前玉神社と「さきたま古墳群」
埼玉を”押し広げ”る旅#4:埼玉のルーツ
(Sakitama shrine and tumuli, Saitama)

-- 2004.06.12 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.27 改訂

 ■はじめに - 埼玉のルーツを知りアイデンティティーを取り戻そう

 当サイトで最初に埼玉埋没論を展開したのは03年4月5日、我が掲示板に於いてでした。その議論の顛末は
  東西三都物語(The 3-cities of east and west)

に定着して在りますので、暇の有る方はちょっと寄り道して覗いてみて下さい。
 2003年12月10日に私は埼玉県行田市を経巡りました。埼玉のルーツを学び、それを体現している前玉神社を訪れ、最後に埼玉を”押し広げ”る「さきたま古墳群」巡りです。「さきたま古墳群」の稲荷山古墳から出土した鉄剣から獲加多支鹵大王という人物が俄然クローズアップされましたが、それについては後程詳しく論じます
 埼玉のルーツを知る事は、埼玉人が己(おのれ)のアイデンティティー(※1)を取り戻すのに必要不可欠だと考えます。このページでは埼玉を”埋没感”から救う指針を最後に提示するでしょう。それでは埼玉人も、そうで無い方も、御緩りとお楽しみ下さい!
 尚、岩槻のページの結びに書いた「03年12月の浅草、埼玉、栃木の旅の覚書」も参照して下さい。03年12月の旅は色々な目的(=テーマ)を持った旅でしたが、それらは結局「さきたま古墳群」獲加多支鹵大王「関東の土師氏」に収斂して来るのです。{この段は2014年9月27日に追加}

 ■埼玉のルーツと成り立ち

 嘗ての藩制の頃、今の埼玉県、東京都、神奈川県の一部を合わせた地域を武蔵国(むさしのくに)と呼んで居ました。つまり嘗ての北武蔵地方が今の埼玉県に成った訳です。『江戸名所図会』(※2)は武蔵国について

 東海道に属す。「和名類聚抄」に曰く、牟佐之(むさし)の国府、多磨郡に在りと云々。(武蔵国、上古は東山道の内に入る。光仁天皇の宝亀二年辛亥冬十月己卯、太政官奏して東海道に属せしむるよし、「続日本紀」に見えたり。)久良(くらき)・都筑・多磨・橘樹(たちばな)・荏原・豊島・足立・新座(にいくら)・入間・高麗(こま)・比企(ひき)・横見・埼玉・大里・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はんざわ)・那珂(なか)・児玉・賀美(かみ)・秩父・葛飾等、以上二十二郡なり。(「拾芥抄」に、大県・東海・那珂等の三郡を加へ、葛飾を除きて廿四郡とすれども詳かならず。貞享三年丙寅三月、利根川の西を割りて、武蔵国に属せしむ。昔は本所葛西の辺、浅草の川を国界として、川より東の地は、一円に下総国なりしを、右に云ふ如く、今は葛飾郡の半を割りて、利根川の以西を武蔵国の葛飾郡とす。以東を下総国の葛飾郡とす。「和名抄」に、武蔵国管(かん)二十一とありて、葛飾郡なし。いまこれを加へて二十二郡とす。

と記して居ます(△1のp37)。宝亀二年辛亥とは771年です。
 ところで埼玉(さいたま)という地名は古くは前玉(さきたま)と呼ばれ、文献上で初めて出て来る『正倉院文書』神亀3(726)年の戸籍帳にも前玉郡(さきたまのこおり)と記されて居ます。この「前玉」の更に元を辿れば「人に幸福を与える神の霊魂」を表す言葉「幸魂・幸御魂(さきみたま)」に行き着き、幸は古代では「幸(さきは)ふ」などと訓じました。

 つまり埼玉のルーツは

  幸御魂(さきみたま) → 幸魂(さきたま) → 前玉(さきたま)
    → 埼玉(さきたま) → 埼玉(さいたま)

と変化して来た地名なのです。ですから「さきたま」の「さき」は先端とか前方を表し、「たま」は水辺とか湿地とか宝玉を表す語で、「さきたま」で水辺の前方とか多摩郡(現東京都)の前方の土地とも解釈され、更に幸御魂(さきみたま)に通じて居るのです。事実この土地からは勾玉(※3)が多く出土して居ます。という訳で「さいたま(埼玉)」の元は「さきたま(前玉)」なのです。

 昨年の暮れ、03年12月10日に私は埼玉県行田市を訪れました。既に[埼玉を”押し広げ”る旅#1]に記した通り、私が埼玉地方に興味を持ったのは古代の埴輪製作集団・土師氏(※4、※4-1)、特に「関東の土師氏」についてなのですが、ここ行田市は土師氏と切っても切れない所です。ここにはあの115文字の銘文入り鉄剣(国宝)を出土した稲荷山古墳を含む「さきたま古墳群」(→後出)が在るからです。『日本書紀』垂仁紀32年に拠れば、埴輪(※4-2)は古代の権力者埋葬時の殉死に替えて垂仁天皇の妃(=日葉酢媛命)を埋葬 -主軸全長206mの前方後円墳佐紀陵山古墳(奈良市山陵町)に在り、近くには孝謙天皇陵が在る- する際に考案されたと記されて居ます(△2のp44~46)。これを考案したのが土師氏の祖・野見宿禰(のみのすくね、※4-3)で、土師氏や野見宿禰については▼下▼をご覧下さい。
  2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)

 [ちょっと一言]方向指示(次) 大阪府には古市古墳群(中心墳墓は誉田御廟山古墳(応神天皇陵)日本で2番目)と百舌鳥古墳群(中心墳墓は百舌鳥耳原中陵(仁徳天皇陵)日本最大)という日本一の規模を誇る古墳群が在り、皆さんも学校の教科書などでその航空写真をご覧に為った事が有ると思いますが、私は遂に05年5月14日に両古墳群の上空をセスナで飛び上空から眺めました。その記事を05年5月19日にアップロードしました(▲上▲)。大阪には堺市に土師町という地名も在り、この両古墳群も土師氏と密接な関係に有ります。▲上のページ▲には土師氏に関する考察も在ります。
    {このリンクと記事は05年5月19日に追加}

 その土師氏、特に「関東の土師氏」についてのページがやっと出来上がりました(←10年以上掛かった!)ので、▼下▼に
  「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)

リンクを張ります。{このリンクは2014年9月27日に追加}
 それでは「さきたま」、即ち埼玉のルーツを訪ねる旅を急ぎます。

 ■前玉神社 - 「さきたま」の地名由緒を秘めた社(やしろ)


写真a1:前玉神社の一の鳥居。 行田市大字埼玉(さきたま)に在る前玉神社(さきたまじんじゃ/さきたまのかみやしろ)は「さきたま古墳公園」に隣接して在り、県道77号(行田蓮田線)に面して右の写真の一の鳥居(通称:大鳥居)が立って居ます。参道の奥に二の鳥居、三の鳥居が見えて居ます。
 この鳥居の脇の説明板に拠ると、この鳥居は延宝4(1676)年に忍城主・阿部正能(まさよし)と忍領の氏子たちに依って建立された明神鳥居で、江戸時代に於ける浅間神社(※5)の隆盛を伝えるものだそうで、行田市の指定文化財に成って居ます。
 忍城はこちらを参照して下さい。

写真a3:前玉神社の社殿。 左下が二の鳥居です。中央下の写真はその扁額を拡大したもので、「前玉神社」と赤く書かれて居ます。子供たちが遊んで居る奥に三の鳥居が見えて居ます。
写真a2:前玉神社の二の鳥居。写真a2-2:前玉神社の二の鳥居の扁額。
 三の鳥居を潜ると、檜・杉・松などの樹木で覆われたこんもりとした丘が在り、県の「ふるさとの森」に指定されて居ます。

 石の階段を上がって行くと丘の上に無人の社殿(右上の写真)が在りますが、実はこの丘自体が古墳(←前方後円墳(※6)と円墳(※6-1)の2説が在る)なのです。大変質素な社殿ですが、欄間の部分に透かし彫が施されて居ます。
 そこでこの神社の由緒ですが、祭神は前玉姫命(さきたまひめのみこと)と前玉彦命(さきたまひこのみこと)。前述の様に前玉は幸魂(さきみたま)を表し、前玉姫命は記紀神話に登場する前玉比売神(さきたまひめのかみ)のことで、出雲系の天之甕主神(あまのみかぬしのかみ)の子で、甕主日子神(みかぬしひこのかみ)の母です。(みか、※7)とは「酒や水を入れる大がめ」の意味なので、天之甕主神は食糧貯蔵に関わる神なのでしょう。創建は定かでは無いですが延喜式神名帳(※8、※8-1)の埼玉郡の項に「前玉神社二座」と記された式内社で、埼玉のルーツの前玉神社の祭神が出雲系とは新たな発見でした。
 この神社が小山状の墳丘の上に建つことから、江戸時代には関東地方に於いて盛んに成った富士講(※9~※9-3)の浅間信仰の影響を受け、浅間神社の主祭神・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と前玉姫命とが重ね合わされて浅間信仰の対象に成り、この神社の別名を埼玉浅間神社と言い、墳丘は浅間塚古墳と呼ばれます。

 丘を降りると階段の下に立て札型の説明板が在りました。それに拠ると、元禄10(1697)年に氏子たちが立てた「万葉歌碑」に「小崎沼(おさきぬま)」と「埼玉の津」の歌が刻まれてるとのことです。で、その1m位右に歌碑が在ったので、これかなと思いカメラに収めたのですが、帰って写真を良く見ると、この歌碑には「西行上人」という銘と共に

  和らぐる 光を花に かざされて 名をあらはせる さきたまの宮
                            西行

という、この前玉神社を詠んだ西行の歌が刻んで在りまっせ(△3のp280)!、アレレ、万葉歌は何処?
 又チョンボです、万葉歌碑の写真は有りまへん!...(>o<)...、という訳で、左下の写真がその「万葉歌碑の説明板」と「西行の歌碑」と墳丘上の社殿です。何れにしてもここは忍領、「忍の浮城」として有名な藩主の居城・忍城跡はここから北西に2.7km程の所なのです。17世紀後半の忍領の氏子たちは大鳥居や歌碑を立てたりして、この神社を大事にして居たのです。それと、西行はんが「さきたまの宮」を訪ねていたとは意外です!
 鬱蒼とした境内には池が在り弁財天を祀って在りました(右下の写真)。
写真a4:前玉神社境内の西行の歌碑。写真a5:前玉神社境内の弁財天。

 そこで、写真に無い万葉歌をご紹介して置きましょう。「小埼沼」の歌は巻9-1744の雑歌(詠み人知らず)です(△4のp382)。

  埼玉(さきたま)の 小埼の沼に 鴨ぞ翼(はね)きる 己(おの)が尾に
    ふりおける霜を 掃(はら)ふとにあらし

 「埼玉の津」の歌は巻14-3380の武蔵国を歌った相聞歌(詠み人知らず)です(△4-1のp116)。

  埼玉(さきたま)の 津にをる船の 風をいたみ
    綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね

 嘗てこの辺りは北の利根川と南の元荒川に挟まれた低湿地帯で池や沼が多く、埼玉の津は元荒川に連なる沼の船着場だったのでしょう。小埼沼はここから南東2km程の元荒川の支流・旧忍川沿いの田園地帯の中に、宝暦3年(1753)年に忍城主・阿部正因に依って比定され建立された石碑と祠(ほこら)が立って居るそうです。地図を見るとその辺りに鳥居マークと共に小埼大明神(天祥神宮)と記されて居ますので、祠の名称でしょう。
 旧忍川を越えて小埼大明神の北1km程の沼地は現在「古代蓮の里」(※10)に成って居ます。ここの古代蓮はゴミ焼却場建設の際に出土した種子が発芽したものだそうですが、そもそも蓮は湿地帯の沼などに自生する植物ですから、古代蓮の種子が出土するということはこの地が古代から湿地帯だったことを意味します。

 以上が前玉神社の全てです。大変質素ですが「埼玉」の名称起源を秘めている貴重な神社です。主祭神・前玉姫命の父・天之甕主神が出雲系であることは同じく出雲系の土師氏を考える際には重要です。多分、天之甕主神は『出雲国風土記』(※11、※11-1)秋鹿(あいか)郡の天甕津日女命(あまのみかつひめのみこと)(△5のp189)と何らかの関係が有る神だろうと思われます。
 延喜式内社ということで少なくとも創建は927年以前という事に成ります(※8)が、冒頭で述べた様に726年の『正倉院文書』戸籍帳に前玉郡の地名が見えるということは、「前玉」の名は「前玉姫命」に起因して居ると考えられますので、726年以前にこの神社が既に創建されて居たと考えられます。唯、奈良時代の726年以前と言うと古墳時代(※6-2)からそう隔たって無い時期なので、「聖域」である古墳上の現在地に当初から神社を建てたのかどうかは、他の古墳などをもう少し調べてみる必要が有ると思って居ます。

 ■さきたま古墳群 - 古代の地方勢力

 前玉神社を参拝した後、県道77号を数分歩いて「さきたま古墳公園」(行田市大字埼玉)に行きました。途中、前玉神社近くの和菓子屋さんで黄な粉餅を買って公園の中で食べ乍ら歩きました。敢えて「さきたま」と古き呼び名で命名した点に敬意を表します
 「さきたま古墳群」(又は埼玉古墳群)は9基の古墳が現存する国指定史蹟で、全国に在る「風土記の丘」の一つ「さきたま風土記の丘」として整備され、約30ヘクタールの「さきた古墳公園」に成って居ます(△6のp125~127)。

 (1)二子山古墳

写真b1:さきたま古墳群の二子山古墳。
 公園に入って最初に出くわしたのが左の二子山古墳です。主軸長138m、武蔵国最大の前方後円墳です。二重周濠の内濠の向こうに枯れ草に覆われた墳丘が丸で駱駝の背中の様に2コブを見せて居ます。左側のコブが前方部で、右側のコブが後円部です。築造は6世紀前半の様です。
 内濠には鴨の群れが泳いで居て、外側の濠は菖蒲園に成って居ます。

 (2)将軍山古墳

 下が将軍山古墳で、主軸長90mの前方後円墳です。築造は6世紀前半で、副葬品では朝鮮様式の馬具などが出土して居ます。
 横穴式石室が露出する程、可なり破壊されて居た墳丘は復元され、2段構造に成って居ます。手前側が後円部で、中には展示館が在りますが、私は入りませんでした。周囲には二重周濠が巡らされて居たそうです。古墳名は将軍を埋葬したという伝承に拠ります。
写真b2:さきたま古墳群の将軍山古墳。

 この将軍山古墳の東にはゲートボール場に成って居て、お年寄りたちがゲートボールに興じて居ました。ここから北西に稲荷山古墳が在ります。

 (3)稲荷山古墳

 下が有名な稲荷山古墳(※12)です。主軸長120mの前方後円墳(※6)で、築造は5世紀後半~6世紀初頭、「さきたま古墳群」中最古です。写真右側の前方部は復元したもので、やはり周囲を二重周濠が取り囲んで居ます。昭和初期(1930年頃)迄は個人の所有に成って居た代物で、1968年の発掘調査で奥の後円部から国宝と成る鉄剣が出土し当公園の目玉商品的存在です。その後円部には嘗て稲荷神社が在ったのでこの名が在ります。
写真b3:さきたま古墳群の稲荷山古墳。
写真b3-4:さきたま古墳群の稲荷山古墳後円部上の礫槨。写真b3-2:さきたま古墳群の稲荷山古墳説明板の古墳サイズ。
 左の2枚は後円部の登り口に在る説明板の稲荷山古墳の図です。
写真b3-3:さきたま古墳群の稲荷山古墳説明板の図。 説明板に拠れば図の如くに、墳丘の西側と中堤の西側に造り出しと呼ばれる祭祀の為の方形区画が在り、大量の円筒埴輪や形象埴輪(※4-2)や須恵器と共に、神獣鏡や馬具や武具も出土して居る点から首長級の武人の墓ではないか、という説が一般的です。
 後円部には階段が付いていて上に登れます。後円頂からは粘土槨(ねんどかく)と礫槨(れきかく)(※12-1)という2つの竪穴式石室の跡が発掘されました。右の写真が後円部に復元されて居る礫槨の跡です。

 粘土槨は盗掘されて居ましたが、礫槨からは埋葬当時の配置の儘で数々の副葬品が発掘されました。1968年の発掘調査の際に出土した鉄剣をX線撮影したところ、115文字の金錯銘(きんさくめい)(※13)が施されて居ることが判明し、国宝に指定された金錯銘鉄剣はこの礫槨の副葬品の一つでした。

    ◆稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘

 1968年のX線調査で稲荷山古墳から出土した鉄剣に施された115文字の金錯銘が明らかに成り大きな話題に呼びました。それは金錯銘から当時の大王(おおきみ/だいおう)の名前が明らかに成ったからです。当時の刀は直刀(※14、※14-1) -反(そ)りの無い真っ直ぐな刀- で、その両面に金錯が施して在ります。刀の長さ73.5cm、幅3.5cm
 金錯銘は以下の通りです。

    稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘

  1.釈文

 (表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
 (裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

  2.訓読

 (表)辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
 (裏)其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

    (広辞苑より)

 上記「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」雄略天皇(※15)と考えられて居ます。この天皇の名が大泊瀬幼武(紀)/大長谷若建(記)(おおはつせわかたけ[る])幼武(紀)/若建(記)(わかたけ[る])が正に其の者ずばりだから(△2-1のp16、△7のp184)で、年代的にも辛亥年の471年 -干支の年は60年に1回のみ- で整合が取れます。
    {この章は06年2月18日に追加}

 埼玉を”押し広げ”る稲荷山古墳の更なる考察は別ページで徹底的に行って居ますので、是非是非見てたも~れ!!
  獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
    {このリンクは07年8月9日に追加}

 (4)丸墓山古墳

写真b4:さきたま古墳群の丸墓山古墳。 左が主軸長105mの日本最大の円墳(※6-1)です。当公園内唯一の円墳で築造は6世紀前半です。周濠が取り巻いていて、東側の周濠は復元され蓮池に成って居て、墳丘上からは葺石や円筒埴輪や人物埴輪が発見されて居ます。
 現在はご覧の様に階段が付いて上に登れ、墳丘上には桜の木が数本生えていてそこからの眺めは大変素晴らしく、稲荷山古墳を見下ろすことも出来、西側の市内を一望出来ます。

 天正18(1590)年、秀吉の命を受けた石田三成は、小田原方に与する成田氏長の居城・忍城の「水攻め」の指揮を執る為の陣をこの墳丘上に張りました。そして水を張る為の堤防(=石田堤をこの古墳の南北に築いたのです。現在この古墳脇から駐車場脇を抜けて南に真っ直ぐ伸びる道はその石田堤の名残です。

写真b4-2:さきたま古墳群の丸墓山古墳上からの赤城山地の眺望。 右が墳丘上から北西の忍城方面の眺望で、ここから忍城本丸迄は直線距離で2.5km程です。三成はどんな思いで忍城を眺めたことでしょうか?、今は街の様子はすっかり変わり昔を偲ぶことさえ出来ませんが、遠くに見える赤城山(※16)や榛名山(※16-1)の姿だけは三成時代と変わりは無いでしょう。

 (5)愛宕山古墳

写真b5:さきたま古墳群の愛宕山古墳。 私は丸墓山を降り嘗ての石田堤である桜並木の道を駐車場の方に向かいました。左が公園駐車場近くの愛宕山古墳で、主軸長53mの小さな前方後円墳です。築造は6世紀前半で、やはり二重周濠の跡が確認されて居ます。
 後円部に愛宕神社が奉られて居たのでこの名前が在ります。ここからも円筒埴輪や形象埴輪が出土して居ます。
 

 (6)天祥寺

 先ず天祥寺の由緒の前口上として忍藩の歴史を振り返ってみましょう。築城の沿革については「2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城」をご覧下さい。
 忍藩は天正18(1590)年より豊臣秀吉から関八州をあたえられた徳川家康が領する事に成り、三河普代の松平家忠を1万石で入封させ成立し、文禄元(1592)年、家康の第四子・松平忠吉が10万石で入封し水害対策で利根川を現在の流路にする工事をし湿地帯の新田開発に力を注ぎ藩の基礎を作りました。慶長5(1600)年の忠吉の尾張清洲城転封後、城番時代を経て、寛永10(1633)年「知恵伊豆」と呼ばれ幕政に力を発揮した松平信綱が3万石で入封、同16(1639)年阿部忠秋が5万石で入封し8万石に加増し、その寛文11(1671)年に後を継いだのが前玉神社の大鳥居を建てた阿部正能です。延宝5(1677)年から継いだ次の阿部正武の時に元禄14(1701)年から忍城を三重櫓を持つ近世城郭に大修築し10万石に加増後、阿部家が9代迄続きました。阿部家の藩主は信綱を始め代々老中職に就き幕政を補佐して居ます。
 文政6(1823)年に桑名から松平忠堯(ただたか)が入封し、5代世襲し忠敬(ただたか)の時に明治の廃藩置県を迎えました。忠堯入封以後は財政は逼迫した上、風雲急を告げる幕末には上総・安房の沿岸防備や京都警護の出兵を命じられたり、足元の秩父で起こった世直し一揆(※17)など、多難でした。

 以上の様に忍藩主は大まかに松平家-阿部家-松平家と受け継がれて来ました。

写真b6:さきたま古墳群の一角の天祥寺。
 その松平家の菩提寺の一つが愛宕山古墳の近くに在る天祥寺(行田市大字埼玉5209)で、臨済宗妙心寺派で山号は海東山、京都妙心寺に残る塔頭・天祥院の本寺です(右の写真)。
 天祥寺は元々は家康の外孫で松平家初代・松平忠明(ただあきら)の法名・天祥院に因み大和郡山に建てた寺ですが、移封に伴ない菩提寺も移動し、桑名から入封して来た松平忠堯が現在地に造営したものです。現在ここに9代・忠堯、11代・忠国、12代・忠誠の墓が安置されて居ます。

 ところで天祥寺には「狩野重政入道山更」の署名と落款入りの涅槃図が保存されて居て、涅槃図の桐箱には「寛政12(1800)年に清暁院殿から寺に寄進された」旨が当時の方丈の筆で記されて居るそうです。

 (7)「さきたま資料館」と「はにわの館」

 以上の様に「さきた古墳公園」の県道77号の北側の古墳をざっと見て回りました。見なかった古墳は県道の南側の
  瓦塚古墳(主軸長:73m、前方後円墳、築造:6世紀前半)
  鉄砲山古墳(主軸長109m:、前方後円墳、築造:6世紀後半)
  奥の山古墳(主軸長:70m、前方後円墳、築造:6世紀中頃)
  中の山古墳(主軸長:79m、前方後円墳、築造:6世紀末~7世紀初め)
です。
 公園内には室内展示をして居る「さきたま資料館」「はにわの館」が在ります。「さきたま資料館」は1969年し設立され、埴輪や稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣や埼玉県の民俗資料が展示されて居ます。「はにわの館」では埴輪造りを体験出来ます。
 土師氏が埴輪を製作した場所が「さきたま古墳群」の近くに在る筈です、夥しい数の埴輪 -円筒埴輪や形象埴輪(人物埴輪も)- が出土して居ますから。何しろ、古墳と埴輪と土師氏の関係は

  「古墳在る所に埴輪在り、埴輪在る所に土師氏在り」

なのです。





生出塚埴輪窯跡(埼玉県鴻巣市)









    {この段は2014年9月27日に追加}

埴輪にする埴土(=赤土)(※4-5)は関東ローム層(※18、※18-1)の赤土を利用するのでしょうか(?)

 私は駐車場近くの土産物屋で埴輪の模型 -でもちゃんと埴土で出来ている- を買って、次の目的地である忍城に向かったのです。その忍城の記事が[埼玉を”押し広げ”る旅#1]なのです。
 この公園に来て稲荷山古墳だけを見て帰る人はミーハー、丸墓山古墳を見に来る人は戦国歴史ファン、私の様に知らずに次々と見て廻る人はハイカー、古墳など気にせずゲートボールをしに来る人は地元のジジババです、アッハッハ!

                (^o^)

 ■結び - 獲加多支鹵大王(自己主張型)と埼玉都民(埋没型)は
         180度ベクトルが違う!

 このページは幾つかの目的(=テーマ)で書かれて居ます -埼玉埋没論石田三成関東の土師氏など- ので、注意してお読み下さい。前掲の「獲加多支鹵大王とその時代」の考察の最後で、獲加多支鹵大王の人物像について私はこう述べて居ます。今それをここにコピーします。

----▼(コピー)
 獲加多支鹵大王(雄略天皇)についてはお解り戴けた事と思います。一言で言えば面白い人です。埼玉稲荷山古墳と江田船山古墳の両古墳出土鉄剣の銘の獲加多支鹵大王という名前のインパクト、「倭の五王」の中でも武は飛び抜けた存在力を示し、精力絶倫にしてセックスは開けっ広げ、『万葉集』『日本霊異記』の冒頭に載る様な押し出しの利いた個性の強さ、怒りっぽい大悪大王(←雄略に時代は天皇という語は無い)、豊富なエピソードと「神と対等な大王」の強調、などなど他の天皇には見られない「存在力の大きさ」「前に出る個性」 -灰汁(あく)が極めて強い自己主張型と言える -を感じますね。
----▲

 次に述べる様に、埼玉都民の没個性埋没感とは180度違うベクトルの持ち主の様です!!
    {この前半部分は07年9月12日に追加}

                (*_@)

 どうでしたか埼玉のルーツを行く旅は?、少しは埼玉を再発見して戴けたでしょうか?
 今の埼玉人は冒頭で示した素晴らしい地名の由緒 -「さいたま(埼玉)」の元は「さきたま(前玉)」- を知らず、「ダサイ埼玉」「ダサイタマ」(※19)などと語呂合わせで呼ばれるのを嫌って、「彩の国(さいのくに)」などという空虚なキャッチコピーを持ち出して居ます。これなどは己のルーツを見失った軽薄で恥曝しな行為です、だから秩父市は旧石器発掘捏造に嵌まり益々埋没するのです!
 「大江戸の引力にいまも顔をもたない没個性」(△8のp78)と指摘される埼玉人は、”東京サ”ばかり見ていてコンプレックスから抜け切れない埼玉都民として漂流して居る様に見えます。己の特徴を自分で発見出来ないで、市町村の合併とかで規模のみを追い掛け自らのアイデンティティーを喪失した儘進むと、当サイトで私が既に随所で指摘して居る様に、”茫洋たる没個性と劣等感に埋没”して行くしか有りません。
 逆に埼玉人が憧れて居る”東京サ”の人々(3代続いて居る東京人は少ない)は、10数年前頃から足元を見詰め直し、地域の祭とか小さな自然との触れ合いとか身近な歴史を訪ねたりとか、アイデンティティーを取り戻そうと「地元の再発見、地元からの発信」に力を入れ始めている様に見えます。10数年前と言うと丁度バブルが崩壊した時期と重なります。
 埼玉人も今一度原点たる足元に目を転じ足元を掘り起こし -私の言葉で言うと”押し広げ”て- 「地元を再発見」し、「地元からの発信」で逆に”東京サ”の人々や外国人を呼び込む様な魅力有る街を創出することを期待します。そのキーワードは「温故知新」です、”東京サ”の人々は「田舎の良さ」に飢えているのです。「彩の国」などは発信では無く”発疹”ですゾ!!

                (>v<)

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φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:アイデンティティー(identity)とは、同一性。存在証明。
 [1].狭義には、人格に於ける存在証明又は同一性。或る人が持つ「自分が自分である」という意識の一貫性が時間的・空間的に成り立ち、それが他者や共同体からも認められて居ること。自己の存在証明。自己同一性(又は自我同一性)。
 [2].広義には、集団に於ける同一性を指す。或る共同体の構成員が他の共同体とは異なる同一性や親近感を互いの裡に認め合うことが出来、それに依って強い同属意識(又は帰属意識)や絆で結ばれ、同じ立脚点に立って共通の目標や価値観を持つことが出来ること。「民族の―」「企業の―」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※2:江戸名所図会(えどめいしょずえ)は、地誌。斎藤幸雄編、子の幸孝補修、長谷川雪旦画。7巻20冊。1829年(文政12)自序、1834~36年(天保5~7)孫の幸成(月岑)刊。北斗七星の位置に配当して江戸の神社・仏閣・名所・旧跡を7巻に分け、絵を加えて説明。

※3:勾玉/曲玉(まがたま)とは、古代の装身用の玉。「く」の字乃至は「コ」の字形で、端に近く紐を通す孔が有る。多くは翡翠(ひすい)・瑪瑙(めのう)・碧玉を材料とし、又、純金・水晶・琥珀・ガラス・粘土などを用いた。長さ1cm未満の小さいものから5cm以上の物も在る。形状は縄文時代の動物の犬歯に孔を穿(うが)った物から出たと言い、頸や襟の装飾とし、又、副葬品としても用いられた。朝鮮半島にも在り、王冠を飾る。曲玉(まがりたま)。形状が人の胎児に酷似して居る所から、特別な祭祀や呪術に使われたとする説も在る。古事記上「八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いおつ)の美須麻流(みすまる)の珠を纏(ま)き持ちて」。

※4:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作葬儀にも従事。
 土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※4-1:土師器(はじき)は、弥生土器の系譜に繋がる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い。
※4-2:埴輪(はにわ)は、古墳の上や周囲に立て並べた土製品。円筒埴輪形象埴輪とが在り、後者は人物・動物・器具・家屋などを象(かたど)ったもの。前者は筒形のもので、弥生土器の祭祀用の器台から発展したとされる。垂仁紀「其の土物(はに)を始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号(なづ)けて埴輪と謂ふ」
※4-3:野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。
※4-4:埴馬/土馬(はにま)とは、埴輪の瓦製の馬。雄略紀「其の明旦(くるつあした)に赤駿(あかうま)変りて―に為(な)れり」。
※4-5:埴土(はにつち)は、粘土。赤土。神代紀上「―を以て舟を作り」。

※5:浅間神社(せんげんじんじゃ)は、(「浅間」は正式にはアサマと読む)静岡県富士宮市宮町に在る元官幣大社。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主神とし、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・大山祇神(おおやまづみのかみ)を配祀。富士登山路の表門戸とされる。駿河国一の宮。富士山本宮浅間神社。富士権現。同名の神社が各地に在り、中でも山梨県東八代郡一宮町(甲斐国一の宮)、静岡市宮ケ崎町のものが有名。

※6:前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、日本の古墳の一形式。平面が円形と長方形、又は台形とを連結した形の墳丘で、江戸後期の蒲生君平の「山陵志」に始まる名称。3世紀末から7世紀頃迄、特に畿内で発達した日本独特の形 -しかし朝鮮半島南部にも存在する- と考えられ、大王(後の天皇)一族、有力な豪族たちの墳墓にはこの形が多い。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)・誉田御廟山古墳(応神天皇陵)など巨大化したものも出現。俗称、車塚/ひさご塚/銚子塚/茶臼山など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-1:円墳(えんぷん)は、平面形が円形の墳墓。古墳として最も普通のもの。丸塚。
※6-2:古墳時代(こふんじだい)は、日本で壮大な古墳の多く造られた時代。弥生時代に次いで、略3世紀末~7世紀に至る。但し、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。古墳時代は畿内を中心として文化が発達した時期で、統一国家の成立・発展と密接な関係が有るとする説も在る。現在、古墳の築造時期を前期(3世紀末~4世紀後半)中期(4世紀末~5世紀)後期(6~7世紀)に分けるのが一般的。前期は司祭者的な首長の統治が始まり、中期には強力な首長の統合に依って大和政権が確立された時代。後期には大陸から伝来した仏教文化が開花した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※7:甕(みか)とは、(ミは接頭語。カはケに同じで、容器の意)大きな甕(かめ)。酒を醸したり、水を貯えたりするのに用いた。もたい。祝詞、祈年祭「―の上高知り」。

※8:延喜式(えんぎしき)とは、弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
※8-1:神名帳(しんめいちょう/じんみょうちょう)とは、神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式巻9・巻10の神名式を言い、毎年祈年祭(としごいのまつり)の幣帛に与る宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載する。この延喜式神名帳に登載された神社を式内社、それ以外を式外社と言う。

※9:富士講(ふじこう)は、富士山を信仰する講社。信徒は夏季に白衣を着て鈴を振り、六根清浄を唱え乍ら登山する。江戸時代に角行(かくぎょう)・身禄(みろく)が出て盛行。明治以後は扶桑教などと成る。
※9-1:講(こう)とは、[1].神仏を祀り、又は参詣する同行者で組織する団体。二十三夜講・伊勢講・稲荷講・大師講・富士講の類。
 [2].一種の金融組合又は相互扶助組織。頼母子講(たのもしこう)・無尽講の類。
※9-2:六根(ろっこん)とは、〔仏〕六識を生ずる六つの感官、即ち眼・耳・鼻・舌・身・意の称。
※9-3:六根清浄(ろっこんしょうじょう)は、六根が福徳に依って清らかに成る様に山参りの行者、寒参りする者などの唱える語。

※10:古代蓮(こだいはす)は、別名大賀蓮とも呼ばれ、昭和26(1951)年に千葉市花見川区険見川町の遺跡から推定2000年前の弥生時代の種子が、大賀一郎博士(1883~1965)に依って発掘され発芽開花した。

※11:風土記(ふどき)は、713年(和銅6)元明天皇の詔に依って、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた、我が国最古地誌。完本に近いものは出雲国風土記のみで、常陸播磨の両風土記は一部が欠け、豊後肥前のものは可なり省略されていて、撰進された時期も一律では無い。他に30余国逸文が現存。文体は国文体を交えた漢文体。平安時代や江戸時代に編まれた風土記と区別する為「古風土記」とも言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11-1:出雲国風土記(いずものくにふどき)は、古風土記の一。713年(和銅6)の詔に基づいて出雲国9郡の風土・物産・伝承などを述べる。733年(天平5)成る。記紀に見えない出雲地方の神話も含む。1巻。

※12:[埼玉]稲荷山古墳([さきたま]いなりやまこふん)は、埼玉県行田市の埼玉古墳群中の前方後円墳。1968年の発掘調査のX線撮影で、雄略天皇と推定される人名 -獲加多支鹵(ワカタケル)大王- を含む115文字から成る金象嵌に依る銘文の在る鉄剣であることが判明。
※12-1:槨(かく)とは、棺を入れる箱。「棺槨」。

※13:金錯(きんさく)とは、金属器の表面にで文様や文字を象嵌(ぞうがん)し、又は塗ったもの。

※14:直刀(ちょくとう)は、刀身が真っ直ぐで反(そ)りを持たない刀。日本の古代の刀身は全て直刀であった。←→弯刀/湾刀。
※14-1:弯刀/湾刀(わんとう)は、湾曲した刀。刀身に反(そ)りのある刀。←→直刀。

※15:雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫。木梨軽皇子の同父母弟。名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。安康天皇を暗殺した眉輪王や対立する皇位継承候補を一掃して即位。専制的・英雄的で、477年中国(=南朝の宋)へ遣使した倭王「武」に比定され、同年宋より安東大将軍の将軍号を授けられ、478年宋の順帝に上表文を奉り(←「宋書」)、479年には鎮東大将軍に進号された(←「南斉書」)。又、辛亥(471年か)の銘の在る埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵(わかたける)大王」に比定される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
 補足すると、万葉集の冒頭の歌、「日本霊異記」の冒頭の話など、人物像がリアルに描かれて居る。

※16:赤城山(あかぎやま/あかぎさん)は、群馬県前橋市北方の複式火山。最高峰の黒檜(くろび)山は標高1828m。榛名妙義と共に上毛三山の一。南東麓に国定忠次所縁の忠次温泉が在る。
※16-1:榛名山(はるなさん)は、群馬県中部に在る複式成層火山赤城山妙義山と共に上毛三山の一。外輪山は掃部(かもん)岳(1449m)・鬢櫛山・烏帽子岳などに分れ、カルデラ内に円錐形を成す中央火口丘の榛名富士榛名湖が在る。

※17:世直し一揆(よなおしいっき)は、幕末から明治に掛けて発生した農民一揆。小作地の返還や年貢の減免を要求。
 補足すると、世直し一揆などの幕末の民衆のエネルギーは一旦は沈静化したものの、やがて明治13(1880)年の秩父困民党の蜂起へと受け継がれて行きます。

※18:ローム/壚拇(loam)とは、[1].砂・シルト・粘土が略等量に含まれる風化堆積物。壌土。
 [2].風成火山灰土の一。関東ロームが代表的で、10mに達する層を成す。酸化鉄に富み、赤褐色。赤土。
※18-1:関東ローム(Kanto loam)とは、関東地方の台地や丘陵を覆っている赤褐色の粘土化した火山灰層。何層かの軽石層を挟む。第四紀更新世に箱根・古富士・男体・赤城・榛名・浅間などの各火山から噴出したもの。命名は1879年来日したドイツのブラウンス。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※19:ダサイ/ダサイタマとは、かっこ悪い/鈍い/野暮ったい/ドン臭い/トロい/芋っぽい/洗練されて無い、などの意を表す俗語。<出典:一部「最新日本語活用事典」より>
 1980年頃から使われだした言葉。「ダサイ」と埼玉の結合力は強力

    (以上出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『新訂 江戸名所図会1』(斎藤幸雄・幸孝編著、斎藤月岑校刊、市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま学芸文庫)。

△2:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△2-1:『日本書紀(三)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△3:『山家集』(西行著、佐佐木信綱校訂、岩波文庫)。

△4:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△4-1:『万葉集(下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△5:『新編 日本古典文学全集5-風土記』(植垣節也校注・訳、小学館)。

△6:『古墳辞典 増補・新装版』(大塚初重・小林三郎編、東京堂出版)。

△7:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△8:『県別日本人気質』(河出書房新社編・発行)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):初めて埴輪を埋葬した
日葉酢媛の陵墓の地図▼
地図-日本・孝謙天皇の足跡
(Map of footprints of the Empress Koken, -Japan-)

補完ページ(Complementary):当サイトで最初の埼玉埋没論、
埼玉都民にも言及▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)
補完ページ(Complementary):大阪の古墳と土師氏について▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
補完ページ(Complementary):埼玉を”押し広げ”る稲荷山古墳の考察▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
補完ページ(Complementary):関東の土師氏▼
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)
「幸(さきは)ふ」とは▼
「言葉遊び」と遊び心(The 'play of word' and playing mind)
行田市は土師氏と関係深い(関東の土師氏)▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)
石田三成について▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
旧石器発掘捏造事件に嵌まった埼玉県秩父市▼
旧石器発掘捏造はマスコミ犯罪だ
(Mass media led the paleolith fabrication)

温故知新の心▼
温故知新について(Discover something new in the past)
地元の再発見、地元からの発信▼
旅は身近な所から(Usual and familiar travels)
東京が「温故知新」で地元から発信して居る例▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
「田舎の良さ」をセールスポイントにして居る例▼
2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)


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