懐かしの「純喫茶」
(Nostalgic 'Pure coffee shop')

-- 2006.09.15 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.04.25 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★

 ■はじめに - セピア色に霞(かす)む純喫茶

 私が幼少の頃 -その頃は関東在住- は、特に東京では「純喫茶」という看板を掲げた喫茶店を街で結構見掛けましたが、最近は余りお目に掛からなく成りました。そして「純喫茶」と名乗った店には何かしら共通するイメージが在った気がしますが、その記憶は茫洋たるセピア色(=煤けた黒褐色(※1、※1-1)の霧の中に消えようとして居ます。当サイトで最初に純喫茶に言及したのは、「掲示板のおちゃらけ議論」
  「[快楽主義者の喫茶店#1]-掲示板のテロ対策」

の中で、その日付は2003年11月15日ですので、もう大分前のことです。この議論の中で私は”ひょんな弾み”から純喫茶に対する”独断と偏見”のイメージを以下の様な戯れ歌(或いは狂歌(※2))」にしました。この歌が切っ掛けで純喫茶について纏めてみようと思い立ったのでした。因みに月海とは私の号 -歌を詠んだりした時に付する風流名- です。

  喫茶 不純な妄想 押し隠し
    文学片手に 珈琲を飲む

  なんとなく 今日も立ち寄る 喫茶
    文学片手に することも無し

  皺くちゃの 婆さんが居る 喫茶
    珈琲の苦さも いや増しに増す

  喫茶 ちょっと気になる ウェートレス
    水注(つ)ぎに来る 靴音は子か


                          月海

 もう1つ断って置きます。▲上▲で使っている文字の色ですが、これはショッキングピンクと言いまして「鮮やかなピンク色」「衝撃的なピンク色」「ぞっとする様なピンク色」とか様々な感じ方が在りますが、これは私のイメージカラーですので皆さんが何と感じようと目がチカチカする方が居ようと、一切意に介せずに使い続けますので宜しく、アッハッハッハ!!

 「純」を名乗る喫茶店が全盛だったのは第二次大戦後間も無くの1950年代~60年代(昭和25~45年頃)だった様に記憶して居ますが、高度成長を遂げ日本が先進国の仲間入りを果たした1970年当たりから、銭湯と共に徐々に姿を消して行きました(←その原因についての私見は後の「考察」の章で述べます)。

 ところで私の「純喫茶」の定義は至って単純明快です。即ち

  「純喫茶」という看板や表札を、1つ以上店外に掲げた喫茶店

が「純喫茶」の有資格者です。
 しかし今後新規に開店する喫茶店が「純」を名乗る可能性は殆ど有りません。又、今在る純喫茶が「純」を名乗るのも現在の経営者の代で終わるでしょう、何故なら代替わりして喫茶店は存続しても「純」の字が継続される可能性は極めて低いと思われるからです。私はそんな絶滅に瀕した「純喫茶」に懐かしさを感じる世代ですので、現役で今尚活躍して居る純喫茶を当サイトに随時蒐集して行くことにしました、消え行く前に!
 尚、このページは大阪圏/東京圏/沖縄圏 -何故大阪が先かと言えば私が関西人だから- と続き、各喫茶店の登場する順番は必ずしも時系列には並んで居ませんが、必ず撮影日付が

  純喫茶××住所、[××]××年××月××日撮影(西暦))

の形で入って居ますので、宜しく!
 又、本ページは「戦後日本の世相の変遷」と密接に関わって居ますので
  戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)

を是非御一読を!

 本ページでは飲み物はコーヒーを扱います。喫茶店では紅茶も在りますが、私が滅茶コーヒー好きなので必然的にそう成る訳です、...m(_~_)m...済みません。
 因みに、私が飲むコーヒーはキリマンジャロ(Kilimanjaro)のストレート、即ち豆のブレンド無し、砂糖もミルクも無し。夏でもホットが多いですね、アイスコーヒーは滅多に飲みません。大阪に居た時は焙煎前の豆を浅めに炒って貰いペーパードリップ用に粗く挽いて貰いました。これでキリマンジャロの酸味が楽しめるのです。沖縄ではそういう店が無いので残念です。{沖縄の情報は2013年10月21日に追加}

区切り線。

 ■大阪圏

  ●大阪中心部

    ◆エルニーニョ、大阪圏の思い出を語る

 私の経験や記憶では純喫茶は東京(特に浅草)が圧倒的に多いのですが、今は大阪の住人に成っている私、先ずは地元の大阪から掲載します。ですが。ここは純喫茶、私が関西(大阪圏)に来た頃の思い出を少しだけ語りましょう。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 私が東京から神戸に来たのが1978年6月頃で、1980年大阪市中央区平野町3(当時は東区だったと思います)に事務所を出し、85年頃に若い連中が増えたので北区西天満3にもう1軒借りました。この頃は全国的に不動産主体の好景気 -これを後からバブル景気と呼びました- で西天満界隈は”地上げ”され狭い土地に細長いビルが建つのを呆れて眺めて居ました。事務所は以後80年代後半迄平野町と西天満に居り、80年代後半~92年頃迄に平野町と西天満を中央区瓦町1に統合し、92年~2012年北区豊崎5に引っ越しました。不自然な好景気は案の定91年後半のバブル崩壊と成って現れました。このバブル崩壊の影響は長く2010年頃迄続きました。95年には阪神淡路大震災に遭い、マンションは半壊で2年位住めなく成りましたね。それで大阪にマンションを借り神戸のマンションは他人に貸しました。未だ在りますよ、神戸のマンションは。
 そして2011年暮れに私が脳出血→後出)で倒れ入院とリハビリ後の2013年以後は仕事を止め沖縄県那覇市で生活して居ます。


                (+_@;)
                ┌U_

 いやぁ、このコーヒーは旨いですな~、ホッホッホ!

    ◆「純喫茶 ビクター」

 先ずは天神橋筋商店街です。この商店街は黒門市場商店街と共に大阪で最も活気がある商店街です。天神橋筋商店街には喫茶店が非常に多く在りますが「純喫茶」と成るとぐっと少なく成ります。
 左下は天神橋筋商店街のアーケードの中に在る「純喫茶 ビクター」大阪市北区天神橋4丁目、2006年9月15日撮影)です。
写真O1:大阪天神橋筋商店街の「純喫茶 ビクター」。写真O1-2:「純喫茶 ビクター」の看板。 右の2枚の写真の様に頭上高くアーケードの天上からの吊り看板のみに「純喫茶」と記されて居ますが、天井の高さの張り出し看板も入口天井も「COFFEE HOUSE VICTOR」です。又、入口前のスタンド看板は「コーヒーハウス ビクター」と成っていて(左の写真)、ちと曖昧な”蝙蝠(こうもり)喫茶”です。ここを「純喫茶」と知る人は寧ろ私の様なな人です。
 A.E.元年(=1993年)以降は余り行ってませんが、西天満に事務所を出していた時分には結構良く行きましたね。それでもここが「純喫茶」であることを知ったのは通い始めて1年位経ってからでした。
 店内は1階中2階中地階から成りそこそこの広さでBGMはジャズ系、そこそこ落ち着いた雰囲気ですが、目立った特徴は有りません。創業は不明ですが私が関西に来た当初からですから1980年頃には在りました。酒類は無く、所謂喫茶店メニューです。「ホットケーキ+ホットコーヒー」を良く注文しました。

 この日は直ぐ近くに寄席「天満天神繁昌亭」がオープン北区天神橋2丁目) -ここから10分以内の所- した様子を見に行った後に立ち寄りました。繁盛亭では私の名が入ったエルニーニョ深沢の提灯も見れまっせ!!

    ◆「純喫茶 ケニヤ」

写真O5:大阪天神橋筋表通りの「純喫茶 ケニヤ」。写真O5-2:「純喫茶 ケニヤ」のスタンド看板。 右は天神橋筋の表通り東側の「純喫茶 ケニヤ」大阪市天神橋5丁目、07年3月28撮影)です。上の「純喫茶 ビクター」から表通りに出て北に300m程の所に在ります。下の写真が入口のスタンド看板の拡大で「純」の字が見えますが、入口両側の吊り看板には「TEAROOM KENIYA」と書かれて居ます。

 店内は30人位の容量で落ち着いた感じ、軽食類が有り酒類は無しBGMはカントリー系です。
 マスターに伺ったら純喫茶全盛の1959(昭和34)年の創業で、関西では少ない「純喫茶」を名乗ったのはマスターが東京出身だからでしょう。

    ◆「純喫茶 ジュン」

 そして「純喫茶 ケニヤ」の50m程南に在るのが左下の「純喫茶 ジュン」大阪市天神橋5丁目、07年4月20日撮影)です。
写真O6:大阪天神橋筋表通りの「純喫茶 ジュン」。写真O6-3:「純喫茶 ジュン」の入口ドア。写真O6-2:「純喫茶 ジュン」の屋根の庇。 名前からしてジュン(JUN)な店ですが、「純」の字が入っているのは入口ドアだけ(右の拡大写真)で、スタンド看板には「CAFE ROOM」(左の写真、07年4月21日撮影)、緑の庇(ひさし)には「TEA ROOM」(中央上の写真)と書かれて居ます。コーヒーもお茶も在りますよ、ということでしょう。ソファーで30席位です。

