−− 2003.04.23 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.05.11 改訂
それにしても孝謙天皇は不思議な天皇(女帝)です。『続日本紀』(※1)では奈良で没したことに成って居ますが、こうして下野国(しもつけのくに、今の栃木県)の片田舎に来てここで没したとされて居ます。私はこの伝説を頼りにわざわざ地元の人しか知らないであろう、無人のひっそりとした孝謙天皇神社を2003年4月21日(月)に訪ねて来ました。道は判り易く東北本線の石橋駅前の道路を真っ直ぐ西に1.5kmばかり歩いて行くと畑の向こうに、神社らしきこんもりとした木立と鳥居が見えて来ます、ここは栃木県下都賀郡石橋町上大領。下の写真がそれです。道路を隔てて左側に見える建物が石橋町立中学校です。
地図を見る方は下▼からどうぞ。
→ 地図を見る(Open the map)
その伝説の経緯を記したのが、右の孝謙天皇神社境内に在る由緒書です。これに拠るとあの道鏡が下野国薬師寺別当に配流された後、道鏡を追ってこの地に来て、そして病を得て病没したと在ります。そして篠姫・笹姫という女官が女帝の御陵から分骨して、この地に在った西光寺に安置し寺が廃寺に成った後、村人達がここを孝謙天皇神社として祀ったこと、二人の女官の墓と思しき篠塚・笹塚は戦前迄は保存されて居たこと、が記されて居ます。
現在、女帝の命日に当たる毎年9月4日に女帝を偲ぶ祭礼が実施されて居ます。
左下の写真が孝謙天皇神社正面の石鳥居と奥の拝殿です。宮司とかは居らず小さな無人の社(やしろ)です。拝殿奥には孝謙天皇と彫られた石碑が在ります(右下の写真)。
その石碑の右横には小さな祠が幾つか在り全体を注連縄(しめなわ)で囲って居ます(左下の写真)。これがこの社の全てで、周りはこんもりと雑木林に囲まれて居て、訪れる人も無く非常にひっそりとした感じです。
地元の人々にも殆ど忘れられた様なこの社の正面の脇に、雑草に覆われた中でひっそりと咲く紫色の清楚な花(右下の写真)が、如何にも孝謙女帝を偲んで居るかの様で印象的でした。
しかし、中央(=奈良平城京)の権力闘争の影響がこんなに懸け離れた地に伝説という形で残されて居ることに不思議を感じます。少なくとも『続日本紀』などの正史では全く触れられて無いばかりか、正史に矛盾することが、こうして全く予期せぬ地方で語り継がれて居ることの意味を改めて考えてみたいと思って居ます。
さて、折角ここ迄、遠路遥々、わざわざ来たので、序でに孝謙天皇神社のちょっと先に立ち寄ることにしましょう。
栃木県下都賀郡石橋町は起伏の少ない平坦な地形で西部には姿川が貫流しこの両岸を中心に肥沃な水田地帯が広がり、東部は台地で畑地帯・市街地です。人口約2万、気候は温和で年間の平均気温12.9℃です(△1)。
孝謙天皇神社の西側ちょっと先、道路を隔てて斜め向かいに石橋町立中学校が在ります(右の写真)。のどかな田園の中に広いグラウンドを持つ垢抜けた校舎です。
この中学校の少し先に姿川という幅20m位の川が北から南に流れて居て、橋を中心に川の左岸沿いにプロムナードが整備されて姿川アメニティパークという、ちょっとした公園に成って居ます。このアメニティパークには橋の下流(南)側、つまり中学校の脇には右の写真に在る様にヨーロッパ風の風車 −内部には螺旋階段が在り登れます− が在り、公園には左下の写真の様にツツジが綺麗に咲き誇り、人工の川には鯉が泳いで居ました。
そして橋から見て川の上流(北)側に左の写真の様なグリムの館(※2)が見えます。
何故グリムか?、と言うと石橋町はドイツのヘッセン州ディーツヘルツタール・シュタインブリュッケンと姉妹都市提携(※3)し、グリムの生まれ故郷は同じヘッセン州ハーナウだからです。「世界に誇るグリムの里づくり」をテーマにして作られたグリムの館は雑木林(グリムの森)の中に在り、グリムの里の拠点と成って居ます。森の中にはグリム童話に欠かせないものの1つであるバラの花も植えられて居るそうです。田園の中にドイツ風の雰囲気を醸し出そうということでしょうか。
ま、自分達の町をどうしようと別に石橋町の勝手ですが、私が常々言っている様に日本にしか無い固有の風景=日本らしさを演出出来ないものですかねえ、これでは外国から観光客は呼べませんよね、日本人はハイカラ(※4)なイメージを抱くかも知れませんが(←この辺の議論は既に掲載して居ますので、最下行の関連リンクからご覧下さい)。
再び孝謙天皇神社に戻ります。地図を開いて無い方はここで地図をご覧下さい、道鏡が配流されたという下野国薬師寺別当とはどの辺りに在ったのか?!
