筑後高良山女山磐井の乱
[日本の神籠石・その2]
(The GOD'S ROCK Kohra and Zoyama,
and Iwai's revolt, Fukuoka)

-- 2014.12.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.02.02 改訂

 ■はじめに - 霊域説/山城説論争の発端・高良山神籠石

 高良山(こうらさん)女山(ぞやま)神籠石(こうごいし)系の山城(※1)です。神籠石系山城については
  神籠石とは?(What is the GOD'S ROCK in Japan ?)

をお読み下さい。
 しかし乍ら高良山神籠石は、神籠石という文言の発端であり、神籠石の霊域説/山城説論争の発端なので、上記の「神籠石とは?」を読んで戴ければ解りますが、ここで簡単にその事に触れて置きます。

 先ず神籠石という文言を最初に用いたのは、1898(明治31)年小林庄次郎が『東京人類学会雑誌』に「筑後高良山中の神籠石について」という論文に於いてです。福岡県久留米市の高良山頂に在る式内社の高良玉垂神社 -現在は高良神社(筑後国一の宮)- の古文書に在る「神籠石」という文言を、小林は高良山の列石に援用したのです(△1のp1)。しかも列石で囲まれた領域を「霊地として他と区別するもの」として紹介したので、以来長きに亘り霊域説山城説(又は朝鮮式山城(※1-1))が対立し論争を展開しましたが、漸く1963(昭和38)年の佐賀県武雄市のおつぼ山神籠石の発掘調査で列石の背後に在る版築土塁と列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城説が確定的に成ったとされて居ます。尚、この間に神籠石系は類似遺跡が九州北部・中国・四国で発見され現在14箇所が国の史跡に登録されて居ます。

 それでは高良山と女山について探索するとすましょう!

 ■筑後

 本ページで扱う高良山と女山の神籠石の特徴を下に記します。何れも福岡県西南部、昔の国名で言えば筑後の山城です。

  高良山神籠石    福岡県久留米市御井町高良山
    神籠石のパターン:包谷式
    標高312m、高良神社、磐井の根城、の築城、耳納山脈

  女山神籠石     福岡県みやま市瀬高町大草字女山
    神籠石のパターン:包谷式
    標高359m、卑弥呼の居館、の築城

 ここで神籠石のパターンとは、列石が頂上を鉢巻状に巡って居るもの(=鉢巻式)と、頂上を外れて巡り谷を包み込む様な恰も”頂上を見上げる”様に巡って居るもの(=包谷式)と、大きく分けて2パターンが有る事です(△1のp20)。鉢巻式の典型は鬼ノ城です。そして「神籠石とは?」に書いた様に、高良山磐井氏の根城(※1-2)だったという言い伝えが有り、女山に到っては卑弥呼の居館だったと言い伝えられて居て、何れもの伝説が有ります(△1のp9~10)。


























 ■古代九州の勢力と磐井の乱

 (1)磐井の乱

 2003年に湯布院に行く途中、耳納山(みのうさん)の傍を通りの話を紹介しましたが、実は高良山神籠石の高良山は耳納山地の西端に在るのです(△2のp863)。そして高良山神籠石も女山(ぞやま)神籠石もの伝説で彩られて居ます。
 一方、高良山神籠石女山神籠石岩戸山古墳(※5)(←磐井の墓とされる)を間に挟み6世紀前半の九州地方の騒乱 -磐井の乱(※5-1)- に関係が在るのです(△2-1のp56、右の図を参照)。特に高良山神籠石は織豊時代後期迄、合戦の砦でした(△2のp863)。