    ◆「純喫茶 アメリカン」

 次は大阪ミナミです。左下はミナミの中心の道頓堀の千日前筋アーケードの中「純喫茶 アメリカン」大阪市中央区道頓堀1丁目、07年2月26日撮影)です。
写真O2:大阪千日前筋の「純喫茶 アメリカン」。写真O2-2:「純喫茶 アメリカン」の張り出し看板。写真O2-3:「純喫茶 アメリカン」の入口ドアに貼られた募集広告。
 左が2階部分の張り出し看板です。入口のスタンド看板にも「純喫茶」と記されて居ます。
 右は入口ドアに貼られた募集広告です。
 外からもお判りの様に店内は明るく大きなシャンデリアを備え螺旋階段で2階に行けます。奥行きが有るので可なり広いです。BGMはクラシックですが、場所柄を反映して客層は雑多です。
 レジをして居るママ(=往年の看板娘か?!)に尋ねたら、創業は1946(昭和21)年「もう62年目ですよ」と、ちゃんと営業年数を覚えて居ました。戦後直ぐに出来た純喫茶として大阪の老舗です。現在の定休日は第2・第3木曜日+不定期の木曜日で3[日/月]です。
 酒類はビール/ウィスキー/ハイボール(Ψ1)などで、ご飯物は通常の喫茶店メニューです。ハイボールを出す所が、昭和30年頃(=1950年代)を感じさせますね、この飲み物はその頃のサラリーマン小説に必ずと言って良い程登場して居ましたが、私の世代が就職した1970年頃にはすっかり廃れ「水割り」に取って代わられて居ました。ところが08年後半から何故かハイボールが再流行して居ます。
 序でに言うと、この頃私らの様な青二才が酎ハイ(Ψ1-1)を注文すると店の人に怪訝な顔でジロジロ見られたものです。当時焼酎は肉体労働者の飲み物とされて居たのです。社会から筋肉逞しい”労働者”が姿を消し焼酎が健康ドリンクみたいに成り下がった今を見ると、時代の隔絶を感じさせられます。

      ◆◆2008年秋頃からハイボールが再流行

 つい最近迄はセピア色の純喫茶でしかお目に掛かれなかったハイボール(Ψ1)、上で「私の世代が就職した1970年頃にはすっかり廃れ「水割り」に取って代わられた」と記したハイボールが何故か08年秋頃から密かに再流行して居るそうです。仕掛け人は洋酒メーカーのサントリーで「角瓶」のハイボールを神戸を中心にキャンペーンした所、受けてるらしいですな。団塊世代より年長の古い人には懐かしく、逆に若い人にはカクソ -「角」のソーダ割りという意味- と呼ばれて新鮮なんだとか。
 1970年頃からウィスキーの飲み方が「水割り」一辺倒に成って仕舞った現象は、私の分析ではカクテル(※3)を出すバーが無く成りカラオケバー一辺倒(※4)に成り、ポップスがロック一辺倒(※5)に成った現象とパラレルに対応して居ます。バーやスナックは、酒を水で薄めただけの「水割り」と騒々しいカラオケと「水割り」しか作れんバカ女を押し付け、正に字義通りの”水商売”をしたという訳です。そんな低技術・低サービスにも拘わらず、中には「会員制」という看板を掲げた厚顔無恥な高料金の店がバブル景気の時には全盛でした。
 私は一貫したスタイルとして水割りを飲まない人 -私はストレート若しくはオン・ザ・ロック(※3-1)- なのでハイボールには余り興味は有りませんが、この様な客と店の双方の低レベルを脱する為にはセピア色のハイボール復権に続きカクテルの復権を望みますゾ!
    {このハイボールの記事は09年2月4日に追加}

                (-_@)

    ◆「純喫茶 ヒロ」

写真O3:大阪船場の「純喫茶 ヒロ」。 右は船場センタービル10号館地下1階に在る「純喫茶 ヒロ」大阪市中央区船場中央4丁目、07年2月20日撮影)です。
写真O3-2:「純喫茶 ヒロ」の看板。 左が看板の拡大。この看板と入口に「純喫茶」と書かれて居ます。看板には銀杏の葉のマークが入って居ます。
 店内はカウンターとテーブル席で25名位は入れます。品の良いマスターがカウンターの奥で1人でサイホンでコーヒーを淹れ、専門店風な感じです。
 若いウェートレスは1人、BGMとしてジャズが流れ落ち着いた雰囲気が漂って居ます。

    ◆「純喫茶 三輪」

写真O4:大阪船場の「純喫茶 三輪」。 船場センタービル内にはもう1軒、「純喫茶 三輪」が在ります。場所は9号館地下2階(大阪市中央区船場中央3丁目、07年2月20日撮影)、左の写真で紫色の看板の「純」の字が読めますね。
写真O4-2:「純喫茶 三輪」のスタンド看板。 入口ドアにも「純」と書かれて居ますが、右のスタンド看板には「喫茶」だけです。
 中はだだっ広く、暗赤色の古風で安っぽいロングドレスを着た”若く無いウェートレス” -床もソファも同じ色- が直ぐ水を持って来て注文を聞きますが、然りとてレトロ調(Ψ2)という訳でもありません。
 席はゆったりしてBGMはジャズ系で音量は小さいので、寛いでお喋りするには良いでしょう。酒無しの喫茶店メニューです。
 客層は「小父ちゃん、小母ちゃん」が圧倒的で、若い姉ちゃんに出会ったらラッキーです。何かと「物」に拘泥る現代に於いて「物」にも「女」にも「珈琲」にも拘泥らず、開けっ広げの”垢抜けない”雰囲気が如何にも「純」です。

    ◆「純喫茶 ステーションブラジル」

 こういう情報は自分一人では限界が有ります。そこで、”こういう話題に乗って来そうな友人”、即ち”閑人”に何かの折に私の「純喫茶の定義」を話し純喫茶を見付けたら知らせて呉れる様に頼んで置きました。つまり「純喫茶探偵団」の一時雇用外務員ですな。報酬は、それが確かに私が定義する所の純喫茶であった場合に限り、その純喫茶のコーヒーを一杯だけ驕るというものです、ウォッホッホ!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 「純喫茶探偵団」07年初夏の某日に結成しました。今の所、私が探偵局長で一時雇用外務員が若干名の零細探偵団で、将来的にも大探偵団に成長する見通しは全く無し。

 私の眼に狂いは有りませんでした。主婦業を熟(こな)す傍ら余ったエネルギーを八方に全開させて居る”パワフル・ママI”さんが見付けケイタイの写真付きで教えて呉れたのが次の「純喫茶 ステーションブラジル」大阪市北区角田町9丁目、08年10月18日撮影)で、大阪キタのド真ん中です。人通りの多い新梅田食堂街に在り私もこの通りを何度も通ったことが有る筈ですが気付きませんでしたね、盲点でした。
写真O7:大阪梅田の「純喫茶 ステーションブラジル」。 スタンド看板(右下の写真)に
  「純喫茶 since 1951」
と書いて在ります。
写真O7-2:「純喫茶 ステーションブラジル」のスタンド看板。 1951年は昭和26年、日本は朝鮮戦争に依る”特需”をバネに敗戦の焼け跡から脱し高度成長期に入る時期です。冒頭に記した様に純喫茶は1950~60年代がピークですが、その50年代初頭に開店し競争の激しい大阪の中心地で世間の軽薄な移り変わりを横目で見遣り乍ら半世紀以上の風雪に耐えて来て居ます。
 店内は小ぢんまりと落ち着いた雰囲気でテーブルが数卓、15~6人で一杯です。奥でママがコーヒーを淹れ”純喫茶に相応しい小母さん”がカップを運んで呉れます。酒類は無し。静かに喫茶したい方向きです。
 盆正月を除き年中無休で営業時間は8:30~18:30、19:00~22:00はグループの集まりに貸し切り可、店内をミニギャラリーとして絵や写真の展示可です(何れも有料)。

  ●大阪郊外

    ◆「純喫茶 ルヴァン」

写真O8:大阪豊中の「純喫茶 ルヴァン」。 09年始めに”閑人O”さんが見付けメールで通報して呉れたのが「純喫茶 ルヴァン」大阪府豊中市服部南町3丁目、09年3月5日撮影)です。それで発見者の”閑人O”さんに案内をお願いして訪ねましたが、ここは案内を請うて正解でした、私一人では探すのに苦労したでしょう(左の写真の男性が”O”さん、女性は”有閑マダムU”さん)。
 阪急宝塚線と名神高速道路に挟まれた住宅の建ち並ぶ細い通りの一角に在り、この道を通るのは地元の人に限られる、と言うよりも地元以外の人でこの道を通る人は怪しいと思われる通りなので、私がウロウロしたら嘸(さぞ)や怪しまれたことでしょう。
 因みに”閑人O”さんは東京の「純喫茶 エデン」メイド喫茶視察(→後出)にも付いて来た人で、暇に任せて各所で顔を売り”超多忙な閑人”という矛盾した余生を送ってる人ですが、実はこの近くの住人なのです。

写真O8-2:「純喫茶 ルヴァン」のスタンド看板。写真O8-3:「純喫茶 ルヴァン」のママ。 左がスタンド看板、「純」の字が読めますね。私たちは3人で早速店に入ってみました。店内は如何にも往年の「旧き佳き時代の純喫茶」という雰囲気で12~3人のキャパをママ(右の写真)が一人で切り盛りして居ます。もう開業して半世紀以上ということでやはり1950年代の開業でしょうか。そんな話を私たちがして居たらママがレイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド(我が心のジョージア)」 -これは私が大好きな歌- を掛けて呉れ、店内は一遍にセピア色に包まれました。オールディーズ(Ψ3)の音楽も純喫茶向きです(→「考察」の章を参照)。
 休みは日曜日のみ。夏は素麺などのメニューも在ります。

 さて、ルヴァンとは多分フランス語の "le vin"「ワイン」のことかと私は思って居ましたが、ママに尋ねたら "lever" の現在分詞(=現在進行形)の

  levant 「上げている」

だそうです。英語の "lifting" に相当します。しかし、辞書を引くと俗語では「女性を誘惑している」という意味も有り、中々意味深長です!
 ママは若かりし頃に第二外国語としてフランス語を学びパリにも渡航したので、父親がこの店を開店する際に名を付けろと言われママが得意のフランス語で命名したものです。めちゃカッコ好い(beau[仏])ですね。開店当時はマスターの父親が蝶ネクタイでコーヒーを淹れ、未だ娘さんだったママがタイトスカートにハイヒールで持て成したそうです。往時が偲ばれます。
 ここは郊外の「隠れ家」という感じです。

    ◆「純喫茶 あさひ」

 2010年1月に西宮市今津の「純喫茶 あさひ」兵庫県西宮市今津水波町1丁目、10年1月13日撮影)に行って来ました。ここも”閑人O”さんが発見者で09年夏頃メールで通報して呉れました。

