獲加多支鹵大王とその時代
[雄略天皇/蝦夷と毛野国/対外政策etc]
(Wakatakeru the Great and its age)

-- 2006.02.18 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.02.02 改訂

 ■はじめに - 稲荷山古墳が出発点

 2003年12月10日「さきたま古墳公園」(埼玉県行田市大字埼玉)に行きました。中でも特に稲荷山古墳が当ページと密接な関係が有りますが、その旅行記は既に▼下▼で発表して在ります。
  前玉神社と「さきたま古墳群」(Sakitama shrine and tumuli, Saitama)

 「前玉神社と「さきたま古墳群」」の中で稲荷山古墳について記しているので、その部分をここにコピーします。

----▼(コピー)
 下が有名な稲荷山古墳(※10)です。主軸長120mの前方後円墳(※5)で、築造は5世紀後半~6世紀初頭、「さきたま古墳群」中最古です。写真右側の前方部は復元したもので、やはり周囲を二重周濠が取り囲んで居ます。昭和初期(1930年頃)迄は個人の所有に成って居た代物で、1968年の発掘調査で奥の後円部から国宝と成る鉄剣が出土し当公園の目玉商品的存在です。その後円部には嘗て稲荷神社が在ったのでこの名が在ります。
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 画面右側が前方部、左側が後円部です。
 後円部の拡大が下の写真です。後円部には階段が付いていて上に登れます。


 このページは後日色々と考察した事を纏めたものです。前文で語る事は皆無で、この稲荷山古墳が出発点です。早速本文に入ります。後は宜しく!

 ■稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘

 1968年のX線調査で稲荷山古墳(※10)から出土した鉄剣に施された115文字の金錯銘(※11)が明らかに成り大きな話題に呼びました。この鉄剣は国宝に指定されたからです。それは金錯銘から、当時の大王(おおきみ/だいおう) -当時は天皇という語は未だ無い!- の名前が明らかに成ったからです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 「天皇」という称号が使われたのは推古朝(在位592~628)以後とするのが学会の定説の様です。因みに『日本書紀』681(天武10)年に編纂の命が下ったと考えられ完成したのが720年(※1、※1-1、△2-4のp522)で、『日本書紀』の執筆陣は当然「天皇」という語を知って居た訳で、皆過去の話を「××天皇」として後の時代に記述している、という事に注意して下さい。そして「後から記述」された「××天皇」という表現を、私どもも便宜上使っている訳です。しかし、「××天皇」と書かれて居ても実際には推古朝以前(=約600年以前)には「天皇」という語は無いのです。

 当時の刀は直刀(※14、※14-1) -反(そ)りの無い真っ直ぐな刀- で、その両面に金錯が施して在ります。刀の長さ73.5cm、幅3.5cm
 金錯銘は以下の通りです。

    ◆稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘

  1.釈文

 (表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
 (裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

  2.訓読

 (表)辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
 (裏)其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

    (広辞苑より)

 上記で「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」雄略天皇(※15)と考えられて居ます。この天皇の名が大泊瀬幼武(紀)/大長谷若建(記)(おおはつせわかたけ[る])幼武(紀)/若建(記)(わかたけ[る])が正に其の者ずばりだから(△2-2のp16、△4のp184)で、年代的にも辛亥年の471年 -干支の年は60年に1回のみ- で整合が取れるからです。

 ■獲加多支鹵大王(雄略天皇)のリアルな姿

 (1)一般名詞の「雄略」

 私は第21代雄略天皇第10代崇神天皇(※16)と並んで古代で最も重要な天皇(=大王)と考えているので、以下は金錯銘を離れて雄略天皇について簡潔に纏めてみました。
 先ず記紀の扱い方が丸で違って居るという事を最初に言って置きます。『古事記』の方は国内のエピソードのみですが、『日本書紀』雄略紀では半分が緊迫した朝鮮半島の情勢です。従って以下は主に『日本書紀』に沿って話を進めます。その際、推古天皇以降は年代確定が略出来ますが、それ以前は出来ません。それ以前の場合は第××代の天皇かで判断して下さい。
 そもそも「雄略」(※15-1)とは「雄大な計略(grand plan)」の事で、雄略天皇を表す特別な名詞では無いのです、つまり一般名詞で広辞苑にも載って居るのです。『日本書紀』崇神紀12年で御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)(△2のp296)と呼ばれ、更に『常陸国風土記』香島郡(※x、※x-1)では初国所知美麻貴天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)」(△3のp390)と呼ばれた崇神天皇が、崇神紀即位前紀に「幼(わか)くして雄略(ををしきこと)を好みたまふ。」(△2のp274)と、雄略という言葉が一般名詞として出て来ます。
 又、第12代景行紀2年にも「其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞(え)にして双(ふたご)に生れませり。...<中略>...是の小碓尊は...<中略>...亦は日本武尊と曰す。幼くして雄略(をを)しき気有します。」(△2-1のp60)と、今度は形容詞で出て来ます。尚、日本武尊はここに在る様に双子の弟です。

 (2)「倭の五王」とは?、そして「倭の五王」の比定

 ところで雄略天皇は古墳時代中期(※5-2)の大王です。【脚注】※5-2に在る様に「中期には強力な首長の統合に依って大和政権が確立された時代」を生きた大王だ、という事を頭に入れて置いて下さい。
 さて、私は『魏志倭人伝』や『日本書紀』と同じく、『宋書』(※17、※17-1)に於いても先ず素直に文章を読み素直に比定します。
 以下に『宋書』倭国伝を全文載せます(△5のp60~64)。

    ◆『宋書』巻97夷蛮伝・倭国(=『宋書』倭国伝)

 倭国は高麗の東南大海の中にあり、世々貢職を修む。
 高祖の永初二年、詔していわく、「倭、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」と。
 太祖の元嘉二年、また司馬曹達を遣わして表を奉り万物を献ず。死して弟立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・暮韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。
 二十年、倭国王、使を遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。
 二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・暮韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如く、ならびに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に除す。死す。世子、使を遣わして貢献す。
 世祖の大明六年、詔していわく、「倭王世子、奕世(えきせい)載(すなわ)ち忠、藩を外界に作し、化を稟(う)け境を寧(やす)んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とすべし」と。死して弟立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・暮韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。
 順帝の昇明二年、使を遣わして表を上(たてまつ)る。いわく、「(以下はの上表文)封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。...<中略>...その余は咸(み)な仮授して、以て忠節を勧む」と。詔してを使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・暮韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に除す。

 「倭の五王」とは『宋書』に出て来る(世子)、を指します。これらの情報及び上表文『日本書紀』を始め日本側の文献には一切載って居ません
 『宋書』倭国伝(一部は『南斉書』)の中の年代と事柄の推移は以下の通りです。

  永初  二年:421年   、万里貢を修む。
  元嘉  二年:425年   、司馬曹達を遣わす。死して弟立つ。
                、貢献し安東将軍に。
  元嘉二十 年:443年   、奉献し安東将軍に。
  元嘉二十八年:451年   死す。世子貢献す。
  大明  六年:462年   死して弟立つ。、安東大将軍に。
  昇明  二年:478年   上表文を奉る。安東大将軍に。
 [建元  元年:479年   、鎮東大将軍に(←『南斉書』)。]

 以下、比定作業に入ります。先ず死して弟立つ」と言って居るのでは兄弟」で、そうするとは履中天皇(※18)、は反正天皇(※18-1)以外に有りません。司馬曹達については不詳。は允恭天皇(※18-2)です。履中/反正/允恭は仁徳天皇を父とする兄弟ですが『宋書』の著者 -沈約(しんやく)(※17-1)- は允恭も兄弟だとは思わなかったのでしょう。
 さて、世子とは世継ぎの事(※19)で、この場合皇太子です。世子は木梨軽皇子(※18-3)しか居りません、彼は允恭23年に立太子して居ます(△2-1のp328)。只のでは無く世子と成っている事に今迄この比定を行った学者は誰も気付かなかったのでしょうか??、私の知って居る限り世子に軽皇子を当てたのは水野祐氏(△6のp159)しか居ません。は雄略天皇で、軽皇子は允恭天皇の第1子(※18-3)、雄略天皇は允恭天皇の第5子(※15)なので、正に死して弟立つ」が成り立つのです。第20代安康天皇(※18-4)も允恭天皇の第2子なので死して弟立つ」は成り立ちますが、世子は成り立ちません。
 以上を纏めると、私の「倭の五王」の比定は以下の様に成ります。

    ◆私の「倭の五王」の比定

  讃    :第17代履中天皇  421~425年<6年>
  珍    :第18代反正天皇  425~429年<5年>
  済    :第19代允恭天皇  443~451年<42年>
  興(世子):木梨軽皇子     451~462年
        (允恭天皇の皇子)   允恭23年に立太子
                    允恭42年に第20代安康天皇と戦い死去
  武    :第21代雄略天皇  462~485年<23年>
                    471年に稲荷山古墳出土鉄剣に
                      獲加多支鹵大王の名前が
                    478年に上表文(←『宋書』)

        *.<>内は『日本書紀』による在位年数

 これが最も素直な比定です。これで特に不都合な所は有りませんので私はこれを提唱します。難点は有ります、それはに比定してる反正天皇の『日本書紀』の記述が△2-1のp300~302と極端に少ないのです。記事としては即位年の「冬十月に、河内の丹比(たぢひ)に都つくる。是を柴籬宮(しばかきのみや)と謂(まう)す。是の時に当たりて、風雨時に順(したが)ひて、五穀成熟(みの)れり。人民富み饒(にぎは)ひ、天下太平なり。」という”嘘臭い”記事だけです(△2-1のp300~302)。『宋書』ではは色々遣って居ますが...。それで今迄の学者先生もを第16代仁徳、を履中」に当てる人が多いのですが、私はやはり死して弟立つ」を重視します。

                (-_*)

 さて、「倭の五王」は中国から安東[大]将軍の称号を授かって居ますが、中国では太古の昔から四つの方角が大切で、各方角を四神が守護(※y)します。そして東夷(青龍)・西戎(白虎)・南蛮(朱雀)・北狄(玄武)(※y-1~※y-8)という敵から国を守るのが常で()内は守護神です。これは中国の軍制にも当て嵌まり、

    [東・西・南・北][大]将軍
    [東・西・南・北][大]将軍    ←1段階上
    [東・西・南・北][大]将軍    ←1段階上

と成ります。将軍か大将軍かは多分にその時の気分で決まります。日本は中国の東に当たりますので必ず安東/鎮東/征東に成ります。
 因みに、日本には征夷大将軍という似た名前が在りますが、これも中国の命名法の借用「夷(い)」(※23)とは「東の異民族」を征討する最高権力者な訳です。

