坐摩神社と行宮
[坐摩神(いかすりのかみ)]
('Ikasuri' shrine and temporary palace for god,
Osaka)

-- 2015.03.01 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.09.23 改訂

 ■はじめに - 坐摩神社の立地

 大阪に高速道路に”押し込められて”窮屈な場所に鎮座している神社が在ります。場所は地下鉄本町駅(御堂筋線と四橋線)の南側、住所で言えば大阪市中央区久太郎町4、南御堂の北西直ぐの所に在ります。当然、高速道路に”押し込められて”居るので目立ちませんし大阪のサラリーマンたちも全然興味を示しませんし、正月も人が押し寄せる事も有りませんし、逆に「一体何時人が来るんだろう(??)」と思って居ました。
 しかし江戸時代には広い境内の絵が『摂津名所図会』に載り(△1のp416~417)、

 「特に此神社は難波市街繁華の中なれば常に詣人多く、市店社前に連り、芝居観物(みせもの)ありて賑しく、これ皆神徳の餘光なるべし。」

と記されて居るのです(△1のp425)。
 江戸時代と現代とでは雲泥の差です。さて、その神社の名は?、とクイズ形式でその名を問うても大阪本町のサラリーマンたちは、恐らく100人中100人が答えられないでしょう。1000人中なら1人位居るかも知れません。答えは

  坐摩神社(いかすりじんじゃ)(※1)

で、これが正式名です。或いは坐摩神社(ざまじんじゃ)とも言います。

 尚、当ページの背景画像は坐摩神社の神紋の鷺丸(さぎまる) -右の写真- です。その由来は、神功皇后が摂津国の田蓑島(今の天満橋付近)の松の枝に白鷺が群がる所を選び坐摩神(いかすりのかみ)(※1)を奉斎された故事に依ります(△3)。
 背景画像が見える様に少し間隔を空けて置きます。




 ■坐摩神社(いかすりじんじゃ)



 祭神は生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神で、前3座が井戸の神、後2座が竈(かまど)の神(※2)です。「×井神」は井戸の神ですが、波比祇(はひき)神・阿須波(あすは)神については諸説有り実の所は不明です。何故「いかすり」と呼ばれるか、と合わせてこの2神が鍵を握って居ます。江戸時代は町人が主役で、現世利益志向の強い町人には取り敢えず竈(へっつい)(※2-1)即ち竈(かまど)の神とされ、井戸と竈で「家を守る家内安全の神様」とされました。
 因みに、これらの5柱の神は坐摩神(いかすりのかみ)(※1)と言い、宮中でも坐摩巫(いかすりのかんなぎ)(※3)という7歳以上の童女に依って祀られる格式の高い神です(△4のp416)。

 天満天神繁昌亭が出来た経緯を記した石碑には、1800年頃坐摩神社で桂文治が噺を始めたと在りますが、この神社は今は高速道路に挟まれて居ますが、江戸時代には広い境内の絵が『摂津名所図会』に載り(△1のp416~417)、又「特に此神社は難波市街繁華の中なれば常に詣人多く、市店社前に連り、芝居観物(みせもの)ありて賑しく、これ皆神徳の餘光なるべし。」と記されて居ます(△1のp425)。
 尚、坐摩神社は最初は今の淀川河口(=後の八軒家辺り)に鎮座 -現在の坐摩神社行宮が在る所- し、坐摩巫(※3)という7歳以上の童女が旅の穢れを落としました(←八軒家は京阪の天満橋駅南側付近ですので繁昌亭からは南東へ1kmの所に在ります)。又、摂津渡辺氏と深い関係に在ります。