 『筑後国風土記』逸文に不思議な話が載って居ます。「上妻(かみつやめ)の県(あがた)」の話として「県の南のかた二里に筑紫の君磐井の墓(※6)あり。墳の高さ7丈、周り60丈、墓の田(まち)は南と北と各60丈、東と西と各40丈なり。石人石盾(※8~※8-1)と各60枚あり、交に陣、成行りて四面を周匝(めぐ)れり。東北の角には一別区あり。号けて衙頭(がとう)(※9)と曰ふ。その中に1つの石人あり。縦容に地に立てり。号けて解部(※9-1)と曰ふ。前に1人あり。躶形に地に伏したり。号けて偸人(ぬすびと)と曰ふ。側に石猪4頭あり。号けて賊物(かすみもの)と曰ふ。その処にまた石馬3疋、石殿3間、石蔵2間あり。
 古老の伝えて云はく「雄大迹(をほど)の天皇の世にしも、筑紫君磐井、豪強く暴虐れて皇風に偃はず。生平なる時、預めこの墓を造りをりけり。俄に官軍動発き襲はむとする間、勢の勝へずあるを知り、独り自ら豊前国の上膳(かみつみけ)の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終(にげう)せけり。ここに官軍追ひ尋むるに蹤を失ひけり。士(もののふ)の怒り泄きず。石人の手を撃ち折り石馬の頭を打ち堕しけり」といふ。古老また伝えて云はく「上妻県に多く篤き疾のあるは蓋しこれに由るか」といふ。」
と在ります(△4のp522~524)。
 「筑紫の君磐井の墓」とは岩戸山古墳(主軸長132mの前方後円墳、福岡県八女市吉田)で、1963、69年の発掘調査で『風土記』に在る石人石馬が本当に出土しました。1丈は約3m、「衙頭」とは役所、「雄大迹の天皇」継体天皇「豊前国の上膳の県」は今の福岡県豊前市です。
 筑紫君の磐井は生前に岩戸山古墳(=磐井の墓)を造り -生前墓を造った例は僅かに仁徳紀67年(←あの壮大な仁徳陵)に見られます(△6のp276)- 、朝廷に従わなかったので官軍が征伐に向かったが豊前国上膳県の山中に逃げて仕舞った。兵士たちの怒りは治まらず石人の手を切り石馬の頭を打ち壊したと言ってます。又、八女に重い病気の人が多いのはこれが原因であるとも言ってます。こんな事を今日言ったら風評被害だと言われ、逆にこちらが罰せられますよ。ここで筑紫の君(※6)とは古代の姓(かばね)の一つで君(きみ)は朝臣(あそん)と賜姓しました。だから一応は朝廷権力の中で一定の地位を得ていた者ですが段々朝廷の命令を聞かなくなった訳です。特に注目に値するのは独自の役所で罪人を裁いて居る事で、猪4頭を盗んだので石猪が4つ在り盗人(←多分死刑になった)の石人が1つ在る事です。つまり石人とか石馬はそういう目的で造られた訳で、決して埴輪の変形(※8-1)などでは無いのです。
 以下の[ちょっと一言]で「石人石馬は埴輪の変形では無い」という事を述べます。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 埴輪は誰でも勝手に造れる物では無く、土師部(※10)という部民(べのたみ/べみん/ぶみん)(※10-1)が古墳を造る時に古墳に埋葬する為にのみ造ることが許されて居るのです。これが古代の品部(※10-2) -古代律令制の職制- です。土師部は品部という職制に縛られますが、その代わりに仕事が有っても無くても生活は保障されるのです。埴輪の原料も埴土(はにつち)(※10-3)という特殊な赤土を使う事と決められて居るのです。従って埴輪の変形として石人・石馬を造るなど”以ての外”な行為だ、という事がお解り戴けるでしょう。ですから大陸の石人石馬文化との関連が有るのであり大分・福岡・熊本に在る日本の石人石馬文化との比較研究をもっと遣るべきだと思います。この問題については又後で触れます
 因みに、埴輪の制を作ったのは野見宿禰(※10-4)と言われ、初めて埴輪を造ったのは垂仁天皇の皇后・日葉酢媛の墳 -主軸全長206mの前方後円墳佐紀陵山古墳(奈良市山陵町)に在り、盗掘に遭った為に翌年の1916(大正6)年に天皇関連陵としては珍しく発掘調査され4世紀後半の古墳と判明(←年代的にも合う)、石室周辺から多数の埴輪が出土- を造る時で、以後は殉死に替えて埴輪が埋められました(=埴輪の制。しかし大化の改新(645年)薄葬令(646年)が発令され8世紀初頭で古墳時代は終焉します、これは祭政一致から祭政を分離し合理的な政治体制を目指す第一歩だったのです。土師部は仕事が無くなったので、桓武天皇の時 -桓武天皇の祖母は同族の土師真妹、祖父は百済武寧王の後裔でした- に土師氏は現状を訴え、菅原氏(道真など)や大江氏(広元・匡房など)や秋篠氏などに姓を替え、漸く”墓造り”から開放され文章道の家と成ったのです。この様に部民の土師氏は勝手に埴輪や埴輪の変形など造れなかったのです。
 土師部や土師氏や薄葬令については
  2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)

