信楽焼の狸
(Raccoon dog of Shigaraki-yaki)

-- 2016.03.21 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2018.02.06 改訂

 ■はじめ

 今回の題は狸(たぬき)(※1)、それもズバリ「信楽焼の狸」(※2、※2-1)です。
 「信楽焼の狸」は暫く脇へ置いといて、狸というと日本の昔話に良く出て来て中でも「かちかち山」(※3)は良く知られて居ます。この話は室町末期頃に成立したと思われますが仇討ちを”善”とした当時の倫理観を反映していますね。他に狸というと、狸親父(※3-1)や狸婆(※3-2)が在って狸顔(※3-3)という惚けた顔付きも在りますね。それから狸寝入り(※3-4)、これは本当は寝て無いのです。一方、「狸の腹鼓(はらづつみ/はらつづみ)」(※3-5)とか狸囃子(※3-6)という語も在りますね。それから私の好きな狸蕎麦(※3-7)が在りますね。饂飩と蕎麦が在りますが私が好きなのは蕎麦です。
 ところで【脚注】※3-7に在る様に「関西では油揚げを入れた掛蕎麦」を狸蕎麦と言いますゾ。私が東京から神戸に引っ越して間も無い頃、狸蕎麦と言ったのに油揚げが入っていたので店の女店長に「狸と言ったのに油揚げが入ってるよ。」と言ったら「関西ではこれがよ。」と言われた事を今でも覚えて居ます。狐の大好物の油揚げ狐蕎麦(※3-8)と思い込んで居たのです。しかし、私は何故油揚げが入ってる蕎麦を「たぬき(狸)」と呼ぶのか、今でも解・り・ま・へ・ん!
 私は稲荷神社への参拝が足りないのかもと考えましたが、否々、狐への信心では無くへの信心が足りないのだと気が付きましたが、「はて、狸の神様って居(お)ったかいな?」、...その答えは後で出て来ます!

 まぁ、世間では狐と同じく狸も人を化かすと言われて居ますので、居るならその内に出て来るでしょう。取り敢えず「信楽焼の狸」をスタートしましょう。

 ■大井川鐵道の神尾駅

 (1)05年

 私が初めて「信楽焼の狸」に出会ったのは05年8月13日(土)の午後、場所は大井川鐵道(株)神尾駅静岡県島田市神尾)です。尚、大井川鐵道本線の駅の住所は▼下▼を参照して下さい。
  2006年・大井川SL道中記(Go by SL, Oi-river Railway, 2006)

 山手側の線路脇の崖には「信楽焼の狸の置物」が置いて在りました(左の写真)。前には「賽銭」と書いた賽銭箱が在ります。
 私は神尾駅に「信楽焼の狸」が在るとは予期して無く、列車が走り出した時に見えたので慌ててデジカメの電源を入れエイヤーで撮りました。御陰でこの写真は少しブレて居るのです。

 この日は大井川鐵道に初めて乗り塩郷駅で降り塩郷吊橋を堪能しました。

 ところで皆さん、大井川鐵道は何故旧書体の「鐵」を使って居るか御存知ですか?
 これは「2005年・大井川の塩郷吊橋」の考察の中で既に説明してますが、新書体のという字は「金を失う」と書くので2000年旧書体に改めたのです。

 (2)06年

 06年8月30日(水)、略1年振りに大鐵(大井川鐵道の略)に乗りました。この日は
に乗り、午後には




























 ■東京浅草の鎮譲堂 - 狸神1

 05年8月15日(月)に東京浅草寺の境内の中で「信楽焼の狸」を見付けました(下の2枚の写真)。実はこの日は初めて大井川鐵道に乗った日の2日後なのです。その旅程は▼下▼を参照して下さい。
  2005年・大井川の塩郷吊橋(Swinging Shiogo, Oi-river Railway, 2005)

 私は浅草へは何度も行ってますが、この狸に気が付いたのは今日が初めてです。右が狸の拡大です。それで説明板(下の写真)に拠ると、この建物は鎮譲堂と言い「おたぬきさま」を祀って居ます。この狸は防火/盗難除/商売繁盛に御利益が有り、毎年3月17、18日「鎮護大使者御祭典」が行われて居ます。狸は大使者なんですね。
   鎮護堂の説明板↑  ↑狸

 狸が境内に棲み付き、その乱行を鎮める為に明治5(1872)年に伝法院に狸社を祀ったのが最初の因縁で、明治16(1883)年に当地へ移り堂宇を鎮護堂に改めたと在ります。
 境内には昭和38年建立幇間塚が在り、久保田万太郎の
  またの名の たぬきづか
   春ふかきかな

の句と幇間一同(※4、※4-1)の名が刻まれているそうです。幇間のことを「たぬき」と呼んだ因縁です。
 尚、現在の堂宇は大正2(1913)年に再建されたものです。

 鎮護堂の「おたぬきさま」大使者と在りますから、稲荷社の狐/天満宮の牛などと同じ様に神使(※5)として神に仕えています。冒頭で「はて、狸の神様って居(お)ったかいな?」と言いましたが、もうこれは狸の神様(=狸神)と言って良いでしょう(△1のp398)。更にこの本には「また鎮護のチンゴから連想したものか、近くにあった吉原玉の井の遊女たちや花柳界の人々の参詣が特に多かったといわれている。」と在ります(△1のp398)。勿論、遊女たちがチンゴから連想した物は「ちんこ」です。遊女たちはこの様な連想ゲームがとても好きで、他にも「まら」や「いちもつ」や「てんぐ[の鼻]」などが在ります。