大阪市中央区天満橋京町2-10 永田屋昆布店前



06年1月26日に写真を撮りました。




 境内大阪府神社庁が在り、神社の社務所が神社庁を兼ねて居ます。
 坐摩神社の摂末社は

  境内摂社:陶器神社、繊維神社など
    (神社の周囲に陶器問屋や繊維問屋が多かった為)
  境外摂社:坐摩神社行宮
  末社  :浪速神社

などです。

 ■坐摩神社行宮 - 大阪市中央区石町2丁目

 現在は「ざま」と読みますが元来は「いかすり」(※1)です。現在は行宮(=御旅所)ですが、この辺りは大川を跨って嘗ては「渡辺」と呼ばれ「延喜式神名帳」(※4、※4-1)に載る -これを式内社(△4のp425)と言う- 坐摩神社本社は当地に在りました。秀吉が石山本願寺跡に大坂城築城の為現在の中央区久太郎町4丁目 -江戸時代は船場、数10年前迄は東区渡辺町- に移したのです。坐摩神社の宮司は代々渡辺氏が継ぎ、神紋の鷺丸(←前出)(△3)を象徴する様に12月2日の鳥懸神事は雉を神前に捧げる当社独自の神事です。
 尚、秀吉は築城時に石山上に在った生国魂神社や高津神社も現在地に移して居ます。この地は「高津」に対する「窪津」だった訳です。そして熊野九十九王子の第一王子・窪津王子もこの付近に在りました。
 船場の本社は現在こそ南御堂と高速道路に挟まれた”窪地”の様な場所に押し込められて居ますが、江戸時代には摂津国西成郡の惣社として境内では芝居や見世物で大変賑わっていた様子が『摂津名所図会』に描かれて居ます(△1のp8)。又『東海道中膝栗毛』の喜多八が拾った富籤もこの社のものでした。
 行宮境内には「神功皇后の鎮座石」(※7)なる大岩 -嘗ては方5丈有ったと伝えられる磐座(いわくら)- が在り、これが石町(こくまち)の名の起こりです。波比祇神・阿須波神を遡源すると新羅の天之日矛(※7-1)と阿加流比売(※7-2)の日光感精卵生譚に行き着き、この鎮座石も卵生譚に関わる「日神を崇め子孫繁栄を祈願する石」であるとの説が有力です。嘗ては坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)が特別の祝詞を上げ忌部氏(斎部氏)の伝承を伝える『古語拾遺』に「大宮地の霊」と記された時代の坐摩神社の神威は一般には疾うに忘れ去られましたが、明治天皇は即位後の慶応4(1868)年に坐摩神社に皇子の安産祈願をして居ます。
 新羅と言えば、大川の北は東大寺所領の新羅江庄が在った所で、神功皇后の系図を遡ると天之日矛に行き着きます。











 ■結び - 




φ-- おしまい --ψ

【脚注】

※1:坐摩神/座摩神(いかすりのかみ)とは、大宮所を守る神。「ざまのかみ」とも。居所知(いかしり)の意という説が在る。


※2:竈(かまど、kitchen range)は、この場合、(「ど」は場所を意味する語)土/石/煉瓦/鉄又はコンクリートなどで築き、その上に鍋・釜などを掛け、その下で火を焚き煮炊きする様にした設備。かま。くど/へっつい(竈)。万葉集5「―には火気(ほけ)ふき立てず」。
※2-1:竈(へつい/へっつい)は、竈(かまど)。


※3:巫/覡(かんなぎ/かみなき/かむなき/かみなぎ/こうなぎ)とは、(古くはカムナキ。「神和ぎ」の意)神に仕え、神楽を奏して神慮を宥(なだ)め、又、神意を伺い、神下ろしを行いなどする人。男を「おかんなぎ(覡)」、女を「めかんなぎ(巫)」と言う。古今著聞集[1]「―に御託宣ありて」。






※4:延喜式(えんぎしき)とは、弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
※4-1:神名帳(しんめいちょう/じんみょうちょう)とは、神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式巻9・巻10の神名式を言い、毎年祈年祭(としごいのまつり)の幣帛に与る宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載する。この延喜式神名帳に登載された神社を式内社、それ以外を式外社と言う。








※7:神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿禰王の女。記紀伝承に拠ると天皇と共に熊襲征服に向い、天皇香椎宮に崩御の後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして崩。
※7-1:天日槍/天之日矛(あめのひぼこ)は、記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石に留まったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
※7-2:阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、古事記説話で、新羅の女が日光に感精して生んだ赤玉の成った女神。天之日矛(あめのひばこ)の妻と成り、後に日本に来て難波の比売許曾神社(ひめこそじんじゃ)に鎮座した。





    (以上、出典は主に広辞苑です)


【参考文献】

△1:『摂津名所図会 上巻』(秋里籬島著、原田幹校訂、古典籍刊行会)。



△3:「坐摩神社」公式サイト。

△4:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。







△5:『古語拾遺』(斎部広成撰、西宮一民校注、岩波文庫)。

●関連リンク


坐摩神社の最初の鎮座地(=大坂の八軒家)や摂津渡辺氏について▼
都島の鵺と摂津渡辺党(Nue of Miyakojima and Watanabe family, Osaka)

延喜式神名帳について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)


天満天神繁昌亭について▼
天満天神繁昌亭(Temma Tenjin Hanjou-tei, Osaka)








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