をお読み下さい。


 ところで『筑後国風土記』逸文では磐井は豊前国上膳国の山中に逃げたと書いて在りますが、『古事記』では殺したと在ります。即ち「竺紫君(つくしのきみ)石井(いわい)、天皇の命に従はずして、多く禮(れい)無かりき。故、物部荒甲(あらかひ)の大連(おおむらじ)、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき天皇の御年、43歳丁未の年の3月13日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり。」と(△5のp205)。要するに中央の史書である『古事記』に「逃げられた」とは書けない訳で、その辺のニュアンスの違いが在るという事を理解して下さい。しかし、ここで重要な事は次に示す『日本書紀』と内容が大きく違って居る事です。干支の年は60年サイクルなので丁未の年は527年しか無いのです。

  年の記載無し          石井(いわい)の乱
  527年(丁未)3月13日   継体天皇崩御(43歳)

 では『日本書紀』にはどう書いて在るのか?、これが面白いのです。継体紀21年夏の条「是に、筑紫国造磐井、陰に叛逆くことを謨(はか)りて、猶預(うらもひ)して年を経。事の成り難きことを恐りて、恒に間隙(ひま)を伺う。新羅、是を知りて、密に貨賂(まひなひ)を磐井が所に行(おく)りて、勧むらく、毛野臣の軍(いくさ)を防愒へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩(おそ)ひ拠りて、使修職(つかへまつ)らず。」と在ります(△6-1のp188~190)。『日本書紀』は謀反の理由として新羅が磐井に加勢してる事を挙げ、更に「火・豊、二つの国」(=肥前・肥後「火=肥」の国豊前・豊後「豊」の国)も磐井に同調してる事を挙げますが、これは石人石馬遺跡が在る地域(※8-1)、即ち大分・福岡・熊本と一致して居るのです。
 そして「天皇、親ら斧鉞(まさかり)を操りて、大連(=物部麁鹿火)に授けて曰はく、「長門より東をば制(かと)らむ。筑紫より西をば制れ。...<後半略>...」とのたまふ。」と景気を付けて大将軍の物部大連麁鹿火を送り出し、翌22年11月に磐井と筑紫の御井郡で交戦し「遂に磐井を斬りて、果して疆場(さかひ)を定む。」と在り(△6-1のp192~194)、『日本書紀』も「磐井を斬った」として居ます。つまり

  527年(丁未) 継体21年  磐井の乱
  528年(戊申)  // 22年   物部麁鹿火、磐井の乱を平定

 そして25年の春2月に、天皇、病甚し。丁未に、天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年82。冬12月の丙申の朔(ついたち)庚子に、藍野陵に葬りまつる。」継体の崩御を伝えて居ます(△6-1のp208)。因みに「丁未」「丙申」は日付の干支、「庚子」は時刻の干支です。当時は中国式に全て干支で表します。まぁ、ここ迄は普通ですが、面白いのはそれに<次の様な注釈>が付いて居る事です。即ち、「或る本に云はく、天皇、28年歳次甲寅に崩りましぬといふ。而るを此に25年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、百済本記を取りて文を為れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥の3月に、軍進みて安羅に至りて、乞乇城を営る。是の月に、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩御りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は、25年に当る。後に勘校へむ者、知らむ。」と在り(△6-1のp208~210)、後で調査する者が明らかにするであろうと言ってます。

 (2)継体朝の不可解さ

 上に書いて在る事を解り易く示すと『日本書紀』の<注釈文>は次の事を言って居るのです(←歴史手帳(吉川弘文館)は干支も載って居るので、こういう時に便利です)。これに先程の『古事記』に書いて在る事を加えると次の様に成ります。

    <史書が伝える磐井の乱と継体天皇の崩御年>

 『古事記』
  年の記載無し          石井(いわい)の乱
  527年(丁未)        継体天皇崩御(43歳)

 『日本書紀』
  527年(丁未) 継体21年  磐井の乱
  528年(戊申)  // 22年   物部麁鹿火、磐井の乱を平定

  531年(辛亥) 継体25年  継体天皇崩御(82歳)←百済本記に拠る
                   百済本記は、
                    日本の天皇・太子・皇子が共に崩御
                   したと伝える
  534年(甲寅)  // 28年  一説に継体天皇崩御