 (3)雄略紀に見る半島情勢の緊迫化

 4世紀頃から百済・新羅・高句麗が入り乱れて覇権を争い、そこへ日本の植民地の任那が加わり、半島と日本との人の行き来も活発化します。
 雄略紀では「田狭(たさ)を拝(ことよさ)して、任那国司にしたまふ」と在り、更に「新羅、中国に事(つか)へず」と在り、部下に「汝(いまし)、往きて新羅を罰(う)て」と宣って居ます(△2-2のp46)。更に韓国、任那国(※20)、新羅、百済、高麗(こま)、中国の呉国(※21)の名が見え(△2-2のp48~50)、そして「乃ち人を任那の王のもとに使(や)りて曰はく、「高麗の王、我が国を征伐(う)つ。此の時に当りて、綴(かぶ)れる旒(はたあし)の若(ごと)く然(しか)なり。国の危殆きこと、卵(かひご)を累(かさ)ぬるに過ぎたり。命の脩(なが)さ短き、太(はなは)だ計らざる所なり。伏して救を日本府の行軍元帥等に請ひまつる」といふ。」と在り(△2-2のp52)、日本府(※20-1)という語の初出です。
 又、「天皇、親(みづか)ら新羅を伐たむと欲す。神、天皇に戒(いさ)めて曰はく、「な往(いま)しそ」とのたまふ。天皇、是に由りて、果して行せたまはず。」が在る(△2-2のp56)かと思えば、二十年の条に高麗の王、大きに軍兵を発して、伐ちて百済を尽(ほろぼ)す」と在ります(△2-2のp82)。半島情勢は極めて緊迫して居ます。
 『日本書紀』の任那の初出は崇神紀65年の任那国、蘇那曷叱知(そなかしち)を遣して、朝貢らしむ。任那は、筑紫国を去ること二千余里。北、海を阻(へだ)てて鶏林(しらき)の西南に在り。」という箇所(△2のp302)で、鶏林は新羅の別称です。実は、これは対外関係記事の初出なのです。

 又、『宋書』に在る様に「倭の五王」が中国に貢献しその返礼として「詔してを使持節都督(※22)倭・新羅・任那・加羅・秦韓・暮韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に除す。」六国諸軍事安東大将軍の称号を授かってますが、日本は未だ小国で東アジアの安定の為に大国中国の”御墨付き”が必要だったのです。ところで(雄略天皇)は”狡賢く”自ら七国諸軍事安東大将軍を名乗って居ますが、七国諸軍事は認められず六国に戻されて居ます。つまり百済の支配権は与えないと中国は言っている訳で、この辺は今の北朝鮮を巡っての中国・韓国・日本の外交交渉を彷彿とさせますね。
 まぁ兎に角、『宋書』からも解る様に雄略天皇は宋や朝鮮半島に対して非常に存在力の大きい大王だったのです。

 一方、”服(まつろ)わぬ民”の蝦夷(※23-1)も居ます。雄略紀では蝦夷が天皇が崩御したと聞いて「乃ち相聚結(あひいは)みて、傍(ほとり)の郡を侵寇(あたな)ふ」状況に成り小さな戦が繰り広げられます(△2-2のp90)。『宋書』の478年の武の上表文の中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。...<後半略>...」と言ってます(△5のp63)、国数はオーバーですが。東の毛人(※23-2)とは蝦夷のことで、西の衆夷とは熊襲(※23-3)とか隼人(※23-4)のこと、海北は朝鮮半島諸国です。

 (4)精力は絶倫、感性は開けっ広げ

 雄略紀に面白い話が載って居ますので紹介しましょう。通称を童女君(をみなぎみ)と呼ばれた采女(うねめ)(※24) -良家から後宮入りした女官、だから采女田(※24-1)の制度が在った- が居り、この童女君が春日大娘皇女という娘を生んだのですが、その時の話です。
 「天皇、一夜与はして脤(はら)めり。遂に女子を生めり。天皇、疑ひたまひて養(ひだ)したまわず。女子の行歩するに及(いた)りて、天皇、大殿に御(おは)します。物部目大連侍(さぶら)ふ。...<中略>...大連、曰(まう)さく、「然らば一宵に幾廻喚(め)ししや」とまうす。天皇の曰(のたま)はく、「七廻喚(め)しき」とのたまふ。...<中略>...「況むや終宵(よもすがら)に与はして、妄(みだり)に疑を生(な)したまふ。」とまうす。天皇、大連に命(みことのり)して、女子を以て皇女として、母を以て妃とす。」と物部目大連に諌められた話が載って居ます(△2-2のp24~26)。
 童女君未通女(をとめ、おぼこ」)、つまり処女です。年は恐らく12~14歳で初潮後間も無いですね。その未通女に「一晩に7発」も遣って激しく”開通”させておき乍ら、「一夜しか遣って無いのに妊娠する筈は無い」と宣って、そして普通なら隠すセックスの秘密を堂々と吹聴している無神経振りには呆れ、又開けっ広げなその感性には感心させられて仕舞います。私は童女君に同情しますゾ。さぞ痛かったでしょうな、裂けちゃいそうですと?、然もありなん、ウワッハッハッハ!!
 しかし私見を述べると、童女愛(=ロリコン)(※25) -但し初潮後- は極めて真っ当な美意識です。花は蕾(つぼみ)が開花する時が一番美しいのです。この▼議論は既に別のページで遣ってます▼ので、興味有る方は下のリンクをクリックして参照して下さい。
  超甘コンプレックス論(Super sweet theory of COMPLEX)
  接頭語ダッチについて-蘭学オメ始(The 'Dutch', let's start Dutch language)

 ですから雄略天皇の童女愛は極めて正常で「花を愛でるタイミング」を弁(わきま)えていると言えるのです、只少々荒っぽいですが。

 一方『日本霊異記』冒頭の話(=上巻の第1話)(※26)を紹介しましょう。少子部栖軽(ちいさこべのすがる)は大泊瀬幼武命(=雄略天皇)に仕えて居ましたが、栖軽はちょっと”早とちり”する傾向(→後出)が在ります。上巻の第1話の最初に
 「天皇、磐余の宮に住みたまひし時に、天皇、后と大安殿に寐て婚合(くながひ)(※27)したまへる時に、栖軽知らずして参ゐ入りき。天皇、恥ぢて輟(や)みぬ。」
と出て来ます(△7のp36)。流石に雄略天皇も他人が見てる前でセックスするのは恥ずかしかった様ですな!!
 尚、この話には続き(→後出)未だが在ります。

 この様に精力絶倫な雄略天皇は、童女君と「一晩に7発」も遣ったと”いけしゃあしゃあ”と喋っている事、しかし人前でセックスするのは流石に恥ずかしく思った事が、著者に依って書かれているのです。こういう天皇は他には居りません(←第25代武烈天皇の悪事が有りますが(△2-2のp144~160))。これも雄略天皇の存在力と個性が外交に於いてのみならず国内に於いても抜群だったのでリアルな姿を書かずには居られなかったと理解出来ます。

 (5)雄略天皇が『万葉集』『日本霊異記』の冒頭に載る個性の強さ

 『万葉集』冒頭歌に雄略天皇の長歌が載り、又『日本霊異記』冒頭の話に雄略天皇に纏わる逸話が載って居ますが、この様に冒頭に載るという事は途中に載るのと意味が異なります(→雄略天皇の古墳の地図を参照)。やはり冒頭を飾る歌とか逸話は、その書物の内容を規定するのです。特に『万葉集』は約4千5百首を集めた日本最古の歌集で、天皇から身分の低い人の歌が在り、又「詠人知らず」の歌も在り、冒頭歌は確実に『万葉集』全体の性格を規定して居ます。正に雄略天皇の押し出しの利いた個性の強さを表して居ます。言い換えると、その存在がリアルなのです。
 『万葉集』巻1の冒頭歌(△8のp43)を以下に示します。

    ◆『万葉集』巻1-1(雑歌)の雄略天皇の長歌

    泊瀬朝倉宮 御宇天皇代(あめのしたしらしめしすめらみことのみよ)
                  太泊瀬雅武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)

    天皇の御製(ぎょせい)の歌

  籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち
  この丘に 菜摘ます兒 家聞かな 名告(の)らさね
  そらみつ やまとの國は
  おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ
  我こそは 告(の)らめ 家をも名をも

 籠(こ)(※28)とは籠(かご)のこと、ふくしとは漢字で「掘串」(※28-1)と書き「串状の土を掘る道具」、菜摘ます兒とは先程の童女君の様な女児、つまり今風に言えばロリータ(※25-1)です。私、エルニーニョがこの歌の解釈をしましょう(▼下▼)。

 籠(かご)と掘串(ふくし)を持ち、この丘で、菜を摘んでいる兒は、可愛い童女であることよ。家を聞かなければ、名を名乗れ。大和の国はおしなべて、この朕(ちん)が治めているのだゾ。吾こそは、我こそは、名乗ろうか、家をも名をも。(可愛い童女よ、我が後宮に入らせてたもれ!)

 この頃は女性が天皇(=大王)に名を聞かれ、名を答えたら即ち天皇の後宮に入る事でした。もし拒否する場合は名を答えなければ良いのです。それにしても冒頭歌はロリコン(=童女愛)の面目躍如です!!