写真O9:西宮今津の「純喫茶 あさひ」の庇。 ご覧の様に庇(右の写真)とスタンド看板(右下の写真)に「純」の字が在ります。今回は満を持して”閑人O”さんの先導で、私の周りに最近俄かに増えつつ在る「純喫茶探偵団」の面々と一緒に行きました。
 右下の写真で、左端から東京の純喫茶探偵にも同行した”超多忙な閑人O”さん、我らが”マダムU”さん”グルメS”さん、右端が自称”不良定年F”氏です。この4人は全員が私の主宰する【ブラボー、クラシック音楽!】のメンバーであります。

写真O9-2:「純喫茶 あさひ」のスタンド看板と純喫茶ファンの面々。 この場所は阪神及び阪急の今津駅から南へ徒歩1分位で3号神戸線高架のちょい手前、甲子園球場の西1.2km位という立地で、下町的な雰囲気の街に相応しい気さくな店です。
 創業は50年以上前とのことで、やはり1950年代の開業です。開業時は看板娘だったと自称するママは「純」の文字を外そうかと思った事も有ると仰るので、我々は外野席の野次馬宜しく「純」の字は今や希少価値であると言って「純」の継続を訴えました。
 中は4人掛けのテーブルが5つ程在り小さなテレビが置かれ近所のオバちゃん達が駄弁って居ました。ビールも在り競艇帰りの若く無い兄ちゃん -阪神今津駅から10分位の尼崎センタープール駅前には尼崎競艇場が在り来る途中車窓から競技が見えました- が昼日中からビールを飲み時々顔を出す店の主人に「アカンわ」などと話し掛けてる様は如何にも下町風です。しかし私はこの兄ちゃんのケイタイ着メロがチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の「葦笛の踊り」だった事に”場違い”な新鮮さを感じました!

    ◆「純喫茶 アメリカン」

 又々”閑人O”さんが阪急淡路駅近くで2軒発見し通報して呉れましたので、私は2011年8月の雨模様の日に確認して来ました。

写真O10:淡路の「純喫茶 アメリカン」。 先ずは「純喫茶 アメリカン」大阪市東淀川区東淡路4丁目、11年8月5日撮影)、淡路駅東口商店街に在ります。ご覧の様に入口上部とスタンド看板に純喫茶の文字が見えますので資格は充分。
 中は思ったより奥行きが有り、細長いスペースは全てテーブル席で25人位は入れます。淡路らしく下町的な感じで客も如何にも常連風な年寄りやオッサンが中心で、奥で調理を担当してる若い兄ちゃんが出す黒いコーヒーが店の雰囲気にビッタリです。店内は下町的な”小母ちゃん”がママとして店を切り盛りして居ます。そのママに尋ねたら、もう41年目ということで創業は1970年の様です。メニューにはビールも有りました、これも下町の純喫茶の特徴です。
 既に紹介済みの千日前の「純喫茶 アメリカン」と同名ですが無関係との事です。

    ◆「純喫茶 風車」
写真O11:「純喫茶 風車」。写真O11-2:「純喫茶 風車」のスタンド看板。
 もう1軒は「純喫茶 風車」大阪市東淀川区淡路4丁目、11年8月5日撮影)で、こちらは「アメリカン」と反対側の淡路駅西口商店街に在りスタンド看板に「純」の字が見えます(拡大写真参照)。店内はやはり奥行きが長くテーブル席のみで25人位のスペースですが、グリーンのソファで明るく今風な雰囲気で若いお客で賑わって居ました。ケーキや洋菓子類が品数豊富で酒類は無しです。
 創業から43年位という話ですので1968年頃の開業です。

 しかし淡路とは気が付かなかったですね。確かに淡路も純喫茶が立地する下町的な所(→後の「考察」を参照)です。
 結局、大阪郊外で紹介した4店は全て”閑人O”さんの日頃の探偵活動の賜です。それにしても良く見付けましたね、”閑人O”さんには”特殊の才能”を感じて仕舞いました。探偵局長の私は「表彰状と金一封」の代わりに”コーヒー飲み放題”で功績を労(ねぎら)う積もりです。

 ■東京圏

  ●東京浅草

 大阪の章の冒頭で「純喫茶は東京の方が圧倒的に多い」と記しましたが、それは1970年以前の私の記憶 -既に私の中で曖昧に成りつつ在るのですが- に基づくもので、今では東京でも絶対数は激減しました。しかし全国レベルで見ると今でも「相対的には圧倒的な多さ」を誇って居ます。中でも浅草周辺に純喫茶の数が多いのは理由が有る筈ですが、それは後の「考察」に譲り、ここでは浅草の純喫茶からご紹介します。

    ◆「純喫茶 マウンテン」

写真T1:東京浅草の「純喫茶 マウンテン」。写真T1-2:「純喫茶 マウンテン」の看板。 私は丁度A.E.元年頃から、東京方面に行く時は大抵浅草に宿を取るのですが、その頃からちょくちょく行くのが左の「純喫茶 マウンテン」東京都台東区浅草1丁目、07年1月19日撮影)です。
 入口上の看板の拡大が右上の写真です。その他スタンド看板にもドアにも「純喫茶」と書かれ完璧な資格保持者です。
写真T1-3:「純喫茶 マウンテン」の1階店内。
 店内は広く2階も在り、一応1階が喫茶店(左の写真)、2階が「もんじゃとお好み焼き」(Ψ4、Ψ4-1)という構成ですが、予想を超えて善哉/汁粉/こぶ茶/どくだみ茶/ところてん/うどん/雑炊を揃え、酒はビール/ハイボール(Ψ1)から浅草所縁の電気ブラン迄を揃え、”何でも屋”的な親しみ易い雰囲気私の記憶の中の純喫茶のイメージにピッタリです。雷門通りに面した立地の良さから地元のお年寄りや老若の観光客で結構賑わい、小母ちゃんが2~3人で小まめに立ち働いて居ます。

 創業が何時頃なのかママに尋ねると、「良くは知らないけど戦後間も無く」、という話なので1950年頃の様です。話の序でにレジに置いて在る名刺を貰ったら「年中無休」と書いて在り、裏を見たら「南が上の逆さ地図が印刷されて居て一瞬面食らいました!


写真T2:東京浅草の「純喫茶 みち」。    ◆「純喫茶 みち」

 右は地下鉄(=東京メトロ)銀座線田原町駅近く、浅草国際通り商店街の清光寺(=浄土宗)隣に在る「純喫茶 みち」東京都台東区西浅草1丁目、07年3月20日撮影)です。庇、張り出し看板、スタンド看板何れにも「純喫茶 みち」と書かれて居て、「純」の自称度は完璧です。
 初老のご夫婦で営業して居てソファが10数席、BGMはテレビです。特に愛想が良い訳では無く勝手に遣っている感じで、地元の人たちがお喋りや暇潰しに気軽に入る、そんな素朴な喫茶店です。酒無しで軽食が少々。千葉に支店が在る様ですが、純喫茶かどうかは不明です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 東京の地下鉄は営団(経営財団の意)と都営の2系統が在りますが、2004年4月1日から営団地下鉄が東京メトロと成りました。メトロとはメトロポリス(metropolis、首都、大都市)の略です。都営はその儘です。

    ◆「純喫茶 ブロンディ」

 上の「純喫茶 みち」の在る国際通りを浅草演芸ホールに向かって東に少し入った所に、下の「純喫茶 ブロンディ」東京都台東区浅草2丁目、07年3月20日撮影)が在ります。しかしご覧の様に「純」の字が記されて居るのは自動販売機脇の掛け看板のみです(下の左から2番目の写真)。入口ドアに「珈琲・スナック」と在る(下の右から2番目の写真)様に、夜はスナックに成ります。当然、酒類はビール、ウィスキー、ハイボールなど何でも有り。昼だから酒を出さない、ということは有りません。食い物も何でも有りで、おでん/ラーメン/焼うどん/牛丼など、普通の喫茶店に無い物を取り揃えて居ます。店内はソファーが20席位、ご夫婦で営業して居ます。BGMはテレビで、営業時間は8:30~23:00、モーニングサービスの時間は8:30~11:30です。
 ここはロック座からも近く、朝のモーニングサービスでも焼魚定食やハムエッグ定食を出す所(右下の写真のメニュー)が、スタンド看板に「浅草芸人 御用達の店 喫茶ブロンディ」(下の左から2番目の写真)と謳っている姿勢の表れでしょう。
写真T3:東京浅草の「純喫茶 ブロンディ」。写真T3-2:「純喫茶 ブロンディ」の看板群。写真T3-3:「純喫茶 ブロンディ」のドアの表示。写真T3-4:「純喫茶 ブロンディ」のモーニング・メニュー。

  ●東京のその他の地域

    ◆「純喫茶 渚」

 浅草に隣接する上野界隈も純喫茶が多く残る地域です。下はJR御徒町駅南口の西の松坂屋別館手前に在る「純喫茶 渚」東京都台東区上野3丁目、07年4月11日撮影)です。
写真T7:東京上野の「純喫茶 渚」。写真T7-2:「純喫茶 渚」のタツノオトシゴのマーク。 左の写真の様にビルの3階部分に大きな「純」の字入りの張り出し看板が目立ちます。その看板の中央には赤いタツノオトシゴがシルクハットを被って向き合って居ます(右の写真)。
写真T7-3:「純喫茶 渚」のスタンド看板。
 右は「純」の字入りの青いスタンド看板の拡大です。入口の黒い庇には
 COFFEE NAGISA
と書かれて居ます。
写真T7-4:「純喫茶 渚」の漆塗りの木皿。
 店内は40人位入れる広さで、BGMはムード音楽系で落ち着いた雰囲気です。地元の人の他、アメ横に買い出しに来る人々など、如何にも上野らしい雑多な客層で賑わって居ます。
 右は私が注文したアイスコーヒーのグラスを載せた皿ですが、漆塗りの木皿です。こういう所が「純」なのです。
 