 ここで百済本記というのは百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)の内の一つで、三国史記中の百済本紀とは別物です。
 さて、上の<史書が伝える磐井の乱と継体天皇の崩御年>を見ると次の様な疑問が湧きます。

  ①『日本書紀』の執筆陣は継体天皇の死にかんする正確な情報を持って居なかった、という事です。何しろ執筆陣から見たら150年も前の出来事では在りますが、しかし天皇の崩御年が3つに別れるとは異常です。
  ②『古事記』と『日本書紀』で崩御年齢が倍程違う ← 基にした資料の違い
  ③百済本記が伝える、531年に天皇・太子・皇子が共に崩御とはどういう状況なのか?

 ここから喜田貞吉(※12)は「百済本記の記事は、継体崩御に際して、皇室内に何か重大な事変が起こったことを示している」とし(△6-1の211)、継体朝末期~欽明朝初期は内乱状態だったとする説が略定説化して居ます。即ち、継体・欽明朝の内乱(530頃~540年)で、これには朝鮮半島の情勢が密接に絡んで居ました。継体天皇の崩御や年齢が不明に成る程の内乱だったという訳です。
 これは既に述べましたが、磐井が生前募を造った事、独自の裁判制度が在った事、など磐井が独立国の様な組織を目指していた事が窺えます。私も磐井の乱は単なる”謀反”では無く、磐井の背後には新羅の他に肥前・肥後、豊前・豊後の国 -日本の石人石馬文化の国- の勢力が在ったと思って居ます。

 そもそも継体朝というのがその成り立ちから見ても異常です。その前の武烈天皇は殆ど実在性が薄く、武烈に後嗣(あとつぎ)が無かった為に大伴大連金村が越前三国より応神天皇5世の孫と称する男大迹(をほど)を引っ張り出して皇位に付けますが『日本書紀』に拠ると、即位前年に既に57歳(△6-1のp164)です。『古事記』では崩御年齢が43歳ですからもう死んでる事に成ります、崩御年齢の大きな食い違いは基にした資料の違いの所為です。男大迹は漸く河内の「樟葉宮」で即位(58歳、△6-1のp166)、継体元年「是年、太歳丁亥(△6-1のp174)と在り干支が丁亥の年は507年です。しかし継体天皇は用心深く、この後転々とし継体20(526)年の秋9月(この時既に77歳)に漸く大和の「磐余の玉穂」(現:奈良県桜井市池之内)に遷都します(△6-1のp188)。即位してから20年間も大和に入らなかったのです。
 そして大和に遷都したと思ったら、翌年の継体21(527)年の夏に近江毛野臣が新羅から朝鮮半島植民地の任那(※14)を防衛する為に兵6万を引き連れて任那に向かいます(△6-1のp188)が毛野臣は失敗します(△6-1のp208)。そして直ぐに先程述べた磐井の乱が勃発するのです。

 こう見て来ると、継体朝末期の継体・欽明朝の内乱だけでは無く、継体朝そのものが不可解な事ばかりです。ここで<継体朝の不可解さ>を纏めると▼下▼の様に成ります。

    <継体朝の不可解さ>

  ①応神天皇5世の孫を越前三国から引っ張り出す
  ②507年に河内の樟葉で即位(継体天皇58歳)
  ③526年に漸く大和の「磐余の玉穂」に遷都(77歳)
  ④527年に朝鮮半島の任那に軍を派遣 → 毛野臣は失政
  ⑤ //  に磐井の乱が勃発 → 翌年平定される
  ⑥継体天皇の崩御年が3説在る(527、531、534年)
    //  の崩御年齢が記紀で大きく異なる(記:43歳、紀:82歳)
     → 資料が混乱 → 継体・欽明朝の内乱

