬ異民族”)・古代製鉄・阿曽郷・吉備津神社の鳴釜神事と密接に関わって居る事が解ります。

 (3)桃太郎伝説の形成

 一方の吉備津彦は、温羅の首を食った犬のモデル(犬飼武命)、鷹・鵜に変じて逃げる温羅を追った雉のモデル(留玉臣命(とめたまのみこと))、地元の知将で猿のモデル(楽々森彦命(ささもりひこのみこと))と、犬雉猿の家来分が出来て着々と桃太郎伝説(※10)が形を成して行きます。猿のモデル(楽々森彦命)は娘を吉備津彦命に嫁がせました。こうして吉備地方では吉備津彦命が桃太郎伝説の原型(=モデル)とされて居ます。そして1月3日に行われる矢立神事は命と温羅の弓矢の合戦を模して居て、これも桃太郎に因みます。
 ところが、岡山の対岸の鬼無(きなし) -香川県高松市鬼無町、JR予讃線鬼無駅は高松から2つ目の駅- では桃太郎は吉備津彦命の弟・雅武彦命(※6-2)とされ、舞台は高松港の北北西5km程に浮かぶ女木島(めぎじま) -別名を鬼ヶ島、洞窟状の採石跡が在り鬼の棲み家に相応しい- です。鬼ヶ島から村に来て悪さをする鬼たちを桃太郎が鬼ヶ島に攻め入り一旦は懲らしめますが、再び村に来たので全滅させ葬った所が鬼ヶ塚で、それ以来この地が「鬼無(きなし)」と呼ばれた、という話です。私は05年に鬼無を通って居ますので▼下▼をご覧下さい。
  2005年・四国各駅停車の旅(Travel of Shikoku by local train, 2005)

 桃太郎伝説が形作られたのは室町時代前期頃とされて居ます。岡山県だけでは無く、愛知県犬山市など桃太郎伝説は他の地方にも在ります。そして桃太郎伝説は少しずつ形を変え位相をずらし乍ら各地に伝承されて居ます。

    ◆桃太郎説話の構造 - 主題の複合と交叉

 ここで子供時代の記憶を思い出すと、桃太郎説話は「昔昔、或る所にお爺さんとお婆さんが住んで居ました。お爺さんは山に柴刈りにお婆さんは川に洗濯に、...<中略>...或る日お婆さんが川で洗濯をしていると、どんぶらこどんぶらことが流れて来るので、お婆さんはそれを持って帰りました。すると或る日、桃の中から小さな赤ん坊が生まれました。二人はから生まれたので桃太郎と名付けました。桃太郎はどんどん大きく成長し到頭立派な若者に成りました。その頃、鬼ヶ島では鬼が人を食い悪事が絶えないので人々は恐れて居ました。桃太郎はこの話を聞くと、お爺さんとお婆さんに育ててくれたお礼に、「自分が鬼を退治してやろう」と言いました。お婆さんは黍団子(吉備団子)を作り、お爺さんはそれを桃太郎の腰に付けて送り出しました...<後半略>...」と、大体この様な内容だったと思います。私は何故か「どんぶらこどんぶらこ」という擬音が印象に残って居ます。皆さんは又違った内容かも知れませんね、桃太郎の場合、話のヴァリエーション(variation)が数多く存在するのです。
 そして「桃」(※10-1)も重要な要素なのです。【脚注】に在る様に桃は中国原産で、しかも中国神仙思想では古来から桃の木には「邪気を祓う力が有る」とされ「伊邪那岐命の冥界下り」の話に桃が登場するのは有名です(△4のp26~28)。桃太郎は「瓜」や「りんご」からでは無く、「邪気祓い」の御蔭を蒙る為に「桃」から生まれる必要が有ったのです。「邪気祓い」や「不老長寿」の桃については2004年に既に▼下のページ▼の中で詳しく述べて居ますので、参照して下さい。
  大阪城の桃の花(Peach blossoms of Osaka castle)

 桃太郎説話の源流を辿ると以上の様に、中国神仙思想を始め、少彦名神や一寸法師の「小さ子物語」(※11)、かぐや姫や瓜子姫の「偉人変身譚」、酒呑童子の「鬼物語」 -初めに述べた様に鬼には”服(まつろ)わぬ者”の要素が在る- など、他の御伽話と重なり合う幾つかの主題(テーマ)を含み(←主題の複合と交叉)、室町時代には話の内容(ストーリー)が今日在る形に固まって行ったものと考えられます(△5のp35、39~43)。室町時代は『御伽草子』的な童話や御伽話が数多く生まれた時代でした。

    ◆文部省唱歌『桃太郎』

 もう一つ、桃太郎には童謡(厳密には文部省唱歌)が在ります(△6のp166~167)。これは1911(明治44)年の尋常小学唱歌です。因みに、岡野貞一は『故郷(ふるさと)』『春の小川』『紅葉』『おぼろ月夜』などを作曲した唱歌界の大作曲家です。

    <文部省唱歌『桃太郎』 作詞:不詳、作曲:岡野貞一>

  1.桃太郎さん 桃太郎さん
     お腰につけた黍団子
      一つわたしに 下さいな

  2.やりましょう やりましょう
     これから鬼の征伐に
      ついて行くなら やりましょう

  3.行きましょう 行きましょう
     あなたについて何処までも
      家来になって 行きましょう

  4.そりゃ進め そりゃ進め
     一度に攻めて攻めやぶり
      つぶしてしまえ 鬼が島

  5.おもしろい おもしろい
     のこらず鬼を攻めふせて
      分捕物(ぶんどりもの)を えんやらや

  6.万々歳 万々歳
     お伴の犬や猿雉子は
      勇んで車を えんやらや

 私の世代はこの歌は皆知ってましたよ、それ程良く歌われました。私など黍団子(吉備団子)(※12~※12-2)を実際には食った事無いのに食った気に成るのはこの歌の所為でした。私は子供心に、桃太郎も黍団子を持って無ければ誰も家来になんか成らないだろう、などと考えて居ましたね。即ち私はギブ・アンド・テイク(give and take)の関係をこの歌から学びました。
 尚、桃太郎の【脚注】※10に「忠孝勇武の徳」と在りますが、この唱歌の4番以降の歌詞はちょっと行き過ぎてますね。事実この歌は太平洋戦争の間には国威発揚の為に歌われた、と後で知りました。

 (4)「温羅は渡来人製鉄グループのリーダー説」は有力な説

 こう見て来ると、「温羅は先進の製鉄技術を持った渡来人グループのリーダー」という説が可なり現実味を帯びて来ます。吉備地方は古代製鉄の踏鞴(たたら)が非常に盛んな地域(※8-2)でした。
 私は「温羅が吉備津彦の夢に現れた」という箇所は、朝鮮半島系渡来人(+先住民系日本人)の首領・温羅と大和政権の討伐軍との「裏取引」が在ったのでは?、と考えます。そのストーリーの概略は、製鉄グループの首領・温羅(及び幹部)が討伐軍に捕らえられ(←この時は既に温羅の仲間は大多数が殺されて居たでしょう)、「妻の阿曽媛に御釜殿の神饌を炊かせる様告げ」たというのは即ち、部下たちが大和政権の為に製鉄技術を開示するので自分の命と引き換えに部下たちの命を助けてくれ、言ったのです。「神饌を炊かせる様告げ」たという事は即ち、部下たちは”飯が食える”=”助かる”事を意味して居ます。実際に先進の製鉄技術を日本人に伝える為には渡来人技術者は最低数は生かす必要が有ります。又、こうした経緯から吉備地方には朝鮮半島系渡来人が可なり住み段々日本人と混血して行ったであろう事は容易に推測出来ます。
 先程「御釜殿の巫女を阿曽女と言いますが、これは温羅の妻・阿曽媛の具現化です」と述べましたが、この様に鳴釜神事には製鉄に関する秘密が隠されて居ると私は考えます。
 製鉄技術が如何に重要かは、その後の歴史を見れば明らかです。古代製鉄から時代が下り、刀工の世界では備中物(※8-6)とか青江物(※8-7)という言葉が在りました。備中物とは備中の刀工が製作した刀の総称ですが、これは「真金吹く吉備」の刀工の鍛冶の技術が高い事を表すと同時に備中から産する鉄の質が高い事をも表して居るのです。
    {この章は2014年12月10日に追加、2015年2月2日に最終更新}

