2005年・四国各駅停車の旅
[割安切符を目一杯利用]
(Travel of Shikoku by local train, 2005)

−− 2005.10.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2007.09.12 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに − 鉄道の日記念切符を利用して

 皆さん、「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」(以下は鉄道の日記念切符)をご存知でしょうか?、10月14日の鉄道の日(又は鉄道記念日に合わせて発売され、JRの各駅停車と快速の普通車を1日(=0時0分〜23時59分)乗り放題の検印欄3日分を1枚に印刷した切符のことです。今年05年は10月1日〜16日が有効期間で9,180円(=3,060[円/日])です。つまり秋に発売されない”「青春18きっぷ」の秋版(且つミニ版)”で、1日当たりの料金は2,300[円/日]の青春18切符より高いですが、逆に子供は半額と成るのでお得です(※2)。そして未だ青春18切符程には知られて無く、言わば”穴馬的存在”です。
 私がこの鉄道の日記念切符を買ったのは10月の初め親戚の葬儀で横浜に行った帰りで(往きは新幹線)、帰阪で先ず1日分を消費。残り2日分で何処へ行こうかと考えて居ましたが、天候が思わしく無く遂に期限ギリギリの15・16日で四国を経廻って来ました。15日は高知で3,800円のビジネスホテルに泊まりました。つまり

    鉄道の日記念切符 =  ¥9,180(3日分)
    宿泊代      =  ¥3,800
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    計        = ¥12,980


です。新幹線「のぞみ」で新大阪〜新横浜=13,730円ですので、実に新幹線片道分の料金以下で「帰阪+1泊2日の旅」が楽しめたのです。
 以下に今回の旅程表を纏めて置きます。

    ●今回の旅の旅程表

  10月15日(土):雨後曇り
   地下鉄(約20分)
   大阪(06:47) →快速→ 姫路(08:13)  駅で立ち食い蕎麦
               姫路(08:41) → 相生(09:00)
                       相生(09:29) → 岡山(10:32)
   岡山(10:44) →快速→ 高松(11:37)  高松城、港  讃岐うどん(おろしぶっ掛け)
               高松(12:51) → 阿波池田(14:57)  町を散歩 祖谷蕎麦
                       阿波池田(15:30) → 高知(18:03)
                              土佐料理と酒 ●宿泊(ホテル)
  10月16日(日):晴れ後快晴
   町を散歩、高知城
   高知(07:03) → 阿波池田(09:39)  途中、大歩危駅周辺を散歩
            阿波池田(09:41) → 徳島(11:25) レンタサイクルで徳島城、吉野川
                                  吉野川土手で握り飯
   徳島(13:51) → 高松(16:08)    駅で讃岐うどん(ぶっ掛け)
            高松(17:13) →快速→ 岡山(18:05)  車窓から黄昏の瀬戸内海
   岡山(18:17) → 播州赤穂(19:24)
            播州赤穂(19:28) → 姫路(19:58)
                      姫路(20:01) →新快速→ 大阪(20:59)
   地下鉄(約20分)

      黒字:JR  青字:JR以外

 ■15日(土) − 

 (1)大阪 → 岡山(山陽本線)

 上の旅程表を詳しく見ればお解りと思いますが、姫路〜岡山間が直通便が無くネックに成って居ます。つまり大阪〜岡山は新幹線を利用させる様に、JRはわざと不便にし”意地悪”をして居るのが見て取れます。
 この日は朝から雨で寒かったので列車待ちの時間を利用して姫路駅ホームの立ち食い蕎麦を食いましたが、麺が日本蕎麦なのかラーメンなのか判らない様なシロモノで不味かった。そう言えば、鉄道の日記念切符を購入して帰阪した日も豊橋駅で、改札の外の立ち食い蕎麦を食ったがこれも麺がパサパサで不味かったですね。
 ま、兎に角6時47分に大阪を発って3時間45分も掛かって岡山着。

 (2)岡山 → 高松(岡山→坂出:瀬戸大橋線、坂出→高松:予讃線)

 岡山からは快速のマリンライナー23号に乗りました。岡山から海側に出る線は昔は本州の宇野駅迄行く宇野線のみでしたが、今では四国の高松駅迄行く瀬戸大橋線が本線化し、宇野線は一層ローカル化して仕舞いました。岡山駅〜高松駅間には豪華な快速マリンライナー −予讃線区間が非電化なのでディーゼル列車− が頻繁に往復して居ます。

 瀬戸大橋は本州四国連絡橋の一。岡山県倉敷市児島から塩飽(しわく)諸島の櫃石(ひついし)島・与島などを経て香川県坂出市迄9.4kmの海峡部を結ぶ橋。道路・鉄道併用の6橋から構成。1988年完成。


 海を眺められる瀬戸大橋線に乗るのは列車の旅の楽しみの一つです。昔行った鷲羽山が線路のどちら側に在ったっけ、と思ったりしましたが雲が重く垂れ込めて雨が降っているので、景色は灰色に沈んで居ます。
 左上が車窓から見た瀬戸内海の南東方向の風景で、白く尾を引いて行き交う船が見えて居ます。
 右は橋の直ぐ下を航行する船です。
 翌日撮った瀬戸大橋からの夕景も綺麗ですよ。

    ◆坂出

 瀬戸内の景色を眺めている内に瀬戸大橋も終わりです。左下が四国の坂出港で、車窓から東を撮ったものです。

   ▽円錐形の小島
 坂出は香川県中部、瀬戸内海に臨む市。古くは讃岐国府の地で、近世より塩の都として栄えた。瀬戸大橋の四国側拠点。人口6万2千。

 坂出港を過ぎると高い高架の上を大きくカーブした所で形の良い円錐形の小山を右手に見乍ら坂出駅に着きました、児島駅から約15分です。
 右の写真がそれで、写真の左側が飯野山(422m、詳細は後述)、その手前に裾野を広げている右の山が青ノ山(224m)です。
 坂出から高松に向かう間にも、幾つかの円錐形の小山が目に付きました、その姿は後で沢山登場します。上の坂出港の写真にも、瀬戸内海に浮かぶ円錐形の小島が見えて居ました、位置と形から大槌島だと思います。

 (3)高松

 こうして岡山駅から53分で高松駅に到着、高松は最早本州の一部です。
 右が高松駅の出発を待つ快速マリンライナーの車輌です(但し私が乗って来た列車ではありません)。

 高松は香川県北部の市。県庁所在地。瀬戸内海に面する。交通・商業の中心地で各種工業が在る。元は松平氏一二万石の城下町。史跡屋島栗林公園(りつりんこうえん)は名高い。人口33万。

 左下がJR高松駅です。JR高松駅は港に近く、直ぐ近くには”市民の足”として親しまれて居る琴平電鉄(通称:琴電)の高松築港駅が在ります。右下が高松築港駅に入線する琴電の車輌で、2輌編成です。


 城下町ということで、先ず城から見物しました。右が琴電・高松築港駅から直ぐの所に在る重文の月見櫓です。讃岐高松城跡は現在は玉藻公園に成って居ます。
 この旅で見た城については▼下のページ▼に詳細を掲載して居ます。
  2005年・四国の城巡り(Travel over castles in Shikoku, 2005)

 ところで玉藻とは藻の美称ですが、『万葉集』巻2−220の「讃岐の狹岑(さみね)の島に石の中に死(みまか)れる人を視て柿本朝臣人麻呂の作れる歌」という長歌

  玉藻よし讃岐の国は国からか 見れども飽かぬ神からか...

