−− 2007.08.09 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.27 改訂
尚、当ページは横書きなので引用文の漢数字はアラビア数字に変換しました。
和泉国一の宮の大鳥神社(大阪府堺市鳳北町1丁)(※1)に関しては既に
阪堺電車沿線の風景−浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)
に於いて、可なり詳しく書いて居ますので先ずはそれを参照される事を望みます。今回は更に突っ込んで検討をする積もりです。
下の3枚の写真が堺市鳳北町の大鳥神社です(03年9月28日に撮影)。5万uの境内は広大で、左下が西側入口の大鳥居、右下が鎮守の杜(=「千種の森」、後述)の奥の中門を入って直ぐの拝殿の第一祈願所です。ここはJR阪和線鳳駅からも数分の所です。大鳥神社の地図を参照。
御祭神は日本武尊(※1−1)と大鳥連祖神(おおとりのむらじのみおやのかみ)で延喜式神名帳の明神大社です。社名の大鳥やこの辺りの地名の鳳は、一つは日本武の白鳥化成伝説(※1−2)、もう一つは昔白鳥が飛来して一夜にして種々の樹木が茂り「千種の森」に成り境内に成ったというもので、何れも社の起源と伝えられて居ますが、元々は古代の豪族・大鳥氏が大鳥連の祖神を奉ったのが始まりと考えられます。大鳥連祖神は天種子命(※3)であるとも天児屋根命の後裔(※3−1)とも言われる神で、「千種の森」の話は天種子命から来ているのでしょう。天児屋根命と言えば中臣氏、即ち藤原氏の祖神です。
左が拝殿奥の古式を伝える大鳥造りの本殿ですが、現社殿は明治時代の再建です。大鳥造りは出雲大社の大社造りから住吉造りへの中間に位置する古い建築様式で、この神社の起源が相当古い事を物語って居ます。大鳥氏の本貫は九州とする文献も在ります。
嘗ては大鳥五社と言われて居た時代も在ったそうで、それは爾波比(にはひ)、鍬靱(くわゆき)、浜、井瀬と合わせて呼ばれた名称で、今はこれらは境内摂社・大鳥美波比神社に合祀されて居ます。
熊野詣の途次祈願し和歌と神馬を献じたという平清盛・重盛父子の歌碑も在ります。
4月13日の花摘祭は平安時代から続く可憐な祭で、野の花を摘み神に見せる神事です。又、菖蒲園には10万本もの菖蒲が在るそうで、毎年6月には一般公開されます。
◆関東の「おおとり神社」
ここで少し関東の「おおとり神社」について述べます。関東の「おおとり神社」は日本武尊を祭神とすることから中世には武士の信仰を集めた神社ですが、江戸時代に成り商売の神に転じて行きました。関東では11月の酉の日の「酉の市」(※4)が江戸時代後半から非常に盛んに成り庶民は商売繁盛・家内安全を祈願します。関東の「おおとり神社」の祭神は大鳥大明神(→後出)とも呼ばれ、元来穀物の神とされて居るのです。それは日本の稲作は「大鳥(=鶴・鷲・白鳥など)が稲穂をくわえて来て落とした」ことに始まったとする穂落し伝説(→後出)(△1のp283)が在るからです。その穀神が関東地方の庶民の間で商売繁盛の神に転化したのです。
◆再び和泉国一の宮の大鳥神社 − 全国「おおとり神社」の総本社
一方、和泉国一の宮(=堺市鳳北町)の大鳥神社が”一応”全国の「おおとり神社」(→後出)の総本社です。ここで”一応”と付けた訳は関西では「酉の市」は行いません、関西で商売繁盛と言うと戎(恵比須)(※5) −関西では「えべっさん」と呼ぶ− で、特に十日戎(※5−1)は大変な賑わいです。
◇◆◇◆◇
以上、和泉国一の宮の大鳥神社を見て来ましたが、この神社と土師氏の関係は希薄と言えます。又、11月の酉の日には一応祭が行われますが関東の様に熊手を売る市は立ちません。この神社は寧ろ大鳥連祖神が祭神に成っている事からも解る様に大鳥氏の祖先を祀るという独自の性格が強いのです。この神社が全国「おおとり神社」の総本社に成ったのは、後世の混同ではないか、と私は確信を持つ様に成りました。大鳥氏は「和泉国大鳥郡大鳥から大鳥連が出た。子孫は和泉・紀伊に分布し南北朝期の武士。他流に清和源氏山本義経の子大鳥義成や大和源氏宇野氏族など。」と在ります(△2のp326)。和泉国大鳥郡大鳥とは今の大鳥神社の在る所です。
尚、大鳥神社は奈良時代の僧・行基とも関係が有りますが当ページでは省略します。
