-- 2008.02.06 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.02.02 改訂
神籠石(※1)という言葉を最初に発表したのは1898(明治31)年に小林庄次郎が『東京人類学会雑誌』に「筑後高良山中の神籠石について」という論文に於いてです。福岡県久留米市の高良山頂に在る式内社の高良玉垂神社 -現在は高良神社(筑後国一の宮)- の古文書に在る「神籠石」という文言を、小林は高良山の列石に援用したのです。即ち、
神籠石とは縦横高さが1m前後の切石を「列石」状に円形、又は楕円形に配置しているもの
を指します(△1のp1)。しかも列石で囲まれた領域を「霊地として他と区別するもの」として紹介したので、以来長きに亘り霊域説と山城説(又は朝鮮式山城(※1-1))が対立し論争 -霊域説派:小林庄次郎・喜田貞吉・坪井正五郎・久米邦武など、山城説派:八木奘三郎・関野貞・白鳥庫吉・谷井済一・石野義助など- を展開しましたが、漸く1963(昭和38)年の佐賀県武雄市のおつぼ山神籠石の発掘調査で列石の背後に在る版築土塁と列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城説が確定的に成ったとされて居ます。尚、この間に神籠石系は類似遺跡が九州北部・中国・四国で発見されて居ます。
ところで【参考文献】△1の様な、一般の人が手に入れ難い(=マイナーな)本を持って居るかと言えば、実は私は「日本古城友の会」(尾原隆男会長)の”付録会員”なのです、何故って私の会員番号は「ふ-6」(=フロク)だからです!、いやぁ済みませんねえ!!
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1982(昭和57)年発行の△1には高良山神籠石~永納山城の11箇所が載って居ました(△1のp4)が、その後3箇所が追加し、現在国指定の史跡に登録されているのは14箇所です。又、1963年に山城説が確定的に成った為に、それ以降に国の史跡に登録された鬼城山~唐原山城は神籠石という文言が無くなって居る事に注意して下さい。
<神籠石遺跡一覧>
高良山神籠石 福岡県久留米市御井町高良山
(こうらさんこうごいし) 史跡(国指定)
女山神籠石 福岡県みやま市瀬高町大草字女山
(ぞやまこうごいし) 史跡(国指定)
雷山神籠石 福岡県糸島市雷山
(らいざんこうごいし) 史跡(国指定)
鹿毛馬神籠石 福岡県飯塚市鹿毛馬
(かけのうまこうごいし) 史跡(国指定)
御所ヶ谷神籠石 福岡県行橋市津積・みやこ町勝山大久保・犀川木山
(ごしょがたにこうごいし) 史跡(国指定)
杷木神籠石 福岡県朝倉市林田・穂坂
(はきこうごいし) 史跡(国指定)
帯隈山神籠石 佐賀県佐賀市久保泉町川久保町・神埼町西郷
(おぶくまやまこうごいし) 史跡(国指定)
おつぼ山神籠石 佐賀県武雄市橘町小野原
(おつぼやまこうごいし) 史跡(国指定)
石城山神籠石 山口県光市石城
(いわきさんこうごいし) 史跡(国指定)
▼────────史跡名に神籠石の文言が無くなった事に注意
鬼城山(鬼ノ城) 岡山県総社市奥坂・黒尾
(きのじょうさん) 史跡(国指定)
永納山城 愛媛県西条市河原津
↑ (えいのうさんじょう) 史跡(国指定)
└────────【参考文献】△1に掲載
大迴小迴山城 岡山県岡山市草ヶ部
(おおめぐり・こめぐりやまじょう) 史跡(国指定)
讃岐城山城 香川県坂出市西庄町・府中町・川津町、飯山町
(さぬききやまのき) 史跡(国指定)
唐原山城 福岡県築上郡上毛町下唐原・土佐井
(とうばるさんじょう) 史跡(国指定)
「[日本の古代山城・序論]古代山城とは?」の冒頭で既に述べて居ますが、それをここにコピーして簡単に日本の山城(※1-1)について概観しましょう。
◆日本の山城