 一方、『日本霊異記』冒頭の話(=上巻の第1話「雷(いかづち)を捉へし縁」)は既に一部を紹介しましたが続きが在るのです。先程の天皇、恥ぢて輟(や)みぬ。」(△7のp36)の続きとして、栖軽が雷(いかづち)を捉えた話 -そこ(=奈良県明日香村)を「雷(いかづち)の岡」と言う- が出て来ます。やがて栖軽は死に「雷の岡」に天皇が墓碑を立てたと書かれて居ます(△7のp40)。明日香村には現在「雷の丘」が在り小さな古墳が存在し中世には城郭が造られました。又、『日本霊異記』の著者の景戒は少子部氏の出であると伝えます(△7のp41)。

 (6)雄略天皇は大悪天皇

 雄略天皇は特に若い頃は大変怒りっぽく直ぐ相手を殺して仕舞うので、『日本書紀』の執筆陣(責任者:舎人親王)もその様な場面では批判的に書いて居ます。例えば「国内に居る民(おほみたから)、咸(ことごとく)に皆振(ふる)ひ怖(お)づ。」(△2-2のp28)とか、「誤りて人を殺したまふこと衆(おほ)し。天下(あめのした)、誹謗(そし)りて言(まう)さく、「大(はなは)だ悪しくまします天皇なり」とまうす。」(△2-2のp32)は正しく大悪天皇と呼んで居ます。又、皇后(=草香幡梭姫)に「陛下、譬えば豺狼(おおかみ)に異なること無し」(△2-2のp38)と諌められて居ます。
 一方、葛城山で一事主神(=一言主神)(※29)が天皇を送り奉るのを見て「百姓(おほみたから)、咸(ことごとく)に言(まう)さく、「徳(おむおむ)しく有(ま)します天皇なり」とまうす。」(△2-2のp34)と有徳天皇と讃えた話も在ります。一言主神を持ち出して居るところは笑っちゃいますが、『日本書紀』の執筆陣は「神と対等」であると言っている訳です。即ち有徳天皇の「有徳」とは「徳が有る」という意味では無く「神と対等な大王」を指して居るのです。

 (7)雄略天皇に纏わるエピソード

 雄略紀から比較的有名なエピソードを拾い出して見ましょう。

  ○既に紹介しましたが、葛城山の一言主神に会う話(△2-2のp34)
  ○蜻蛉(とんぼ)の話は神武紀が有名(△2のp242)で蜻蛉島(※30)が日本の国号に成った話を載せてますが、雄略紀にも在り、吉野宮で天皇に食い付ついた虻を「蜻蛉、忽然(たちまち)に飛び来て、虻を囓(く)ひて将(も)て去(い)ぬ。」し、そこを蜻蛉野(あきづの)と名付けた話(△2-2のp36)。
  ○天皇は養蚕を奨励しようと思い蜾臝(すがる)蚕(こ)を集めよと命令したら嬰児を集めて来たので「汝、自ら養え」と言い、少子部(ちいさこべ)を作った -『日本霊異記』冒頭の話で少子部栖軽が出て来た- 話(△2-2のp42)。蜾臝はこの様に”早とちり”をし丸で落語の与太郎です。大家の雄略天皇と良いコンビですね。
   更に天皇は蜾臝に「三諸山の神の形を見むと欲(おも)ふ。」と言うと、蜾臝は「試(こころみ)に往(まか)りて捉へむ。」と答え早速三諸山で大蛇を捕まえて来ると、天皇は恐れて殿中に隠れて仕舞い蜾臝は丘に大蛇を放ちました。天皇は蜾臝に雷(いかづち)という名前を賜った話です(△2-2のp44)。因みに三諸山とは三輪山の別称で古来からが御神体です。尚、蜾臝は雷に縁が深く『霊異記』冒頭にも雷を捉えた話が出て来ます。
  ○この話は既に別のページで紹介して居ますが、帰化系の田辺史伯孫が誉田陵(=第15代応神天皇陵の下で飛竜の様な赤駿(あかうま)に騎乗する者と出会い、願い出て馬を交換して貰って帰宅した。ところが翌朝見ると赤駿は土馬(※3-4)(←埴輪の馬)に変わっていた(△2-2のp62~64)という話です。誉田陵からは実際に埴輪馬が出土して居ます(△9のp132)。そして埴輪の馬と言えば土師氏に行き着く訳です。
  ○秦酒公(※31)が琴を弾いて天皇を諌めた話(△2-2のp68)、「秦の民」を秦酒公の下に置いた返礼として絹布”うず高く積み上げた”ので天皇から禹豆麻佐(うづまさ)の姓 -今の京都市右京区に太秦(うずまさ)の地名が残る(→太秦の地図)- を賜った話(△2-2ののp78)や、を植え「秦の民」が庸調を管理したと在ります(△2-2のp78)。秦氏は養蚕と深く結び付いて居り、蚕・桑・絹・機織[技術]・七夕など、悉く秦氏が関与して居ます。
  ○丹波国余社郡(よさのこおり)の浦嶋子浦島子)(※32) -浦島太郎)の話- も少しだけ出て来ます(△2-2のp84)。『丹後国風土記』逸文に詳しい話は載ってます(△3のp473~479)が、『風土記』でも島子が竜宮に行くのが雄略天皇の御世と成って居ます。先程の一言主神もそうですが雄略天皇は神仙界と密着して居ます(←神と対等な大王)。

 (8)江田船山古墳出土鉄剣の銀錯銘 - これも雄略天皇

 ここで話は九州に飛ぶことに成ります。
 江田船山古墳(※10-2)は熊本県玉名郡菊水町江田に在る5世紀末~6世紀初頭築造の前方後円墳(主軸長61m)で、1873年に出土した鉄刀の75文字の銀錯銘が在ります。刀はやはり直刀(※14)で長さ90.7cmの刀の峰の部分に銀象嵌され、一部は剥落して居ます。

    ◆江田船山古墳出土鉄剣の銀錯銘

  1.釈文

 治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

  2.訓読

 天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。

 上の銀錯銘の中の獲□□□鹵大王埼玉稲荷山古墳から出土した獲加多支鹵(ワカタケル)大王(=雄略天皇)と推定出来ることが解り俄然注目を集めました。それ以前は反正天皇が当てられて居ましたが、今では雄略天皇説が定説です。

                (-_@)

 何れも古墳から出土した鉄剣から、稲荷山古墳(埼玉県)から金錯銘が、江田船山古墳(熊本県)から銀錯銘が、しかも両方共に獲加多支鹵(ワカタケル)大王(=雄略天皇)であることが極めて濃厚なのです。これは何を物語るのか??
    {この章は07年3月7日に追加、07年9月12日に最終更新}

              ◇◆◇◆◇

 実は当ページは諸事情の為に長らくここで中断して居りました。それを再開したのは私が沖縄に住む様に成った2014年9月9日の事です。ですから以下の章は「結び」の章の一部を除いて2014年9月9日以降の作成です。

 ■考察 - 埼玉稲荷山古墳と江田船山古墳を結ぶもの

 2004年1月10日掲示板の議論に於いて、このテーマの概略を述べて居ますので、先ずそちらのページを読んで戴けたら非常に参考に成ります、...別に読まなくても全く支障は無いですが、アッハッハ!
 で、どのページかと言うと▼下のページ▼です。ダイレクト・リンクして在りますので下をクリックして下さい。土師氏、毛野国(※40)、さきたま古墳群、北関東のこれらは皆関連しているのです。
  客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)

 (1)東西の古墳から「獲加多支鹵大王の銘文」が出た意味

 私は獲加多支鹵大王(=倭王「武」=第21代雄略天皇)の時代、即ち5世紀後半(450~499年)大和朝廷の勢力の外縁を示して居ると思います。即ち東の縁(ふち)は「さきたま古墳群」の北側、即ち利根川です。坂東太郎と呼ばれる日本一の大河です。それより東北の地は”服(まつろ)わぬ民”の蝦夷(=毛人)(※23-1、※23-2)が跋扈する地です。西も然り、熊本県の菊水町江田辺り(=江田船山古墳が在る所)が当時の熊襲(※23-3)や隼人(※23-4) -武は「衆夷」と表現- と内地人(=大和朝廷側の弥生人)の境界と考えられます。地図で見るとやはり菊地川が江田船山古墳の傍を南北に流れて居ます。
 言い換えると、埼玉稲荷山古墳も江田船山古墳も大和朝廷の前線基地なのです。『宋書』の478年の武の上表文の中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、...<後半略>...」と言っている事(△5のp63)を思い出させます。雄略大王はその様な国土を広げる戦いをし勝ち取った成果が上記の前線基地と考えられます。
 古墳は両者共に5世紀後半~6世紀初頭の築造で、両古墳同じ時期に築造されて居るのです。稲荷山古墳が主軸長120m、江田船山古墳が主軸長61mの何れも前方後円墳です。しかも銘文は稲荷山古墳が金錯銘が江田船山古墳から銀錯銘と、金と銀で象嵌されて居ます。そして【脚注】※5に在る様に、両古墳共に被葬者朝廷側のその地方の有力豪族と考えられます。私の考えでは前線基地の地方長官若しくはそれに準ずる人ですね。稲荷山古墳の銘文ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」と在り雄略大王の気持ちが伝わって来ます。

 (2)毛野国(上毛野国/下毛野国)

 第10代崇神紀48年正月の条に「天皇、豊城命活目命に勅して曰はく、「汝等二の子、慈愛共に斉(ひと)し。知らず、曷(いづれ)をか嗣(ひつぎ)とせむ。各(おのおの)夢みるべし。朕夢を以て占へむ。」とのたまふ。」と在ります(△2のp296)。崇神天皇は豊城命(兄)(※16-1)と活目尊(弟)、どちらを天皇の後継者にするか夢で占うと宣ったのです。すると豊城命は三諸山でを向き武器を振り、活目尊は三諸山で縄を四方に張り雀を追い払った夢を見ました。天皇は四方に目配りが利く活目尊(後の第11代垂仁天皇)が世継ぎに相応しい豊城命は東を守れと言ったのです。そして4月に「活目尊を立てて、皇太子としたまふ。豊城命を以てを治めしむ。是上毛野君下毛野君の始祖なり。」と出て来ます(△2のp298)。即ち豊城命は毛野に入り上毛野国下毛野国(※40)の統治者に成ったのです。ここで上毛野君/下毛野君の君(きみ)は姓(かばね)(※41、※41-1)です。因みに活目尊も豊城命も崇神天皇の子ですが、活目尊は皇后の子ですが豊城命は”妾腹”です。豊城命の母の話は後で出て来ます。又、豊城命の孫・曾孫の話も後で出て来ます。

 ところで、この毛野国は”可なりややこしい”のです。先ず古代の毛野国が存在した様→後出)で、やがて上毛野国と下毛野国に分裂、下毛野国は那須国を併合し、大宝律令で715年国名は2字と定めたので上野国(こうづけのくに)(※40-1)と下野国(しもつけのくに)(※40-2)に国名を変えたのです。この時、何故か上毛国と下毛国にはしなかった、下毛国などちょっとイヤラシイですからね、アンダー・ヘアの国なんて!
 でもJRには両毛線(※40-3) -上毛野国と下毛野国の「毛」を採り命名- というローカル鉄道が在り、高崎と小山(おやま)を2時間弱で結んで居ます、念の為。
 毛野国の変遷を▼下に図示▼します。

