2003年・「忍の浮城」−忍城
埼玉を”押し広げ”る旅#1:水攻めの不可解
(The Oshi floating-castle, Saitama, 2003)

−− 2003.12.31 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.08.02 改訂

 ■はじめに − 忍城訪問の”切っ掛け”

 2003年12月10日に或る”切っ掛け”から埼玉県行田市本丸の武蔵忍城(おしじょう)を訪ねました(→「忍(おし)」の由来は後述)。行田市は明治以来足袋(たび)の生産地として知られて居ましたが、日本人が和服を着なく成ったので足袋の需要も減りました。それでも全国の足袋の約半分を製造して居ます。
 忍城には石田三成(※1)の戦法について”前から引っ掛かっていた疑問”が有って、機会が有れば訪れたいと思って居たのです。そこへ03年5月に京都の妙心寺寿聖院を訪れ谷口和尚から直接「三成の子孫は生きていた!」という話を聴き、一層忍城と三成に対する興味が膨らみました。そこへ更に山陰の出雲出身の土師氏の痕跡が何故埼玉県に多いのか?、という「関東の土師氏」への疑問も膨らんで、この2つの疑問を”切っ掛け”に遂に埼玉県をウロウロ経廻ることに決めたのです。”踏ん切り”を付けないと中々旅には出られません、お金よりも時間を作る必要が有るからです。
 こうして古墳の副葬品の埴輪を作る土師氏と大いに関係の有る「さきたま古墳群」を見ること、「さきたま古墳群」と忍城は非常に近い、という”地の利”と”事の序で”を助けとして旅に出た訳です。
 前日熊谷に泊まりこの日、「さきたま古墳群」を見学した後で忍城に来ました。三成の戦法についての「疑問と考察」は後述しますので、楽しみに読み進んで下さい。

 ■武蔵忍城跡

 忍城跡は利根川と荒川に挟まれた沖積平野(※2)で、ここから2km位北の湿地からは古代蓮の種子が出土して居る程、この地域一帯は沼地の多い古代からの湿地帯でした。この沼地を言わば逆転の発想で”天然の堀”として防備に利用した水城(※3)が忍城です。その為に忍の浮城(うきしろ)、或いは亀城という別名が在ります。
写真1−1:行田市郷土博物館の城門(再現)。
 この地は中世には武蔵七党の一つ・児玉党(※4)が領して居た地で、次いで忍氏(おしし)が治め荘園を管理し忍荘(おししょう)と呼ばれました。以来江戸時代は忍藩(10万石)、明治以降は先ず廃藩置県で忍県、明治22(1889)年成田町、行田町、佐間村が合併し忍町と成り1949年の市制施行で行田市(ぎょうだし)に成る迄(おし)と呼ばれて来ました。

 左が城門に模した城跡入口です。
 


写真1−1−1:水城公園。
 城跡周辺の湿地帯は埋められ住宅地に変貌し、忍川を利用した外堀は1964年に中国江南の水郷式庭園を模した水城公園(行田市水城公園、右の写真{04年8月2日に追加})として生まれ変わりました。
 下が城跡敷地内に在る「忍城跡保存会」の説明板の写真です。忍城築城から廃城迄の沿革はこれをお読み下さい。
写真1−2:郷土博物館敷地内の説明板。
写真1−3:三成が陣取った丸墓山古墳(さきたま古墳群の一つ)。
 右の写真が、上の説明に在る三成が水攻めの指揮を執る為に陣取った丸墓山で、これは先に立ち寄った「さきたま古墳群」の丸墓山古墳なのです。この古墳は6世紀前半に造られたと考えられて居る我が国最大の円墳ですが、三成はこの古墳の南北に土塁(=石田堤)を築き、水攻めを行ったのです。ここから忍城本丸迄は北西に直線距離で2.5km程です。
 尚、丸墓山古墳の詳細は当シリーズの「前玉神社と「さきたま古墳群」」を参照して下さい。丸墓山上から忍城方面の眺望写真もそちらに掲載して在ります。