    ◆「純喫茶 ロザリオ」

 下は神保町すずらん通りの「純喫茶 ロザリオ」東京都千代田区神田神保町1丁目、07年4月10日撮影)です。神保町は昔は学生街でしたが今は大分サラリーマンの街に変貌して居ます。この店は”知る人ぞ知る”店ですが裏返せば”知らない人は素通りする”店です。庇(ひさし)や入口ドアに「純」の字が読み取れます(左下と中央下の写真)。右下のスタンド看板には「喫茶」だけですが、注目すべきはメニューの一部に「ぞうすい各種」と書かれて居る点でしょう。喫茶店で雑炊(ぞうすい)を食わす店は、滅多には在りませんゾー!
写真T5:東京神田の「純喫茶 ロザリオ」。写真T5-2:「純喫茶 ロザリオ」の入口ドア。写真T5-3:「純喫茶 ロザリオ」の看板のメニュー。
写真T5-4:「純喫茶 ロザリオ」の店内。
 店は入口ドアを潜って地下1階に在ります。右が店内の様子です、テーブル席で20名位でしょうか。酒類は無しですが、食べ物は豊富です。中でもスパゲッティ・ナポリタン(Ψ5)は老ママ、否々、姫ママのお薦めです。ママは昔イタリアのナポリを訪れ、ナポリにスパゲッティ・ナポリタンが無いことに気付き、それで日本でトマト・ケチャップ(Ψ5-1)仕込みのスパゲッティ・ナポリタンを出すのに自信を得たそうです。
 そのママ特製のスパゲッティ・ナポリタンは料理雑誌にも紹介されたそうですので、一度ご賞味下さい。創業は昭和40年代前半(1967年頃)とのことです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 神田神保町から御茶ノ水に掛けては、嘗ては古書店や家内印刷所が建ち並ぶ書生臭い街で純喫茶が幾軒か在ったのですが、今私はこのロザリオ以外は知りません。この辺りはバブル前の1980年代後半に”地上げ屋”の餌食にされた所で、純喫茶もその頃に立ち退いて行ったものと思われます。今の神田は管理されたサラリーマンの街に変貌しました。

    ◆「純喫茶 エデン」

 この日は07年3月19日です。私は東京では巣鴨の「とげぬき地蔵」の商店街が好きで時々行きます -実は今日び行った!- ので巣鴨で純喫茶を探して居ますが、意外にも”在りそうで無い”のが巣鴨です(←それについては「考察」で触れます)。
 しかし隣街の大塚で見付けて在りましたので、東京メトロ丸の内線の新大塚駅傍の「純喫茶 エデン」東京都豊島区大塚4丁目、07年3月19日撮影)に”閑人O”さんを案内して行きました。9:07に到着し左下の写真の様に庇とスタンド看板に「純」の字が見えますね(看板の後ろは私)。看板には「喫茶室 挽き立ての珈琲 エデン」と書かれて居ます。
写真T4:東京新大塚の「純喫茶 エデン」。 下中央の御仁が”閑人O”さんです。編集の関係上後に来て居ますが、時系列的にが純喫茶にハマったのはこの時で、やがて「純喫茶探偵団」の団員として大活躍します。
写真T4-2:「純喫茶 エデン」のスタンド看板の後ろの私。写真T4-3:「純喫茶 エデン」の店内。
 右上が店内の様子です。店内はご覧の様に深緑のソファーが並びカウンター席と合わせ20数名程度ですが程好い広さと言えましょう。BGMは静かなジャズで、カウンターの中で初老の粋なマスターがコーヒーを丁寧に淹れて呉れる「純」な雰囲気の喫茶店です。マスターにお尋ねしたら創業は1959(昭和34)年だそうです。
 創当時は周りに幾つか「純」の看板を掲げた店が他にも在ったと思われますが、最近急速に近代化の波を被っている新大塚界隈で昔乍らの「純」を看板にして居る店はもうここだけに成りました。旧き佳き時代の雰囲気を今に伝える店の一つです。

 さて、ざっとこの日の予定を言うと、8:30頃巣鴨(とげぬき地蔵など)を散歩、9:00JR大塚駅で”閑人O”さんと待ち合わせ、そこから歩いてエデン迄歩き9:07に到着した訳です(上の写真)。そしてコーヒーを飲み上の話を伺って9:40頃エデンを出て、”閑人O”さんのご要望で東京メトロ半蔵門線で水天宮(10:15~10:35位) -創業大正13(1924)年の「小まつや」というお菓子屋のお婆さんは新婚旅行の写真を持って居ました!- に寄りました。そして東京メトロで日本橋駅で降りて10:48頃に偶然「愛花夢」という喫茶店を見付けたのです。

        ◆◆◆番外編 - 東京で偶然見付けた「愛花夢」

 何故「番外編」なのか?、と言うと「この節」は全く予定に無かったのです。つまり「愛花夢」という喫茶店は偶然見付けたのですが、しかし純喫茶では無いので本来なら掲載資格は無いのです。
 しかし、間も無く旗揚げする(←本ページは時系列には並んで無い)「純喫茶探偵団」のメンバーは全員が私の主宰する【ブラボー、クラシック音楽!】の会員の方ですので、07年3月19日時点では【ブラボー、クラシック音楽!】は大阪の「愛花夢」という喫茶店大阪市北区末広町)を月1度借りて居たのです。”閑人O”さんも【ブラボー、クラシック音楽!】の会員且つ「純喫茶探偵団」のメンバーなのです!

 大阪の「愛花夢」は「「ブラボー、クラシック音楽!」を振り返って」に拠ると、第23回(2006年11月1日(水))第32回(2007年8月1日(水))迄を愛花夢ホールを借りて居ました。このホールは専門的に音響設計された素晴らしいホールでしたが残念乍ら07年8月31日でホールは閉鎖に成りました。ということで「純喫茶探偵団」の皆さんは「愛花夢」という名前に特別な親近感が在りました。こういう事なので、番外編として東京の愛花夢を載せる事にしました。

 左が「コーヒーハウス 愛花夢」東京都中央区日本橋2丁目)です。大武ビルの1階、2階は床屋です。店内はそれ程広くは無くテーブル席が数脚です。
 しかし、この日は予定が一杯でしたので覗くだけで失礼しました。

 私はこの界隈は以前にも歩いたことが有り街の様子は大体は覚えて居ます。ここは東京駅八重洲口からも徒歩で10分位で来れます。
 この後、私と”閑人O”さんは何や彼やと喋り乍ら「そんなら日本橋1-1」へ行って見ようと道路標識を見乍ら歩いて進みました。日本橋が初めて架けられたのは徳川家康が征夷大将軍に任命され幕府を開いた年、即ち慶長8(1603)年と伝えられて居ます。歌川広重作「東海道五十三次」の第1景の絵が日本橋です。そして「日本橋1-1」に着きましたので記念に撮影しました(11:20頃)。この写真は「私自身の写真集・海外と日本編」に載せて在りますので見たい方はどうぞ!

 ”閑人O”さんは中々顔が広い人で、秋葉原に知り合いが店を出している(←「大阪曽根崎/お初天神 ほんまもんの大阪の味 「お好み焼 ゆかり」」と店の看板で謳う)ということで、先ずはそこで昼食(←お好み焼きとビール)を取りました(12:30~13:30頃)。そして午後は”閑人O”さんと秋葉原のメイド喫茶を視察に行きました。
    {この節は2015年4月20日に追加}

      ◆◆”閑人O”さんとメイド喫茶視察

 07年3月19日”閑人O”さんと一緒に秋葉原のメイド喫茶(※6)(直訳:女中喫茶)を視察して来ました。
 14:10頃から私たちは今流行のちょっとだけメイド喫茶を覗いて見ました。私たちが入ったのは「CURE MAID CAFE」東京都千代田区外神田3丁目、07年3月19日撮影)(左の写真)という茶店です。"CURE" という語は、「(病気・病人を)治す、癒すという意味です。正にメイド喫茶の客は精神病の一種である事を自ら認めて居ます。
 ここは当時「行ってみたいメイド喫茶店ランキング」(ネットから印刷)のトップ100の第2位にランクされてた店ですが、「秋葉原メイド喫茶地図」(ネットから印刷)で探し、普通の感覚では絶対流行らないビルの6階か7階に在り、並ぶこと40分、やっと入ったら撮影禁止と来たもんだ。でも、隠し撮りしましたが(右の写真、14:47頃)。店内はこの写真よりずっと暗く手ブレが入ってますが、写真を大分明るく補正しました。”閑人O”さんの顔が明るく写り、奥にメイドが2人写って居ます。
 で、店の女の子の衣装ですが、頭に被っている看護婦の白いキャップを模した帽子、白いブラウス、黒のロングスカートメイド・コスチューム(※6-1)(←私はそう呼んで居ます、日本語で「女中衣装」です)です。私たちはバナナジュースを飲み30分で出て来ました(15:20頃)!

    ++++ メイド喫茶の精神病分析 ++++
 私の分析では、メイド喫茶の女店員はロングスカートが特徴でミニスカートは皆無です。要するに”頭の可笑しい男[の子]が甘えられる”事が売りな訳です。そういう意味では看護婦も甘えたいという欲望を満足させてくれるアイテムの一つです。メイド喫茶に来る男[の子]は今流行の”草食系”です。これは精神病の一種です。
 店の客はオタクの若い男だけで無く、最近は有名に成ったので結構若い女性が居ます。何でも、今は1日に5、6軒もメイド喫茶をハシゴするのが流行りだそうです、いやはや!
                (>v<)

 しかし、変な物が流行る時代ですが、やがて流行が廃れたらコスプレ系風俗産業の”変種”(※6-2、※6-3)としての道を辿るんでしょう。そのことは既に
  「[快楽主義者の喫茶店#2]-国性爺珈琲盛衰記」

の「喫茶店の分類」で指摘して居ます。
 メイド喫茶は女店員がメイド・コスチュームを着て居ますが、ロングスカートが特徴でミニスカートは皆無という点にこの精神病を解明する手掛かりが有る、と思います。
    ---------------------


 その直ぐ後の07年4月下旬~5月上旬(=所謂ゴールデン・ウィーク)にドイツを旅しましたが、ドイツの喫茶店は日本で言うメイド喫茶が多いという事を知りました。即ち、女店員は皆ロングスカートを穿いて居ます。{このドイツの旅の記事は08年6月4日に追加}

 その後、私と”閑人O”さんは巣籠に行き最近出来た飲み屋に行きました(18:00~19:00頃)。この店は先に1000円券を買い(←実は1000円券は1050円分在るので、客からしたら50円得した気分に成れる所がミソ)、例えばビールが400円とすると400円券を千切る、というシステムです。後200円券しか無く冷や奴が250円の時はチケットに50円を追加すれば良い訳です。この店が結構流行って居ます。2007年という年は不況のドン底でしたから。
 私はこの日は巣籠に泊まりました。”閑人O”さんは、...私は知りません!

