-- 2007.03.08 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.05.09 改訂
06年9月15日(金)に大阪に数10年振りに定席の「寄席(よせ)」が復活しました。その名は
天満天神繁昌亭
です。場所は「懐かしの「純喫茶」」で紹介した天神橋筋商店街の直ぐ傍、住所は大阪市北区天神橋2-62-5、物凄く便利な立地です!!
この「繁昌亭」を復活させよう、という計画を私が最初に知ったのは05年2月のラジオのニュース(←私はテレビを持って無い)でした。場所は大阪天満宮の北隣です。
そして「天満天神繁昌亭開設準備委員会」 -天神橋筋商店連合会の土居年樹会長と(社)上方落語協会の桂三枝会長の2名が代表- が建設資金を一般から募金して居ることを同時に知ったので、私は05年2月21日に早速連絡を取り建設募金申込書をFAXして貰い、これに必要事項を書き込んでFAXで送り返し、翌22日に郵便振込で募金を送金しました。完成の暁には全募金者の名前を書いた提灯を建物の内外に吊るすという話でした。
募金は総額1億8千万円集まったそうで、募金活動開始から1年半余りで完成しました。
以上の様な経緯から「繁昌亭」オープンの06年9月15日(金)に、午前中は祝いの行事などで混み合うので、私は昼頃見に行きました、チャリンコで。右がオープン当日昼頃の「繁昌亭」(大阪市北区天神橋2-62-5)です。
05年12月1日に着工、06年8月8日に竣工、そして9月15日に開席と成りました。総工費は1億8千万円、狩野忠正建築研究所です。
大阪天満宮の北隣の敷地面積591㎡に鉄筋コンクリート造地上3階建の和風建築です。
左が1階入口屋根上の「天満天神繁昌亭」と書かれた表札で、右上の全体概観写真から切り出した拡大写真です。
そして同じく全体概観写真で正面玄関左側に置かれて居る赤い人力車の拡大が右です。
これは、「芸の為なら命も捨てる」と歌われた、あの「浪速の春団治」こと初代・桂春團治(桂春団治、※1)が愛用して居たリキ車を復元したものです。上方落語の黄金時代を築いた人をこうして讃えようということですね。
又、同時代の黒い屋根付き郵便ポストも復元されて居ました。
そして上の写真の左には天満天神繁昌亭の石碑(繁昌亭の概略を記した物)が在りますので、その拡大を▼下▼に載せましょう。
これを読んで戴ければ解ると思います。
1ヶ所ミスって居る様なので補うと大阪の坐摩神社(中央区久太郎町4)の所で(5行目)です。
このミスは
大阪坐摩(ざま)神社
とすべき所を漢字が解らなかった所為か
大阪 (ざま)神社
と成って居ます。
しかし、坐摩(ざま)神社も厳密には正解では無いのです。正式には「いかすりじんじゃ」と読み「ざまじんじゃ」は通称です。この神社は坐摩神(いかすりのかみ)(※2)を祀っているのです。坐摩神社は摂津国西成郡の式内社(△1のp425)で、坐摩神は宮中でも祀られる格式の高い神です(△1のp416)。
まぁ兎に角、1800年頃に坐摩(いかすり)神社で桂文治が小屋掛けの寄席を始め、それを切っ掛けに各地で落語専門の常打ちの小屋が出来た様です。そして2006年9月15日(即ち今日)、大阪天満宮・天神橋筋商店街、そして4500名を超える一般寄付者の厚志で天満天神繁昌亭がオープンに漕ぎ着けたられた事が書いて在ります。
そして私は07年3月8日(木)に寄席を見て来ました。左の写真は入場の行列です(12:07頃)。古やんの顔が見えます。
そして右が客寄せ太鼓を打っている若い衆です。
{先頭からここ迄は、07年3月8日に書き始め中断前の07年3月9日に作成}
私は繁昌亭の寄席を見た後直ぐに本ページを書き始め翌日の07年3月9日(金)にここ迄と「私が寄付をした印の提灯が有ったゾ!」の章(→後出)を書いた所で中断しそれっ切りに成って仕舞いました。この頃は色々遣ってましたので頭の隅には本ページの事は有ったのですが、暫く離れると忘れて仕舞うのです。そういうホームページ(HP)の原稿は本ページ以外にも、例えばこれの様に多分10本以上有る筈です!!
............