 忍城の沿革について補足すると(△1、△2)、延徳3(1491)年に成田親泰が築城した忍城は天正18(1590)年の小田原城開城に伴ない成田氏長が開城後、豊臣秀吉(※5)から関八州をあたえられた徳川家康が領し、以後徳川家譜代が入城します。寛永10(1633)年松平信綱が入封、同16(1639)年阿部忠秋が5万石で入封、後10万石に加増し9代世襲し、この間元禄14(1701)年から阿部正武が近世城郭として大改修し、三階櫓を造りました。その後文政6(1823)年松平忠尭(ただたか)が桑名から10万石で入封し5代世襲し明治に至り、明治5(1872)年に廃城に成って居ます。
 城の縄張は城郭の中心に本丸、北東に諏訪曲輪謂れは後述)、その周りに二の丸が在り、更に沼地の中の島々が曲輪と成ってほぼ同心円状に展開し、その周囲が侍屋敷、その外に城下町が在り、東を流れる忍川を外堀として外郭を構成して居たそうです。現在は本丸北の土塁の一部(後述)と外堀の跡(現水城公園)が残るのみです。尚、関東七名城とは宇都宮城、唐沢山城(以上栃木県)、前橋城、太田金山城(以上群馬県)、佐竹城(茨城県)、川越城、忍城(以上埼玉県)です。


 本丸跡には御三階櫓を模した下の写真の行田市郷土博物館(行田市本丸)が建ち、僅かに昔の姿を偲ぶことが出来ます。
写真2−1:御三階櫓を模した行田市郷土博物館の建物(再現)。

 ところで、ここ行田市を昔は「忍(おし)」と呼びましたが、この地名由来について少し触れて置きましょう。

    ++++ 地名「忍」と「行田」 ++++
 先ず「忍(おし)」は、上の城址の説明板に在る様に、中世この地に忍氏が住み(行田館)支配し忍荘が在りました。「忍」の意味は、アイヌ語の「ウシ」で入江や湾のことで、その方言では組木や石積の堤防を表すとのことですが、何故アイヌ語がこの辺りに残っているのか?(※6)、については【脚注】と取り敢えずはココを参照して下さい。もう一説には忍氏を鴛氏とも書いたことから、この辺りの湿地帯に多く居た鴛鴦(おしどり)に由来するという説も在ります。
 次に「行田(ぎょうだ)」は「行田(なりた)」とも言い成田(なりた)と同じです。忍氏を滅ぼして成田氏が今の熊谷市からここに移住して来たのです。成田の意味は、沼沢、河川地が田に成った所を指します。
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 そして城跡と道路を隔てた北側には諏訪神社に東照宮が合祀された神社が在ります。左下がその写真で、ご覧の様に鳥居の額には「諏訪神社 東照宮」と併記されて居ます(少し小さい字ですが)。中央下の写真はこの鳥居手前の石垣の上に立っていた「村社 諏訪社」の石柱です。これでお解りの様にこのお宮は元々は諏訪神社でした。
 神社境内の説明板に拠ると諏訪社の御祭神は当然乍ら建御名方命(※7)とその妃・八坂刀売命(やさかとめのみこと)です。由緒は後鳥羽天皇の建久(1190年頃)の昔、忍三郎・五郎(家時)の一族が館・塁等を築き居住した頃鎮座したと伝えられて居ます。そして『持田村誌』に拠ると成田親泰が延徳3(1491)年に忍城を構築した際、持田村鎮守諏訪社を城鎮守にしたのが当社だそうで、現在の社殿は1961年の造営です。出雲系の神社で、他に埼玉県に散在する同じく出雲系の久伊豆社が末社として祀られて居ます。先程の本丸北東の諏訪曲輪の名はこの諏訪社に由来します。
 東照宮(徳川家康を奉る社)の方は文政6(1823)年、松平忠尭が伊勢国桑名から移封した際に城内字下荒井の地へ東照宮を勧請したのを、明治の廃城の際にここに合祀したもので、現在の社殿は1930年の造営です。
 そして右下が神社の西に在る「史蹟 忍城の鐘」の石碑です。この辺りに土塁の跡東照宮の鐘が在ります。
写真3−1:郷土博物館北の諏訪神社。写真3−2:「村社 諏訪社」の石柱。写真3−3:「史蹟 忍城の鐘」の石碑。


写真4−1:「持田口御門跡」の石碑。 城跡の西に500m位行くと左の写真の「持田口御門跡」の石碑が在り、僅かに”門らしき物”も再現して居ます。
写真4−2:からくり時計。
 この門の直ぐ西の道路にからくり時計なる物が在ります(右上の写真)。これは上で見た御三階櫓をデザインして在り、定刻に成ると童歌が流れ子供の人形が現れて時報を鳴らしますが歴史とは無関係、観光用です。と言っても平日のこの日観光客は私だけでした。

 からくり時計から北へ500m位歩くと秩父鉄道の持田駅です。
写真5−1:持田駅に入線する秩父鉄道の電車。
 左の写真が隣の熊谷から入線して来た羽生(はにゅう)行きの電車です。私はこれに乗って羽生駅に行き、東武鉄道に乗り換えます。

 この季節、北の日光方面からか北西の赤城山や足尾山地の山々からか、吹き降ろす風は冷たくも爽やかでした...後で判ったことですが、これは北西方面からの吹き降ろしで、地元では「赤城おろし」と呼んで居ます。
 

 ■忍城に関する疑問と考察 − 何故「水攻め」か?