    ◆「純喫茶 べる」

 下は大塚の隣街、池袋駅東口の三越百貨店前の通りに在る「純喫茶 べる」東京都豊島区東池袋1丁目)ですが、この写真は表通りを南に折れた裏通り側の入口です(07年4月10日撮影)。つまり、表通りと裏通りに2つの入口(或いは入口と出口か?)が有ります。
写真T6:東京池袋の「純喫茶 べる」。写真T6-2:「純喫茶 べる」の「純」の字看板。写真T6-3:「純喫茶 べる」の軒先の店名。
 「純」の字が入っているのは入口左側の吊り看板のみ(中央の写真)、入口右側のスタンド看板(左の写真)や屋根の軒先(右上の写真)には同じ書体で「COFFEE SHOP べる」と成って居ます。場所柄、夕方の待ち合わせ客が多い様です。
 店内はムード音楽が静かに流れ健全ムードですがビール/ジンライム/コークハイ/ウィスキーなど酒類も置き、食べ物ではスパゲッティの品数が豊富です。
 夏の夕方はビールで待ち合わせるのも良いでしょう。

                (-_*)

 私は新宿で「純」の字を探しましたが見付けられませんでした。私が東京に居た1974年~78年頃は未だ在りましたが。

  ●横浜

 東京に比べると横浜の純喫茶はぐっと少なく成り、希少価値度が増します。

    ◆「純喫茶 ちぐさ」

写真Y1:横浜野毛の「純喫茶 ちぐさ」。 右は1933(昭和8)年創業、我が国のジャズ喫茶の草分けとして知る人ぞ知る「純喫茶 ちぐさ」横浜市中区野毛町1丁目、05年5月5日夕方撮影(←5.5.5のゾロ目は偶然)ですが、場所が場所だけに知らない人が偶然この店に出会うことは殆ど有りません。ここの客は皆目指して来るのです。
写真Y1-2:創業年を記した「ちぐさ」のコーヒーカップ型の看板。 庇脇のコーヒーカップ型の看板の拡大が左の写真ですが、ご覧の様に「1933 CHIGUSA」と創業年が記されて居ます。
 日本の喫茶店の歴史が1880年頃が最初ですから可なり早いです。
写真Y1-3:「純喫茶 ちぐさ」の看板。
 そして庇の上の黄色い張り出し看板の拡大が左の写真、確かに「純」の字が在ります。創業時から「純」を名乗って居れば純喫茶の草分けでもあります(→後で詳述)。「ちぐさ」は本にも載って居ます(△2のp72)。
 店内は、遠く成りつつ在る記憶では15人も入れば満杯と思える狭い空間でした。一段高い”床の間”が設えて在り”床の間”の上に大型スピーカーがデンと鎮座して居たのが非常に印象的でした、正に鎮座なのです。この店ではこの大型スピーカーが主役で、客は大型スピーカーから出て来る音をコーヒーを啜り乍ら恭しく”拝聴”したものです。酒類を出さず純然たる「喫茶の店」、即ち「純」のスタイルジャズへの集中を守り通した店なのでジャズの素人(シロウト)は圧迫感に気圧されそうでした。
 私は高校1年生位の時に初めてこの店に”恐る恐る”入った時の事を覚えて居ます。私もジャズは聴いて居ましたが未だ曲名を覚える程は聴いて無いので、それでこういう店に入るには圧迫感を感じて気が引けたのです。

      ◆◆横浜のジャズ

 その頃の横浜はジャズの先進地域 -厚木には米軍基地が在る- でした。この頃はFEN(Far East Network)(※7) -米軍基地向けのラジオ放送、勿論「米語」の放送です- が良くてね、日本人は進駐軍放送って呼んでましたが、良く聴きました。或る時FENに合わせたら日本のラジオ局よりも断然早く新しい洋楽が入って来たので私は中学1年生位から専らFENを聴きました。英語(=米語)って言うのは全部頭の中を抜けて行くので試験中もずっと聴いて居ました。但し、親が煩いのでイヤホーンで聴きました。日本のラジオ局はFENより3ヶ月~半年は遅かった事を良く覚えて居ます。日曜日には午前中は教会に行く時間なのでクラシック音楽を流す訳ですが、バッハ(Bach)の事を”バック”と呼んで居ました、まぁ確かに英語読みしたらそう成りますが。
 嘗て秋吉敏子/渡辺貞夫/日野皓正などの国産モダンジャズを牽引したビッグネームたちが、「ちぐさ」のレコードを聴いて修行した話は今や伝説化して居ます。彼らが横浜に来たのは米軍キャンプ(※7-1)が在ったからです。横浜にはGI(ヤンキーの兵隊)(※7-2)も多かったですね、そう言えばGIブルースという歌がプレスリー(Ψ3-1)に在りましたね。

                (-_*)

 当時はレコードが「高嶺の花」で、しかも”そんじょそこら”のレコード店ではジャズのレコードなど余り置いて無かった時代でしたのでマスターの吉田衛さんもレコードの入手には苦労したと思います。しかし、だからこそ後のビッグネームが若かりし頃に入り浸って居たんですね。それ故にこの店は通常「ジャズ喫茶」の範疇で語られます。創業者の吉田マスター亡き後、今は妹さんが週末のみ営業して居るそうですが、大阪の住人に成った私は昔しか知りません。この日は「ちぐさ」は店内に灯りが点り営業して居ましたが、私は友人と近くの焼鳥屋に行きました(←野毛は焼鳥屋が非常に多い)。実は「ちぐさ」は焼鳥屋街の外れに在ります。
 6000枚に及ぶレコードも然る事乍ら、店自体がレトロで骨董品的です。夕方ここでコーヒーを飲み、日が暮れてから花咲町の「ジャズ喫茶 ダウンビート」 -ここは酒も飲め、勿論コーヒー1杯でも粘れます- に行くのが”その道の通”とか?!

      ◆◆純喫茶の老舗「ちぐさ」の閉店

 「ちぐさ」の紹介文は初稿で書きましたが、その後07年1月末で閉店したことをニュースで知りました。妹さんも既に高齢でビル建設に伴う立ち退きに応じたとのこと。東京のベッドタウン(=寝に帰る街)と化し港に未来が無くなった跡地に「みなとみらい21」を出現させた横浜の文化レベルはこの程度ということなのでしょう。
    {この閉店の記事は07年2月20日に追加}

 その後、私は所用で08年09月26日に横浜に行った際に野毛山に在る横浜市立中央図書館で吉田マスターの著書『横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年』をコピーして来ました(←期せずしてアカボシゴマダラを撮った日)。その「あとがき」に吉田さんは「昭和8年に現在の地に、店名もそのままの”ちぐさ”をまさに居抜きで買って、ジャズ専門の店を始めた」と在りました(△1のp254)。略年譜には吉田さん20歳の時、650円で買い」と在ります(△1のp252)。当時の650円がどれ程の価値か知りませんが「普通のレコードが1円50銭」と在り(△1のp21)、「居抜きで買う」(※8)とは家具や設備付きの店舗購入ですからから凡そレコード450枚分の金額で店を丸ごと買った訳です。因みに当時はSPレコード(Ψ6~Ψ6-2) -78RPM(Ψ6-3)で録音時間が数分しか無い- です。
 それは兎に角、ジャズ喫茶「ちぐさ」は前出の看板通りに昭和8(1933)年からですが純喫茶「ちぐさ」はそれ以前に別の経営者が始めたものだという事が判ったのです。
 もし1933年当初から「純」の字を掲げて居たとすると日本の純喫茶の草分け的存在である事は間違い有りません。或いは前のオーナーが1933年以前に「純」の字を掲げて居た可能性も在るのですが今と成っては知る由も有りません。
 しかし時は軍制下で次第に第二次大戦へと迷走、戦争中ジャズは”敵性音楽”という烙印を押され御法度、「コーヒーの原料は9割までが焼き芋(△1のp23)、吉田さんも兵役で中国へ、無事帰国したら空襲で店は無し(勿論レコードも無し)。そんな中で昭和23(1948)年にバラックから店を再開し、戦後は「コーヒー1杯10円、レコード1枚3千円、客は米軍キャンプで演奏する日本人ミュージシャンと米軍兵士」からスタートしました(△1のp255)。吉田マスターの本にはジャズだけで無く当時の喫茶店の状況や横浜の忘れられつつ在る歴史が記録されて居ますが、座談のページに「客としてこんなに最初入りにくい店はない」「水も出ない」という意見は全く同感で、私が感じた圧迫感はこれです。しかしマスター曰く「海外じゃ水なんか出ないよ。...<中略>...ジャズをなんとかいい音で聴かせるというのが、あたしの努力であって、それ以外のサービスはないよ。」(△1のp50~51)は天晴れ哉!!
    {この記事は08年12月30日に追加}

 ■沖縄圏

  ●那覇

    ◆「純喫茶 尚家」

 2010年8月11日17時36分にケイタイで写真を撮り、それを私に転送して教えて呉れたのは”パワフル・ママI”さんです、実は”パワフル・ママI”さんは沖縄出身です。
 右が”パワフル・ママI”さんの写真です。ちゃんと「純」の字が入って居ますので、合格で~す!
 又、カルチャーサロン、電話番号が098-863-1778と書いて在ります。住所は那覇市牧志3丁目の1階と言うよりも桜坂劇場の向かい側と言った方が早いですね。直ぐ横の道は希望が丘公園に通じて居ます。

        (-_@)

 実は2010年の段階では、私が沖縄に来るなど全くそんな考えは無かったのです。ところが私は2011年12月2日21時15分に脳出血で倒れ3ヶ月入院、その後約1年間をリハビリをし、2013年3月から沖縄県那覇市に来てここを「終の栖」として暮らして居ます。やはり、私の様な病気をした者には「暖かい」という事が何よりも有り難いのです。それにしても人生は摩訶不思議ですね!!
 私が沖縄に来ることに成った経緯は▼下のページ▼をご覧下さい。
  2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)

 以上の様な訳で私は沖縄の人(沖縄方言でウチナーンチュと言います)に成りましたので、沖縄の皆さん、宜しく!!