 ■信楽 - 「信楽焼の狸」の聖地

 (1)聖地訪問

 信楽と言えば信楽焼が有名ですが、10.09.09(木)には信楽に行って来ました。この日は滋賀県のローカル線・JR草津線に乗り、貴生川駅~信楽駅三セク線の信楽高原鐵道に乗って行きました。そうです、ここは「信楽焼の狸」の聖地なのです。全国の「信楽焼の狸」はここで生まれて居るのです、建前は。今では各地で「信楽焼の狸」が生まれて居るかも知れません。
 そして序でに甲賀駅にも行き甲賀忍者の里を散策しました。因みに、貴生川駅からは近江鉄道本線も出て居り、近江鉄道の経営主体は所沢の西武鉄道で、政商(※11)の堤康次郎(※11-1)は近江商人なのです。
 尚、1991年JR西日本から信楽線に乗り入れの快速列車とJR信楽線とが正面衝突した事故が大きく報道されましたが、私は93年秋に仕事を辞め -第3の人生の開始(△2のp102)- て94年春にJR信楽線に乗って信楽に来ていますので、信楽訪問は2度目です。
 信楽や信楽高原鐵道の地図は▼下▼をご覧下さい。
  地図-日本・琵琶湖(Map of Lake Biwa, Shiga -Japan-)



 右と右下の2枚が帰りの信楽駅ホームで撮った写真です。
 先ず右の写真は私が狸の家族に囲まれている写真です。狸の御主人は杯(さかずき)を右手に持って奥さんに催促して居ます。
 私が子供の頃には高さ20cm~1m位の「信楽焼の狸」の置物が、私の家や近所の家に在りました、何かの縁起物でしょうか(?)。私の家の狸も可なりデカかったです(→後出)。

 右の写真を見て下さい、狸が沢山居ます。狸は○に八の字のマークが入った徳利を持ち雨避けのを被って居ます。
 どうも狸のオヤジ(親父)はが好きの様です。そして何故かカエル(蛙)も居ます。蛙はと関係が深いですね。
                         ↑   ↑  ↑
                         蛙   蛙  蛙

 (2)「信楽焼の狸」の歌

 ところで信楽焼と言えば「♪たんたん狸のきん●まは、風も無いのにブラブラ♪」という「信楽焼の狸」の歌を子供の頃から歌って居ましたが、この話は「考察・その1 - 「信楽焼の狸」の歌」の章(→後出)でじっくりと論じます。

 (3)童歌の豆狸と「信楽焼の狸」のデザイン

 ところで関西の童歌(わらべうた)に豆狸と題して

    ♪雨のショボショボ降る晩に
     豆狸徳利もって酒買いに
        「今晩は!」
     着いたお城の蓮池で
     貂(てん)が化かす気 気をつけよ
     「風が出たかよ!」♪


という歌が載って居ます(△4のp127)。注を見ると、この歌は「京都・大阪を中心に兵庫・奈良・香川・高知等にも類歌の存する唄。」と在ります(△4のp128)。信楽焼の狸は、どうもこの童歌がイメージの原形の様な気がします。
 信楽焼の狸の特徴は徳利、徳利と反対の手には財布、雨避けの、そして腹鼓(※3-5)を打つ為の出っ腹です。この格好と上の童歌とはイメージが重なります。

 最終的に「信楽焼の狸のデザイン」が何時確定したのかは判りませんが、信楽焼の狸の置物は幕末の頃から造られ今では全国に拡散して居ます。例えば大井川鐵道の神尾(静岡県)とかトロッコ保津峡駅(京都府)(→後出)です。
 信楽焼は蛙目(かろめ)とか木節(きぶし)と呼ばれる良質の陶土を産し鎌倉以後というのが定説です(←聖武天皇の頃とする俗説が在る)。元々が主体の農民生活向け陶器でしたが、室町後期~江戸前期茶と茶器のブームで俄然脚光を浴び武野紹鴎/千利休/小堀遠州などから注文が来ました。しかし茶ブームが去ると再び日用雑器に戻り、今では植木鉢や上の写真で見た狸が主体です。これらは何れも型抜きと言って型に嵌めて作ります(△5のp65~67)。
 信楽には陶器神社が在ります(→信楽の地図)。陶器神社は「陶器の里」に在り、私が知って居るのは有田(←陶山神社と言う)や大阪の坐摩神社(いかすりじんじゃ)にも在ります。

 ■嵯峨野観光鉄道のトロッコ保津峡駅

 京都府の嵯峨野観光鉄道は京都嵯峨駅~嵐山駅~亀岡駅の間をトロッコ列車を走らせて居ます。

 狸は徳利を持つ手ではない方の手に財布を持って居ます(左の写真)。左がトロッコ保津峡駅の信楽焼の狸です(10年5月3日撮影)。

←┐
 ├─「きん●ま」も見えている
←┘
 嵯峨野観光鉄道や保津峡の地図は▼下▼をご覧下さい。
  地図-日本・京都府(Map of Kyoto prefecture, -Japan-)

 嵯峨野観光会社のトロッコ列車は▼下▼をご覧下さい。上のトロッコ保津峡駅を山の上から俯瞰して居ます。
  2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)

 さて、一応これで私が撮った「信楽焼の狸」は終わりです。これからは狸神 -鎮護堂の狸神を既に確認しました- をもう少し追い掛けてみたいと思います。というのは私は「証城寺の狸囃子」「分福茶釜」は狸神ではないか、と思って居るからです。

 ■証城寺の狸囃子 - 狸神2

 (1)童謡「証城寺の狸囃子」

 これは狸の腹鼓(※3-5)や狸囃子(※3-6)の話 -月夜の晩にが腹鼓をするという話- が下敷きに成って居ます。「証城寺の狸囃子」野口雨情(※14)が千葉県木更津市を訪れた際、この地方に伝わる証誠寺の狸囃子伝説」(※15)を紹介されて作詞したものを児童雑誌「金の星」(大正13年12月号)に発表しました。それに中山晋平(※14-1)が一部改作し作曲したものを、同じく「金の星」(大正14年1月号)に発表して居ます。大正14年は1925年です。
 実際の寺の名が証誠寺(=證誠寺)から証城寺に変えられて居るのは、恐らく「寺の和尚が狸と一緒に狸囃子を踊るなど不敬だ」というクレームが付く事を避けた為と、架空の寺にした方が童謡として全国で唄い易い為だと思います。実際の証誠寺は房総西線木更津駅の西600m位の所に在り文政期(1818~30年)創建されたものです。
 それでは「証城寺の狸囃子」の歌詞を載せましょう(△4-1のp130)。