それでは全国の「おおとり神社」(=大鳥/大鷲/鷲などと書き読みは「おおとり」)を下に列挙しましょう。多くが日本武尊を祭神とし(←中には白鳥化成伝説(※1−2)と関わるものも在る)、特に関東の社は「酉の市」(=お酉様)で賑わいます。そして当ページのテーマである土師氏と密接な関係が有る神社が幾つか存在するのです。
<全国の「おおとり」神社>
神社名称 読み 住所/特徴
大鳥神社 おおとり 北海道寿都郡黒松内町
┌── 鷲 神社 おおとり 栃木県小山市
↓ 鷲 神社 おおとり 茨城県土浦市
関東 鷲 神社 おおとり 千葉県白井市
大鷲神社 おおとり 千葉県印旛郡栄町
* 鷲宮神社 わしみや 埼玉県鷲宮町/祭神が土師氏の祖
土師一流催馬楽神楽、元々は土師宮(はじのみや)
鷲 神社 わし 埼玉県加須市麦倉/祭神が土師氏の祖
鷲 神社 わし 埼玉県さいたま市見沼区大和田/祭神が土師氏の祖
鷲 神社 おおとり 埼玉県さいたま市緑区南部領辻
鷲 神社 おおとり 埼玉県吉川市
大鷲神社 おおとり 東京都足立区花畑/本酉、土師氏の伝承
鷲 神社 わし 東京都足立区島根
鷲 神社 おおとり 東京都台東区/新酉
鷲 神社 おおとり 東京都大田区
大鳥神社 おおとり 東京都目黒区
関東 大鳥神社 おおとり 東京都豊島区
↑ 大鷲神社 おおとり 東京都府中市/大國魂神社の境内摂社
└── 大鷲神社 おおとり 横浜市南区/金刀比羅神社の境内摂社
大鳥神社 おおとり 滋賀県甲賀市甲賀町/大原祇園社
◎ 大鳥大社 おおとり 大阪府堺市西区鳳北町/和泉国一の宮
「おおとり神社」の総本社
大鳥神社 おおとり 佐賀県東松浦郡玄海町
そういう訳で関東の「酉の市」に売られる縁起物の熊手には必ず稲穂が付いているんですね。そんな「酉に市」の中で特に鷲神社(東京都台東区千束3、嘗ての吉原)が「新酉」として有名で、これに対して「本酉」として由緒を保っているのが東京都足立区花畑の大鷲神社です。どちらも読みは「おおとりじんじゃ」です。大鷲神社では酉年 −即ち12年に1度− に行われる祭も在ります。
先ずは、この2つの「おおとり神社」から述べましょう。
(1)吉原の鷲(おおとり)神社
鷲神社(東京都台東区千束3)/新酉
祭神:天日鷲命(※6)、日本武尊
右の写真が吉原の鷲(おおとり)神社です(03年12月8日撮影)。現在「お酉様」の中で最も有名な神社です。
鳥居前の門の入口に「浅草酉乃市御本社 鷲神社」と書かれて居るので、本には「浅草の鷲神社」と引用される場合が多いですが、ここは名高い吉原(=新吉原)(※7)です。明暦3(1657)年の明暦の大火 −俗に振袖火事と言う− で日本橋葺屋町(=元吉原)から新吉原に移って来たのですが、戦火に因り嘗ての遊郭は焼け落ちて今は単なるソープランド街と成って居ます。
幕末に刊行された随筆『守貞漫稿』(※10)に拠ると、「けだし熊手を買ふ者は、遊女屋、料理屋、船宿、芝居にかかはる業体の者のみこれを買ふ。一年中天井に架して、その大なるを好しとす。正業の家にこれを置くことを稀とす。」と在り(△1のp283)、幕末には「熊手は一般(=堅気の家)には浸透して無い」と書かれて居ます。鷲神社は吉原の一角に在るので「遊女屋」、即ち花魁・置屋などが集まり華やかな場所柄なので熊手を買う事が流行り、吉原の鷲神社の「酉の市」から急速に関東一帯に広まったのではないかと私は考えます。ここが新酉と呼ばれる様に成ったのもその頃と思われます。そして明治中期には「酉の市」が一般に浸透したのです。その証拠に明治中期の樋口一葉の小説『たけくらべ』 −この小説は吉原の鷲神社(右上の写真)を舞台にしている− には「大鳥神社の賑ひすさまじく」(△5のp91)と在り、「大鳥神社」とはこの吉原の鷲神社のことです。
縁起物として熊手の他にお亀の面や入り船などが在り(△1−1のp276)、お亀笹は吉原の鷲神社の酉の市で竹竿にお亀の面を下げるのでこの名が付いたと言います(※4−1)。又、「三の酉」迄有る年は火災が多いという迷信が在った様です(※4、△1のp284、△1−1のp276)。
先程も書いた通り、関西の人は「酉の市」って関西の十日戎とそっくりやんけ?!、とお思いに為るのではないでしょうか。そうです、関西では新年1月の十日戎が盛んな反面「酉の市」は行われません。逆に関東では11月の「酉の市」が盛んなのです。
(2)足立区花畑の大鷲(おおとり)神社
大鷲神社(東京都足立区花畑7)/本酉
祭神:現在は日本武尊