                (~o~)

 左のスタンド看板は2013年5月30日に私が沖縄に来てから撮りました。琉球王家と同じ尚家(しょうけ) -ちゃんと読みが尚の字の下に Syouke とローマ字で入ってます- を店の名にしてますが、ここのママさんが中村尚子と言いますので「尚家」はママを象徴しても居るのです。そしてカルチャーサロンと在りますが、ここでは大正琴(※9)について週に何回かそちらの方で利用して居ます。実際私はもう10回以上「純喫茶」のコーヒーを飲むべく来ましたが必ずカルチャーサロンとぶつかってアウトです。
 カルチャーサロンでは「大正琴や生け花のレッスンを楽しくやっております。ぜひおいしいお茶を飲みながら、ゆんたくの花を咲かせましょう。」とママが宣伝して居ます。
 2017年4月24日にママに話を伺ったら「今後暫くは喫茶店を休みカルチャーサロン1本で遣って行く」との事、残念ですが仕方有りません。ここで純喫茶を始めたのは平成21(2009)年だそうです。ですから”パワフル・ママI”さんが写真を送ってくれたのが開業1年目の年です。ここに引っ越す前は今の「むつみ橋」交差点のスターバックスの辺りで純喫茶「尚家」を4年程遣っていたそうです。純喫茶という名にしたのは「純粋のコーヒーやティー」を飲ませる店の意味の様です。
 上の写真には写って居ませんが、この道路の先が可なり急な坂に成って居て桜坂と言われる所以です。
    {この節は2017年4月25日に最終更新}

    ◆「純喫茶 たんぽぽ」


                ↑      ↑
              私の自転車   バス停

 左上の写真が「純喫茶 たんぽぽ」那覇市寄宮3丁目、2013年11月29日撮影)です。喫茶店の構造は下の様に成って居ます。

       _________
  純喫茶 /Cafe Rest たんぽぽ \ お食事
  ───/        ┌─┐\───
              │入│
              │口│

 「たんぽぽ」の字がアンバランスな程小さいので右上に拡大写真を載せます。1990年代の前半に純喫茶としてオープンし、それ迄は惣菜とかを売る”コンビニ的な店”だったそうです。そう言われると、確かに元”コンビニ的な店”という感じがします。そして、ここは那覇市役所の真和志支所の直ぐ近くで、左上の写真の右端に見えるのがバス停(真和志支所前)です。私も転入届けとか全部この真和志支所で済んで仕舞いました、なので私は市役所の本庁には1回も行ってません。兎に角、ここは滅茶苦茶便利な所に在るのです。ここは私の家から自転車で5~6分(←私の赤い自転車が見えて居ます)、歩いても10分位です。店内は広く4人掛けのゲーム機の椅子が10位在ります。お昼を食べに来るお客さんが多い感じです、それで "Cafe Rest" と書いてある訳です。夕方からはビールも在ります。
 この店で思い出すのは2014年暮れに『2014年トホホの阪神タイガース』(△3)という本を出版したのですが、ここでモーニングサービス(¥500)を食べ乍ら阪神タイガースの記事をどう纏めようかとスポーツ新聞 -ここはスポ新が複数在った!- を読み乍ら考えてましたね。特に日本シリーズの時は毎日通ってました。
 ところが、2016年12月8日にここを通ったら「たんぽぽ」は無くなり、跡には飲み屋が営業してました。半年前は「たんぽぽ」は営業してましたが。ここは上記の様に阪神タイガースの思い出と共に在ったのです、...あぁ、残念!{「たんぽぽ」消失の記事は2016年12月8日に追加}

              ◇◆◇◆◇

 斯くて那覇市でも純喫茶が無くなりつつあります。しかし沖縄では本土(=内地)の人が持って居る「純喫茶」に関するイメージ(←次章で説明)は無いことが解りました。だから2009年の「尚家」1990年代前半の「たんぽぽ」に純喫茶をオープンして居るのです、これは内地では考えられない事です。
 そもそも沖縄には喫茶店が少ないのです。皆さんが観光客として来る様な所には在りますが、ちょっと繁華街を過ぎたら喫茶店の数は極端に少ないのです。これは中国文化の影響が強い為で沖縄は元来「お茶文化」が濃厚なのです。きっと沖縄の人は内地よりも喫茶店やコーヒーに対し「純」なのです!
    {この段は2017年4月25日に追加}

区切り線。

 ■純喫茶の思い出 - 純喫茶は「ハイソな土地には皆無」

 それは1950年代~60年代の東京です。その当時「純喫茶」という看板を掲げた喫茶店には、生気が無く彼女も無い”文学青年の成り損ない”の様な若者が、入り浸って居た様に思います。長髪の学生が多く、体育会系的な人種は皆無だった様にも記憶して居ます。彼等は大抵本を小脇に抱え、安タバコをポケットに突っ込んで居ましたね。
 戦後暫くの間はハイカラ(※10)な存在だった一般の喫茶店の中で、「純」を名乗る純喫茶は良く言えば家庭的/普段着的、悪く言えば垢抜けない/非洗練な/カッコ好く無い存在でした。と言うのは私の知る純喫茶で「ブルーマウンテン」「モカ」「キリマンジャロ」などの”通(つう)”が好むストレート珈琲を飲ませる様な専門店は少なく、大抵は出来合いのブレンド珈琲のみです。お洒落な雰囲気に綺麗なママさんという取り合わせも少なく、店のお婆さんが空いて居るテーブルでご飯食べたりします。垢抜けたウェートレスも皆無に近く、大抵は近所の姉ちゃん店の娘が手伝ったりします。そして店の2階が住居だったりもします。

 そういう純喫茶に対する私のイメージは、既に2007年7月1日[快楽主義者の喫茶店#2]-[国性爺珈琲盛衰記」の議論の中で語って居ます。その核心部分を抽出すると、
        ▼▼▼

 「但し現在このことが、純喫茶は酒類を出さないコーヒー専門店である、かのように巷間誤って伝えられています。T性交さんもネット検索で、そのような記述を多く目にしていると思いますが。しかし、それは誤りです。
 反論の第1は、純喫茶の出し物は”雑多”で、食い物に至っては雑炊や「おでん」など、凡そ洋風喫茶店の範疇外の物を平気で出す店が多い。を出す店も多く、今は殆ど流行らないハイボールを出す店の割合が多いのも泣かせます。
 反論の第2は、もしコーヒーや紅茶専門店ならば、銀座・青山・六本木・田園調布や芦屋に在っても良さそうですが、純喫茶はこういうハイソな土地には皆無(ハイソとは高級住宅街)です。」
 私は東京の純喫茶が浅草周辺に多く巣鴨に無い(←私の知る限り)、ということが純喫茶の性格を考える上で重要だと考えています。つまり巣鴨は浅草と同様に線香臭く年寄り臭い街ですが、ここは駒込の六義園に近く文京区に接する”山の手”なのです。


        ▲▲▲
です。
 つまり純喫茶は東京の浅草の様な所に偏在して居り、取り分け純喫茶は「ハイソな土地には皆無」という事実こそが「純喫茶を解く鍵」なのです!!
 尚、2007年時点では「今は殆ど流行らないハイボールを出す店」だったのですが、2008年後半からハイボール(Ψ1)が俄かに流行り出して居ます。

                (-_*)

 冒頭の「戯れ歌」は純喫茶に対する私の”独断と偏見”に満ちた主観的イメージを咄嗟に詠んだものでした。しかし今と成ってはそういう雰囲気が懐かしいですね。今は時流に乗ってるがワンパターンだったり、変に”余所行き”だったり、全国的なチェーン店だったり、つまり喫茶店業界のグローバル化が進んで仕舞いました。純喫茶の思い出も、古い写真がセピア色に退色する様に、段々と霧の向こう側に淡く霞(かす)んで行きつつ在ります。
 現在はメイド喫茶なる物がテレビに取り上げられ流行って居ます。嘗てはノーパン喫茶も一時期大流行しました、今はノーパンしゃぶしゃぶに進化した様ですが。こういう”流行り物”とは無縁なのが純喫茶で、静かに”廃れ”を待って居る感じです。

 ■考察 - 純喫茶の消滅傾向の原因は何か

 尚、以下の観察は本土に関してのものです。沖縄は以下の観察が当て嵌まりません、沖縄は独自です。{この段は2017年4月25日に追加}

 1950年代~60年代に全盛だった純喫茶が、如何なる原因に因って1970年頃から消滅傾向に入ったかを解明する為には、戦後の世相の変遷を辿ってみる必要が有りますが、それについての詳論は07年に掲載した論考
  戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)

を是非参照して下さい。ここではその分析結果から次の様に言うことが出来ると思います。つまり戦後日本は1964年に開催された東京オリンピックで”戦後的なる物”を葬り去った為にその前後で人々の心に段差(=ズレ)が生じ、この年が大きな分水嶺を成して居るということで、これが私が言う「1964(昭和39)年分水嶺説」です。
 この説を論拠立てたのは07年の上の論考ですが、仮説的に提起したのは03年の「ぶらり浅草」の中でした。即ち、64年以前の人々は「カッコ悪くてもガムシャラ」に働いたのに対し、65年以降は「見掛けのカッコ好さ」を求め世の中を浮遊し始めたのです。そして「純喫茶が消え始めた時期が1970年頃という事実は重要です。
 私は

 純喫茶の持つ”戦後的な雰囲気”「1964年分水嶺説」に拠り、65年以降の「カッコ好さ」志向とズレを生じ、約5年のタイムラグを置いて1970年頃から純喫茶が徐々に消滅する方向に向かった。