    <童謡「証城寺の狸囃子」の歌詞>
                    作詞:野口雨情、作曲:中山晋平

    証(しょう)、証(しょう)、証城寺(しょうじょうじ)
    証城寺の庭は
    ツ、ツ、月夜だ
    皆(みんな)出て来い来い来い
    己等(おいら)の友達(ともだち)
     ぽんぽこぽんのぽん

    負けるな、負けるな
     和尚さんに負けるな
    来い、来い、来い、来い来い来(こ)
    皆(みんな)出て、来い来い来い

    証(しょう)、証(しょう)、証城寺(しょうじょうじ)
    証城寺の萩(はぎ)
    ツ、ツ、月夜に花盛り
    己等(おいら)は浮かれて
     ぽんぽこぽんのぽん

 狸囃子がとても軽快なリズムで表現されて居ます。この歌は1929(昭和4)年平井英子が歌いヒットして居ます。

 (2)証誠寺の狸囃子伝説

 伝説(或いは民話)が何時頃出来たかは不明ですが寺の創建より後である事は確実ですので幕末~明治初期で、そんなに古くは有りません。証誠寺(=證誠寺)の在る辺りは鈴森と呼ばれて居たらしく創建の頃は木更津は寂しい漁村でした。

    <証誠寺(證誠寺)の狸囃子伝説>

 鬱蒼と竹薮が茂り夜に成ると魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈し、証誠寺(證誠寺)の住職は居なくなり寺は化け物の棲み家と成ったと伝えて居ます。
 或る時、了然(りょうねん)という和尚が三味線を持って証誠寺に遣って来て、仏様の埃を払い蜘蛛の巣を取り除いて取り敢えず体を休める場所を確保しました。しかし未だ畳は破れ屋根には穴が開いて居ました。
 そこで大根を鍋に入れ囲炉裏で炊いて夕飯を食っていると化け物たち -一つ目ろくろっ首など- が出て来ましたが、度胸の座ってる了然は「何じゃ、喧しいだけじゃのう」と言って、その場で寝て仕舞いました。化け物たちは夜は騒いで居ましたが朝に成ると静かに成りました。
 了然は翌日も寺の修繕を行い寺は漸く人が住める様に成り、又々大根を炊いて食い、風流にも三味線を鳴らし端唄などを唄うと寝て仕舞いました。その日の事です。夜が更けると、が草茫々の寺の庭に集まり、

    ぽんぽこ、ぽんぽこ、ぽんぽこぽんのぽん

狸の腹鼓(狸囃子)を打ち鳴らしました。この音で起きた了然は数10匹の狸を見付け「昨日の化け物たちは此奴らの仕業であったか」と理解し、了然も三味線をジャンジャンと鳴らすと狸どもは更に腹鼓を激しくリズムを揃えて来ました。
 了然は翌日は庭を掃除し狸たちが集まり易い様にしました。狸の腹鼓はその翌日も翌々日も続きましたが、4日目の晩は狸は現れませんでした。不審に思った了然は庭の竹薮を探すと大きな狸が腹を破ってんでました。この大狸は皆とリズムを合わせる為に死んだに違い有りません。了然和尚はこの大狸を哀れに思い懇(ねんご)ろに葬りました。
 それ以来、証誠寺では化け物たちは現れなく成り、月夜の晩には、

    ぽんぽこ、ぽんぽこ、ぽんぽこぽんのぽん

と、狸囃子が聞こえて来る事が有るという話です。

 境内には狸塚 -上の伝説中の大狸の墓- が在り毎年8月13日狸供養が行われて居ます(△6の(上)のp167~168)。又、境内には「証城寺の狸囃子」の童謡記念碑が在ります。尚、野口雨情の碑は、他に「十五夜お月さん」が東京都目黒不動尊、「七つの子」が北茨城市磯原町(←ここが野口雨情の生まれ故郷)、「赤い靴」が静岡県日本平/横浜山下公園/東京都麻布十番、「あの町この町」が宇都宮市鶴田町などが在ります。
 という事で「証誠寺の狸囃子伝説」/童謡「証城寺の狸囃子」の狸も狸神に加えましょう。

 ■分福茶釜 - 狸神3

 分福茶釜(※16)については、以前書いた
  「再び草の野に」-川俣('To the weed again', Kawamata, Saitama)

の中で少し出て来ます。















 ■その他の狸が登場する話

 「四国でも徳島と松山は狸の双璧と在る(△6の(下)のp169)様に、阿波(徳島)と伊予(松山)、それに讃岐(香川)には狸の話で溢れて居ます。私は2005~11年四国を旅して居ますので、その事情は良く解ります。「阿波の狸合戦」の様子は▼下のページ▼に在ります。
  2005年・四国各駅停車の旅(Travel of Shikoku by local train, 2005)












 ■考察・その1 - 「信楽焼の狸」の歌

 (1)「信楽焼の狸」の歌(=「たんたん狸の」)は替え歌

 信楽焼と言えば「♪たんたん狸のきん●まは、風も無いのにブラブラ♪」という「信楽焼の狸」の歌を子供の頃から歌って居ました。前にも書きましたが、私が子供の頃は私の家や近所の家に結構「信楽焼の狸」が置いて在ったのです、理由は解りませんが。だから「♪たんたん狸のきん●まは...♪」の歌は私だけで無く近所の子供が皆歌って居ました。そこで「♪たんたん狸のきん●まは...♪」の歌をこの章では徹底的に考察して見ます!
 先ず「♪たんたん狸のきん●まは...♪」の歌を紹介しましょう。

    <「信楽焼の狸」の歌の歌詞 - 横浜の野毛山版>

    たんたん狸のきん●まは
      風も無いのにブラブラ
    そ~れを見ていた 親ダヌキ
      負けずに チ●ポをブラブラ   *.自分の一物を出し、
                         信楽焼の狸と張り合う
    たんたん狸のきん●まは
      風も無いのにブラブラ
    そ~れを見ていた 子ダヌキは
      父ちゃん オレのは毛が無いよ