(しかし元々の祭神は不明、天穂日命(※6−1)とする説が有力)
ここには04年4月19日の午後に行きました。しかし04年4月18〜19日撮影の一部の原画が壊れて仕舞い、花畑の大鷲(おおとり)神社の写真も何枚か撮りましたが今は在りません。
[ちょっと一言] 04年4月18〜19日撮影の原画が壊れた写真を記すと、
18日(日):夜。浅草の神谷バーの写真。HPはセーフ。 ┐
19日(月):午前中。加須市の写真。HPはセーフ。 │
// :午後2時頃。足立区花畑の大鷲神社の写真。HP無し。 ├ 全滅
// :午後4時頃。浅草の鳥越神社の写真。HP無し。 ┘
// :午後5時頃。吉原の写真。HP無し。 ─ セーフ
と成ります。「HPはセーフ」と在るのは、HP(=ホームページ)を早く作った為にHPの写真はセーフでした。
これについては詳細に検討して在りますので、▼下▼を
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
ご覧下さい。
こちらが元祖本酉です。『江戸名所図会』(※11)に拠ると、江戸時代は正一位鷲大明神社(せいいちいわしだいみょうじんしゃ)と呼んで居た様で、しかも鷲は「わし」と読んで居ます。そこで『江戸名所図会』から鷲大明神社の絵と文を引用しましょう。
本社 鳥居
↓ ↓
左が『江戸名所図会』の鷲大明神社の絵(△6のp384〜385)。
神社の周りの風景は畑の様に見えます。利根川支流が近くを流れて居ます。
←鳥居の前に人の往来
「花亦村(はなまたむら)にあり。この地の産土神とす。祭る神、詳らかならず。本地は釈迦如来にて、鷲に乗ずる体相なり。別当は真言宗にして正覚院と号す。毎歳11月酉の日をもつて祭日とせり。...<中略>...
按ずるに、当社鷲(わし)大明神は土師(はじ)大明神なるべし。はとわの仮名の転ぜしより、謬り来れるか。当社を世俗、浅草観音の奥の院と称す。これによつてこれを考ふるに、浅草寺縁起のうちに、土師臣中知(なかとも)および檜前浜成・竹成といへる漁者主従3人の名を挙げたり。『日本紀』に、「垂仁天皇32年に、野見宿禰にはじめて土師臣の姓を賜ふ。」とあれば、この中知もその遠裔なるべし(野見宿禰は、天穂日命14世の孫なり。『古事記』に、「天穂日命は出雲臣、武蔵国造、土師の連等が遠祖なり」とあり。)。また『続日本紀』に曰く、「檜前舎人直由加麻呂といへるは、むさしの国加美郡の人にして、土師姓と祖を同じくす。」とあれば、この浜成・竹成も武蔵国の人にして、主従3人ともに姓は土師なるべし。『古事記』に、天菩比命の子に建比良鳥命といへる神あり。この神は土師姓の祖なれば、かの3人の漁者の輩など、これらの神を崇めまつりしものならんか。当社に毎歳11月酉の日祭りあり。世に酉のまちといふ。まちは祭りの略語なり。この日近郷の農民、家鶏(にわとり)を奉納す。翌る日納むるところの家鶏を、ことごとく浅草寺観音の堂前に放つを旧例とす。これまたよりどころあるか、なほ後人の考へを待つのみ。」と在ります(△6のp379〜380)。
右が鷲大明神祭りの様子です(△6のp386)。「毎年11月酉の日に修行す。世に酉のまちといへり。この日近郷の農民家鶏を献ず。祭り終はるの後、ことごとく浅草寺観音の堂前に放つを旧例とす。」と書いて在ります。この絵は浅草観音の堂前に放つ迄の間、大きな鳥籠に家鶏を一時保管している絵です。子供を担いだ小父さんの足元に家鶏が居ます。
これに拠ると、先ず花畑(はなはた)は江戸時代は花亦(はなまた)と呼んで居ました。そして「本地は釈迦如来にて、鷲に乗ずる体相なり。別当は真言宗にして正覚院と号す。」と書いて在るのは、江戸時代は神仏習合(※12)で神社には必ず寺がセットされて居て、これを別当寺とか神宮寺(※12−1)と呼びました。そしてこれを理論付けたのが本地垂迹説(※12−2)という奇妙な理論が罷り通っていたのです。垂迹とは、「本地(=仏や菩薩)が姿を変えて迹(あと)を垂れて現れ出たのが神道の神である」とする「仏主神従」の考え方です。江戸時代は幕府が政権を握り仏教の方が強かったのですが、武家政権が倒れ明治に成ると政権は天皇に移り神道が前面に出て形勢逆転、神仏分離で神宮寺は破壊されました。