そして私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血で倒れ、2013年3月19日(火)から沖縄に引っ越して来ました。沖縄に永住です。つまり沖縄で死ぬ覚悟をしました。脳出血から沖縄の人に成る迄の経過は▼下▼を参照して下さい。
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
そして漸く2015年3月1日(日)から続きを書いて居ます。約8年振りの中断からの復帰ということに成ります!
{ここから後は、基本的に中断後の2015年3月1日に書き始め2015年5月9日に最終更新}
席数は
1階一般席 = 153席 ─┐
2階一般席 = 63席 ─┴─ 一般席:計216席
車椅子席 = 2席
立見席 = 38席
───────────────────────
総計 = 256席
という構成です。
<繁昌亭のここをCHECK!>
●多様なジャンルの笑い
繁昌亭で披露されるのは、勿論落語! しかしそれだけでは無く、他にも講談や漫才、太神楽など、色々なジャンルの「芸」が楽しめる
●ヒノキの舞台と「楽」の字
舞台はヒノキ造で、高座の膝隠(ひざかくし)は、故5代目桂文枝師匠が使っていたものが用いられることも有る。又、舞台を見た時目に入って来るのが、額に入った「楽」の字。これは人間国宝・桂米朝師匠の直筆。
●天井の提灯
劇場内外の天井ずらっとぶら下がる提灯には、繁昌亭設立の為の募金に協力した人々の名前や団体名、約4,500件分がズラリと書かれて居る。知り合いの名前が在るかも!?
●初代・桂春團治縁の赤い人力車&ポスト
繁昌亭の入口に置いて在る、真っ赤な人力車が目を引くだ、これは、上方落語の黄金時代を築いた初代・桂春團治のシンボルでもある。黒い屋根付きの郵便ポストも、同時代に在ったものを復元したとのこと。
●繁昌亭マスコット&グッズ
一般公募から、「小梅亭 てんてん」と名付けられた可愛いマスコットがお目見えした。又、劇場内ではTシャツやお菓子など、繁昌亭オリジナルグッズも販売中。是非お土産に如何。
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露の五郎兵衛
米沢彦八
桂文治
桂文枝
07年3月8日の休憩時間に私は自分の名が書いて在る提灯を探しました。寄付をした4500名以上の方には漏れなく提灯に名前を入れて貰える話だったのですが...。
あっ、有りました。そしてパチリ(14:30頃)。実は心配だったのです。これが寄付した証(あかし)なのですが、金だけ取って後は知らん!、と言いはしないかと心配で心配で、...これで一先ず安心しました、ウワッハッハッハ!!
エルニーニョ深沢の字が読めますね、皆さん。私の提灯は2階の真上の方に在って、ずっと見てると首が痛く成って来ます。
しかし未だ解りませんよ。3年後位には取っ外されている可能性が有りますよ、第2次の寄付金払わないと外されるんとちゃいまっか。三枝さんは「いらっしゃい!」なんか言い乍ら、結構金にはシビアとちゃいまっか!
{この章は07年3月8日に書き始め中断前の07年3月9日に作成}
偶然ですがこの稿を起こした07年2月25日、江戸落語の大御所・三遊亭円楽が呂律(ろれつ)が回らなく成り引退を表明した、というニュースがラジオから飛び込ん出来ました。繰り返しますが私は、「テレビを”持たず・見ず・信用せず”の”非テレ三原則”」を貫いてまっせ!!
{この章は、中断後の2015年3月1日に書き始め2015年5月9日に最終更新}
【脚注】
※1:上方の落語家の芸名で3世在る。初世(1878~1934)。本名は皮田藤吉(かわだとうきち)。大阪市生まれ。伝統的な型を破壊したが奔放さで大衆の絶大な人気を得た。艶聞や奇行も多かった。当り芸「へっつい泥棒」「黄金の大黒」。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※2:坐摩神/座摩神(いかすりのかみ)とは、大宮所を守る神。「ざまのかみ」とも。居所知(いかしり)の意という説が在る。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。
●関連リンク
@補完ページ(Complementary):天神橋筋商店街の純喫茶▼
懐かしの「純喫茶」(Nostalgic 'Pure coffee shop')
坐摩神社について▼
坐摩神社と行宮('Ikasuri' shrine and temporary palace for god, Osaka)
途中で中断したホームページ(HP)の一例▼
2005年・アカヤシオ咲く御在所岳
(Mt. Gozaisho surrounded by azalea, Mie, 2005)
脳出血から沖縄に引っ越した経緯▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)