−− 2004.02.11 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.27 改訂
■討論内容と投稿者
このページでは前回扱き下ろした埼玉を”押し広げ”、ヨイショして居ます。即ち埼玉の古代に触れ、埼玉地方に土師氏(※1、※1−1) −古墳に副葬品として埋葬する埴輪(※1−2、※1−3)を作る氏族− の足跡が色濃く残って居ることに注目し、03年12月31日に「関東の土師氏」という仮説を立てました。そして普段、観光客から無視されて居る埼玉に新たな光を照射して居ます。
これは通常女性を顔中心に見るのに対し、視点を変えてスカートの中から見るのと同じ立場です。視点を変えて埼玉を見詰め直し表層を”捲(めく)って”行くと、今迄見えなかった埼玉の別の側面が見えて来て、これぞ温故知新の心とピタリと一致。この様な視座の自由な転換を「エルニーニョ的転回」(※2)と言います。
次には客観的な認識が最初から何処かに転がって居る様に考える客観主義にも「エルニーニョ的転回」を利かせ、主観と客観を織り交ぜ固定観念にモーメント(=回転能力)を付与して居ます。
投稿者▼
[1]:ペケ丸さん
[2]:私
[69] 埼玉県を見直しました - 投稿者:ぺけ丸 投稿日:2004/01/08(木) 12:05 [近畿]
<板−3>
◆◆◆関東の土師氏は未だ?
エルニーニョさん、明けましてオメデトウございます。本年も宜しくお願いします。
見ましたよ、忍城や岩槻の人形。埼玉県を見直しました。エルニーニョさんは埼玉県の悪口をだいぶ書いてますから、謝らないといけませんね、エッヘッヘ。
土師氏はまだですか?
[70] ぺけ丸さん、今年も宜しく - 投稿者:エルニーニョ深沢 投稿日:2004/01/10(土) 07:01 [地球外]
<板−3>
◆◆◆土師氏、毛野国、さきたま古墳群
− 関東(特に北関東)のこれらは皆関連している
やあ、ぺけ丸さん、今年も宜しくお願いします。仰せの通り私は埼玉県のことは、これ迄大分扱き下ろして居ますから、次回埼玉県に足を踏み入れたら誰かに刺されるかも知れませんね、ウワッハッハ。
しかし、これで埼玉県のことを見直したでしょ。埼玉にはどうも”他の県と異なる歴史”が有りますね、大和朝廷草創期の頃の話ですが(群馬県にも一部連なっている)。例の大国主命の国譲りの話、あれは要するに大和朝廷が出雲の国を支配下に組み入れたということなのです。大和朝廷はその後どうしたか、と言うと『古事記』や『日本書紀』の景行天皇の話に出て来る西征(九州の熊襲征伐)と東征(関東地方の夷、又は蝦夷)に打って出る訳です。そこでこの東西征伐に活躍するヒーローが日本武尊(又は倭建命、やまとたける)なんですよ。ではこの頃の東の「国境」は何処かと言うと、相模国から武蔵国つまり今の神奈川県、東京、埼玉辺りが夷との国境で互いに攻防戦をして居たんです。そして大化改新頃に今の埼玉・栃木・群馬県に跨る辺りに毛野国(けぬくに)(※3) −多分大和と夷の混血民族から成る古代部族国家− が生まれて居ます。この国が後に2つに分かれて上野(こうづけ、初め上毛野(かみつけぬ))(※3−1)と下野(しもつけ、初め下毛野(しもつけぬ))(※3−2)に成り、この名称は廃藩置県迄残ったのは貴方もご存知でしょう。(←古代の2つの「毛野」は現在でもJR両毛線(※3−3)というローカル線にその名を留めて居ます)
その後坂上田村麻呂(※4)が出て、所謂東北計略で夷を今の宮城県辺り迄追い上げて行くのですが、倭建命から坂上田村麻呂迄の間、神話の時代は別にしても、古墳時代→飛鳥・奈良時代→平安時代初期迄の約400年間は、この毛野国が在った辺りの利根川を境に大和朝廷と夷が”睨み合い”をして居たんです。