一方、『古事記』を引用して「天菩比命の子に建比良鳥命といへる神あり」と言って居ます(△7のp35)が、ここで天菩比命(あまのほひのみこと)は天穂日命(※6−1)の事で、その子の建比良鳥命(たけひらとりみこと)は天夷鳥命(→後出)の事(△6のp158)です。ここに書いてる様に天穂日命は土師氏の祖(※22)で天夷鳥命はその子です。私は基本的に『日本書紀』の表記を基に書いて居ます −それは当ページだけで無く全てのページに於いて− が、この様に『古事記』とは漢字表記が異なる場合が多いですが「読み」は大体一致して居ます。そして今は大鷲(おおとり)神社に成って居ますが、元々は鷲大明神社(わしだいみょうじんしゃ)で、鷲(わし)は土師(はじ)の転化です。即ち月岑に言う様に土師大明神社(はじだいみょうじんしゃ)が江戸時代の名前であった事が略確実です。そして「酉のまち」は今日の「酉の市」の事です。
尚、「土師臣中知(なかとも)および檜前浜成・竹成といへる漁者主従3人」については、既に
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
に書いて在りますので参照して下さい。
『江戸名所図会』を纏めた斎藤月岑は博覧強記、中々鋭い指摘をして居ます。『図会』は斎藤幸雄編、子の幸孝が補修し、孫の月岑が刊行した親子孫3代に亘る労作です。
ところで、この神社の事は知らなかったのですが上の様に『江戸名所図会』に土師氏に関し重要な事が書いてあるので、東武伊勢崎線の竹の塚駅より北東に約2.5kmを歩いて(←途中道に迷ったりして)やっと辿り着きました。ここは東京都が埼玉県に張り出した所に在ります。
(3)足立区島根の大鷲(わし)神社
鷲(わし)神社(東京都足立区島根4)
祭神:日本武尊(相殿神:誉田別命、国常立命)
ここは03年12月11日に訪ねました。こちらは竹の塚駅より南東へ1km強です。
鷲の字は「おおとり」では無く「わし」と読みます(右の説明板を参照)。説明板に拠ると、当社は文保2(1318)年に武蔵国足立郡島根村の鎮守として創建され、当初は大鷲神社と称しました。読みは「わし」か「おおとり」か「おおわし」?
その後、元禄の頃(1688〜1704年)に八幡社(誉田別命)と明神社(国常立命)を合祀し、「社名を鷲(わし)神社に定めた」と在ります。
島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などを含む大村だったそうです。尚、島根とは地形から付けられた名称です。
左が拝殿です。今の社殿は昭和31(1956)年9月に再建されました。神楽殿で奉納される島根囃子/島根神代神楽は区の無形民俗文化財です。
実は島根の鷲(わし)神社を訪ねた時は、花畑の大鷲(おおとり)神社の事は知らなかったのです。もし知っていればこの日に訪れていた筈です。
(4)横浜の大鷲(おおとり)神社
大鷲(おおとり)神社(横浜市南区真金町1)/金刀比羅神社の境内摂社
祭神:天之鳥船命
横浜は私の生まれた所です。元々は1859(安政6)年に箱崎遊郭の主人・岩槻屋佐吉が讃岐の金刀比羅宮を勧請したのが始まりです。そして1872(明治5)年に箱崎遊郭が高島町(←実業家にして易学家(高島易断)で知られる高島嘉右衛門所縁の地)に移転した時に、吉原の鷲(おおとり)神社を勧請して大鷲(おおとり)神社が出来ました。
後から勧請したので吉原の子分格ですが名前は親分よりも大きく大鷲(おおとり)を名乗って居ます。更に1882(明治15)年に真金町に遷座し現在に至って居ます。1923年の関東大震災、1945年の横浜大空襲で被災し、その都度再建されましたが現在の社殿は1988(昭和63)年に再建され今では「ハマのお酉様」です。
右が鳥居です。鳥居の扁額には「金刀比羅・大鷲神社」と書かれて居ます。奥には伏見稲荷(←境内末社)の鳥居と幟も見えます。ここは05年5月25日に私の弟子(←彼は横浜に住んでる)と行きました。
祭神の天之鳥船命は建御雷神の乗った船の船神(=航海安全の神)で、『古事記』には天鳥船神と出て来ます(△7のp61)。『日本の神様[読み解き]事典』には「天鳥船神を主祭神として祀る神社はほとんどない」と書かれて居ます(△1のp177)。
ところで、真金町と言ったら旧赤線地帯です(△9のp124、大鷲神社も地図に載って居ます!)。まぁ、吉原のお酉様を勧請したという経緯からも解りますね。私ら「山の手」の少年は「大鳥神社なんかに行ったらダメよ」と母親に注意されてました。もし興味が有るなら是非夜行く事を勧めます、ハッハッハ!