と結論します。

 このズレは純喫茶だけの現象では無く殆ど有らゆる場面に於いて「指向性(=嗜好性)の違い」として観察出来ます。「純喫茶の思い出」の章で述べた様なイメージも「カッコ好さ」とは対極です。
 今在る「純」を名乗る喫茶店の多くには何処かしら64年以前の”戦後復興期の匂い”が漂って居ます。しかし逆に私は、純喫茶が持つカッコウワベファッションでは無い「何か」に、或る種の郷愁と共感を覚えるのです。それは多分、私自身が同じく戦後復興期を生きて来た”泥臭い人間”だからです。
 その郷愁と共感とは、ザ・ビートルズ(※5-1)以前のオールディーズ(Ψ3)の音楽を聴いた時に感じて仕舞う懐かしさに似て居ます。ビートルズの音楽が津波の様に日本を席巻したのは64~66年 -初来日は66年- です。純喫茶のBGMに50年代~60年代の低音量のジャズが多いのも頷けます。
 浅草という場所には”戦後復興期の匂い”が強く立ち込めて居ますが、大阪の章の冒頭で記した様に浅草は純喫茶の数が多い地域なのです。純喫茶が赤坂・六本木や芦屋の様なカッコ好い高級なイメージの土地には皆無で、下町風な土地に多く残っているのも、「カッコ好さ」では無い、と言う私の説を裏付けていると思います。

 ■コーヒー一口メモ - コーヒーの歴史と日本の「コーヒー文化」

 ここで簡単にコーヒー店についてお勉強しましょう。
 コーヒーを飲むという習慣は10世紀前後エチオピア(※11)で始まり、それからアラビアへ広がり、遂に回教国(=イスラム教の国)を代表する飲み物と成りました。最初のコーヒー店はメッカと言われ、ヨーロッパやロシアへはトルコが中継して居ます(△2のp3)。
 ところで皆さん、昔流行った歌で「コーヒー・ルンバ」という曲を覚えて居ますか?、西田佐知子が歌って1961年にヒットした歌を。作詞:J.M.Perroni・中沢清二、作曲:J.M.Perroni です。

   ♪昔アラブの偉い お坊さんが
    恋を忘れた あわれな男に
    しびれるような 香りいっぱいの
    こはく色した飲みものを 教えてあげました

        ...<中略>...

    コーヒー、モカマタリ みんな陽気に飲んで踊ろう
    愛のコーヒー・ルンバ♪

 この中で「こはく色した飲みもの」、これがコーヒーなのです(←「こはく」は琥珀(※12)です)。この歌は著作権の関係(←著作者死後50年間存続)で歌詞を全部書く訳には行かないのですが、要するにコーヒーはこの歌の歌詞「昔アラブの偉い お坊さんが ... こはく色した飲みものを 教えてあげました」の通りなのです。西田佐知子と言えば「アカシヤの雨にうたれて」(1962年)という歌も在りましたね。

 世界で初の本格的コーヒー店1554年コンスタンチノープルイスタンブールの旧称)だそうです。そしてコーヒーに砂糖を入れたのは1600年頃カイロから、ミルクは1660年頃と言われて居ます。そしてその頃、1650年英国のオックスフォードに西欧初のコーヒー店が生まれました(△2のp3)。ヨーロッパ人のコーヒーの需要が爆発的に拡大した時期は大航海時代の後期(※13)に当たります。つまりコーヒーの産地は熱帯と亜熱帯の一部ですから、香料やサトウキビなどと同じく植民地栽培と密接に結び付いて居ました。即ち、オランダ人がジャワ島でコーヒーの木の栽培に成功したのが17世紀末で、次いでフランス人がマルティニク島(※13-1)で栽培に成功し中南米にコーヒーが入りました。今のブラジル・コーヒーです。コーヒー店もパリウィーンハンブルクに、更にニューヨークに広まりました(△2のp6、10~11)。

 日本ではコーヒー店は幕末の横浜に始まって居ます。所謂喫茶店の最初は1878年放香堂(神戸)1886年洗愁亭(東京日本橋)1888年可否茶館(東京下谷) -鄭成功の末裔・鄭永慶が始めた- などが最初期の店です。可否茶館は寧ろカフェ(cafe)(※14)でコーヒーを飲むだけで無く社交場でした。
 日本は江戸時代迄は鎖国をしていた関係で特殊の人を除いてコーヒーを口にしなかったのですが、明治以降の欧化政策に依って殆どの人がコーヒーを日常的に楽しむ様に成り、今や「コーヒー文化(Coffee culture)」が”当たり前”の文化の一つに成って居ます(←台北市は「コーヒー文化」、沖縄は先程述べた様に「お茶文化」です)。
    {この章は09年2月4日に追加}

 ■結び - 純喫茶の「純」とは

 昔からの疑問なのですが、純喫茶の「純」とは一体何を意味するのか?
 未だに解らない疑問です。私は勝手に

  純粋・純情・純朴や純潔の「純」、或いは不純の「純」
  純文学の「純」? (←純文学志向の客が良く来た)
  純珈琲の「純」? (←黒くて苦い珈琲が多かった)
  純子の「純」


などと想像して一応の解決を図って居ます。それを読み込んだのが03年に捻り出した冒頭の「戯れ歌」でした。そこで最後にもう一捻り。

  喫茶 セピア色なる 思い出よ
    なる意味を 教えてたもれ


      月海、「戯れ歌」に戯れを重ね詠みける歌一首

 金満スポットの六本木ヒルズに「純心」という名前の「純喫茶」を出したらオモロイでっしゃろな、焼芋コーヒーは如何ですかな?!、オッホッホ!
 まぁ、「戯れ歌」や「戯れ言」のお口直しには

  「純喫茶の純珈琲」

をどうぞ!!

                (+_@;)
                ┌U_

φ-- おしまい --ψ

【純喫茶に特徴的な項目の脚注】
Ψ1:ハイボール(highball)は、ウィスキーやジンなどを炭酸水で割った飲料。多く氷を浮べて飲む。
Ψ1-1:酎ハイは、(「焼酎ハイボール」の略)焼酎を炭酸水で割った飲み物。

Ψ2:レトロ(retro[仏])は、復古調懐古的。或る時代の様式を真似た様(さま)。又、それを好むこと。「―なインテリア」「―趣味」。

Ψ3:オールディーズ(oldies)とは、昔流行った歌や曲。主に1950~60年代初めのポップスを指す。エルビス・プレスリーポール・アンカニール・セダカコニー・フランシスなどのポップス。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
Ψ3-1:プレスリー(Elvis Aaron Presley)は、アメリカのポピュラー歌手/映画俳優(1935~1977)。1956年に吹き込んだ「ハートブレーク・ホテル」でロカビリー旋風を起こし、人気を得る。ロックを若者文化に定着させた。他に「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」「ラヴ・ミー・テンダー」など。「ロックの王様」と呼ばれる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

Ψ4:「もんじゃ」とは「もんじゃ焼き」のこと。
Ψ4-1:もんじゃ焼き(―やき)とは、小麦粉を緩く溶き、具を余り入れずに、鉄板で焼き乍ら食べる料理。焼く時に鉄板に種(たね)で字を書いて楽しんだことで「文字焼き」の転と言う。
 補足すると、これは東京下町の食べ物で、爪楊枝で掬って食べ”舐めた爪楊枝で又掬う”ので関西人の中にはゲテモノ視する人が多く居ます。

Ψ5:ナポリタン(napolitain[仏])とは、ナポリ風の料理。特にトマト・ソースを用いたスパゲッティ・ナポリタンを言う。
 補足すると、日本では専門店以外は大抵の場合ソースとしてトマト・ケチャップを使い、ナポリタンは麺とケチャップと具が混ざった形で出て来ます。これに対し麺の上に肉入りソースを上から掛けた形で出て来るのがミート・ソースです。
Ψ5-1:トマト・ケチャップ(tomato ketchup)は、トマトを擂り潰したものに、塩・酢・砂糖・香辛料などを加えて濃縮した調味料。

Ψ6:SP/SPレコード(standard playing record)とは、1分間78回転のレコード盤。音色・音量の再生出来る範囲は狭い。最初、機械式に音溝を刻む方式から、1924年頃電気吹き込みに成った。片面5分程度の録音時間。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
Ψ6-1:LP/LPレコード(long playing record)とは、1分間に33回と3分の1回転するレコード盤。1948年アメリカのコロムビア社が開発し、SPに比べ収録時間が6倍程長い事(片面30分位)、音質が飛躍的に向上した事などから音楽ソフトの主役と成ったが、1982年に登場したCDにその座を譲った。しかし一部マニアの根強い支持を得て居る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
Ψ6-2:EP/EPレコード(extended play)とは、1949年アメリカのRCAビクターが開発した1分間45回転のレコード盤。LPよりも演奏時間が短く、小作品(=シングル盤など)の録音用。ドーナツ盤。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
Ψ6-3:RPM/アールピーエム(rpm, revolutions per minuteの略)とは、1分間当たりの回転数を表す。モーターや発動機の回転速度を表示するとき、1,000rpmとか2,000rpmの様に表記する。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【脚注】
※1:セピア(sepia)は、有機性顔料の一。イカの墨汁嚢中の黒褐色の液を乾かしてアルカリ液に溶解し、希塩酸で沈殿させて製する。水彩画に用いる。
※1-1:セピア色(―いろ、sepia color)は、煤けた黒褐色で、古い白黒写真が褐色に変色した色を指すことが多い。

※2:狂歌(きょうか)は、諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌。万葉集の戯笑歌(ぎしょうか)、古今集の誹諧歌の系統を受け継ぐもので、鎌倉・室町時代にも行われ、特に江戸初期及び中期の天明頃に流行した。夷歌(えびすうた)。戯言歌(ざれごとうた)。夷振(ひなぶり、へなぶり)。