そして大和朝廷側は荒川と利根川に挟まれた地域を確保し、ここに前線部隊を派遣しましたが、この東の前線に当てられた人たちの歌が『万葉集』の東人(※5)の歌なんです。では誰が派遣されたかと言うと、これは史料に断片的に出て来ますが、大和朝廷がそれ迄に征服した国の民族だ、というのが私の説です。私の説と言うか、これは史料に出て来ますからね。そして今の埼玉県と群馬県太田市辺りは、取り分け古代出雲族が当てられたというのが、これこそ私の説です。
それを証明する状況証拠が、「さきたま古墳群」(←中でも稲荷山古墳から出土した「鉄剣」の銘文)です。次に昔は「はじのみや」と言われた鷲宮(わしみや)や大鷲神社・鷲神社・大鳥神社 −読みは何れも「おおとりじんじゃ」− の利根川流域への集中的分布です(△1のp282〜283)。土師氏は出雲族(※1、※1−1)で埴輪(※1−3)を作り古墳と密接な関係が有ると共に、大鳥の「穂落し伝説」(△1のp283)を持つ天穂日命(あまのほひのみこと)(※1−1)を祖神とし、前記の神社は何れも「酉の市」(※6)が盛んです。もう一つ神社で言うと殆ど埼玉県のみと言って良い程埼玉県に偏在して居る氷川神社です。これは出雲の中心的神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)を奉る神社で、その総本社である大宮の氷川神社は、何と出雲大社から勧請して創建されて居ます。氷川(ひかわ)は簸川(ひのかわ)(※7)に由来し、この川は現在の島根県斐伊川(※7−1)です。更に埼玉県に羽生(はにゅう)市が在りますが、これも元は埴生(はにゅう)です。ここに嘗て土師氏が住み、土師器(※1−2)や埴輪(※1−3)を造って居たんです。羽生市は「さきたま古墳群」や群馬県の太田天神山古墳からそんなに遠くは無いのです。
単に下級の兵隊だけで無く土師氏の様な姓(かばね)を持つ品部(※1、※8)や神社の神職など、出雲の国の一部をそっくり移した様な、出雲コロニーと言うべき性格を持っているんですね、古代埼玉は。私が冒頭で”他の県と異なる歴史”と言ったのはこれなんです。
土師氏は又、浅草寺や浅草神社とも深い関係が有るのをご存知ですか?
(-_@)
やあ、大変長く成って仕舞いましたね。ペケ丸さんが「土師氏はまだですか?」なんて訊くもんですから、ちょっと私の考えていることを書いたのですが、これでも大分途中に飛躍が有るでしょう?、これを飛躍無く書こうとすると相当な分量に成るんですよ。ということで土師氏(確かに12月に埼玉に行ったメインテーマは土師氏なんですが)のページをアップするのは当分先に成ります。
そこで忍城や岩槻の人形など、小さいテーマから纏めているのです、ああ疲れた!!
[71] エルニーニョさん、お疲れ様 - 投稿者:ペケ丸
投稿日:2004/01/12(月) 13:46 [近畿]
<板−3>
◆◆◆夷(エミシ)は今のアイヌ
エルニーニョさん、お疲れ様。そういうことだったのですか。エルニーニョさんの説明でよくわかりました。夷(エミシ)は今のアイヌですよね。アイヌ人が昔は東北地方にもいたということは知ってましたが、埼玉県の話は今まで全然知らなかったです。歴史の授業でも習った覚えありませんね。いや、習ったかな、(???)、習ったとしてもぼくは覚えていません。勉強しなかったですから(笑)。
しかし埼玉県てすごいですね。このことを掘り起こして埼玉県のこと書いたら、エルニーニョさんも埼玉で刺される心配なくなりますよ。浅草も土師氏に関係あるんですか?
ホームページの年賀状見ました。あんなこともできるんですね。「下半身過敏症」ってなんですか、えっへっへ。
ぼくは「脳天ショック」の連続です!
[72] エルニーニョ的転回 - 投稿者:エルニーニョ深沢 投稿日:2004/01/13(火)
07:03 [地球外]
<板−3>
◆◆◆視点を変えてスカートの中から物事を見る眼
ペケ丸さん、何時も有り難う御座います。浅草と土師氏の関係については、私の「ぶらり浅草」を見て下さい。チラッと書いてますよ。
夷(えみし)、蝦夷(えぞ)、アイヌなど、まあ色々な学者の意見は有りますが、何れも大和朝廷側から見た物が殆どですね。それは『日本書紀』や『続日本紀』など、所謂”文献”なる物が皆朝廷権力側が構築した物で、学者は文献に依拠しますからね。
私は日本史を例えばアイヌの側から見たり、琉球の人たちの側から見たりと、日本史の見直しを10年以上前からして居ます。世界史もそうですね、西洋中心主義的史観からの脱却を目指して居ます。だからと言って大東亜共栄圏の様に日本の皇室中心主義とは断じて違います。何処にも中心を置かない、世界を等分に見る歴史観です。
そういう意味で埼玉県を夷の側から見たり、嘗ての毛野国の側から見ると、新たなもの、今迄見えなかった”何か”が見えて来るのでは、と考えて居ます。こういう見方は学者には中々無理な様で、作家の方が実践して居ますね。アイヌの側から船戸与一が国後・目梨の乱を書いたり、高橋克彦がアテルイの乱(※4−1)を書いたりして居ます。高橋克彦の方は未だ読んでませんが。
これは女性を顔中心に見るのに対し、視点を変えてスカートの中から見るのに似て居ますね、ウオッホッホッホ。この様に、想像力で視点を自在に変えることを、「エルニーニョ的転回」(※2、※2−1)と言いますゾ、もうコペルニクス(※2−2)もビックリですね、ウワッハッハッハッハ!
因みに、当サイトは@想像力のワンダーランド@です。
それからもう一つ、これは言葉の用法の問題ですが、ペケ丸さんは「掘り起こして」と言いましたが、確かに普通の日本語としてこれは正しい使い方ですが、それでは面白く有りません。「掘り下げる」とか「掘り起こす」とか言うと、何だか「おカマ掘る」様に聞こえますので、私はこういう時は”押し広げ”てと使いますよ。何故だって?、ムッフッフ、おカマでは無く女性を相手にする時は”押し広げ”るでしょ、ウワッハッハッハッハ。
いや〜あ、今年も新年から私の舌鋒は快調にスタートした様ですね!!!
[73] みんなビックリ - 投稿者:ペケ丸 投稿日:2004/01/15(木) 10:05 [関東]
<板−3>
エルニーニョさん、ぼくも絶句です。コペルニクスだけではなく、みんなビックリしていますよ。
[74] コペルニクスからの伝言 - 投稿者:エルニーニョ深沢
投稿日:2004/01/18(日) 19:21 [地球外]
<板−3>
コペルニクス氏は地獄に居るそうですよ。ペケ丸さん、関東に移住したんですか?、ムッフッフ。
[75] 無題 - 投稿者:ペケ丸 投稿日:2004/01/19(月)
08:13 [近畿]
<板−3>
違いますよ、間違えたというか、近畿に設定するのを忘れたのです。掲示板で設定しないと、いつも関東になっているんですよ。
でも日本史や世界史の見なおしというのは大変なことですね。たしかに埼玉県を夷の側から見たりすると、オモシロイですね。
[76] 客観に近付く! - 投稿者:エルニーニョ深沢 投稿日:2004/01/19(月)
20:32 [地球外]
<板−3>
◆◆◆主観、客観、エルニーニョ的転回
ペケ丸さん、デフォルトで「関東」に成っているという訳ですね。ところで、今度はタイトル入れるの忘れましたね。ムッフッフ!