(-_*)
私が訪ねた関東の「おおとり神社」は以上の4つです。以下はインターネットで調べた神社です。ネットで検索する時に土師氏の祖の天穂日命(※6−1)を条件としました。そうしたら以下の2つが掛かりました。
(5)埼玉県加須市麦倉の鷲(わし)神社
鷲(わし)神社(埼玉県加須市麦倉124)
祭神:天穂日命
明応期(1492〜1501年)に鷲明神 −この辺りで鷲明神と言われるのは鷲宮神社(→後出)でしょう− を勧請して創建。近在には鷲神社が多いそうです。読みは多分「わし」です。
(6)埼玉県大和田町の鷲(わし)神社
鷲(わし)神社(埼玉県さいたま市見沼区大和田町2)
祭神:天穂日命
中世に鷲宮神社(→後出)を勧請して創建。
私が訪ねた関西の「おおとり」神社は、冒頭の大阪府堺市の大鳥神社とこれから紹介する滋賀県甲賀市の大鳥神社の2社です。関東の様に「酉の市」が無い関西では単純に大鳥神社と書きます。ここには2010年9月9日に信楽の里や紫香楽宮跡をレンタサイクルで回った後で来ました。ここは大阪よりは涼しく早くも秋の感じがします。
大鳥神社(滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野)
祭神:素戔嗚命・大己貴命・奇稲田姫命
祭神を見ると出雲系で、社殿は田舎にしては大変立派なものです。その理由は大原祇園と呼ばれている事から解る様に京都の祇園社(=八坂神社)の系列です。これで出雲系の祭神も納得です、即ち祇園社では素戔嗚命は牛頭天王と同一視されて居ます(←本地垂迹説(※12−2))。詳しくは
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
を参照して下さい。
昭和63(1988)年に書かれた説明板には、社伝に拠れば「陽成天皇の元慶6(882)年に伊賀国阿拝郡河合郷篠山獄より大字大原中に勧請され、その後この地に遷座し大原山河合寺と呼ばれた」と在ります。要するに神仏混交(※12)です。当時は「坂本の日吉神社に準じられて居た」と続き「大原祇園は応永22(1415)年に始まった」と在ります。そして「織豊時代には川合祇園社と呼ばれ牛頭天王が親しまれ、今でも氏子からは「てんのんさん」と呼ばれる」そうです。そして大鳥神社に成った経緯は「明治元(1868)年に旧大原ノ荘の「大」と鳥居野村の「鳥」を採り「大鳥」とした」と在ります、アチャー〜!
この神社は私が求めている「おおとり」神社とは全く関係無しです。私は今迄神社は何100回も調べて居ますが、こういうドタキャンを食らったのは初めてです。しかし調べてみないと解らないのも事実です。説明板に拠ると「大正5(1916)年に本殿を残し拝殿等を焼失し大正9(1920)年に復興」と在ります。
でも折角ですから写真を載せましょう。
左が焼失を免れた本殿、右が拝殿入口の真っ赤な門です。
土師一流催馬楽神楽、嘗ては土師宮(はじのみや)と言った
埼玉県北葛飾郡鷲宮町
次の2回訪問
03年12月9日
05年4月10日
祭神は天穂日命(※6−1)・武夷鳥命・大己貴命(=大国主命)で何れも出雲の神です。
ここで「大鳥/大鷲/鷲」など(読みは何れも「おおとり」)の語源について探って置きましょう。鷲(おおとり)という字は普通は「わし」と読みますね、そう eagle のワシです。そして関東地方に多い「おおとり神社」は元々は「土師(はじ)の宮」と言われ「大鳥大明神」も元々は「土師の神・土師大明神」と言われて居たのです、つまり
「土師(はじ)」→「鷲(わし)」→「鷲・大鷲(おおとり)」
に変化した訳です。
又、穀物の守護神のことを大年神・大歳神(おおとしのかみ)と言う所も在り、正月年始めにその年の豊作と無事を祈願する神ですが、本居宣長の説に拠ると
「穂落し(ほおとし)」→「大年・大歳(おおとし)」
→「大鳥(おおとり)」
で、皆語源は一つで同じ意味らしいのです(△1のp281)。私は「酉の市」と「土師氏」の間に、何らかの関係が有ると思います。
土師氏(※22)(←【脚注】を是非参照して下さい)は古墳などに埋葬する埴輪(※22−1)や土師器(※22−2)の製作に従事した一族です。そして土師氏の祖神・天穂日命(あまのほひのみこと)(※6−1)こそ高天原直系の「稲穂の霊力の化身」であり出雲臣の祖神でもあるのです。これで「穂落し」と天穂日命が繋がります。