    たんたん狸のきん●まは
      風も無いのにブラブラ
    そ~れを見ていた 親ダヌキ
      お前も その内生えるだろう

    たんたん狸のきん●まは
      風も無いのにブラブラ
    そ~れを見ていた 牝ダヌキ
      慌てて マ●コを締め直す    *.子供でも、きん●ま、チ●ポと
                         マ●コの対応関係を正しく把握

 私らが子供の頃の歌詞を思い出して見ると、大体こんな文句だったと思います。この歌は色々な替え歌が多数在り、又地方に依っても異なり、更にH度(=嫌らしさ)も千差万別です。恐らく替え歌の数は数百に成ると思います。ここに挙げたのは私が住んでいた横浜市西区の野毛山動物園の近く1955年(小学1年)頃の一例に過ぎません。
 しかし、この歌がリアルで在ったのは、私の家や近所の友達に家に大きいのやら小さいのやらの「信楽焼の狸」がごろごろして居たのです。だから私は「何かの縁起物でしょうか(?)」と書いた訳です。私の家にも多分80cm位の「信楽焼の狸」が在りました。ここで私が小学1年の時は身長がどの位有ったのか?、仮に1mだったとすると狸の像は私の身長の首の高さ迄有ったのです。

 (2)「タバコ屋の娘」が「たんたん狸の」の元歌

 しかし戦後のラジオで「向こう横町の煙草屋の、可愛い看板娘...」という歌が在ったのを覚えて居ますが、この歌が元歌ではないか?、と私は思います。何故なら似ているからです。戦後間も無い頃のラジオは結構戦前の歌謡曲などを放送して居ました。こっちは知らないものですから皆「戦後」の歌だと思って聴いてましたが、こっちが大人に成って初めて「戦前」の歌と気が付いた曲は沢山在ります。例えば『うちの女房にゃ髭がある』(←エルニーニョのお薦めの歌)という歌など小学校で替え歌にして歌ってましたから私はてっきり「戦後」の歌だと思って居ましたが、これは作詞:星野貞志、作曲:古賀政男、歌:杉狂児、美ち奴1936(昭和11)年の「戦前」の歌なのです。

 ちょっと脱線しましたが、ここから後は『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の助けを借ります。すると「まもなくかなたの」(←「間も無く彼方の」の意)という項目に、この歌は「タバコ屋の娘」(作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一、歌:岸井明、平井英子)という歌で昭和12(1937)年にヒットしたそうです。子供の記憶力というものは大したもので子供の頃に口ずさんでいた曲は覚えているものです。そして私が思った通り、この「タバコ屋の娘」が「たんたん狸の」の元歌です。
 ところがです。「タバコ屋の娘」(「向こう横町の煙草屋の」)はメロディーの一部を「まもなくかなたの」という讃美歌から採っている、と書いて在ります。つまり、この歌自体が替え歌なのです!

 (3)原歌は「まもなくかなたの」という讃美歌

 それに拠ると、「まもなくかなたの」という讃美歌は「原歌は1864年にバプテスト教会のアメリカ人聖職者、ロバート・ローリー(Robert Lowry)によって作詞・作曲された。新約聖書・ヨハネの黙示録第22章で預言されている「新しいエルサレム」(神の都)での再会に期待する内容であり、葬儀の場で歌われることがある。日本へは明治初期に導入され、「流水天にあり」との訳詞で歌われた。」と記されて居ます。又、「日本の代表的な賛美歌集である日本基督教団『讃美歌』・『讃美歌21』には載っておらず、福音派の諸歌集に掲載されている。」と在る通り、私の持っている讃美歌集(△8)には載って居ません。
 以上を纏めると▼下▼の様に成ります。

    <「信楽焼の狸」の歌 - たんたん狸の>

  「まもなくかなたの」という讃美歌が原歌
    ロバート・ローリー(Robert Lowry)が1864年に作詞・作曲
    日本へは明治初期(1880年頃か)に文語訳「流水天にあり」
    (間も無く、口語訳「まもなくかなたの」が出る)
              │
              ↓
  口語訳「まもなくかなたの」の一部が
    替え歌「タバコ屋の娘」(「向こう横町の煙草屋の」)に成り、
      1937年にヒット
      (作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一、歌:岸井明、平井英子)
              │
              ↓
  戦後(1945~55年頃)「信楽焼の狸」が流行る
              │    │
              │←───┘「信楽焼の狸」がリアルに
              ↓
  「向こう横町の煙草屋の」が「信楽焼の狸」の歌(「たんたん狸の」)の元歌
              ↑
              │
    「信楽焼の狸」の歌(「たんたん狸の」)は数百の替え歌

 *.1955年頃から始まった高度成長で、は何処へ行ったやら?

 日本は1955~70年頃高度成長「信楽焼の狸」は殆ど見なく成りました。でも私は「戦中的な物」が残っていた1960年以前が何故か愛着を感じ、何故か懐かしいのです!!
    {この章は2017年10月14日に最終更新}

 ■考察・その2 - ”縦社会”の効用

 (1)ガキ大将と”縦社会”

 私は1960年以前の時代 -私が物心(ものごころ)が付いてから10歳(小学校4年)位の年齢- に物凄く愛着を感じます。あの時代は未だ日本は貧しかったですが何故か面白かったですね。上の「信楽焼の狸」の歌が子供たちの間で流行ったのが私が小学校1~3年生位、即ち55~57年位だったと思います。この頃は学校で同級生と遊びました(←既に記しましたが私は『うちの女房にゃ髭がある』を同級生と歌った不良少年でした)が、家に帰って来ると今度は近所のガキ大将(←姓名も知ってますがそれは伏せて置きます!)が居て、このガキ大将が中学2年生位で、以下中1、小6、小5、...と各学年に仲間が居て、小学校1年生など1番下っ端なのです。でも子供の頃の遊び、例えば将棋軍事将棋面子(めんこ)ベイゴマなどは全て”縦社会”から覚えました。それと野球をする時に「友だち皆がグラブを新聞紙を折って作り、それを使って遣りました。新聞紙ですから30分も使うと破けて仕舞うのです。漸くグラブを買って貰ったのは小学校高学年です。私はグラブの折り方は疾っくの昔に忘れて仕舞いましたが、折り鶴などよりも”折りグラブ”が懐かしいですね。」「相撲はモンゴル勢に翳り」に書いて居る「友だち」とは、隣町の”縦社会”に属して居ました(△2-1のp77)。{このリンクは2018年2月6日に追加}
 因みに、相撲は”縦社会”の仲間たちとは遣らなかったですね、相撲は学校で同級生たちと遣りました。”縦社会”で遣ったら上級生が勝つに決まってますから。この様に暗黙裡に一定のルールが在ったのです。