の中で、「玉藻よし」は「讃岐」の枕詞として用いられ(△1のp98)、古くからこの辺りの海岸は玉藻浦と呼ばれて居ました。
 そこで次は”玉藻の浦”の高松港に行きました。左が出港するフェリーです。船体後尾に"BLUE LINE"と書かれて居ますが、ブルーラインは小豆島に向かいます。
 高松港からは近隣の小豆島豊島・直島・女木島・男木島や岡山県の宇野の他、神戸行きの長距離フェリーが出て居ます。
 瀬戸大橋が出来る前は本州との往来はここから出航する宇高連絡船(宇野〜高松)が主でした。

 そして右下が、高松見物後に食った名物の讃岐うどん「おろしぶっ掛け」 −うどんに冷たい汁を掛け大根卸しと山葵(わさび)を添えたもの− です、これは旨かった!
 饂飩(うどん)の蘊蓄(うんちく)は既に別ページで述べて居ます(この中では中国のルーツに遡って居ます)が、ここ讃岐は饂飩(うどん)の本場なので、そのルーツについて概略を記して置きましょう。
 中国の話は割愛して、日本では弘法大師・空海(※3)が遣唐使で唐から製法を持ち帰り地元の貧しい民を救う為に饂飩を広めた、という話が通説です。空海は讃岐国屏風浦(びょうぶがうら、現在の香川県善通寺市)に佐伯田公(さえきたきみ)の子として生まれた人ですから、饂飩が空海の地元・讃岐地方で根強く支持されて居る、のは素直に納得出来ます。
 ところで讃岐の佐伯氏は『日本書紀』景行紀に拠ると、「神宮に献(たてまつ)れる蝦夷等、昼夜喧(な)り譁(とよ)きて、出入礼無し。時に倭姫命の曰はく、「是の蝦夷等は、神宮に近(ちかつ)くべからず」とのたまふ。...<中略>...(天皇は)「...故、其の情の願の随(まにま)に、邦畿之外(とつくに)に班(はべ)らしまよ」とのたまふ。是今、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡て五国の佐伯部の祖なり。」と在る様に(△2のp108〜110)、元は大和朝廷に恭順を誓い俘虜に成った蝦夷です。佐伯部という蝦夷を管理する役柄ですが彼等も蝦夷なのです、つまり「夷を以て夷を制す」(※5)を実行した訳ですね。佐伯(さえき)とは「さへく」(※6) −異語で話すと煩く感じる− から派生した様で、空海とは蝦夷の血が入った人物だ、というのが司馬遼太郎の主張です(△3のp4〜7)。
    {この段は07年9月12日に追加}

 讃岐所縁の人は他に、平賀源内(高松藩の足軽の子)や左甚五郎(高松で没、市内に墓所在り)などが居ます。

 (4)高松 → 阿波池田
   (高松→多度津:予讃線、多度津→阿波池田:土讃線)


 左が高松駅で出発を待つ阿波池田行きのディーゼルカーです。2輌編成で薄汚れて居てローカル色満点、私の気分も自然と高まりムズムズして来ました。
 途中の坂出駅迄は午前中通って来た線を走ります。各駅停車なので途中の駅でマリンライナーや特急列車に次から次と”追い越され”て行く気分は、何とも言えない哀愁が有ります。

    ◆鬼無の桃太郎伝説

 高松駅から2つ目の鬼無(きなし)という駅で”変な物”を見付けて仕舞いました。それはでした(右下の写真)。順を追って述べましょう。
 先ず左が鬼無駅の観光案内板です。案内板のフレームには「勝賀城跡と桃太郎伝説史跡案内」と記され、「鬼無町観光案内図」が載って居ます。
 そして案内板の右横に、”変な物”、即ち鬼の頭上に桃太郎が乗って居る像が在りました(右の写真)。鬼の褌(ふんどし)には「び」と書かれて居て(何故?)、マンガチック(※7)な表情です。
 桃太郎説話(※8)と言えば岡山が有名で、岡山では桃太郎は吉備津神社(備中国一の宮)吉備津彦神社(備前国一の宮)の主祭神・吉備津彦命(※9)である、と伝承されて居ます。四道将軍(※9−1)の一人として山陽道の先住勢力を平定した話が「鬼」退治に擬せられても不思議では有りません(←備中・備前では温羅(うら)という百済系の鬼が鬼ノ城を根城にして居たという話です)。
 岡山の対岸の当地では桃太郎は吉備津彦命の弟・雅武彦命(※9−2)とされ、舞台は高松港の北北西5km程に浮かぶ女木島(めぎじま、写真は後出) −別名を鬼ヶ島、洞窟状の採石跡が在り鬼の棲み家に相応しい− です。鬼ヶ島から村に来て悪さをする鬼たちを桃太郎が鬼ヶ島に攻め入り一旦は懲らしめますが、再び村に来たので全滅させ葬った所が鬼ヶ塚で、それ以来この地が「鬼無(きなし)」と呼ばれた、という話です。当地には通称・桃太郎神社(=鬼無権現宮) −元々は熊野神社(祭神は邪那岐神・伊邪那美神・稚武彦命)で桃太郎関連の遺物を収納− も在り町興しに一役買って居る様です。
 一方、鬼無は盆栽の生産地として知られ、200年以上前に瀬戸内の松を鉢植えに仕立てたのが始まりだそうです。

    ◆円錐形の小富士たち

 坂出の節でも書きましたが、高松〜坂出間には何故か形の良い円錐形の小山が幾つか在ります。そこで私は坂出迄は円錐形の小山に注目して居て、その様な小山を車窓からバシャバシャ撮りましたので、以下に一挙掲載します。

 右の写真は鬼無駅に停車する直前に進行方向右側の車窓から、即ち線路の北側に見えた小山で、これが桃太郎伝説の大平山(479m)です。
 以下の写真は全て左側の車窓、即ち線路の南側に見えたものです。先ず左下は鬼無駅駅を発って直ぐに池の向こうに見えて来たxx()、そして右下の3つに折り重なって見えた山は左からxx、伽藍山(216m)、六ツ目山(317m)です。
飯野山(讃岐富士)、六目山、伽藍山、十瓶山、日山、 白山の様な、小さな円錐状の小丘がみられます