先ず、古代山城とは、663年(←日本では天智天皇2年の時)の白村江の戦(※2、※2-1)に敗れた倭国(=日本)・百済連合軍 -百済は滅亡- は今度は唐・新羅連合軍が倭国を攻めに来ると考え、慌てて前線防衛の為に対馬・北九州・長門など、瀬戸内海防衛の為に安芸や讃岐、そして大和朝廷防衛の為に大和・近江に山城を築きます。その際に亡命百済人が高度な築城技術を倭国に伝えた事から朝鮮式山城と呼びます。結局、唐・新羅連合軍は攻めて来なかったのですが、その時の築城記事は『日本書紀』(△2のp34~52)に緊張感を以て書かれて居ます。
その後、中世の武将たちや戦国武将に依って中世山城(※1-1)が作られ、近世(=江戸時代)に入ると太平な社会は山城を必要としなく成り代わって平城が作られました。
以上を図示すると▼下▼の様に成ります。
<日本の山城>
┌─ 神籠石系(6世紀?~7世紀後半)
山城 ─┤
│ ┌─ 古代山城(7世紀後半)
│ │ (朝鮮式山城)
└─ 山城系 ─┤
└─ 中世山城(13世紀~16世紀)
*.近世以降は山城は造られなく成った
尚、私見を述べると、朝鮮式山城は直接的には百済から伝えられましたが、その大元は高句麗で日本の初期築城技術は高句麗→百済→倭国と伝わったと考えて居ます。
しかし乍ら、山城説が確定的に成ったとは言え未だすんなりと山城説で納得出来るか?、と言われると納得し兼ねる部分が在るのも事実です。
ここで神籠石標高表/図(△1のp15~16)を次ページに載せましょう。これは列石と列石が巡っている山との関係が標高入りで解り易く図示したものです。
上の図を見て、先ず大野城と基肄城(きいじょう)は朝鮮式山城で参考の意味で入ってます。
ここで列石が頂上を鉢巻状に巡って居るもの(=鉢巻式)と、頂上を外れて巡り谷を包み込む様な恰も”頂上を見上げる”様に巡って居るもの(=包谷式)と、大きく分けて2パターンが有る事です(△1のp20)。前者に石城山・御所ヶ谷・帯隈山・鬼ノ城が在り、後者に雷山・鹿毛馬・高良山・女山・杷木・おつぼ山が在ります。特に後者のパターンは本当に山城だろうか?、という疑問が湧くからです。こういう配置は磐座や磐境(※3、※3-1)をも思わせ、否定された霊域説が再び甦って来るのです。
以下に【参考文献】△1や『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の「神籠石」に拠り纏めると、
<神籠石系山城の謎>
・何時、誰が、何の為に築造したのかが未だに判明して居ない(△1のp1)
・史書(『日本書紀』や『続日本紀』)に記載が無い
・神籠石系遺跡の特徴である列石の目的が不明
└→ ここから霊域説が生じた
┌鉢巻式:鬼ノ城 (397m)、-----、温羅(鬼)の築城
│ おつぼ山( 66m)、うつぼ神社、源為朝の築城
│ 石城山 (360m)、石城神社
│ 御所ヶ谷(247m)、景行神社
・神籠石の │ 帯隈山 (178m)、-----、牧場
パターン┤
└包谷式:高良山 (312m)、高良神社 、磐井の根城、鬼の築城
(耳納山脈)
女山 (359m)、-----、卑弥呼の居館、鬼の築城
杷木 (497m)
雷山 (955m)、筒城神社
鹿毛馬 ( 95m)、牧野神社 、馬の牧場
永納山 (133m)
などが挙げられます。
上のデータを見ると、おつぼ山や鹿毛馬の様に普通人の生活域や牧場で、どう見ても城として籠城とか砦に使ったとは思われないものが在ります。又、可なり神社が祀られて居ます。又、高良山は磐井の乱の磐井氏の根城(※1-2)だったという言い伝えが有り、女山に到っては卑弥呼の居館だったと言い伝えられて居て、何れも鬼の伝説が有ります(△1のp9~10)。鬼ノ城にも温羅という鬼、即ち百済の異民族が居ましたが、一般に鬼というのは”服わぬ者”即ち異民族を指す場合が多いのです。卑弥呼は「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。」(△3のp49)と『魏志倭人伝』に書かれている様にシャーマン(巫女)でしたが、彼女の使う妖術が「鬼道」(※4)と言われたのです。
以上の事から考えると、依然として「何時、誰が、何の為に築造したのか」は判明して無いですが、「史書(『日本書紀』や『続日本紀』)に記載が無い」事については、神籠石遺跡は中央の大和朝廷側では無く朝廷と関係が薄い地方勢力 -神籠石遺跡の分布から北九州や備中や四国- が築城(←山城説を採れば)したと考えられます。これは2010年12月12日に行った備中鬼ノ城も”服わぬ勢力”が築城したと考えられて居ます。これについては私の力作