 ■文学に引用されてる鳴釜神事や温羅

 (1)『雨月物語』の「吉備津の釜」 - 上田秋成

 鳴釜神事は上田秋成(※13、※13-1)の浪漫的香り高い怪異小説『雨月物語』(※13-2)の中の「吉備津の釜」(△7のp69~80)に出て来ます。物語は、昔は武家でしたが今は零落(おちぶ)れた吉備国(※14)の百姓のドラ息子・正太夫と吉備津神社の神主の娘・磯良とが結婚することに成り準備万端整いましたが、神主は念には念を入れ最後に「御釜祓」(=鳴釜神事のこと)をしたら釜は全く鳴らず、即ちと出ました。しかし神主の妻は「それは祝部たちが身を清めなかったからで、もう結納も取り交わしたので今更破談に出来ない」と言って、御釜祓の結果は忘れ去られました。
 生まれついての色好みの性分は結婚したら直るというものでは無く、ドラ息子は遊女を見受けして家を飛び出して仕舞い、磯良はドラ息子と遊女の為に献身しますがその甲斐も無く、やがてドラ息子を恨む様に成り到頭病に伏して仕舞いました。
 一方ドラ息子は遊女の郷里の播磨国印南野に引っ越します -家を世話したのは遊女の従弟の彦六- が、そこで遊女は苦しんで死んで仕舞います。磯良もその頃恨み乍ら死に怨霊に成ります。ドラ息子は彦六に相談すると陰陽師に禊をして護符を貰う様に言われ、陰陽師の所へ行くと死霊は7日前に死んだので後42日は死霊封じ -死霊は49日間中有(※15、※15-1)を彷徨(さまよ)うと言われる- が必要と言われ護符を要所要所に貼ります。そして愈々42日目の未明、彦六が「もう終わった」と思い戸を半ば開けた時、磯良の怨霊が入り込み開けた戸口の傍の壁から血が滴り落ちドラ息子の髻(もとどり)(※16)だけがぶら下がって居た、という怖~い話です。鳴釜神事のという結果がずっと生きていたという事ですね。
 吉備津神社の神主の娘・磯良は何と無く安曇磯良を思い起こして仕舞いますが、東北地方では磯良は河童と混同されて居ます。

    ◆上田秋成と大坂の加島神社

 秋成は4歳で大坂の紙油商の上田家の養子に成り、5歳の時に重い痘瘡(=今の天然痘)(※17~※17-2)に罹り、養父母は大坂北部の加島稲荷(或いは加島神社)に熱心に祈願し一命を取り留め「68歳の寿命を与える」 -秋成は76歳迄生きた- との神のお告げが在ったと伝えます。しかし痘瘡の後遺症で右手の中指と左手の人差指が異常に短く成って仕舞いました。秋成はこの時の「神の秘蹟」を信じ、それが作品の神霊や怪異の基に成っている様に思われます(△7のp255~256)。まぁ、今日的な信仰宗教に嵌まらず加島稲荷で良かったですね、ワッハッハ!
 彼が加島稲荷の「神の秘蹟」を信じてた事は『加島神社本紀』を書いて居る事からも解ります(△7-1のp263~276)。これは秋成が加島神社の祭神五座(保食神・天照大御神・倉稲魂神・埴山姫神・稚産霊神)について記紀等の文献で考証したものです。この中の保食神(※18)・倉稲魂神(※18-1)が稲荷神社と呼ばれる所以です。この神社は名前が色々変わって居て、加島神社・加島稲荷・稲荷神社etc、そして今は香具波志神社(かぐはしじんじゃ)です。住所は大阪市淀川区加島4丁目で元々は加島村の村社です。
 『摂津名所図会』には「稲荷神祠(いなりのやしろ)」と在り、

 「加島村にあり。此邊の生土神(うぶすながみ)とす。例祭九月二十三日。土人曰く、神主加島権現は狐狸の鬼犯人(つきもの)を除くの術を得たり。世に名高し。」 

と出て居ます(△8のp375)。秋成の養父母は痘瘡を「狐狸の鬼犯人(つきもの)」と見做したのでしょう。加島稲荷は当時こうした祈願や祈祷が良く行われて居たものと思われます、「世に名高し。」と書いて在ります。
 同じページに「加島鍛冶」について、

 「むかし加島鍛冶千軒とて、加島一村ことごとく鍛冶戸なり。今僅一両軒のみあり。」

と在ります。フーム、加島は鍛冶屋の町だったのですね。古代製鉄の話の中で鍛冶の話が出て来ましたので、何か因縁を感じます。
 「上田秋成寓居跡の碑」が境内に在りますが、秋成は1773(安永2)~75年迄この地に住み医者を開業しました(△7のp258)、「神の秘蹟」の思い入れが強かった事が解ります。

                (-_*)

    ◆本居宣長に論争を挑む秋成の思想性

 秋成は古代の音韻とか記紀に詳しく、日神(=天照大神)について本居宣長(※13-3)と論争をして居ます。宣長は皇国思想に気触れていて、秋成はそれを批判して居る訳です(△7-1のp453)。秋成という人は只の作家では無くそこに思想が有り学者的で、本居宣長の様な大学者とも論争を交わして仕舞う「奇異のくせもの」(←与謝蕪村の言)です(△7のp256)。先程の『加島神社本紀』など完全に学者の仕事です。この論争について興味有る方は『呵刈葭(かがいか)』(本居宣長著)(△7-1のp189~250)を是非お読み下さい。更に秋成の主張を知りたい方は『上田秋成の答書』(上田秋成著)(△7-1のp251~262)や『安々言(やすみごと)』(上田秋成著)(△7-1のp13~52)などをお読み下さい。尚、私も秋成と宣長の論争については掲示板の議論で少しだけ触れて居ます
 尚、『呵刈葭』の意味ですが、宣長が『呵刈葭』の最後で次の歌(←全部「清音」で詠んでます)を詠んで居る所から付けた表題です(△7-1のp250)。

    清めおく 道さまたけて 難波人
      あしかる物を とかめさらめや
       宣長
        上田秋成は大坂の人也。


 即ち、「葭(あし)を刈るのを呵(しか)る」意味で、「あしかる」が「葭刈る」と「悪しかる」の掛詞(※19)に成って居るという、宣長の洒落です(△7-1のp450)、宣長も中々遣りますね。しかし歌からは中央の大学者が地方のくせもの(=難波人)を馬鹿にしている態度も窺えます。
 又、蕪村の句に