 さて、一通り忍城を見終わった所で冒頭で述べた”前から引っ掛かっていた疑問”について述べましょう。この章がこの記事全体の核心です。

 (1)水攻めの不可解と石田三成総大将の意味

 先ず初めに歴史的事実を確認して置きましょう。石田三成の忍城攻めは天正18(1590)年の秀吉の関東攻めの一翼を担う形で進められました。攻撃の中心は北条氏政(※8)・氏直父子(※8−1) −後北条氏(ごほうじょうし、※8−2)と言う− が率いる小田原城で、秀吉自らが小田原城を攻め遂に7月5日に小田原を開城させ天下統一を果たした、ということはどの歴史教科書にも書かれて居ることです。
 一方忍城は同年6月10日から開始された「水攻め」に耐え、小田原開城後に小田原に出張っていた城主・成田氏長が説得して初めて開城されたのです。忍城が三成の水攻めに落ちなかったことで「忍の浮城」の名は一躍有名に成り、その結果三成の武将としての評価に「戦下手」というレッテルが貼られ、それが後の天下分け目の合戦に於いて三成軍の足並みを乱した遠因に成っていると言われて居るのですが...。

 しかしそもそも
  三成は水で囲まれた城を何故水攻めにしたのか?
これが大きな疑問であり謎なのです。そこでこの疑問についての私の”唯我独尊”的考察(と言うより推理)を披露しましょう。
 これを分析する為に、上の疑問を次の3つに分けて考えましょう。即ち
  [1].総大将・秀吉の元で徳川家康・前田利家・上杉景勝などの錚々たるプロの武将に混じって、三成の様な財政・行政担当の一奉行が何故城攻めの大将に抜擢されたのか?
  [2].何故水攻めという戦法を選択したのか?
  [3].水攻めを選択し決定したのは誰か?

ということです。
 先ず[2]から述べましょう。これが私の疑問中の最大の疑問です。どう見ても湿地帯に浮かぶ城を水攻めにする戦法自体が不自然であり不可解なのです。つまり三成が現地に赴き、現地の地形を見て選択した戦法とは思われないのです。ということは大胆に推理するならば、水攻めは三成が派兵される以前の「既定の方針」だったということです、つまり今流に言うと「勝利の方程式」ですね。例えば野球に於いてその日の戦況や選手の調子に拘わらず、中継ぎ、抑えを”型通り”に継ぎ込む遣り方です。
 次に[3]の答えは、[2]の答えの当然の帰結です。即ち「既定の方針」である以上、水攻めを選択し決定したのは三成では成し得ず秀吉、ということです。では何故秀吉は水攻めを「勝利の方程式」と考えたのか?、それこそが中心命題ですが、その答えは羽柴時代の
  天正10(1582)年の備中高松城及び
  天正13(1585)年の紀伊太田城「水攻め」の成功

に在ります。特に前者の高松城は最初の水攻め作戦であり、又、攻防中に本能寺の変が起こり急遽引き返し天下を制した”印象深い戦い”に成ったであろうと想像出来ます。
 水攻めと言うのは人と物、即ち財力を大量に必要とする作戦です。逆に言うと、もしこの様な”物量に物を言わせた”奇抜な作戦が成功すれば秀吉の名は畏怖を以て轟き渡り効果満点という訳です。
 こう考えると[1]の疑問もすんなり解けて来ます。つまり「既定の方針」を黙々と実行して呉れるのは、忠実な三成以外には居ないからです。他の武将は戦(いくさ)のプロで、不自然で不可解な作戦には異議を唱えるでしょうし、忠誠心も三成程は持って居ません。
 実際、備中高松城の時は足守川の自然堤防を利用し基底21m、高さ7m、長さ2.5kmの堤を僅か12日で築き、足守川を堰き止めて水攻めすると、城の周囲に棲息して居たネズミが城内に逃げ込み阿鼻叫喚を呈したと言われて居ます。一方忍城の時は自然堤防は無く総延長28kmの堤を築かねば為らず、忍川の水を引き入れて水を張ると堤が決壊したりして攻め切れませんでした。これだったら堤を造る土砂で湿地の一部を埋め、そこに筏の様な木橋を渡して力攻めで攻め入った方が手っ取り早いというものです。つまり備中高松城の時とは条件が違っていたのです。
 以上が私の推理と考察ですが、三成研究家の小村勇太郎氏は、三成や秀吉の書簡などの資料を基に論証し乍ら、私と同様な結論を引き出して居ます(△3)。それに拠ると三成陣営では水攻めに乗り気で無かったこと、水攻め開始直後の書状で秀吉は三成に水攻めの方法や戦後処理について細かな指示を出して居ること、秀吉は諸将を水攻め見物させようとして居たこと、などが記されて居ます。興味有る方は是非この文献をお読み下さい。