 実は上の<「信楽焼の狸」の歌の歌詞 - 横浜の野毛山版>はこの”縦社会”の仲間たちが歌って我々の間で流行りました。そして最後の歌詞の「そ~れを見ていた 牝ダヌキ 慌てて マ●コを締め直す」は、我々”縦社会”の仲間たちでワアワア言い乍ら作ったのです、もう一同大笑いでしたね!

 遊びでは他に防空壕探検などが面白かったですね。当時は正に戦争中の遺物である防空壕が未だ口を開けて放置されて居ました、これなど「戦中的な物」の代表格です。私の家は野毛山公園野毛山動物園が近くに在ったので、その為に防空壕跡が多かったのかも知れません。これは恰好の遊び場で私らは防空壕で戦争ごっこをして遊びました。又、 ”縦社会”では冬になると焚き火をし、それにサツマイモ(薩摩芋)を突っ込み焼芋にして食べたのは旨かったですね。しかし私は戦後間も無い頃、何にでも母がサツマイモを”量を増やす”為に入れ「サツマイモ尽くし」を経験して居ますので私はサツマイモが苦手です。そんな私が今は沖縄に住んで居ますが、沖縄ではサツマイモ -沖縄ではトウイモ/カライモ(唐芋)と呼びます- の焼芋はスーパーで殆ど一年中売って居ます。沖縄では江戸時代には唐芋は主食の補完食だったのです。

 今の小学生たちはこの様な不良っぽい”縦社会”は余り経験した事が無いのでは、と思います。ガキ大将を中心にした”縦社会”は不良の温床という一面も在りますが、今の様に親や先生や学校といった管理主体の「良い子ちゃん」主義では無い、自立性主体性が、そして狸の歌詞を皆で”作詞”した様に”創意と工夫”を大いに発揮して居たのです。焚き火禁止で焼芋の本当の旨さを知らない今の子供らは将来禍根を残すと思って居りますゾ、ブワッハッハッハッハ!!

 (2)私の「ヰタ・セクスアリス(vita sexualis)」

 私は忘れられない経験をして居ます。これも”縦社会”の仲間たちとの交流で私が小学2年の時(=1956年)の夏休みでした。この”縦社会”の2、3年上級の仲間が日が暮れてから「これから野毛山動物園の近くへ行こう」と誘いに来たので一緒に行きました。さっき野毛山動物園が近くに在ったという話をしましたが5分も在れば行けるのです。又、子供時代の2、3年上級と言うと随分大人びて居るのです。
 当時の横浜は米軍の兵士が可なり居て -厚木や横須賀には米軍基地が在り横浜には外人居留区が在った- 、夕暮れ時に成ると日本人のパンパン(※18)などを連れて若い兵士が歩いて居る姿は物心(ものごころ)が付いた頃から目にして居ました。そういう風景は横浜では日常的で有り触れて居たのです。現に私の家の近くには”パンパン置屋”(※18-1)が在りました。だから当時の横浜の子供たちは他府県の子供に比べると”相当ませていた”と思います(△2-2のp134~149)。
 もう辺りは真っ暗です。私たちは動物園の周辺を歩いていると上級生は「うっ、あの車は怪しいぞ」と言って叢(くさむら)に隠れました。私は叢から外車を見ましたが未だ目が暗闇に慣れて無いので良く見えません。私たちは5~10分位じっと待って居ました。その間に多分夏休みの宿題の話をしたと思います。因みに、私は宿題をしないのでクラスでは評判悪かったです。但し、夏休みが明けると昆虫採集の標本を校内の展示会に出し(△2-3のp52~63)、これはちゃんと展翅(※19)をしているし珍しい昆虫も結構在ったので友だちのお母さんが感心してました。私が自慢出来るのは昆虫採集の標本だけでした。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 因みに、私は4歳位からアリ(蟻)に興味を持ち蟻を飼い始め、小学1年頃からはカブトやクワガタの甲虫やトンボやチョウ(蝶)に成り -私のフィールドは野毛山公園と野毛山動物園です- 、学校の授業をさぼって学校の図書館で虫の名前を調べたり展翅の仕方を学んだりしました。展翅するには展翅板が要るのです。それで小学2、3年の年に小遣いを貯めたのと親にも出して貰い、展翅板/本格的な捕虫網/虫を殺す薬や防腐剤を買いました。昆虫採集は孤立無援、全く私一人です。この頃に野毛山公園で、やはり一人で昆虫採集をしている人と友だちに成りました、この人も本格的な標本を作ってる人で岡本さんと言い、彼は私より3、4年上です。岡本さんには色々な事を教えて貰いました。その彼が中学2年の夏に自分は受験勉強をしなければ為らないので昆虫採集はもう出来なく成ったと言った時をまざまざと覚えて居ます。