 左が隣の端岡駅を過ぎて後方に角度を変えて見えた伽藍山(216m)と六ツ目山(317m)です。

 下の3枚讃岐富士の異名を持つ飯野山(422m)です。
 先ず鴨川駅を過ぎた辺りで前方に左の3つの山が見えて来ました。一番手前が右の峰で金山(281m)、次に近いのが左の峰で城山(462m)、そして中央からちょこんと頭を覗かせているのが飯野山です。

 右が坂出駅から撮った飯野山です。
 左下は宇多津駅を付近で撮った飯野山の姿です。この写真の右端に鳥が写って居ますが、これはです。その拡大を右下に付して置きます。



←鷲

 飯野山は低い山乍ら独立峰で、頂上に雲を寄せ裾野を優美に広げた姿は讃岐富士の名に恥じない気品が有ります。こういう姿の山は磐座信仰(※11)や神奈備信仰(※11−1)の対象として崇められ、この飯野山も古代人の信仰を集めて、オジョモと呼ばれる巨人が畚(もっこ)の底の土を振り落としてこの山を造り、山麓の大岩にはオジョモの足跡が残されて居る、と言い伝えられて来ました。西行法師は次の歌を残して居ます。

  讃岐には これをば富士と いひの山 朝げの煙 立たぬ日もなし

 嘗て飯野山麓は桃の栽培が盛んで、花の季節には山麓が桃色に染まり「飯野山が腰巻を巻いた」と地元の人々から言われたそうです(△7のp90)。

 それにしても、高松〜坂出間の約20km位の間にこれだけ富士山型の円錐形の小山(海上では円錐形の小島)が密度濃く在るのは珍しく、とても印象的でした。遥か古代の造山運動の結果でしょうが、「造化の神の遊び心」の様に思えて為りません。

 [ちょっと一言]方向指示(次)讃岐地方に密度濃く存在する円錐形の山々の秀峰を昔の人々は讃岐七富士と呼んで来ました、次の7峰です。
  讃岐富士(飯野山)          :422m、坂出市と丸亀市の境
  東讃富士/三木富士(白山(しらやま)):203m、木田郡三木町
  御厩富士/檀紙富士(六ツ目山)    :317m、高松市と綾歌郡国分寺町の境
  羽床富士(堤山)           :202m、綾歌郡の綾歌町と綾南町の境
  綾上富士(高鉢山)          :512m、綾歌郡綾上町
  高瀬富士(爺神山(とかみやま))   :227m、三豊郡高瀬町
      (採石で削られ嘗ての面影は無い→高度成長期のコンクリートに化けました)
  有明富士(江甫山(つくもさん))   :153m、観音寺市


 ひょっとしたら、この様な形状を齎(もたら)した造山運動や火山活動がサヌカイト(※13)の産出と関係有るかも知れません。サヌカイトを産する白峰山は、瀬戸内海にせり出した溶岩台地の五色台に在り、この付近には古代遺跡や今岡古墳などが在ります。又、平安後期に保元の乱(1156年)に敗れ讃岐国に配流され同地で没した崇徳天皇所縁の地でもあります。

    ◆丸亀

 左下が土器川(又は祓川)で、この川を渡ると丸亀市です。昔この川の付近に土器を作る人々が住んで居た、と伝えられて居ます。


 丸亀は香川県北西岸の市。元は京極氏6万石の城下町。江戸後期には金刀比羅宮参詣の船着場。亀山城址などが在る。団扇(うちわ)が特産。人口7万9千。

 そして間も無く左側に(=線路の南側に)讃岐丸亀城の天守閣が見えて来ました(右下の写真)。これは全国に12ヶ所だけ現存する木造天守閣の内の一つです。丸亀城の詳細はこちらをご覧下さい。
 団扇が特産と在りますが、車窓からも古風な造りの団扇屋が見えました。丸亀の団扇作りは寛永年間(1624〜44年)に金刀比羅宮参詣客への土産品として、渋団扇(しぶうちわ) −柿渋を表面にひいた、赤黒く丈夫で粗末な団扇。柿団扇。しぶせん。− が売り出されたのが始まりです。


 ところで左下はこの列車内の与謝蕪村を記した吊り広告(※15)です。

 俳人で画家の蕪村は摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の生まれが、ここ丸亀の妙法寺(別名:蕪村寺、丸亀市富屋町)に1766(明和3)〜68(明和5)年間に逗留し、左の写真に見える蘇鉄図(重文)を始め屏風絵や襖絵を数点残して居て、寺には蕪村の句碑(1976年建立)

  門を出(いず)れハ
   我も行人(ゆくひと)
    秋のくれ


も在るそうです(△9のp108)。
 フーム、又もや思わぬ所で思わぬ発見をして仕舞いました。

    ◆多度津駅のSL

 然う斯うする内に列車は多度津駅に着きました。

 多度津は香川県の西部、仲多度郡の町。金刀比羅宮参詣者の上陸地として賑わった。

 「××津」という地名は昔の港や船着場を指しますが、ここも金毘羅様で栄えたんですね。停車時間がたっぷり有るで私はホームに出て屈伸運動をして、ふらふら歩いて居ると向かいのホームの向こう側にSL(=蒸気機関車)が単独で置かれて居るのを見付けたのでパチリ(右下の写真)。
 実は多度津は”四国鉄道発祥の地”なのです。明治22(1889)年に金刀比羅宮参詣客を当て込んで多度津〜丸亀〜琴平を結ぶ讃岐鉄道(株)を設立し同年開業たのが始まりで、明治30(1897)年には高松迄延長、明治39(1906)年に旧国鉄(現JR)に移管され讃岐線に成りました。

 右のSLも多度津の”四国鉄道発祥の地”を記念して静態保存されて居ます。1928(昭和3)年の車輌称号規定以前の古い型の機関車で型式番号は58685、つまり8620型(通称:ハチロク型)です。大正11(1922)年に汽車製造(株) −川崎重工(株)大阪車両部の前身− 製で同年〜昭和45(1970)年迄四国で活躍しました。SLの向こうには「58685の碑」が立てられ、ご覧の様に屋根の下に置かれメンテも良い状態です。
 1921に発刊された志賀直哉(※17)の自伝的小説『暗夜行路』(前編) −後編は1937年に完成− の中で、直哉自身と思われる主人公・時任謙作が船で尾道から因の島、鞆の津を経由して瀬戸内海を渡り、象頭山(→後出)を海上から眺め乍ら多度津に着いて居ます。その一節に多度津港と駅の様子が次の様に描写されて居ます(△11のp147)。

  多度津の波止場には波が打ちつけていた。波止場の中には達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。...<中略>...停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。

 直哉が実際に尾道に訪れたのは大正1(1912)年なので、小説中の「普通より少し小さい汽車」ハチロク以前の明治時代の機関車(多分2100系)です。
 尚、SLの静態・動態保存の車輌については大井川鐵道(=大井川鉄道)の
  2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)
  大井川鉄道の”SLの人生”(The 'Life of SL', Oi-river Railway)

を参照して下さい。{この「SLの静態・動態保存の車輌」へのリンクは06年10月14日に追加}

    ◆ここから土讃線(多度津 → 阿波池田)

 多度津駅迄は予讃線で、この線は伊予の松山を経て宇和島駅迄行きます。予讃線は複線で”本線”の趣が有りますが我が列車はここから南に折れて単線の土讃線に入って行きます。

 [ちょっと一言]方向指示(次)土讃線は現在では多度津駅〜窪川駅(高知県高岡郡窪川町)を結ぶ線全体を指しますが、多度津〜阿波池田の区間は国鉄移管当初は讃岐線で、後に高知方面の高知線(後述)と繋がり土讃本線に、国鉄民営化で土讃線に成りました。宇和島駅〜窪川駅を結ぶ予土線[しまんとグリーンライン]で、予讃線と繋がります。

 土讃線に入ると様子が一変、単線に成り周りの風景も完全に”ローカル線”の雰囲気です。この”落差”にシティ・ボーイやシティ・ガールは先が思い遣られて来るのですが、私は逆に嬉しく成りました。実はこれから通るコースは台風常襲地帯で出水や土砂崩れで不通に成ることも多く地元では”土惨線”と呼ばれて居て、先が楽しみです。
 途中の善通寺駅には「弘法大師の生誕地」の大きな看板が在りました。

    ◆金刀比羅宮

 そして楽しみは直ぐに遣って来ました、左下の写真です。我が列車の下に単線のレールが見えました。これが先程の高松築港駅から来ている琴電琴平線で、JRから東側を見た光景です。琴平線はここでJRと交差しJR琴平駅の200m位西の琴電琴平駅迄行きます。因みにJR高松駅→琴平駅迄各停で約1時間15分掛かりましたが、琴電の高松築港駅→琴電琴平駅は1時間弱、琴電の方がJR各停より早くJR快速サンポート(琴平駅が終点)と同じ位です。


 琴電琴平駅の背後の象頭山(※19)中腹に先程から名前の出ている正式名の金刀比羅宮(※19−1) −通称の金毘羅様の方が有名− が在るので、反対側の車窓から西の山を覗くと雨雲で霞んだ山の中腹に僅かにそれらしき建物が見えました。私はあの森の石松が次郎長の使いで金毘羅詣でをした話を思い出して居ました。

 金毘羅はインドの鰐(わに)の化身(※19−2)ですが、主祭神の大物主神(※21)はそれぞれの土地を守護する地祇(=国津神)ですので、元々は地元豪族の氏社が神仏混淆以後仏教の影響を受けて金毘羅信仰(=船の守り神)の総本社に成ったものです。日本に居ない象を冠した象頭山という名も仏教の影響です。

 ところで、『金毘羅船々』という有名な民謡が在ります。その元々の歌詞は

  金毘羅船々 追手に帆かけて シュラ シュシュ シュ
  まわれば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 一度まわれば
  金毘羅船々...(以下、反復)...

というものです(△13のp312)が、これこそ金毘羅様が庶民レベルでは「船の神」(※19−1)として崇められて居た事実を良く表して居ます。尚、地名の「琴平」は明治期の改名です。
 琴平駅を出ると列車は雨の中を少しずつ登り山間部に分け入って行きました。

 (5)阿波池田

 暫くすると大きな川を渡りました。これが四国三郎として坂東太郎(=利根川)、筑紫次郎(=筑後川)と並び称された吉野川です。

 吉野川は四国の川。高知・愛媛両県境の石鎚山脈中に発源、高知県北部を東流、北転して徳島県に入ってその北部を東流、徳島市街の北で紀伊水道に注ぐ。上流に大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)の峡谷が在る。長さ194km。四国三郎


 そして川を右に見る向きに曲がって停車した駅が佃駅です。ここはもう阿波池田、即ち徳島県三好郡池田町です。
 右が佃駅を過ぎ車窓から見えた吉野川の赤い橋です。
 次が終点の阿波池田駅です。

 池田は徳島県北西端、吉野川中流域の町。人口1万7千。四国4県間の交通の十字路に位置。タバコなどの畑作が主。たばこ工場が在る。

 ところで吉野川は四国の中央構造線(※23、※23−1)に沿って流れる川で、阿波池田は構造線上に在ります。
 左が阿波池田駅の駅舎です。
 次の高知行きの乗り換え時間を利用して私は駅の外に出ました。小雨が降っていたので、閑散として居る駅前商店街を往復し、駅舎付属の店で祖谷蕎麦を食いました。そう、平家落人の祖谷(いや)はこれから通る祖谷口駅又は大歩危駅の奥に在ります。

 (6)阿波池田 → 高知(引き続き土讃線)

 右が阿波池田駅で待機して居る列車、1輌編成のディーゼル・ワンマンカーで、これ以上省略出来ない”究極のローカル列車”です。私は益々嬉しく成りました、益々先が楽・し・み・で・す!!

 良く見ると、この列車の前面には漫画のキャラクターが貼り付いて居ます。それを拡大したのが左上の2枚です(左がアンパンマン、右がメロンパンナ)。「ありがとう5しゅうねん」と書いて在りますね、どうやらこの列車は「アンパンマン列車」(説明は後述)らしいですね。



    ◆新改駅でスイッチバック

 新改駅では対向列車を通過待ちする為に折り返して退避する場所に駅が作られて居ます。





    ◆土佐山田 − アンパンマンの故郷

 この日は雨で昼間から暗かったのですが新改駅を発ち山間をぐんぐん下って行く間に日が暮れてすっかり暗く成って居ました。次の土佐山田駅に着くと平地に成り街の灯が見える様に成りました。ここで「アンパンマン列車」について説明して置きましょう。何故ならここがアンパンマンの故郷の最寄駅だからです。
 アンパンマンは漫画家・やなせたかし(※24、※24−1)が「あんパン」 −餡(あん)の入ったパン− をキャラクター化したテレビアニメの主人公ですが、やなせ氏は高知県香美郡香北町の生まれで、その最寄駅がここ土佐山田駅なのです。氏は94年に香北町名誉町民に成り、これを記念して96年生まれ故郷の高知県香美郡香北町に「香北町立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」が建てられ、続いて98年には隣に「詩とメルヘン絵本館」も開館して居ます。
 という訳で、JR四国も2000年から、車体全面にキャラクター塗装した特急の「アンパンマン列車」(後述)を土讃線に登場させ、更にはレトロな客車に子供用プレールームを備え専属スタッフの居る特急の「ゆうゆうアンパンマンカー」や、アンパンマンのキャラクターを列車前面に取り付けた各駅停車の「アンパンマン列車」(前述)などを四国各地の線に順次投入して来ました。更に更に、土佐山田駅〜記念館を往復する路線バス大栃線には「アンパンマンバス」が運行して居ます。更に更に更には「アンパンマン駅弁」も在るそうな、これって餡パンをオカズしした弁当かしら!!
 ところで、記念館名誉館長のやなせ氏は「山峡の細長い空を旅する雲はぼくの子どもの時とおんなじだ。物部川にのんきそうな影をおとしている。」と語って居ます(△15)。空に浮かぶ雲を思い遣る心は、何年か前にラジオ番組の中で「ぼくは主人公が敵を遣っ付けるマンガは描かない。遣っ付けても何も解決しないから。」と語っていた創作姿勢に通じ、氏の作風の「温か味と詩情」の源泉だと思われます。

 物部川は高知県白髪山(1770m)にその源を発し、渓谷をほぼ西南に流れ龍河洞 −日本三大鍾乳洞の一つで弥生時代に尚も洞窟内に住んで居た人の壁画が在る− の近くから高知平野東部を貫流して土佐湾に注ぐ一級河川です。

 私は鳥取県境港の「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげるのアニメの主人公)を思い出しました。


 (7)高知の夜



東側には「ペギー葉山記念植樹」なる木が植えられて居ます



 夜は鰹の叩きや刺身を当てに土佐の酒 −司牡丹土佐鶴− を堪能しました。高知には安くて旨い店が結構在りまっせ!


 ■16日(日) − 

 (1)高知の朝





 右下は「はりまや橋」交差点の路面で直交する土佐電のレール

平成5年はりまや橋公園として整備されました。



銘菓「かんざし」で有名な浜幸のお店は、はりまや橋の直ぐ脇に在ります。









県立高知追手前高等学校(〒780-0842 高知県高知市追手筋二丁目2-10







 (2)高知 → 阿波池田(土讃線)

 この列車はスイッチバック駅の新改駅に停車せずに通過しましたが、駅には対向列車がちゃんと停車して居ました、さっと通過して仕舞ったので撮影出来ませんでしたが。

 右が次の繁藤(しげとう)駅の「高知線の歌・第24番」の説明板で、歌詞が読めると思います。先ず高知区間の土讃線は嘗ては高知線と呼ばれこの歌は昭和7(1932)年に多度津駅を起点に作ったもので、多度津を1番として数えるとここが24番目に当たります。
 この説明板に拠れば、嘗てここは天坪村と呼ばれ昭和38(1963)年迄天坪駅であり、マンガンが採掘されて居たことが解ります。

 やがて進行方向左側に大歩危・小歩危に連なる峡谷と、底を流れる谷川が見えて来ました。
 暫く峡谷に沿って進んだ後に何と列車は峡谷の鉄橋の上で停車しました。左が鉄橋上の土佐北川駅で、発車後後尾から撮ったものです。ご覧の様に無人駅で鉄橋の上は複線です。ホームは狭く川底からは可なりの高さが有ります。
 この駅には特急は停まりません。つまりホームに立って特急の通過待ちをすればスリル満点です、更に上下両方向の列車が同時に通過したら最高です!、私はふと淀川の赤川鉄橋の体験を思い出して居ました。

    ◆大歩危・小歩危と平家落人








 こうして私が散歩して居る間に何度か特急が停車し先に発車して行きました。右の写真はホームに休止中の我が各停(手前の1輌編成)と反対方向に向かう特急列車(3輌編成の様)です。この写真はxx橋の上から撮りました。
 私がホームに戻り待って居る間に今度は追い越して行く特急列車が発車しました。ムムッ、全面ピンク色の車体に漫画が(左下の写真)?、何とド派手な!、良く見るとアンパンマンのキャラです(右下の拡大写真)。これが土佐山田の節で述べた特急の「アンパンマン列車」です、御目に掛かれて、幸・せ・で・す!!









 (3)阿波池田 → 徳島(徳島線[よしの川ブルーライン])




 (4)徳島











 (4)徳島 → 高松(高徳線)


 徳島駅を発つと次の佐古駅で、午前中乗って来た徳島線と分かれます。そして間も無く昼眺めた吉野川を渡りました(右の写真)。この頃から空は雲一つ無い快晴に成りました。

    ◆阿波の狸合戦

 池谷(いけのたに)駅 −この駅からはJR鳴門線が分岐している− で停車中に、左下の様な「ふるさとカーニバル 阿波の狸まつり」の幟が目に入りましたのでパチリ。昭和53(1978)年から毎年11月初旬に徳島市藍場浜公園(徳島市藍場町1〜2丁目)で開催され、県下では8月の阿波踊りに次ぐイベントだそうです。狸のお面作りを体験したりタレントを呼んだりと、祭と言うよりイベント色の濃い催しの様です。それにしても「狸」とはケッタイな、何でや?
 そこで調べると、これは阿波徳島に伝わる「阿波の狸合戦」の伝説に因んだ命名なのです。天保年間(1830〜43年)、小松島日開野の染物屋・大和屋茂右衛門に命を助けて貰った狸・金長(きんなが)は津田浦の阿波狸の総帥・六右衛門の許に修行に行った時に、その才能を見込まれ六右衛門から娘の婿養子に成れと勧められましたが大和屋に恩義の有る金長はこれを断ります。これが切っ掛けで両狸は抗争に及び阿波中の狸が二派に分かれて参戦、金長・六右衛門の両狸死後も弔い合戦が続き疲弊の極みに達し、遂に讃岐屋島の狸の大親分・禿(はげ)(←後出)の仲裁で漸く手打をした、という話です。そして小松島市日開野町には金長大明神が、日峰山には金長神社が、徳島市津田西町の穴観音には六右衛門大明神と六右衛門の跡取りの娘狸・鹿の子(かのこ)の祠が、それぞれ祀られ今でも信仰を集めているそうです(△19のp184〜186)。
 阿波の麻植郡にも狸合戦の伝説と狸の祠が在る様です(△19のp186〜188)が詳細は省略します。他にも伊予の「八百八狸」伝説(△19のp169)など、四国全体で狸信仰が強く逆に狐の話は少ないそうで、これは弘法大師が狐の狡猾さを嫌って封じた為と言われて居ます。因みに、麻植(おえ)麻植神(※26)に纏わる由緒有る名で、次節で触れる阿波忌部氏の拠点で古墳などが在ります。

 この池谷駅から鳴門線が枝分かれしますが、鳴門は近松半二の浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』の舞台です。

    ◆四国遍路の真相 − 四国忌部氏の影

 次の板東駅に停車したらホームに鳥居が立って居ました(右下の写真)、逆光と窓ガラスの光で鳥居の扁額の文字は読めませんが。
 これは駅の北2km位の所に位置する大麻比古神社(徳島県鳴門市大麻町)の鳥居で、徳島行きのホームにも鳥居が立って居ました。
 大麻比古神社は大麻比古神を主祭神とする元国幣中社で阿波国一の宮、現在は猿田彦命も配祀。背後の大麻山に奥宮が在ります。
 ところで、大麻比古神忌部氏(※26−1)の祖・天太玉命(※26−2)の孫の天富命の別名(※26−3、※26−4)とされ、楮(こうぞ)の種を蕃殖した神とされて居ます。

宮中祭祀、特に葬送儀礼に従事したの忌部氏は朝廷の大嘗祭に麻布や木綿(ゆう)を献上して居ます。



 又ここは四国霊場八十八箇所の第1番札所・竺和山霊山寺(じくわざんりょうぜんじ)への最寄駅でもあります。霊山寺も同じ大麻町で大麻比古神社に行く途中に在ります。四国霊場八十八箇所は弘仁6(815)年に弘法大師・空海(※3)が開創した伝えられ、88という数字は人間の煩悩の数とも、男42・女33・子供13の厄年の合計の数とも言われて居ます。白装束・菅笠に金剛杖のお遍路さんは、ここを起点に空海の修行の跡を反時計回りに辿りますが、起点が葬送儀礼に深く関わる忌部氏の地であるのは決して偶然では無く、四国遍路が「心の浄化の旅」と言われる真意がここに在る様に思えます。
 事実、空海の生誕地近くの善通寺市大麻町には大麻神社(主祭神:天太玉命) −ここでも「麻」です− が在り、斎部広成(※27−1)が忌部氏(斎部氏)の伝承を『古語拾遺』に留めた807年は空海が唐から帰国した翌年で空海33歳の時です。この時代は衰微したとは言え忌部氏の勢力は大きく、空海と忌部氏との因縁は同時代的です。


大麻町大谷

大谷遺跡, 縄文
大谷焼
宇志比古神社(重文)




    ◆明るい陽光 − 東讃から屋島


 暫く山間を進むと海が見えて来ました。右は讃岐相生駅に差し掛かる所で撮った瀬戸内海で、左の島が通念島で右が松島、快晴で海も空も青く素晴らしい眺めです。もう香川県に入りました。
 この後暫くは海が見え隠れし淡路島も見えました。


xx西に「阿波富士」とも言われる高さ1133mの高越山(こうつざん、1133m)がそびえる



 途中、オレンジタウン駅(1998年開業)というカタカナ名の駅を過ぎた辺りから左前方に天辺がニョキッと突き出た奇態な形の山が見えて来ました(左下の写真)。

 これが屋島の東隣の半島の五剣山(別名:八栗山、375m)で、この写真では天辺に3つの瘤が見えて居ましたが、近付くと瘤の数は増え荒々しい地肌を露出させて居ます(←私ら四国在住で無い人にとっては、もうこの景色は屋島の範疇です)。
 これはメサ(※30)という侵食地形だそうで、この地肌が昔の人には5つの剣を立てた様に見えたのでしょう。山腹には大師が8つの栗を植え見事に育ったという第85番札所・五剣山八栗寺が在ります。

    ◆屋島の名狸の禿 − 本名は太三郎狸

 ここで屋島の名親分・狸の禿(はげ)を紹介しましょう。禿事太三郎狸は前に述べた「阿波の狸合戦」で狸合戦の仲裁をした狸です。屋島には鑑真が建立したとされる屋島寺が在り、その本堂の脇に太三郎狸を祀った箕山大明神が在るのです。私は狸を祀った神社など今迄知りませんでしたが、その位太三郎狸はエライのです!
 屋島と言えば源平の合戦場として名高いですが、平家の大将・小松重盛が矢に当たり死に瀕していた夫婦狸を助けたそうな。その恩を感じた夫婦狸の子孫は平家の守護神に成り、その一族から太三郎狸が生まれました。平家が滅びると太三郎狸は屋島に帰り屋島寺の守護神に成り、その眷属(※33)は300に及び遂に太三郎狸は四国の狸族の総大将に成ったという話です(△19のp158〜159)。




 そして志度駅 −ここには琴電志度線が来て居ます− 、屋島駅を経て列車は16時8分に高松駅に到着しました。右が高松駅に到着した高徳線の2輌編成のディーゼル車輌です。
 後から写真で見るとこの列車も「アンパンマン列車」です。

 (5)高松

 昨日とは打って変わって今は快晴です。私は再び港のフェリー乗り場に行って海を眺めて時間を潰しました。下は出港するフェリー −小豆島に向かうオリーブライン(Olive Line)− で、紺碧の空と群青の海の中で西日を浴びて白く輝いて居ました。フェリーの背後の陸地が讃岐桃太郎伝説の舞台の女木島(別名:鬼ヶ島です。


 (6)高松 → 岡山(高松→坂出:予讃線、坂出→岡山:瀬戸大橋線)

 駅の構内に戻ると立ち食いの店を見付けたので讃岐うどんの「ぶっ掛け」を食い、私は思い残すこと無く再び快速マリンライナー(今度は50号)に乗り込みました。坂出→児島間では瀬戸内海の夕景を見ることが出来ました(下の3枚の写真)。

 右はカーブを利用して前方に僅かに見えた瀬戸大橋です。窓を開けることが出来ないので窓ガラスを斜めに通して撮ったので、歪みや手ブレの影響が出て居ますが形は判ります。

 下は橋の下を航行する船のシルエットです。茜色の空は少しずつ夕闇に包まれて行き、紫色にそして濃い藍色に変化して行き、岡山に着いた時(16時5分)には夜空に成っていて東には明るい月が出て居ました。


 (7)岡山 → 大阪(山陽本線)

 この後、岡山発18時17分、途中播州赤穂で乗り継ぎましたが、待ち時間は殆ど無く大阪着は20時59分で、岡山→大阪は2時間42分でした。大阪→岡山の3時間45分に比べこれは妥当でしょう。
 以上の様に私は2日間殆ど乗りっ放しでしたが、大して疲れませんでした。まぁ、座ってただけですから、アッハッハ!

 ■結び − 祖谷地方の土讃線の各停に”完乗”したのは私だけ

 こうして旅行記を纏める過程で感じたのは、やはり「四国は弘法大師・空海の国」(※3)ということですね、饂飩(うどん)狸信仰遍路も皆お大師様です。そして金毘羅様の人気も衰えて居ません。そんな中で平家落人の部落四国忌部氏の郷がひっそりと眠って居ます。崇徳天皇の様に昔は”島流し”の島だった訳ですから、或いは罪人の隠里なども在ったかも知れません。島は”本土”とは違った歴史を秘めて居ます。
 何の目的設定もせずにフラッと列車で通過しただけの旅で、ここに掲載した写真も殆どが走行中の車窓を通したものです。しかし後から写真を見乍ら土地の歴史を少し探ってみると色々な事が解りますので、この様な旅も良いものです。しかも安い切符で目一杯楽しめました。
 特に面白かったのは阿波池田〜高知の土讃線です。たった1輌のワンマンカーで峡谷や山の風景を楽しめ更にスイッチバック駅鉄橋上の駅など、都会では見られない珍しい”文明の利器”に出会うことが出来ました。今思うと、この祖谷地方の土讃線の各駅停車に乗った観光客は往きは私以外に1人、帰りは皆無でした。その1人は大歩危駅からの途中乗車で、地元の人は短区間、結局、阿波池田駅→高知駅迄”完乗(=完全乗車)”したのは私だけでした、遣ったね!!

                (^O^)/

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】



※2:「青春18きっぷ」とは、JRの各駅停車と快速の普通車を1日(=0時0分〜23時59分)乗り放題の検印欄5日分を1枚に印刷した切符のことで、05年8月現在の値段は11,500円(=2,300[円/日])です(子供も同額)。1日分ずつの分割は不可だが複数人での共同使用は可。急行、特急、寝台での利用は無効。JRバスや船の利用は概ね無効だが、地方に依り利用可能な便が有るので、予め調べると利用範囲が広がります。
 常時発売されて居るのでは無く、学生の春・夏・冬の長期休暇に合わせて発行されるので「青春」と命名されて居ます。

※3:空海(くうかい)は、平安初期の僧(774〜835)。我が国真言宗の開祖讃岐の人。灌頂号は遍照金剛。初め大学で学び、後に仏門に入り四国で修行、804年(延暦23)入唐して恵果(けいか)に学び、806年(大同1)帰朝。京都の東寺・高野山金剛峯寺の経営に努めた他、宮中真言院や後七日御修法の設営に依って真言密教を国家仏教として定着させた。又、身分を問わない学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立。詩文に長じ、又、三筆の一。著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。諡号は弘法大師
※3−1:密教(みっきょう、esoteric Buddhism)とは、仏教の流派の一。深遠で、凡夫に窺い得ない秘密の教え。悟りの境地は曼荼羅(又は曼陀羅)に象徴される。インドで大乗仏教の発展の極に現れ(7〜8世紀)中国日本の他ネパールチベットなどにも広まった。日本では、真言宗系(空海)の東密と天台宗系(最澄)の台密とが在る。秘密教。秘密仏教。←→顕教。

※5:「夷を以て夷を制す」は、[後漢書ケ禹伝]外国を利用して他の国を押さえ、自国の安全・利益を計ること。敵を利用して他の敵を制する。以夷制夷(いいせいい)。


※6:「さへく」とは、騒がしい声で物を言う。聞き分け難く物を言う。<出典:「新明解古語辞典」(三省堂)>


※7:漫画チック/マンガチック(まんが―)は、(チック(tic)は英語の形容詞語尾で和製語)漫画みたいな様。漫画的。


※8:桃太郎(ももたろう)は、昔話の一。桃の中から生れた桃太郎が、犬・猿・雉を連れて鬼ヶ島の鬼を退治するという話。室町時代の成立で、時代色を濃く反映し、忠孝勇武の徳を謳歌する。岡山地方では桃太郎伝説が在り、吉備津彦命が桃太郎のモデルとされて居る。

※9:吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、本名を彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)。吉備氏の祖と伝える伝説上の人物で、古代吉備政権との関わりが注目される。「日本書紀」に第7代孝霊天皇の皇子で、四道将軍の1人として吉備国を平定したと伝える。記では吉備の上つ道臣の祖とされ、吉備津彦を称する2皇子(←もう1人は若日子建吉備津日子命で弟の雅武彦命)が在る(←孝霊記)。吉備津神社の中山の古墳は命の陵墓とされる。一説に桃太郎のモデルとされて居る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※9−1:四道将軍(しどうしょうぐん)は、記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍(何れも皇族)。北陸は大彦命、東海は武渟川別命(たけぬなかわのみこと)、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)。古事記は西道を欠く。
※9−2:雅武彦命(わかたけひこのみこと)は記紀伝承で、吉備津彦命の弟で兄の山陽道平定に従軍。若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)。紀では吉備臣の祖。記では吉備の下つ道臣・笠臣の祖(←孝霊記)。









※11:磐座(いわくら)とは、(イハは堅固の意)[1].神の鎮座する所。岩座。
 [2].山中の大岩や崖。
※11−1:神奈備(かんなび、かむなび)とは、神の鎮座する山や森。神社の森。三諸(みもろ)。神名備・神南備・甘南備。祝詞、神賀詞「大三輪の―」。神奈備山とは、神の鎮座する山の意。




※13:サヌカイト(sanukite)は、(讃岐国白峰山に多く産するから言う)灰黒色乃至は漆黒色で緻密な安山岩。古銅輝石・輝石・磁鉄鉱及び稀に柘榴石などを含み、ハンマーで叩けば良い音を発する。石材として利用。讃岐岩(さぬきがん)。かんかん石。磬石(けいせき)。
※13−1:安山岩(あんざんがん)は、(元アンデス山系で発見され、andesite に由来する)火山岩の一。暗灰色で緻密。斜長石・角閃石・黒雲母・輝石などを含み、板状・柱状等の節理が有る。造山帯に産出。広く土木・建築に使用。



※15:与謝蕪村(よさぶそん)は、江戸中期の俳人・画家(1716〜1783)。摂津国東成郡毛馬村生まれと言う。本姓は谷口、後に改姓。別号、宰鳥・夜半亭・謝寅・春星など。幼時から絵画に長じ、文人画で大成する傍ら、早野巴人に俳諧を学び、蕉風の中興を唱え、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。著「新花つみ」「たまも集」「春風馬堤曲」など。俳文・俳句は後に「蕪村句集」「蕪村翁文集」に収められた。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>



※17:志賀直哉(しがなおや)は、小説家(1883〜1971)。宮城県生れ。東大中退。武者小路実篤らと雑誌「白樺」を創刊。強靱な個性に依る簡潔な文体は、散文表現に於ける一到達点を示した。作「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」など。文化勲章。