一つの事象や現象、歴史的”事実”と言われて居る物事も、私たちに見えているのは部分的な一面に過ぎないのですよ。私は凡そ”客観的事実”など在り得ないと思っているのです。何故なら「私たちに見えているのは部分的な一面に過ぎない」からです。それは恰も月の半面しか見えて無いのと同じです。私たちが認識する事実は皆一面的な主観に過ぎないのですが、一人一人の主観が総和されて或る平均値が取られて、それを”定説”と呼び「”その時点”での客観的事実」と定義して居る訳です。これは飽く迄定義であって実際に100%の客観とは言い切れないのです。単に”その時点で客観に近い”ということなのです。
一人だけではほんの一面しか見えないが、それを寄せ集めれば総体としては可なり広い角度から見ることが出来るし、人間には「想像力」というものが有りますから、見えて無い部分も見えている部分から類推することは出来るのです。しかし今の”定説”が時として覆されることも有る訳です、それは見えて無い部分に光を当てて見たら類推して居たことと違っていた、ということです。そして「”新しい時点”での客観的事実」が再構築される、...そういう事の積み重ねなのです。だから私は「人間は常に謙虚で在らねば為らない」と言っている訳です。
ところで埼玉県や東北地方を夷(エミシ)の側から見ようとすると、これ迄殆ど光が当てられて来ず、見えて無い部分が多いのですよ。現在が東京を中心にチョコッとしか見て居ないのと同様、古代に関しても畿内を中心にチョコッとしか見て居ないのです。その状況は世界に関しても同じで、アメリカを中心にチョコッとしか見て居ないのです。これでは客観に近付くことは出来ないでしょう。
そういう意味でこの<板−3>の[70] に私が書いたことは面白いテーマだと思って居ますよ。
[77] ヘンになりそう - 投稿者:ペケ丸 投稿日:2004/01/23(金)
13:10 [近畿]
<板−3>
◆◆◆もう変(へん)に成りそう
今度はタイトル、そうです。掲示板に書くのって緊張しますからね。ついつい忘れてしまいます。
今まで見えてない部分に光をあてる、それがエルニーニョさんが言う、「女性を顔中心に見るのに対し、視点を変えてスカートの中から見る」ということですね、ああ恥ずかしい。
エルニーニョさんと話しているとだんだんぼくもヘンになりそうです!
[78] ペケ丸さんへ - 投稿者:エルニーニョ深沢 投稿日:2004/01/24(土)
11:27 [地球外]
<板−3>
◆◆◆「客観」とは個々の「主観」の総和の平均
やあ、ペケ丸さん、「エルニーニョ的転回」をご理解下さり有り難う御座います。私が考えるには、前回書き込みした様に、
「客観」とは個々の「主観」の総和の平均[の様なもの]
ということです。だから個々人は大いに自分の「主観」や「独断」を持つべきです。それがその人の個性ですからね。個々人は違った意見を持ち乍ら、総体としての世論はそれでバランスが取れるのです。
それを自分の意見を持たず、初めから”平均”に合わせようとするから、メディアに誘導されて仕舞うんですよ。
自分の意見や主張を持ち乍ら、それは又自分の主観であることを自覚して、他人の意見にも耳を傾けることが出来る個人、そういう人が「自立した市民」なのだ、と思いますよ。
ところで、「スカートの中から見た美人コンテスト」などを遣ったらさぞ面白いでしょうな、グワッハッハッハッハ!!
■独言...(*_-)
◆◆◆「関東の土師氏」は中々難しい
フムフム。
しかし「関東の土師氏」というテーマは中々難しいのう、非常に面白いテーマなのじゃが。それに何だ彼だと忙しく「関東の土師氏」にじっくりと向き合う時間が中々取れなく、ついつい先延ばしに成って居るのう。何とかせねば、とは思っては居るのじゃが、...。
{この段は2004年3月21日に追加}
◆◆◆稲荷山古墳出土鉄剣の銘文の獲加多支鹵大王(=雄略天皇)を
手掛かりに当時の外交と蝦夷計略を追加
既にこのページの2004年1月10日の<板−3>の[70]で、「土師氏、毛野国、さきたま古墳群、関東のこれらは皆関連している」と概略を書いた訳じゃが、本当にそう思うね、もう今から3年半の前じゃ。
ところがこれを、もう少し纏まった形にしようと思うと中々大変でのう、『日本書紀』の崇神紀〜継体紀、『続日本紀』の桓武紀は最低限読まねば為らず、中々大変じゃ。おっと又”大変”が出て仕舞(しも)うたわい。特に土師氏は垂仁紀、毛野国(上毛野/下毛野)は崇神紀、さきたま古墳の稲荷山古墳は雄略紀、そして坂上田村麻呂と蝦夷の阿弖流為との戦いは桓武紀が重要な資料なのじゃ。場合に依って『古事記』『常陸国風土記』なども参照せねば為らん。何処から手を付けたら良いのか解らん状態じゃわい。
それにワシはクラシック音楽を楽しむ会【ブラボー、クラシック音楽!】という会を主宰して居ってのう、これが又大変なのじゃ。
そういう訳で(←これは言い訳じゃが)、大変が重なって本当に大変じゃったが、この度やっと稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文の獲加多支鹵大王(=雄略天皇)から手を付けて何とか形にしたので▼下▼から見てたもれ。客観主義を貫いた積もりじゃが類推してる部分は主観じゃ。<板−3>の[78]でも言ってる通り「「客観」とは個々の「主観」の総和の平均」じゃよ。宜しく!