    梅咲ね どれがむめやら うめじゃやら     与謝蕪村

というのが在ります(△9のp16)が、これは宣長が『字音仮字用格』に「ン音」を「む」と発音する事を主張し秋成と論争に成った事を、蕪村独自のユーモア感覚でからかったものです。

 さて、上田秋成の思想に関しては難しいのでしませんが、一つだけ。これは前に記した事ですが、私が好きな万葉歌として『万葉集』巻7-1160の歌

    難波潟 潮干に立ちて 見わたせば
      淡路の島に (たづ)渡る見ゆ
        詠み人知らず

を紹介しました(△10のp290)。この時は知らなかったのですが、後で上田秋成の『春雨物語』の「歌のほまれ」を何気無く開いたら、そこには鶴(たづ)を詠んだ歌が幾つか載って居て、その中に私の好きな歌として挙げた上の歌も載って居り「歌よむはおのが心のまゝ」に詠むのが良いと付記して在ったのです(△7-2のp63~64)。秋成が私と同じ歌を推挙しているのと、この「おのが心のまゝ」という言葉に私は強く感銘を受けました。そして今、秋成は歌を詠む時だけでは無く自分の主張も「おのが心のまゝ」に行って居るのでは、と思いました。そう成ると「おのが心のまゝ」は秋成の思想性を表す言葉にも成る訳です。晩年は京都に住みました。

                (*_@)

 (2)『梁塵秘抄』の吉備津宮 - 後白河法皇

 『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると、今様集の『梁塵秘抄』(※20~※20-5)に

    一品聖霊吉備津宮、新宮本宮内の宮、隼人崎、
      北や南の神客人、丑寅みさきは恐ろしや。


という今様歌が載って居ます(△11のp53)。吉備津宮とは鳴釜神事の吉備津神社(→後出)のことです。「丑寅みさき」とは「温羅の魂」の事だそうです。因みに、「丑寅」は鬼門の事、「みさき」は「御先神(みさきがみ)」(※21)の事です。丑寅みさきは恐ろしや」とは祟(たた)り神のことを言ってるのでしょうか。
 『梁塵秘抄』には吉備津宮を詠んだ歌に

    関より西なる軍神(いくさがみ)、一品中山安芸なる厳島、
      備中なる吉備津宮、播磨に広峯惣三所、
        淡路の岩屋には住吉西宮。


というのも在ります(△11のp50)。

    ◆院政と今様 - 後白河法皇の特異な才能

 『梁塵秘抄』の撰者の後白河法皇(※20-6)は院政(※22~※22-2)を敷き、源平の平清盛/源義仲/源頼朝/源義経らを手玉に取った”鵺(ぬえ)”の様な御仁です。院政とは天皇の位から降り自らは上皇とか法皇と呼ばれ「形の上では引退して置き乍ら、その実は天皇を傀儡化し実権力を握るという、政治の高等テクニック(high-level technique of politics)を駆使した人です。この”鵺”に因って無力化(=傀儡化)された天皇は【脚注】※20-6に在る様に、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代に亘ります。
 因みに、今の皇室制度では天皇は生前退位は出来ない、つまり崩御に依って皇太子が世継ぎをするしか道は無いのですが、それもこれも院政の弊害を蒙らない為なのです。

 一方、後白河法皇は今様(※20、※20-1)が好きで庭内で良く今様を歌う会を開いて居ました。今様というのは声を出して歌うのです。後白河法皇は大変美声 -今のバリトンの名歌手と言った所- で今様の弟子も沢山居ました。『梁塵秘抄』の「梁塵」(※20-3)が優れた歌謡・音楽を表して居るのはその為です(△11-1のp119)。
 有り余る才能と生命力、そして権謀術数が非常に好きな「特異な権力者」 -やはり精神分裂気味ですね、これは天才に多い- は65年の波乱の生涯を掛け抜けました。後白河法皇は能にも登場し、『大原御幸』(※23、※23-1)では彼が大原寂光院に閑居している建礼門院を訪ねるという設定(△12のp148)で、ここでも後白河法皇は存在感を示して居ます。

                (-_-)

 後白河法皇の文学方面の才能は第3皇女に受け継がれ、歌人として名高い式子内親王(※20-7)がその人です。『小倉百人一首』89番歌に彼女の歌が載ってます。

    玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
      忍ぶることの 弱りもぞする
       式子内親王

 彼女は又、賀茂神社の斎院(※24)も勤めた為に賀茂斎院とも呼ばれました。
    {この章は2014年12月10日に追加、2015年2月2日に最終更新}

 ■吉備津彦神社と吉備津神社

 ところで、私は2007年1月13日(土)

  吉備津彦神社(岡山県岡山市一宮)(※7-3):備前国一の宮
    JR吉備線「備前一宮駅」から直ぐ)
  吉備津神社(岡山県岡山市吉備津)      :備中国一の宮
    JR吉備線「吉備津駅」から徒歩10分、吉備津彦神社から徒歩25分、
      鳴釜神事が有名、吉備津彦の陵墓とされる古墳が在る)

に行って来ました(△13のp298~301)ので、その訪問記をここに書きましょう。
 2つの神社は2km位しか離れてなく徒歩で25分位です。ここで<鬼ノ城と吉備津神社・吉備津彦神社の位置関係図>を▼下▼に示します。冒頭の備中国の城郭地図と共に参照して下さい。

    <鬼ノ城と吉備津神社・吉備津彦神社の位置関係図>

   │
   │ ●備中松山城
   □備中高梁
    \
   伯 \       鬼ノ城
    備 \       ●
     線 \     ・ ・
       │    ・  |・ 備中高松城
       │    ・  |・  ●    吉備線
     総社□────□──□──□─────────□吉備津
       │    服部 |足守 備中高松 吉備津神社  \
       │      血 ▲矢喰神社  <鳴釜神事>●  \
       │      吸          ▲     ●□備前一宮
       │      川 ▲鯉喰神社  吉備津彦  吉備津彦\
       │                の古墳    神社 \
       │                          \
  ─────□───────────────────────────□──
       倉敷          山陽本線            岡山

 実はこの時1月11日(木)は土讃線の坪尻駅で降り白亜紀の地層が露出しているのを見て、その後阿波池田駅で徳島線に乗り換え穴吹駅で降り卯建(うだつ)の在る家々を見て、夜は鳴門線の鳴門駅近くの居酒屋で活牡蠣を食いました。次いで1月12日(金)は又もや板東(高徳線の板東駅)に行き -この頃は良く板東の大麻比古神社に行きました- 、更に徳島線の阿波山川駅で降り四国忌部氏の古墳を見ました。夜は高松で私の後輩夫婦と会い美味しい酒をこの日も飲みました。
 という訳で、2007年1月13日(土)の朝は大阪では無く高松発だったのです。以下はその時の記事で、先ずタイムスケジュールから。岡山駅で駅蕎麦を2回食べてますが食事はこれだけ、まぁ私の行動とは大体こんなもんです。