 上の表を見ると、継体朝が「体(たい)を継ぐ」為に即位~大和遷都迄20年を掛けた事を除けば、継体天皇が遣った体外的な事は任那防衛(←失敗)磐井の乱の平定だけです。そう考えると、磐井の乱は記紀が示す様な小さい事件(←527年に起き翌年平定される)では無く、磐井の乱はもっと大きな事件ではなかったか?、資料が混乱しているのはその所為ではないか?、という疑問が湧いて来ます。それともう一つは、男大迹を引っ張り出した大伴金村が権力を失い継体朝末期には磐井の乱を平定した物部麁鹿火が権力を握った事からも、その疑問を証明して居る様に思えます。
 私は即位~大和遷都迄20年は大伴氏と物部氏の権力争いが有り、継体朝の対外力が弱った所を見計らって520年頃から磐井が乱を仕掛けたのではないか?、と思います。要するに継体朝は内乱と外乱が重なり資料が混乱する程に危機を向かえて居たのですが、『日本書紀』が故意に磐井の乱を小さく扱って居るのは「天皇家は安泰である」と見せる為の様な気がします。
 5世紀後半(450~499年)に実権を握って居たのが第21代雄略天皇で、雄略は倭王「武」で中国・朝鮮半島に知られた最も年代がはっきりした天皇です。その後の天皇の

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  清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体

の内、実在性が在るのは仁賢継体だけです。私は水野祐氏の「三王朝交替説」に概ね賛成なのですが、水野氏もその様な事を書いて居ます(△7のp217~218)。そして天皇の謚(おくりな)は崩御した後で付けますが、「継体」とは良く言ったもので、もし血の繋がりが有ったならば「継(つぐ)」は「嗣(つぐ)」に成る筈で、その事からも継体天皇は前の王朝とは血縁関係は無いのです(△7のp214)。

 (3)九州王朝は在ったのか?

 一部の人は磐井は九州王朝の王であると言って居り、『筑後国風土記』逸文では解部という文言を使っているので律令制が既に在ったと言ってますが、これは713年の元明天皇の『風土記』編纂の詔に拠って執筆陣が「後から記述」したものですから、こういう事も起こり得るのです。
 しかし九州王朝は面白い考えです。と言うのは

  ①3世紀に卑弥呼に依って治められた邪馬台国が在った
   (邪馬台国と対抗する男王の狗奴国も在った)
  ②九州の日向から大和へ(神武東征神話)
  ③応神天皇も九州から河内へ
  ④前方後円墳も九州に古いものが在る
  ⑤九州の磐井の乱を治めて全国を統一出来た

など、九州王朝を思わせる事実が確かに存在する、即ち3~6世紀の大きな歴史の展開は何れも九州から起こって居るからです。私はこれに

  ⑥九州の石人石馬文化との関係

を入れて考えたいですね。九州王朝が在ったか無かったかは別として、これらの事実をもっと掘り下げるべきだと思って居ます。

 ■八女













 ■結び - 




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φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:神籠石/神篭石(こうごいし)とは、1898年小林庄次郎が北九州の高良山の遺跡を「神籠石」として発表し霊域説を唱えた。以後、北九州と中国・四国に10ヵ所以上が知られる。400m位の丘陵の8合目位に縦横1m位の切石列石を巡らし、谷間には水門の在る石壁が在る。門址の在る物も在る。長らく霊域説と山城説が対立して居たが、現在では発掘調査の結果、日本の古代山城説が略定説に成った(即ち神籠石は山城址)が、文献に一切掲載が無い築造目的・時期が不明な遺跡が多い、など古代山城程明確では無い。
※1-1:山城(やまじろ/さんじょう、mountain-castle)とは、通常独立した山頂に築かれ山頂の平坦部に段状に曲輪の配置が為されて居る城を言う。日本では、古代に北九州の大野城、近畿の高安城などが最初。これらは古代朝鮮の築城法の影響を受けて居るとされ、古代山城(又は朝鮮式山城)と言う。以後これに倣い中世~戦国に掛けて自然の要塞としての地形を利用した山城が多数造られ、中世山城と言う。中世城郭には山城が多く、戦闘専用の砦(=詰の城)としての性格が強く、居住用には「根小屋」と言われる館を山麓に構える場合が多い。
※1-2:根城(ねじろ)とは、この場合、根拠とする城。主将の居城。←→出城。





※5:岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、福岡県八女市の人形原に在る前方後円墳長さ135mで、九州では屈指のもの。6世紀初め大和と抗争した磐井の墓と伝えられる。石人石馬が多数出土。
※5-1:磐井の乱(いわいのらん)とは、6世紀前半(527年)、継体天皇の時代に、筑紫国造磐井(石井)が北九州に起した叛乱。大和朝廷の朝鮮経営の失敗に因って、負担の大きくなった北九州地方の不満を代表したものと見られ、新羅と通謀したとも言う。物部氏らによって平定。福岡県八女市の岩戸山古墳磐井の墓と伝える。