※3:カクテル(cocktail)は、[1].ウィスキー/ブランデー/ジン/ウォツカ/リキュールなどの洋酒をベースとし、シロップ/果汁/炭酸飲料/香料/氷片などを調合した混成酒。アメリカから始まった。混合酒。コクテール。
 [2].色々な物を混ぜ合わせたもの。「フルーツ―」「―光線」。
 [3].オードブルの一種。カキ/エビ/カニなどをカクテルソースで和え、カクテルグラスに盛り冷やして供する。コクテール。
※3-1:オン・ザ・ロック/オンザロック(on the rocks)は、氷塊に酒類、特にウィスキーを注いだ飲物。

※4:カラオケ/空オケ(karaoke)は、(歌の無い「空(から)のオーケストラ」の意)
 [1].歌や独奏楽器の部分を抜いて伴奏部のみを録音したもの。
 [2].伴奏部を録音したテープ/ディスクなどに合わせて歌うこと。又、その装置一式。
 補足すると、一般の人が歌うカラオケは1972年頃神戸に起こった。1976年に産業用の8トラックのカートリッジ・テープが出来た。その後カセットやレーザーディスクのカラオケが発達し、1980年代前半頃から爆発的に普及した。1986年にカラオケボックスが岡山県に出来、国民的レジャーとして定着。迅速な曲目選択、エコーが掛かる、音高キーの調節が出来るなどの日本的細やかな技術が凝縮されて世界中に広まり、"karaoke" は国際語に成って居る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※5:ロックはロック・ミュージック(rock music)の略で、ポピュラー音楽の一。1960年代半ばアメリカやイギリスで始まる。ロックンロールなどから発展したもので、電気楽器を使用し、強烈なビートを持つ。
※5-1:ザ・ビートルズ(The Beatles)は、イギリスのロック・グループ。リバプールで誕生。1960年代から1970年代の世界のポピュラー音楽界、若者文化に大きな影響を与えた。メンバーは
  ジョン・レノン(John Lennon) リズムギターとボーカル(1940~1980)
  ポール・マッカートニー(Paul McCartney) ベースギターとボーカル(1942~)
  ジョージ・ハリスン(George Harrison) リードギターとボーカル(1943~2001)
  リンゴ・スター(Ringo Starr) ドラムス(1940~)
の4人。1962年にリンゴが加わり、やがてビートルズ旋風を巻き起こした。1965年に外貨獲得の功績に依りエリザベス女王から勲章を授かる。1966年6月29日に来日1970年解散「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー」「ア・ハードデイズ・ナイト」「イエスタデー」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」他。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※6:メイド喫茶(―きっさ、maid cafe)とは、オタク系コスプレ喫茶の一つ。電気街のメッカとして知られる秋葉原はファミコンの普及と共に1980年代中頃から家庭用テレビゲームの発売地としてゲームオタクの溜まり場に変貌、99年頃からゲーマーズ・カフェが出現し、その中から2002年に最初のメイド喫茶が出現。ヨーロッパの女中(maid)風の服に内向的なオタクたちが癒しを求めブームに成った。直訳すると女中喫茶
※6-1:コスチューム(costume)は、[1].特定の民族・階級・時代・地方の服装。髪型・装飾も含めて言う。
 [2].仮装・演劇などの衣装。
 [3].婦人服。上下揃いの婦人服。
※6-2:コスプレとは、コスチューム・プレー(costume play)の略語。略称のコスプレは以下の[2][3]の意味に使われる。
※6-3:コスチューム・プレー(costume play)とは、[1].(その時代の衣装を着て演じる衣装劇が原意)時代劇
 [2].日本では、性風俗産業の新商売の一つで、店の女性に色々な衣装を着せて客を楽しませること。この種の店としてコスプレ・マッサージや性感マッサージ、コスプレ・キャバクラ、コスプレ焼肉(「ノーパンしゃぶしゃぶ」も含む)など。
 [3].又1980年代からはオタク産業としてマンガやテレビゲームのキャラクターの仮装などが登場。この種の店としてゲーマーズ・カフェやメイド喫茶など。
<出典:一部「現代用語の基礎知識(1999年版と2004年版)」より>

※7:FEN(Far East Network、フェン)は、アメリカ軍の極東放送
※7-1:キャンプ(camp)とは、この場合、兵営。「米軍―」
※7-2:ジーアイ/GI(Government Issue(官給品)の略)とは、(下士官や兵士は衣服その他全て官給品であることから)アメリカで徴募兵、又は一般に兵士の俗称。

※8:居抜き(いぬき)とは、住宅や店舗を、家具や商品・設備を付けた儘、売り又は貸すこと。

※9:大正琴(たいしょうごと)は、二弦琴の一種。木製中空の胴に2本の金属弦を張って同音に調弦し、ピアノの様に半音間隔に設けた鍵盤を左指で押え右手の義甲で弾き奏するもの。大正初め、森田伍郎が発明したもので、金属的な音色を持つ。その後弦数が増え、現在は通常5弦。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※10:ハイカラ(high collar)は、(丈の高い襟の意)西洋風を気取ったり、流行を追ったりすること。又、その人。皮肉って「灰殻」を当てる。←→蛮カラ。

※11:エチオピア(Ethiopia)は、アフリカ北東部の連邦民主共和国。「シバの女王の国」と称して世界最古の王国とされる。BC1000年頃アラビア半島からセム系民族が移住し、BC3世紀頃アクスム王国を建国。紀元前後頃から紅海入り口の両岸を支配し、交易中継地として繁栄。4世紀からキリスト教(=コプト派)を国教とするが、6世紀ササン朝ペルシャの侵攻を受けて南アラビアを放棄、7世紀に紅海沿岸をイスラム勢力に占領されてから衰退し、小国家群に分裂。1936年イタリアに征服されたが、41年独立を回復。75年帝政を廃止。住民はオロモ(ガラ)族40%、アムハラ族・ティグレ族32%、シダモ族9%。言語はアムハラ語が公用語。宗教はイスラム教45~50%エチオピア正教35~40%。面積110万4千㎢。人口5668万(1995)。首都アジス・アベバ。旧称アビシニア(Abyssinia)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※12:琥珀(こはく)は[1].amber。地質時代の樹脂などが地中に埋没して生じた一種の化石。塊状/礫状などで産し、概ね黄茶色を帯び、脂肪光沢著しく、透明、乃至半透明。パイプ/装身具/香料/絶縁材料などに用いる。非結晶質。硬度2~2.5。比重約1.0。樹脂が固まる時に閉じ込められたなどが入る物が在る。日本では久慈が特産。赤玉。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].taffeta。琥珀織の略。

※13:大航海時代(だいこうかいじだい、the Age of [European voyages of ]Discovery)は、15世紀から17世紀前半に掛けて、ヨーロッパ人が新航路/新大陸を発見し、活発な植民活動が諸国に起って、西欧の政治・経済に重大な影響を齎した時代。発見時代
※13-1:マルティニク/マルティニック(Martinique)は、カリブ海、小アンティル諸島中の島。フランスの海外県。面積1102㎢。中心都市フォール・ド・フランス。

※14:カフェ/カフェー(cafe[仏])は、(コーヒーの意)
 [1].主としてコーヒーその他の飲料を供する店。日本では幕末の横浜に始まり、1878(明治11)年放香堂(神戸)1886(明治19)年洗愁亭(東京日本橋)1888(明治21)年可否茶館(東京下谷) -鄭成功の末裔・鄭永慶が始めた- などが最初期の店。珈琲店。喫茶店。
 [2].明治末~昭和初期頃、女給が接待して主として洋酒類を供した飲食店。カッフェ。カフェー

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年』(吉田衛著、神奈川新聞社出版局)。

△2:『カラーブックス コーヒー入門』(佐藤哲也著、保育社)。

△3:『2014年トホホの阪神タイガース ~ストライキとプロ野球の大変革を経て~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):横浜の野毛や野毛山の地図▼
地図-日本・横浜市(Map of Yokohama city, Kanagawa -Japan-)
補完ページ(Complementary):最初に純喫茶に言及したページ
([快楽主義者の喫茶店#1])▼
掲示板のテロ対策(Defend BILLBOARD from terrorism)
補完ページ(Complementary):戦後日本の世相の変遷▼
(「1964年分水嶺説」の論拠)
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
補完ページ(Complementary):純喫茶探偵団や喫茶店の分類と純喫茶論
([快楽主義者の喫茶店#2])▼
国性爺珈琲盛衰記(Rise and fall of cafe and KOKUSENNYA)
天満天神繁昌亭について▼
天満天神繁昌亭(Temma Tenjin Hanjou-tei, Osaka)
「もんじゃ焼き」について▼
民族変わればゲテモノ変わる(About the bizarre food)
浅草所縁の電気ブラン▼
浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)
「1964年分水嶺説」の初出▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
大阪の愛花夢ホールを借りていた【ブラボー、クラシック音楽!】の会▼
「ブラボー、クラシック音楽!」を振り返って
(Recollection of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')

ドイツの喫茶店は日本で言うメイド喫茶が多い▼
私自身の写真集・海外と日本編(My own PHOTO album in overseas and Japan)
FEN(米軍の極東放送)について▼
ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)
「純喫茶 ちぐさ」が在った横浜野毛という所▼
[横浜物語#2]野毛([Yokohama story 2] Noge)
横浜のベッドタウン論議▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)
アカボシゴマダラやノーパンしゃぶしゃぶ▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
脳出血で沖縄に移住した経緯▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
古賀政男は大正琴が得意で、その普及に功績が有った▼
古賀メロディーの秘密(Secret in Koga melody)
大陸中国は「お茶文化」▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)

明治以降の欧化政策▼
2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

「コーヒー文化」が日常的に浸透している台北市(スターバックスも在る)▼
2004年・台北市の街角事情(Town watching in Taipei, 2004)
私の号「月海」やA.E.について▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)
ショッキングピンクは私のイメージカラー▼
ようこそ【エルニーニョの世界】へ(Welcome to ElNino's world)
私が主宰する【ブラボー、クラシック音楽!】▼
ブラボー、クラシック音楽!(Bravo, CLASSIC MUSIC !)
【ブラボー、クラシック音楽!】の第23回例会(2006年11月1日)で
愛花夢ホールの素晴らしい音響を満喫▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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