 (2)秀吉晩年のパラノイア的野望

 それでは最後に残る疑問として
  これ程迄に秀吉を水攻めに固執させたものは何か?
についてこれ又、私の”唯我独尊”的見解を述べましょう。
 私はその原因は晩年の秀吉の病的妄想癖(=パラノイア)(※9)に在る、と考えて居ます。忍城の水攻め見物を考えたり、小田原攻めの際に山上宗二の惨殺 −宗二は茶人の心構え「一期一会」を書き残した利休の弟子ですが自分の家来から小田原の後北条氏(※8−2)に鞍替えしたのを根に持ったのか、耳と鼻を切って処刑したと言う− したり、その翌年の1591年には利休を自刃に追い込み、そして1592年(文禄の役)と1596年(慶長の役)の2度に亘る無理な朝鮮出兵、更には1593年に生まれた淀君の子・秀頼の溺愛などを見ると、そこには傲慢な権力者特有のパラノイアを感じ取れるからです。秀吉が何時から妄想に囚われる様に成ったかは定かではありませんが、前述の事例を鑑みると1580年代後半、即ち秀吉50歳頃には発症して居たと考えられます。秀吉は45歳(1582年)で天下を制し、48歳(1585年)で関白に成ります。
 ルイス・フロイス(※10)の『日本史』は関白に成った翌年(=1586年)に新築成った大坂城に49歳の秀吉をイエズス会のガスパル・コエリュが表敬訪問した際に、秀吉自ら歓待し上機嫌に語った言葉を伝えて居ます。即ち

 「既に最高の地位に達し、日本全国を帰服せしめたうえに、もはや領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わぬし、その他何物も欲しくない。ただ予の名声と権勢を死後に伝えしめることを望むのみである。日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現した上は、この日本国を弟の美濃殿(秀長)に譲り、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。」

と(△4のp99)。
 これを読むと、自分を天下無双の偉大な統治者として後世に名を残したい、という名声欲が次第にパラノイアに昂じたこと、そして実現しなかったものの朝鮮出兵の真の目的は中国大陸制覇に在ったことが解るのです。権力者という者は己の野心を誰かに話して聴かせたい性癖が有りますが、相手が女子供では面白く無く、腹心の部下では何時「下剋上」されるか油断為らず、外国人宣教師なら害は無いと思って喋ったのでしょう。翌1587年は50歳の秀吉が京に聚楽第(※11)を完成させ移り住んだ年です。そう、聚楽第の栄華こそは秀吉的パラノイアの発現だったと考えられます。
 一方フロイスは、気分で前言を翻し日本二十六聖人の殉教(※10−1)に至る禁教令を1587年に発した秀吉を大変嫌っていて、その素性の卑しさと共に秀吉のことを

 「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。」

と記して居ます(△4のp203)。秀吉も「シナ人のよう」と言われたからシナを狙った訳では無いでしょうが!!

 ■忍城の遺構 − 總願寺の黒門

 忍城跡で往時を偲ぶことは出来ても往時の遺物は殆ど残って居ません。しかし、一つだけ往時の城門・北谷門が埼玉県加須市(かぞし)不動ヶ岡の總願寺(総願寺、通称:不動ヶ岡不動尊)の黒門として移築されて残っていることを、帰阪してからこの訪問記を書く為に調べていて知りました(△5)、何時ものパターンです。
 私はこの穴を埋める為に04年4月19日に加須市の總願寺を訪れました。加須市は行田市の東隣の市です。左下がその總願寺の黒門(=忍城北谷門の遺構)です。
写真eー2:田村重兵衛の奉納刻文。写真e:加須市に移築されている忍城の「黒門」。 忍城北谷門は総欅(けやき)造りの一枚板の門で、總願寺境内南西の黒門に成って居ます。入口に在る加須市教育委員会の説明板(左上の写真の右前方)に移築された経緯が書いて在り、それに拠ると明治の廃城後、明治21(1888)年に忍城脇から持田口を通過する熊谷県道の工事を請け負った不動ヶ岡の田村重兵衛に払い下げられたのを重兵衛が總願寺に寄進し、明治22(1889)年1月1日に移築された、と在ります。
 その話を裏付ける様に右側の門柱には「奉納 土木受負営業 田村重兵衛」と刻まれて居ました、右上の写真がそれです。
    {この章は04年4月21日に追加}