※6:公/君(きみ)とは、この場合、古代の姓(かばね)の一。主として継体天皇以後の諸天皇を祖とする「公」姓の13氏は天武天皇の時に真人(まひと)と賜姓され、八色姓(やくさのかばね)の第1等と成った。「君」姓の者は多く朝臣(あそん)と賜姓。








※8:石人(せきじん/いしひと、stone statue of a man)とは、人の石像。中央アジア中国朝鮮(トルハルバン:石爺)に在る。筑後風土記逸文「墓田(はかどころ)は…―と石盾(いしだて)と…四面(よも)にめぐれり」。
※8-1:石人石馬(せきじんせきば)は、前方後円墳の墳丘上並びに周辺に置いた石造彫刻。人・馬の他、猪・鶏・武器・武具なども在る。5~6世紀に掛けてのもので、主に大分・福岡・熊本に在る。大陸の石人石獣との関連を説く説も在るが、埴輪の変形と見る説が有力。



※9:衙(が)とは、役所。官庁。「衙門・公衙・国衙」。
※9-1:解部(ときべ)とは、[1].律令制で、治部省に属し、姓氏に関する訴訟の事実審理を司った職。大・少が在る。
 [2].律令制で、刑部省に属し、罪状の糾明・裁決を司った職。大・中・少が在る。明治初年にも在った。




※10:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作葬儀にも従事。
 土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※10-1:部民(べのたみ/べみん/ぶみん)とは、大化改新前代に於ける私有民の総称。朝廷全体に隷属するものを品部(しなべ)、天皇が皇族の為に設定したものを子代(こしろ)・名代(なしろ)、諸豪族に隷属するものを部曲・民部(かきべ)と言う。大化改新で全て廃止される事に成ったが、品部の一部は律令制官庁に配属されて残り、部曲は律令貴族の給与の一部である封戸(ふこ)に変質した。
※10-2:品部(ともべ/しなべ)とは、(「品々の部」の意。多くの種類が在るから言う)
 [1].世襲的な職業を通じて大和朝廷に隷属した私有民(=部民)の組織。平生は一般の農民・漁民として生活し、朝廷に対しては、毎年一定額の特産物を貢納する者、交代で勤務して労働奉仕する者、などの別が有る。管理者は(むらじ)・(みやつこ)・(おびと)などの(かばね)を持つ豪族。
 [2].[1]の内、大化改新後も解放されずに諸官司に配属された特殊技術者の集団。図書寮の紙戸、雅楽寮の楽戸の類。奈良中期から次第に廃止。
※10-3:埴土(はにつち)は、粘土。赤土。神代紀上「―を以て舟を作り」。
※10-4:野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。

※12:喜田貞吉(きたさだきち)は、明治~昭和の歴史学者(1871~1939)。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会を起こし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。1911年、国定教科書に南北両朝並立論を掲載し問題とされ文部省を休職となった。後、京大教授。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>




※14:任那(みまな)とは、4~6世紀頃、朝鮮半島の南部に在った伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国の内の金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本政府については定説が無いが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和朝廷の使節団を指すものと考えられる。にんな。








    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『城と陣屋シリーズ143号 神籠石』(横山豊著、日本古城友の会)。1982(昭和57)年6月5日発行です。




△2:『歴史と旅臨時増刊 日本城郭総覧』(鈴木亨編、秋田書店)。
△2-1:『別冊歴史読本 日本「廃城」総覧』(新人物往来社編・発行)。



△4:『新編 日本古典文学全集5-風土記』(植垣節也校注・訳、小学館)。

△5:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△6:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△6-1:『日本書紀(三)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。


△7:『大和王朝成立の秘密』(水野祐著、ワニ文庫)。本書は「三王朝交替説」の手軽な本。


●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):初めて埴輪を埋葬した
日葉酢媛の陵墓の地図▼
地図-日本・孝謙天皇の足跡
(Map of footprints of the Empress Koken, -Japan-)


補完ページ(Complementary):土師氏や三王朝交替説について▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
補完ページ(Complementary):日本書紀は「後から記述」された史書や
任那について▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)

磐座訪問記、磐座や磐境について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
日本磐座岩刻文字研究会(Megalith and ancient sign club)















耳納山の鬼の話を紹介▼
2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)







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