→ 地図を見る(Open the map)
地図を見ると薬師寺という地名が残って居ます、それは南河内町に在ります。そして陸羽街道と並行して走るJR東北本線を隔てて西側には国分寺町という地名も見えると思います。国分寺は孝謙天皇の父・聖武天皇の勅願に依って全国に建立された寺です。そして孝謙天皇神社、薬師寺、国分寺を結ぶ三角形の各辺は何れも、直線距離で僅か6km程だ、ということは地理的に大変重要な事なのです。
これでこの石橋に存在する孝謙天皇神社の意味合いが、少しは透けて見えて来ましたね、ムッフッフ!!、この続きは次の「道鏡配流編」を、乞う御期待!!
さて、先の孝謙天皇神社の由来に書いて在った様に、道鏡を追って孝謙女帝が果たしてこの地に来たのか、という点については私自身は孝謙女帝は実際にはこの地に来て無かったと思って居ます。しかし配流された道鏡に孝謙女帝の息の掛かった篠姫・笹姫を遣わしたことは考えられるでしょう。多分それが口伝えで伝えられる間に、何時の間にか「孝謙女帝がこの地に来た」という話に膨れ上がったと考えられます。
こういう現象は別に珍しい事では無く、安徳天皇、聖徳太子、弘法大師など日本史の重要人物に関する伝説の成立課程は皆似ている部分が有ります。それは伝説が正に口伝えであり、連想ゲームの様に伝えられて行く過程で変容して行くからです。この様な伝説が成立して行く裏には、民衆の心を引き付けるほんの少しの”種”が有れば、後は民衆の心理がそれを増幅し誇張し美化するという事が起こります。その際には”種”が歴史的事実であるか否かは然して問題では有りません。義経伝説などはその典型で、義経贔屓の民衆は義経を衣川で死なせたく無い、という心理が強く働いて義経は北海道を経て中国大陸に逃げ延び遂にはあのジンギスカンに成った、とする伝説を創作します。
しかし、誰でも彼でもこの様に伝説化されるか、と言うと違います。やはり最低限、”民衆の心を引き付ける何か”が無くては伝説は生じ得ないのです。孝謙女帝の一体何が、天皇と一番遠い存在である民衆の心を捉えたのでしょうか?、私はそこに非常な興味を感じてここ迄孝謙女帝を追い掛けて来たのです。
この疑問を解く為に私は更に旅を続けます。
【脚注】
※1:続日本紀(しょくにほんぎ)は、六国史(りっこくし)の一。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)迄の編年体の史書。藤原継縄・菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀(しょっき)。
※2:グリム兄弟(―きょうだい)は、ヤコブ・グリム(Jacob Grimm)とヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)の兄弟。ドイツヘッセン州ハーナウの生まれで共同で研究・著作をした。
ヤコブ・グリム(兄)は、ドイツの文献学者・作家(1785〜1863)。ゲルマン文献学・言語学の創始者。グリムの法則を確立。弟との共同編著「子供と家庭の童話集(グリム童話)」「ドイツ伝説集」「ドイツ語辞典」(死後、多くの学者の協力で1961年完成)など。
ヴィルヘルム・グリム(弟)は、ドイツの文献学者(1786〜1859)。兄との共同編著の他「ドイツ英雄伝説」など。
※3:シュタインブリュッケンは、<Schtein=石、Blucken=橋>で日本語に直訳すると石橋。1966年医者石橋長英(獨協医科大学初代学長)氏の橋渡しに依り、ドイツの「石橋」という意味の「シュタインブリュッケン」に住む小学生と石橋町の小学生とが図画作品の交換を行ったのが交流の始め。「同じ石橋同士、仲良くしよう」ということです。その後1971年シュタインブリュッケンが、リッタースハウゼン・マンデルン・エヴァースバッハと合併して、ヘッセン州ディーツヘルツタールと成る。そして1975年4月25日ディーツヘルツタールと姉妹都市の提携を行う。
※4:ハイカラ(high collar)は、(丈の高い襟の意)西洋風を気取ったり、流行を追ったりすること。又、その人。皮肉って「灰殻」を当てる。←→蛮カラ。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:「栃木県石橋町」公式サイト。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):孝謙天皇及び孝謙天皇神社付近の地図▼
地図−日本・孝謙天皇の足跡
(Map of footprints of the Empress Koken, -Japan-)
日本らしさ、外国人を呼べる国についての私見▼
温故知新について(Discover something new in the past)
日本の観光立国行動計画とは(The VISIT JAPAN program)