 ■結び − 更に埼玉を”押し広げ”る

 この訪問記を書き上げて1つの城、1つの門にも様々な歴史 −即ち様々な人間ドラマ− が刻まれて居ることを改めて知りましたが、これぞ「温故知新の心」です。
 總願寺は不動ヶ岡という地名の元に成っている大変立派な寺でした。そして加須市は関東では珍しく歴史を感じさせる町並みに落ち着いた風情が有って、手描きの鯉幟(こいのぼり)の生産地であり、更に手打ちうどんの町です。そこで全国的には無名な加須市の記事を別に特集することにしました。
  {この様に観光的に埋没して居る埼玉を「温故知新の心」で掘り起こし”押し広げ”たページも増えて来ましたので、このページを[埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズの第1弾として、04年5月4日にシリーズに纏める形に編集し改訂しました。}

 このシリーズ −シリーズ化してますが個々のページの内容は独立− は、冒頭で述べた様に根底に「関東の土師氏」というテーマが横たわって居る為に内容が埼玉県を食み出して近隣県 −主に埼玉県及び両毛地方− に及ぶ場合が有ります。シリーズ名を[埼玉を”押し広げ”る旅]としたのは、そういう意味も含んで居ます。これからグングンと埼玉を”押し広げ”て行く積もりですので、埼玉県の皆さん、宜しく〜!
                (^o^)/~~~

 尚、[埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:石田三成(いしだみつなり)は、織豊期の武将(1560〜1600.10.1)。父正継の三男。近江国坂田郡石田(現在の滋賀県長浜市石田町)生まれ。幼時、観音寺に預けられ、そこで秀吉の目に留まり仕官の切っ掛けを得た(三献茶のエピソード)と言われ、その後一貫して秀吉に仕え奉行として頭角を現し、1586(天正14)年堺政所。その後秀吉の小田原攻め従軍・九州征伐の兵站奉行・朝鮮出兵の舟奉行を勤め、特に太閤検知で能吏としての手腕を発揮、現在島津家に三成署判の検知尺が残る。95(文禄4)年近江国佐和山城主(19万4千石)。98(慶長3)年8月、秀吉の死で在鮮軍を撤収させる為に博多に赴く。1600(慶長5)年9月15日関ヶ原の戦いで西軍の総大将に成るも敗れ、9月21日伊吹山中の近江古橋村で田中吉政に捕らえられる。10月1日京都六条河原にて処刑される。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
 補足すると、石田三成は1590(天正18)年、南部一揆前後に奥州仕置として奥州に赴く。93(文禄2)年秀吉への書面で朝鮮出兵を非難、これが武断派の加藤清正等との不和の原因に。大徳寺三玄院に葬られる。

※2:流水の堆積作用に因って川筋に生じた平野。

※3:みずじろ、water-castle。特に河川・湖・海を利用した城を指し、築城技術的には平城の一種(又は変種)。

※4:児玉氏は、中世の武蔵国の豪族。武蔵七党の一つ。元は有道(ありみち)氏。その祖・維能(これよし)は藤原伊周(これちか)に仕え後武蔵の国司として下向し、その子・維行(これいき)以後児玉荘(現埼玉県児玉町)に土着したと伝える。維行の子・弘行と経行の兄弟は源義家の奥州平定に従い、その子孫は児玉・入間両郡や上野国西部に勢力を張って児玉党を形成し、『平家物語』『太平記』などにその活躍が見られる。
 又、安芸国に西遷した一族が在り、戦国期には毛利氏に属して奉行人として活躍。1605(慶長10)年には毛利氏に従って長門国・萩に移った。