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
これは言わば「前玉神社と「さきたま古墳群」」の考察部分じゃのう。上記リンクはちゃんと追加した所へ行く様に成って居る。中々の力作じゃゾ!!
{この段は2007年9月12日に追加}
◆◆◆「関東の土師氏」の回答じゃ
その土師氏、特に「関東の土師氏」について回答のページがやっと出来上がったよ。▼下▼に
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)
リンクを張るから、良く読んでたもれ。又、別のファイルじゃが「久伊豆神社が分布する地域と土師氏の重要拠点の略図」は「関東の土師氏」を考える上で非常に重要じゃ。
しかし未だ解らん事が一杯在る、だから”一応の”回答じゃ。「関東の土師氏」は言い出してから10年以上も掛かって仕舞ったわい!、オッホッホ!!
{この段は2014年9月27日に追加}
【脚注】
※1:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作、葬儀にも従事。
土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※1−1:天穂日命(あまのほひのみこと)は、日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)の際に生れた子。天孫降臨に先立ち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主と成る。出雲国造らの祖とする。千家氏(=出雲大社の宮司)はその子孫と言う。又、その子が天夷鳥命(あまのひなどりのみこと)で、武蔵国造や近江国造などの祖とされる。
※1−2:土師器(はじき)は、弥生土器の系譜に繋がる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い。
※1−3:埴輪(はにわ)は、古墳の上や周囲に立て並べた土製品。円筒埴輪と形象埴輪とが在り、後者は人物・動物・器具・家屋などを象(かたど)ったもの。前者は筒形のもので、弥生土器の祭祀用の器台から発展したとされる。垂仁紀「其の土物(はに)を始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号(なづ)けて埴輪と謂ふ」。
※2:エルニーニョ的転回(ElNinan change)とは、コペルニクス的転回のパロディー。
※2−1:コペルニクス的転回(Copernican change)とは、
[1].コペルニクスが唱えた地動説を切っ掛けに、神中心の中世から人間中心の近世への、世界観の大転回を指す。地動説は、ルネサンス期の実証的自然科学を受け継ぎ近世科学の端緒を開いた。
[2].〔哲〕カントがその「純粋理性批判」の認識論に於いて、主観が客観に従うのでは無く、逆に客観が主観に従い、主観が客観を可能にすると考えた事を、天動説から地動説へのコペルニクスの転回に譬えて自ら称した語。
[3].転じて物事の考え方が、がらりと正反対に変わることに言う。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2−2:コペルニクス(Nicolaus Copernicus)は、ポーランドの天文学者・聖職者(ポーランド名はMikolaj Kopernik、1473〜1543)。肉眼に依る天体の観測とギリシャ思想とに基づいて、太陽中心宇宙説を首唱、地球その他の惑星はその周囲を廻るという地動説を発表し、当時定説であった地球中心宇宙説に反対し、近世世界観の樹立に貢献。地動説を唱えた主著「天体の回転について」は長い躊躇と苦悶の末、死の直前に出版。
※3:毛野国(けぬくに、けのくに)とは、(江戸時代には誤読してケヌとも)4世紀頃、毛野国が存在したという説が有力。上野(こうづけ)・下野(しもつけ)両国の古称。上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)と書き、715年(霊亀1)に諸国の国名を2字と定めてから、上野・下野と記した。
※3−1:上野(こうづけ、こうずけ)は、(カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転)旧国名。今の群馬県。上州。
※3−2:下野(しもつけ)は、(シモツケノ(下毛野)の略シモツケの転)旧国名。今の栃木県。野州(やしゅう)。
※3−3:両毛(りょうもう)とは、上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)の2国の併称。後の上野と下野。
補足すると、JR両毛線は群馬県の高崎と栃木県の小山(おやま)を結び旧国名の両毛地方を走り、途中に桐生や伊勢崎や前橋を通ります。