    <2007年1月13日(土)の吉備地方探訪の時間割>

  高松  瀬戸大橋線  岡山
  6:45 ──────→ 7:45
     マリンライナー 駅蕎麦 吉備線
             岡山 ────→ 備前一宮
             8:32       8:45      徒歩  鳴釜神事
                      吉備津彦神社 ──→ 吉備津神社
                      8:46~10:08頃    10:38~12:10頃
                      御神体山登る     中山を登る
                                 吉備津彦の古墳
                              徒歩   │
                  12:40頃到着 ┌──────────┘
                      備前一宮  吉備線  備中高松
                      13:11  ─────→ 13:19
                                 備中高松城
                 徒歩             (15:30頃迄)
    ┌──────────────────────────────┘
  備中高松 吉備線 総社
  15:51 ────→ 16:09
         総社駅周辺を散歩
           総社   伯備線  岡山  山陽本線  大阪
           16:33 ────→ 17:05 ─────→ ??
              (倉敷経由) 駅蕎麦       22:00以前

 (1)備前の吉備津彦神社

 左下が吉備津彦神社の石鳥居です(←この鳥居は備前一宮駅からも見えて居ます)。背後に見えて居る山が御神体山(標高175m)です。
 右が本殿です。主祭神は大吉備津日子命(日本書紀に出て来る四道将軍の一人の吉備津彦命)で、他に雅武彦命(※6-2)(吉備津彦の弟)や孝霊天皇(吉備津彦の父)その他を配祀して居ます。
 社伝では推古天皇の時の創建と在りますが927年の「延喜式神名帳」には記載が無く、創建には藤原純友の乱(※25)が関わって居るらしいのです。つまり備前国一の宮は初めは安仁神社でしたが、安仁神社は藤原純友の乱に加担した為に吉備津彦神社が代わって「一の宮」に成ったのです。従って創建は930年頃かと思われ、備中の吉備津神社の分社と考えられます。以後、中世には守護赤松氏の尊崇を受け、江戸時代には藩主池田綱政が1697(元禄10)年に本殿を造営して居ます。8月2~3日御田植祭が在ります(8月とは随分遅い)。

 私は御神体山に登ると、左の「元宮・磐座道」と書かれた道案内が在り、間も無く頂上に着きます。頂上には中央の写真の八大龍王を祀って在ります。30cm角位で真ん中に穴が開いている石が横一列に8個祀られ注連縄がして在ります。龍王と呼んでいるのは尊称で、実体は蛇神です。大阪辺りでは蛇神は「巳(みい)さん」と呼ばれ、お年寄りに親しまれて居ます。
 後は磐座経塚などが在りました。頂上は”坊主”(→後出)にされ一番右の写真の様に下界も見下ろせます。尚、ここからは吉備津神社の御神体山(中山)にも道が通じて居ます。
 往復で45分位で10:00頃下界に戻りました。途中誰にも会いませんでした。


 左が境内末社の温羅神社で、温羅の和魂(※26)を祀って居ます。
 中央は同じく境内末社の鯉喰神社←本社は倉敷市矢部)で、表札を拡大したのが右の写真です。「祭神 楽々森彦荒魂」(※26-1)と書いて在り、楽々森彦(ささもりひこ)とは桃太郎伝説の猿のモデルだという事は既に記しました。
 境内摂社としては子安神社が在り、境内末社としては上の2社の他10位の末社が在ります。

 (2)徒歩で移動 - 吉備津彦神社から吉備津神社へ

 私は10:08頃に吉備津彦神社を後にし、徒歩で吉備津神社に向かいました。

 橋
 名
 柱     細谷川
 ↓   備中 ↓ 備前
 10:20頃、左の細谷川の橋に着きました。そう、「真金吹く吉備」の歌に出て来た川です。この川は備前国と備中国の国境を流れて居ます。橋の欄干は深緑色の金属で出来て居ます。
 橋名柱は備中から備前に向かって見ると右の様に「両國橋」 -備前国と備中国の意味- と陰刻されて居ます。
    └───────
        欄干
 ここから先は吉備津神社(備中国一の宮)の神域に入ります。
 10:30頃、左の「真金吹く吉備」の古今集の歌の説明板が在りました。
 10:36頃、右の矢置岩が在りました。説明板が在りましたが、もう説明不要でしょう。吉備津彦命が温羅を射る矢を矢置岩に置いたそうで、矢喰神社の由緒(前出)とか矢立神事の由緒(前出)を説明しています。
 吉備津神社は直ぐそこです。

 (3)備中の吉備津神社 - 鳴釜神事と古墳

 吉備津神社に着きました(10:38頃)。左下が北随神門で、その奥に比翼入母屋造(通称:吉備津造)の本殿・拝殿(国宝)が在りますが、私は先を急いでいた為に外から写真を撮るのを忘れて仕舞いました。これは応永3(1425)年の再建です。
 中央下が上下方向にカーブして居る長いこの神社特有の廻廊です。吉備津神社は山麓に建っている為に山の傾斜地を上手く利用していて、写真は下りのカーブから段々水平に近付きます。右下が弓道場です。女子高生が弓矢を射て居ました。


 主祭神は吉備津彦神社と同じく大吉備津彦命(日本書紀の吉備津彦命)で、配神には吉備津彦の子孫その他です。
 社伝に拠ると、吉備津彦命は中山山麓の茅茸宮に住み、この地で亡くなり山上の古墳(=中山茶臼山古墳(→後出))に祀られたのを、5代目の子孫の加夜臣奈留美命が茅茸宮に社殿を設けたのが当社の創建と言います。「延喜式神名帳」には備中国賀夜郡の名神大社に列せられて居ます。この神社に纏わる鳴釜神事・温羅伝説・桃太郎伝説・古代製鉄の話は既にして来ましたので省略します。
 それよりも、ここで興味を引かれるのは、今出て来た語の中に

  茅茸宮(かやたけのみや)            ┐
  加夜臣奈留美命(かやのおみのなるみのみこと)  ├ かや → 伽耶
  備中国賀夜郡(びっちゅうのくにのかやのこおり) ┘

「かや」という音が在りますが、これは伽耶(※27)ではないかと思います。温羅伝説や古代製鉄の所で朝鮮半島系渡来人の話が出て来ましたが、伽耶も朝鮮半島南東部で古代製鉄が盛んな所(△14のp22~24)でした。

 右が御釜殿(おかまでん)です。温羅の骨がこの下に埋められて居る(前出)と伝えられ、この中で鳴釜神事 -釜で神饌(←実際に米粒を入れる)を炊き釜鳴りが聞こえたらで、神事を取り仕切るのは阿曽女と呼ばれる巫女(前出)- が行われます。尚、この建物は慶長17(1612)年の再建です。
 御釜殿の前には「鳴釜神事のご案内」と鳴釜神事の説明板が在ります。

 左は旧社務所側の入口。柱には「官幣中社吉備津神社」と書いて在ります。
 右は先程の廻廊を反対側から覗いたもの
 この後私は本宮社(主祭神:大日本根子日子賦斗邇命(=孝霊天皇))を見ました。他に内宮社・新宮社が在ります。


 私は10:55分頃に吉備津神社の御神体山の中山を登り始めました。登り口には左の「吉備中山細谷川古跡」と陰刻した石が在ります。
 右が登山道です。石を敷き詰めて幅の広い階段状に成って居ますが、11時頃にここを登ると真冬でも暑いです。

 頂上では無いですが(標高150m位か)、中山には左下の中山茶臼山古墳(主軸長120m、前方後円墳、築造時期は前期(3世紀末~4世紀後半)、岡山市吉備津)が在り宮内庁が管理して居ます。

 この古墳が吉備津彦命の陵墓と目されて居るのです。私は吉備津彦の時代を4世紀初頭(前出)と見て居ますが、年代的にも合います。
 古墳の在る所は右の写真の如く”坊主”にされて居ます。

 右は”坊主山”から南方方面(=児島方面、更に遠くは瀬戸内海、そして四国です)を眺めたものです。
 昨日私は四国忌部氏の古墳を見て来ました。中山も誰も居なかったので、私は右の写真の方向に古墳繋がり阿波国吉備国を「桃の香り」で清めました。気分は爽快です、ワッハッハッハ!!

 帰りは登った道と違う道を降りました。右の写真は下り道に水が流れて居ました。
 12:00頃下山し、12:10頃吉備津神社を後にし、12:40頃備前一宮駅に着きました。この後私は備中高松城を見に行きましたが、この話は今回のテーマには関係無いので省略します。
 しかし備中高松城は所謂「秀吉の水攻め」で名高い城で、しかも武蔵忍城を水攻めする際の参考にされた、という城なので是非書きたいとは思って居ますが、果たして何時に成りますやら...。

 (4)備後の吉備津神社

 尚、広島県芦品郡新市町(福山に近い)にも吉備津神社備後国一の宮)が在り、当社は備中の吉備津神社の分社です。従って祭神も同じです(△13のp304~305)。私は当社は訪れたことは無いので名を挙げるに留めます。
 旧吉備国(※14)は大化改新後、備前・備中・備後(それと美作)に分割されますが、分割後の三国に吉備津彦命を祀った神社がそれぞれの国で「備*一の宮」に指定されて居ます。吉備地方では吉備津彦命は大変な尊崇を受けて居る事が判り、命は兎に角、吉備地方の英雄だという事が、これで良~く解りました!
    {この章は2014年12月10日に追加、2015年2月2日に最終更新}

 ■古代吉備国と吉備豪族

 岡山県(備前国・備中国・美作)は大規模古墳が在り特徴的です。大規模古墳は大阪府奈良県に集中して居て、これは畿内政権(=大和朝廷)が厳然と存在した事を物語って居る訳ですが、その他では岡山県群馬県が群を抜いて居ます。
 古墳時代(※28)は古墳の築造時期を前期(3世紀末~4世紀後半)中期(4世紀末~5世紀)後期(6~7世紀)に分けるのが一般的です。岡山県の大規模古墳(ベスト100)を挙げると、

                          築造
                 主軸長   順位 時期
  造山古墳     前方後円墳(360m)  4 中期  岡山市新庄下
  作山古墳     前方後円墳(286m)  9 中期  総社市三須
  西宮山古墳    前方後円墳(192m) 42 中期  赤磐郡山陽町
  金蔵山古墳    前方後円墳(165m) 56 前期  岡山市沢田
  神宮寺山古墳   前方後円墳(150m) 67 前期  岡山市中井町
  湊茶臼山古墳   前方後円墳(150m)  //  前期  岡山市湊
  佐古田堂山古墳  前方後円墳(150m)  //  中期  岡山市平山
  小造山古墳    前方後円墳(142m) 82 中期  総社市下林
  蒲間茶臼山古墳  前方後円墳(138m) 97 前期  岡山市蒲間

  中山茶臼山古墳  前方後円墳(120m)  ?  前期  岡山市吉備津

と成り全部で9つ在り、ベスト10に造山古墳作山古墳が食い込んで居ます(←その他に吉備津彦の陵墓と目される中山茶臼山古墳が在ります)。これらの古墳の被葬者は吉備の豪族です。これは何を表すのか?
 それは古代吉備地方に相当強大な権力主体が在ったと考えるのが素直な推論です。一説に拠ると、吉備国は古代は独立国だったという説が有ります。私もこの説に賛成です。崇神天皇の時代(←4世紀初頭(前出)と私は考えます)に四道将軍が派遣されたのは、大和朝廷の勢力の外縁が大体その辺りだったと考えられます。即ち、北陸・東海・西道(=吉備国)・丹波ですね。
 そして古墳中期の最盛期(=5世紀後半(450~499年))に実権を握って居たのが雄略天皇です。この天皇は倭王「武」として中国の『宋書』に登場し、又「さきたま古墳群」の稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘に獲加多支鹵大王と出て来る、この時代としては可なり年代のはっきり判る天皇です。この議論の詳細は▼下▼をお読み下さい。
  獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)

 雄略天皇の時代でも勢力の外縁東は埼玉・群馬辺り、西が北九州です。それより東北は蝦夷が跋扈し、西南は隼人・熊襲の世界です。だから460年頃吉備国の反乱が起こり、少し後の527年には北九州で磐井の乱が起こって居るのです。
 「磐井の乱」は上を参照して貰うとして、ここでは吉備国の反乱を採り上げましょう。『日本書紀』雄略紀の7年8月の条に吉備下道臣前津屋、虚空を留め使ふ。月を経るまで京都に聴し上らせ肯へにす。天皇、身毛君大夫を遣して召さしむ。虚空、召されて来て言さく、「前津屋、小女を以ては天皇の人にし、大女を以ては己が人にして、競ひて相闘はしむ。幼女の勝つを見ては、即ち刀を抜きて殺す。復小なる雄鶏を以て、呼びて天皇の鶏として、毛を抜き翼を剪りて、大なる雄鶏を以て、呼びて己が鶏として、鈴・金の距を著けて、競ひて闘はしむ。禿なる鶏の勝つを見ては、亦刀を抜きて殺す」とまうす。天皇、是の語を聞しめして、物部の兵士三十人を遣して、前津屋併せて族七十人を誅殺さしむ。」と在ります(△2-1のp44~46)。これは吉備下道臣前津屋という吉備の豪族が自分と天皇が戦ったならどちらが勝つか、という占いをして2度共天皇が勝つという結果が出たら前津屋はとても怒って占いに使った幼女と雄鶏を殺した、という話を吉備弓削部虚空から聞いた雄略天皇は物部の兵士を遣わして前津屋以下を皆殺しにした、という話です。これは1つの譬えで、要するに雄略天皇の時代には吉備の豪族は未だ朝廷に完全には従わない勢力だったのです。ここに書いて在る話より以上に、雄略天皇は若い時は惨(むご)い殺し方を沢山した天皇ですが...。
 吉備の豪族たちは、やはり備中の鉄や製鉄技術(=踏鞴)を経済力の基盤として居た筈ですが、これら地方勢力も段々と朝廷の支配下に入って行くのです。
    {この章は2014年12月10日に追加、2015年2月2日に最終更新}

 ■結び - 温羅から「国譲り」された吉備津彦

 さて、温羅は

    先住民族 + 朝鮮半島系渡来民族 + 製鉄技術(踏鞴)

で吉備国を押さえる独立国(或いは幾つかの部族連合体)、即ち大和朝廷とは別の権力主体の首領だったと考えられます。特に温羅伝説の一説に在った「温羅から吉備津彦という名を譲られた」という話は「国譲り」(※29)が行われたと考えられます。
 そうで無いと鳴釜神事には温羅の怨念が籠もって仕舞います。温羅の首を犬に食わせ首の骨を御釜殿の下に埋めましたが、釜に乗り移った温羅の怨念で何年も釜が唸り続けた訳ですからね。それを鎮める事が出来たのは阿曽女 -温羅の妻・阿曽媛の具現化- に依る鳴釜神事だったのです。温羅が吉備津彦を恨まない為にはやはり国譲りが在ったと考えるべきでしょう。そして製鉄技術は後々備中の刀工の鍛冶の技術に受け継がれたのです。
 しかし一般には鬼ノ城には温羅という名の鬼が住んでいたとされて居ます。今迄何度も言って来ましたが、それが”服わぬ者”としての異民族の運命です。「鬼ノ城(きのじょう=おにのしろ)」とは良く言ったものです。

                (-_*)

 ところで上田秋成の「吉備津の釜」は鳴釜神事には温羅の怨念が籠もって居る様な、怖~い話でしたね、背筋がゾクゾクしましたね(←淀川長治さん風に)。それでは皆さん、さよなら、さよなら、さよなら!!
    {この章は2014年12月10日に追加、2015年2月2日に最終更新}

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φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:屁の河童(へのかっぱ)は、何とも思わないこと。へっちゃら。河童の屁。

※2:版築(はんちく)とは、土壁や土壇の築造法で、板で枠を作り、土をその中に盛り、1層ずつ杵(きね)で突き固めるもの。古く中国の竜山文化に始まり現在まで存続。
※2-1:土塁(どるい)は、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで)。
※2-2:土城(どじょう)は、市街の周囲に土塁を巡らした堡塞。中国・朝鮮などにしばしば見られた。

※3:山岳仏教(さんがくぶっきょう)とは、山中に入って修行する仏教の一類型。仏教と日本の山岳信仰との融合したもの。平安時代天台宗・真言宗修験道の類。

※4:吉備(きび)は、山陽地方の古代国名。大化改新(645年)後、備前備中備後美作(みまさか)に分つ。

※5:鬼(おに)は、(「隠(おに)」で、姿が見えない意という)
 [1].demon, devil。天つ神に対して、地上などの悪神邪神
 [2].demon。伝説上の山男巨人異種族の者
 [3].ghost。死者の霊魂。亡霊。「護国の―となる」。
 [4].demon, devil。恐ろしい形をして人に祟りをする怪物。物の怪。
 [5].ogre。想像上の怪物。仏教の影響で、餓鬼、地獄の青鬼・赤鬼が在り、美男・美女に化け、音楽・双六・詩歌などに優れた者として人間世界に現れる。後に陰陽道の影響で、人身に、牛の角や虎の牙を持ち、裸で虎の皮の褌(ふんどし)を締めた形を取る。怪力で性質は荒い
 [6].鬼の様な人。
   [a].非常に勇猛な人。
   [b].無慈悲な人。借金取り。債鬼。
   [c].demon。或る事に精魂を傾ける人。「仕事の―」。
   [d].tagger。鬼ごっこなどで、人を捕まえる役。
 [7].貴人の飲食物の毒見役。鬼役。→鬼食い、鬼飲み。
 [8].紋所の名。鬼の形を象る。めんおに。かたおに。
 [9].名詞に冠して、勇猛・無慈悲・異形・巨大の意を表す語。「―武者」「―婆」「―やんま」。

※6:四道将軍(しどうしょうぐん)は、記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍(何れも皇族)。北陸は大彦命、東海は武渟川別命(たけぬなかわのみこと)、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)。古事記は西道を欠く。
※6-1:吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、本名を彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)。吉備氏の祖と伝える伝説上の人物で、古代吉備政権との関わりが注目される。「日本書紀」に第7代孝霊天皇の皇子で、四道将軍の1人として吉備国を平定したと伝える。記では吉備の上つ道臣の祖とされ、吉備津彦を称する2皇子(←もう1人は若日子建吉備津日子命で弟の雅武彦命)が在る(←孝霊記)。吉備津神社の中山の古墳は命の陵墓とされる。一説に桃太郎のモデルとされて居る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※6-2:雅武彦命(わかたけひこのみこと)は記紀伝承で、吉備津彦命の弟で兄の山陽道平定に従軍。若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)。紀では吉備臣の祖。記では吉備の下つ道臣・笠臣の祖(←孝霊記)。

※7:吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山市吉備津に在る元官幣中社。祭神は大吉備津彦命。鳴釜神事で知られる。備中国一の宮。吉備津宮。広島県芦品郡新市町に在る同名神社(備後国一の宮)は分社
※7-1:吉備津造(きびつづくり)は、神社本殿形式の一。吉備津神社本殿の様式。内々陣・内陣の外に中陣・外陣を廻らし、屋根を比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)としたもの。
※7-2:鳴釜/釜鳴り(なるかま/かまなり)とは、釜で湯を沸かし、又、飯を炊く時、釜が唸る様に鳴ること。何かの前兆と感じ、又はその音に因って吉凶を占った(=釜を鳴らすのが。岡山の吉備津神社では鳴釜神事が在る。
※7-3:吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)は、岡山市一宮に在る元国幣小社。祭神は大吉備津彦命。備前国一の宮

※8:踏鞴・踏韛(たたら)とは、[1].足で踏んで空気を吹き送る大きな鞴(ふいご)。地踏鞴。〈神代紀上訓注〉。
 [2].踏鞴吹き(たたらぶき)の略。
※8-1:鞴/韛/吹子(ふいご)は、(フキガワ(吹皮)から転じた「ふいごう」の約)金属の熱処理や精錬に用いる送風器。日本では、把手(とって)を手で押し、又は引いて、長方形の箱の内に気密に取り付けた板状ピストンを往復させて風を押し出すもの(箱鞴の一種。吹差し鞴とも)、風琴に似た構造を持ち、足で踏むもの(足踏み鞴)などが在る。大型の足踏み鞴踏鞴(たたら)と呼ばれる。吹皮(ふきがわ)。浄、用明天王職人鑑「―吹く鍛冶屋のてこの衆」。
※8-2:踏鞴吹き(たたらぶき)は、砂鉄・木炭を原料とし、踏鞴(たたら)を用いて行う和鉄製錬法。古代以降中国地方などで行われた。その製錬炉をも鑪(たたら)と呼ぶ。
※8-3:「踏鞴を踏む」とは、[1].踏鞴(たたら)を踏んで空気を送る。
 [2].勢い込んで打ち、又は突いた的が外れた為、力が余って、空足(からあし)を踏む。
※8-4:「真金吹く」は、(「吉備」「丹生(にふ)」に掛かる枕詞として用いる)鉄を精錬する。万葉集14「―丹生の真朱(まそほ)の色に出て」。
※8-5:真金(まかね/まがね)は、この場合、黒金・鉄(くろがね)のこと。〈名義抄〉。
※8-6:備中物(びっちゅうもの)とは、備中の刀工が製作した刀の総称。地が堅く、品位が具わる。平安時代から南北朝時代に栄え、室町時代以後は衰退。→青江物。
※8-7:青江物(あおえもの)とは、備中国青江(今、倉敷市内)で製作された刀の総称。保安(1120~1124)の頃、安次とその子守次を祖とし、貞次・恒次・康次らの刀工を出したと伝える。元暦(1184~1185)頃の貞次・恒次は後鳥羽院の番鍛冶と言う。

※9:祝(はふり/ほうり)とは、神に仕えるのを職とする者。普通には禰宜(ねぎ)の次位で祭祀などに従った人。祝子(はふりこ)。祝人(はふりと)。神代紀上「熱田の―の掌りまつる神」。
※9-1:祝女(はふりめ)とは、巫(かんなぎ)。巫女(みこ)。

※10:桃太郎(ももたろう)は、昔話の一。桃の中から生れた桃太郎が、犬・猿・雉を連れて鬼ヶ島の鬼を退治するという話。室町時代の成立で、時代色を濃く反映し、忠孝勇武の徳を謳歌する。岡山地方では桃太郎伝説が在り、吉備津彦命が桃太郎のモデルとされて居る。
※10-1:桃(もも、peach)は、(狭義には「実」を表し、木は tree、花は blossoms を付加)バラ科サクラ属の落葉小高木。中国原産。葉は披針形。3~4月頃、淡紅又は白色の5弁花を開く。果実は大形球形で美味。古くから日本に栽培、邪気を祓う力が有るとされた。白桃・水蜜桃の他に、皮に毛の無いツバイモモ(アブラモモ)、果肉が黄色の黄桃(おうとう)、扁平な蟠桃(はんとう)、観賞用の花モモなど品種が多い。仁・葉は薬用。季語は花が春、実が秋。万葉集19「春の苑紅にほふ―の花下照る道に出で立つをとめ」。

※11:小さ子(ちいさご/ちいさこ、dwarf)とは、神話・説話に登場する、体の極小さい子供。成人して大事業を成し遂げ、変身して幸福を得る話が多い。少彦名神や一寸法師など。

※12:黍団子(きびだんご)は、黍の実の粉で製した団子。〈日葡〉。
※12-1:吉備団子(きびだんご)は、求肥(ぎゅうひ)を捏ねて丸め、白砂糖を塗(まぶ)した団子。岡山の名産安政(1854~1860)年間創製で、本来キビ(黍)の実の粉で製したので旧国名の吉備に因んで名付けられた。
※12-2:求肥(ぎゅうひ)とは、(唐から渡った時、「牛皮」という文字を忌んで「求肥」と改めたと言う)求肥飴の略。

※13:上田秋成(うえだあきなり/―しゅうせい)は、江戸中期の国学者・歌人・読本作者(1734~1809)。本名は仙次郎、後東作。号は秋成無腸など。大坂の人。商人の娘の私生児として生まれ、4歳で紙油商上田家の養子と成る。医学を学び医者を開業。若い時は和訳太郎の名で浮世草子「諸道聴耳世間猿」などを著す。加藤宇万伎に師事。万葉集・音韻学にも通じ、古語の音韻や記紀の日神の解釈を巡り本居宣長と論争。著書に「雨月物語」「春雨物語」「胆大小心録」「癇癖談(くせものがたり)」「藤簍冊子(つづらぶみ)」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※13-1:無腸(むちょう)とは、
 [1].節操の無いこと。腹の据わらないこと。
 [2].無腸公子(蟹(かに)の異称)の略。
※13-2:雨月物語(うげつものがたり)は、読本(よみほん)。上田秋成作。5巻5冊。1768年(明和5)成稿、76年(安永5)刊。「白峰」以下日本・中国の古典から脱化した怪異小説9編から成る。
※13-3:本居宣長(もとおりのりなが)は、江戸中期の国学者(1730~1801)。国学四大人の一。号は鈴屋(すずのや)など。小津定利の子。伊勢松坂の木綿問屋の生まれ。京に上って医学修業の傍ら源氏物語などを研究。契沖の書に接して古学への目を開いた。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、又、「もののあはれ」の文学評論を展開、「てにをは」の活用などの研究に於いて一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」「石上私淑言(いそのかみささめごと)」「直毘霊(なおびのみたま)」「玉勝間」「うひ山ぶみ」「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」「玉くしげ」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※14:吉備(きび)は、山陽地方の古代国名。大化改新後、備前・備中・備後・美作(みまさか)に分つ。

※15:中有(ちゅうう)とは、〔仏〕四有の一。衆生が死んで次の生を受ける迄の間。期間は一念の間から7日或いは不定とも言うが、日本では49日。この間、7日毎に法事を行う。中陰。七七日(なななぬか/しちしちにち)。「―の旅」。バルドゥ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15-1:四有(しう)とは、〔仏〕衆生が生れ、生き、死に、次に再び生れる迄の間の4時期(生有本有死有中有)の称。

※16:髻(もとどり)とは、(「本取」の意)髪を頭の頂に束ねた所。又、その髪。髻(たぶさ)。三蔵法師伝永久点「珠を贖ひて還りて像の髻(もととり)に施(お)く」。

※17:痘瘡(とうそう)は、天然痘
※17-1:天然痘(てんねんとう、small-pox)は、法定伝染病の一。天然痘ウイルスが病原体で気道粘膜から感染。高熱を発し、悪寒・頭痛・腰痛を伴い、解熱後、主として顔面に発疹を生じ、後に痘痕(あばた)を残す。感染性が強く、死亡率も高いが、種痘に依って予防出来、1980年WHOに依り絶滅宣言が出された。疱瘡(ほうそう)
※17-2:種痘(しゅとう、vaccination)は、痘苗(とうびょう)を人体に接種し、天然痘に対する免疫性を得させ、感染を予防する方法。1796年牛痘種痘法ジェンナーの発明。植え疱瘡(ぼうそう)。

※18:保食神(うけもちのかみ)は、五穀を司る神。食物の神。宇迦御魂/倉稲魂/稲魂(うかのみたま)を指す場合も有る。〈神代紀上訓注〉。
※18-1:宇迦御魂/倉稲魂/稲魂(うかのみたま)は、食物、殊にを司る神。「うかたま」「うけのみたま」とも。稲荷の神の一名。「三狐神」とも当て字されたので狐に付会された。〈神代紀上訓注〉。

※19:掛詞・懸詞(かけことば)とは、同音異義を利用して、1語に2つ以上の意味を持たせたもの。「待つ」と「松」との意に掛けて、「秋の野に人まつ虫の声すなり」という類。主に韻文に用いられる修辞法の一。

※20:今様(いまよう)は、この場合、今様歌の略。
※20-1:今様歌(いまよううた)は、平安中期から鎌倉初期に掛けて流行した新様式の歌七五調4句のものが代表的で、和讃や雅楽の影響から起る。白拍子・遊女などが歌い、宮廷貴紳にも愛誦され、後には宮中の節会などにも歌われた。「梁塵秘抄」に集大成。
※20-2:梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は、今様歌謡集後白河法皇編著。1179年頃の成立か。「梁塵秘抄」10巻と「梁塵秘抄口伝集」10巻。両者の巻1の抄出と梁塵秘抄巻2及び口伝集巻10だけ現存。現存本でも法文の歌、4句の神歌など560余首在る。「うつばり(=梁)のちり(=塵)の秘抄」という解題が在る。
※20-3:梁塵(りょうじん)とは、[1].梁(うつばり)の上に積る塵(ちり)。
 [2].(「梁塵を動かす」の故事から)優れた歌謡・音楽の意。
※20-4:梁(うつばり/うつはり)とは、(古くはウツハリ。内張の意)柱上に渡して小屋組を受ける横木。梁(はり)。三蔵法師伝承徳点「釈衆の梁(うつはり)摧(くだ)けぬ」。
※20-5:「梁塵を動かす」は、[劉向別録「魯人虞公、発声清越、歌動梁塵」]歌う声の優れていること。転じて、音楽に優れている事を言う。
※20-6:後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、平安後期の天皇(1127~1192、在位1155~1158)。鳥羽天皇の第4皇子。母は藤原璋子。近衛天皇の跡を継いで即位。名は雅仁(まさひと)。即位の翌年、保元の乱が起る。1158年二条天皇に譲位後、5代34年(二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽)に亘って院政。計略に優れ、初め平氏を登用したが清盛が力を伸ばすとこれと対立、源義仲・源頼朝が挙兵すると義仲を利用して平氏を追い、次いで頼朝を利用して義仲を倒し、更に頼朝源義経を争わせた1169年(嘉応1)入道に法皇と成り、造寺・造仏を盛んに行い、今様歌を好んで「梁塵秘抄」を撰す。第3皇女が式子内親王。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※20-7:式子内親王(しょくしないしんのう/しきしないしんのう)は、鎌倉初期の歌人(1152?~1201)。後白河天皇の第3皇女。1159年(平治元)~69年(嘉応元)迄、賀茂神社の斎院を勤めた為に賀茂斎院と呼ばれる。准三后。後出家。宮内卿・俊成女と並び称される。大炊御門(おおいみかど)斎院。大炊殿。萱(かやの)斎院。家集「式子内親王集」。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※21:御先神(みさきがみ)とは、神の先駆として非常の際に現れるという動物。烏や狐の例が多い。又、人に祟(たた)るとも言う。