※19:象頭山(ぞうずさん)は、中インドの伽耶(ガヤ)城の西方に在る山。伽耶山。形が象の頭に似ていると言い、成道後間も無い釈尊が説法した。
 香川県にも象頭山が在り、金刀比羅宮が在る。
※19−1:金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡象頭山(別名:琴平山)の中腹に在る元国幣中社。祭神は大物主神・崇徳天皇。元々は金毘羅(こんぴら)を祀り、船人に尊崇された。毎年10月10日の大祭は盛大。金毘羅大権現。金毘羅宮。金毘羅様。
※19−2:金毘羅/金比羅(こんぴら、Kumbhira[梵]は「鰐」の意)とは、
 [1].金毘羅は仏法の守護神の一。元ガンジス河に棲むが神格化されて、仏教に取り入れられたもの。蛇形で尾に宝玉を蔵すると言う。薬師十二神将の一つとしては宮毘羅(くびら)大将、又は金毘羅童子に当たる。
 [2].香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)のこと。



※21:大物主神(おおものぬしのかみ)とは、奈良県大神神社 −おおみわじんじゃ、我が国最古の神社− の祭神。蛇体で人間の女に通じ、又、祟り神としても現れる。一説に大己貴神(おおなむちのかみ)即ち大国主命と同神。



※23:中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん、Median Tectonic Line)とは、日本列島の中央を東西に、諏訪湖の南から天竜川の東側に沿い、豊川の谷を通って紀伊半島に入り、四国から九州中部に及ぶ大断層線。これより北側を内帯、南側を外帯と言う。
※23−1:構造線(こうぞうせん、tectonic line, structural line)とは、〔地〕規模の大きな断層、又は断層群糸魚川静岡構造線(=フォッサマグナの西縁)や中央構造線の類。

※24:やなせたかし(―)は、漫画家、本名は柳瀬嵩(1919〜)。高知県香北町に生まれ東京高等工芸学校(現:千葉大学工学部)図案科でデザインを学ぶ。戦後、中国から故郷の高知に戻り上京後漫画家に転向、73年に発表され80年代にテレビアニメ化された「アンパンマン」が代表作。本業の他、絵本作家・編集者・作詞家など。クリスチャン。94年香北町名誉町民。<出典:「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」>
 補足すると、高知県東部には魚梁瀬(やなせ)という地名が在ります。
※24−1:魚梁瀬(やなせ)は、高知県東部、奈半利川(なはりがわ)上流域の馬路村(うまじむら)中東部の魚梁瀬貯水池の北岸に在る集落(安芸郡馬路村大字魚梁瀬)。魚梁瀬国有林の中心地。旧集落が発電用の魚梁瀬ダム(1965年完成)建設で水没した為に現在地に移転。周辺は魚梁瀬県立自然公園。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>






※26:天日鷲命(あまのひわしのみこと)は、出雲の国譲り神話に登場する神で、『日本書紀』の一書では作木綿者(ゆうつくり)として居る。古代の木綿(ゆう)とは楮(こうぞ)のことで織物繊維の原料にされて居た。又、天照大神が天岩屋戸に隠れた時、穀木綿(ゆう)を植えて和幣(にきて)を作ったことから麻植神(おえのかみ)とも言う。阿波の忌部連、弓削連、多米連、天語連などの祖神
※26−1:忌部/斎部(いむべ/いみべ/いんべ)氏は、古代の氏族の一。朝廷の祭祀に奉仕。伝承上の祖は天太玉命。姓は連(むらじ)・首(おびと)など。連は天武天皇の時に宿禰(すくね)に昇格。他に伊部・諱部などとも書く。
※26−2:天太玉命(あまのふとたまのみこと)は、日本神話の五部神(いつとものおのかみ)の一。天岩屋戸の前で天香山の真榊を取り、玉・鏡・和幣(にきて)を掛け、天照大神の出現を祈った。忌部氏(斎部氏)の祖とする。
※26−3:天富命(あまのとみのみこと)は、日本神話で、天太玉命の孫。神武天皇の時代、天種子命と共に神事を司り、又、造営に与り、鏡・玉・木綿(ゆう)などを作ったと言う。
※26−4:天種子命(あまのたねこのみこと)は、日本神話で、天児屋根命の孫(一説に子)。神武天皇の即位に天つ神の寿詞(よごと)を奏し、後に祭祀を司ったと言う。中臣氏の祖



※27:古語拾遺(こごしゅうい)は、歴史書。斎部広成著。1巻。807年(大同2)成る。古来中臣氏と並んで祭政に与(あずか)って来た斎部氏が衰微したのを嘆き、その氏族の伝承を記して朝廷に献じた書。記紀に見えない伝承も少なく無く、「三種の神器」(鏡・剣・曲玉)に対し神器二種説(鏡・剣)を説く。
※27−1:斎部広成(いんべのひろなり)は、平安初期の官人(生没年未詳:770頃〜830頃か)。斎部氏の勢力が衰えたことを嘆き、807年(大同2)「古語拾遺」を著してその由来を明らかにした。






※30:メサ(mesa[スペイン])とは、(卓/台の意)頂上が平坦で、周囲が急傾斜した卓状地形。即ち、台地が浸食作用を受けて、抵抗の強い水平な地層が下の抵抗の弱い地層の上に乗ったもの。香川県屋島などがその例。


※33:眷属/眷族(けんぞく)とは、[1].relative。一族。親族。身内。親族(うから)。族(やから)。
 [2].vassals。従者。家子(いえのこ)。腹心の者。
 [3].仏・菩薩に付き従うもの。薬師如来の十二神将、千手観音の二十八部衆など。



    (以上出典は主に広辞苑)

【参考文献】
△1:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。



△2:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。


△3:『空海の風景(上)』(司馬遼太郎著、中公文庫)。



△7:『日本の「富士」たち』(山本鉱太郎著、講談社)。


△9:『蕪村俳句集』(与謝蕪村著、尾形仂校注、岩波文庫)。


△11:『暗夜行路』(志賀直哉作、講談社文庫)。



△13:『日本民謡集』(町田嘉章・浅野建二編、岩波文庫)。



△15:「香北町立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」公式サイト。


△17:『古語拾遺』(斎部広成撰、西宮一民校注、岩波文庫)。

△19:『日本伝説の旅(下)』(武田静澄著、現代教養文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):鉄道の日や
SLの車輌称号規定と型式番号について▼
資料−SL発達史と日本SLの型式番号(The history and naming rule of SL)


補完ページ(Complementary):四国の城▼
2005年・四国の城巡り(Travel over castles in Shikoku, 2005)



関東のうどん好きの町▼
2004年・鯉幟の町−加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
佐伯氏や佐伯部について▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)




磐座や神奈備についての私見▼
2003年・年頭所感−感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

与謝蕪村の生誕地や鉄橋上で列車の通過を見る醍醐味▼
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
思わぬ発見こそ旅の醍醐味▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)

SL静態保存▼
2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)
大井川鐵道(=大井川鉄道)のSL静態・動態保存▼
大井川鉄道の”SLの人生”(The 'Life of SL', Oi-river Railway)

祭とイベントの違い▼
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)




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