2003年・人形の町−岩槻市
埼玉を”押し広げ”る旅#2:人形今昔
(Town of dolls, Iwatsuki, Saitama, 2003)

−− 2003.12.23 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.27 改訂

 ■はじめに − 偶然知った「人形の町」

 2003年12月9日(火)の夕方に私は初めて埼玉県岩槻市の土を踏みました。それは久伊豆神社(→後出)を訪ねる為で東武野田線の岩槻駅に降り、直ぐタクシーで神社に向かいました。そしたら駅前に人形屋が立ち並んで居るので運転手に尋ねると、ここは「人形の町」だ、という答えでした。見ると町中を離れた住宅街の中に人形工房の家への案内板が道路の所々に掛けられて居ます。久伊豆神社からの帰りは元荒川の流れを見る為にタクシーで東岩槻駅に行きました。
 という訳で9日は時間が無かった(←冬は日が短い)ので「人形の町」の様子を撮影出来ませんでしたが、私が住んで居る所がやはり「人形の町」の大阪松屋町に極近いので、これも何かの縁と思い翌10日の夕方にもう一度岩槻に立ち寄り人形関連の写真を撮影しました。

 ■岩槻の人形今昔

 (1)岩槻の人形の今

写真i2:東武鉄道岩槻駅前の仕掛け人形。 岩槻市は人口約10万の「人形の町」です。我が大阪松屋町が人形の問屋街なのに対し、こちらは雛人形・五月人形・御所人形や羽子板飾りなどを生産し全国に出荷してる「人形作りの町」です。私は今迄全く知りませんでしたが、屹度松屋町の問屋は岩槻の人形工房(後出)からも仕入れて居ると思います。
写真i1:東武鉄道岩槻駅前の風景。
 先ず右の拡大写真をご覧下さい。これは毎時の時報を告げる駅前ロータリーの仕掛け人形です。時報を告げる時刻に成ると駅前に琴の音が響き、その音楽に合わせ下方の3人の女性の人形が琴を弾き、時計の上の男性の人形が太鼓を叩き、真ん中に立って居る女性の人形が踊り出します。
 右の写真の時計を見て下さい。丁度午後3時の時報に合わせ上記の「仕掛け」が行われたのですが、これは全くの偶然だったのです。私の様な旅の者が偶然「仕掛け」を見たからこそ当ページに書こうと思ったのです。

 左上の写真の背後のビルが岩槻人形を代表する「東玉(とうぎょく)」本館ビル(埼玉県岩槻市本町3−2)で、宣伝の垂れ幕が下がって居ます。このビルには東玉人形の博物館(△1のp176〜178)が在り、人形の歴史や文化、江戸時代からの伝統を受け継ぐ人形から現代の名匠の作品、海外のアンティークドールなどを季節毎にテーマを設定して展示して居ます。又、人形作り体験や人形工房の見学も出来るそうです。

 下の3枚の写真は駅前の人形屋さんで、大阪の松屋町でも見掛ける名前が見えます。
写真i3:岩槻駅前の人形店。写真i4:岩槻駅前の人形店。写真i5:岩槻駅前の人形店。
写真i6:雛人形と羽子板飾り。


 右がお店のショーウィンドーの中の3段の雛人形と羽子板飾りです。雛壇は他に5段、7段などが在り、一番上に乗って居るのが内裏雛です。

 (2)岩槻の人形の昔

 岩槻は室町時代に江戸城を作った太田道灌(※1)が江戸の北の守りとして築いた岩槻城を中心とする我が国最初の城郭都市で、その後阿部氏12万石の城下町に成りました。地名は「岩を用いて築いた城」が語源で元は岩築(いわつき)で、その後「岩付」とも書かれ現在名に成って居ます。城跡は現在岩槻公園に成って居て、土塁や空堀が残り嘗ての城門・黒門も公園内に移築されて居ます。
 江戸時代に成ると日光御成道の宿場町(※2、※2−1)として栄え、岩槻の人形作りは元禄(1688〜1704年)の頃、京都の仏師・恵信が日光東照宮修理の帰途に岩槻で病に倒れ、医者の必死の治療で回復後、この地に留まり桐材から出る桐粉から人形の頭部を作る桐塑人形(とうそにんぎょう)の製法を編み出し伝えたことに始まったとされて居ます。元々この付近は昔から桐の産地で箪笥や下駄などの桐細工や木工技術が発達して居て、しかも桐塑作りに欠かせない胡粉に適した水も豊富な上に他にもこの地に留まった日光帰りの工匠たちが居たことや、大消費地の江戸に近かったことで人形作りが盛んに成りました。
 そしてもう一つ逸話が在ります。岩槻城主の藩医・戸塚隆軒が趣味が昂じて作った人形の一つを嘉永年間(1848〜1853年)に城主に献上したら城主が大変気に入り、東国に於ける人形作りの王という意味で「東王(とうおう)」の作号を賜りま した。しかし「王」は余りに畏れ多いとして「王」の字に点を入れて初代・東玉(とうぎょく)と名乗ったのです。これが東玉(現(株)東玉)の起こりで、今は6代目雛匠東玉に至って居ます。更に前述の恵信を治癒した医者こそ戸塚隆軒(=初代東玉)だと言うのです(△2)。
 成る程。岩槻では伝統的に桐塑の「頭」作りを得意とし、現在は東玉(とうぎょく)を筆頭に300軒余りの人形工房と100店の卸小売店舗が在り、日本一の人形生産地です。特に雛人形は全国生産の8割を占めて居ます。
 岩槻では他にのれん/ふろしき/晒木綿などに使用する岩槻木綿も有名です。