    ◆毛野国の変遷

  5世紀初頃に分裂  689年    715年に国名を2字
      ↓      ↓         ↓
      ┌ 上毛野国 ──────── 上野国 → 今の群馬県
  毛野国 ┤                <上州>
      │
      └ 下毛野国 ┬ 下毛野国 ─ 下野国 → 今の栃木県
             │         <野州>
         那須国 ┘

 最初の毛野国は今の群馬県と栃木県の南部~利根川迄だった様です。古代の毛野国が存在したというのが有力な説で、古墳その他の出土状況から裏付けられるからです。文献では『先代旧事本紀』の「国造本紀」(※42、△10のp22~23)に毛野国が出て来るのですが、残念乍ら記紀には記載が無く『先代旧事本紀』は偽書なので鵜呑みには出来ない事情が有ります。「国造本紀」には第16代仁徳朝の時(=5世紀初め)に上毛野国と下毛野国に別れたと在り、こちらは考古学の発掘状況から当たって居ます。考古学は更に内部対立が有り分裂した事を示唆して居ます。
 那須国は689(持統3)年那須評(こおり)に格下げに成り下毛野国に吸収されました(△10-1のp100)。評(こおり)は所謂郡評論争(※43-2)で名高く、今では大化改新(646年)~大宝律令(701年)迄「評」が使われ、それ以後は「郡」(←郡司(※43-1)が管理)が使われたことが解って居ます。




嘗ての上毛野国には東日本最大の前方後円墳(主軸長210m、5世紀中頃築造)太田天神山古墳(群馬県太田市)が在り、支配者は強大な権力を持って居たと考えられます。



 『日本書紀』は上・下毛野君は王族(皇族)の裔(えい)だと言って居ますが、大和朝廷が積極的に地方の政治に介入して居る事は確かです。その例として、第27代安閑紀元年閏12月の条に武蔵国の国造を巡る争い(※43)が書かれて居り、一方の当事者(笠原直使主)が「密に就(ゆ)きて援(たすけ)を上野毛君小熊に求む。」と在り(△2-2のp222)、ここで上野毛君が登場し、朝廷は相手方を殺し使主を国造に就かせると使主は返礼に多くの屯倉(みやけ)を奉った、という話です。因みに安閑天皇は継体天皇の第1皇子です。朝廷が地方政治に強引に介入し地方権力を傀儡化・無力化し、朝廷権力を押し広げて行く事は”中央政権の常識”です。
 ところで、使主(おみ)(※42-2)とは古代の渡来人の姓(かばね)です。笠原直使主という渡来人(又は帰化人)に朝廷は加担している、という事は押さえて置く必要が有ります。

 一方『常陸国風土記』(※x-1)筑波郡の条に「東は筑波の郡、南は毛野の河という箇所が在り(△3のp363)、毛野の河(けぬのかわ)」とは毛野地方を流れる川、即ち鬼怒川(きぬがわ)のことです。私の経験からも、この地方の人は「い音」「え音」が曖昧です。ですから今でも鬼怒川(きぬがわ)を「けぬがわ」と発音してるんじゃないですかね。
 崇神紀元年に活目尊は皇后(=御間城姫)から生まれますが、豊城命は「又、妃紀伊国の荒河戸畔の女(むすめ)、遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしひめ)、豊城入彦命・豊鍬入姫命を生む。」と在り(△2のp276)、豊城命の母は遠津年魚眼眼妙媛で紀国(紀伊国)出身なのです。一方、『常陸国風土記』筑波郡の冒頭に”妙な事”が書いて在ります。「古老の曰(い)へらく、筑波の県(あがた)は、古(いにしへ)、紀の国と謂ひき美万貴(みまき)の天皇(=崇神天皇)の世、采女の臣の友属(ともがら)、筑箪(つくば)の命を紀の国の国の造に遣はしたまひし時に、筑箪の命云ひしく、「身が名をば、国に着けて後の世の流伝へしめまく欲りす」といひて、すなわち本(もと)の号(な)を改めて、更(あらた)め筑波と称(い)ふといへり。」という箇所です(△3の359)。
 私が”妙だ、変だ”と思う所は赤茶色で斜体の箇所です。これは良く引用される箇所ですが、上・下毛野君の祖である豊城入彦命は母方が紀国出身です。従って地方官の筑箪命が紀国に行く事は有ったでしょう。しかし大和朝廷が紀国(=今の和歌山県)と同じ国名を他の地方に付ける事など断じて有り得ない!!、と言って置きましょう。
 私は「古老の曰(い)へらく、...」の、古老に聞き違いと混同、が有ると思います。この地方の人は「い音」「え音」が曖昧と前に指摘しましたが、寧ろ元々は毛野国(けぬくに)だったものが、豊城命の母が紀国出身なので紀国に”引っ張られた”のです。これを図示すると

    ◆「い音」と「え音」が曖昧なので
       『常陸国風土記』筑波郡の条の古老の聞き違いと混同

                  「い音」と「え音」が曖昧
                      ↓
  毛野の河(けぬのかわ) → けぃのかわ → きぇのかわ → 鬼怒川

                     「い音」と「え音」が曖昧
                         ↓
  聞き違い:毛野国(けのくに) → けぃのくに → きぇのくに
                         → 紀国(きのくに)

  混同  :豊城[入彦]命の母が紀国出身なので紀国に”引っ張られた”

という事です。古老は他人の話を”聞いて覚えて居た”ので細部は曖昧なのです。古老が紀国と聞き間違えた国こそ実は毛野国だった、というのが私の考えです。

 (3)特に毛野国(上毛野国/下毛野国)の蝦夷(夷、毛人)

  (3)-1.征夷と四道将軍

 夷(い/ひな/えびす、※23)、蝦夷(えみし/えびす/えぞ、※23-1)、毛人(もうじん、※23-2)etc、これらは全て”服(まつろ)わぬ民”のエミシ(=異民族)を表す言葉で、一言で言えば先住民の縄文人です。それに対し大和朝廷(=大和人)は弥生人です。大和人がエミシを呼ぶ時、土蜘蛛(※23-5)とか国栖(※23-6)とか様々な蔑称を使いました。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 「夷(い)」とは古代中国で東方の未開の異民族を指す語です。中国は古代から方位(方角)に依って敵の呼び方が違います。即ち、東夷・西戎・南蛮・北狄です。これらの敵から身を守る守護神については既に述べました「蝦夷」はこれを基に日本で作られた語で、当然乍らその「読み」 -えみし/えびす/えぞ- も日本で考案されたものです。

 以上述べた事を図示します(▼下▼)。

    ◆縄文人(日本列島の先住民族)と弥生人

     ┌大和人:弥生人          (農耕=稲作)
  日本人┤
     └蝦夷 :縄文人=日本列島の先住民族(狩猟と採取)、アイヌ民族を含む
          <長い間、大和人はエミシ(蝦夷)を差別的に扱って来た
          大和人の呼称:蝦夷(元々は蔑称)
          蔑称    :夷、毛人
          超蔑称   :土蜘蛛、国栖、様々な動植物名

 崇神紀10年大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別(たけぬなかわわけ)をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。因りて詔して曰はく、「若し教(のり)を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬を授(たま)ひて将軍とす。」と有名な四道将軍派遣の詔(※16-2)です(△2のp286)。これは後の律令制の五畿七道(※44)の概念の先取りです(←尤も、紀の執筆人は前述の如く「後から記述」している訳ですから五畿七道を知って居ました)。
 そして同年10月に「群臣に詔して曰はく、「今反(そむ)けりし者悉に誅(つみ)に伏す。畿内には事無し。唯し海外の荒ぶる俗のみ。騒動くこと未だ止まず。其れ四道将軍等、今急に発れ」とのたまふ。丙子に、将軍等、共に発路す。」とそれぞれの任地へ出発し(←ここで言う「海外」とは「畿内」に対する「畿外」の事です)、翌11年4月に四道将軍、戎夷(ひな)を平けたる状を以て奏す。是歳、異俗多く帰て、国内安寧なり。」に帰国し平定した旨を天皇に報告をして居ます(△2のp294)。
 四道将軍は当時(←崇神紀10年、私は4世紀初頭と考えて居ます)の大和政権の外縁の守護及び外縁の拡張を狙ったもので、当時はこんなものだったのでしょう。つまり、北は越国、東は駿河国、西南(山陽道)は吉備国、西北(山陰道)は丹波国辺りが崇神政権前期の外縁です。そして、それより外側は蝦夷など異民族が跋扈していたのです。四道将軍は必ずしも「征夷」では無いですが、しかし「征夷」の比重は大きいのです。これは強権的な軍事制圧に他為りません。
 それから38年経った崇神紀48年には、既に見た様に豊城命が毛野国の行政官(統治者)として赴きます。これはこの間の四道将軍が「征夷」を着々と進め、東は駿河国(静岡県)から毛野国(群馬・栃木県)へと崇神政権後期には外縁は拡張して居るのです。
 この様に、実は四道将軍と上・下毛野君は相互補完的なのです。崇神天皇は政教分離を断行した天皇でもあり、こういう事から御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれたのです。
 尚、第32代崇峻紀2年(588年) -崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺された- は「近江臣満を東山道(※44-1)の使に遣して、蝦夷の国の境を観しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に浜(そ)へる諸国の境を観しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越(こし)等の諸国の境を観しむ。」三道遣使をして居り(△2-3のp76)、これは四道将軍のマイナーチェンジ版です。
 これを又図示しましょう(▼下▼)。

    ◆四道将軍と豊城[入彦]命

  崇神紀10年  何れも王族(皇族)の皇子が将軍(軍人)

    大彦命(おおびこのみこと)        北陸(記には高志道)を制圧
    武渟川別命(たけぬなかわのみこと)    東海を制圧
    吉備津彦命(きびつひこのみこと)     西道(後の山陽道)を制圧
    丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)  丹波(後の山陰道)を制圧

  崇神紀48年  崇神天皇の皇子が行政官(統治者)として赴任

    豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)   上・下毛野国を統治
                          (上・下毛野君)