埴輪と言うとその典型が古墳ですが、先ず堺の地図をご覧下さい。ここ堺市鳳北町から北東2km〜5kmの範囲では日本最大の面積を有する仁徳陵古墳を中心とする百舌鳥古墳群(※24)が在る所です。正に
「古墳在る所に埴輪在り、埴輪在る所に土師氏在り」
で、ここから東に3.3km程のニサンザイ古墳の少し南に土師町という地名が在るのです。そして古墳群の名称・「百舌鳥」、これは小鳥のモズのことですが、これは「鳥トーテム」の強力な部族の存在を暗示して居ます。それは大鳥氏を措(お)いて他に有りません。
因みに大阪でもう一つ「土師」の名が付く所が近鉄南大阪線の土師の里駅(大阪府藤井寺市)ですが、ここは先程の仁徳天皇の父の応神天皇陵古墳を中心とする古市古墳群(※26)が在る所です。最早地名では「土師」という名は残って居ませんが、ここには道明寺天満宮が在り、天満宮の祭神は菅原道真、菅原氏は「土師氏」の分流なのです(※22)。又ここには天夷鳥命(あまのひなどりのみこと)と野見宿祢を祭神とする土師神社が在ります。そして「土師氏は代々この地に住み、天穂日命とその子・天夷鳥命をその丘に祀り、毎年8月1日に盛大な祭礼を行なった」と言い、それが現在新暦の9月1日に行われる八朔大祭なのです。ところで、天夷鳥命は天穂日命の子で、天穂日命は千家氏(せんげし)(※22−4) −代々出雲大社の宮司を務める− や土師氏の祖とされて居ます。
これでもう疑問は解けましたね、つまり天穂日命の子・天夷鳥命で正に「鳥」であり
「穂落し」 → 天穂日命
天夷鳥命 → 鳥
と成ります。そうなると「酉の市」の祭礼は、時期的にも稲穂の収穫感謝祭であり、大年神(或いは大歳神)を祀ることと対を為して居ます。又、天夷鳥命は鄙びた地域を平定した武神とも言われ、日本武命と同じ性格を持つ神と考えられます。
そして関東地方南部で演じられる土師流里神楽(※28)が始まったのが埼玉県鷲宮町の鷲宮(わしみや)神社の「土師一流催馬楽神楽」(国指定重要無形民俗文化財)からだと言われ、この神社も古くは「土師の宮」と言われ近隣では「お酉様」と呼ばれて居ます。御祭神は土師の里の土師神社と同じく天穂日命とその子・武夷鳥命です。そして社伝に拠れば何と、景行天皇期には日本武尊が当社の御神威を崇敬し社殿を造営しこの時に相殿に武夷鳥命を奉祀した、と在ります。更にここから15km位西北には埼玉古墳群が在り、羽生市が在ります。地名の埴生や羽生(読みは共に「はにゅう」)は土師氏所縁の地 −埴土(はにつち)を生み出す所− なのです。埴土は古墳に埋める埴輪を造る原料です。
これで「酉の市」の起源が明らかに成り、大鳥神社−土師氏の関係が明らかに成りましたが、これに更に日本武尊が絡んで居る様な気がします。
そもそも日本武尊の白鳥化成伝説が、何か取って付けた様な唐突な形で登場します。次は日本武尊を調べる必要が有ります。
ところで土師姓の始めは「相撲の祖にして埴輪制度」を作った野見宿禰(※22−3)なのですが、その野見宿禰が領地を貰い神主に成ったという伝承を持つのが先程の石津神社でした。
この神社は単独の神社よりも神社群と捉えた方が良い様に思われます。何故かと言うと、久伊豆神社は今の埼玉県の元荒川沿いに分布している特異な神社群(←全部で30社位在ります)だからです。
▼下▼のファイル
2003年・人形の町−岩槻市(Town of dolls, Iwatsuki, Saitama, 2003)
に載っている「久伊豆神社が分布する地域と土師氏の重要拠点の略図」は「関東の土師氏」を考える上で非常に重要なので、ここにコピーして置きましょう。
−−−−▼(略図のコピー)
北葛飾郡鷲宮町/鷲宮神社(土師一流催馬楽神楽)
(嘗ては土師の宮)
羽生 加須/玉敷神社
(=埴生) (久伊豆大明神)
▲熊谷
\_▲行田/さきたま古墳群
\_
↑\_▲久喜
│ \__▲蓮田
元荒川 \__▲岩槻/久伊豆神社
\
\_▲越谷
さいたま市
大宮区/氷川神社
■色:元荒川
▲ :久伊豆神社が分布する地域
■色:神社
■色:土師氏の重要拠点
−−−−▲
氷川神社(祭神:素戔嗚命・大己貴命・奇稲田姫命)(※g)は埼玉県に偏在する出雲系神社の代表です。
どうでしたか、
「関東の土師氏」は2003年12月31日の大晦日に[埼玉を”押し広げ”る旅#1]の武蔵忍城の中で「疑問」として提示し、続いて掲示板の議論に発表しました。しかし、それから10年以上が経過した2014年9月27日にやっと「関東の土師氏」が出来上がりました。尤も私の場合はそういう事がしばしば在るので余り気にしては居ませんが、アッハッハッハ!!