 何分か待って居ると、走らない車がユ~サユ~サと揺れ出しました、これには驚きましたね。何で走らない車が揺れるんだ??
 目を凝らして車の中を良~く見ると若い兵士が上半身裸で何か運動をしています、下半身は見えません。尚も良~く見ると男の下に女が居ます。女の運動は激しく成り、今度は女がキスをし乍ら上に成りました、やはり女も上半身裸です。女はアメリカ人です。女は下半身は衣装を着けていて、即ちパンティーだけ下ろして性交して居るのです。もう私は頭に血が上り、気が付くとチ●ポが勃起して居ます!!
 私はこの時(小学2年の時)、生まれて初めてチ●ポが勃起しました。小学2年の夏が早いのか遅いのかは解りませんが、これが私の「ヰタ・セクスアリス(vita sexualis)」(日本語に訳すと性的生活振り(△10のp114)です。これはラテン語です。そしてカー・セックス(←当時はこの言葉は未だ無い)を見たのも、この時が最初です。因みに、森鴎外(※20)の『ヰタ・セクスアリス』は明治42(1909)年7月発行の雑誌「スバル」に載ったもので「スバル」は月末に発売禁止に成って居ます(△10のp117)。
 しかし上級生が何故私を誘ったのか?、という事を考えると上級生はこう成る事を予想して居たと思います。即ち動物園周辺では日が暮れるとしばしば米兵のカー・セックスが行われ、上級生はそれを何度か見て居るのだ、という確信を持ちました。言わばチ●ポが勃起する事で私は”一皮剥けて”大人に成ったのです。すると私はこの上級生に感謝せねば為りません!
 この様に”縦社会”の効用は色々と有ったのです。
    {この章は2018年1月7日に追加、2018年2月6日に最終更新}

 ■信楽(紫香楽) - 詳細編


 ところで信楽と言えば紫香楽宮 -聖武天皇の離宮- が在ります。右が紫香楽宮跡で石柱には「紫香楽宮阯」と陰刻されて居ます。手前のチャリンコは信楽駅で借りたレンタサイクルで、これで信楽や紫香楽宮跡を巡りました。
 信楽高原鐵道の信楽駅と紫香楽宮跡駅は5つ程離れて居ますが私は上のチャリンコで回りました。無人の紫香楽宮跡駅にも侵入しました。初秋 -大阪は未だ暑いですが、ここは既に秋です- のサイクリングは気持ち良く吊橋なども在りました。
 紫香楽宮を語る時は恭仁京も同時に考える必要が有ります。即ち、聖武天皇が平城京を一時退いて恭仁京に遷都し(740年)、次いで紫香楽宮(離宮)を造った(742年)のは何故か?、という問題です。恭仁宮が在る京都府相楽(そうらく)郡加茂町、紫香楽宮が在る滋賀県甲賀郡信楽町、何れもはっきり言って”辺鄙”な田舎です。740年には藤原広嗣の乱(※31)が有り広嗣は討ちましたが未だ不穏な動きが燻っていて、辺鄙な地へ非難せざるを得なかったというのが真相です。しかし辺鄙な都は長く続かず恭仁京も紫香楽宮も744~745年には放棄されました。
 聖武天皇は仏教に対する信仰心が篤く東大寺の大仏国分寺/国分尼寺を建立しました。実は天皇は天平15(743)年10月15日に紫香楽宮に大仏(=盧舎那仏を造ることを発布して居ます。『続日本紀』には「天平十五年歳次癸未十月十五日発菩薩大願奉造盧舎那佛金銅像一体。...<中略>...乙酉。皇帝御紫香楽宮為奉造盧舎那佛像。始開寺地於是行基法師率弟子「草冠に寺」勧誘衆庶。」と書かれて居ます(△14のp175~176)。しかし、これも断念して居ます。

 ここで僧・行基が出て来ましたが聖武天皇と行基とは関係が深いのです。その聖武天皇の第2皇女が孝謙天皇称徳天皇です。重祚しているので2つの天皇名が在りますが、孝謙女帝は非常に不可思議で面白い!

              (*_@)

 この後、再びJR草津線に乗り甲賀駅で降り大鳥神社を取材しました。右の写真は甲賀駅前の甲賀忍者の銅像です。忍者発祥地の伊賀甲賀は現在それぞれ三重県と滋賀県に分かれて居ますが、両地点は非常に近い(直線距離で僅か17km)のです。伊賀忍者村についてはこちらです。
















 ■



















 ■結び - 


















φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:狸/貍(たぬき)は、[1].raccoon dog。哺乳綱ネコ目イヌ科の動物。頭胴長50~60cm、尾長15cm。夜行性で山地/草原にを作って巣とし、家族で生活する。一定の場所に糞(=溜め糞)をする習性が有る。毛色は普通は茶褐色で、四肢は黒。毛皮を防寒用鞴(ふいご)用とし、毛は毛筆に用いる。雑食性アジア東部特産。寒い地方では冬眠する。アナグマと混同され両者ともに狢(むじな)貒(まみ)と言われる化けて人を騙し、又、腹鼓を打つとされる。たのき。季語は冬。〈和名抄18〉。宇治拾遺物語8「猟師なれども、おもんばかりありければ、―を射害(いころし)、其のばけをあらはしけるなり」。
 [2].惚けた顔をし乍ら実際には悪賢いこと。又、その人。
 [3].「狸寝入り」の略。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:穴熊(あなぐま)は、[1].badger。哺乳綱ネコ目イタチ科の動物。穴居し、頭胴長約50cm、尾長20cmで、背は褐色、腹は黒色。タヌキに似るが、四肢が短く頑丈で、爪が大きい。ヨーロッパから日本まで広く分布するが、北海道には居ない。ムジナ(狢)はこの動物を指すことが多い。毛皮は防寒用、毛は毛筆及び刷毛の原料。アナホリ。ササグマ。貒/貛(まみ)。モジナ。季語は冬。
 [2].冬籠もり中の熊。季語は冬。
 [3].将棋の王将の囲い方の一。香車(きょうしゃ)の位置に王将が入り、金将・銀将で守りを固めるもの。
※1-2:狢/貉(むじな)は、[1].アナグマ(穴熊)の異称。垂仁紀「是の犬、山の獣名を―といふを咋(く)ひて殺しつ」。〈和名抄18〉。
 [2].混同して、タヌキをムジナと呼ぶ事も有る
※1-3:「同じ穴の狢(むじな)」は、一見別に見えても実は同類であること。多く悪人について言う。「同じ穴の狐(狸)」とも。