  (3)-2.吉備津彦に纏わる話 - 異民族征伐、陵墓、桃太郎

 ここで四道将軍の一人の吉備津彦命(※16-3)について話しましょう。今年(07年)の1月13日(土)に岡山県の吉備津彦神社(備前国一の宮、JR吉備線「備前一宮駅」から直ぐ)と吉備津神社(備中国一の宮、JR吉備線「吉備津駅」から徒歩10分) -鳴釜神事で有名- に行って来ました(△11のp298~301)。どちらも立派な神社で何れも吉備津彦命が祭神です。
 岡山県と言えば吉備団子そして、そして桃太郎と成る訳です。因みに新幹線岡山駅では毎年初夏に成ると桃尻娘、おっと桃娘が桃のPRに登場しますね。実は岡山では吉備津彦こそ桃太郎のモデルだとされて居ます。で、鬼は誰だ?、と言うと鬼ノ城(総社市奥坂)を拠点に活動していた温羅(うら)という異民族です。鬼とはそもそも”服(まつろ)わぬ異民族”を言う場合が多く、そういう意味で蝦夷と同じなのです。吉備津神社では桃太郎伝説に因む矢立神事が行われます。この様に吉備津彦は吉備地方に於いては大変な英雄なのです。
 ところが岡山の対岸の鬼無(きなし) -香川県高松市鬼無町、JR予讃線鬼無駅は高松から2つ目の駅- では桃太郎は吉備津彦命の弟・雅武彦命(※16-4)とされて居ます。私は05年に鬼無を通って居ますので▼下▼をご覧下さい。
  2005年・四国各駅停車の旅(Travel of Shikoku by local train, 2005)

 吉備津神社の中山という御神体山の頂上に中山茶臼山古墳(主軸長120m、前方後円墳)が在り宮内庁が管理して居ますが、この古墳こそ吉備津彦命の墳墓とされて居ます。兎に角、岡山県に行くと吉備津彦の伝承が多く在ります。この日は両神社の御神体山に登りましたが、中山の頂上から阿波国と吉備国を「桃の香り」清めた事を御報告して置きましょう、ムッフッフ!
 温羅や鬼ノ城については別途筆を起こそうと考えて居ますが、何時の事やら...。と書きましたが、やっとこの度約8年を経て、そのページが出来ました。▼下▼をご覧下さい。
  備中鬼ノ城と温羅伝説(The GOD'S ROCK Kinojo and Ura legend, Okayama)
    {このリンクは2015年2月2日に追加}

  (3)-3.蝦夷狩り

 東西の異民族一蹴 -九州の熊襲退治や陸奥の蝦夷退治- は第12代景行天皇の皇子の日本武尊の時代(=景行27~40年、後出)迄待たねば為りません。
 それは景行紀25年の条に武内宿禰を遣したまひて、北陸及び東方の諸国の地形、且百姓の消息を察(み)しめたまふ。」と在り、景行27年に武内宿禰東国より還て奏して言(まう)さく、「東の夷(ひな)の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、為人勇み悍(こは)し。是を総べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地沃壌えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。」と出て来ます(△2-1のp82~84)。武内宿禰(←彼は景行~仁徳迄の5朝に仕えたとされる伝説的人物)は「東には日高見国(※23-7) -蝦夷の中心地- が在り、そこの人々は男も女も髪を椎型(つちがた)に結い文身(※23-8)をし勇敢で怖い。土地は肥えて広いので討って奪い取るべきだ。」と景行天皇に奏上します。後の大和人の蝦夷観にこの文章が影響を与えて居ます。

 そして景行27年に九州の熊襲を退治した日本武(△2-1のp84~86)は、景行40年に東国の蝦夷動乱の報が入ると双子の兄の大碓皇子は怖じ気付いて美濃に封ぜられたのに対し、日本武は熊襲既に平ぎて、未だ幾(いくばく)の年も経ずして、今更東の夷叛けり。何の日にか大平ぐるに逮(いた)らむ。臣(やつかれ)、労(いたは)しと雖も、頓(ひたぶる)に其の乱を平けむ。」と雄叫びを挙げて東国に出掛けます(△2-1のp90)。
 日本武は海路を駿河、相模、上総と進みます。同じく景行40年、「即ち上総より転りて、陸奥国に入りたまふ。」と在ります(△2-1のp96)が、これは注に在る通り東海道から東山道(※44-1)に「道を転じた」意味で、陸奥国には入ってません(△2-1のp480、原文)。それは、その直後の一文からも解ります、即ち「海路より葦浦に廻る。横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・国津神等、竹水門に屯(いは)みて距(ふせ)かむとす。然るに遥に王船(みふね)を視(おせ)りて、予め其の威勢を怖ぢて、心の裏にえ勝ちまつるまじきことを知りて、悉に弓矢を捨てて、...<中略>...是に、蝦夷等、悉に慄(かしこま)りて、則ち裳を褰(かか)げ、浪を披(わ)けて、自ら王船を扶(たす)けて岸に着く。仍(よ)りて面縛(みずからゆは)ひて服罪(したが)ふ。故、其の罪を免したまふ。因りて、其の首帥(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、従身(みともにつか)へまつらしむ。蝦夷既に平けて、日高見国より還りて、...」と(△2-1のp96~98)、蝦夷は敵わない事を悟り自ら面縛(※45)し降伏するのです(←蝦夷が恭順の態度を表したので戦わずして帰るのは期待外れですね)。上の『日本書紀』の引用文から、「蝦夷の境」「竹水門」「日高見国」だという事が言えるのです。
 それ故に「竹水門」の場所が重要なのです。『日本書紀』の注に拠ると、「葦浦」は千葉県安房郡江見町の吉浦、「玉浦」は下総国(=北千葉)の珠浦郷、と在りますが、肝心の「竹水門」が不明です(←「竹水門」の注は”御門違い”です、△2-1のp376)。上の文章から考えると「竹水門」とは「竹で造った水門」で、そこで蝦夷等は日本武を防ごうとした訳ですから、私は『常陸国風土記』の地図(△3のp420)から考えて霞ヶ浦の茨城郡寄りの河口(←例えば無梶川(→後出))ではないかと思います。

  (3)-4.『常陸国風土記』が伝える日高見国

 そこで問題の『常陸国風土記』逸文です(△3のp457~458)。曰く「「筑波と茨城の郡との七百つ戸を分きて、信太の郡を置く」といへり。この地はもと日高見の国なり。」と。信太郡を置いたのは白雉4(653)年です。信太郡(逸文)・行方(なめかた)郡・茨城郡には蝦夷が登場します。
 茨城郡では「昔、国巣(くず)(※23-6)、俗の語、都知久母(つちぐも)(※23-5)。又、夜都賀波岐(やつかはぎ)(※23-10)と云ふ。山の佐伯・野の佐伯在り。普く土窟(つちむろ)を置(まう)け掘り、常に穴に居み、人の来るあらば、すなわち窟に入りて竄(かく)れ、その人去らば、更郊に出でて遊べり。狼の性、梟の情ありて、鼠のごと窺ひ狗のごと盗む。」と在ります(△3のp367)。山の佐伯・野の佐伯とは佐伯部(→後出)の事で、蝦夷の酋長と見なして良い人々です。そして佐伯等、常のごとく土窟に走り帰り、尽(ことごと)に茨蕀(うばら)に繋りて、衝き害はれ疾み死に散(あら)けき。故れ、茨蕀を取りて、県の名に著(つ)けき。」と在り、又もてを造りき。」とも出て来て(△3のp368~369)、茨城県の名称由来です。
 行方郡では先ず「その岡は高く敞(あら)はるれば、現原と名づく。この岡より降りたまひ、大益河に幸(いでま)し、艖(をぶね)に乗りて上ります時に、棹梶折れき。因りてその河の名を、無梶河と称ふ。これすなわち茨城・行方二つの郡の堺なり。」と在り(△3のp373~374)、私が言っていた無梶川が出て来ます。これは「竹水門」の描写とぴったり合います。蝦夷関連では佐伯あり。手鹿(てが)と名づく。」「佐伯あり、名を疏祢吡古(そねびこ)と曰ふ。」「国栖名を夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)と曰ふ二人あり。」「国栖、名を寸津吡古(きつひこ)・寸津吡女(きつひめ)と曰ふ二人あり。」などです(△3のp377~386)。





  (3)-5.日本書紀の年代や大和政権の範囲は補正する必要有り

 ところで、今迄『日本書紀』を中心に450~700年頃を見て来ましたが、この当時の大和政権の範囲に関しては補正する必要が有る、と考えて居ます。それは色々な専門家も感じている通りで、例えば「『日本書紀』には、景行紀に蝦夷征伐の記事が見えるが、実際に征伐が行われるようになったのは、大化の改新以降であるといわれている。」(△13のp24)とか、「日高見国や蝦夷についての景行紀の記事はおよそのところ、大化ごろの事情を反映したものである。」(△14のp174)と在ります。大化の頃とは約650年で、それは何度も言っている様に『日本書紀』は700年初頭頃の執筆人に依って「後から記述」された物語”なのです。実際には4世紀前半頃(=320年頃か)に生きた景行天皇の事跡が650年頃の物語に成っている可能性が有るのです。その最たる物が、私は大和政権の範囲だと思って居るのです。