【脚注】
※1:大鳥神社(おおとりじんじゃ)は、大阪府堺市鳳北町に在る元官幣大社。祭神は大鳥連祖神・日本武尊。和泉国一の宮。社名は日本武尊が、死後大鳥と成って飛び去ったという神話に基づく。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1−1:日本武尊/倭建命(やまとたけるのみこと)は、古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命(おうすのみこと)。別名、日本童男(やまとおぐな)。大碓命は双子の兄。天皇の命を奉じて熊襲(くまそ)を討ち、後に東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣(くさなぎのつるぎ) −三種の神器の一つの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の別名− に依って野火の難を払い、走水(はしりみず)の海では妃弟橘媛(おとたちばなひめ)の犠牲に依って海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を征そうとして病を得、伊勢の能褒野(のぼの)で没したと言う。没後、白鳥化成伝説が在る。
※1−2:日本武の白鳥化成伝説(やまとたけるのはくちょうかせいでんせつ)とは、日本武が伊勢の能褒野で没した後、その屍が八尋白智鳥(やひろしろちどり=大きな白鳥)と化し御陵を出て大和国琴引原、河内国古市を経て最後に和泉国大野里に留ったという伝説。
※3:天種子命(あまのたねこのみこと)は、日本神話で、天児屋根命の孫(一説に子)。神武天皇の即位に天つ神の寿詞(よごと)を奏し、後に祭祀を司ったと言う。中臣氏の祖。
※3−1:天児屋根命(あまのこやねのみこと)は、日本神話で、興台産霊(こごとむすひこ)の子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、後に天孫に従って降った五部神(いつとものおのかみ)の一で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀を司ったと言う。中臣・藤原氏の祖神とする。
※4:酉の市(とりのいち、rooster bazaar)は、11月の酉の日に関東の大鷲神社/鷲神社/大鳥神社(何れも読みは「おおとりじんじゃ」、関東には多い)で行われる祭。初酉の日を一の酉と言い、順次に二の酉・三の酉と呼ぶ。特に東京下谷(今の台東区千束)の鷲神社の祭は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺迄賑わう。三の酉迄有る年は火災が多いという俗信も有る。お酉様。酉のまち。季語は冬。
※4−1:阿亀笹/お亀笹(おかめざさ)は、[1].イネ科タケ類の植物。丈低く叢生、1節から5本の側枝を出す。庭園に普通。東京吉原の鷲神社の酉の市で、この竹竿にお亀の面を下げるのでこの名を得たと言う。五枚笹。豊後笹。
[2].紋所の名。5枚の笹の葉を描いたもの。
※5:恵比須/恵比寿/夷/戎/蛭子(えびす)とは、夷と同源。七福神の一。元は兵庫県西宮神社の祭神の蛭子命(ひるこのみこと)。海上・漁業の神、又、商売繁昌の神として信仰される。風折烏帽子(かざおりえぼし)を被り、鯛を釣り上げる姿に描く。3歳迄足が立たなかったと伝えられ、歪んだ形や不正常な様の形容に用い、又、福の神に肖(あやか)ることを願って或る語に冠し用いたとも言う。
※5−1:十日戎/十日恵比須(とおかえびす)は、正月10日に行われる初恵比須。兵庫県西宮の蛭子(えびす)神社(=西宮神社)の他、京都建仁寺や大阪今宮戎神社の祭が名高い。宝を象(かたど)った縁起物を笹の枝先に付けて売る。季語は新年。
※6:天日鷲命(あまのひわしのみこと)は、出雲の国譲り神話に登場する神で、『日本書紀』の一書では作木綿者(ゆうつくり)として居る。古代の木綿(ゆう)とは楮(こうぞ)のことで織物繊維の原料にされて居た。又、天照大神が天岩屋戸に隠れた時、穀木綿(ゆう)を植えて和幣(にきて)を作ったことから麻植神(おえのかみ)とも言う。阿波の忌部連、弓削連、多米連、天語連などの祖神。
※6−1:天穂日命(あまのほひのみこと)は、日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)の際に生れた子。天孫降臨に先立ち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主と成る。出雲国造らの祖とする。千家氏(=出雲大社の宮司)はその子孫と言う。又、その子が天夷鳥命(あまのひなどりのみこと)で、武蔵国造や近江国造などの祖とされる。
※7:吉原(よしわら)は、この場合、江戸の遊郭。1617年(元和3)市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町に集めたのに始まる。1657年の明暦の大火に全焼し、千束日本堤下三谷(さんや)(現在の台東区千束)に移し、新吉原と称し北里/北州/北郭などとも呼ばれた。旧吉原を元吉原と呼び、新吉原をやがて吉原と呼んだ。江戸時代、公許の遊郭として庶民の生活と結び付いて、洒落本・人情本など江戸町人文芸発展の背景と成った。1956年に公布された売春防止法に依り遊郭は廃止。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※10:守貞漫稿(もりさだまんこう)は、(正しくは「守貞謾稿」と書く)随筆。喜田川守貞著。30巻、後編4巻。1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行。
※11:江戸名所図会(えどめいしょずえ)は、地誌。斎藤幸雄編、子の幸孝補修、長谷川雪旦画。7巻20冊。1829年(文政12)自序、1834〜36年(天保5〜7)孫の幸成(月岑)刊。北斗七星の位置に配当して江戸の神社・仏閣・名所・旧跡を7巻に分け、絵を加えて説明。
※12:神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷して融合調和すること。奈良時代に始まり、神宮寺・本地垂迹説などはその現れ。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の運動に因って衰えた。神仏混淆。
※12−1:神宮寺(じんぐうじ/かみのみやでら)とは、神仏混淆の表れとして、神社に付属して置かれた寺院の称。明治維新以後神仏分離に拠って廃絶或いは独立。宮寺。神供寺。神護寺。神宮院。別当寺。謡曲「道明寺」に「神仏一如なる寺の名の...曇らぬ神の宮寺ぞたふとき」と在る。