※22:院政(いんせい、rule by a retired Emperor)とは、[1].1086年の白河上皇の専政的な権勢下に定着した、院庁で上皇、又は法皇が国政を行うのを常態とする政治形態。名目上は1840年の光格天皇迄断続的に続くが、実質的には鎌倉末期の後宇多上皇の時期迄の約250年である。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].転じて、一旦引退した筈の人が、尚実権を握って取り仕切ること。
※22-1:院政期(いんせいき)とは、上皇が院政を行なった時代。白河・鳥羽院政期後白河・後鳥羽院政期後高倉から後宇多迄の3期に大別。
※22-2:院宣(いんぜん)とは、(「院の宣旨(せんじ)」の略)院司が上皇、又は法皇の命令を受けて出す公文書。院政時代には天皇の下す詔勅・宣旨(せんじ)よりも重んじられた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※23:大原御幸(おはらごこう)は、能。鬘物(かずらもの)。作者不詳。後白河法皇が大原寂光院に建礼門院を訪れると、女院は安徳天皇の最期を物語る。小原御幸。
※23-1:鬘物(かずらもの)とは、能の曲種で、鬘を用いる役、即ち女を主人公とするもの。狭義には、狂女物などを除いた優美な能。

※24:斎院(さいいん/いつきのいん)とは、賀茂神社に奉仕した未婚の皇女、又は女王。又、その居所。賀茂の斎(いつき)。→斎宮。斎女。

※25:藤原純友(ふじわらのすみとも)は、平安中期の官人( ~941)。伊予掾。初め西国で海賊討伐を命ぜられて居たが、936年(承平6)瀬戸内海横行の海賊の棟梁と成り、略奪・放火を行い朝廷に反抗(藤原純友の乱)、941年(天慶4)に追討軍に殺された。東国の平将門の乱と同期している。→承平天慶の乱

※26:和御魂/和魂(にきみたま/にきたま/にぎみたま/にぎたま)とは、(元は清音)柔和・精熟などの徳を備えた神霊、又は霊魂。〈神功紀訓注〉。←→荒御魂(あらみたま)。
※26-1:荒御魂(あらみたま)とは、荒く猛き神霊。〈神功紀訓注〉。←→和御魂(にきみたま)。

※27:伽耶/伽倻(かや)とは、古代、朝鮮半島南東部に在った国々。諸小国全体を言う場合も有り、特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)を指す場合も有る。562年新羅に依り併合。日本では多く任那(みまな)と呼ぶ。加羅。「―琴(きん)」。

※28:古墳時代(こふんじだい)は、日本で壮大な古墳の多く造られた時代。弥生時代に次いで、略3世紀末~7世紀に至る。但し、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。古墳時代は畿内を中心として文化が発達した時期で、統一国家の成立・発展と密接な関係が有るとする説も在る。現在、古墳の築造時期を前期(3世紀末~4世紀後半)中期(4世紀末~5世紀)後期(6~7世紀)に分けるのが一般的。前期は司祭者的な首長の統治が始まり、中期には強力な首長の統合に依って大和政権が確立された時代。後期には大陸から伝来した仏教文化が開花した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※29:国譲り(くにゆずり)とは、この場合、記紀神話で、天照大神の神勅に依って大国主神が国土を皇孫に譲り隠退したこと。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『歴史と旅臨時増刊 日本城郭総覧』(鈴木亨編、秋田書店)。

△2:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△2-1:『日本書紀(三)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△3:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。

△4:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△5:『桃太郎の誕生』(柳田国男著、角川文庫)。

△6:『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編、岩波文庫)。

△7:『雨月物語・春雨物語』(上田秋成著、神保五彌・棚橋正博訳、現代教養文庫)。
△7-1:『上田秋成全集 第1巻』(中村幸彦他編、中央公論社)。
△7-2:『春雨物語』(上田秋成著、漆山又四郎校訂、岩波文庫)。

△8:『摂津名所図会 上巻』(秋里籬島著、原田幹校訂、古典籍刊行会)。

△9:『蕪村俳句集』(与謝蕪村著、尾形仂校注、岩波文庫)。

△10:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△11:『新訂 梁塵秘抄』(後白河法皇撰、佐佐木信綱校訂、岩波文庫)。
△11-1:『別冊國文学・特大号 日本古典文学研究必携』(市古貞次編、學燈社)。

△12:『能・狂言図典』(小林保治・森田拾史郎編、小学館)。

△13:『神社参拝 ポケット図鑑』(岡田荘司監修、主婦の友社)。

△14:『図説 韓国の歴史』(金両基監修、姜徳相・鄭早苗・中山清隆編、河出書房新社)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):式子内親王の『小倉百人一首』89番歌▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
補完ページ(Complementary):服わぬ者と鬼▼
都島の鵺と摂津渡辺党(Nue of Miyakojima and Watanabe family, Osaka)
補完ページ(Complementary):吉備津彦(桃太郎伝説の原型)
や四道将軍が当時の大和朝廷の勢力の外縁▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
河合延明さんとは2007年に高句麗の山城を一緒に登りました▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')

脳出血から沖縄の人に成る迄の経過▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
四国鬼無(岡山の対岸)の桃太郎伝説▼
2005年・四国各駅停車の旅(Travel of Shikoku by local train, 2005)
桃の邪気祓いについて▼
大阪城の桃の花(Peach blossoms of Osaka castle)
播磨国の印南野▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
安曇磯良について▼
河童考(About the Kappa, that is, water imp)
上田秋成と本居宣長の論争▼
北斗七星は天の茎嚢だ!(Big Dipper is heaven's PENIS and SCROTUM)
「歌よむはおのが心のまゝ」と言う上田秋成▼
猪甘津の橋と猪飼野今昔(The oldest bridge and Ikaino, Osaka)
梁塵秘抄について▼
謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)
後白河法皇は鵺(ぬえ)の様な人▼
大阪港紋章の「鵺」('Nue' in the heraldic emblem of Osaka port)
鳴門で生牡蠣を食う▼
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)
四国板東の大麻比古神社や四国忌部氏について▼
板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)
延喜式神名帳について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
龍王は尊称で実体は蛇神▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
阿波国と吉備国を「桃の香り」で清めた話▼
風船爆弾は雅(みやび)な兵器(Balloon bomb is the elegant arms)
「忍城の水攻め」について▼
2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)


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