  (3)-6.日高見国からの帰路

 帰路に日本武は武蔵・上毛野国に寄って居ます(△2-1のp98)。この後彼は同40年に伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり、更に日本武尊の白鳥化成伝説が書かれます(△2-1のp106)。彼は草薙剣を熱田神宮に奉り恭順を誓った蝦夷の俘虜たちを伊勢神宮に献じましたが、蝦夷は温和しく成らないので景行紀51年に「神宮に献(たてまつ)れる蝦夷等、昼夜喧(な)り譁(とよ)きて、出入礼無し。時に倭姫命の曰はく、「是の蝦夷等は、神宮に近(ちかつ)くべからず」とのたまふ。...<中略>...(天皇は)「...故、其の情の願の随(まにま)に、邦畿之外(とつくに)に班(はべ)らしまよ」とのたまふ。是今、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡て五国の佐伯部の祖なり。」と在る様に(△2-1のp108~110)、蝦夷をこの五国に移し佐伯部(さえきべ)としたのです。佐伯氏の始まりです。佐伯(さえき)とは「さへく」(※23-9)に由来し、人間というものは異語で話されると言葉が通じない為に煩く感じるのです。時代が進むと蝦夷語の通訳の「訳語人」が活躍します(←『続日本紀』元正紀の養老6(722)年(※1-2、△12のp92)を参照)。
 蝦夷に関しては沢山在ります。が、ここでは毛野国に関係有るものをピックアップします。豊城命の孫・曾孫の話が『日本書紀』に出て来ます。景行紀55年の条に彦狭嶋王を以て、東山道の十五国の都督に拝(ま)けたまふ。是豊城命の孫なり。然して春日の穴咋村に到りて、病に臥し薨りぬ。是の時に、東国の百姓、其の王の至らざることを悲しびて、窃(ひそか)に王の尸(かばね)を盗みて、上野国に葬りまつる。」と在り、続いて56年に御諸別王(みもろわけのみこ)に詔して曰はく、「汝が父彦狭嶋王、任(ことよ)さす所に向ること得ずして早く薨りぬ。故、汝専東国を領めよ。」とのたまふ。是を以て、御諸別王、天皇の命を承りて、且に父の業を成さむとす。則ち行きて治めて、早(すみやか)に善き政を得つ。時に蝦夷騒き動む。即ち兵を挙げて撃つ。...<中略>...是を以て、東、久しく事無し。是に由りて、其の子孫、今に東国に有り。」と在ります(△2-1のp112~114)。上野国と在るのは「上毛野国」の事です。『日本書紀』は豊城命の孫は早世したが、その子(即ち曾孫)が善政を行ったので一時は蝦夷が騒いだ事も有ったが豊城命の子孫が代々東国を治めて居ると言って居る訳です。
 第34代舒明紀9年(637年)に蝦夷叛きて朝(もう)でず。即ち大仁上毛野君形名(かたな)を拝(め)して、将軍として討たしむ。還(かへ)りて蝦夷の為に敗(う)たれて、逃げて塁に入る。遂に賊(あた)の為に囲まる。...<中略>...爰(ここ)に方名君(かたなのきみ)の妻歎きて曰はく、「慷(うれた)きかな、蝦夷の為に殺されむとすること」といふ。...<中略>...乃(すなわ)ち酒を酌みて、強ひて夫に飲ましむ。而して親(みずか)ら夫の剣を佩(は)き、十の弓を張りて、女人数十に令(のりごと)して弦を鳴さしむ。既にして夫更に起ちて、仗(つわもの)を取りて進む。蝦夷以為(おも)はく、軍衆(いくさびと)猶し多なりとおもひて、稍(ようやく)に引きて退く。...<中略>...蝦夷を撃ちて大きに敗(やぶ)りて、悉(ことごとく)に虜にす。」と出て来ます(△2-3のp178~180)。舒明9年は637年です(←第33代推古朝頃から以降は西暦年が対応付けられます)。大仁は冠位十二階の位(=仁の大)です。それにしても方名君(=形名君)の妻は凄い!

 尚、景行紀4年の条には「前後并せて八十の子まします。然るに、日本武尊と稚足彦天皇(=後の成務天皇)と五百城入彦皇子とを除きての外、七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如(ゆ)かしむ。故、今の時に当りて、諸国の別(わけ)と謂へるは、即ち其の別王(わけのみこ)の苗裔(みあなすゑ)なり。」と在ります(△2-1のp64)。しかし、精力旺盛ですな。その例として「忍之皇子、大酢皇子、武国凝皇子、国乳皇子、国背皇子、豊戸皇子」が載り(△2-1のp62~64)、又「豊国皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」と在ります(△2-1のp74)。
 崇神天皇は四道将軍などを送り出し将軍はどれも王族の皇子でしたが自分の皇子では無く唯一毛野国を守らせた豊城入彦命のみ自分の皇子でしたが、景行天皇は全て自分の皇子で地方の防御を固めようという”見上げた心”なのか、子供が一杯出来て”困った挙句”なのか、その為に後宮(=妾)の数も多かったのは事実です。何故こんな事を言うのか、と言えば第10代崇神天皇は在位年数68年、年齢120歳(△2のp304)、第11代垂仁天皇は在位年数99年、年齢140歳(△2-1のp56)、第12代景行天皇は在位年数60年、年齢106歳なのです(△2-1のp114)。この3人は年数が誇張されて居るので記事も注意が必要です、念の為。

 (4)朝鮮半島からの渡来/帰化/遺民/亡命者

 第41代持統紀元(687)年に「投下ける新羅十四人を以て、下毛野国に居らしむ。田賦ひ稟受けて、生業に安からしむ。」と在り、同4(690)年に「帰化ける新羅人等を以て、下毛野国に居らしむ。」と在ります(△2-3のp264)。




唐と新羅の連合軍に依って668年に滅ぼされます。実はこの連合軍は先に百済も滅亡させて居ます(660年)。


 「朝鮮半島からの渡来/帰化/遺民/亡命者」については既に考察して在りますので、以下の文は▼下のページ▼からのコピーです。
  中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')

 歴史に飲み込まれた高句麗の最後ですが、その遺民や亡命者は日本にも来て居るのです。高句麗は「高麗(こま)」とも書きます。現在の埼玉県日高市(旧:武蔵国高麗郡)がそれで、高麗川が流れ高麗神社(埼玉県日高市大字新堀) -主祭神:高麗王若光、配神:猿田彦命、武内宿禰- が在り代々高麗氏が宮司を世襲して居ます(△18のp61~65)。他にも東京都狛江市山梨県北巨摩郡・中巨摩郡・南巨摩郡(古くは巨麻郡)など、高句麗系渡来人・帰化人の跡は地名に残されて居ます。又、神社では高麗神社は掛川市にも有り、神奈川県大磯の高来(たかく)神社、大阪八尾市の許麻(こま)神社(△2のp137)など、高句麗の由緒を今に伝えて居ます。
 そして『日本書紀』の天武13(684)年(△3のp198)、持統元(687)年(△3のp238~240)などに朝鮮半島からの遺民や亡命者を受け入れた記録が在ります。中でも『続日本紀』(※1-2)の霊亀2(716)年5月の条(元正天皇)には「辛夘、以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を始め置く。」と記されて居て(△4のp66)、上述の武蔵国高麗郡は716年に新設されたのです。
 この頃は朝鮮半島の情勢が切迫して居り、高句麗だけで無く滅亡した百済、更には勝ち組の新羅からも遺民や亡命者が日本に続々と流れ込んで来ました。扱いに苦慮した朝廷は遺民や亡命者を何箇所かに集めて「特別行政区画」を作り集約的に管理をした訳です。

 (5)古墳在る所に土師氏在り

 古墳と埴輪と土師氏の関係は「古墳在る所に埴輪在り、埴輪在る所に土師氏在り」なのです。その土師氏、特に「関東の土師氏」についてのページがやっと出来上がりました(←10年以上掛かった!)ので、▼下▼に
  「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)

リンクを張ります。このページは特に「関東の土師氏」について考察して居ます。{このリンクは2014年9月27日に追加}






    {この章は2014年9月9日に追加し、2015年2月2日に最終更新しました。}

 ■結び - 獲加多支鹵大王(雄略天皇)は自己主張型人間

 そういう訳で「獲加多支鹵大王(雄略天皇)のリアルな姿」の章「考察」の章07年9月12日に最終更新し、これからこのページをアップロードする所です。この年の8月末から私は中耳炎に罹って居り未だ中耳炎は続行中です(←しかし全然痛く無い...(^o^))。何しろ私が医者の世話に為ったのは10歳位の時に扁桃腺を切った時以来で、掲示板にも書きました約45~50年振り位なのです。馬鹿は風邪引かない」と言いますが本当にその通りです!
 獲加多支鹵大王(雄略天皇)についてはお解り戴けた事と思います。一言で言えば面白い人です。埼玉稲荷山古墳と江田船山古墳の両古墳出土鉄剣の銘の獲加多支鹵大王という名前のインパクト、「倭の五王」の中でも武は飛び抜けた存在力を示し、精力絶倫にしてセックスは開けっ広げ、『万葉集』『日本霊異記』の冒頭に載る様な押し出しの利いた個性の強さ、怒りっぽい大悪大王(←雄略に時代は天皇という語は無い)、豊富なエピソードと「神と対等な大王」の強調、などなど他の天皇には見られない「存在力の大きさ」「前に出る個性」 -灰汁(あく)が極めて強い自己主張型と言える -を感じますね。

    {この前半部分は07年9月12日に追加}







φ-- おしまい --ψ

【脚注】

※1:日本書紀(にほんしょき)は、六国史(りっこくし)の一。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。中国の史書に倣って作られたもので、神代から持統天皇迄の朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。「帝紀」「旧辞」及び朝鮮の史料、諸家の系譜、廷臣の日記などを材料として居り、作為や潤色の多い部分も有るが、古代史の重要な史料とされる。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:六国史(りっこくし)とは、奈良・平安時代の朝廷で編集された六つの国史。日本書紀続日本紀日本後紀続日本後紀日本文徳天皇実録(文徳実録)・日本三代実録(三代実録)の総称。
 補足すると、各六国史の内容及び完成年は下の通り。
    名称        収載歴代    完成年  編者
  日本書紀(30巻)   (神代)~持統    720 舎人親王
  続日本紀(40巻)    文武 ~桓武    797 藤原継縄・菅野真道
  日本後紀(40巻)    桓武 ~淳和    840 藤原冬嗣・藤原緒嗣
  続日本後紀(20巻)   仁明        869 藤原良房・春澄善縄
  文徳天皇実録(10巻)  文徳        879 藤原基経・菅原是善
  三代実録(50巻)    清和・陽成・光孝  901 藤原時平・大蔵善行
※1-2:続日本紀(しょくにほんぎ)は、六国史(りっこくし)の一。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)迄の編年体の史書。藤原継縄菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀(しょっき)。






※x:風土記(ふどき)は、713年(和銅6)元明天皇の詔に依って、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた、我が国最古地誌。完本に近いものは出雲国風土記のみで、常陸播磨の両風土記は一部が欠け、豊後肥前のものは可なり省略されていて、撰進された時期も一律では無い。他に30余国逸文が現存。文体は国文体を交えた漢文体。平安時代や江戸時代に編まれた風土記と区別する為「古風土記」とも言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※x-1:常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、古風土記の一。1巻。常陸国11郡の内、河内(逸文在り)・白壁(後の真壁)の2郡を欠く9郡の地誌。713年(和銅6)の詔に基づいて養老(717~724)年間に撰進。文体は漢文に依る修飾が著しい。




※5-2:古墳時代(こふんじだい)は、日本で壮大な古墳の多く造られた時代。弥生時代に次いで、略3世紀末~7世紀に至る。但し、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。古墳時代は畿内を中心として文化が発達した時期で、統一国家の成立・発展と密接な関係が有るとする説も在る。現在、古墳の築造時期を前期(3世紀末~4世紀後半)中期(4世紀末~5世紀)後期(6~7世紀)に分けるのが一般的。前期は司祭者的な首長の統治が始まり、中期には強力な首長の統合に依って大和政権が確立された時代。後期には大陸から伝来した仏教文化が開花した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>


※10:[埼玉]稲荷山古墳([さきたま]いなりやまこふん)は、埼玉県行田市の埼玉古墳群中の前方後円墳。1968年の発掘調査のX線撮影で、雄略天皇と推定される人名 -獲加多支鹵(ワカタケル)大王- を含む115文字から成る金象嵌に依る銘文の在る鉄剣であることが判明。
※10-1:槨(かく)とは、棺を入れる箱。「棺槨」。
※10-2:江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡菊水町江田に在る5世紀末の前方後円墳。1873年(明治6)出土した鉄刀の75文字の銀象嵌銘に、雄略天皇と推定出来る人名 -獲□□□鹵大王埼玉稲荷山古墳から出土した獲加多支鹵(ワカタケル)大王と推定出来る- が在る。

※11:金錯(きんさく)とは、金属器の表面にで文様や文字を象嵌(ぞうがん)し、又は塗ったもの。


※13:世直し一揆(よなおしいっき)は、幕末から明治に掛けて発生した農民一揆。小作地の返還や年貢の減免を要求。
 補足すると、世直し一揆などの幕末の民衆のエネルギーは一旦は沈静化したものの、やがて明治13(1880)年の秩父困民党の蜂起へと受け継がれて行きます。

※14:直刀(ちょくとう)は、刀身が真っ直ぐで反(そ)りを持たない刀。日本の古代の刀身は全て直刀であった。←→弯刀/湾刀。
※14-1:弯刀/湾刀(わんとう)は、湾曲した刀。刀身に反(そ)りのある刀。←→直刀。

※15:雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫。木梨軽皇子の同父母弟。名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。安康天皇を暗殺した眉輪王や対立する皇位継承候補を一掃して即位。専制的・英雄的で、477年中国(=南朝の宋)へ遣使した倭王「武」に比定され、同年宋より安東大将軍の将軍号を授けられ、478年宋の順帝に上表文を奉り(←「宋書」)、479年には鎮東大将軍に進号された(←「南斉書」)。又、辛亥(471年か)の銘の在る埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵(わかたける)大王」に比定される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
 補足すると、万葉集の冒頭の歌、「日本霊異記」の冒頭の話など、人物像がリアルに描かれて居る。
※15-1:雄略(ゆうりゃく、grand plan)とは、雄大な計略。

※16:崇神天皇(すじんてんのう)は、記紀伝承上の第10代の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)。日本書紀に御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)、古事記に所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) と在り、更に常陸国風土記に初国所知美麻貴天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と在る。四道将軍派遣、宮中に祀っていた天照大神を最終的に伊勢神宮に祭り(←これを「元伊勢」と呼ぶ)、斎宮の制を始めるなど祭祀の整備し、朝鮮半島の任那からの朝貢を受け、更に池溝の開発など、多くの業績を残し大和政権を確立した最初の天皇と考えられて居る。陵墓は山辺道上陵。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※16-1:豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、崇神天皇の皇子。東国の上毛野君、下毛野君の祖と伝えられる。
※16-2:四道将軍(しどうしょうぐん)は、記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍(何れも皇族)。北陸は大彦命、東海は武渟川別命(たけぬなかわのみこと)、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)。古事記は西道を欠く。
※16-3:吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、本名を彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)。吉備氏の祖と伝える伝説上の人物で、古代吉備政権との関わりが注目される。「日本書紀」に第7代孝霊天皇の皇子で、四道将軍の1人として吉備国を平定したと伝える。記では吉備の上つ道臣の祖とされ、吉備津彦を称する2皇子(←もう1人は若日子建吉備津日子命で弟の雅武彦命)が在る(←孝霊記)。吉備津神社の中山の古墳は命の陵墓とされる。一説に桃太郎のモデルとされて居る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※16-4:雅武彦命(わかたけひこのみこと)は記紀伝承で、吉備津彦命の弟で兄の山陽道平定に従軍。若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)。紀では吉備臣の祖。記では吉備の下つ道臣・笠臣の祖(←孝霊記)。













※17:宋(そう)は、この場合、南朝の一。東晋の将軍劉裕(武帝)が建てた国(420~479)。都は建康(南京)。8世で斉王蕭道成に帝位を譲った。劉宋。
※17-1:宋書(そうしょ)は、二十四史の一。南朝の宋の正史。帝紀10巻、志30巻、列伝60巻。487年、南朝の梁の沈約(しんやく)が斉の武帝の勅を受けて撰、翌年成る。

※18:履中天皇(りちゅうてんのう)は、記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第1皇子。名は大兄去来穂別(おおえのいざほわけ)。
※18-1:反正天皇(はんぜいてんのう)は、記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第3皇子。名は多遅比瑞歯別(たじひのみずはわけ)。
※18-2:允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿禰(おあさずまわくごのすくね)。盟神探湯(くがたち)で姓氏の混乱を正したと言う。
※18-3:木梨軽皇子(きなしかるのみこ)は、允恭天皇の第1子。母は忍坂大中姫。雄略天皇の同父母兄皇太子と成ったが、同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)、又の名を衣通姫(そとおりひめ)と情を通じ、大郎女は伊予国へ流される。允恭天皇が崩御すると、諸臣が服さず同母弟の穴穂皇子(後の安康天皇)に付いた為、物部大前宿禰の家に逃げたが捕らえられ、伊予に流され、大郎女と共に命を絶ったと言う。「古事記」允恭記には禁断の恋が美しく謳われて居る。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※18-4:安康天皇(あんこうてんのう)は、記紀に記された5世紀中頃の天皇。名は穴穂(あなほ)。允恭天皇の第2子。大草香皇子の王子の眉輪王(まゆわのおう)に暗殺された。

※19:世子/世嗣(せいし、heir)とは、諸侯・大名の跡継ぎの子。世継ぎ。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※20:任那(みまな)とは、4~6世紀頃、朝鮮半島の南部に在った伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国の内の金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本政府については定説が無いが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和朝廷の使節団を指すものと考えられる。にんな。
※20-1:日本府(にほんふ)とは、日本書紀に、大和朝廷が南朝鮮経営の為に任那に置いたと記される官府。562年新羅に滅ぼされたとされる。任那日本府。

※21:呉(くれ)は、この場合、中国南北朝時代の南朝、及びその支配した江南の地域を日本でいう称。又、広く中国の称。

※22:都督(ととく)とは、この場合、中国で、魏以後、地方の軍政を統べた武官。都督州軍事の略。又、南北朝時代、倭・高句麗など周辺諸民族の首長にも冊授。都督の名称は次第に廃れ、清代に廃止。のち中華民国の初期、各省の軍政長官。




※y:四神(しじん)とは、天の四方の方角を司る神、即ち東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武の称。四獣。
※y-1:東夷(とうい)とは、この場合、(東方のえびすの意)中華(黄河の中・下流地方)の東方に住む異民族西戎南蛮北狄に対する。太平記26「―南蛮は虎の如く窺ひ、西戎北狄は竜の如く見る」。←→西戎。→青龍。
※y-2:青龍/青竜(せいりゅう/せいりょう)は、この場合、四神の一。青は五行説で東方に配する。平家物語5「左―、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地なり」。→東夷。
※y-3:西戎(せいじゅう)とは、古代中国人が西方の異民族を指した総称。青海付近/黄河の源流域から甘粛省東部に亘る地域に居住したチベット系、乃至トルコ系の諸民族。←→東夷。→白虎。
※y-4:白虎(びゃっこ)は、四神の一。白は五行説で西方に配する。→西戎。
※y-5:南蛮(なんばん)とは、この場合、(南方の野蛮人の意)古く中国で、インドシナを始めとする南海の諸国の称。←→北狄。→朱雀。
※y-6:朱雀(すざく/しゅじゃく)は、この場合、(古くシュシャカ/シュシャクとも)四神の一。朱は五行説で南方に配する。→南蛮。
※y-7:北狄(ほくてき)とは、古代中国で、北方塞外の匈奴/鮮卑/柔然/突厥/契丹/回紇(ウイグル)/蒙古などの遊牧民族を呼んだ称。←→南蛮。→玄武。
※y-8:玄武(げんぶ)は、青竜/朱雀/白虎と共に天の四方を司る四神の一。玄は五行説で北方に配し、水の神で、亀に蛇の巻き付いた姿に表す。→北狄。








※23:夷(い/ひな/えびす)は、[1].[礼記王制「東方曰夷」]東方の未開の異民族。えびす。「夷狄(いてき)・東夷西戎」
 [2].平らげること。滅ぼすこと。「焼夷弾」
 [3].平らかなこと。「夷坦・陵夷」。
※23-1:蝦夷(えみし・えびす/えぞ)は、[1].古来、北関東から東北・北海道に掛けて住み、大和朝廷に服属しなかった人々に対する蔑称アイヌ民族を含む。平安初期迄は「えみし・えみす・えびす」などと呼んだが、平安中期以後「えぞ」と読む様に成った。神武紀「―を、一人(ひだり)百(もも)な人、人は言へども、手向ひもせず」。
 [2].えぞ。北海道の古称。蝦夷地。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、『Microsoft エンカルタ総合大百科』より>
※23-2:毛人(もうじん)は、(「毛深い人」の意)蝦夷(えみし/えぞ)の古称。性霊集1「―羽人境界(けいかい)に接す」。
※23-3:熊襲(くまそ)とは、記紀伝説に見える九州南部の地名、又そこに居住した種族。肥後の球磨(くま)と大隅の贈於(そお)か。日本武尊の征討伝説で著名。景行紀「―反(そむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず」。
※23-4:隼人(はやと/はやひと)とは、(ハヤトはハヤヒトの約)古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。後に服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏に当たった。はいと。万葉集11「―の名に負ふ夜声いちしろく」。→隼人舞
※23-5:土蜘蛛(つちぐも)とは、(「土雲」「都知久母」とも書く)神話伝説で、大和朝廷に服従しなかったという辺境の民の蔑称
※23-6:国栖・国樔・国巣(くず)は、[1].古く大和国吉野郡の山奥に在ったと伝える村落。又、その村民。他村落と交通せず、在来の古俗を保持して、奈良・平安時代には宮中の節会に参加、贄(にえ)を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌(ふぞくうた)を奏する事が例と成って居た。→国栖奏(くずのそう)
 [2].(常陸国茨城郡・行方郡<常陸国風土記>の)土着の先住民
※23-7:日高見国(ひだかみのくに)は、古代の蝦夷地の一部。常陸国風土記逸文信太郡の条に「此地本日高見国云々」と在り、信太郡の古名。大和政権の支配域の拡大につれ日高見国も東進したものと考えられる。現在では北上川の下流地方、即ち仙台平野に比定。景行紀「蝦夷既に平げて、―より還りて」。
※23-8:文身(ぶんしん、tattoo)とは、(「文」は模様の意)身体に彫り物(入れ墨)をすること。又、そのもの。入れ墨/刺青(いれずみ)。「黥面(げいめん)―」
※23-9:「さへく」とは、騒がしい声で物を言う。聞き分け難く物を言う。<出典:「新明解古語辞典」(三省堂)>
※23-10:八束脛/八掬脛(やつかはぎ)とは、古代伝承に見える足の長い人。先住民を誇張して言う(←長髄彦など)。又、先住民の蔑称。釈日本紀10「越後国風土記に曰はく、美麻紀(崇神)天皇の御世に越国に人あり、八掬脛(やつかはぎ)と名づく」。






※24:采女(うねめ)とは、古代、郡の少領以上の家族から選んで奉仕させた後宮の女官。律令制では水司・膳司に配属。うねべ。孝徳紀「凡そ―は郡の少領より以上の姉妹及び子女の形容(かお)端正(きらぎら)しき者を貢れ」。
※24-1:采女田(うねめでん)とは、采女を出す郡にその諸経費の財源として支給した田采女肩巾田(うねめのひれのた)

※25:ロリコンとは、ロリータ・コンプレックスの略。
※25-1:ロリータ(Lolita)とは、V.ナボコフの小説「ロリータ」の主人公の少女名。小説「ロリータ」は中年詩人の異常な少女愛を描いた作品で1955年パリで発刊されたが翌年発禁、1958年アメリカで出版し話題を攫う。以後、少女愛の対象の代名詞に成った。→ロリータ・コンプレックス(ロリコン)。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※26:日本霊異記(にほんりょういき)は、(ニホンレイイキとも)平安初期の仏教説話集。3巻。僧景戒撰。中国の「冥報記」などに倣った書で、奈良時代から弘仁(810~824)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報などに関する説話を漢文で記した書。「今昔物語集」など後世の説話集の先駆。詳しくは「日本国現報善悪霊異記」。霊異記。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※27:婚合(こんごう)は、男女の交接。媾合。交合。

※28:籠(こ)とは、この場合、籠(かご)のこと。万葉集1「―もよ、み―持ち」
※28-1:掘串(ふくし)とは、串状の土を掘る道具。竹・木で作った。ふぐせ。万葉集1「籠(こ)もよみ籠もち―もよみぶくしもち」

※29:一言主神(ひとことぬしのかみ)は、葛城山に住み、吉事も凶事も一言で表現するという神。

※30:秋津島・蜻蛉島・秋津洲・蜻蛉洲(あきづしま、あきつしま)とは、[1].大和国。又は本州。又は日本国の異称。(元は奈良県御所市付近の地名から)神武天皇が大和国の山上から国見をして「蜻蛉の臀呫(となめ)の如し」と言った伝説が有名。古事記下「そらみつやまとの国を―とふ」。
 [2].「やまと(大和・倭)」に掛かる枕詞。万葉集1「うまし国ぞ―大和の国は」。

※31:秦酒公(はたのさけのきみ)は、半伝説的人物で雄略天皇に仕え、太秦(うずまさ)の姓を与えられたとされ、その姓が今も地名として残る。秦造酒とも。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※32:浦島子/浦島の子(うらしまのこ)は、浦島太郎のこと。雄略紀/丹後風土記/万葉集/浦島子伝などに見える伝説的人物で、丹後水の江の浦島の子、又は与謝郡筒川の島の子という漁夫。亀に伴われて竜宮で3年の月日を栄華の中に暮し、別れに臨んで乙姫(亀姫)から玉手箱を貰い、帰郷の後、戒を破って開くと、立ち上る白煙と共に老翁に成ったと言う。神婚説話。海幸山幸神話と同型の典型的な仙郷滞留説話。島の子。島子。







※40:毛野国(けぬくに、けのくに)とは、(江戸時代には誤読してケヌとも)4世紀頃、毛野国が存在したという説が有力。上野(こうづけ)・下野(しもつけ)両国の古称。上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)と書き、715年(霊亀1)に諸国の国名を2字と定めてから、上野下野と記した。
※40-1:上野(こうづけ、こうずけ)は、(カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転)旧国名。今の群馬県上州
※40-2:下野(しもつけ)は、(シモツケノ(下毛野)の略シモツケの転)旧国名。今の栃木県野州(やしゅう)。
※40-3:両毛(りょうもう)とは、上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)の2国の併称。後の上野と下野。
 補足すると、JR両毛線は群馬県の高崎と栃木県の小山(おやま)を結び旧国名の両毛地方を走り、途中に桐生や伊勢崎や前橋を通ります。

※41:公/君(きみ)とは、この場合、古代の姓(かばね)の一。主として継体天皇以後の諸天皇を祖とする「公」姓の13氏は天武天皇の時に真人(まひと)と賜姓され、八色姓(やくさのかばね)の第1等と成った。「君」姓の者は多く朝臣(あそん)と賜姓。
※41-1:姓(かばね)とは、(「かばね」は、元はのこと。父系の血筋は骨に宿ると考えられたことから。<出典:「漢字源」>)
 [1].古代豪族が政治的・社会的地位を示す為に世襲した称号(おみ)・(むらじ)・(みやつこ)・(きみ)・(あたい)・(ふびと)・県主(あがたぬし)・村主(すぐり)など数十種が在る。初めは私的な尊称であったが、大和朝廷の支配が強化されると共に朝廷が与奪する様に成り、臣・連が最高の姓と成った。大化改新後の684年、天武天皇は皇室を中心に八色姓(やくさのかばね)を定めたが、やがて姓を世襲する氏(うじ)よりも氏が分裂した結果である家(いえ)で政治的地位が分れることに成って、氏(うじ)や家(いえ)との混同を経て自然消滅した。せい。
 [2].氏(うじ)。姓氏。
※42-2:使主(おみ)とは、古代の姓(かばね)の一渡来人に多い。




※42:先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)は、神代から推古朝迄の事跡を記した史書。10巻。序に蘇我馬子らが勅を奉じて撰したと在るが、平安初期の偽撰。但し物部氏の独自の伝承を伝える。又「国造本紀」も独特。旧事紀。旧事本紀。




※43:国造(くにのみやつこ/くにつこ/こくぞう)は、(「国の御奴」の意)古代の世襲の地方官。略1郡を領し、大化改新以後は多く郡司と成った。大化改新後も一国一人ずつ残された国造は、祭祀に関与し、行政には無関係の世襲の職とされた。
※43-1:郡司(こおりのみやつこ/こおりのつかさ/ぐんじ)は、律令時代の地方行政官。国司の下に在って郡を治めた。地方の有力者から任命し、大領・少領・主政・主帳の4等官から成る。
※43-2:郡評論争(ぐんぴょうろんそう)とは、大化の改新の詔(646年)から大宝律令の制定(701年)迄の間、地方行政組織として「郡(こおり)」と「評(こおり)」のどちらが使われて居たかに関する論争。藤原宮跡出土の木簡に拠り、この間(646~701年)は「評」が使われ、大宝律令以後に「郡」が使われたことが判明した。元来は「日本書紀」に記された改新の詔の真偽を巡る論争として始められたが、郡評論争だけでは結論が出せないで居る。


※44:五畿七道(ごきしちどう)とは、律令制下の地方行政区画。山城・大和・摂津・河内・和泉の畿内5ヵ国と東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道。日本全国の意。
※44-1:東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一。畿内の東方の山地を中心とする地。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8ヵ国に分ける。又、これらの諸国を通ずる街道。


※45:面縛(めんばく)とは、両手を後ろ手に縛って顔を前方に差し出すこと。太平記4「呉王すでに―せられて」。






    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】



△2:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△2-1:『日本書紀(二)』(同上)。
△2-2:『日本書紀(三)』(同上)。
△2-3:『日本書紀(四)』(同上)。
△2-4:『日本書紀(五)』(同上)。



△3:『新編 日本古典文学全集5-風土記』(植垣節也校注・訳、小学館)。

△4:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△5:『魏志倭人伝 他三編』(石原道博編訳、岩波文庫)。「他三編」の一編に今回参照する『宋書』倭国伝が在る。

△6:『大和王朝成立の秘密』(水野祐著、ワニ文庫)。本書は「三王朝交替説」の手軽な本。

△7:『日本霊異記(上)』(景戒著、中田祝夫訳注、講談社学術文庫)。

△8:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△9:『カラーブックス 古墳』(森浩一著、保育社)。

△10:『上毛野国-忘れられた古代史』(岡島成行著、尾崎喜左雄監修、煥乎堂)。
△10-1:『光と風の大地から-毛野古麻呂の生涯』(福田三男著、随想舎)。



△11:『神社参拝 ポケット図鑑』(岡田荘司監修、主婦の友社)。

△12:『新訂増補國史大系 続日本紀(前編)』(國史大系編修會編、吉川弘文館)。

△13:『日本史小百科 家系』(豊田武著、東京堂出版)。

△14:『辺境-もう一つの日本史』(高橋富雄著、教育社歴史新書)。



△18:『日本の神々 神社と聖地11』(谷川健一編、白水社)。





●関連リンク

参照ページ(Reference-Page):雄略天皇の古墳の地図▼
地図-日本・大阪の河内地方(Map of Kawachi country, Osaka -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):京都市太秦の地図▼
地図-日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)



参照ページ(Reference-Page):秦氏/秦酒公/太秦/蘇我馬子について▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)

補完ページ(Complementary):「さきたま古墳群」の稲荷山古墳訪問記▼
前玉神社と「さきたま古墳群」(Sakitama shrine and tumuli, Saitama)

補完ページ(Complementary):大阪の古墳と土師氏について▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
補完ページ(Complementary):土師氏、毛野国、さきたま古墳群、
北関東のこれらは皆関連している▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)


補完ページ(Complementary):朝鮮半島からの遺民や亡命者を
数多く受け入れた北関東▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')


補完ページ(Complementary):関東の土師氏▼
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)



「天皇」という称号が使われたのは推古朝以後の事▼
日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)


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掲示板のテロ対策(Defend BILLBOARD from terrorism)

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(The 'Dutch', let's start Dutch language)




蜻蛉島(あきつしま)について▼
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(My INSECTS album in Japan, Dragonflies)

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2003年・交野七夕伝説を訪ねて
(Vega and Altair legend of Katano, 2003)








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都島の鵺と摂津渡辺党(Nue of Miyakojima and Watanabe family, Osaka)



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