※12−2:本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とは、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済の為に姿を変えて迹(あと)を垂れたものだとする、「仏主神従」の神仏同体説。奈良時代に始まり平安時代に広まり、鎌倉時代に神仏習合を支える理論として体系が完成、明治初期の神仏分離に因り衰えた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※22:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作、葬儀にも従事。
土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※22−1:埴輪(はにわ)は、古墳の上や周囲に立て並べた土製品。円筒埴輪と形象埴輪とが在り、後者は人物・動物・器具・家屋などを象(かたど)ったもの。前者は筒形のもので、弥生土器の祭祀用の器台から発展したとされる。垂仁紀「其の土物(はに)を始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号(なづ)けて埴輪と謂ふ」。
※22−2:土師器(はじき)は、弥生土器の系譜に繋がる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い。
※22−3:野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出し土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。
※22−4:千家(せんげ)は、出雲国造家の一。代々出雲大社の宮司に任ずる。
※24:百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)は、大阪府堺市に在る大古墳群。全長480m余で、日本最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む前方後円墳二十数基を始めとする百基以上の古墳から成る。
※26:古市古墳群(ふるいちこふんぐん)は、大阪府羽曳野市と藤井寺市に跨る大古墳群。全長420mの誉田御廟山古墳(応神天皇陵)などの前方後円墳の他、径10m程の円墳や方墳など約百基から成る。
※28:里神楽(さとかぐら)は、禁中の御神楽(みかぐら)に対して、諸社や民間で行う神楽。又、村里で行われる鄙びた神楽で、催馬楽(さいばら)などを催す。季語は冬。猿蓑「むつかしき拍子も見えず―」(曾良)。
※g:氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県大宮市高鼻町に在る元官幣大社。祭神は素戔嗚命/大己貴命/奇稲田姫命。孝昭天皇の代に出雲大社から勧請したと言う。武運の守護神で武家の尊崇が厚かった。例祭は8月1日。武蔵国一の宮。氷川大明神。関東に200社以上が在り、大多数は今の埼玉県に偏在する。
補足すると、氷川(ひかわ)は出雲神話に出て来る簸川(ひのかわ、現在の斐伊川(ひいかわ))である、とされて居ます。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。
△1−1:『現代こよみ[読み解き]事典』(岡田芳朗・阿久根末忠編著、柏書房)。
△2:『姓氏苗字事典』(丸山浩一著、金園社)。
△5:『にごりえ・たけくらべ』(樋口一葉著、岩波文庫)。
△6:『新訂 江戸名所図会5』(斎藤幸雄・幸孝編著、斎藤月岑校刊、市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま学芸文庫)。
△7:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。
△9:『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』(木村聡著、ちくま文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):和泉国一の宮の大鳥神社の地図
(全国の「おおとり神社」の総本社)▼
地図−日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):横浜の私の出生地や
高島町(高島嘉右衛門所縁の地)の地図▼
地図−日本・横浜市(Map of Yokohama city, Kanagawa -Japan-)
@補完ページ(Complementary):大阪堺の大鳥神社について▼
阪堺電車沿線の風景−浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)
@補完ページ(Complementary):吉原の鷲神社(おおとりじんじゃ)▼
浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)
@補完ページ(Complementary):原画ファイルの破壊状況と破壊時期▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
延喜式神名帳について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
加須市の紹介▼
2004年・鯉幟の町−加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
鳥越神社や土師臣中知などと浅草寺との関係▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
本地垂迹説について▼
2009年・年頭所感−聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)
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日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
信楽焼や紫香楽宮跡▼
信楽焼の狸(Raccoon dog of Shigaraki-yaki)
祇園社(=八坂神社系の神社)の本地垂迹説
(素戔嗚命と牛頭天王を同一視)▼
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
古墳と埴輪と土師氏の関係▼
前玉神社と「さきたま古墳群」(Sakitama shrine and tumuli, Saitama)
「久伊豆神社が分布する地域と土師氏の重要拠点の略図」は
「関東の土師氏」を考える上で非常に重要▼
2003年・人形の町−岩槻市(Town of dolls, Iwatsuki, Saitama, 2003)
「関東の土師氏」を最初に「疑問」として提示▼
2003年・「忍の浮城」−武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)
「関東の土師氏」を最初に発表した掲示板の議論▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)