※4:坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、平安初期の武人(758〜811)。797年(桓武天皇の時)に征夷大将軍と成り、蝦夷征討で阿弖流為(あてるい)を降伏させ −阿弖流為は京都に送られ後に河内国で斬首− 、胆沢城を築くなど、大功が有った。正三位大納言に昇る。薬子の変の鎮圧にも功が有った。京都の清水寺建立にも関わった。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4−1:阿弖流為/アテルイ(あてるい)は、奈良後期〜平安初期の蝦夷の首長(?〜802)。789年、胆沢に侵攻した朝廷軍を破ったが、802年遂に坂上田村麻呂に降伏し、京都に送られた。田村麻呂は朝廷に阿弖流為らの助命を嘆願したが聞き入れられず、河内国杜山で斬首された。1994(平成6)年に平安遷都1200年を期して、坂上田村麻呂所縁の京都清水寺に阿弖流為と副将母礼(もれ)を称える石碑が建てられた。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※5:東人(あずまびと/とうじん)は、(東は古くは「あづま」)東国の人。音便化して、あずまうど/あずまど。源氏物語宿木「―(あずまびと)どもにも食はせ」。古本説話集上「―(あずまうど)の歌いみじう好みよみけるが」。万葉集2「―(あずまど)の荷前(のさき)の箱の荷の緒にも」。
※6:酉の市(とりのいち、rooster bazaar)は、11月の酉の日に関東の大鷲神社/鷲神社/大鳥神社(何れも読みは「おおとりじんじゃ」、関東には多い)で行われる祭。初酉の日を一の酉と言い、順次に二の酉・三の酉と呼ぶ。特に東京下谷(今の台東区千束)の鷲神社の祭は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺迄賑わう。三の酉迄有る年は火災が多いという俗信も有る。お酉様。酉のまち。季語は冬。
※7:簸川(ひのかわ)は、日本神話に出る出雲の川の名。川上で素戔嗚命が八岐大蛇を退治したと言う。島根県の東部を流れる斐伊川(ひいかわ)をそれに擬する。
※7−1:斐伊川(ひいかわ)は、鳥取・島根県境の船通山(標高1142m)中に発源し、宍道湖西端に注ぐ川。下流部は天井川。八岐大蛇伝説で知られる。長さ75km。簸川(ひのかわ)。
※8:品部(ともべ/しなべ)とは、(「品々の部」の意。多くの種類が在るから言う)
[1].世襲的な職業を通じて大和朝廷に隷属した私有民(=部民)の組織。平生は一般の農民・漁民として生活し、朝廷に対しては、毎年一定額の特産物を貢納する者、交代で勤務して労働奉仕する者、などの別が有る。管理者は連(むらじ)・造(みやつこ)・首(おびと)などの姓(かばね)を持つ豪族。
[2].[1]の内、大化改新後も解放されずに諸官司に配属された特殊技術者の集団。図書寮の紙戸、雅楽寮の楽戸の類。奈良中期から次第に廃止。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。
●関連リンク
@補完ページ(Complementary):「関東の土師氏」という仮説を唱える▼
2003年・「忍の浮城」−武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)
@補完ページ(Complementary):「さきたま古墳群」の稲荷山古墳訪問記▼
前玉神社と「さきたま古墳群」(Sakitama shrine and tumuli, Saitama)
@補完ページ(Complementary):獲加多支鹵大王(=雄略天皇)を
手掛かりに当時の外交と蝦夷計略を考察▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
@補完ページ(Complementary):「関東の土師氏」の回答▼
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)
当サイトで最初の埼玉埋没論▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)
温故知新の心▼
温故知新について(Discover something new in the past)
岩槻市の人形や久伊豆神社について▼
2003年・人形の町−岩槻市(Town of dolls, Iwatsuki, Saitama, 2003)
土師氏と古墳について▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
土師氏と大鳥神社について▼
阪堺電車沿線の風景−浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)
浅草と土師氏の関係について▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
下半身過敏症や脳天ショックについて▼
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)
”押し広げ”の用法のルーツ▼
性本位制エーロ導入案(ERO monetary system with the 'Sex Standard')
「エルニーニョ的転回」について▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)
当サイトは@想像力のワンダーランド@▼
ようこそ【エルニーニョの世界】へ(Welcome to ElNino's world)
私が主宰する【ブラボー、クラシック音楽!】▼
ブラボー、クラシック音楽!(Bravo, CLASSIC MUSIC !)