                (*_-)

 その後、当ページの制作に触発されて、同じく「人形の町」として関西で知られてる大阪松屋町を調べて大阪の「人形の町」のページを正月早々に掲載しました。大阪の松屋町は人形の問屋街です。岩槻で生産した人形も売ってると思います。▼下のリンク▼
  人形の町−大阪松屋町(Town of dolls, Matsuyamachi, Osaka)

からご覧下さい。{この記事は04年1月8日に追加}

 ■飾り人形の「温故知新」

 その地元の由緒を知る事こそ「温故知新」なのですが、雛人形の歴史は平安時代の「流し雛」(又は「雛流し」)(※3、※3−1)や貴族の間で流行った「雛遊び(ひいなあそび)」(※3−2)や「雛合わせ(ひいなあわせ)」(※3−3)に迄遡り、平安時代の代表的な文学である『源氏物語』や『枕草子』にも「雛遊び」のことが載って居ます。例えば『源氏物語』−「末摘花」の帖には

  例の、もろともに雛遊(ひいなあそ)し給ふ。繪など書きて、色どり給ふ。

と在り(△3のp253)、
 『枕草子』第30段には

  すぎにしかた戀しきもの 枯れたる葵。ひひなあそびの調度。

と在ります(△4のp52)。当時の貴族の子女や女房たちは雛を「ひいな」と発音しました。
 その後江戸時代初期に京都の御所で雛祭(=「桃の節句」)として催される様に成り、これが江戸城大奥などに伝わり、大名家や富裕な町人階級へと伝わり、一般化して行きました。又、中国伝来の思想から桃の木には「邪気を祓う」力が有ると信じられて居ます。「流し雛」の習俗が現在も残って居る地方は全国に在ります。
 「端午の節句」(※4)に飾る五月人形も奈良時代迄遡り、厄除けの菖蒲(しょうぶ)を飾り(よもぎ)などの薬草を皇族や臣下に配る宮中行事が、やはり江戸時代から武家に於いて甲冑・武者人形などを飾り庭前に幟旗や鯉幟を立てて男子の成長を祝う行事として一般化し、この武者人形が五月人形として定着したものです。5月5日にはやはり「邪気を祓う」意味から銭湯や家庭の風呂で菖蒲湯を焚いて入浴したりしました。
 御所人形(※5)もやはり江戸時代中期に京都で創製され、参勤交代に伴なって江戸の武家に、そして町人に広まって行ったものです。
 こうして見ると、どの飾り人形も世の中が安定し流通が盛んに成った江戸時代前期〜中期に武家や富裕な町人階級の間に急速に広まって行ったことが解ります、そしてそれが段々と庶民にも波及して行き江戸時代後半の飾り人形の最盛期を迎えます。
 人形の需要が多く成ると作り手の方も顔や頭を作る頭師(かしらし)と衣装や飾り物を作る着付師(きつけし)に分業して行きます。衣装を着せる人形の代表が雛人形ですが、凝った物に成ると精巧を極め巧(たくみ)の技の競い合いに成り、その技(わざ)は代々受け継がれて行き今日の工匠に至ります。一方、木目込人形(きめこみにんぎょう)又は加茂人形と言うのが在り、これは人形の胴体に衣装の端を接合し固定させる(=決め込む)製法で、江戸中期に京都加茂神社で考案されたそうです。
 現代人は雛人形に「願いを託す」ことや五月人形で「邪気を祓う」などという行為は迷信だと考えるでしょうが、そうでは無く、1年のサイクルの中に節目を設けて祝うことは、自分や家族が今在ることへの「感謝」の顕れであり、それが正に「節句の心」なのです。
    {この章は03年12月27日に追加}

 ■久伊豆神社 − 元荒川沿いに分布する土師氏の特異な神社

 冒頭に書いた通り岩槻市の久伊豆(ひさいず)神社を訪ねたのは12月9日(火)の夕方で、「人形の町」の写真を撮った10日の午後3時より早かった、ということをお断りして置きます。

 (1)久伊豆神社の特異な分布

 右下が久伊豆神社の由緒書(岩槻市観光協会)ですが、行き成り「欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。」と出て来て、当ページの隠れたテーマの「関東の土師氏」(※6)を表に出さなくては為らなく成りましたね(→それは後程)。

 欽明天皇の御代というと540年頃で、祭神は大己貴命(=大国主命)(※7)です(△1のp178)。その後、1457年太田道灌(前出)が築いた岩槻城址の一部で、その為当神社は岩槻市総鎮守と言われて居ます。明治8(1875)年に火災に遭い現社殿はその後の再建です。
 神社境内は可なり広く由緒書には「3町歩余」と書いてます。1町≒100アール、1アール=100uですから3町歩≒30000u=3ヘクタールです。
 江戸時代には江戸の鬼門除けとしても機能しました。
 「関東の土師氏」については、取り敢えず
  客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)

をお読み下さい。より詳しい議論は「結び」の章(→後出)で紹介して居ます。

 左下が拝殿を遠くに望む久伊豆神社の鳥居です。久伊豆神社は今の埼玉県の元荒川沿いに分布している特異な神社[群](←全部で30社位在ります)で、これは土師氏が元荒川に沿って武蔵国を北上して行った事を意味します。

 元荒川(=古荒川)は利根川水系の川で、上流から今の熊谷市/行田市/久喜市/蓮田市/岩槻市と東南方向に流れ、越谷市で中川に合流する約45kmの川です。その元荒川の少し北側に土師氏の拠点として非常に重要な「さきたま古墳群」(埼玉県行田市)や羽生(=埴生)市鷲宮神社(埼玉県北葛飾郡鷲宮町)が在るのです。
 元荒川や土師氏の拠点は後で略図で表示します。
 久伊豆神社からの帰りは東武野田線の東岩槻駅迄歩きましたが途中で元荒川を渡りました(△1のp177)。又、越谷の久伊豆神社(△1のp130)も中々立派な造りです。



 (左)と孔雀(右)です。久伊豆神社で孔雀を飼っているのは、昭和13(1938)年朝香宮鳩彦王殿下が岩槻に来られた時に3羽賜ったものが現在では10数羽に成って居るそうです。
 尚、久伊豆神社では「酉の市」は行いません。
 左が境内末社の猿田彦神社(祭神:猿田彦大神)、右が榛名神社(祭神:火産霊(ほむすび)神、埴山(はにやす)比売神)です。
 猿田彦神社は三重県伊勢市に本宮が在ります。榛名神社は榛名山を神格化したもの −祭神は火の神と土の神で火山を象徴して居ます− で群馬県高崎市に本社が在ります。

 久伊豆神社は今では久伊豆(クイズ)と読める所からクイズ(quiz)の神様として脚光を浴びて居ます。
    {ここ迄は03年12月27日に追加}

 (2)土師氏と元荒川に分布する久伊豆神社

    ◆土師氏について

 さて以上の様な訳で、ここで土師氏(※6)について少し述べなくては為らないでしょう。何故「関東の土師氏」が隠れたテーマか、と言うと「久伊豆神社の由緒書」を読む前はこの神社が土師氏に関係深いことなど全く知らなかったのです。即ち[埼玉を”押し広げ”る旅#2]の岩槻市については何とか土師氏と関係無く過ごせそうだと思って居たのですが...。「久伊豆神社の由緒書」に土師連の話が出ている以上、土師氏について書かない訳には行きません。それで書きますが、土師氏については「2005年・空から大阪の古墳巡り」の「考察」の中の「2.その後の土師氏について」に於いて詳しく書いて居ますので要約をコピーします。詳論を読みたい方は▼下のリンク▼をクリックしてお読み下さい。
  2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)

−−−−▼(要約をコピー)
 土師氏は古墳時代前期頃に出雲から中央に出て古墳の造成・埋葬儀礼と埴輪製作を専門的に世襲する部民(※6−1)の一つの品部(※6−2)です。一般に土師氏の様な部民は家職として「巧の技」を世襲的に代々受け継ぐので一族は集団で住み、従って先祖崇拝と同族意識が強く氏神や氏寺を尊びます。出雲族の土師氏は当時”辺境”であった北関東で「さきたま古墳群」造成に従事した土師氏に於いて一層顕著です。尚、殉死に代わり埴輪を埋葬する事を垂仁天皇に進言したのが伝説的な野見宿禰(※6、※6−3)で、彼が土師姓を賜ったとされて居ます。
 そういう職業柄の故に家風は保守的で推古朝頃から権力を持った蘇我宗家に追従した為、645年の大化改新で中央から一旦追放されましたが、672年の壬申の乱で土師馬手が大海皇子(後の天武天皇)側の武将として功を上げて中央に復し、天武が即位後の天武13(684)年の「八色姓」の制では連(むらじ)から宿禰(すくね)に昇格、天武の孫の文武天皇の大宝律令の制定(701年)にも参画して居ます。
 8世紀初め頃から一族の族長は諸陵頭(みささぎのかみ)を歴任しますが、7世紀半ばの大化改新の「薄葬令」(646年)で古墳造成は急速に縮小され、8世紀初頭で古墳時代は終焉を迎えます。多分既存の古墳のメンテナンスや葬礼儀式を暫くは続けたと考えられますが、古墳に埋葬する埴輪職人としての土師氏の役割も終わり、多くは生活用具としての土師器製作に転じ、一部は新設の「姓」に改姓し歌人や学者に転じました。
土師姓から菅原姓に転籍した菅原道真はその典型です。薄葬令は要するに、古代的な祭政一致から合理的な祭政分離への当然の流れだったのです。
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 お解りですか。ここで大事な事は土師氏は朝廷に隷属する品部(※6−2)だという事です。土師氏は埴土(※6−4)で埴輪を作り、それを古墳に埋葬することを天職として朝廷に土師という姓を賜っているのです。これ以外の事に埴輪を利用出来ないのです。先程土師氏が元荒川に沿って武蔵国を北上して行った」と書きましたが、これは土師氏が自分たちの勢力拡大の為では無く古墳造成という仕事(天職)が在ったからなのです。
 逆に言うと、土師氏は仕事が無くても生活は保障されるのです。これが「朝廷に隷属する」の意味なのです。事実、「薄葬令」が出た後は段々古墳造成の機会が減り埴輪も生産量がガタ落ちしましたが、それでも土師姓を名乗る以上どうしょうも無い(=朝廷に隷属)のです。そこで道真の3、4代前の人が朝廷に申し出て、菅原姓に改姓して初めて文章道の家と成ったのです。同様に秋篠氏大枝氏(後に大江氏)や物集女(もずめ)氏が元土師氏から改姓しました。
    {この節は05年5月19日に追加}

    ◆加須市の玉敷神社 − 久伊豆大明神

 加須市騎西に玉敷神社が在りますが、実はこの江戸期には久伊豆大明神と呼ばれて居ました。祭神は久伊豆神社と同じく大己貴命(=大国主命)です。その為に玉敷神社が久伊豆神社群の総本社と考えられて居ます。しかし詳細は詳らかでは無く、この神社もを秘めた神社です。
 社伝に拠れば、大宝3(703)年(=文武天皇の治世)に東山道鎮撫使の多治比真人三宅麻呂に依り創建された式内社とされて居ます。確かに『続日本紀』に大宝3年春正月に何人かに辞令が下り「従六位上多治比真人三宅麻呂于東山道。」と出て来ますが、当然の事乍ら神社創建については記述して無いです(△5のp17)。
 元は今より北の加須市正能村に在りましたが天正2(1574)年上杉謙信の軍が火災で消失(←この出火で由緒なども消失)、江戸期に加須市根古屋に再建、更に寛永4(1627)年に現在地に遷座しました。尚、神楽は重要無形民俗文化財(国指定)です。
    {この節は2014年9月27日に追加}

      ◆◆「久伊豆(ひさいず)」についての試論

 ところで「久伊豆(ひさいず)」ですが、私は「伊豆」は「伊豆毛=出雲」の事ではないか?、と密かに思って居るのですが...。古代に於いては万葉仮名が使われ「伊豆毛(いずも)」という神社が在ります。尚、古くは「いずも」は「いづも」と書きました。
 長野市上水内(かみみのち)郡豊野町豊野伊豆毛に伊豆毛神社が在ります、如何にも侘びた造りです。JR信越本線に豊野駅が在り、長野電鉄の小布施に近い所です。主祭神は素戔嗚尊(※7−1)と大己貴命(=大国主命) −何れも出雲の神− です。式内社で信濃国上水内郡と在ります。当初は上伊豆毛に鎮座して居ましたが、大永3(1523)年に現在地に遷座(遷座地を地元では下伊豆毛と呼ぶ)。天正8(1580)年上杉景勝出雲大明神を寄進、以後出雲大明神と呼ばれました。上伊豆毛の地は今では飛地境内と呼ばれ石に歌が刻まれ八雲台 −これも出雲を象徴する言葉です− と呼ばれて居ます。
 素戔嗚尊の「八雲立つ」の和歌は▼下▼をご覧下さい。
  2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)

 しかし驚きですね、信濃の奥まった所に出雲(伊豆毛)が顔を出すとは。まあ、伊豆毛神社は参考迄に載せました。
    {この節は05年5月19日に追加}

                (-_*)

    ◆久伊豆神社が分布する地域と土師氏の重要拠点の略図

 この章の最後に「久伊豆神社が分布する地域と土師氏の重要拠点の略図」を示しましょう。先程、出雲族の土師氏と言いましたが大己貴命(大国主命)も野見宿禰も天穂日命も素戔嗚尊も氷川神社(※8)の祭神も皆、出雲の神々です。この様に埼玉県には出雲族の土師氏の足跡が濃厚で、それは一重に埴輪を埋葬そる「さきたま古墳群」が在る為です。その中の稲荷山古墳(5世紀後半〜6世紀初頭:古墳最盛期)からは獲加多支鹵大王(=雄略天皇)と読める鉄剣の金錯銘を出土して居るのです。そして埴輪を造る埴土(※6−4)を産み出す所、それが埴生=羽生(はにゅう)です。▼下の概略地図▼を見ると「さきたま古墳群」を取り囲み内に守って居るのが良く判ります。古墳と埴輪と土師氏の関係は「古墳在る所に埴輪在り、埴輪在る所に土師氏在り」なのです。


              北葛飾郡鷲宮町/鷲宮神社(土師一流催馬楽神楽)
                  (嘗ては土師の宮
         羽生  加須/玉敷神社
       (=埴生)  (久伊豆大明神)

  ▲熊谷
    \_▲行田/さきたま古墳群
        \_
         ↑\_▲久喜
         │     \__▲蓮田
        元荒川        \__▲岩槻/久伊豆神社
                        
                         _▲越谷

                   さいたま市

              大宮区/氷川神社

  色:元荒川
  ▲ :久伊豆神社が分布する地域
  色:神社
  色:土師氏の重要拠点

 「土師氏について」という節の初めにも記した通り、私は久伊豆神社について全く知らなかったのです。だから神社の写真を載せ”御座なり”な記事を書けば直ぐ終わると思って居たのです。ところが「久伊豆神社の由緒書」を読んで全く私の考えが変わりました。「関東の土師氏」という私が密かに抱いていたテーマに関わって居るからです。
 そして玉敷神社に至った時は約10年以上が経過して居ました。この略図は「関東の土師氏」を解く重要な図だと私は思って居ます。
    {この節は05年5月19日に追加、2014年9月27日に最終更新}

                (@_@)

 ■埼玉に未来は有るか?!

 今回私は埼玉県を中心に3日間あちこち行きましたが、正直言って埼玉県は観光の”穴”です...”穴場”では無くブラックホールの様な”穴”そのものなのです。何故なら関東地域の旅行案内書の出版状況を見ると、東京については腐る程在りますが、北関東だけは何故かスコンと抜けて日光迄飛んで仕舞います(東の”チバラギ地方”(※9)は少し在りますが)。その無視されて居る”穴”が埼玉県なのです。
 埼玉県は東武鉄道を利用するのが便利で、羽生(はにゅう)駅で時間待ちして居る時、ふと売店を覗いて目にしたのが【参考文献】△1でした。中を見ると東武鉄道沿線の情報を網羅し(従って埼玉県だけでは無い)、しかも単なるお店情報では無く歴史や文化などが要領良く纏められて居るので早速買って読んだら(500円)、大変役に立ちました。この本は埼玉の”穴”を見事に埋めて居ます。
 ところで前述の様な由緒有る伝統を持ち乍ら、岩槻市は現在他市との合併 −合併は今の流行− を模索中の様です。確かに飾り人形は今苦しい時期を迎えて居ます。人形だけで無く日本の伝統産業、もっと言えば日本文化そのものの存在の危機と言っても過言では無く、この状況は大阪松屋町でも同じです。埼玉県は県庁所在地の浦和市に活気が無い為、03年に浦和市・大宮市・与野市の3市を合併させて逸早く「さいたま市」を出現させましたが、そういう話題性や一過性の騒ぎは直ぐに過ぎ去って仕舞います。長期的な市政を実現するには、やはり埼玉の特徴或いは個性を地道に出して行く必要が有ります。そうしないと特徴の無い単なる東京の”ベッドタウン”(=寝に帰る街(※10)に成って仕舞います、合併はそういう危険性も孕んで居るのです。
 そういう意味で、まあ、私も埼玉県の悪口は相当書いて来ましたが(御免為さい)、埼玉は「彩の国(さいのくに)」などという変なコジツケ −埼玉は元々は「前玉(さきたま)」という由緒有る名でしたゾ!− は止め、岩槻の様な町をもう一度見直して欲しいですね。その為には埼玉は新興の横浜などより余程歴史の厚みが有る所なのだ、ということを地元の人が改めて再認識する必要が有ります。既に埼玉は”穴”そのものと言いましたが、一旦”ベッドタウン”に成ったら最後、埼玉の人は”自分の街に誇りが持てず東京に憧れるだけの田舎っぺ”に堕落するしかありません、それは更に深く希望の無い”穴”に落ち込むことなのです。既に横浜も東京のベドタウンとして可なり”埋没”して居ますが、地元の由緒を知らないのがベッドタウンの特徴ではあります。

 ■結び − 「思わぬ発見」こそ旅の真髄

    ◆03年12月の浅草/埼玉/栃木の旅の覚書

 03年12月8日(月)〜11日(木)の旅は色々な思いを込めた旅でした。先ず8日は都内の荏原神社(品川区北品川2)を訪ね、次に天妙国寺(品川区南品川2)の音丸の名で知られた永井松子の墓を訪ねました。音丸が唄ってヒットした「船頭可愛や」は古関裕而の作曲(作詞は高橋掬太郎)なのです。これは▼下▼のテーマ
  古関裕而音楽の幅広さ(The variety of composition by Yuji Koseki)

との関連です。それから吉原(台東区千束3、4丁目)や吉原の鷲(おおとり)神社を訪ね、夜の浅草を楽しみました。これは▼以下▼に
  浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)

結実しました。
 9日先ず埼玉県鷲宮町の鷲宮(わしみや)神社を訪ねました。この神社は「土師一流催馬楽神楽」が伝わり、「鷲の宮」は元々「土師の宮(はじのみや)」と呼ばれて居て、私が「関東の土師氏」という仮説を立てる基に成った神社です。「関東の土師氏」というテーマは非常に難しかったですが、漸く▼以下▼にやっと纏める事が出来ました。
  「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)

 「関東の土師氏」は2003年12月31日の大晦日[埼玉を”押し広げ”る旅#1]の武蔵忍城の中で「疑問」として提示し、続いて掲示板の議論に発表しました。しかし、それから10年以上が経過した2014年9月27日にやっと「関東の土師氏」が出来上がりました。
 孝謙天皇(女帝)と僧・弓削道鏡の話は皆さんも知ってる人が多いと思いますが、その後で道鏡が島流しされた栃木県南河内町の下野薬師寺安国寺を訪ね、更に下野国分寺跡を訪ねました(関連地図を参照)。これらは取り敢えず
  [孝謙女帝伝説#2]栃木県石橋([The Empress Koken 2] Ishibashi, Tochigi)

に纏めました。再び埼玉県に戻り岩槻市の久伊豆神社を訪ね当ページに纏めました。この神社も土師氏に所縁が在ります。
 10日は埼玉県行田市の前玉神社「さきたま古墳群」を訪ね、[埼玉を”押し広げ”る旅#4]の「前玉神社と「さきたま古墳群」」を纏めました。更にちょっとだけ羽生市 −駅前ロータリーの撮影のみ− を訪ねました。これは04年7月17、18日に羽生市を本格的に訪ねる言わば下見です。そして羽生市訪問は田山花袋の『田舎教師』について、▼下▼に
  「田舎教師」−羽生('Country teacher', Hanyu, Saitama)

結実して居ます。その後で岩槻市を再び訪ねましたが、実は当ページは9日、10日岩槻市訪問の成果なのです。
 10日は更に夕方に埼玉県大宮市の武蔵国一の宮・氷川神社(祭神:素戔嗚命・大己貴命・奇稲田姫命)(△6のp66〜67)に行きました。広大な敷地を有し一の鳥居〜三の鳥居迄2kmも在ります。そしたら偶然にも何かの御祭で、直径1m以上の大きな熊手が在りましたが私は小さい熊手を記念に買いました。後で調べたら大湯祭という大祭です。氷川(ひかわ)は出雲神話に出て来る簸川(ひのかわ)である、と伝える古代出雲族の鎮守で氷川神社(←200社以上在る)は埼玉県に偏在して居ます。
 11日[埼玉を”押し広げ”る旅#5]の東京駅を撮り、そして足立区島根の鷲(わし)神社に行き、午後は浅草で寛ぎました。こうしてこの旅は終わりました。宿泊は全て浅草です。

 今回の旅は目的(=テーマ)が幾つも重なり、それらをテーマ毎に纏めて居ます −ご覧の様にテーマ別のファイルが幾つも出来ました− ので、どこかでこうして纏めて置かないと自分でも忘れて仕舞うのです。又、特に埼玉県を東武鉄道で回る旅は初めてでした(←【参考文献】△1はとても役に立ちました)。私にとってのメモ書き(=備忘録)[埼玉を”押し広げ”る旅#2]の場を借りて書く事が出来ました。しかし、これだけ多くのテーマを抱えて、良くまぁ旅を熟しましたねえ、自分でも吃驚です!!
 それから岩槻市は「さいたま市岩槻区」に成った様ですが、当ページを最初に書いた03年頃の岩槻市で通しました、悪しからず。
 しかし土師氏に関して「久伊豆神社が分布する地域と土師氏の重要拠点の略図」は当ページの大きな成果、しかも「思わぬ発見」なのです。
    {この節は2014年9月27日に追加}

                (^o^)

 以前人形浄瑠璃についての論考を書きましたが、この記事を書く為にあれこれ調べて行く過程で飾り人形にも長い歴史、即ち長い人の営みの積み重ねが有るのだ、と改めて感じた次第です。
 誰でも自分が住んで居る町や村はそれなりにローカルですが、私はそんな「地方の町の温故知新」を求めて旅をするのが好きです。この記事は冒頭に述べた様に予定外の偶然から生まれた「思わぬ発見」 −「岩槻の人形の今」「土師氏について」の節− なのですが、これこそ旅の真髄、「日本再発見の旅」の醍醐味です!!
    {この章は03年12月27日に追加、2014年9月27日に最終更新}

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【脚注】
※1:太田道灌(おおたどうかん)は、室町中期の武将・歌人(1432〜1486)。扇谷(おうぎがやつ)家の当主の上杉定正の臣。名は資長。俗に持資(もちすけ)、入道して道灌。築城(江戸城、河越城、岩槻城)・兵馬の法に長じ、学問・文事を好んだ。定正に謀殺された。

※2:日光御成道(にっこうおなりみち)は、江戸時代の五街道の一つの日光街道(又は日光道中)のバイパスで、川口、岩槻を経由して幸手(さって)で日光街道に合流する。元和3(1617)年2代将軍・秀忠の日光参拝以後、将軍の日光詣での正式コースと成った。それは警護の固い岩槻城が将軍の宿泊先として選ばれた為で、宇都宮城でもう1泊して江戸〜日光東照宮間を往復した。
※2−1:御成道(おなりみち)とは、貴人の外出の時の通路。

※3:流し雛(ながしびな)は、3月3日の節句の夕方、川や海に流す雛人形。又、その行事(=雛流し)。雛は元は人形(ひとがた)として、神送りするものであった。
 補足すると、鳥取県用瀬(もちがせ)町の「流し雛」用の雛人形が有名。
※3−1:雛流し(ひなながし)は、3月3日の夕方、紙などで作った雛人形を川や海に流すこと。祓(はらえ)の形代(かたしろ)を流したことに由来する行事。季語は春。
 補足すると、特に和歌山市加太の淡島神社での3月3日の雛流し神事が有名。
※3−2:雛遊び(ひいなあそび/ひなあそび)は、雛人形に種々の調度などを供えて飾ること。平安時代から貴族 −貴族の間では雛(ひな)を「ひいな」と言った− の子女の遊び。季語は春。
※3−3:雛合わせ(ひいなあわせ/ひなあわせ)は、物合(ものあわせ)の一。雛人形を持ち寄って、その優劣を争う遊び。中務集「七夕の絵の中宮の―に」。

※4:端午の節句(たんごのせっく、Boys' Festival on the fifth of May)は、(「端」は初めの意。元は中国で月の初めの午の日、後に「午」は音通などに因り「五」に転訛)五節句の一つで5月5日の節句。古来、邪気を祓う菖蒲(しょうぶ)や(よもぎ)を軒に挿し、(ちまき)や柏餅を食べる。菖蒲尚武の音通も有って、近世以降は男子の節句とされ、甲冑・武者人形などを飾り、庭前に幟旗や鯉幟(こいのぼり)を立てて男子の成長を祝う。第二次大戦後は「こどもの日」として国民の祝日の一。あやめの節句。重五(ちょうご)。端陽。
※4−1:五節句(ごせっく)とは、毎年5度の節句。正月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の総称。

※5:御所人形(ごしょにんぎょう)とは、(元、京都の公卿の間に行われたからとも、西国大名が参勤交代の途次御所に伺候しその返礼に拝領したからとも言う)頭の大きな、体の丸々とした幼児の裸人形享保(1716〜1736)の頃、京都で創製された。大内人形。拝領人形。御土産人形。