備中鬼ノ城と温羅伝説(The GOD'S ROCK Kinojo and Ura legend, Okayama)
を是非お読み下さい。
私は「本来、神域であったものが、その機能を失ってきたものが神籠石と考えられる。」とする意見(△1の29)に基本的に賛成です。
{この章は2014年12月10日に追加、2015年2月2日に最終更新}
尚、[日本の神籠石]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:神籠石/神篭石(こうごいし)とは、1898年に小林庄次郎が北九州の高良山の遺跡を「神籠石」として発表し霊域説を唱えた。以後、北九州と中国・四国に10ヵ所以上が知られる。400m位の丘陵の8合目位に縦横1m位の切石で列石を巡らし、谷間には水門の在る石壁が在る。門址の在る物も在る。長らく霊域説と山城説が対立して居たが、現在では発掘調査の結果、日本の古代山城説が略定説に成った(即ち神籠石は山城址)が、文献に一切掲載が無い、築造目的・時期が不明な遺跡が多い、など古代山城程明確では無い。
※1-1:山城(やまじろ/さんじょう、mountain-castle)とは、通常独立した山頂に築かれ山頂の平坦部に段状に曲輪の配置が為されて居る城を言う。日本では、古代に北九州の大野城、近畿の高安城などが最初。これらは古代朝鮮の築城法の影響を受けて居るとされ、古代山城(又は朝鮮式山城)と言う。以後これに倣い中世~戦国に掛けて自然の要塞としての地形を利用した山城が多数造られ、中世山城と言う。中世城郭には山城が多く、戦闘専用の砦(=詰の城)としての性格が強く、居住用には「根小屋」と言われる館を山麓に構える場合が多い。
※1-2:根城(ねじろ)とは、この場合、根拠とする城。主将の居城。←→出城。
※2:白村江(はくすきのえ/はくそんこう)は、(スキは古代朝鮮語で村の意)朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名。今の群山付近。白江。
※2-1:白村江の戦(はくすきのえのたたかい/はくそんこう―)は、663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は百済王子豊璋を救援する為に軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は滅亡した。
※3:磐座(いわくら)とは、(イハは堅固の意)[1].神の鎮座する所。岩座。
[2].山中の大岩や崖。
※3-1:磐境(いわさか)とは、(イハは堅固の意)神の鎮座する施設・区域。神代紀下「天つ―を起し樹てて」。
※4:鬼道(きどう、magic, enchantment)とは、この場合、呪術/幻術/妖術。魏志倭人伝「―に事へ、能く衆を惑はす」。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『城と陣屋シリーズ143号 神籠石』(横山豊著、日本古城友の会)。1982(昭和57)年6月5日発行です。
△2:『日本書紀(五)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△3:『魏志倭人伝 他三編』(石原道博編訳、岩波文庫)。
●関連リンク
@補完ページ(Complementary):日本の古代山城・序論▼
古代山城とは?(What is the ANCIENT MOUNTAIN-CASTLE in Japan ?)
磐座訪問記、磐座や磐境について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
日本磐座岩刻文字研究会(Megalith and ancient sign club)
服わぬ者と鬼▼
都島の鵺と摂津渡辺党(Nue of Miyakojima and Watanabe family, Osaka)