※5:戦国・安土桃山時代の武将(1537〜1598一説に1536〜1598)。尾張国中村の人。木下弥右衛門の子。幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。15歳で松下之綱(ゆきつな)の下男、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一。この間、1583年(天正11)大坂に築城、85年関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、91年関白を養子秀次に譲って太閤と称。明を征服しようとして文禄・慶長の役を起し朝鮮に出兵、戦半ばで病没。

※6:埼玉県には縄文に遡る遺跡や遺構も多く(えみし)と呼ばれた現在のアイヌに近い人々が古代から住んで居て、坂上田村麻呂が東北に進出する以前、大和朝廷が全国制覇に乗り出した当初は、この辺りが前線基地で忍城からも近い「さきたま古墳群」の稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた115文字の銘文や日本武尊(やまとたけるのみこと)の神話がそれを如実に物語って居ます。

※7:たけみなかたのみこと。日本神話で、大国主命の子。国譲りの使者武甕槌命(たけみかずちのみこと)に抗するが敗れ、信濃国の諏訪に退いて服従を誓った。諏訪神社上社はこの神を祀る。

※8:北条氏政(うじまさ)は、安土桃山時代の武将(1538〜1590)。氏康の長子。下総・駿河・常陸を攻略。豊臣秀吉に小田原城を攻められ、自刃。
※8−1:北条氏直(うじなお)は安土桃山時代の武将(1562〜1591)。氏政の子。豊臣秀吉に小田原城を包囲されて降伏。徳川家康の女婿の故を以て助命、高野山に放たれた。
※8−2:後北条氏(ごほうじょうし)とは、小田原北条氏を鎌倉時代の北条氏と区別する称。元は伊勢姓だったが北条氏を継いで関東の主と成るという狙いから、伊勢長氏(=北条早雲)の子の氏綱より北条を称

※9:paranoia。体系立った妄想を抱く精神病。妄想の主体は血統・発明・宗教・訴え・恋愛・嫉妬・心気・迫害などで40歳以上の男性に多いとされる。分裂病の様な人格の崩れは無い。偏執病妄想症

※10:ルイス・フロイス(Luis Frois)は、ポルトガルのイエズス会士(1532〜1597)。インドで司祭と成り、1563年(永禄6)来日。長崎で日本二十六聖人の殉教を目撃し、滞日中140余通の日本通信を本国に送り、又49年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。長崎で没。
※10−1:日本二十六聖人とは、日本のキリスト教徒の最初の殉教者。天正15年(1587)秀吉が発した禁教の令に基づき、慶長元年(96)秋、宣教師及び教徒を捕え、同年末、長崎の丘上でその26人を処刑した。バテレン3人、イルマン3人、日本人イルマン3人、日本人信徒17人。二十六聖人。長崎の大浦天主堂は二十六聖人を記念して建てられた聖堂で、正式の名称を「日本二十六聖人記念堂」と言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※11:じゅらくだい。豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。1587年(天正15)完成し、翌年後陽成天皇を招き、諸大名を会せしめた。後、秀次に譲り、その死後破却。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などはその遺構と伝える。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本の名城・古城』(井上宗和著、角川文庫)。

△2:『別冊歴史読本 日本「廃城」総覧』(新人物往来社編・発行)。

△3:『歴史と旅 99年4月号』(秋田書店)の「忍城水攻め」(小村勇太郎著)。

△4:『完訳フロイス 日本史4』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)。

△5:『東武本線ハイキング&ウォーキングガイド みちしるべ』(東武鉄道営業企画課編・発行)。埼玉・栃木・群馬方面の案内書としてお薦め
 東武鉄道は明治30(1897)年に原六郎、浅田正文らが創設、明治38(1905)年に武蔵高校・根津美術館を創立した根津嘉一郎が買収して再建後発展。東京都・埼玉県・群馬県・栃木県・千葉県で営業する大手私鉄の一。浅草・伊勢崎間の伊勢崎線、東武動物公園・東武日光間の日光線、池袋・寄居間の東上線などが在る。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):石田三成の子孫は生きていた!▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
関東の土師氏、そして忍とアイヌ語の関係について▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)
明治の廃城令について▼
2003年・豊後岡城の「荒城の月」
(Moon over the ruined Oka castle, Oita, 2003)

秀吉に殺された利休と山上宗二▼
阪堺電車沿線の風景−堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
温故知新の心▼
温故知新について(Discover something new in the past)
当サイトで最初の埼玉埋没論▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)


Select page:|1:行田忍城(Oshi)|2:岩槻(Iwatsuki)3:加須(Kazo)4:前玉(Sakitama)
          |5:深谷(Fukaya)|

トップメニューに戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu