恥ずかしや深谷の”東京ステンショ”
埼玉を”押し広げ”る旅#5:ダサイタマの象徴
(Shameful Fukaya station, Fukaya, Saitama)

−− 2004.12.03 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.05.21 改訂

 ■はじめに − 埼玉に東京が在る!

 JR高崎線で熊谷から高崎に向かい2つ目の深谷駅(※1)に東京駅丸の内口の煉瓦造りの駅舎・東京ステーションを少し小さくした、しかし本家も顔負けの綺麗な駅舎が在ることを知ったのは、古本屋で何気無く本を見ていて、確か「埼玉に東京が在る!」という見出しを見付けた時です(この本買いませんでした、ゴメンナサイ!)。
 私は直観的にこれこそ埼玉人の東京コンプレックスの権化=ダサイタマ或いはダサイの象徴(※y)だ、と感じたのでこれを特集することにしました。そしてわざわざ大阪からの新幹線往復代と宿代をドブに捨てる覚悟で、2004年12月2日(木)に深谷駅舎の取材に行きました。”物好き”な私は埼玉の為にはお金と時間を惜しみません!
 このページでは、埼玉人と大正ロマン人に敬意を表して

  深谷駅の東京駅舎(コピー) = 東京ステンショ(※2)
  本家の駅舎(オリジナル)  = 東京ステーション

と呼ばせて戴きます。何故、大正ロマン人か?、それは本家の東京ステーション(→後出)は大正ロマンの時代に出現したからです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 明治・大正時代には駅は「停車場」(※2−1)と呼ばれました。しかし当時のモダン・ハイカラ(※3)な人々は、洋風建築の駅舎はステーションと呼ぶのを好み、これを訛って大衆は”ステンショ”と呼びました。”ステンショ”は広辞苑にも載って居ますよ!

 それでは”東京ステンショ”物語の開幕です。尚、引用文の漢数字はアラビア数字に変換しました。

 ■深谷駅の”東京ステンショ”

 何はともあれ先ずその”東京ステンショ”をご覧戴きましょう。下の2枚の写真は深谷駅のホームから撮ったものですが、先ず本家の東京ステーションは丸の内側に線路と並行して建てられて居ますが、深谷の”東京ステンショ”は線路を股いで建てられて居ます。これが平成8(1996)年に恥も外聞も無く堂々と出現したのです。

  ←北口                       南口→

 下が駅の昇降口から撮った写真で、手前の階段を登って駅の改札に入れますが、同時に南北口を繋ぐ通路をも兼用して居ます。

  ←南口                       北口→

 どうでしょうか、これを見て皆さんはどう感じるでしょうか?、「中々カッコええやんけ!」と思う方も居られると思いますが、さて地元の人はどう感じてるんでしょうか?
 駅に居た女子高生に訊いたら「今は慣れたけど最初は恥ずかしかった。」というご返事。タクシーの運転手に訊いたら「何と言うか、駅舎の中に喫茶店とか人の集まるテナントが何も無いもんで、結局人が素通りして行くだけ。出来た当初は視察に来る団体も有ったけど建物だけで何も無いから結局写真撮って帰って仕舞ったねえ。」というご返事です。今は訪れる団体も無く、ご覧の様に人通りは疎らです。夜は御多分に洩れずライトアップするそうですが、空しい感じは拭えません。

 私は何か気恥ずかしいですね、もし大阪にこんなモン出来たら恥ずかしくて逃げ出しまっせ。しかし考えてみると、千葉県浦安には東京ディズニーランドが在るし、自由の女神像は街中やラブホテルで良く見掛けるし、都庁のビルもノートルダム寺院の変形だし、と最早日本はハードからソフトの全てに亘って外来のコピー文化全盛です。日本人は今でも欧米にハイカラ(※3)と或る種のコンプレックスを感じているのでしょうか。そう考えると、埼玉が東京をコピーしても可笑しく無い訳で、埼玉人こそ日本人の縮図と言えるでしょう。だから最初に直観した通りこの”東京ステンショ”こそダサイタマの象徴なのです。私はこのサイトで何回も埼玉人の東京コンプレックスを揶揄して来ましたが、これ程東京コンプレックスを堂々と表に出し、恥も外聞も無く開き直って居る姿は、もう御リッパ!!、です!

                (-w-)

  ■■参考 − 本家本元の東京ステーション

 そこで参考の為に2003年現在の東京駅丸の内口に在る本家の東京ステーションの写真を載せて置きましょう、下がそれです。これは2003年12月11日に撮ったもので、丁度深谷の写真の1年前です。
 東京ステーション −当時の呼び方は中央停車場− は辰野金吾(※4)の代表作で大正ロマンの真っ只中の大正3(1914)年の竣工ですが、オランダのアムステルダム中央駅などを参考に設計されたもので、明治・大正の様式と赤レンガに白いストライプが入る如何にも辰野金吾風な意匠が見事にマッチして居ます。東京ステーションは南北に向いており、辰野金吾の駅舎は丸の内側 −反対側は八重洲側− に在ります。

    ◆東京ステーションホテル − プロコフィエフも泊まった!

 下の写真には「丸の内中央口」と「丸の内北口」が写って居ます。略左右対称で「丸の内南口」が中央口の右に在りますが、写真から食み出て居ます。この駅舎にはホテルが併設されて居て名前を東京ステーションホテルと言いますが、ホテルは中央口と南口の間の2、3階部分に在るので、この写真の構図から外れた側に在るのです。まさかこういう使い方をするとは、この写真を撮る段階では考えて無かったのです、アチャー!

    丸の内北口                  丸の内中央口
      ↓                      ↓
 


 右が「丸の内北口」の金色のドーム内部を下から写したものです。
 

 ところで、このホテルが”東京ステンショホテル”と呼ばれることは有りませんでした。その理由は赤城毅の『紳士遊戯』

 「改札に切符を渡し、ゆうゆうとした足取りで、停車場の二階に向かう。先ほど、目についた建物──東京駅舎南部分の二階と三階を占めている東京ステーションホテルに投宿するつもりらしい。
 なるほど、この選択は、青年の贅沢な身なりにふさわしかった。
 東京ステーションホテルといえば、大正四(=1915)年に開業して以来、多くの名士に愛され、帝国ホテルと帝都一の座を争ってきたほどの高級ホテルだ。」


(△1のp8〜9)と書かれている様に、このホテルはステーションを”ステンショ”と訛る様な低クラスとは無縁だったのです。

 ノーベル賞作家の川端康成は新聞連載小説『女であること』

 「村松は東京の来ると、いつもステエション・ホテルに泊る。...(中略)...
 「灯がだいぶ消えましたのね。」と、市子は言った。
 丸ビルと新丸ビルの窓明りのことだった。
 さっき、村松を誘いに寄った時は、この二階の部屋に、まだ夕日の残りが、薄くさしこんでいたが、向いの丸ビルと新丸ビルの窓は、みな明りがついて、その上の空は、夕雲と夕もやのさかいがないような、やわらかい桃色だった。二つのビルのあいだに、皇居の森が黒く沈んでいた。」


と、このホテルの部屋からの風景描写が出て来ます(△2のp50〜52)。『女であること』は「昭和31(=1956)年3月から250回にわたり、朝日新聞に連載された。」と解説に在ります(△2のp514)。

 又、このホテルは小説家に良く利用されて居ました。例えば松本清張の『点と線』(※x)では場面描写は出て来ませんが、東京駅のホームを見通してトリックに使います(△3のp13〜14、93〜94)が、あれは清張がこのホテルから見ていたのです。偶然私は本の間に挟まれていたパンフレットに「東京駅の『点と線』」という記事が在るのを見付けました。それに拠ると、清張が使った部屋は東京ステーションホテル209号室(=2階の部屋)で窓を開けると電車の高さと同じ高さに在り「1番線がすぐそこに見える」のです(△3−1のp13)。そのトリックとは「13番線の1703電車が、17時57分に発車して、つぎの1801電車が18時1分に到着する間隙の4分間だけが、なんら、間に邪魔者がなく、《あさかぜ》が見通しできるのである。」(△3のp94)というもので、「あさかぜ」は当時の博多行きの特急で15番線に停車します。つまり上記の4分間のみが13番線〜15番線が見通せるのです。清張はこのトリックのアイデアが固まる迄ずっと209号室から電車が行き交うのを眺めて居たそうです。『点と線』は解説に在る様に「昭和32(=1957)年2月から昭和33年1月まで雑誌『旅』に連載された」ものです(△3のp228)。時刻表は毎年改定されるので、このトリックはその当時しか成り立ちません。

 ところで、2011年に本屋で何気無く『プロコフィエフ短編集』(△4) −プロコフィエフ(※5)とは20世紀ロシア(←当時はソヴィエト社会主義共和国連邦と言った)の偉大な作曲家です− という本を手に取り、プロコフィエフが短編小説を書いて居たなど知らなかったので、そして本の扉に「エッフェル塔が突然歩き始め」と書いて在ったので思わずこの本を買って仕舞いました。ここでは短編小説についての感想は省略します。興味有る方は是非読んでみて下さい。但し発行部数が少ない所為か本の値段は高いですが、目から鱗です!!
 ここに関係有るのは「プロコフィエフ 日本滞在日記」(△4の165〜209)で彼は日記も付けて居た −これも知らなかった!− のです。そして1918(大正7)年6月1日の日記「朝5時、東京着。ステーションホテルに部屋をとる。駅の真上にある。とてもいい洒落たホテルだ。」(△4のp175)と東京ステーションホテルが出て来るのです(←彼は3年前に建ったばかりのステーションホテルに泊まります)。6月29日の日記にも東京ステーションホテルの同じ部屋に泊まった。」(△4のp193)と在ります。又、東京大森の望翠楼ホテルで地震にも遭ってます。8月2日の日記「明け方4時、弱い地震があった。さほど恐ろしいものではなく、キスロヴォーツクの地震に比べたら優雅といってもいいくらいだ。」(△4のp208)と書いて居ます。私の経験から言っても、東京では夜中に起こされる地震が月に1度は有りました。
 さて、ちょっとだけ日本に来た経緯を述べると、彼の故国は1917年にロシア革命(※5−1)が起こったのです。”善い衆(ええし)のぼんぼん”のプロコフィエフは革命を逃れる為に翌1918年5月2日にペトログラード(現サンクトペテルブルグ)を発ちシベリア鉄道を乗り継いでウラジオストックから船で5月31日敦賀港に着いたのです。日本に”寄り道”する予定は無かったのですが、先程引用した6月1日の日記の直ぐ後で南米行きの船が「船は3日前に出航し、次は2ヶ月後だというのだ!なんてこった!」(△4のp175)という状況で、約2ヶ月間不本意乍ら日本に滞在する事に成った訳です。それで滞在費を稼ぐ為に東京の帝国劇場で2回、横浜グランドホテルで1回のピアノ演奏会 −プロコフィエフはピアニストでもある− を開いたのです。そして8月2日横浜港からジャワ経由サンフランススコ行きの船に乗り込みアメリカに向かい最終的にニューヨークに行ったのです(△4のp211)。短編小説は日本滞在の前後に書かれました。
 この半亡命の旅は1932年迄続き、後半の1923年からはパリに住み(←途中1回だけ祖国に帰る)、その後はソ連に帰りました。それ故に私は”半亡命”と呼ぶ訳です。彼は革命前の1914年にロンドンでロシア・バレエ団(※5−2)のディアギレフストラヴィンスキー(←何れもロシア人)に大いに刺激を受け、半亡命後半のパリでは『バレエ「道化師」』(1921年作)、『バレエ「鋼鉄の歩み」』(27年作)、『バレエ「放蕩児」』(29年作)をロシア・バレエ団で上演して居ます。又、『交響曲第3番』(28年作)は『歌劇「炎の天使」』(27年作)と密接な関係に在り、パリ時代のプロコフィエフは原始主義や前衛的民族主義に深く傾斜したアヴァンギャルド(※6、※6−1)の一人です。因みに私は『交響曲第3番』や取り分け『歌劇「炎の天使」』が大好きです!
 しかし1929年ディアギレフの突然の死でロシア・バレエ団は解散、ストラヴィンスキーはアメリカに渡り亡命し、プロコフィエフは32年にソ連に帰国しました(=半亡命の終了)。その後のプロコフィエフは穏健な作風に転じ今では新古典主義を代表する作曲家と見做されて居て、後年は時代を反映し映画音楽も書き、子供向けの『交響的童話「ピーターと狼」』(36年作)は”解り易い” −当時の言葉で言えば社会主義リアリズムに則った− のでソ連当局からも歓迎されました。彼のアヴァンギャルド時代を知る者にとっては変節と映るかも知れませんが彼がソ連で生きて行く唯一の道でした。ところがプロコフィエフは独裁者スターリンと同日(=1953年3月5日)に死亡した為に衆人に知られず世を去ったのを御存じですか?、なんてこった!!

 尚、同ホテルは2006年に休業し改装工事が行われたそうですが、当ページでは写真も記事もそれ以前の事を扱って居ます。
    {このプロコフィエフの記事は2011年5月21日に追加}

 この様に国内外の一流名士が泊まる事に依って東京ステーションホテルのステータス(※9) −本家本元のステータス− は更に高まるのです。それに引き換え深谷駅の”東京ステンショ”は擬(まが)い物でしか有りません!!
 尚、辰野金吾は関西にも作品を残して居り、南海電鉄の浜寺公園駅を既に2003年に紹介して居ますので、是非そちらもご覧下さい。

                (*_@)

 ■深谷市とはどんな所? − 葱とチューリップと煉瓦の街

 そこで深谷市とは一体どんな所か、例の如く広辞苑を引くと【脚注】※1の通りです。もう少し詳しく述べると次の様に成ります。
 北の利根川と南の荒川に挟まれた扇状地は農業に適し古代から人が住み、弥生遺跡や古墳(13基)が在ります。平安末期〜鎌倉時代には坂東武者が名乗りを上げ、康正2(1456)年に上杉房憲が深谷城を築城して戦国の城下町が形成されます。その後北条氏に帰属するも江戸時代の寛永4(1627)年に廃城、幕府領と成り、中仙道の宿場町として栄えます。明治に成って生糸の集散地及び深谷葱(※1−1)の生産地 −生糸は戦後衰退、深谷葱は全国一の出荷地に発展− に成ります。
 明治20(1887)年に深谷出身の渋沢栄一(※10)が日本初の洋式煉瓦工場として設立したのが日本煉瓦製造(株)で、これが深谷の工業の足懸かりと成ります。

 尚、意外と知られて無いのがチューリップで、切り花は年間1万5千本で全国一の出荷量です。昭和37(1962)年には深谷工業団地が完成し、電機・機械・金属・化学などの工場を誘致し工業都市及び東京のベッドタウン(=寝に帰る街)に変貌しつつ在ります。
 左上が深谷駅北口に在る渋沢栄一の銅像です。

 ■”東京ステンショ”物語 − 深谷と煉瓦の因縁










日本煉瓦資料館

国指定重要文化財
明治21年建造。煉瓦製造技術者ナスチェンテス・チーゼ技術者が住居兼工場建設事務所として使用。現在、日本煉瓦製造(株)内に資料館と成っている。


ナスチェンテス・チーゼは、明治期のお雇外国人で、ドイツ人のレンガ製造技師。明治20年(1887年)に来日し、大寄村に日本煉瓦製造株式会社を建設、煉瓦の製造工程に至るまで指導した。明治22年に帰国。








 東京ステーションを設計した辰野金吾(※4)は佐賀県唐津の生まれで元々は深谷と縁も所縁も有りません。勿論、深谷と東京ステーションも元々は縁も所縁も有りません。唯一深谷と東京ステーションとを結び付けているのが煉瓦なのです。そして、それを突き詰めて行くと、明治21(1888)年 −渋沢が日本煉瓦製造(株)を設立した翌年− に辰野は渋沢栄一邸を作って居るのです。これで

    辰野金吾    深谷←→煉瓦    渋沢栄一(深谷出身)

という、繋がりの発端が浮かび上がります。
 そして辰野は日本煉瓦製造(株)の工場の設計にも関与して行きます。辰野は生真面目ですから、赤い煉瓦と白い大理石の、今日辰野式と呼ばれる組み合わせを案出します。東京ステーションの設計が辰野に決まった時は「中央停車場が取れた」と言って万歳をしたそうで、満を持して仕事の取り掛かりました。
 それは日本銀行本店(1896年)の様な明治時代の重厚さから、大正という些か軽っぽいモダンでハイカラな東京ステーションの新時代の幕開けでした。そして日本煉瓦製造(株)の工場で製造された煉瓦が東京ステーションの煉瓦として使われたのです。
 その微かな縁を手繰り寄せ、煉瓦造りの東京ステーションを深谷のシンボルにするべく縮小コピーして遂に平成8(1996)年に”東京ステンショ”をデッチ上げて仕舞ったという訳で、正に東京コンプレックスの権化です。
                (>_<)

 地元の人に聴いた話では”東京ステンショ”は市が35億、JRが1億を出資して作られたそうですが、人口10万人の小都市が35億円の税金を拠出した勘定に成り、これは赤ん坊も含めて1人当たり3万5千円拠出させられたことに成ります。それ程このコピー建築に価値が有るんでしょうか?!
 現在深谷市は「煉瓦の街」をアピールする為「深谷市レンガのまちづくり条例」なるものを制定し、街に煉瓦造りの建物を作ることを奨励中とかで、煉瓦造りの建物を新築すると補助金が交付されるそうです。フーム、ナルホド、”臭い”ですねえ、匂って来ましたねえ、まさか補助金欲しさに安直に煉瓦を使ったのでは無いでしょうな?!、どうも「御上」の遣る事は解りません、否否、見え見えに解り易くこれ以上の安直は有りません。
 ”臭い”と言えば深谷駅は過去にも”キナ臭い”話が在りましたね、確か荒船清十郎とか言う埼玉の秩父地方出身のセンセが運輸大臣の職権を利用して深谷駅を強引に急行停車駅にさせた事件です。センセはこの事件後に辞任しましたが、その御蔭かどうか深谷駅には今は一部の特急が停車します、ですから地元では荒船センセのことを悪く言う人は居ないとか、困ったもんです。もしかしたら深谷駅に”東京ステンショ”を出現させたのは荒船清十郎の怨霊かも知れませんゾ、ブワッハッハッハッハ!!
                (>o<)

 この様に深谷駅には色々な曰くが纏わり付いていて、調べてみたら煉瓦とは切っても切れない因縁が有ることが解りました。当初日本煉瓦製造(株)が焼いた煉瓦は利根川の船便で東京に運ばれて居たのですが、操業から5年も経つと大量の需要に輸送が間に合わなく成り、鉄道での陸運が計画され、明治28(1895)年に上敷免(じょうしきめん)の煉瓦工場から日本初の民間専用線を深谷駅迄敷設し(=上敷免鉄道)、深谷駅から国鉄(現JR)の貨物列車で上野駅に運びました。
 上敷免鉄道は昭和50(1975)年に廃線に成り、現在は「あかね通り」という遊歩道に成っていて、備前渠鉄橋(国の重要文化財)、福川鉄橋唐沢川鉄橋が保存されて居て往時を偲ぶことが出来ます。








 ■結び





 近くには左下の写真の様な「深谷葱」の畑も在りました。右下の写真の様に畑からは赤城連峰も見えます。赤城連峰からはこの地方の名物「赤城おろし」が吹き降ろして来ますが、これが葱の味を締めるのでしょうか?!





 このページは埼玉を見直す為の[埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズの1つです。このページを以て、このシリーズの完了とします。結果的に7部作と成りました。
 埼玉県の皆さん、ここ迄付き合って戴いた読者の皆さん、どうも有り難う御座いました!!
              m(_=_)m  (^o^)/~~~

 尚、[埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:深谷(ふかや)は、埼玉県北部の市で、利根川と荒川に挟まれる。元、中山道の宿駅・市場町で繭・生糸の集散地。深谷葱が特産。明治時代に製糸・絹織物業や、瓦・土管・煉瓦工業が栄え、近年は工業都市として発展。人口10万。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1−1:深谷葱(ふかやねぎ)は、明治初年に深谷市大塚の針谷某氏に依って始まり、明治年代に群馬県に、大正12(1923)年以降は東京にも出荷し主用作物に成る。深谷葱は品種名では無く銘柄名。品種は関東に多い千住赤柄系ネギに属する白葱


※y:ダサイ/ダサイタマとは、かっこ悪い/鈍い/野暮ったい/ドン臭い/トロい/芋っぽい/洗練されて無い、などの意を表す俗語。<出典:一部「最新日本語活用事典」より>
 1980年頃から使われだした言葉。「ダサイ」と埼玉の結合力は強力


※2:ステンショとは、ステーション(station)の訛。「―場」。
※2−1:停車場(ていしゃじょう/ていしゃば、station)は、列車などの発着、旅客の乗降、貨物の積み降ろしなどの為に設けた場所。駅・操車場・信号場などの総称。

※3:ハイカラ(high collar)は、(丈の高い襟の意)西洋風を気取ったり、流行を追ったりすること。又、その人。皮肉って「灰殻」を当てる。←→蛮カラ。




※4:辰野金吾(たつのきんご)は、建築家(1854〜1919)。佐賀県生れ。東大教授。日本銀行本店東京駅などを設計。


※x:松本清張(まつもとせいちょう)は、昭和の小説家(1909〜1992)。本名、清張(きよはる)。福岡県生れ。1952年「或る『小倉日記』伝」で芥川賞受賞。不遇な人間の怨念や過去を動機として、社会派推理小説の道を拓く。作「点と線」「ゼロの焦点」「黒い画集」「砂の器」など多数。他に歴史の裏面を暴いたもの「日本の黒い霧」「昭和史発掘」や、晩年は古代史に興味を持ち「古代史疑」「古代探求」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>




※5:プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev)は、ソ連の作曲家(1891.4.23〜1953.3.5)。現代ロシア音楽の代表者の一人。「古典交響曲」などの交響曲や協奏曲を始め、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」、歌劇「三つのオレンジへの恋」「炎の天使」、映画音楽「キージェ中尉」、交響的童話「ピーターと狼」など、広い分野で活躍。
 補足すると、プロコフィエフはスターリンと同一の日に亡くなりました。
※5−1:ロシア革命(―かくめい、Russkaia Revoliutsiia)は、1917年ロシアに起った革命。同年3月(ロシア暦2月)ロマノフ王朝の専制政治が倒壊し(←二月革命)、ソヴィエトの支持の下に臨時政府が成立、次いで11月(同10月)ボリシェヴィキに依りソヴィエト政権が樹立され、世界最初の社会主義革命が宣言された(←十月革命)。
※5−2:ロシア・バレエ団/バレエ・リュス(Ballets Russes[仏])とは、1909年にディアギレフがパリで創設・主宰したバレエ団。振付師フォーキン、舞踊家ニジンスキー/パヴロヴァ/カルサヴィナらロシア帝室バレエの精鋭を集めて組織。同年パリで初公演以来、「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」「ダフニスとクロエ」「三角帽子」など近代バレエの問題作を続々発表。1929年創設者の死で解散。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※6:アヴァンギャルド(avant-garde[仏])とは、前衛の意。
※6−1:前衛(ぜんえい、avant-garde[仏], vanguard[英])とは、芸術運動で最も先駆的なグループの称。20世紀初め以来ヨーロッパでの、既成の通念を否定し未知の表現領域を開拓しようとする芸術家や芸術運動(立体派・表現派・ダダイスム・抽象派・超現実派など)を指す。1970年代、大衆社会の爛熟の中で衰退。前衛派。アヴァンギャルド。「―芸術」。









※9:ステータス(status)は、身分。社会的な地位・階級。





※10:渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、実業家(1840〜1931)。青淵と号。武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業設立に関与、財界の大御所として活躍。引退後は社会事業・教育に尽力。


    (以上出典は主に広辞苑です)

【参考文献】


△1:『紳士遊戯』(赤城毅著、カッパ・ノベルス)。

△2:『女であること』(川端康成著、角川文庫)。

△3:『点と線』(松本清張著、新潮文庫)。
△3−1:パンフレット『文庫のぶんこ No.25』(光文社文庫編・発行)。

△4:『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ/豊田菜穂子訳、群像社ライブラリー)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):福井県敦賀市の地図▼
地図−日本・福井県(Map of Fukui prefecture, -Japan-)

「ダサイ」「ダサイタマ」の先駆け的論議▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)

明治・大正の頃は駅を「停車場」と呼んだ▼
「再び草の野に」−川俣('To the weed again', Kawamata, Saitama)

プロコフィエフはロシア・バレエ団のディアギレフや
ストラヴィンスキーの刺激を受ける▼
「モダニズムの音楽」概論(Introduction to the 'Modernism Music')

辰野金吾設計の浜寺公園駅(南海電鉄)▼
阪堺電車沿線の風景−浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)





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