※6:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作葬儀にも従事。
 土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※6−1:部民(べのたみ/べみん/ぶみん)とは、大化改新前代に於ける私有民の総称。朝廷全体に隷属するものを品部(しなべ)、天皇が皇族の為に設定したものを子代(こしろ)・名代(なしろ)、諸豪族に隷属するものを部曲・民部(かきべ)と言う。大化改新で全て廃止される事に成ったが、品部の一部は律令制官庁に配属されて残り、部曲は律令貴族の給与の一部である封戸(ふこ)に変質した。
※6−2:品部(ともべ/しなべ)とは、(「品々の部」の意。多くの種類が在るから言う)
 [1].世襲的な職業を通じて大和朝廷に隷属した私有民(=部民)の組織。平生は一般の農民・漁民として生活し、朝廷に対しては、毎年一定額の特産物を貢納する者、交代で勤務して労働奉仕する者、などの別が有る。管理者は(むらじ)・(みやつこ)・(おびと)などの(かばね)を持つ豪族。
 [2].[1]の内、大化改新後も解放されずに諸官司に配属された特殊技術者の集団。図書寮の紙戸、雅楽寮の楽戸の類。奈良中期から次第に廃止。
※6−3:野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。
※6−4:埴土(はにつち)は、粘土。赤土。神代紀上「―を以て舟を作り」。

※7:大己貴神/大穴牟遅神/大汝神(おおなむちのかみ)とは、大国主命の別名。大名持神(おおなもちのかみ)とも。
※7−1:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※8:氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県大宮市高鼻町に在る元官幣大社。祭神は素戔嗚命大己貴命奇稲田姫命。孝昭天皇の代に出雲大社から勧請したと言う。武運の守護神で武家の尊崇が厚かった。例祭は8月1日。武蔵国一の宮。氷川大明神。関東に200社以上が在り、大多数は今の埼玉県に偏在する。
 補足すると、氷川(ひかわ)は出雲神話に出て来る簸川(ひのかわ、現在の斐伊川(ひいかわ))である、とされて居ます。

※9:「チバラギ」とは、千葉県と茨城県を一纏めに括った言葉です。

※10:ベッドタウン(bed town)とは、(昼は大都市へ出て働き、夜寝る為にだけ帰る町の意)大都市の機能の地域的拡大・分化から、その周辺に衛星的に生じた住宅だけで産業を持たない地区。住宅都市。衛星都市。
 補足すると、ベッドタウンとは文字通り”寝に帰る街”ですが、特に東京近郊の独自の文化を持たない田舎都市では東京へのアクセス・利便性のみに価値観を置いて居て、常に東京への劣等感を内包させて居るのが特徴です。

    (以上出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『東武本線ハイキング&ウォーキングガイド みちしるべ』(東武鉄道営業企画課編・発行)。埼玉・栃木・群馬方面の案内書としてお薦め

△2:「(株)東玉」公式サイト。

△3:『源氏物語(一)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。

△4:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。

△5:『新訂増補國史大系 続日本紀(前編)』(國史大系編修會編、吉川弘文館)。

△6:『神社参拝 ポケット図鑑』(岡田荘司監修、主婦の友社)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):ブラックホールについて▼
資料−天文用語集(Glossary of Astronomy)
参照ページ(Reference-Page):弓削道鏡配流先の地図▼
地図−日本・孝謙天皇の足跡
(Map of footprints of the Empress Koken, -Japan-)

補完ページ(Complementary):人形や鯉幟の問屋街
人形の町−大阪松屋町(Town of dolls, Matsuyamachi, Osaka)
補完ページ(Complementary):「桃の節句」や桃の邪気祓いについて▼
大阪城の桃の花(Peach blossoms of Osaka castle)
補完ページ(Complementary):土師氏について▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
補完ページ(Complementary):「思わぬ発見」は旅の醍醐味▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
「温故知新」について▼
温故知新について(Discover something new in the past)
「感謝の心」の大切さについて▼
2003年・年頭所感−感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

「関東の土師氏」を最初に発表した掲示板の議論▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)
万葉仮名について▼
「言葉遊び」と遊び心(The 'play of word' and playing mind)
「八雲立つ」の和歌▼
2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)
埋没する埼玉の扱き下ろしと再評価▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)
氷川神社や関東の土師氏▼
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)
日本文化の危機的状況について▼
冷泉家時雨亭文庫(Reizei Shigure-tei library)
音丸の「船頭可愛や」や菩提寺の天妙国寺▼
古関裕而音楽の幅広さ(The variety of composition by Yuji Koseki)
吉原や吉原の鷲(おおとり)神社について▼
浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)
弓削道鏡の配流先の栃木県南河内町
(道鏡にお宝伝説さえ在る)▼
[孝謙女帝伝説#2]栃木県石橋([The Empress Koken 2] Ishibashi, Tochigi)
羽生市訪問は田山花袋の『田舎教師』に結実▼
「田舎教師」−羽生('Country teacher', Hanyu, Saitama)
人形浄瑠璃について▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)


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