※2:信楽(しがらき)は、[1].滋賀県甲賀郡の南西部の町。
 [2].信楽焼の略。
※2-1:信楽焼(しがらきやき)は、信楽地方(滋賀県甲賀郡信楽町)から産出する陶器。鎌倉時代に常滑焼の影響のもとに開窯し、農具や雑器を製出。室町時代に及んで茶器を焼いて有名と成るが、今は再び雑器を造る。
※2-2:紫香楽宮/信楽宮(しがらきのみや)とは、聖武天皇の離宮742年(天平14)造営745年1~5月であった。その跡は、今の滋賀県甲賀郡信楽町黄瀬(きのせ)、又は宮町付近とされる。甲賀宮。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-3:聖武天皇(しょうむてんのう)は、奈良中期の天皇(701~756、在位724~749)。文武天皇の第1皇子。名は首(おびと)。光明皇后と共に仏教を信じ、全国に国分寺国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。
 補足すると、聖武天皇の第2皇女が孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)です。
※2-4:恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、740年(天平12)~744年迄、聖武天皇が滞在した都。今の京都府相楽(そうらく)郡加茂町/木津町/山城町一帯の木津川沿いの小盆地に位置し、東北端(加茂町)に恭仁宮が在った。正式の名称は大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)。

※3:かちかち山(―やま)は、昔話の一。室町末期頃の成立か。に婆を殺された爺の為にが復讐したという筋で、勧善懲悪の寓意と知恵の勝利、又、任侠復讐の精神を表したもの。「かちかち」とは兎が柴に点火する際の火打石のカチカチいう音に由来。
※3-1:狸親父/狸爺(たぬきおやじ)は、狡猾な年老いた男を罵って言う語。たぬきじじい(狸爺)。
※3-2:狸婆(たぬきばばあ)は、狡猾な老婆を罵って言う語。
※3-3:狸顔(たぬきがお)は、惚けた様な顔付き。
※3-4:狸寝入り(たぬきねいり)/狸寝(たぬきね)とは、眠っている振りをする事。空寝(そらね)。狸眠り。「―を決め込む」。
※3-5:「狸の腹鼓(はらづつみ/はらつづみ)」とは、[1].月の夜、狸が腹を打って楽しむという話。→狸囃子。
 [2].狂言の一。重習物(おもてならいもの)。牝狸が尼に化けて猟師に会い殺生を思い止まらせたものの、化けの皮が剥げ、哀願して命を助けて貰い、礼に腹鼓を打つ。
※3-6:狸囃子(たぬきばやし)とは、夜、何処ともなく聞えて来る祭囃子。俗に狸が腹鼓を打つのだと言う。江戸では番町七不思議の一つに成っていた。
※3-7:狸蕎麦(たぬきそば)は、関東で、天滓(てんかす)(=揚げ玉)と刻んだ葱(ねぎ)とを入れた掛蕎麦。関西で、油揚げを入れた掛蕎麦。
※3-8:狐蕎麦(きつねそば)は、甘辛く煮た油揚げと刻んだ葱(ねぎ)とを入れた掛蕎麦。関西では「たぬき(狸)」と呼ぶ。

※4:幇間(ほうかん、professional male entertainer)は、(「幇」は、たすける意)客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。太鼓持男芸者
※4-1:太鼓持(たいこもち)は、[1].遊客の機嫌を取り、酒興を助けるのを仕事とする男幇間(ほうかん)。末社(まっしゃ)。太鼓。好色一代女2「物に馴れたる―をつれ」。
 [2].人に追従してその機嫌取りをする者。太鼓叩き。


※5:神使(しんし/かみのつかい)とは、[1].神の使い。多くはその神に縁故の有る鳥獣・虫魚を言う。使わしめ。神社に付属して、その使と成る例としては、天神の牛/日吉の猿/稲荷の狐/八幡の鳩/春日の鹿/熊野の八咫烏/大黒天の鼠の類。
 [2].(かみのつかい)神社に遣わされる勅使・奉幣使。夫木和歌抄27「たれもみなそのうまやどに馬はあれど―にかちよりぞ行く」。











※11:政商(せいしょう、businessman with political contacts)とは、政府や政治家と特殊な関係を持って、利権を得ている商人
※11-1:堤康次郎(つつみやすじろう)は、昭和時代の実業家・政治家(1889~1964)。滋賀県出身。西武鉄道の創設者。箱根/軽井沢を開発し、百貨店でも成功。敗戦後、一時公職追放と成ったが衆議院議長を務めるなど、政治歴も長かった。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>





※14:野口雨情(のぐちうじょう)は、詩人(1882~1945)。名は英吉。茨城県生れ。早大中退。大正中期の民謡/童謡作家として有名。民謡「船頭小唄」「波浮の港」童謡「十五夜お月さん」「証城寺の狸囃子」「七つの子」「赤い靴」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※14-1:中山晋平(なかやましんぺい)は、作曲家(1887~1952)。長野県生れ。東京音楽学校卒。「カチューシャの唄」の他「東京行進曲」「波浮の港」などの流行歌、「証城寺の狸囃子」などの童謡作曲で大衆に親しまれた。

※15:証誠寺/證誠寺(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市に在る真宗山元派の本山。越前真宗四ヵ本山の一。1385年(至徳2)真宗三門徒派の開祖如道の弟子道性が創建。1878年(明治11)独立本山と成る。木更津市の証誠寺(←「証誠寺の狸囃子伝説」で有名)はその末寺。

※16:分福茶釜/文福茶釜(ぶんぶくちゃがま)は、[1].群馬県館林南方に在る古寺茂林寺の伝説の什宝の茶釜。応永(1394~1428)年間、老僧守鶴が愛用したもので、汲んでも汲んでも湯が尽きないので不思議がられたが、守鶴は住持に狸の化身で在ることを見破られて寺を去ったと言う。
 [2].〔動〕ブンブク目ブンブクチャガマ科のウニ。棘(とげ)が短く、心臓形で、暗紫色。長径約5cm。本州中部以南の沿岸の泥底に埋もれて生活する。又、広くはヒラタブンブク/オオブンブク/オカメブンブクなどの各科のウニの総称。
※16-1:茂林寺(もりんじ)は、群馬県館林市に在る曹洞宗の寺。1468年(応仁2)領主赤井照光の創建。開山は大林正通(だいりんしょうつう)分福茶釜の伝説で有名。











※18:パンパンとは、(原語不詳)第二次世界大戦後の日本で、街娼・売春婦のことを指した語。特に占領軍将兵相手の日本人街娼・私娼の蔑称。パンスケ(パン助)
 補足すると、敗戦直後の1945~60年頃迄は俗語として日常的に使われましたが、以後は次第に隠語化し表立って使われず、近年は死語化
 パンパンの語源としては
 [1].pompom[英]。原意は自動高射砲・対空速射砲だが「性交」の隠語
 [2].パン1切れ[の金額]で体を売る女。
 [3].「女性」を意味するインドネシア語 perempuan(プロムパン)のアメリカ訛り。
 [4].ペンペンという三味線(つまり芸者)を表す擬音語のアメリカ訛り。
 [5].委任統治時代の南洋 -ラバウル(現パプアニューギニア)やサイパン島など- に於いて日本海軍が慰安婦(日本人や朝鮮人の従軍慰安婦が主体)を指して呼んだ和製隠語で、ニューギニア語の「売春婦(pamuk)」が語源。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※18-1:置屋(おきや、geisha house)とは、[1].芸娼妓を抱えて置く家。自分の家では客を遊興させず、揚屋/茶屋からの注文に応じて芸娼妓を差し向ける
 [2].詐欺手段で質(しち)を置く常習者。

※19:展翅(てんし)とは、標本を作る為、昆虫などの羽を水平に広げること。「―板」。



※20:森鴎外(もりおうがい)は、明治・大正期の作家(1862~1922)。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医と成り、ドイツ留学。陸軍軍医総監/帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介/翻訳、創作/批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「高瀬舟」、乃木希典殉死に衝撃を受け「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「堺事件」「山椒太夫」など歴史小説に着手。他に史伝「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>














※31:藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、奈良時代の貴族( ~740)。大宰少弐。宇合(うまかい)の子。不比等の4子の没後、重用されていた吉備真備/僧玄昉を除き藤原氏の勢力を挽回しようとして、大宰府で挙兵したが敗れ、肥前に斬。







    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。






△2:『日本の現状は「多老」だ ~偽善社会を抉る~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-1:『エルニーニョの相撲藪睨み ~2003-18年初場所の概観~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-2:『文化スケベ学のすゝめ ~「文化の地下水脈」に光を当てる~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-3:『めんそーれ沖縄! ~新天地沖縄と物外館の思い出~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。





△4:『わらべうた -日本の伝承童謡-』(町田嘉章・浅野建二編、岩波文庫)。
△4-1:『日本童謡集』(与田凖一編集、岩波文庫)。







△5:『カラーブックス やきものの旅』(宮崎修二朗著、保育社)。


△6:『日本伝説の旅(上・下)』(武田静澄著、現代教養文庫)。








△8:『讃美歌』(讃美歌委員会編、日本基督教団出版局発行)。



△10:『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外作、岩波文庫)。







△14:『新訂増補國史大系 続日本紀(前編)』(國史大系編修會編、吉川弘文館)。



●関連リンク

参照ページ(Reference-Page):信楽や信楽高原鐵道の地図▼
地図-日本・琵琶湖(Map of Lake Biwa, Shiga -Japan-)

参照ページ(Reference-Page):嵯峨野観光鉄道や保津峡の地図▼
地図-日本・京都府(Map of Kyoto prefecture, -Japan-)


補完ページ(Complementary):阿波の狸合戦を始め四国は狸伝説が豊富▼
2005年・四国各駅停車の旅(Travel of Shikoku by local train, 2005)


「かちかち山」の話▼
2011年・年頭所感-今年は大人しく
(Behave yourself and keep quiet, 2011 beginning)







大井川鐵道本線の駅の住所、神尾駅の「信楽焼の狸」▼
2006年・大井川SL道中記(Go by SL, Oi-river Railway, 2006)
大井川鐵道の神尾駅の「信楽焼の狸」や
鐵道の「鐵」という字が旧書体の訳▼
2005年・大井川の塩郷吊橋(Swinging Shiogo, Oi-river Railway, 2005)


浅草の鎮護堂は狸が大使者(神の使い)▼
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)










坐摩神社(いかすりじんじゃ)の境内摂社の陶器神社▼
坐摩神社と行宮('Ikasuri' shrine and temporary palace for god, Osaka)



嵯峨野観光会社のトロッコ列車▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)


分福茶釜について▼
「再び草の野に」-川俣('To the weed again', Kawamata, Saitama)



















『うちの女房にゃ髭がある』は戦前の歌
(この曲はエルニーニョのお薦めの歌です)▼
古賀メロディーの秘密(Secret in Koga melody)



日本の戦後史(高度成長について)▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)

私の戦中的記憶▼
東海地方の「ゆでピー」好み(Boiled peanuts in Tokai region)

新聞紙で作った”折りグラブ”で野球をした思い出▼
相撲はモンゴル勢に翳り(Japanese Sumo sees Mongolian power down)

開口した防空壕跡(2010年撮影)や
私がサツマイモ(薩摩芋/唐芋)が苦手な訳▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
入口が閉じられた防空壕跡▼
廃墟の美学(Aesthetics of RUINS, Japan)

基地の町の横須賀ではパンパンは今も現役▼
こんな女に誰がした-悲しきパンパン(Who did to such a woman ?, sad pompom)
南方産の種の「昆虫撮集」▼
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)














チャリンコ(自転車)が好きな私▼
大阪市の渡船場巡り(The wharves and ferries of Osaka city)

聖武天皇と行基とは関係が深い▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
孝謙天皇神社が在る栃木県石橋▼
[孝謙女帝伝説#2]栃木県石橋([The Empress Koken 2] Ishibashi, Tochigi)
滋賀県甲賀市の大鳥神社▼
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)

三重県の伊賀忍者村▼
2003年・伊賀忍者村訪問記(Iga NINJA-village, Mie, 2003)












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